ヴィヴェーカーナンダ」カテゴリーアーカイブ

『ヴィヴェーカーナンダの生涯』イラストシリーズ②

4月6日に開催された春の祝祭は、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの魂に迫っていく内容でした。ヴィヴェーカーナンダの力強い言葉、人類の救済に全てを捧げた生き様は、兄弟弟子や大勢のヴィヴェーカーナンダの元に集った人々を真理へと導きました。そしてその導きと恩寵は、今も私たちにも注がれていることを感じました。ヴィヴェーカーナンダの衝動によって魂が奮起するような、祝福に満ちた会でした。

さて前回から始まった『ヴィヴェーカーナンダの生涯』イラストシリーズ。
大学生になったナレンドラ(後のヴィヴェーカーナンダ)は、ブラフモ・サマージという社会運動及び宗教運動組織に参加していました。しばらくの間その祈祷会や信仰の歌に心の高揚を感じたものの、霊性の実体験を伴っていないことに気がつきました。そして「神を見た人のもとで教えを乞いたい」という抑えがたい欲求を感じ、その切望のもと、1881年11月、師ラーマクリシュナに出会いました。

ラーマクリシュナから見て、身なりや外見に無頓着なナレンドラは、一緒に寺院を訪れた他の若者たちとはまったく違っていました。いくぶん内に向いた目が印象的で、瞑想的な雰囲気を醸し出していました。ナレンドラは師に尋ねました。

「師よ、神をご覧になったことはありますか?」
師は間髪入れずに答えられました。
「ああ、あるとも。私はここでお前を見ているように神を見るのだよ。しかももっとはっきりと見るのだ」
ナレンドラは、初めて神を見たと言いきる人に対面して驚愕しました。

五年間にわたって師と間近に接したナレンドラは、決して盲信に影響されることなく、常にラーマクリシュナの言動を厳しい理性の試験にかけました。近代精神の象徴の如く、知識欲旺盛で、機敏で、知的な純粋さを持つナレンドラは、どんな結論も合理的な証明なくしては受け入れませんでした。しかし、師がナレンドラに理性を捨てるように求めたことは一度もありませんでした。ナレンドラの理性が究極の神秘を解き明かせなかった時には、師が弟子に必要な洞察力を授けられました。こうして師は限りない忍耐と愛、そして慎重さを持ってナレンドラの反抗的精神をなだめ、霊性の修行へと導かれました。

ヴィヴェーカーナンダが肉体を離れる2年前に、弟子に宛てた手紙にこのように書かれています。

「結局私はドッキネッショルのバンヤンの樹の下でラーマクリシュナの素晴らしい言葉に耳を傾けて心を奪われていた少年に過ぎないのです。それが私の本性なのです。善をなすことなどはすべて付け足しです。今再び師の声を、私の魂を感動で震わせたあの懐かしい声を聞くのです」

『スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの生涯』より

最愛の師の下で、仲間と修行に励んだかけがえのない日々。美しいドッキネッショル寺院、ガンジス川、バンヤンの樹。後に西洋へ渡り、世界中に真理を広めたヴィヴェーカーナンダの胸の内にはいつもこの情景があり、力の源となっていたのではないかと思います。

サルヴァーニー

 


春の祝祭を終えて

春の祝祭2025昨日開催された春の祝祭「サナータナ・ダルマ アヴァターラー メーラー―神性示現大祭―」は、日本各地より、またオンラインではニューヨーク・台湾の仲間たちも集い、盛会のうちに終えることができました。

数々のメッセージ、聖劇や映像など、すべてのコンテンツを通して、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの息吹、偉大なハートに触れることができました。人類の救済へと立ち上がり、師シュリー・ラーマクリシュナと一体となって世界を駆け巡った彼の精神の迸り、勇敢なる力強い生き様と言葉に、私たちは落雷に打たれたような大きな衝撃、感動を受けました。

彼が成し得たことを思えば、ただただ圧倒されます。しかし、そこで止まってはいけない。この祝祭は私たちの内面と行動を革新させるべく、一人一人に大事な問いを残したのではないでしょうか。

彼の生き様に少しでも倣い、現代、これからの未来に向かって、私たちはどのように具体的な行為として踏み出していくことができるのか――。
高い理想を掲げ、自らの使命に覚醒するために、どれほどまでに悩み葛藤し、渇望できるのか――。

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ


目覚めよ! 起きよ!

大胆なれ! 真理に立ち向かえ!
真理と一つになれ!

――スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ
(当日のプラサードのカードの言葉より)

当日の報告、感想を改めてこのブログでも掲載します。また詳しい模様は、マハーヨーギー・ミッションの会員サイトWeb版「パラマハンサ」にて配信予定です(4/30)。

 

桜 プレーま

プレーマ・アーシュラマ周辺の桜も満開を迎えました

マハーヨーギー・ミッション 


もうすぐ春の祝祭

4月になりましたね🌱
自然の草花が芽吹き、子鳥たちがさえずり、それらを見たり聴いたりすると、心穏やかになりますね。
先週ですが、道を歩いていると、早咲きの満開の桜が不意に目の前に飛び込んできて、その美しさに圧倒され、感動しました。

鳴滝の桜🌸 3/24

さて、4月6日(日)にマハーヨーギー・ミッション主催の春の祝祭「サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー ー神聖示現大祭ー」が開催されます。
今回の祝祭は19世紀インドの聖者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの魂に迫っていきます。


先日、ヨーガの仲間との集いがあったのですが、そこで私はヴィヴェーカーナンダに瞑想していることを話しました。
ヴィヴェーカーナンダは貧困で苦しむインドの人々を目の当たりにして、胸が張り裂けるほど強烈な痛みを感じ、その救済のために働いた菩薩のような存在です。
私はヴィヴェーカーナンダのハートを感じたくて瞑想するも、他者の苦しみを感じるとかいうことにはならなく、意に反して、平安や甘美さ、歓びを感じるようになっていました。
帰り際、参加していた先輩が、私の感じたことについて「よかったね〜」と伝えてくれました。
でも私は「小さなものだと思う」と答えると、「そんなことないよ!だってヴィヴェーカーナンダの恩寵やで!!」と言われました。
その言葉にハッとし、本当にそうだと思い、帰り道に自分が感じているものをさらに味わうようにしました。
するとその感じたものが、身体や心の中でバーッと広がっていき、さらなる歓びで満たされました。

聖者や覚者の恩寵というのは、目に見えないけれど、やっぱり在るのだと改めて感じています。
祝祭当日は、ヴィヴェーカーナンダやアヴァターラ(神の化身)の存在に感謝し歓び、私たちの中に在る真理が目覚めて「行動しよう!」と立ち上がる、そのような祝福された日になると信じています😇🙏

嵐山の桜🌸 3/31

ゴーパーラ


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ⑭

「桜の花がほころぶ頃に来ていただきたい」
一昨年秋に開講した大阪クラスの弟子たちの強い願いを、ヨギさんはお聞き届けになり、大阪でのサットサンガが開催されました。
それは2002年3月31日のこと。
突き抜けるような青空が広がっていました。

大阪に来てくださった師のお姿を前にして、目に涙を浮かべる大阪の弟子たち。
その姿にヨギさんは満面の笑みで応えてくださいました。
弟子たちは、溢れる喜びと最大の感謝の記しに師に花束を捧げ、そして会場までの道のりを談笑しながらゆっくりと進みます。途中、満開の桜の下では写真撮影も行なわれました。

そうして会場に到着。この日の参加者は30名ほどでした。
師の紹介がなされ、サットサンガの質疑が始まろうとしたまさにその直後のこと、先程まで晴れ渡っていた空から突然大粒の雨が降り出し、屋根を叩く激しい音が会場に響きました。まるでスコールのような激しい雨は、屋根の下に居ることへの安堵と、また清々しさを感じさせ、その小さな驚きが緊張ぎみの皆の心を解き放ちました。

そして「今日はちょうど桜も見れましたし」と楽しげなヨギさんのお言葉に笑いが起こります。

これには理由があり、今回のサットサンガの準備を主軸となって進めていた長石さん(アンビカー)には、満開の桜並木を通ってヨギさんを会場へご案内するという計画がありました。しかし、桜だと思っていた並木が実はケヤキだったと、新しい眼鏡を作って(?)気がついたというのです。え〜〜!!!!!! とは、長石さんがいちばん思われたことでしょう。
ただかろうじて2本の桜の木があったそうで、そのことを先週の京都のサットサンガで報告され、楽しい話題となってあがっていたのでした。

今回のパラマハンサNo.31の表紙絵は、この大阪に来てくださったヨギさんのことを描いてみました。
春色の花束を胸に抱かれ、オレンジ色のジャケットとパンツをスマートに着こなされているヨギさんのお姿は本当に美しく、笑顔が輝いていました。
大阪クラスの弟子たちは、日数はまだ長くはないものの、皆、真剣にヨーガを学び、実践を続けていました。そしてクラスは毎回高い集中感の中で行なわれ、皆のヨーガへの情熱は高まり続けている、そんな頃だったのです。
--この情熱こそが、全ての障害を速やかに取り除く、そして、ヨギさんがいつも弟子たちに求められるものではないでしょうか。
師の慈愛に満ちた眼差しが弟子たちに注がれました。

この日のサットサンガの内容は、基本的な3つの瞑想法の伝授から始まり、師の教えと、シュリー・ラーマクリシュナやヴィヴェーカーナンダの教えとの共通性と特異性に関して、という師のミッションに関わる質問がなされました。その中で、短いながらもシュリー・ラーマクリシュナやスワーミー・ヴィヴェーカーナンダの偉大なる働きについても言及され、濃密な時間となりました。
*このサットサンガの内容は紙面『パラマハンサ』No.31に掲載されているのでぜひお読みいただきたい。

🌸         🌸        🌸

さて、今年の桜の開花はどうでしょうか。
「桜の花が咲く頃に」とヨギさんが企画してくださった、今年の「サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー」は、ももうすぐそこまで来ています。今年の祝祭ではヨギさんが愛されたスワーミー・ヴィヴェーカーナンダがどのようなお姿を見せてくださるのかとても楽しみですね。
願わくば、桜が満開に咲き誇る中、サナータナ・ダルマとアヴァターラへの憧れと敬意を胸に抱き、共に感謝を捧げることができますように。

シャチー


力を与えてくれるヴィヴェーカーナンダの言葉

インドの聖者、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、数多くの力強い言葉を残されています。

『立ち上がれ、目覚めよ』は小さな本ですが、ヴィヴェーカーナンダの力強いメッセージが凝縮されていて、私は幾度となくこの本を開いています。

まず自分を、それから神を信じよ”

日々悩みや苦しみに翻弄されている自分に自信が持てず、これでヨーガを実践しているといえるのかモヤモヤしていた時に目に飛び込んできたのが、この言葉でした。
「神」「真理」「真我」と呼ばれる、永遠に変わらない純粋そのものである存在が、誰もの中にある。
そう教わる度に心底安心して、それだけになりたいという思いが湧き起こるのですが、気持ちが落ち込むと、私にはできないという思いの方が勝ってしまう状態でした。
この堂々巡りから抜け出したくて、ネガティブな思いが湧いたらこの言葉を呟くことにしました。最初はただ呟いているだけでしたが、続けているうちに胸の奥の方に意識が集中されて熱を帯びてくるようになり、その体感しているものが、「神」と呼ばれる存在なのかもしれないと思うようになりました。気付けば自分自身を、そして神を、確かにあると信じられるようになっていました。


しかし、実践を続ける中では葛藤することや悩むことが度々起こります。そんな時、勇気を与えてくれるのがこの言葉です。

失敗を気にするな。それは自然なことだ。失敗——それは人生の美だ。失敗のない人生などありえない。もがき苦しむことがなくなれば人生に意味はない。…苦しみや間違いを気に病むな。…これらの失敗や小さな後退を気にするな。千回でも理想を掲げよ。そしてもし千回失敗したら、さらにもう一度チャレンジせよ”

失敗してしまった時にこの言葉を思い出すと、目の前にヴィヴェーカーナンダが現れて、私の手をぐっと引っ張ってくれるように感じるのです。
落ち込んだ気持ちはリセットされて冷静になり、失敗した出来事と真理の教えとを照らし合わせ、何が原因だったのかを見付けて、もう一度やってみようと思えるようになります。
たとえそれでまた失敗したとしても、この言葉の通り、千回でも理想を掲げてまた挑戦すればいい!
私にとって最も気合が入る言葉かもしれません。

先日『立ち上がれ、目覚めよ』を読み返したら、これまであまり気にならなかった言葉が目に留まりました。

愛に失敗はないのだよ、君。今日であろうと、明日であろうと、何十年後であろうと、真実は征服する! 愛は必ず勝つ。君は仲間を愛しているか?”

愛とは純粋に、ただ相手の幸せのために自らを捧げること。
そこには失敗か成功かなどということは一切なく、ただ愛があるだけ。
ハートをギュッと鷲掴みにされたような感覚になりました。 

また、初めは仲間というのは共に真理へと続く道を歩む人たちのことを指していると思っていたけれど、何度も読み返すうちに、仲間とは、全ての共に生きる人たちのことを指しているのではないかと思うようになりました。
目の前にいる人かもしれないし、遠く離れた場所にいる人かもしれない。
それぞれの人にとって大切な人たちを愛し、その幸せを願い行為することで、不可能なことも可能にする力が、きっと生まれる。
ヴィヴェーカーナンダも、そのように人々を愛し、彼に愛された人々も彼を愛し、それが大きなうねりとなり、数々の仕事を成し遂げられたのかもしれない。

今生で出会えた愛おしくて大切な仲間たちと共にいられることがどんなに吉祥なことか。私はこれまで以上にそれを実感しています。
1人でできることには限りがあるけれど、仲間がいることでできることは無限大に広がっていくと信じています。

少しでもヴィヴェーカーナンダに近付けるように、行為していきたいです

 

ハルシャニー  

 


「サンニャーシンの詩」に触れて

1カ月後の4月6日(日)にマハーヨーギー・ミッション主催の春の祝祭が開催されます。今年はスワーミー・ヴィヴェーカーナンダの魂に迫っていく内容となっています。
最近私は、ヴィヴェーカーナンダが作られた『サンニャーシンの詩』というものを読み、その力強い詩に感銘を受けましたのでご紹介(詩の一部を掲載)させていただきます。

この音色を呼び起こせ!
その歌は生まれた。
この世の穢れが決して届くことのない、はるか遠く離れた山の洞窟や森の奥地で。
その場所は知識、真実、至福の波が渦巻いている。
高らかに歌え、その音色を。勇敢なるサンニャーシン!
唱えよ オーム・タット・サット オーム!

汝の足枷を取り払え!
愛と憎しみ、善と悪、すべての二元的束縛を。
知りなさい。奴隷は奴隷であり、優しく撫でられようとも、ムチ打たれようとも自由ではないのだと。
それら束縛を断ち切れ。勇敢なるサンニャーシン!
唱えよ オーム・タット・サット オーム!

“蒔いた種は刈り取らなければならない“
“そして、原因は確実に結果をもたらす。
誰もこの法則から逃れることはできない。
形を取るものはみな鎖をまとわなければならない“
しかし名前と形を超越しているのがアートマン。
それは常に自由である。
汝はそれであると知れ。勇敢なるサンニャーシン!
唱えよ オーム・タット・サット オーム!

汝はどこに探し求めるのか?
友よ、自由はこの世界では得られない。
汝を引きずるロープを掴んでいるのはあなた自身の手なのだ。
嘆くのをやめて掴んでいるその手を離せ。勇敢なるサンニャーシン!
唱えよ オーム・タット・サット オーム!

この詩はサンニャーシン(出家者)の心の放棄を詠っています。私たちの心の中にある執着や欲する思いを手離せば、心が生み出す苦しみや問題から解き放たれて自由になることができる。真の自由を手にすることをヴィヴェーカーナンダは熱いハートをもって高らかに教えられています。

私はこの詩に触れて心の奥底から力が漲ってくるような気持ちになりました。ヴィヴェーカーナンダの言葉の一つ一つに熱の波動を感じ、その熱が私の心に響きわたるようでした。この詩を読み唱えると、その言葉だけに集中され、その他の思いが浮かばないほどに強い純粋な思いで心が満たされているような感覚がありました。
ヴィヴェーカーナンダの言葉にとても惹きつけられて胸が熱くなりました!
私は自由な心でありたい!自身の心に引きずられることのない自由を求めて生きたいと思いました。

最後に私はこの詩の中で何度も繰り返し出てくるフレーズにとても鼓舞されました。
勇敢なるサンニャーシン! 唱えよ オーム・タット・サット オーム!(神は真実在なり)

金森淳哉


『ヴィヴェーカーナンダの生涯』イラストシリーズ①

今年の春の祝祭は、インドの聖者、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダに迫っていく内容になるとのことで、とても楽しみにしています。個人的にもこの機会にヴィヴェーカーナンダにもっと親しみたいと思い、本を読んでいます。今年のブログでは、『ヴィヴェーカーナンダの生涯』から印象に残ったエピソードなどから想像を膨らませてイラストを描いていく予定です。

今回は子供の頃のヴィヴェーカーナンダのいくつかのエピソードをイラストに描きました。可愛く陽気な性格で、エネルギーに溢れていた子供の頃のヴィヴェーカーナンダ。
ペットの牝牛や猿や鳩や孔雀を可愛がっていたそうで、それを聞くと鳥や動物に対する愛情を持ち、命を大切にされていたことを感じます。
またサードゥ(僧)が好きで、サードゥが施しを求めた時には、唯一の持ち物であった新しい腰布を与えてしまうほどでした。
母親から教わったヒンドゥの神々への愛を育み、子供の頃からシヴァの神像の前で瞑想を行なっていました。瞑想の最中にはしばしばこの世に対する意識を失い、ある時は、杖と水椀を携えた澄み切った表情の光り輝く人のヴィジョンが見えました。それはおそらく仏陀のヴィジョンだったと、後に思われたそうです。
この頃は眠りに入ろうとする時に、毎日不思議なヴィジョンを体験しました。目を閉じると、眉間に輝く光の球が色を変えながらゆっくり広がって、最後には全身に白い光を浴びせながら破裂するのです。この光を見つめながら徐々に眠りに落ちていきました。毎日のことなので誰にでも起こる現象だと思っていましたが、友人が、そんなのは見たことがないと言うのを聞いて驚きました。この光は、偉大な霊性の過去と生来の瞑想の習慣を示唆するものでした。

このように子供の頃から神を慕い、神との強い結びつきを感じさせるヴィヴェーカーナンダですが、恐れと迷信には我慢がなりませんでした。ある時ヴィヴェーカーナンダは友人たちと子供の悪戯で、近所にある木に登って花を摘んだりして遊び、その木の持ち主に注意を受けていました。それでも悪戯を止めないので、木の持ち主はこう言いました。「あの木を守っている白い着物の幽霊は、邪魔されると、必ず首をへし折りに来るんだぞ」
それを聞いて友人たちは怖がって木に近づくのを止めました。しかしヴィヴェーカーナンダはいつも通りに木登りを楽しんで、さらに枝を数本折るという悪戯をして、友人たちにこう言いました。
「君たちは何て馬鹿なんだ! ほら、僕の首はまだつながっているじゃないか。あの爺さんの話は真っ赤な嘘だ。自分が本当だと信じない限り、人の言うことを信じるな」

この単純にして大胆な言葉は、ヴィヴェーカーナンダが将来世界に発した次のメッセージを暗示するものでした。
「本で読んだからといって、信じてはならない。誰かが本当だと言ったからといって、鵜呑みにしてはならない。伝統的に崇められている言葉だからといって、信じてはならない。自分で真理を見つけなさい。解明しなさい。それが本当に理解するということだ」

子供の頃から深い洞察力を持ち、真実を見極めようとしていたこと、またそれを大胆に行動に移していたという、ヴィヴェーカーナンダの素晴らしい気質や探究心を知ることができるエピソードで、印象に残りました。

サルヴァーニー

 


「カルマ・ヨーガ」に救われて

「カルマ・ヨーガ」という言葉を聞いたことはありますか?
カルマ・ヨーガとは、働きのヨーガを意味します。日々の働きの中で利己心を無くし、他者への献身奉仕によって神に至る道のことです。19世紀のインドの聖者、ヴィヴェーカーナンダによって世界に広められました。
『カルマ・ヨーガ 働きのヨーガ』はヴィヴェーカーナンダが、1895年末頃にニューヨークで行なった講演をまとめた本になります。

ヴィヴェーカーナンダ 1895.New York.

私が初めてこの本に出会ったのは、2019年のことでした。ヨーガを始めて間もなく、研究者としてのキャリアに壁を感じ、悩んでいた時期でした。

「自分のいまの状態に対する責任は、自分にあります」

『カルマ・ヨーガ 働きのヨーガ』 21ページ(版によってページが多少異なります)

ヴィヴェーカーナンダのこの言葉は、その時の私に落雷のように響きました。この言葉によって私は、その状況を受け入れ、前を向いて進んでいくことができました。そしてその後も、仕事で悩んだ時、何度となくこの本に救われてきました。最近もこの本に救われることがありました。

一昨年、私は5年間働いた大学院での研究職を辞め、企業に転職しました。その際、ヨーガと仕事のバランスをどう取るか悩むことがありました。「働く時間を減らし、もっとヨーガに専念できないだろうか」と考え、家族にもその思いを伝えました。しかし、家族の反応は厳しく、「父親としての責任を果たさないのであれば出て行ってほしい」とまで言われました。「なぜこの気持ちを理解してもらえないのか」と悩み、すべてを投げ出してしまいたい気持ちにもなりました。そんな時、再びヴィヴェーカーナンダの言葉が道を示してくれました。

「彼(家住者)はこれらのものを獲得するために奮闘しなければなりません――第一に知識、そして第二に富、それが彼の義務です。そしてもし彼がこの義務を遂行しないのなら、彼は何者でもありません。富を得るために努力をしない家住者は、不道徳です。もし彼が無精で怠惰な生活を送って満足しているなら、彼は不道徳です。幾百人が彼を頼って生活しているのですから」

「家住者は、生活と社会の中心です。富を得てそれを高貴な形で費やすのは、彼にとっては一つの礼拝です」

『カルマ・ヨーガ 働きのヨーガ』52~53ページ(版によってページが多少異なります)

私はこの教えを胸に、仕事に向かう姿勢を変えていきました。アーサナや瞑想だけがヨーガではない、働くこともヨーガだと考えるようになりました。その際、結果に執着せず、自分の成果だと思うこともなく、すべてを神に捧げることが大切だと思っています。

また、師からかけていただいたこの言葉にも助けていただきました。お守りのようにいつも胸に留めています。

「本当のやるべきこと、生まれてきて本当にやるべきことはこれなんです。この本当の自分を実現することなんです」

「その上でこの世で培ったノウハウというか、個々人における得意な、あるいは関心の深いものは、仕事としてそれなりに従事していけばいい。あとはその仕事の内容を制御していくというか、もちろん全く手を抜いてさぼってしまうということではなくて、精度を上げて、その研究分野で集中を高めていくことによって時間の短縮も起こるでしょうし、またそれなりの成果も生まれてくると思いますし、結果、良い論文も書けていくのではないかと思いますから、その辺の整理をクリアにすれば、これから進めやすくなっていくと思います」

PARAMANHAMSA No.139 2020.5.20

この言葉は、2019年のサットサンガで、仕事の悩みを師に相談した時にいただいたお答えです。「研究こそ私の人生」と考えていた私に、人生において一番大切なことは、真理を実現することだと教えてくださいました。また、どのようにして仕事とヨーガのバランスをとるのかについても具体的に教えてくださいました。その後、6年が経ちましたが、師のお言葉通りの道を進めていることに、深く感謝しています。

私は今、企業の研究員として働きながら、家庭では父親としての役割を果たしています。家族や身近な他者に尽くすことは私にとってヨーガとなりました。自分が置かれている環境や周りの人々への感謝を忘れることなく、真理の実現に向けてヨーガを続けていきたいと思います。

昨年の6月に我が家に来てくれた、子犬のコパ君です。私も散歩係りとして頑張っています。

島本 廉


人は神になることができる

今年のバクティ・サンガムのシリーズでは、毎月様々なインドの神様を取り上げ、その神様にちなんだキールタンを歌っています。そしてもう一つの柱が、ヨーガを西洋に伝えたインドの聖者、ヴィヴェーカーナンダを取り上げ、彼の純粋な信仰と献身奉仕について学んできました。また彼のグル(師)を讃えた讃歌、「Achandalapratihatarayo」も、年間を通してずっと歌ってきています。

この歌は前半部分はとてもメロディアスで、後半はリズムがあり、また途中には楽器だけの間奏があったり・・・と、様々な表情をもつ歌です。歌詞が難しいこともあり、シリーズが始まった頃は、参加されている皆さまも、ずっと下を向き、歌詞カードを見ながら歌われていた方も多かったのですが、先日1月末のバクティ・サンガムの時には、ずいぶん歌詞とメロディーを覚えられたようで、顔をあげて歌われる方も多くなってきました。継続は力なり! 月一回でも少しずつ歌うことによって、とても安定して歌えるようになってこられていて、本当に素晴らしいなぁ!と感じました。

この歌は、途中で「naradeva」という単語を何度も何度も繰り返していきます。nara が人、deva が神という意味で、「人にして神である者よ!」という意味になります。この曲はキールタンとは違い、全体的に歌詞がどんどん変わっていく歌なのですが、途中から、naradeva という単語を、”これでもか!”というくらいずっと繰り返す部分が何か所かあります。歌の中で歌詞にできる文字量って限られていると思いますが、それでもこれだけの分量を割いて、ヴィヴェーカーナンダはこの言葉をこの歌の中に入れ込みました。

ヴィヴェーカーナンダは、師であるシュリー・ラーマクリシュナに出会い、薫陶を受ける中で、人は神のような存在になり得るということを目の当たりにして、本当に驚嘆し、歓喜したに違いありません。それはどんなに多くの聖典を読んだとしても、どんなに聡明であっても、実際に肉体をもったグルに出会わなけば、きっと知り得なかったことだと思います。

彼が少年のような眼差しで師を見上げ、敬愛し、生涯その御足下にひざまずいたその純粋な思いが、この単純な「naradeva!」という歌詞に凝縮されているように感じて、本当に感動します。バクティ・サンガムに参加されている方も、特にこの「naradeva」の箇所がお好きな方が多いようで、この部分を歌う時は、みんなの熱がこもっているのが伝わってきます。
4月に行なわれるサナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラーでも、この歌を歌います。大勢の方とともに歌えることがとても楽しみです。

今回のバクティ・サンガムのシリーズは、次回の実開催2/23(日)(オンラインは3/2)で一旦終了となります。ご興味のある方は、ぜひご参加いただき、一緒に歌っていただければ嬉しいです!

ミラバイ

 


一つの理想で全身を満たす

皆さま、明けましておめでとうございます。
新春のお慶びを申し上げます。

2025年のマハーヨーギー・ミッションのカレンダーの絵。師がNYの街で自転車に乗る姿を弟子のサルヴァーニーさんが作画しました。

2025年はマハーヨーギー・ミッション開設49周年であり、50周年に突入する前年になります。このメモリアル・イヤーに向かってより一層、真理のペダルを漕ぐべく、私たちは4月の祝祭でブッダの再来と称される19世紀インドの聖者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダに迫っていきます。

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ(1863ー1902)は、師シュリー・ラーマクリシュナから薫陶を受けてニルヴィカルパ・サマーディ(無分別三昧)を体験した後、インド全土を遊行中に民衆の貧困の惨状を目の当たりにして胸が張り裂けます。そして自国にパンーー科学・物質を持ち帰るべく西洋に単身渡ってヨーガを布教し、帰国後は兄弟弟子の結束や僧院の建設など、人類への奉仕にその身を捧げた「行動する魂」でした。

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ

ヴィヴェーカーナンダの大いなる行動に近づくためのアドヴァイスとして以前、私たちの師シュリー・マハーヨーギーは次のように言われました。

一にも二にも内面の充実に尽きると思う。その充実によって外側の手足や口など行為が動かされるというか、衝き動かされるような、それぐらいの衝動を与える充実。それは真理との一体感であるし、もう一方でこの矛盾した世界に対する理想の建設というか、まさしくシュリー・クリシュナやヴィヴェーカーナンダの行為がそれに尽きると思います。だからそれを見倣うこと。

ーー『マハーヨーギーの真理のことば』303頁

私の理想の聖者はヴィヴェーカーナンダですので、2025年は彼に一歩でも近づけるように、内面の充実ーー「理想・真理で全身を満たし行為していくこと」を目標に掲げたいと思います。そして、そのために必要なことは、決めたことをやり通す「意志の力」だと思っています。

ヴィヴェーカーナンダの以下の言葉を紹介し、その教えを実践することを新年の抱負とさせていただきます。
2025年もどうぞよろしくお願いいたします🏵

「何よりもまず<彼の魂、アートマン>のことを知ることです」。寝ても覚めても、自分は<彼の魂>なのだという声に耳を傾けるのです。この言葉を、自分に向かって唱え続けるのです。その響きがやがて血の一滴一滴の中で響きはじめて、ついにそれが、あなたの肉と骨のなかに入り込んでしまうまで「私は生まれることも、死ぬこともなく、至福に満ちた、全知全能の存在で、常に栄光に包まれた魂なのだ」という、この一つの理想で全身を満たすことです。この理想が自分の生命の一部になるまで、寝ても覚めてもそれを思い続けるのです。そうして、その理想について瞑想するのです。すると、そこから神の働きがあらわれてくるでしょう。

ーー『実践的ヴェーダーンタ』37、38頁

何であれ、自分はこうありたいと思うものには、われわれは、自分でなるだけの力を持っているのです。

ーー『カルマ・ヨーガ』17頁

たとえ海の底に下りて死と直面しようとも、どんな抵抗も許さず、何としてでも目的を果たす意志力です。

ーー『スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの生涯』240頁

 

ゴーパーラ