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『ヴィヴェーカーナンダの生涯』イラストシリーズ①

今年の春の祝祭は、インドの聖者、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダに迫っていく内容になるとのことで、とても楽しみにしています。個人的にもこの機会にヴィヴェーカーナンダにもっと親しみたいと思い、本を読んでいます。今年のブログでは、『ヴィヴェーカーナンダの生涯』から印象に残ったエピソードなどから想像を膨らませてイラストを描いていく予定です。

今回は子供の頃のヴィヴェーカーナンダのいくつかのエピソードをイラストに描きました。可愛く陽気な性格で、エネルギーに溢れていた子供の頃のヴィヴェーカーナンダ。
ペットの牝牛や猿や鳩や孔雀を可愛がっていたそうで、それを聞くと鳥や動物に対する愛情を持ち、命を大切にされていたことを感じます。
またサードゥ(僧)が好きで、サードゥが施しを求めた時には、唯一の持ち物であった新しい腰布を与えてしまうほどでした。
母親から教わったヒンドゥの神々への愛を育み、子供の頃からシヴァの神像の前で瞑想を行なっていました。瞑想の最中にはしばしばこの世に対する意識を失い、ある時は、杖と水椀を携えた澄み切った表情の光り輝く人のヴィジョンが見えました。それはおそらく仏陀のヴィジョンだったと、後に思われたそうです。
この頃は眠りに入ろうとする時に、毎日不思議なヴィジョンを体験しました。目を閉じると、眉間に輝く光の球が色を変えながらゆっくり広がって、最後には全身に白い光を浴びせながら破裂するのです。この光を見つめながら徐々に眠りに落ちていきました。毎日のことなので誰にでも起こる現象だと思っていましたが、友人が、そんなのは見たことがないと言うのを聞いて驚きました。この光は、偉大な霊性の過去と生来の瞑想の習慣を示唆するものでした。

このように子供の頃から神を慕い、神との強い結びつきを感じさせるヴィヴェーカーナンダですが、恐れと迷信には我慢がなりませんでした。ある時ヴィヴェーカーナンダは友人たちと子供の悪戯で、近所にある木に登って花を摘んだりして遊び、その木の持ち主に注意を受けていました。それでも悪戯を止めないので、木の持ち主はこう言いました。「あの木を守っている白い着物の幽霊は、邪魔されると、必ず首をへし折りに来るんだぞ」
それを聞いて友人たちは怖がって木に近づくのを止めました。しかしヴィヴェーカーナンダはいつも通りに木登りを楽しんで、さらに枝を数本折るという悪戯をして、友人たちにこう言いました。
「君たちは何て馬鹿なんだ! ほら、僕の首はまだつながっているじゃないか。あの爺さんの話は真っ赤な嘘だ。自分が本当だと信じない限り、人の言うことを信じるな」

この単純にして大胆な言葉は、ヴィヴェーカーナンダが将来世界に発した次のメッセージを暗示するものでした。
「本で読んだからといって、信じてはならない。誰かが本当だと言ったからといって、鵜呑みにしてはならない。伝統的に崇められている言葉だからといって、信じてはならない。自分で真理を見つけなさい。解明しなさい。それが本当に理解するということだ」

子供の頃から深い洞察力を持ち、真実を見極めようとしていたこと、またそれを大胆に行動に移していたという、ヴィヴェーカーナンダの素晴らしい気質や探究心を知ることができるエピソードで、印象に残りました。

サルヴァーニー

 


「カルマ・ヨーガ」に救われて

「カルマ・ヨーガ」という言葉を聞いたことはありますか?
カルマ・ヨーガとは、働きのヨーガを意味します。日々の働きの中で利己心を無くし、他者への献身奉仕によって神に至る道のことです。19世紀のインドの聖者、ヴィヴェーカーナンダによって世界に広められました。
『カルマ・ヨーガ 働きのヨーガ』はヴィヴェーカーナンダが、1895年末頃にニューヨークで行なった講演をまとめた本になります。

ヴィヴェーカーナンダ 1895.New York.

私が初めてこの本に出会ったのは、2019年のことでした。ヨーガを始めて間もなく、研究者としてのキャリアに壁を感じ、悩んでいた時期でした。

「自分のいまの状態に対する責任は、自分にあります」

『カルマ・ヨーガ 働きのヨーガ』 21ページ(版によってページが多少異なります)

ヴィヴェーカーナンダのこの言葉は、その時の私に落雷のように響きました。この言葉によって私は、その状況を受け入れ、前を向いて進んでいくことができました。そしてその後も、仕事で悩んだ時、何度となくこの本に救われてきました。最近もこの本に救われることがありました。

一昨年、私は5年間働いた大学院での研究職を辞め、企業に転職しました。その際、ヨーガと仕事のバランスをどう取るか悩むことがありました。「働く時間を減らし、もっとヨーガに専念できないだろうか」と考え、家族にもその思いを伝えました。しかし、家族の反応は厳しく、「父親としての責任を果たさないのであれば出て行ってほしい」とまで言われました。「なぜこの気持ちを理解してもらえないのか」と悩み、すべてを投げ出してしまいたい気持ちにもなりました。そんな時、再びヴィヴェーカーナンダの言葉が道を示してくれました。

「彼(家住者)はこれらのものを獲得するために奮闘しなければなりません――第一に知識、そして第二に富、それが彼の義務です。そしてもし彼がこの義務を遂行しないのなら、彼は何者でもありません。富を得るために努力をしない家住者は、不道徳です。もし彼が無精で怠惰な生活を送って満足しているなら、彼は不道徳です。幾百人が彼を頼って生活しているのですから」

「家住者は、生活と社会の中心です。富を得てそれを高貴な形で費やすのは、彼にとっては一つの礼拝です」

『カルマ・ヨーガ 働きのヨーガ』52~53ページ(版によってページが多少異なります)

私はこの教えを胸に、仕事に向かう姿勢を変えていきました。アーサナや瞑想だけがヨーガではない、働くこともヨーガだと考えるようになりました。その際、結果に執着せず、自分の成果だと思うこともなく、すべてを神に捧げることが大切だと思っています。

また、師からかけていただいたこの言葉にも助けていただきました。お守りのようにいつも胸に留めています。

「本当のやるべきこと、生まれてきて本当にやるべきことはこれなんです。この本当の自分を実現することなんです」

「その上でこの世で培ったノウハウというか、個々人における得意な、あるいは関心の深いものは、仕事としてそれなりに従事していけばいい。あとはその仕事の内容を制御していくというか、もちろん全く手を抜いてさぼってしまうということではなくて、精度を上げて、その研究分野で集中を高めていくことによって時間の短縮も起こるでしょうし、またそれなりの成果も生まれてくると思いますし、結果、良い論文も書けていくのではないかと思いますから、その辺の整理をクリアにすれば、これから進めやすくなっていくと思います」

PARAMANHAMSA No.139 2020.5.20

この言葉は、2019年のサットサンガで、仕事の悩みを師に相談した時にいただいたお答えです。「研究こそ私の人生」と考えていた私に、人生において一番大切なことは、真理を実現することだと教えてくださいました。また、どのようにして仕事とヨーガのバランスをとるのかについても具体的に教えてくださいました。その後、6年が経ちましたが、師のお言葉通りの道を進めていることに、深く感謝しています。

私は今、企業の研究員として働きながら、家庭では父親としての役割を果たしています。家族や身近な他者に尽くすことは私にとってヨーガとなりました。自分が置かれている環境や周りの人々への感謝を忘れることなく、真理の実現に向けてヨーガを続けていきたいと思います。

昨年の6月に我が家に来てくれた、子犬のコパ君です。私も散歩係りとして頑張っています。

島本 廉


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ⑬

今回は、『Paramahamsa』No.82の表紙絵と絵を描いた時のエピソードをご紹介します。

インド3大神の一柱であるシヴァ神は、ヨーガの祖とも言われています。
そのシヴァ神を、ある時描いてみたいと思いました。
私が持っているシヴァ神のイメージは、何にも動じることなく、悠然とどっしり構えている。そして全てを見通して世界を愛しく見つめている。その姿は大きく力強い。
そう考えた時に思い浮かんだのがスワーミー・ヴィヴェーカーナンダでした。私はスワーミー・ヴィヴェーカーナンダを思いながらこの絵を描いていきました。

そんなある日、ヨギさんが突然アトリエ(当時はセーヴァー・クティーラに住んでいた)に来られたことがありました。ちょうど筆をもって絵を描いていた最中で、ヨギさんは自然とその絵をご覧になったのです。
ヨギさんは後ろにお立ちになり、まるで今気付いたよーという感じで、「シャチー、絵、うまいなあ」と、ポロリとおっしゃったのです。そして、気になるところはありませんか?と問いかけた私に「ある」とはっきりと言い切って、崖の壁面を指さされました。その箇所は、確かに他のところに比べて単調で、気持ちが入っていないように感じました。そしてそこに筆を加えると、絵全体がぐっとしまったようになり、ヨギさんにもok をいただくことができました。
言葉にすると何てことのないエピソードなんですが、この絵を見るたびに、その時のヨギさんを思い出し、とても楽しい気持ちになるのです。

神様の絵を描く時、その神様を本当の意味で見て(体得して)描いてみたいとずっと思ってきました。シヴァ神にもスワーミー・ヴィヴェーカーナンダにもまだまだ迫りきれていない中で描いた1枚でしたが、いつか本当の絵を描くことができますように!

シャチー


『マハーヨーギーの真理のことば』第一章「愚痴は心を汚す」

ヨーガを学ぶ前までは愚痴を言う行為に何の違和感もなく、むしろ愚痴を吐き出してストレスを発散し、その方が気分が軽くなり日常が上手くいっていると思っていました。
ヨーガを学び始めてからこの行為は新たなカルマを生むことを知ってからは、愚痴は言わない、言いたく無いと思うようになり、できるだけそれが寄ってきそうな場を避けていました。

しかしある日、私は気心知れた友人と話している時に、少しクセのある人に対する愚痴をこぼしていることに気づきました。
その友人は、よっぽど大変だったんだねと、同情するように聞いてくれました。
ところが私の心は、聞いてもらってすっきりしたとか、気分が軽くなったという感じは無く、愚痴を言ってしまったという後悔が心に残ってしまいました。

その日、『マハーヨーギーの真理のことば』を開くと、「愚痴は心を汚す」という教えが目に入ってきました。

愚痴を言うことでストレスが発散できていると思っているのは大きな錯覚です。そうではない。そういう習慣を付けることで、心はそれに染められてしまっているわけです。だからそれが癖付けられたら、しょっちゅう愚痴を言おうと心が思ってしまう。心そのものが愚痴で汚れてしまう。心の内容そのものが愚痴になってしまっている。でもそんなことを理屈で言っても、なかなか頭の理解では心は変わらないからね。心を変えようと思えば、呼吸を変えないといけない。呼吸を変えるためには、体をアーサナによって調えていくのがやりやすい。

『マハーヨーギーの真理のことば』第一章 67頁

私はいつもこの友人の前では甘えが生じて、しょっちゅう愚痴を言おうとしている心の動きが見えました。
自分の心だけではなく、愚痴を言うことで相手の心まで汚してしまっていることに気づき、その日せっかく会えた友人や愚痴を言ってしまった人に申し訳ない気持ちになり、反省しました。

頭では愚痴を言ってはいけないと分かっていても、心はある一定の条件が揃えば元の習慣に戻ろうとします。
注意深く心を観察し、踏み止まるには、日頃行なっているアーサナの力と呼吸、聖典を読むことで調えられ、心そのものが変わるのだと信じています。

口から出る言葉は真実だけを語り、真実だけに染められたい。
愚痴など寄せ付けないぐらいの情熱をもってヨギさんが導いてくださったヨーガの道を歩んでいきたいです。

玉井眸


一つの理想で全身を満たす

皆さま、明けましておめでとうございます。
新春のお慶びを申し上げます。

2025年のマハーヨーギー・ミッションのカレンダーの絵。師がNYの街で自転車に乗る姿を弟子のサルヴァーニーさんが作画しました。

2025年はマハーヨーギー・ミッション開設49周年であり、50周年に突入する前年になります。このメモリアル・イヤーに向かってより一層、真理のペダルを漕ぐべく、私たちは4月の祝祭でブッダの再来と称される19世紀インドの聖者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダに迫っていきます。

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ(1863ー1902)は、師シュリー・ラーマクリシュナから薫陶を受けてニルヴィカルパ・サマーディ(無分別三昧)を体験した後、インド全土を遊行中に民衆の貧困の惨状を目の当たりにして胸が張り裂けます。そして自国にパンーー科学・物質を持ち帰るべく西洋に単身渡ってヨーガを布教し、帰国後は兄弟弟子の結束や僧院の建設など、人類への奉仕にその身を捧げた「行動する魂」でした。

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ

ヴィヴェーカーナンダの大いなる行動に近づくためのアドヴァイスとして以前、私たちの師シュリー・マハーヨーギーは次のように言われました。

一にも二にも内面の充実に尽きると思う。その充実によって外側の手足や口など行為が動かされるというか、衝き動かされるような、それぐらいの衝動を与える充実。それは真理との一体感であるし、もう一方でこの矛盾した世界に対する理想の建設というか、まさしくシュリー・クリシュナやヴィヴェーカーナンダの行為がそれに尽きると思います。だからそれを見倣うこと。

ーー『マハーヨーギーの真理のことば』303頁

私の理想の聖者はヴィヴェーカーナンダですので、2025年は彼に一歩でも近づけるように、内面の充実ーー「理想・真理で全身を満たし行為していくこと」を目標に掲げたいと思います。そして、そのために必要なことは、決めたことをやり通す「意志の力」だと思っています。

ヴィヴェーカーナンダの以下の言葉を紹介し、その教えを実践することを新年の抱負とさせていただきます。
2025年もどうぞよろしくお願いいたします🏵

「何よりもまず<彼の魂、アートマン>のことを知ることです」。寝ても覚めても、自分は<彼の魂>なのだという声に耳を傾けるのです。この言葉を、自分に向かって唱え続けるのです。その響きがやがて血の一滴一滴の中で響きはじめて、ついにそれが、あなたの肉と骨のなかに入り込んでしまうまで「私は生まれることも、死ぬこともなく、至福に満ちた、全知全能の存在で、常に栄光に包まれた魂なのだ」という、この一つの理想で全身を満たすことです。この理想が自分の生命の一部になるまで、寝ても覚めてもそれを思い続けるのです。そうして、その理想について瞑想するのです。すると、そこから神の働きがあらわれてくるでしょう。

ーー『実践的ヴェーダーンタ』37、38頁

何であれ、自分はこうありたいと思うものには、われわれは、自分でなるだけの力を持っているのです。

ーー『カルマ・ヨーガ』17頁

たとえ海の底に下りて死と直面しようとも、どんな抵抗も許さず、何としてでも目的を果たす意志力です。

ーー『スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの生涯』240頁

 

ゴーパーラ


聖典に親しむ〜『不滅の言葉(コタムリト)』

インドの大覚者シュリー・ラーマクリシュナの教えや出来事を、弟子であるM(マスター・マハーシャヤ)が書き残した『不滅の言葉(コタムリト)』。今年はブログで3回、この本からの教えやエピソードをご紹介しました。
『不滅の言葉(コタムリト)』は第1巻から第5巻まであります。少しずつ読み進めていましたが、先日最後まで読み終えました。第5巻の最後には、本を出版したMへヴィヴェーカーナンダやホーリーマザーからの手紙が掲載されています。手紙には『不滅の言葉(コタムリト)』を出版したMへの感謝の思いが綴られていますが、私も同じく感謝が溢れ頷きながら読みました。少しご紹介します。

有り難う!十万遍も有り難う、校長先生!あなたは正に、ラーマクリシュナの真実の姿をつかまえた。僅かの人しか、ああ、実にほんの僅かの人しか彼を本当に理解していないのです!私のハートは歓喜のため跳ね上がり、そして今後、この地球上に平和の慈雨を降り注ぐであろう思想の海の真っ只中に、すべての人が乗り出していけることを知ったとき、嬉しさに気が狂わないでいる自分を不思議に思っています。
(ヴィヴェーカーナンダから校長(M)への手紙)

本を読んでいると、まるでその場に同席させて頂いているかのような臨場感があります。ラーマクリシュナがどのようにお話をされて、どのように過ごされていたのか、弟子たちとの交流を目の前で見ているかのように感じることができます。それはMの記録と編集のおかげであることが、次のヴィヴェーカーナンダの手紙からわかります。

言葉使いも、何といって誉めたらよろしいのか――申し分ありません。活き活きとして、鋭く、かつ又すっきりとしてわかりやすい。私がどんなに楽しく読ませていただいたか、いちいち例をあげてここに説明できないのが残念ですが、読んでいると我を忘れてしまうのです。不思議でしょう?
(ヴィヴェーカーナンダから校長(M)への手紙)

この本が、時代を超えて地域を超えて、今日本にいる私の元へ届けられているのはMの偉大な働きのおかげです。ヴィヴェーカーナンダと同じく、十万遍もありがとうございます!という気持ちです。また翻訳をしてくださった田中玉さんにも同じく、十万遍もありがとうございます!という気持ちです。こんなにも素晴らしい本を誰もが手にとって読むことができるとは、何という幸運でしょうか。
そして私にとっては、ラーマクリシュナの優しさは私たちの師であるヨギさんの優しさ、ラーマクリシュナの眼差しはヨギさんの眼差し、ラーマクリシュナの純粋なお姿はヨギさんのお姿と重なります。本を読んでラーマクリシュナを感じることでヨギさんを感じることにもなります。ラーマクリシュナへの敬愛が深まるのと共に、ヨギさんへの敬愛も深まります。
本当に素晴らしい本をありがとうございます。
また最初から読んで、何度でも歓喜を味わいたいと思います。

M(マスター・マハーシャヤ、校長)が『コタムリト』を書いている姿を想像して描きました。

サルヴァーニー


Waheguru :素晴らしい師よ!

11月23日、サットグル・ジャヤンティーが京都アスニーで開かれました。私は初めて準備を手伝う機会をいただきました。とても驚いたのは、会場準備から式の進行まで、細部に至るまで丁寧に準備されていることです。オンライン配信のためのコンピューター係り、カメラやマイクの係り、会場の温度調節係り、案内係り、祭壇の設置係り、通訳など、多くの方が働いておられます。その中で私は、会場でプロジェクターを使って映像を流す先輩弟子のお手伝いの仕事をいただきました。初めての仕事でとても緊張しましたが、心を乱さず、目の前のことに集中するように心がけました。
滞りなく式典が終わり、安堵と感動で胸一杯の中、先輩グルバイと、がっちりと握手しました。これまでに感じたことのない仕事のよろこびがありました。この経験を通して、ジャヤンティーに関わる全員が、師への感謝を胸にその働きを捧げていることを知りました。そこには純粋な信仰があると思いました。

また私は、もう一つの役割として、祝辞の機会をいただきました。準備の期間、これまでの師との出来事を振り返り、その優しさに何度も心打たれました。この感謝の想いをどうしたらうまく伝えられるだろうかと考える中で、気付いたことがあります。それは、頭を絞って上手な文章を書いたとしても、それを伝える本人の心が純粋でなければ感謝を伝えることはできないということです。それに気づいた時、純粋な心で師にありがとうと言えるよう、心をきれいにしておこうと強く思いました。そのために、師から教えて頂いたアーサナや瞑想をしっかりやるようにしました。本番では、胸が一杯で上手に話すことはできませんでしたが、感謝やこれからの修行への想いをしっかり伝えることができたと思っています。

今年のジャヤンティーの最後、師の50代の頃のジャヤンティーの映像を見せていただきました。その中で師は顔を赤くして、照れて笑っておられました。その笑顔が少年のように純粋で、素敵だったのが印象的でした。誰よりも純粋で、優しくて、偉大な師。そういう方にお会いできて本当によかったです。いつか師のような人間になれたらと思います。

師とお会いした頃に参加したサットサンガの記録が書かれている2020年5月のPARAMAHAMSAです。師の素敵な笑顔が表紙になっています。一生の宝物です。

島本廉


『マハーヨーギーの真理のことば』第一章 生きる秘訣

師シュリー・マハーヨーギーと出会って、私は生きることがとても楽になりました。
師は「生きる秘訣」を教えてくださいます。

生きていると様々な人に出会いますが、もし気の合わない人や嫌いな人がいたら、どう接しますか?
できるだけ関わらない(冷たい態度)、嫌いな点を指摘する、悪口を言う、良い所を探す、嫌いな人ほど優しくするetc
いろんな接し方や処世術があるかもしれませんが、師は秘訣として「無視すること」を教えます。
それは単に相手を無視することではなく、「相手の表面性や自らの思いを無視して、本質だけを見る」ということを説かれます。

私の秘訣はね、そういうものに取り合わないこと。無視する。気の合わない人だけを無視するのではなくて、気の合う人があったとしても無視する。両方を無視する。つまり表面的なカルマみたいな心の様子というものは気にしないこと。それでいて、どのような人であってもその本質は不異(おなじ)であるというーー魂とか本体は同じ、違いはない。違うのはその魂を包んでいるような心、これがただみんな色合いが違うだけだということを知っているから、疲れない。だからどのような人であっても、気が合うとか合わないとかいうことを感じたとしても、そのことを忘れるようにして、その人の本質だけを見るようにして接すればいいと思う。

『マハーヨーギーの真理のことば』第一章 P 51

私自身、この教えを知ってすぐに目から鱗が落ちたかと言えば、そうではありませんでした。
生きていく中で、ちょっとした誤解や嫌悪感からいざこざになり、もうこの人はあかん、合わない、嫌いだと思うことが何度かありました。
でも多くの方たちはそんな後でも、あとぐされなく私に接してくれて、私自身すごく救われた感覚が何度もありました。
そういった経験をする中で、師の教え–––決め付けや一時の好き嫌いの感情に執らわれない、つまりそれらを無視して本質だけを見ていくことが自分にとっても相手にとっても、さらには周囲の人にとっても平安や調和がもたらされると感じるようになっていきました。

好きも嫌いも、過去の未練も未来の不安も、二元的なことは全て忘れて、誰もの中に在る一なる尊い本質だけを見て、師のように強く凛として生きていきたいと願います。

ゴーパーラ


2024年サットグル・ジャヤンティー!!!

今年の11月23日、美しい青空の下、日本各地から弟子たちが5年ぶりに京都に集い、<サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ御聖誕76周年祭 /『マハーヨーギーの真理のことば』出版記念 合同祭>が開催されました。ニューヨークや台湾のグルバイ(兄弟姉妹弟子)、そして京都会場での参加が難しかった国内のグルバイとはオンラインで繋ぎ、同じ時間を喜びと共に共有することができました。

今回のジャヤンティーはなんと初参加の方も会場に足を運んでくださり、本当に嬉しく、新たに大切な家族が増えたような気持ちで当日を迎えました。

誰もが一心に師を思う凛とした空気の中、師がおられる時と同じ熱意と真剣さでプージャー(礼拝の儀)、祝辞やメッセージ、キールタンが奉納されました。師に捧げる姿は本当に美しかったです。また真摯にヨーガを実践して心が変容していく様子が伝わり、確かな師の導きを感じる素晴らしい時間になりました。

特筆すべきは、2022年に発刊された『マハーヨーギーの真理のことば』の出版記念でもあったということ。制作中の師のご様子を見せていただき、師がどれほどの熱意をもって1人でも多くの方に手に取っていただけるようにとご尽力くださったかを改めて感じ、心からの感謝が湧きあがりました。同時に師の熱意に値する実践ができているか自分に問いかけ、気が引き締まりました。

 

祭壇には、2022年に発刊した『マハーヨーギーの真理のことば』、台湾華語版『ヨーガの福音』、
今年ニューヨークより発刊した『WHAT IT IS TO LIVE』が奉納されました。
*『WHAT IT IS TO LIVE』は祝辞者の1人であるユクティーさんの手記(英語版)

 


台湾のグルバイは、台湾華語版『ヨーガの福音』を広めるため、昨年大規模な展覧会を開催しました。
そして今年、その時の様子を綴った本を出版する予定ということで、見本版を紹介してくれました。

ニューヨークではユクティーさんの書籍が大変反響を呼んでいるそうです!

 

濃密な3時間はあっという間に流れ、会の後半には2002年のジャヤンティーの映像がスクリーンに映し出されました。そこには師が弟子たちとの時間を本当に楽しみ、喜んでくださっているお姿がありました。まるで師の愛がスクリーンから溢れ出て、私たちの心を溶かすような甘美な笑顔とお言葉をいただき歓喜に包まれました。


師の映像を微動だにせず見続ける弟子たち

映像の中で師がおっしゃった「誰もの中に真の愛がある」というお言葉が今も私の中で輝き続けています。真の愛があるからこそ師のように他者のための行為ができる! 師を見倣って働きたい!と純粋なパワーが湧いてくるのです。

このジャヤンティーの歓喜を胸に『マハーヨーギーの真理のことば』を初め、師が残してくださった珠玉の教えを私たちは継承し、そして師が願っておられたように、一人でも多くの方に届けていきたいです!

ジャイ! サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ キ・ジャイ!!!

*その他、師の映像、祝辞、キールタンの奉納など、詳細はWebパラマハンサにて紹介します。(12月25日配信予定)

アーナンディー 


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ⑫

インドの細密画に近いイメージでずっと描いてきた中で、日本画のようなヨギさんを描いてみたい、そう思って描いたうちの1つが今回ご紹介する『Paramahamsa』No.35の表紙絵です。

ヨギさんはインドのものだけではなく、日本や欧州の美術・デザインにも造詣が深くあられました。ヨギさんからはたくさんの方のお名前をお聞きしたように思います。そして、思いついたことなど、何を質問してもお答えいただけるのがいつも驚きでした。

その当時、私はヨギさんに図書館で美術書をよくご覧になっていたとお聞きしたことがあったと記憶していました。
そこで改めてシャーンティマイーさんにお聞きしてみると、図書館から白隠禅師や俵屋宗達、またその他、多くの巨匠の美術書をシャーンティマイーさんがよく借りてきていたそうなのです。ヨギさんはそれをご覧になっていたのですね。
そして、ヨギさんがおっしゃったことを教えていただきました。
本屋に行けば手軽に買える絵画のペーパーブックもあるけれど、そのようなものは色も出ていないし、安易に買ってはダメ。でも美術書なら色目もしっかりと表されている。本物を見ないとダメ。そう教えていただいたそうで、図書館から借りてくるという流れになったということでした。また展覧会などには、お母様とよく足を運び、度々本物に触れて来られたそうです。

これまで、ヨギさんが何かを選ばれるものを数少ないながらも見せていただいて、本当に良いものをご存知だからこそ、いろんなもので埋もれている中から、本物を見つけることができるんだと思ったことがありました。何事もあまり深く物事を探究せず、本物に触れることが少なかった私でも分かるくらい、ヨギさんの物を見る目は特別に感じられました。

私が描いたものは日本画というには申し訳ないほど、程遠いものではありますが、新たなヨギさんに触れていただけたら嬉しいです。

そして、今週土曜日、23日はいよいよ師の御聖誕祭です。きっと多くの人が心待ちにされていることでしょう。当日に参加できる方も、できない方もいらっしゃいますが、ヨギさんへのみんなの愛がいっぱい詰まった祝祭になりそうな予感。とても楽しみです!

シャチー