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『マハーヨーギーの真理のことば』第八章 部分と全体を同時に見る集中力

私は三人の子どもを育てている主婦です。特に下の二人は幼稚園児の男の子で、毎日元気いっぱいです。一家五人の洗濯、掃除、炊事、幼稚園や学校との連絡など、やることはたくさんあります。家の中では、子どもたちが仲良く遊んでいる時もあれば、喧嘩をする時もあり、てんやわんやの毎日です。

『マハーヨーギーの真理のことば』にこんな質問者の問いがありました。

ー子供は凄くパワーがあって、あちこち動き回ったり、ずっとおしゃべりしています。家事などやらなくてはいけない仕事が多くて、本当は一つ一つ丁寧に仕事を熟したいのですけれども、全体も見ないといけない。ヨーガを深めていくと視野がどんどん広くなっていくということも聞いているのですが、どうすればいいのでしょうか。

この質問者が置かれている状況と、私が置かれている状況は一緒だなぁと深く共感しました。この質問に対して、マハーヨーギーはどのように答えられているのか、とても興味がわきました。

すごくヨーガ的だと思うんですね。(中略)それをどのようにしてうまく熟していけるかということは、やっぱり集中力です。
集中力というと、つい目の前のことだけに集中して、他のことが見えないというふうになりがちですけれども、そうではなくて、この両方の集中力を同時に発揮させるということ、それはヨーガの力でできるはずなのです。ヨーガの力というのは具体的に言うと、呼吸のあり方というか、呼吸の長さのことです。心がちょっと動いたり動転したり、刺激を受けたりすると、せっかく落ち着いていた心も乱れることがありますね。でも集中している時の心というのは、非常に落ち着いた深い呼吸になっていて、注意、集中力をいろいろ動かしても、あるいはまたいろんなことが起こって刺激として飛び込んできても、呼吸のリズムが乱れることなく、同じ状態でいられる。そうしたら結構うまく対処ができていくと思います。呼吸と心の集中力を養うためには、もちろんヨーガが不可欠だということにもなりますけれど、それはアーサナだけではなくて、瞑想とかヨーガ全体のことです。だから常々にそういうことをしておくことは、もちろん大事なことです。そしてもう一つは、その現場、今は日常の、子育ての一日一日の中でそれを訓練していっていると思って取り組んでいけば、きっとそのうちに見え方が違って来ると思います。

私は週一回ヨーガのクラスに通うようにしています。ヨーガを続けていくうちに、呼吸が調い、心が落ち着いていっているのを実感しています。だから、このマハーヨーギーの答えにとても納得がいきました。呼吸が調えば、心が落ち着き、おのずと集中力が養われていくーーーヨーガのおかげで、外から飛び込んでくる刺激に心が惑わされにくくなっていきました。

松山のヨーガ・サーラ・スタジオでのクラス。

例えば、子どもの兄弟喧嘩はそれぞれが感情むき出しで、怒りのエネルギーを爆発させます。その現場に居合わせて、自分の心が巻き込まれてしまうと、頭ごなしに叱ってしまいます。けれど、集中力が深まっていくと、自分のエゴを押し付ける前にブレーキがかかり、それぞれの子どもの中にある本質を同時に見極めようとするようになってきました。すると、私が余計な干渉をせずとも、子どもたちは自分に備わっている力で喧嘩を治められることに気がつきました。そして、必要な時には、後回しにせず子どもの気持ちを聞いて受け止めるようになりました。集中力が高まると、瞬間瞬間で今するべきことを判断する直感力がついてきたように思います。

ヨーガに取り組むことで図らずとも結果的に、円満に子育てをできるようになってきていると感じています。世界の見え方を変えることができるヨーガは本当に確かな道なのだと実感しています。性別、年齢、置かれた状況にかかわらず、万人にひらかれたヨーガの道に深く感謝するとともに、これからもヨーガをしながら子育ての一日一日を集中して取り組んでいきたいと思います。

 

井上江理


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ⑭

「桜の花がほころぶ頃に来ていただきたい」
一昨年秋に開講した大阪クラスの弟子たちの強い願いを、ヨギさんはお聞き届けになり、大阪でのサットサンガが開催されました。
それは2002年3月31日のこと。
突き抜けるような青空が広がっていました。

大阪に来てくださった師のお姿を前にして、目に涙を浮かべる大阪の弟子たち。
その姿にヨギさんは満面の笑みで応えてくださいました。
弟子たちは、溢れる喜びと最大の感謝の記しに師に花束を捧げ、そして会場までの道のりを談笑しながらゆっくりと進みます。途中、満開の桜の下では写真撮影も行なわれました。

そうして会場に到着。この日の参加者は30名ほどでした。
師の紹介がなされ、サットサンガの質疑が始まろうとしたまさにその直後のこと、先程まで晴れ渡っていた空から突然大粒の雨が降り出し、屋根を叩く激しい音が会場に響きました。まるでスコールのような激しい雨は、屋根の下に居ることへの安堵と、また清々しさを感じさせ、その小さな驚きが緊張ぎみの皆の心を解き放ちました。

そして「今日はちょうど桜も見れましたし」と楽しげなヨギさんのお言葉に笑いが起こります。

これには理由があり、今回のサットサンガの準備を主軸となって進めていた長石さん(アンビカー)には、満開の桜並木を通ってヨギさんを会場へご案内するという計画がありました。しかし、桜だと思っていた並木が実はケヤキだったと、新しい眼鏡を作って(?)気がついたというのです。え〜〜!!!!!! とは、長石さんがいちばん思われたことでしょう。
ただかろうじて2本の桜の木があったそうで、そのことを先週の京都のサットサンガで報告され、楽しい話題となってあがっていたのでした。

今回のパラマハンサNo.31の表紙絵は、この大阪に来てくださったヨギさんのことを描いてみました。
春色の花束を胸に抱かれ、オレンジ色のジャケットとパンツをスマートに着こなされているヨギさんのお姿は本当に美しく、笑顔が輝いていました。
大阪クラスの弟子たちは、日数はまだ長くはないものの、皆、真剣にヨーガを学び、実践を続けていました。そしてクラスは毎回高い集中感の中で行なわれ、皆のヨーガへの情熱は高まり続けている、そんな頃だったのです。
--この情熱こそが、全ての障害を速やかに取り除く、そして、ヨギさんがいつも弟子たちに求められるものではないでしょうか。
師の慈愛に満ちた眼差しが弟子たちに注がれました。

この日のサットサンガの内容は、基本的な3つの瞑想法の伝授から始まり、師の教えと、シュリー・ラーマクリシュナやヴィヴェーカーナンダの教えとの共通性と特異性に関して、という師のミッションに関わる質問がなされました。その中で、短いながらもシュリー・ラーマクリシュナやスワーミー・ヴィヴェーカーナンダの偉大なる働きについても言及され、濃密な時間となりました。
*このサットサンガの内容は紙面『パラマハンサ』No.31に掲載されているのでぜひお読みいただきたい。

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さて、今年の桜の開花はどうでしょうか。
「桜の花が咲く頃に」とヨギさんが企画してくださった、今年の「サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー」は、ももうすぐそこまで来ています。今年の祝祭ではヨギさんが愛されたスワーミー・ヴィヴェーカーナンダがどのようなお姿を見せてくださるのかとても楽しみですね。
願わくば、桜が満開に咲き誇る中、サナータナ・ダルマとアヴァターラへの憧れと敬意を胸に抱き、共に感謝を捧げることができますように。

シャチー


力を与えてくれるヴィヴェーカーナンダの言葉

インドの聖者、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、数多くの力強い言葉を残されています。

『立ち上がれ、目覚めよ』は小さな本ですが、ヴィヴェーカーナンダの力強いメッセージが凝縮されていて、私は幾度となくこの本を開いています。

まず自分を、それから神を信じよ”

日々悩みや苦しみに翻弄されている自分に自信が持てず、これでヨーガを実践しているといえるのかモヤモヤしていた時に目に飛び込んできたのが、この言葉でした。
「神」「真理」「真我」と呼ばれる、永遠に変わらない純粋そのものである存在が、誰もの中にある。
そう教わる度に心底安心して、それだけになりたいという思いが湧き起こるのですが、気持ちが落ち込むと、私にはできないという思いの方が勝ってしまう状態でした。
この堂々巡りから抜け出したくて、ネガティブな思いが湧いたらこの言葉を呟くことにしました。最初はただ呟いているだけでしたが、続けているうちに胸の奥の方に意識が集中されて熱を帯びてくるようになり、その体感しているものが、「神」と呼ばれる存在なのかもしれないと思うようになりました。気付けば自分自身を、そして神を、確かにあると信じられるようになっていました。


しかし、実践を続ける中では葛藤することや悩むことが度々起こります。そんな時、勇気を与えてくれるのがこの言葉です。

失敗を気にするな。それは自然なことだ。失敗——それは人生の美だ。失敗のない人生などありえない。もがき苦しむことがなくなれば人生に意味はない。…苦しみや間違いを気に病むな。…これらの失敗や小さな後退を気にするな。千回でも理想を掲げよ。そしてもし千回失敗したら、さらにもう一度チャレンジせよ”

失敗してしまった時にこの言葉を思い出すと、目の前にヴィヴェーカーナンダが現れて、私の手をぐっと引っ張ってくれるように感じるのです。
落ち込んだ気持ちはリセットされて冷静になり、失敗した出来事と真理の教えとを照らし合わせ、何が原因だったのかを見付けて、もう一度やってみようと思えるようになります。
たとえそれでまた失敗したとしても、この言葉の通り、千回でも理想を掲げてまた挑戦すればいい!
私にとって最も気合が入る言葉かもしれません。

先日『立ち上がれ、目覚めよ』を読み返したら、これまであまり気にならなかった言葉が目に留まりました。

愛に失敗はないのだよ、君。今日であろうと、明日であろうと、何十年後であろうと、真実は征服する! 愛は必ず勝つ。君は仲間を愛しているか?”

愛とは純粋に、ただ相手の幸せのために自らを捧げること。
そこには失敗か成功かなどということは一切なく、ただ愛があるだけ。
ハートをギュッと鷲掴みにされたような感覚になりました。 

また、初めは仲間というのは共に真理へと続く道を歩む人たちのことを指していると思っていたけれど、何度も読み返すうちに、仲間とは、全ての共に生きる人たちのことを指しているのではないかと思うようになりました。
目の前にいる人かもしれないし、遠く離れた場所にいる人かもしれない。
それぞれの人にとって大切な人たちを愛し、その幸せを願い行為することで、不可能なことも可能にする力が、きっと生まれる。
ヴィヴェーカーナンダも、そのように人々を愛し、彼に愛された人々も彼を愛し、それが大きなうねりとなり、数々の仕事を成し遂げられたのかもしれない。

今生で出会えた愛おしくて大切な仲間たちと共にいられることがどんなに吉祥なことか。私はこれまで以上にそれを実感しています。
1人でできることには限りがあるけれど、仲間がいることでできることは無限大に広がっていくと信じています。

少しでもヴィヴェーカーナンダに近付けるように、行為していきたいです

 

ハルシャニー  

 


『ヴィヴェーカーナンダの生涯』イラストシリーズ①

今年の春の祝祭は、インドの聖者、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダに迫っていく内容になるとのことで、とても楽しみにしています。個人的にもこの機会にヴィヴェーカーナンダにもっと親しみたいと思い、本を読んでいます。今年のブログでは、『ヴィヴェーカーナンダの生涯』から印象に残ったエピソードなどから想像を膨らませてイラストを描いていく予定です。

今回は子供の頃のヴィヴェーカーナンダのいくつかのエピソードをイラストに描きました。可愛く陽気な性格で、エネルギーに溢れていた子供の頃のヴィヴェーカーナンダ。
ペットの牝牛や猿や鳩や孔雀を可愛がっていたそうで、それを聞くと鳥や動物に対する愛情を持ち、命を大切にされていたことを感じます。
またサードゥ(僧)が好きで、サードゥが施しを求めた時には、唯一の持ち物であった新しい腰布を与えてしまうほどでした。
母親から教わったヒンドゥの神々への愛を育み、子供の頃からシヴァの神像の前で瞑想を行なっていました。瞑想の最中にはしばしばこの世に対する意識を失い、ある時は、杖と水椀を携えた澄み切った表情の光り輝く人のヴィジョンが見えました。それはおそらく仏陀のヴィジョンだったと、後に思われたそうです。
この頃は眠りに入ろうとする時に、毎日不思議なヴィジョンを体験しました。目を閉じると、眉間に輝く光の球が色を変えながらゆっくり広がって、最後には全身に白い光を浴びせながら破裂するのです。この光を見つめながら徐々に眠りに落ちていきました。毎日のことなので誰にでも起こる現象だと思っていましたが、友人が、そんなのは見たことがないと言うのを聞いて驚きました。この光は、偉大な霊性の過去と生来の瞑想の習慣を示唆するものでした。

このように子供の頃から神を慕い、神との強い結びつきを感じさせるヴィヴェーカーナンダですが、恐れと迷信には我慢がなりませんでした。ある時ヴィヴェーカーナンダは友人たちと子供の悪戯で、近所にある木に登って花を摘んだりして遊び、その木の持ち主に注意を受けていました。それでも悪戯を止めないので、木の持ち主はこう言いました。「あの木を守っている白い着物の幽霊は、邪魔されると、必ず首をへし折りに来るんだぞ」
それを聞いて友人たちは怖がって木に近づくのを止めました。しかしヴィヴェーカーナンダはいつも通りに木登りを楽しんで、さらに枝を数本折るという悪戯をして、友人たちにこう言いました。
「君たちは何て馬鹿なんだ! ほら、僕の首はまだつながっているじゃないか。あの爺さんの話は真っ赤な嘘だ。自分が本当だと信じない限り、人の言うことを信じるな」

この単純にして大胆な言葉は、ヴィヴェーカーナンダが将来世界に発した次のメッセージを暗示するものでした。
「本で読んだからといって、信じてはならない。誰かが本当だと言ったからといって、鵜呑みにしてはならない。伝統的に崇められている言葉だからといって、信じてはならない。自分で真理を見つけなさい。解明しなさい。それが本当に理解するということだ」

子供の頃から深い洞察力を持ち、真実を見極めようとしていたこと、またそれを大胆に行動に移していたという、ヴィヴェーカーナンダの素晴らしい気質や探究心を知ることができるエピソードで、印象に残りました。

サルヴァーニー

 


「カルマ・ヨーガ」に救われて

「カルマ・ヨーガ」という言葉を聞いたことはありますか?
カルマ・ヨーガとは、働きのヨーガを意味します。日々の働きの中で利己心を無くし、他者への献身奉仕によって神に至る道のことです。19世紀のインドの聖者、ヴィヴェーカーナンダによって世界に広められました。
『カルマ・ヨーガ 働きのヨーガ』はヴィヴェーカーナンダが、1895年末頃にニューヨークで行なった講演をまとめた本になります。

ヴィヴェーカーナンダ 1895.New York.

私が初めてこの本に出会ったのは、2019年のことでした。ヨーガを始めて間もなく、研究者としてのキャリアに壁を感じ、悩んでいた時期でした。

「自分のいまの状態に対する責任は、自分にあります」

『カルマ・ヨーガ 働きのヨーガ』 21ページ(版によってページが多少異なります)

ヴィヴェーカーナンダのこの言葉は、その時の私に落雷のように響きました。この言葉によって私は、その状況を受け入れ、前を向いて進んでいくことができました。そしてその後も、仕事で悩んだ時、何度となくこの本に救われてきました。最近もこの本に救われることがありました。

一昨年、私は5年間働いた大学院での研究職を辞め、企業に転職しました。その際、ヨーガと仕事のバランスをどう取るか悩むことがありました。「働く時間を減らし、もっとヨーガに専念できないだろうか」と考え、家族にもその思いを伝えました。しかし、家族の反応は厳しく、「父親としての責任を果たさないのであれば出て行ってほしい」とまで言われました。「なぜこの気持ちを理解してもらえないのか」と悩み、すべてを投げ出してしまいたい気持ちにもなりました。そんな時、再びヴィヴェーカーナンダの言葉が道を示してくれました。

「彼(家住者)はこれらのものを獲得するために奮闘しなければなりません――第一に知識、そして第二に富、それが彼の義務です。そしてもし彼がこの義務を遂行しないのなら、彼は何者でもありません。富を得るために努力をしない家住者は、不道徳です。もし彼が無精で怠惰な生活を送って満足しているなら、彼は不道徳です。幾百人が彼を頼って生活しているのですから」

「家住者は、生活と社会の中心です。富を得てそれを高貴な形で費やすのは、彼にとっては一つの礼拝です」

『カルマ・ヨーガ 働きのヨーガ』52~53ページ(版によってページが多少異なります)

私はこの教えを胸に、仕事に向かう姿勢を変えていきました。アーサナや瞑想だけがヨーガではない、働くこともヨーガだと考えるようになりました。その際、結果に執着せず、自分の成果だと思うこともなく、すべてを神に捧げることが大切だと思っています。

また、師からかけていただいたこの言葉にも助けていただきました。お守りのようにいつも胸に留めています。

「本当のやるべきこと、生まれてきて本当にやるべきことはこれなんです。この本当の自分を実現することなんです」

「その上でこの世で培ったノウハウというか、個々人における得意な、あるいは関心の深いものは、仕事としてそれなりに従事していけばいい。あとはその仕事の内容を制御していくというか、もちろん全く手を抜いてさぼってしまうということではなくて、精度を上げて、その研究分野で集中を高めていくことによって時間の短縮も起こるでしょうし、またそれなりの成果も生まれてくると思いますし、結果、良い論文も書けていくのではないかと思いますから、その辺の整理をクリアにすれば、これから進めやすくなっていくと思います」

PARAMANHAMSA No.139 2020.5.20

この言葉は、2019年のサットサンガで、仕事の悩みを師に相談した時にいただいたお答えです。「研究こそ私の人生」と考えていた私に、人生において一番大切なことは、真理を実現することだと教えてくださいました。また、どのようにして仕事とヨーガのバランスをとるのかについても具体的に教えてくださいました。その後、6年が経ちましたが、師のお言葉通りの道を進めていることに、深く感謝しています。

私は今、企業の研究員として働きながら、家庭では父親としての役割を果たしています。家族や身近な他者に尽くすことは私にとってヨーガとなりました。自分が置かれている環境や周りの人々への感謝を忘れることなく、真理の実現に向けてヨーガを続けていきたいと思います。

昨年の6月に我が家に来てくれた、子犬のコパ君です。私も散歩係りとして頑張っています。

島本 廉


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ⑬

今回は、『Paramahamsa』No.82の表紙絵と絵を描いた時のエピソードをご紹介します。

インド3大神の一柱であるシヴァ神は、ヨーガの祖とも言われています。
そのシヴァ神を、ある時描いてみたいと思いました。
私が持っているシヴァ神のイメージは、何にも動じることなく、悠然とどっしり構えている。そして全てを見通して世界を愛しく見つめている。その姿は大きく力強い。
そう考えた時に思い浮かんだのがスワーミー・ヴィヴェーカーナンダでした。私はスワーミー・ヴィヴェーカーナンダを思いながらこの絵を描いていきました。

そんなある日、ヨギさんが突然アトリエ(当時はセーヴァー・クティーラに住んでいた)に来られたことがありました。ちょうど筆をもって絵を描いていた最中で、ヨギさんは自然とその絵をご覧になったのです。
ヨギさんは後ろにお立ちになり、まるで今気付いたよーという感じで、「シャチー、絵、うまいなあ」と、ポロリとおっしゃったのです。そして、気になるところはありませんか?と問いかけた私に「ある」とはっきりと言い切って、崖の壁面を指さされました。その箇所は、確かに他のところに比べて単調で、気持ちが入っていないように感じました。そしてそこに筆を加えると、絵全体がぐっとしまったようになり、ヨギさんにもok をいただくことができました。
言葉にすると何てことのないエピソードなんですが、この絵を見るたびに、その時のヨギさんを思い出し、とても楽しい気持ちになるのです。

神様の絵を描く時、その神様を本当の意味で見て(体得して)描いてみたいとずっと思ってきました。シヴァ神にもスワーミー・ヴィヴェーカーナンダにもまだまだ迫りきれていない中で描いた1枚でしたが、いつか本当の絵を描くことができますように!

シャチー


『マハーヨーギーの真理のことば』第一章「愚痴は心を汚す」

ヨーガを学ぶ前までは愚痴を言う行為に何の違和感もなく、むしろ愚痴を吐き出してストレスを発散し、その方が気分が軽くなり日常が上手くいっていると思っていました。
ヨーガを学び始めてからこの行為は新たなカルマを生むことを知ってからは、愚痴は言わない、言いたく無いと思うようになり、できるだけそれが寄ってきそうな場を避けていました。

しかしある日、私は気心知れた友人と話している時に、少しクセのある人に対する愚痴をこぼしていることに気づきました。
その友人は、よっぽど大変だったんだねと、同情するように聞いてくれました。
ところが私の心は、聞いてもらってすっきりしたとか、気分が軽くなったという感じは無く、愚痴を言ってしまったという後悔が心に残ってしまいました。

その日、『マハーヨーギーの真理のことば』を開くと、「愚痴は心を汚す」という教えが目に入ってきました。

愚痴を言うことでストレスが発散できていると思っているのは大きな錯覚です。そうではない。そういう習慣を付けることで、心はそれに染められてしまっているわけです。だからそれが癖付けられたら、しょっちゅう愚痴を言おうと心が思ってしまう。心そのものが愚痴で汚れてしまう。心の内容そのものが愚痴になってしまっている。でもそんなことを理屈で言っても、なかなか頭の理解では心は変わらないからね。心を変えようと思えば、呼吸を変えないといけない。呼吸を変えるためには、体をアーサナによって調えていくのがやりやすい。

『マハーヨーギーの真理のことば』第一章 67頁

私はいつもこの友人の前では甘えが生じて、しょっちゅう愚痴を言おうとしている心の動きが見えました。
自分の心だけではなく、愚痴を言うことで相手の心まで汚してしまっていることに気づき、その日せっかく会えた友人や愚痴を言ってしまった人に申し訳ない気持ちになり、反省しました。

頭では愚痴を言ってはいけないと分かっていても、心はある一定の条件が揃えば元の習慣に戻ろうとします。
注意深く心を観察し、踏み止まるには、日頃行なっているアーサナの力と呼吸、聖典を読むことで調えられ、心そのものが変わるのだと信じています。

口から出る言葉は真実だけを語り、真実だけに染められたい。
愚痴など寄せ付けないぐらいの情熱をもってヨギさんが導いてくださったヨーガの道を歩んでいきたいです。

玉井眸


一つの理想で全身を満たす

皆さま、明けましておめでとうございます。
新春のお慶びを申し上げます。

2025年のマハーヨーギー・ミッションのカレンダーの絵。師がNYの街で自転車に乗る姿を弟子のサルヴァーニーさんが作画しました。

2025年はマハーヨーギー・ミッション開設49周年であり、50周年に突入する前年になります。このメモリアル・イヤーに向かってより一層、真理のペダルを漕ぐべく、私たちは4月の祝祭でブッダの再来と称される19世紀インドの聖者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダに迫っていきます。

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ(1863ー1902)は、師シュリー・ラーマクリシュナから薫陶を受けてニルヴィカルパ・サマーディ(無分別三昧)を体験した後、インド全土を遊行中に民衆の貧困の惨状を目の当たりにして胸が張り裂けます。そして自国にパンーー科学・物質を持ち帰るべく西洋に単身渡ってヨーガを布教し、帰国後は兄弟弟子の結束や僧院の建設など、人類への奉仕にその身を捧げた「行動する魂」でした。

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ

ヴィヴェーカーナンダの大いなる行動に近づくためのアドヴァイスとして以前、私たちの師シュリー・マハーヨーギーは次のように言われました。

一にも二にも内面の充実に尽きると思う。その充実によって外側の手足や口など行為が動かされるというか、衝き動かされるような、それぐらいの衝動を与える充実。それは真理との一体感であるし、もう一方でこの矛盾した世界に対する理想の建設というか、まさしくシュリー・クリシュナやヴィヴェーカーナンダの行為がそれに尽きると思います。だからそれを見倣うこと。

ーー『マハーヨーギーの真理のことば』303頁

私の理想の聖者はヴィヴェーカーナンダですので、2025年は彼に一歩でも近づけるように、内面の充実ーー「理想・真理で全身を満たし行為していくこと」を目標に掲げたいと思います。そして、そのために必要なことは、決めたことをやり通す「意志の力」だと思っています。

ヴィヴェーカーナンダの以下の言葉を紹介し、その教えを実践することを新年の抱負とさせていただきます。
2025年もどうぞよろしくお願いいたします🏵

「何よりもまず<彼の魂、アートマン>のことを知ることです」。寝ても覚めても、自分は<彼の魂>なのだという声に耳を傾けるのです。この言葉を、自分に向かって唱え続けるのです。その響きがやがて血の一滴一滴の中で響きはじめて、ついにそれが、あなたの肉と骨のなかに入り込んでしまうまで「私は生まれることも、死ぬこともなく、至福に満ちた、全知全能の存在で、常に栄光に包まれた魂なのだ」という、この一つの理想で全身を満たすことです。この理想が自分の生命の一部になるまで、寝ても覚めてもそれを思い続けるのです。そうして、その理想について瞑想するのです。すると、そこから神の働きがあらわれてくるでしょう。

ーー『実践的ヴェーダーンタ』37、38頁

何であれ、自分はこうありたいと思うものには、われわれは、自分でなるだけの力を持っているのです。

ーー『カルマ・ヨーガ』17頁

たとえ海の底に下りて死と直面しようとも、どんな抵抗も許さず、何としてでも目的を果たす意志力です。

ーー『スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの生涯』240頁

 

ゴーパーラ


聖典に親しむ〜『不滅の言葉(コタムリト)』

インドの大覚者シュリー・ラーマクリシュナの教えや出来事を、弟子であるM(マスター・マハーシャヤ)が書き残した『不滅の言葉(コタムリト)』。今年はブログで3回、この本からの教えやエピソードをご紹介しました。
『不滅の言葉(コタムリト)』は第1巻から第5巻まであります。少しずつ読み進めていましたが、先日最後まで読み終えました。第5巻の最後には、本を出版したMへヴィヴェーカーナンダやホーリーマザーからの手紙が掲載されています。手紙には『不滅の言葉(コタムリト)』を出版したMへの感謝の思いが綴られていますが、私も同じく感謝が溢れ頷きながら読みました。少しご紹介します。

有り難う!十万遍も有り難う、校長先生!あなたは正に、ラーマクリシュナの真実の姿をつかまえた。僅かの人しか、ああ、実にほんの僅かの人しか彼を本当に理解していないのです!私のハートは歓喜のため跳ね上がり、そして今後、この地球上に平和の慈雨を降り注ぐであろう思想の海の真っ只中に、すべての人が乗り出していけることを知ったとき、嬉しさに気が狂わないでいる自分を不思議に思っています。
(ヴィヴェーカーナンダから校長(M)への手紙)

本を読んでいると、まるでその場に同席させて頂いているかのような臨場感があります。ラーマクリシュナがどのようにお話をされて、どのように過ごされていたのか、弟子たちとの交流を目の前で見ているかのように感じることができます。それはMの記録と編集のおかげであることが、次のヴィヴェーカーナンダの手紙からわかります。

言葉使いも、何といって誉めたらよろしいのか――申し分ありません。活き活きとして、鋭く、かつ又すっきりとしてわかりやすい。私がどんなに楽しく読ませていただいたか、いちいち例をあげてここに説明できないのが残念ですが、読んでいると我を忘れてしまうのです。不思議でしょう?
(ヴィヴェーカーナンダから校長(M)への手紙)

この本が、時代を超えて地域を超えて、今日本にいる私の元へ届けられているのはMの偉大な働きのおかげです。ヴィヴェーカーナンダと同じく、十万遍もありがとうございます!という気持ちです。また翻訳をしてくださった田中玉さんにも同じく、十万遍もありがとうございます!という気持ちです。こんなにも素晴らしい本を誰もが手にとって読むことができるとは、何という幸運でしょうか。
そして私にとっては、ラーマクリシュナの優しさは私たちの師であるヨギさんの優しさ、ラーマクリシュナの眼差しはヨギさんの眼差し、ラーマクリシュナの純粋なお姿はヨギさんのお姿と重なります。本を読んでラーマクリシュナを感じることでヨギさんを感じることにもなります。ラーマクリシュナへの敬愛が深まるのと共に、ヨギさんへの敬愛も深まります。
本当に素晴らしい本をありがとうございます。
また最初から読んで、何度でも歓喜を味わいたいと思います。

M(マスター・マハーシャヤ、校長)が『コタムリト』を書いている姿を想像して描きました。

サルヴァーニー


Waheguru :素晴らしい師よ!

11月23日、サットグル・ジャヤンティーが京都アスニーで開かれました。私は初めて準備を手伝う機会をいただきました。とても驚いたのは、会場準備から式の進行まで、細部に至るまで丁寧に準備されていることです。オンライン配信のためのコンピューター係り、カメラやマイクの係り、会場の温度調節係り、案内係り、祭壇の設置係り、通訳など、多くの方が働いておられます。その中で私は、会場でプロジェクターを使って映像を流す先輩弟子のお手伝いの仕事をいただきました。初めての仕事でとても緊張しましたが、心を乱さず、目の前のことに集中するように心がけました。
滞りなく式典が終わり、安堵と感動で胸一杯の中、先輩グルバイと、がっちりと握手しました。これまでに感じたことのない仕事のよろこびがありました。この経験を通して、ジャヤンティーに関わる全員が、師への感謝を胸にその働きを捧げていることを知りました。そこには純粋な信仰があると思いました。

また私は、もう一つの役割として、祝辞の機会をいただきました。準備の期間、これまでの師との出来事を振り返り、その優しさに何度も心打たれました。この感謝の想いをどうしたらうまく伝えられるだろうかと考える中で、気付いたことがあります。それは、頭を絞って上手な文章を書いたとしても、それを伝える本人の心が純粋でなければ感謝を伝えることはできないということです。それに気づいた時、純粋な心で師にありがとうと言えるよう、心をきれいにしておこうと強く思いました。そのために、師から教えて頂いたアーサナや瞑想をしっかりやるようにしました。本番では、胸が一杯で上手に話すことはできませんでしたが、感謝やこれからの修行への想いをしっかり伝えることができたと思っています。

今年のジャヤンティーの最後、師の50代の頃のジャヤンティーの映像を見せていただきました。その中で師は顔を赤くして、照れて笑っておられました。その笑顔が少年のように純粋で、素敵だったのが印象的でした。誰よりも純粋で、優しくて、偉大な師。そういう方にお会いできて本当によかったです。いつか師のような人間になれたらと思います。

師とお会いした頃に参加したサットサンガの記録が書かれている2020年5月のPARAMAHAMSAです。師の素敵な笑顔が表紙になっています。一生の宝物です。

島本廉