聖典」カテゴリーアーカイブ

ヨーギーの日常

ある時、ヨーギーは自分の心に起こるすべての思いを制御しなければならないということを本で読んだことがあります。その時、すごいな〜と思う反面、大変だなぁと思いました。

思いは絶えず無秩序、無制御に湧き起るし、とてもじゃないけれどすべての思いは制御できそうにありません。

でもある時、師は言われました。

自分の体の行為、それから言葉、そしてまた心が何を思っているかという想念は、すべて知られている。知っていなければいけない。そうでなければ制御できない。そうでないと、単に習慣が我が物顔で体を支配してしまう。

これを伺って、「単に習慣が我が物顔で体を支配している」様子を思い浮かべると、何だかぞっとしました。

でも自分の行動をよく観察すれば、習慣的に無条件で行動し、言葉を話し、思いが湧き上がっているようです。実態を知ることから始め、ここにヨーガの条件を当てはめて習慣を変えていく、これが「識別」といわれる実践です。

知らず知らずについた習慣と言いますが、よくよく注意して自分自身の行動と言葉と思いを検証してみなければなりませんね。

ヨーギーとは、そんなとてつもないことをさり気なくしているのですね。

サーナンダ


バーガヴァタ・プラーナ 悪魔バウマの解放

みなさま

新年明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

今年は酉年ですね。酉年は「とりこむ年」といわれ縁起のいい年です。運気を取り込み、“絶好鳥”な実りある年といたしましょう。というわけで、鳥といえばクリシュナの乗り物である聖鳥ガルーダが有名ですが、今回は「バーガヴァタ・プラーナ」から、主クリシュナが聖鳥ガルーダに乗り悪魔バウマを退治した物語をご紹介しましょう。

悪魔バウマが水神ヴァルナの王座から君主の象徴である傘を力ずくで奪い取り、神々の母であるアディティから耳飾りを略奪し、さらに天界のメール山にあるマンダラ山頂のマニパルヴァタを占領してしまったことを、天界の王インドラ神から知らされた主クリシュナは、妻サティヤバーマーと共にガルーダに乗り、悪魔バウマが治める都まで飛んでいかれたのでした。

その都の四方は要塞で囲まれていて、火と水、風の帯がその周囲を囲み、バウマの従者である悪魔ムラの造った罠があちこちに仕掛けられていました。主クリシュナはこん棒と円盤(スダルシャン)を使って、そのすべてをことごとく破壊し、また五つの頭をもつ悪魔ムラをもスダルシャン・チャクラを使って、その頭を断ち落とされたのでした。

悪魔ムラとガルーダ

悪魔ムラとガルーダ

ムラには七人の息子がいて総攻撃をかけてきましたが、ハリ(クリシュナ)は鋭い矢を三本ずつ射て、それらをことごとく粉砕されました。さらに背に主を乗せる聖鳥スパルナ(ガルーダ)は、眼下を駆ける象たちを翼でなぎ倒していき、くちばしや翼、爪で攻撃するや、象たちは完全に狼狽して、慌てて都まで退却していったのでした。こうして自軍が壊滅するのを見た悪魔バウマは、稲妻さえも凌ぐほどの勢いで、ガルーダめがけて槍を投げつけました。しかし聖鳥ガルーダは並の鳥ではありません。その槍は、まるで象の身体に花環が触れたほどのものでしかありませんでした。攻撃が完全な失敗に終わったのを知ると、悪魔バウマはクリシュナめがけて、手に構えた槍を投げつけんとします。その瞬間、シュリー・ハリは剃刀のように鋭い円盤を投げて、象に乗った彼の頭を切断されたのでした。

その後、あらゆる富に囲まれた悪魔バウマの宮殿に入られたクリシュナは、バウマが諸国の王たちを滅ぼして連れてきた一万六千百人もの王女たちが幽閉されているのを発見されたのです。自分たちの部屋へ入って来られた美しい英雄の姿を目にすると乙女たちは完全に心を魅了されて、主を全員が夫として求めたのでした。
「どうか、この方が私の夫となられて、創造主がそれに賛成してくれますように」
そんな王女たちの思いを知られるとクリシュナは、王女たち全員の身を清めさせて、美しく着飾らせ、最高の宝石や馬車、馬などをもたせて、駕籠に乗せ、ドワーラカーへと連れていかれたのでした。

幽閉されていた王女たちは美しい主クリシュナに惹きつけられます

幽閉されていた王女たちは美しい主クリシュナに惹きつけられます

全能の主はその後、自らの普遍性と完全性を保ちながら、王女たちと同じ数にご自身を顕わされて、各宮殿で結婚式をあげられました。自らの祝福において完全であり、想像もできぬわざを為されるクリシュナは、素晴らしい宮殿にて、全く同時に姿を現して、家長の義務を立派に果たし、まるで普通の人間のように振る舞いながら、女神ラマーの部分的顕現である彼女たちと楽しく暮らされたのでした。王女たちには何百人もの侍女がいたものの、主が宮殿に来られるや、自分で主を迎えにいき、礼拝の品や席を捧げ、主の御足を洗い、キンマの葉を捧げたり、扇で風を送ったり、白檀や花環を捧げ、主の髪型を整えたり、沐浴の準備をしたり、食事を提供したりして、主に奉仕をしていったのでした。

シュリー・クリシュナは聖典の中でおっしゃっています。

私の献身者はすべての人に憐れみ深く、そして誰にも敵意を抱かない。彼らは忍耐強く、真理を唯一の力としている。また彼らは汚れなく、すべての生き物たちを平等な眼で観て、すべての人々の利益のために働く。ハートが欲望で汚されず、自制心があって、心優しく、純粋で、エゴの意識がない。また寂静で、節度があり、心をよく制御し、私を拠り所として、絶えず私を瞑想している。

主クリシュナのお妃たちは、主クリシュアの献身者であることに間違いありません。これは、人間の営みの理想の姿を現しているのだと思いました。私たちは家族に対して、また他者に対して、どれくらい献身ができているでしょうか。この物語を絵空事だと片付けてはいけないのだと思いました。
師は、私たちの本当の自己は、純粋な意識、存在、アートマン、または神と呼ばれると教えてくださっています。そうであるなら、私たちすべてのうちに主クリシュナがおられるのです。その思いが私たちを他者への献身へと向かわさせてくれるのだと思いました。そして悪魔は無知やエゴの象徴です。ばっさばっさと悪魔を切り刻む主クリシュナの栄光を、この目で見てみたいものだと素直に思うのでした。

ダルミニー


シュリーマッド・バーガヴァタム  チトラケトゥの物語

%e3%82%af%e3%83%aa%e3%82%b7%e3%83%a5%e3%83%8a-29

人としての誕生は実に祝福された誕生です。すべてのさらなる成長のもととなる自己認識への一つの進化だからです。人間のみが最高の真理を知り、完成に達することができるのです。しかし、あぁ自己にとって何が有益かを知ろうとするものは実に少数です。真の自由を望む者はさらに少なく、真理を学び自由を獲得するものはもっと僅かです。そしてハートを神と合一させ、至高の善に達した平穏なる魂は、まことに希です。私が説こうとしている真理を示す、古代のある物語を教えましょうとスータは話し始めました。

ある時、シューラセナに、チトラケトゥという有名な王が住んでいました。彼の心の欲望はただ一つを除き、すべて満たされていました。しかしただその一つのために王は幸福ではありませんでした。巨万の富も、美しい妻も、若々しい活力も、彼を満足させることはできませんでした。王は息子を望んでいたのでした。

ある日、偉大な聖者アンギラが宮殿にやってきました。彼は王の胸に悲しみがあるのに気付き、その原因を知ると同情して、彼と王妃に祝福を授けました。そして別れ際にこう告げました。「おお王よ、あなたには息子が与えられるだろう。しかし彼はあなたにとって、大きな喜びとともに大きな悲しみの原因となるだろう」

やがて男の子が誕生し、王の喜びは限りがありませんでした。すべての人の心にも喜びがありました。しかしその喜びは悲しみへと変わりました。息子は嫉妬深い妃たちによって毒を飲まされ死んだのでした。

王は苦悩に耐えきれませんでした。そこへ再び聖者アンギラが、今度は聖なる予見者ナーダラと共に現れ、このように話しかけました。
「おお王よ。誰のためにそのように悲しんでいるのでしょうか。あなたが息子と呼んでいた者は死んではおりません。魂たちは川の流れる砂のように、時という流れに運ばれて互いに出会い、そしてまた別々に連れ去られます。肉体にのみ誕生があり、そして死があるのです。しかし魂は不滅です」

チトラケトゥ王は二人の偉大な聖者の御前で大いなる平安を感じ、尋ねました。
「おお聖者方よ、あなた方はどなたでしょうか。あなた方のような聖者は地を彷徨いつつ、無知と不安のあるところに知識と平安の光を放っておられます。どうかすべての無知が消えますよう、その光を私にもお注ぎください」

聖者アンギラが答えます。
「以前あなたにお会いした時、私は最高の覚醒を授けることもできたのです。しかしその時、あなたの唯一の望みが息子であったため、私は息子を祝福したのです。しかし、今やあなたは、息子を欲することの意味を知ったはずです。人の生のすべては無常です。富も健康も家族や子供たちも、それらはすべて消えゆく夢に過ぎません。悲しみや苦しみ、幻想や恐れもまた、つかの間です。誕生や死など、人生の多くの二元性を実相と見ることを捨て、識別することを学びなさい。一なる真理のみを知り、平安を見出しなさい。私はあなたに聖なるマントラ、神の御名を授けましょう。このマントラを繰り返し唱え、それについて瞑想しなさい。自己を制御し、心を集中して神を思いなさい。すぐにもあなたはすべての悲しみを超え、平安を見出すでしょう」

すると死んだ息子の精霊が偉大なる聖者ナーダラの御前に現れました。ナーダラは精霊に「もう一度、死んだ身体に入って、地上での与えられた寿命を全うし、両親や友人を喜ばせてください」と頼みました。しかしその精霊はこう言いました。
「母とは誰でしょうか。父とは誰でしょうか。私には誕生も死もありません。わたしは永遠なる意識です。魂はカルマに支配されて、多くの生と多くの身体とを旅します。無知の故に肉体に縛られ、この世のさまざまな人間関係を経験させられます。しかし私は自分自身が誕生も死もない普遍の意識であることを悟りました。私はこの世の愛情や善悪に触れられても、影響されもしない永遠の意識です。私は永遠の目撃者、私は実に彼である」こう言って精霊は消え去ったのでした。

嘆き悲しんでいた両親は執着や悲嘆から解放され、二人の偉大な聖者の叡智によって慰められ、その御足に平伏したのでした。チトラケトゥ王が偉大な聖者に教えられた霊性の教訓を実践し始めると、すぐに心は覚醒され愛なる神のヴィジョンを観ました。修行を続け平安と静寂を得た王の心に、ますます大きな覚醒が訪れ、ついには自己とブラフマンとの合一を達成したのでした。

ヨーガと瞑想の修行に熟達した者は、人生の目的とは神との合一を得ることであると知るようになる。

師は説かれます

人間の本質というものは一体何なのか、そしてその本質と心と身体の関係はどうなっているのか、これを明らかにし、正しく理解することによって、肉体から生じた苦しみ、あるいは心が作り出す苦しみや悲しみ、こういうものを正しく解決することができます。私たちの本体というのは、この身体でもなければ心でもなくその奥にある魂である。このことを知り、悟ることが人間の全歴史の究極です。

ヨーガを学び、死を正しく理解することによって、死は悲しむべき不幸なことではない、死にゆく人の次の生での幸せを祈ることができるのだと思えるようになりました。そして私たちの本質を知ること、私たちの真理を知ることが、この誕生を本当に祝福された誕生とすることになると、この物語は教えてくれているのだと思いました。

ダルミニー

 


シュリーマッド・バーガヴァタム

みなさん こんにちは

今回はシュリーマッド・バーガヴァタムよりプラフラーダの物語をご紹介します。

%e3%82%af%e3%83%aa%e3%82%b7%e3%83%a5%e3%83%8a-27

はるか昔ナイミシャの森に何人かの偉大な賢者たちが住んでいたある日彼らが朝の沐浴と祈りと瞑想を終え、ともに座っていたところへッグラスラバーとい名の有名なスータ(神話を朗唱したり解説したりする高徳な吟遊詩人たちの階級の一人)がやって来た
おお罪なき御方よあなたは実に自由な魂であられグルの恩寵によってすべての聖典の精髄を知っておられますですからどかすべての人たちの助けとなるよな真理の教えを私たちにお示しくださいそしてまた、シュリー・クリシュナの聖なるご生涯についてもご存じのことをお話しください」
スータはこのように懇願され、喜んで賢者方の要望を受け入れ物語を語り始めた

ヒラニャカシブはダイチャ(阿修羅)族の王でした。彼らはデーヴァ族すなわち神々と同じ祖先から生まれましたが、常に神々と戦いをしていました。長い年月ののち、ヒラニャカシブはデーヴァ族を征服し、三界……すなわち人と動物が住む中間の世界、神々や神々のような者の住む天の世界、そしてダイチャの住む下位の世界……を支配しました。ヒラニャカシブは驕り高ぶり、自分の他に神はいないと宣言しました。そして全能のヴィシュヌを礼拝することを厳しく禁止し、今後すべての礼拝は自分のみに捧げられるべきであると命じました。

さて、ヒラニャカシブにはプラフラーダという愛する息子がいましたが、どうしたわけか幼少の頃から主ヴィシュヌを敬愛していました。王子は主ヴィシュヌへの帰依の道について、学友たちに説くことに時間を費やしました。王は全世界から払拭しようとしている悪が、まさに自分の家庭から育とうとしているのを見て怒りに狂い、愛しい妻が嘆き悲しみ押しとどめるのも聞かず、王子に死刑を命じました。先の尖った武器で叩いたり、象で踏み殺そうとしたり、崖から突き落としたり、毒殺、火あぶり、餓死、壁打ち、魔術、あらゆる方法を試しましたが、ハートにヴィシュヌが住むプラフラーダを何ものも害することはできませんでした。

プラフラーダ「ヴィシュヌが全宇宙の主であられ、彼には始まりも終わりもなく全能で偏在であられます。したがってヴィシュヌのみが崇拝されるべきです」
ヒラニャカシブ「ヴィシュヌが偏在であるなら、なぜあの柱の中にいないのだ。いるならお前を守らせてみろ」
と叫びながら剣を振りかざし、柱を叩き切りました。すると轟きのような声がして、おお見よ!半分ライオン半分人の恐ろしいナラシンハの姿で主ヴィシュヌが現れたのです。そして長い戦いの末に暴君ヒラニャカシブは殺されてしまいました。

プラフラーダが主の御足に平伏し、讃美と献身の歌を捧げると神の声が聞こえました。
主ヴィシュヌ「求めよ。プラフラーダ、何でもほしいものを、お前は私の愛しい子だ。何でも望むものを求めよ」
プラフラーダ「おお主よ、無知なる者がこの世の事物に対してもつのと同じくらいに強烈な愛を、あなたに対して、しかもただ愛のためにもつことができますように」
主ヴィシュヌ「プラフラーダよ。私の献身者は、この世のものもあの世のものも決して何も求めはしない。心を私に集中させ、宗教的な善をなせ、そのようにして生き、そして身体が滅したのちお前は私のもとへと至るであろう」
主ヴィシュヌはこのようにプラフラーダを祝福して消え去りました。そして、ブラフマーを始めとする神々が、プラフラーダをダイチャ族の王座につけ、それぞれの惑星へと戻って行きました。

エゴや欲望、執着のとりことなった者は、分別を失い、愛する息子までも殺そうとするのです。現代の人間にも同じことが当てはまるのではないでしょうか。心からエゴや欲望、執着を取り除き、心を神への愛や真理で満たしていけば、さまざまな悩みや苦しみから逃れることができる、そして人としての生きざまも神聖なものとすることができる、そのことをこの物語は教えてくれているのだと思いました。

私たちも心を神への信仰や真理でうめつくすことができますように。

ダルミニー


明日はパラマハンサ発刊日

隔月奇数月10日は機関誌『パラマハンサ』の発刊日です。『パラマハンサ』はMYM会員として年会費を払われた方に無料配布している会報誌になります。

パラマハンサ表紙
1997年から発刊されているので今年で19年になります。

『パラマハンサ』は現代の聖典、真理の教えが書かれています。内容はサットサンガ(真理の集い)での質疑応答、ヨーガの教え、ヨーガを学ぶ者の実践談などが書かれています。何度も読み返すことで学びは深まります。

ヨーガを始めた頃、いくつかある『聖典』は時代背景が違ったり、国や文化が違うことで読んでいてもどこかのおとぎ話を読んでいるかのような感覚がありました。パラマハンサを読むことで、ヨーガの教えをもっと具体的に自分のこととしてとらえることができたと思います。

自分も同じ悩みや苦しみがあると質問者に同調し、それに対する教えを読むと、まるで自分が教えを授かっているかのような気持ちになりました。先輩方の具体的なヨーガの歩みを知ることで、日常の中に実践するヒントを見つけ、真似をすることで少しずつヨーガを理解していったところがあります。

ヨーガを始めた年の夏、かじりつくように過去の『パラマハンサ』を読みふけったことを覚えています。軽く持ち運びができるので肌身離さず持ち歩き、少しでも時間があるとどこででも読んでいました。それはまるで乾いたスポンジが水を吸収するかのように真理の教えは私の身体と心に染み渡り、どこにいても何をしていてもヨーガの教えに浸っていたことを覚えています。とても幸せで忘れがたい夏です。

会員の方は明日を楽しみにお待ちください。そして、まだ読んだことがない方はクラスでもお見せしますのでぜひ声をかけてくださいね。きっとあなたがヨーガを深めるヒントがそこにあると思います。

ブログ村のクリックをお願いします。

 


ヨーガの実践 「ラーマーヤナ」

皆さん、こんにちは ダルミニーです。

今回は久しぶりに「ラーマーヤナ」の「ハヌマーン、ランカーの都城でシーターを探索する」の章をご紹介します。

森に追放されたラーマたち一行は、森の中に住む聖仙たちを悩ませるたくさんの羅刹(ルビ:らせつ)たちを殺し、聖仙たちを助けますが、ある日、ラーマとラクシュマナが留守をした隙にシーターは誘拐されてしまいます。(詳しい事情はちょっと割愛させていただいて)

ラーヴァナという羅刹王にシーターが誘拐されたことを突き止めたハヌマーンは、海をひとっ飛びして、ラーヴァナの住むランカー都城へシーターを探しに行きます。

そこでハヌマーンは日が沈み、夜になるのを待って、身体を小さい猫ほどの大きさに縮め、侵入していきます。ハヌマーンは、まずラーヴァナの宮殿の周囲に住む羅刹たちの邸宅を探索し、そしてとうとう羅刹王の宮殿にやってきました。

その宮殿は、あたかも財宝主クペーラ神の宮殿のように心を楽しませる広大なものであった。足首飾りの音や帯の鈴の音や、また小鼓の面を打つ音や、その他の楽器の音が響いていた。大宮殿には多くの高楼が連なり、宝石のような女官が群れをなし、とても美しい垣を巡らしてあった。その大宮殿にハヌマーンは忍び込んだ。

宝石がちりばめられた階段、黄金の格子窓、水晶でできたテラス、象牙、真珠、ダイヤモンド、珊瑚、銀、黄金でできた柱、豪華な宮殿の中でラーヴァナと美しい妻たちは時を忘れ、酒や歌舞、遊びに興じ、疲れて眠りこんでいる者もいます。これらすべての娘たちは、王仙の娘、再生族の娘、神々の娘、ガンダルヴァの娘たちなのですが、ラーヴァナが戦いの末、力ずくで奪ってきた王女たちなのでした。王女たちは最上の装飾と衣装に飾られ、連れてこられたことも忘れ、今やラーヴァナに愛情を注いでいるほどです。ラーヴァナは、とても高価な光り輝く黄金の飾りによって輝き、宝石をちりばめた王冠は素晴らしい光を放っていました。ハヌマーンは思います。

「ああ、なんと姿の美しいことか、ああ、なんと心の堅固なことか、ああ、勇気の素晴らしいことよ。この剛勇、この輝かしさ、ああこの羅刹王にはすべての吉祥の相が備わっている。もしこの羅刹王が法を犯しさえしなければ、真に強力な勇士であろうに」

ハヌマーンは、そこから少し離れた美しい寝台でひときわ美しい夫人が寝ているのを見つけます。それは実はラーヴァナの王女マンドーダリーなのですが、ハヌマーンは「若さと美しさを具えたこの女性こそシーターに相違ない」と推測し、大喜びします。そうなのです。ハヌマーンはシーターを見たことがなく、ラーマが告げた装飾品のことしか聞いていなかったのでした。しかしここでハヌマーンは考えます。

「ラーマから離れたら、あの優しい女性は眠ることなどできない。食べることも化粧することも、酒を飲むこともできないはずだ。彼女はラーマより他の人にかしずくことはできない。神々の世界にさえもラーマに匹敵する者はいない。この女性はシーターではない」と確信し、再び探し回ります。しかしなかなかシーターを見つけることができまず、まさかシーターは殺されたのではないかと不安になったりもします。でもハヌマーンは決して諦めず、ラーマやラクシュマナ、神々に成功を祈り、瞑想ののち、やっとのことでアショーカの森でシーターを見つけ出すのです。

シーターは、衣装も泥にまみれ、飢えにやつれて、哀れな様子で何度も溜息をついています。愛するラーマと離ればなれになり苦悩に涙しています。そこへ深く彼女へ恋情を抱いたラーヴァナが装飾品で身を飾り、優美な装いでシーターに会いに来ます。ラーヴァナは優しい態度でシーターを誘惑し、ランカーの女王となるように懇願します。

「私に望みのものを言うがよい。今日はそなたの最上の装飾をせよ。思いのままに、あらゆる娯楽を楽しむがよい。飲むがよい。そして愉快に過すがよい。そなたは私の寵愛を頼りにして楽しく遊び、そなたの友人も遊び戯れるがよい。わたしの繁栄と幸福を見よ。幸運な女よ。そなたは樹皮を着たラーマごときをどうしようというのだ。ラーマは勝利への道を捨てた。そのため栄光を失い、森に生活し、誓戒に専念し、いつも大地に横になる。ラーマは決してわたしの手からそなたを取り戻すことはできない。そなたはわたしと一緒に望みのまま楽しむがよい。そなたに財宝の蔵と全地球を与えよう」

シーターは悲しみに打ちのめされ、苦悩に苦しみ震えながら、ゆっくりと答えます。

「権力によっても、財宝によっても、わたくしを誘惑することはできません。太陽の光は太陽だけのものであるように、わたくしはラーマ様だけのものなのです。他の誰の者でもありません。わたくしは世界の主であるあの方の美しい腕を枕にしたのに、どうして他の者の腕を枕とすることができましょうか。わたくしはまさしくあの大地の王ラーマ様の妻たるにふさわしい女なのです。あなたがダシャラタ王の王子によって命を奪われることは確かです。あたかも巨木が雷によって破壊されるように」

何を言っても誘惑に負けず、頑として譲らないシーターに対して、ラーヴァナは二ヶ月の猶予を与え、それでも言うことを聞かなければ、切り刻んで食べてしまうぞと、ぞっとするような言葉を残して去って行くのでした。

もうお気づきのように、ここでは多くの役者たちが登場します。

欲望や快楽の誘惑に負け、美しい装飾品で身を飾り、ご馳走を食べ、遊びに興じている王女たち。

主人の命を忠実に守り、目的を果たすまで決して諦めず努力するハヌマーン。

身も心もラーマに捧げ、ただラーマだけを恋い慕い、どんな誘惑にも決して負けないシーター。

そして残忍で無慈悲、エゴと無知に支配され、自分を三界の王であると見誤っているラーヴァナ。

「人生は舞台」ともいわれ、この世の中では、さまざまな役割の人がいて、さまざまな物語が展開していっています。私たちも子供の役、学生の役、父の役や母の役、いろいろな役柄をこなしていっていても、年を重ねていっても、常に変わらない自分という本体を意識し、知っていると思います。

私はこの世界で、常により良く、誠実で、勇気のある役を演じたいと思っています。

さてあなたはこの世界でどんな役を演じたいですか?
Sita_at_ashokavana

 ダルミニー


パラマハンサ109

美しいパラマハンサはみなさまの手元に届いていますか〜?(パラマハンサとは隔月に発刊されるマハーヨーギーヨーガミッションの会報誌です)
paramahamsa109

パラマハンサには、ヨギさんの教えが弟子との問答形式で載せてあります。不思議なことことですが、自分が一番気になっていること、悩んでいること、そういったタイムリーな教えが載っていて、はっとさせられることも多いのです。

私は介護の仕事をしているのですが、長年、週に何度か、長時間一緒にいる利用者さんがいます。とても気性が激しく、一旦火がつくと大変なことになる方。最近もありました。「あーいつものパターンだな……。関わらないように、空気のように過ごしておこう」と思っていたのですが、あまりにも激しいので、ついつい心はあれこれ感想を述べだします。その人に対して「もーまたそんな文句ばっかり言ってる。そんなこと言っても仕方ないのに!やりにくいな〜」などなど。

しかも今回はそんな状況が以外と長—いこと(何ヶ月も……)続き!!!「いつまでそんなことで怒ってんの!?もういい加減にして欲しい!!!」と私の心はだいぶ動揺していました。

そんなときにふと思い出したのが「諸行無常」という真理の言葉。諸行無常の意味は、言葉の通り、この世界の出来事は常に移り変わり、永遠に続くものはないということです。「当たり前じゃない!?年もとるし、若い時とは体もお肌もぜんぜん違うし」と思うこともあるのですが、それがそれが、なかなか、以外といろいろなことを変わらないと思っていることって多いのです。

今回のパラマハンサに書かれています。

 

「身近なところに、現実的にその諸行無常というのを当てはめていかないといけない。単なる知識じゃないわけだから」

 

なるほど、なるほど、では早速、身近なところに当てはめてみましょう!

私の利用者さんについて、ずっと機嫌が悪いから「この人はホンマに機嫌が悪くて付き合いづらい人」と決めつけています。この何年かでも機嫌の悪い状態は一定期間あり、また収まって、また始まって……と返されてきたのですが、最近ではその人が笑っていても「笑っていてもどうせすぐに怒りだすんじゃないかな?」と疑って見ている自分がいることさえありました。機嫌のいい時、もしくは穏やかな時って意外と印象にない。むしろ怒っている時の方が強く印象に残っている。しかし確かに機嫌が悪い時もあるけれど、いい時もある、それは波のように変わる、それこそ一瞬一瞬で変わる。

私が彼女に持っている印象って、本当にころころ変わるその一瞬を取り上げて勝手に作り上げた印象じゃないのかな?もし、たまたま穏やかな日にしか顔を会わせていなかったら、全然違う印象を持っていたはず。

そう思ったときに、この何年かで蓄積されてきた彼女の印象、それによって出来上がった私の中にある「彼女の性格」というのは、本当に偏りがあるのではないかという気がしてきたのです。諸行無常というのは目に見えることだけでなく、心の思いにもあてはまるのですから、まず「性格」というものを断定するということ自体間違っていると気がついたのです。

そして何より、そんなにころころと変わるものを勝手に限定し、自分で付き合いづらくしていることこそバカらしくなってきたのでした。と言ってもいったん作り上げた印象を無くすことはそう簡単ではないですが、やはり諸行無常を理解しないと本当に自分が苦しめられるということは痛感しました。

 

「……からくりというかそのヴェールを剥ぐことができれば、正しく物事を見ることができる。そうするとすべては諸行無常であると、そういうふうにいろんなところから材料を検討することによって、識別というのはより完全になされていきます。そしたら心はぐうの音も出ないというか、もうそれ以上屁理屈も言えないし、つぶやきもでてこない」

 

今でもその人と話すとき、いろいろなタイミングで「印象」が蘇ってきます。でも心の中で、そんなものは諸行無常のものだ、私はそれには関わらないと無視することにしました。


『さまらさの台所』発行日

5月2日(土)は『さまらさの台所』の出版日!!
出版日を記念して、みんなで集まり、歓びを分かち合いました。
さまらさ本 お披露目
みなさん、本を手にし、ずーーーーっとを見てくれていました。
写真が美しい!美味しそう!!メニューが豊富!!!
などなどたくさんの感想があちこちから聞こえてきました。
さまらさ本 2
料理本ではありますが、この本はヨーガの精神が貫かれた、ヨーガの本です。
身体と心を元気にしていくための食事のあり方、さらに心を制御していくことを学び、ひいては食事を通り越して、どのように生きていくのかという点まで、ヨーガの理想の姿が書かれています。

シャーンティマイーに聞く
このヨーガの食事をずっと作り続けてこられ、それを教えてくださったのはシャーンティマイーさんです。日常の食事作りについて質問がひっきりなしに続きました!誰もが何かを食べて生きていますから、必ずヒントになることが書かれているはずです!ぜひお読みくださいね〜

 

 

 

 

 

 

 

 


『さまらさの台所』発刊!!

c_samarasa
4月8日には『真実を求めてーあるヨーギニーの手記』が発刊されました。みなさまもう読まれましたか〜?そして!!嬉しい新刊報告は続きます。5月2日には、『さまらさの台所』が発刊されます!!!

さまらさの活動が始まってから約10年、この本では、その間にできた美味しい料理のレシピを季節ごとに紹介しています。しかし、それだけではありませんよ!この本には、お料理だけでなくヨーガの教えもしっかりと詰まっているのです。この本は多くの人の協力で出来上がりましたが、その中でも、プロフェッショナルな技術を生かし、印刷会社さんもビックリするようなできに仕上げてくださったのがシャチーさんです。
「シャチーさーーーん!念願の『さまらさの台所』やっとできますね〜。多くの人に見てもらえるように、ぜひPRをお願いします!」

本日、アーシュラマに届きました〜〜〜〜!!

最初に手にした感触は、「ああ、本当に本になったんだな」としみじみ。そして1枚1枚めくってみました。制作者としては実はこれがいちばんドキドキしました。色、きれいに上がってるかな?レイアウトは大丈夫かな?でも、めっちゃ素敵な本に仕上げていただいていました。皆様のお手元に届くのももうすぐです。楽しみにしていてくださいね!

 さて、本のPRということですが……

さまらさスタッフとして、この本に関わらせていただけたことは、本当に歓びですし、不思議な気持ちでもあります。思えばヨーガを始めた頃、料理なんて全くできなかった私が、いつの間にか大きな顔をしてスタッフと名乗っていたのですから……今考えても本当に驚きです。でも、シャーンティマイーさんに教わる料理はどれもとっても簡単で、本の表紙にも書いてある「目からうろこ」な気付きが満載、とっても楽しく、覚えるのも嬉しかった。

 なるほど〜なるほど〜、いやぁほんまや!

 野菜がこんなに生きるのか!! 教わったように作ると本当に美味しいやんか! と何度も驚きました。そして、何よりもおおっと思ったことは! 教わっている過程にはヨーガの教えがふんだんに盛り込まれ、料理って料理するだけではないのね、と気付いたことです。

 こんなふうにして私たちが実際に感じてきたことを、この本にはできるだけ表すようにしてみました。メニューはさまらさスタッフの食卓にもよく登場するものばかりなのでお墨付き、レシピはできるだけシンプルに分かりやすくしてみました。また、一口メモやポイントなども入れ込んだので、実際に作る時の助けになるといいなあと思います。

 私のように何もできない人でも、この本に基づいて作ってみれば、きっと美味しくできます! また、料理は得意よという方にも実際に作って目からうろこな気付きを発見してほしいです。
ぜひ覧くださいね。

シャチー

シャチーさん!ありがとうございました。
本の企画から、レシピ作り、撮影、内容校正、デザインやレイアウトなど、多くの仕事がありましたが、制作中のこぼれ話(苦労話?)なんかもたくさんありますよね〜!それはまたおいおい紹介できればと思います〜。みなさま、ぜひご購入ください。

 

 


発売開始!!

昨日、ついにミラバイさんが書いてくれた『真実を求めてーあるヨーギニの手記』が発売されました。夜には、発売を心待ちにしていたグルバイが集まり、出版をお祝いしました

ミラバイの本

ミラバイの本 祝賀会

やっぱり、著者から買いたい !!ということで、一人ずつ並んでお買い上げ。
初めて手に取ってみて、「何てきれいな本!!」と感動しました。
表紙の写真、本の中の写真もとても美しい!
本の大きさといい、字の大きさといい、とても読みやすい!
初心者の方に気軽に読んでいただけるようにと考えてくださったのだと思います。

実は私、昨日の昼頃から嬉しくて嬉しくて、なんだか歓びがあふれています!
一冊の本を作るということがどれだけ大変なことかは、想像すら出来ませんが、一人でコツコツと書き続け、一人で校正し!?何年もかけて書き上げてくれました。それは、1人でも多くの魂がヨーガに出会うことを望んでいるからだと思うのです。そこには、まだ見ぬ人や、既にヨーガはやっていてもまだ迷いの中にいる人、そういった多くの人への愛があると思いました。何より、その愛の源は師であるヨギさんだと思うと……何だかもう!!いても立ってもいられないぐらい嬉しくなるのです。

さー!!ぜひぜひお買い上げして、読んでくださいね。そしていろんな人にお勧めして下さい。
本の感想もお待ちしています!!