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ラーマクリシュナの例え話

梅の開花便りが聞かれ、日差しに春の訪れを感じますね

久しぶりに「ラーマクリシュナの福音」を手に取り、パラパラとページをめくっていると、私の好きな例え話が目に入ったので、ご紹介します。

ラーマクリシュナは、誰にでもわかるように、目に見えない真理や神を分かりやすい例え話にして教えを説かれることがあります。「どのようにしたら真理を実現できるでしょうか」と言う信者からの問いに対して、このように答えておられます。

「祈ることによってすべての魂はあの至高の霊と一体になれるのだ。どの家にもガス栓がつけてある。ガス会社からガスがくるようになっているのだ。だから、申し込め!申し込みさえすればガスをよこす手配をしてくれるだろう。部屋に明かりがつくだろう。シアールダハに事務所があるよ(一同笑う)」

おそらくシアールダハは実際にガス会社のある場所の名前ではないでしょうか。ユーモアがありますね。私はこれを読んだ時とても素直に「そうや、申し込まなあかん」と思ったのですが、それにはある経験が関係しています。

私は少しの期間ですが外国に住んだことがあります。知り合いがいなかったので、自分で住む部屋を探し、契約し、家具を揃え・・・ととても大変でしたが、屋根裏にある小さな部屋に落ち着きました。お茶でも飲むかとガス栓をひねったとき、ガスがきていないことに気が付きました。水道も電気も申し込みしなくても(おそらく大家さんがしてくれていた)そのまま使えることになっていたので、ガスについて聞くことをすっかり忘れていました。なぜかそのとき、私は備え付けのガスコンロの方に不備があると思い、大家さんに電話するも繋がらず、どうしようかと思っていると、隣に住む人が訪ねて来ました。ガスコンロに不備があると話すと、彼は、「違う!違う!申し込んでないから!今すぐ申し込め!」と言うのです。そこで、彼はすぐにガス会社に電話をかけてくれたのですが、私の語学力が追いつかず、電話でのやり取りは無理と判断され、直接事務所に行くことになりました。その日は営業時間に間に合わず、次の日の午後、仕事と仕事の合間に行ったのですが、昼休みで対応してもらえず、次の日に行くも、申し込むために必要な書類が揃っていないと帰され、書類をそろえるのにもさらに時間がかかり、土日は対応してくれない・・・・何日もかかって、やっとの思いでガスが使えるようになったことを覚えています。そんな苦労話もすっかり忘れていましたが、この例え話を読んだとき、そのことを思い出しました。

ラーマクリシュナの「申し込め!」の言葉とあの時の隣人の「申し込め!」がリンクして、なんとも忘れがたい例え話となりました。そうです、必要であれば申し込まなければならないのです。「私はガスが必要です」と同じように「私は真理が必要です、真理を実現させてください」と神に祈らなければならない。あの時、少し?(実際にはかなり・・・)手間はかかったけれど、申し込んだ途端にガスが来るようになったように、きっと申し込み続ければ、その思いは実現されるのではないかと思わせてくれました。

 


識別とヴィヴェーカーナンダ(最終回 )& 今年の締め括り

2019年も残すところ、あと2日になりましたね。
皆さま、年末をいかがお過ごしでしょうか?

さて、今年の私の目標は「徹底識別」ということで、この「識別とヴィヴェーカーナンダ」の連載をスタートさせ、ヴィヴェーカーナンダ、おもにその著作『ギャーナ・ヨーガ』を通して、識別を学んでいきました。
また同時に、私自身の心が執着している世界の対象と、それに対する心の動機というものにも「常浄楽我」という真理を当てがって識別を行ない、世界と心の働きにリアリティという実在性がないことを見極めていきました。
しかし依然として、心には「私」と主張するエゴ意識があり、どのようにしてエゴ意識がなくなるのか分からず、識別も難航していました。
そんな時、10月のサットサンガで師にその打開について尋ねると、師は大きなヒントを与えてくださいました。
それがサーンキヤ哲学が説く二十四の原理ーーエゴ意識が発生する前段階の「ブッディ(認識)」ーーその教えです。

「アハンカーラ(エゴ意識)のもう一つ始まりにあるブッディ(認識)というものだけれど、このブッディがすべてのナーマ・ルーパ(名前・形)をつくり出す原因になっている。だから必然的に私意識の源にいけば、そのナーマ・ルーパというものの正体というか、それの根源の方に行き着くことになって、ナーマ・ルーパというものもこの世界が展開するときに発生したものだから、それらは消えていくことができます。消えていくというのは、プラクリティという根源にそれを引き戻すという、実際には消えていくという関係です」

この教えを聞いて、「ブッディ(認識)があるから自分と他者、世界の区別ができ、エゴが成り立ってくるのか」と感じ、目から鱗でした。
そこで私は、エゴ意識に常浄楽我を当てがうということから、エゴが出てくる源のブッディ、そしてプラクリティを辿っていく二十四の原理の瞑想を行なっていきました。それと同時に、二十四の原理の教えと類似している十二因縁の瞑想も行ないました。
その瞑想を続けていくうちに、心にゼロがかけられていく感覚が起こったり、また心を辿っていくと最後に残るのはプラクリティの根源であるカーリー、オーム、師のお姿という感触がありました。
そして忙しい合間、ただ階段に腰掛けて休憩していた時、この識別瞑想を行なうと、心そのものが解体されていく実感がありました。それは家が崩れていくようなものでした。
それからは不思議と、心自身がリアリティという実在性を失い、心の思いに執らわれることが一気になくなっていきました。
そして『ヨーガの福音』の師の教えの一節が自然と思い出されました。

「『複合物』はすべて生まれ、変化し、消滅するということです。『単体』なるものは初めから生まれもしないし、なくなりも変化もしない。それのみが実存しています。実体は永遠なのです。それが私たちの本当の自己であり、神、真理です。それだけを求めなさい。そして実現しなさい。あなた自身なのですから」

人生の主人公は解体されるような心ではない、その奥に在る壊れることない本当の自分、アートマンであります!
心に実在性がないと分かった今、私の心はアートマンに向かっています!!
2019年、この年も師の大いなる導きに誘っていただいたと確信した1年でした。
最高の師シュリー・マハーヨーギーに感謝致します。

ゴーパーラ


The Eternal Quest Essence ― 永遠の探求 ―!!!

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この宇宙はどこから来たのかー。

私は誰か?

どこから来て、どこに行くのだろう。

ー永遠の探求 The Eternal Questよりー

 

The Eternal Quest Essence ―永遠の探求― が12/4にリリースされました。12/1のダイジェスト版に続いての公開です。

Essence(エッセンス)の名の通り、公演「The Eternal Quest」の真髄を凝縮したディレクターズカット版です!!!

ウパニシャッドの珠玉の言葉、息を呑むほどのアーサナの集中感、キールタンの溢れる神への愛!深淵なるヨーガの真髄が具現した、非常にシャープな映像に引き込まれます!

公演、映像ともにデザインされた、師シュリー・マハーヨーギーの祝福とお力に感服いたしました!心より感謝を申し上げます!

さてー

私は誰か?

その答えを私たちは果たして見出したのでしょうか!?

人生は一瞬のうちに過ぎ去る!

それ以外に知るべきものは何もない!

神に恋い焦がれ、狂い、一つになれ!

古来のヨーギー、ヨーギニーたちの魂の問いかけが、私たちの魂を揺るがせます!

 

今日12月8日は、かの偉大な主ブッダが悟りを啓かれた聖なる日です。

「私は古道を見つけ、それに従った」と主ブッダは言われましたが、この吉祥なる日に、古代より継承される永遠の真理とそれを実現する偉大なる道ーヨーガに思いを馳せながら、その精髄をとくとご覧あれ!

オーム・タット・サット オーム!

サーナンダ


秋の日は釣瓶(つるべ)落とし

私の職場は嵐山です。
仕事の合間に渡月橋のベンチで休憩していると、青い空と秋雲、流れる川と山、西に沈みゆく太陽がとても美しく、ダイナミックに展開していました。

この景色を眺めていると、太古のリシ(聖仙)の言葉が内から湧いてきました——

「この宇宙はどこから来たのか? どこへ行くのか? 私は誰か?」

スマホやテレビがなかった昔の人はこういう風景をずっと眺め、その宇宙万物の力や生命の神秘に思いを馳せたことは、とても自然なことだと感じました。

それから30分も経たないうちに、景色は一変、空は茜色に染まっていきました。

職場に戻ってスタッフにこの感動を話すと、次のことを教えてもらいました。

「秋の日が急に暮れることを、井戸の中に釣瓶(つるべ)が落ちていく早さに例えて、『秋の日は釣瓶落とし』って言うんだよ」

 

皆さんは、この宇宙万物のダイナミックな力はどこから来ていると思いますか?

リシはその思索を極め、それは「宇宙の主ブラフマン(梵)」から来ている、

そしてそれが「本当の私(我)」——

「梵我一如」であると悟ったようです。

 

ゴーパーラ


『The Eternal Quest—永遠の探求—』YouTubeで初公開❗️❗️

8月8日、『The Eternal Quest—永遠の探求—』の映像がYouTubeで初公開されました!!!
この作品は、2015年11月3日に京都国際交流会館で行なわれたイベントにアーサナ・瞑想のデモンストレーションとキールタン(インドの歌)で出演した時のものです。

『The Eternal Quest—永遠の探求—』というタイトルを見ると、何だか壮大なテーマだなと感じる人も多いかもしれません。
確かに歴史を振り返ってみると、「永遠の探求」というものが人類の大きなテーマであることが窺い知れます。
秦の始皇帝が求めた不老不死の薬、死後も幸福が続くようにと作られた巨大なピラミッド、理想郷のユートピア思想やオアシス都市の建設など、世界のあらゆる国や地域で永遠に続く命や幸福を求めていたことは明らかです。
インドにおいても、それは例外ではありませんでした。
では、どこに求めたのか?
『The Eternal Quest』の冒頭、インド古代の詩『ウパニシャッド』が朗誦されます。

聖者たちは瞑想に没入し、自らの内に永遠なる真の自己、自ら光り輝く唯一の神を見た
彼は唯一にして第二のものをもたない。彼は宇宙の主であり、一切万物の主である
真実のところ、あなたは神と一つである
あなたはこれを知らなければならない
それ以外に知るべきことは何もない

インドの聖者たちは、外界に永遠のものを探したり、新たにつくり出そうとしませんでした。
瞑想によって、自らの内に「永遠なるもの」を発見したのです。
それが「真の自己」であり、また別名「神」といわれるものだったのです——

私自身、3年前に『The Eternal Quest』のアーサナ・瞑想のデモンストレーションに出演させていただき、それが一つの転機となって「真の自己」「神」を求める思いが芽生えてきました。
ただ最近、この暑さで瞑想に集中できない時がありました。
そんな時、心は涼しく快適な環境「オアシス」を求めてしまいます……
しかし瞑想の途中、『The Eternal Quest』で朗誦された詩の一節が思い出されました。

胸と頸と頭とを真っ直ぐに保って正しく坐り、外に出ようとする感覚器官を内に向けよ

私は再度、姿勢を正し、心を内側に向けて瞑想を続けました。
その後、暑さのことは忘れ去られていました。
どうやら本当のオアシスは、心の奥にあるようですね😑🎐(本当にそう思っている?!と突っ込みたくなりますが……)

最後になりましたが、『The Eternal Quest—永遠の探求—』は師シュリー・マハーヨーギーが総合監督として全面的に協力してくださって完成に至った、まさに師の息吹と恩寵が吹き込まれた貴重な作品です。
まだまだ暑い日は続きそうですが、師に感謝を捧げ、ピリッとするアーサナと瞑想、清流のように透明で美しい神の歌キールタンの映像をご覧になって、この夏を乗り切っていただけたらと思います🙏

ゴーパーラ


師 グルとは

人間何をするにしても一人で全て切り開いてきたという人はいないでしょう。産まれた瞬間から親に育てられ、就学して先生に教わり、働いて上司に指導され。

習い事も師と仰ぐ人を敬い、教えを授かる事で上達します。

ヨーガでもグルという師から、日々の修行法や生活における心構え、そしては最終的に悟りに至る道を教わります。

グルとはどんな存在なのでしょうか?また、グルと弟子の関係とはどういったものなのでしょうか?

私が大好きな聖者ラマナ・マハリシのグルについての、とても興味深い教えがありましたのでご紹介したいと思います。

「神・恩寵・グルはみな同義語です。すべてに遍在する神は愛する帰依者を哀れに思い、自らを帰依者の次元に相応させた姿で現れ真理を説くのです。そして教えと交流によって帰依者の心を浄めます。ところが帰依者は彼を人間だと思い、二つの身体の間に何らかの関係を結ぶことを期待します。あなたは自分を身体だと思っているため、グルもまた身体を通して何かをしてくれると思うのです。しかし神であり真我の化身であるグルは帰依者の内側に働きかけ、彼が道を間違っていることに気づかせ、内なる真我を実現するまで正しい道へと彼を導きます。グルは内面と外面の両方に存在しています。外面からは心が内面に向かうように後押しをし、内面からは心を真我に引き込み静かになるように助けます。」

いかがでしょうか?思っていたグルのイメージを遙かに飛び越えていませんか?

私がヨギさんとお目にかかれた経緯を思い起こしても、もはやたまたま縁あって京都にいらした先生と生徒の関係などではなく、もっともっと深遠なそれこそ恩寵としか言いあらわせない絆、巡り合わせを感じてしまいます。

なぜ私はグルと出会ったのだろう?

私は幸せになりたかった。時間やお金、他者との関係で変化するような幸せでなく、決してなくならない永遠の自由と安住をもとめていた。はたしてそんなものがあるのか?と思いながら。これは辛かった当時の状況から逃げたかったという反射の対応であると同時に、私という存在の本質からあふれる、原点への回帰願望だったのだと思います。

そして時期と準備が調ったタイミングで、私はヨギさんにお目にかかりました。

真理への願望が生まれたとき、グルが現れた。真理を実現するのにグルは不可欠だから。

以下太字は『悟り』の中での、シュリー・マハーヨーギーの御言葉です。

グルと弟子の関係は一般的な社会における教師と弟子の関係でもなければ、取引でもありません。ただ、真実の愛によってのみ成立するものです。(愛とは他者に自らを捧げるという行為でしたね!)

グルの直接的な意味は、闇を取り除く光、つまり無知を取り除く真実という意味です。すでに真実の光は、それぞれ皆の中に在ります。ただちょっと邪魔をしている影があるだけ。そのために外からの光が必要な時もあります。その闇が取り除かれるまでの間を弟子と呼びます。それが実現すればグルと弟子に違いはありません。不異(おなじ)・一(ひとつ)です。(私の真我実現に必要な無知が取り払われたなら、ヨギさんはもうグルではなくなるの?……)

まず弟子は、悟りを求めなければならない。そして真実の教え、正しい教えを、真実のグルから学ばなければならない。さらに真剣さと情熱をもって、学びと修行を実行しなければならない。これらは最も中心的な心と行動のあり方です。さらにもう少し繊細なことを言えば、素直であること。素直な心、謙虚。(これに関しては、常に常に念を入れながら日々精進しています!)

自分の体験を一つ一つ検証しながら、ラマナ・マハリシとシュリー・マハーヨーギーの御言葉を読み解くと、私達と同じ現代の日本に住まわれ、私達と同じものを食べ、同じ楽しみを喜ばれるヨギさんの存在と、八十数年前にインドで語られたラマナ・マハリシの教えで明かされるグルという存在の驚くべき一致に改めて平伏してしまいます。

どちらも、“知っている側”から語られた事実としての真理の手触りが感じられます。同時に、私達のグルという存在が、どれほど崇高な顕れであるかということに畏敬の念を禁じえません。

私が肉体という粗大な身体をまとって、この現象世界に生まれ落ちた末にどういう因果か真理を求めた。そうしたら、神は自らを人間の形に顕してグルとして目の前に現れた。行く先々で愛という無償の働きで私に教えを授け導かれるグル。ともに歩む沢山の素晴らしい兄弟姉妹も授けてくださった。かたや真我という自らの本質に自分の力では気づけずに何度も何度も転生を繰り返す私。

これは冷静に考えるとそら恐ろしいことです。もしこのチャンス(今生)に、この期に及んで言い訳や、迷いを口にして進まなかったら、果たしてまた何生涯私は転がり続けるでしょうか?

神は一切取引をしません。神にはただ、愛し、近づくことだけを考えなさい。すべてを神に任せるのです。あなたの痛みも苦しみも、喜びも楽しみも、命も!できますか?神に接する時はそのような真剣さをもたなければいけません。(はい。師よ、もちろんです。とっくに覚悟は決めています。どうぞ受け取ってください。)

Caitanya


渇望(タンハー)

「アッ、アイスコーヒー!」

私は台湾で開かれるサットサンガに参加するため、早朝に日本を発ち、バスと地下鉄を乗り継いで直接、会場のジョイフルリビングに向かっていた。
3月後半にもかかわらず、南国の台湾は暑く、汗が止まらなかった。
普段は夏でもアイスコーヒーはめったに飲まない。
でも私は思わず、会場近くのカフェでアイスコーヒーをオーダーした。
私の喉は、冷たいアイスコーヒーを渇望していたのだ。

サットサンガに参加し、台湾グルバイと交流した後、師の滞在している宿に着いた。
ミラバイさんが夕食のカレーを準備してくださっていて、皆でいただいた。
宿にはミラバイさんの他、ニューヨークからアーナンダマーリーさん、また前日から一緒に住んでいるラームダースも京都から来ていた。
食後は師の淹れる極上のドリップコーヒーをいただき、至福のひと時を満喫。
リラックスした中、会話は自然とサットサンガのようになっていった。
約2週間後に春の祝祭が行なわれることもあり、その内容は「ブッダ」についてであった。
ブッダが最初に説いた教えは「苦集滅道」であったといわれている。
感情を挟まず心の苦しみを観察し(苦)、その原因を瞑想によって見極め(集)、執らわれを無くし(滅)、実生活でその無執着を実行する(道)――
このブッダの苦集滅道の教えを、時代を超えて私も実践していた。
その結果、心の執着は弱まり、真理への思いが高まっていた。
しかし、どこか深まりが足りないということも感じていた。
この夜、苦集滅道の「感情を挟まずに心の苦しみを観察すること(苦)」に関して、師は次のように強くおっしゃられた。

ラームダース「瞑想を深めていく時に、まず止観というのが大切ですよね。何の思い込みも挟まずに、とにかく観察を続けていくことで、どんどん原因の部分に深く入っていくというか」
ヨギ「そうできたら。誰が止観しているのか? 一方では心やろ。もう一方では心を見るわけやろ。それは矛盾した話やん。同じ一つの心が二つのことはできない。だからそんな悠長な止観みたいなものはできない。もっと苦しみながらと言ってもおかしいけれども、のたうち回るくらいの切羽詰まった直接的な体験をしないとだめ」
ゴーパーラ「何の感情も挟まずに心を見ることが大事だと先輩から教わったのですが、そんなの無理?」
ヨギ「感情挟んだらええねん。もっと感情挟んだらええねや」
ゴーパーラ「のたうち回るぐらい」
ヨギ「そうや。感情が無くなるというのは、全部終了して初めて無くなるんやから。それまではついて回ってるんやから。心の働きそのものが思考とか感情とか、そういうものによって成り立っているわけやから、それを無くすなんていうことははっきり言って不可能や。だからもう一方では、必死になるとか言うやんか。それは、のたうち回るっていうことやで。格好もクソもないねん」

確かにそうだ、病気の正確な診断ができるのは優れた医者だけである。
患者が患者自身の病気を冷静に診断し、治療することなんてできない。
病気に絶望し、病気を治したい、健康な状態に戻りたいという強い思いが患者自身から湧き出てこない限り、医者を探すことはもちろん、治療やリハビリは不可能だ。
私は、はっきりと自分に足りないものが感じられた。
それは、のたうち回るくらい切迫感をもって真理を求めるということ!
そうでないと苦しみは完全に滅しない。
薬をちょこちょこ飲んでももう意味がないのだ!
師は、さらにこう言われた。

「のたうち回わるというのはタンハー。渇望を伴いながらもがくとかね。もがくというのは、単純な話はほら、修行者が水の中に頭をつけられて息ができひん、もがくやんか。何がしたいんやって、息がしたいだけやて。まさに水の中に頭突っ込まれたあの状況や」

(続く)

ゴーパーラ


ラーマクリシュナの福音

みなさん、こんにちは
もうすぐ桜の季節ですね。桜といえば、「花祭り」、四月八日はブッダの御聖誕日です。ブッダはインド北部のルンビニ園でお生まれになりました。そこはたくさんの花に囲まれた美しいところであったということで、御聖誕日にお花をお供えするようになり「花祭り」と呼ばれるようになったといわれています。そしてその日は、「サナータナ・ダルマ アヴァターラ・メーラー 神性示現大祭」がプレーマ・アーシュラマで開催されます。アヴァターラとは神の化身、神人であります。この世で苦しんでいる私たちの救世主として、慈悲深くもこの世に顕れてくださいました。その時代時代に顕れた神の化身の方々の顕れをお祝いする大祭です。このお歓びの日が待ち遠しいですね。

 

さて今日も「ラーマクリシュナの福音」からご紹介いたします。

ある日の土曜日、Mがダクシネシュワルに着いたのは朝八時ごろだった。シュリー・ラーマクリシュナは自室の小さい寝台の上に座っておられた。床に数人の信者が坐っている。
ラーマクリシュナ「お前は巡礼に出るつもりなのか」
ゴパール「はい、少し遍歴してまいりたいと思います」
ラーム「師は、人はさまざまな聖地を訪れるサドゥーであった後に、旅への願望が十分に満たされると、一カ所に坐っているサドゥーになるのだとおっしゃっています」
ラーマクリシュナ「神は『そこに』おいでだと感じるあいだは、その人は無知だ。しかし神は『ここに』おいでだと感じると知識を得るのだ。ある男がタバコを吸いたいと思った。炭に火を付けてもらおうと隣の家を訪れた。真夜中のことで家人はもう眠っていた。さんざん戸を叩いた後、誰かが出てきて扉を開けた。そして、『おや、どうしたのか』と尋ねた。『分からないかね、私のタバコ好きは君も知っているだろう。火をもらいにきたのだよ』と男が言うと、隣人は『ハハハ!君はまったくりっぱな御仁だ。わざわざここまでやってきて、戸を叩いて。まぁ、自分の手に火のついたランプをさげているではないか』と言ったという。(みな笑う)人が探し求めるものは彼のすぐそばにあるのだ。それでも彼は、ここかしこさまよい歩くのだよ」 

現代でも「自分探しの旅に出る」という人の話をよく聞きます。そして私たちも長い心の旅を続けてきました。旅に出て、どこまで本当の自分を知ることができたのでしょうか。本当の幸せや自由はそれによって得ることができたのでしょうか。旅の終わりに私たちはヨーガと生涯の師に出会うのだと思いました。ヨーガは真実を実現させるもの、自分自身に内在する本当の自己を目覚めさせるものであると師から教えていただいています。 

真実を知った存在がインドには連綿と顕れてきました。そして彼らの達した、あるいは彼らが目覚めた真実の証言はこうです。『かつて、この全宇宙の背後にあって、偉大なる存在として昔から求められていたものと、この体の中にあって、私という真実の存在とは同じである』。その真実は言葉も届きませんし、形もありません。神という言葉さえ届きません。言えることは、それは『ただ在る』というものです。それだけがリアリティです。それがあなたです。真実は既に私たちの中に在ります。ただちょっと心がそれを覆い隠して邪魔をしているようなものです。無知という暗闇を払い除けなければいけない。そうすれば、もう既に在る真実は独りでに輝くでしょう。

               サット・グル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

本当の自分、本当の幸せや自由はここかしこを探さなくても、もう既に自分の中にある。それを思い出すために私たちは生まれてきたのだ。この教えがどれだけ、私たちを勇気づけ、前に進ませてくれていることでしょう。

時空を超え、真実の教えに触れる、このありがたさ。
人間の魂を揺さぶり、目覚めさせる、神の化身(アヴァターラ)に勝利あれ! 

ダルミニー


ラーマクリシュナの福音

みなさん、こんにちは
今年はいつにも増して寒さが厳しいように思いますが、いかがお過ごしでしょうか。
もう一月も終わりですね。一月は睦月といいますが、これはお正月に家族とか親類が集まり、睦み合う、親しくする、仲良するという意味で「睦み月」が「むつき」になったという謂われがあるそうです。なんともいい響きで優しい心持ちになりますね。

さて、今日も「ラーマクリシュナの福音」よりご紹介いたします。

冬であった。太陽は昇ったばかりで、河は上げ潮で北に流れていた。朝八時、シュリー・ラーマクリシュナとM(マヘンドラナート・グプタ)は境内北端の松林で話し合っていた。
ラーマクリシュナ「ナングターがトラとヤギの話をしてくれた。ある時、雌のトラがヤギの一群を襲った。漁師が遠くからそれを見て、彼女を撃ち殺した。トラは妊娠していて、いまわの際に子トラを産み落とした。子トラはヤギの仲間に入って成長した。最初は雌ヤギの乳を飲み、メエメエと鳴いた。徐々に子トラは大きなトラになったのだが、相変わらず草を食い、メエメエと鳴いていた。ある日、恐ろしいトラがこの群れを襲った。群れの中に、トラが一匹、草を食い、自分が近づくとヤギたちと一緒に逃げるのを見て驚いた。このトラは草を食べているトラを捕まえ、水辺まで引っ張っていき『さあ、水に映っている自分の顔を見てごらん。ね、お前も私と全く同じ丸いトラの顔をもっているだろう』と言った。次に、一片の肉をその口に押し込んだ、草を食ってきたトラは肉を食うことを拒んだが、やがてそれをうまいと思った。恐ろしいトラは『なんと恥ずかしいことだ、ヤギと一緒に草を食べていたとは』と言った。するとそのトラも本当にそれを恥ずかしいことだと思ったという。
草を食い、メエメエと鳴くというのは、『女と金』を楽しみ、普通の人間のように振る舞うということだ。新しいトラと共にそこを去るのは、自分の霊意識を目覚めさせてくれるグルと共に避難し、彼のみを我が身内と見るというのに似ている。自分の顔を正しく見るというのは、自分の真の自己を知ることである」

 シュリー・ラーマクリシュナの例え話はとても分かりやすいですね。ついつい話に引き込まれてしまいます。私たちは自分のことをこの身体や心だと思っています。ヤギだと思っているんですよね。でも、私たちはこの身体でも心でもない、その奥にある純粋な意識、絶対不滅の存在だと、師はいつも私たちを励まし、導いてくださっています。

心は常に動揺し、それによってまた心はかき乱されます。真理を学ぶことによって、真理への熱望によって心の波を静めてください。その状態が堅固に持続するなら、その時あなたは真実の自己に目が覚めるでしょう。
                                                            サット・グル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

真理を学び、ヤギではなく、トラとして一緒に生きていこうではありませんか。

ダルミニー


絹の糸

去年の御聖誕祭で頂いたプラサード(神のお下がり)は、ヨギさんの絹のお召しものから作られた、匂い袋でした。

その匂い袋を頂いた時、以前のサットサンガで「自分のハートと神の足首を絹糸で結びつけておく」というラーマクリシュナの教えについて、ヨギさんが答えられていたことを思い出し、それが書かれていたパラマハンサの記事を読み返していました。

『十九世紀においては、まだ化学繊維というものはありませんでした。天然の繊維としては綿の糸、麻の糸、絹糸、それから毛糸、このあたりが主要な糸で、これらによってさまざまな衣服や絨毯や繊維製品は作り出されていたのです。またロープとかそういうものも含めて。この中で最も強い糸は何かといえば、絹なのです。最も繊細で、最も上品で美しいにもかかわらず、その強度もまた絹が一番強い。(一部省略)最も尊い絹糸はいちばん細く繊細だけれども、その繊細な気持ちをもって、しっかりと結びつけておきなさい。そうすれば、絹糸は強いから切れることがない。けれども心が揺らぐようなことがあれば、それはすぐに伝わって神の足首を傷つけるようになるよという意味合いが含まれていると思う。』『機関誌パラマハンサNo,88号』より抜粋

大切な、大切な、ヨギさんの御足を傷つけてしまわないように。

どんな人に対しても、どんなものに対しても、神だけを見つめて繊細に、丁寧に、大切に思って行為したい、そう思いました。

まだまだ心は今までの習慣に引き込まれてしまうこともあるけれど、少しでも理想に近づけますように・・・・・・。時々ポケットの中に手を入れて、絹の感触を確かめています。