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『マハーヨーギーの真理のことば』 ~第十一章 真の愛

「恋は盲目」という言葉がありますが、周りのことなんて一切目に入らなくなるほどその人のことが好きで好きで、朝から晩まで寝ても覚めても、気が付けばその人のことばかり考えている……。そんな経験がある方はいらっしゃいますか?(私はあります!!)
たとえばそんなふうに神を一心に愛し、神と一つになろうとするヨーガをバクティ・ヨーガ(信愛のヨーガ)といいます。

師シュリー・マハーヨーギーに出会うまで、私はバクティ・ヨーガについて何も知りませんでした。師の下でヨーガを学ぶようになってしばらくたったある日、東京の自宅で瞑想中に師のヴィジョンを見るということがありました。驚いた私は京都にいる師を訪ね、そのことについてお話をしました。その際に「あなたはバクティ・ヨーガが向いているかもしれませんね」と言われたことがきっかけとなり、私はバクティ・ヨーガを一から学ぶことにしました。
初めは神を信仰の対象とするだけでなく人間のように愛するなんて!?と困惑し、どうしたら神を人間と同じように愛することができるのだろう?と、正直戸惑いました。
ところが、マハーヨーギー・ミッションのバクティ・サンガムに参加して、キールタン(インドの讃美歌)を歌ったり、インドの神や聖者のことを学び、また自分でも聖典を読むうちに、知らず知らず私はクリシュナという神に強く惹き付けられ、まるでクリシュナ神の神秘力によって絡め取られるように恋に落ち、気が付けばクリシュナ神を心から愛するようになっていました。今、思い返しても、その経緯は不思議としか言いようがありません……。

『マハーヨーギーの真理のことば』の中に、まさにその時の私の状況を表したような箇所を見つけました。その一部を抜粋してご紹介させていただきます。

バクティ・ヨーガというのは、単純に神を好きになることです。好きになること、そして神に語り掛けることです。ちょうど恋と似ているというふうにいわれる。好きな人が現れたら、やっぱり近づきたいと思うだろうし、話したいと思うだろうし、そのような行為を積極的にしていくよね。その人のことで心がいっぱいになってきたら、他のことなんてもうどうでもよくなる。その人だけが全てになってくる。バクティ・ヨーガというのは、ちょうどそんな感じなの。
本当に、狂おしいほどの情熱というか、神への渇望がそうさせるのです。

『マハーヨーギーの真理のことば』第十一章 第一節/ 神への渇望 より抜粋

愛は誰もの胸の中に既にあります!神を渇望することで、その愛を大きく大きく育てていくことができます!
私自身、もっともっと神への愛を純粋にし、美しい愛の花を神に捧げることができるよう心から願っています!!!

太陽を見つめ、まるで太陽を真似ているかのような姿のヒマワリ。私もヒマワリのようにいつも神だけを求め続けていたい。

シャルミニー


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ ④

 今回は、『Paramahamsa』No.78の表紙を紹介させていただきます。

アール・ヌーヴォー調のフォントをあしらった表紙は、師であるヨギさんがデザインしてくださったものです。
ヨギさんは、毎回その絵にあうようにとフォントを選ばれますが、いつも何かしら、明確な、具体的なイメージがあり、そのイメージに沿ったものが見つかるまで何度も見返して探されました。
言葉にすると単純な作業ですが、その集中力は並大抵ではなく、また選んでくださったフォントでデザインされたものは、いつも私の想像をはるかに超えた美しさを放っていました。

*実際に発行された『Paramahamsa』はモノクロです

 No.78の裏表紙に、この絵を描いた当時のエピソードを掲載していましたので、ここに紹介させていただきます。

毎週金曜日夜、シャクティたちはヨーガ・ヴィハーラに集い、キールタンを歌い踊っている。いえ、実際には踊っていないのだけれど、まさに踊っているようだと感じたことがありました。
その日、私たちは輪になってシヴァ
を讃える歌を歌っていました。身体を左右に揺らし、満面の笑顔で声高らかに歌うシャクティたち。そこにはヨギさんがおられ、ともに遊び戯れている! そんなふうに感じ、私は深く感動したのでした。そして「あぁ、こういう絵を描きたい」と思ったのです。

このミニアチュールから、神だけを見つめ、神と一緒に遊ぶシャクティたちの歓びが少しでも伝われば嬉しいなぁと思います」

*2023年7月20日配信のWeb版Paramahamsaにて、このイラストを紹介していただきました。

シャチー

 

 


『マハーヨーギーの真理のことば』 第九章 大宇宙と小宇宙の神秘

私はヨーガを始めてまだ数年の初心者です。ヨーガの教えは、聖者・覚者によって見出された叡知であり、目から鱗が落ちるようなものが多く、学ぶのがとても楽しいです。今は、シュリー・マハーヨーギーへの質問と答えがまとめられた『マハーヨーギーの真理のことば』を読んでいます。シュリー・マハーヨーギーのお話は自らの経験に基づいており、とても説得力があります。また、対話形式で書かれていて、とても読み易いです。
今回はこの御本の第九章をレビューさせていただきます。

第九章は「大宇宙と小宇宙の神秘」というタイトルとなっています。ヨーガでは、物理的に存在する宇宙を大宇宙、それに対して私達の身体のことを小宇宙ととらえています。私は瞑想中に、自分の中に内なる世界が広がっていることを感じることがありました。小宇宙という言葉を聞いた時、本当にその通りだなと思いました。

さて、この章の中で私にとって最も印象的だったのは、大宇宙と小宇宙の一致(梵我一如)の部分です。
私が梵我一如という言葉を知ったのは高校生の頃で、教科書にこのように書いてありました。
「ウパニシャッド哲学では自己の本質であるアートマン(我)と宇宙の理であるブラフマン(梵)が一体であるという真理(梵我一如)を悟ることで輪廻転生から解脱できるとされる」
言葉の雰囲気にとても惹かれたのですが、意味は分からないままでいました。

シュリー・マハーヨーギーは、梵我一如について、このように説明されています。

サマーディ(三昧)においては、いわばその物質的な粗大な局面から、より微細な原因体の方に心が移行していくことになる。そうするとその大宇宙と小宇宙を造り出した原因というのは同じということになってくるので、そこでの物理的な空間の大きさとか量とか時間とかいうものが消滅してしまうということになる。そういう中でより深まっていけば、その根源的な宇宙と万物の展開を始める原初体のようなところに入り込んでしまう。するとそれは二つとないものとして、体感することになるのです。相対的な大宇宙、小宇宙というふうに物理的な条件を伴った観念がそこにある以上は、大宇宙と小宇宙の一致とか一体というような表現になるだけのことです。要は宇宙万物の根源にサマーディは連れていく、あるいはサマーディの中でそれを体験するということです。

なるほど、梵我一如とはサマーディの中で体験できるもの――では、サマーディとはいったいどのようなものなのでしょうか? 興味はつきません。

第九章にはその他にも、プラーナーヤーマ(調気法)、クンダリニー(根源力)、シュリー・ヤントラ(象徴的な真理の図象)、宇宙開闢(かいびゃく)論など、ヨーガの生理学と宇宙観に関する興味深い内容が、数多く取り扱われています。
ぜひとも読んでみてください。きっとヨーガの理解が進むと思います。

右は『マハーヨーギーの真理のことば』の表紙、左はシュリー・マハーヨーギーの描かれたブラフマーンダ(ブラフマンの卵)。ヨーガでは、宇宙が始まる前、有もない、無も無い時、そこから宇宙が生まれ、そして万物、万象が展開していったと語られています。ビッグバンが発見される遥か昔、太古の昔のヨーギーが、宇宙の始まりを直観していたことに感動します。

島本廉


『マハーヨーギーの真理のことば』 自分の一生は自分で生きる

子供の頃から我が家にはいちじくの木があった。母が養女としてこの家に来た時に、庭に好きなものを植えたらいいと養父が言ったので、好物のいちじくの苗木を植えたところ、いちじくはだめだ、根が強く他の植物をダメにしてしまうと引っこ抜かれてしまったそうだ。しかし母はその苗木をこっそり家から離れた小さな畑に植えた。養父は数年後に亡くなり、母はやがて結婚し、子供を育てながら、丹精込めていちじくの世話をして、毎年夏になると鈴なりに実がなった。家族だけでは食べきれず、好きな方に差し上げているうちに、甘くて美味しい、販売して欲しいと声が上がり、軒先で売ると、毎朝買いに来られる方が増え、口コミで遠い所からも来られるほど、評判となった。

風邪も引いたことがないと健康を自慢していた母であったが、思いがけず病を得た。手術と治療を繰り返し、なんとか日常生活を送っていたが、病状が進み、最期の2年ほどは坂道を転げ落ちていくように急速に悪化した。それでも母は最後まで前向きに生きた。大切に育てた畑を見るのが何より大好きで、私は週末になると母を車椅子に乗せて畑まで行った。いちじくの世話は父と姉夫婦が受け継ぎ、親木から挿し木をして子供の木も育てた。亡くなる2ヶ月前の6月には、親木も子供の木も立派な葉をつけているのを見て喜んでいた。母がいちじくを愛でたのはそれが最後となり、8月に旅立った。
その1年後、去年の夏の終わりのこと、雨の多い夏となり、例年より少し時期が遅れ、9月の初めになって実をつけた。そんな朝、前日まで青々とした大きな葉を伸ばしていた親木のいちじくが一夜にして実だけ枝に残して、全ての葉を地に落とし、寿命を全うした。この2回の夏に私たち家族は母といちじくの、二つの魂を見送ることになった。

愛する存在の死は悲しい。この上ない苦しみである。苦しみを乗り超えるために私は言葉の通り七転八倒した。そしてやはり最後にすがるところはヨーガだけであった。
死を理解することは今の私には難しい。それなら必死に生きようと思った。そして私は今、真理のことばに支えられて生きている。

問題は、一個人として自分はどう感じるのか。
どう生きたいのかを自分自身に問うべきです。本当の自由が欲しいのではないのですか。本物の幸せを得たいのではないですか。
真実在というべきその存在が自らの中に在ると教えられながら、
どうしてそれを探そうとしないのか。
この単純な問い掛けを自分自身に真剣に為すべきです!
それ以外の想念は全て、単なる情報の影響にすぎません。
そんな影響の渦に巻き込まれて、自らを失いたくはないでしょう。
自分の一生は自分で生きるのです!

『マハーヨーギーの真理のことば』 第八章 実践の秘訣 より

母といちじくが自らの人生を見せてくれた。そのことに感謝して、私も自分の人生を生きたいと思う。それがヨーガとなったら本望だ。
そして今年も我が家のいちじくが大きな葉を広げて甘い実をつけるのが楽しみだ。

サラニー


『あるヨギの自叙伝』〜ヨーガーナンダとスリ・ユクテスワの出会い〜

パラマハンサ・ヨーガーナンダの『あるヨギの自叙伝』を初めて読んだときに一番印象に残った章が、第十章のヨーガーナンダが師であるスリ・ユクテスワにめぐり会う場面です。以下、要約してご紹介させていただきます。

高等学校の課程を修了したヨーガーナンダは、霊的訓練を受けるためにベレナスの僧院で生活していました。僧院と合わず苦悩に打ちひしがれていた頃、偶然出かけた市場の狭い小路の外れに、黄褐色の僧衣をまとったキリストのような男が立っているのを見かけました。その顔は一目見ただけで昔からよく知っている顔のように思われましたが、誰かと間違っていると疑い、通り過ぎて離れました。すると10分ほど行くと足が重たくなり動けなくなり、戻ると足は軽くなり、再び離れようとするとまた足は重くなりました。先ほどの聖者が磁力で自分を引き寄せているのだ!と考えて、飛ぶように小路に引き返しました。その人影はまだそこに静かに立ったまま、じっと自分の方を見つめていました。急いで駆け寄り、その足もとにひざまずきました。「グルデーヴァ(尊い先生)!」その神々しい顔は、これまで何百回となく幻に見た顔でした。「おお、わが子よ、とうとう来たか!」師は、この言葉をベンガル語で何度もくり返しました。その声は喜びに震えていました。「何と長い年月、お前の来るのを待ったことだろう!」あとはもう言葉の必要はありませんでした。沈黙のうちに、二人の心は溶け合ったのでした。

なんという運命的な出会い!文章から情景が思い浮かび、師と弟子が出会い喜び合う姿に理由もなく惹かれました。いつでも本を開いてこの場面を読むと、感動して胸が高鳴り震えます。この大好きな場面を、想像して絵に描きました。

サルヴァーニー


ヨギさん、
ヨギさんという方に出会って、私は真実の愛というものがあることを知りました。そしてその愛を、与えて与えて与えて……なんの見返りを求めることなく、純粋に愛し与えられたのがヨギさんでした。
私がアーシュラマに通い始めた頃、ヨギさんの下に集まっていたお弟子さんたちは、まだ数えることができるほどの少人数でしたが、「生きることに真剣に向き合う人たち」であり、私はその姿勢に強く憧れました。そしてその気持ちを引き出してくださったのはヨギさんに他なりません。

5月18日、ヨギさんは私たちの前からお姿をお隠しになられました。その時は突然やってきて、そして過ぎ去りました。

私は、ヨーガをする前からデザインの仕事をしていたこともあって、ミッションのデザインワークスを通してヨギさんから多くの教えをいただきました。それは一度では語りきれません。

でも、今日はその一つであるミニアチュールを描いてきたことについてお話ししてみたいと思います。

ヨギさんからインドのミニアチュール(細密画)のことを教えていただいて『パラマハンサ』の表紙絵を描くようにと勧めていただいてから、これまで50枚以上の絵を描いてきました。
もともとの性質が繊細さにかける私だったから、この絵を描く時だけは、自分は丁寧で繊細な人であると意識を変えて集中し、ヨギさんが大好きだとおっしゃるカングラ派の美しいミニアチュールに近づくようにと願ってきました。

ヨギさんを描く時は、ヨギさんのお姿を思い浮かべ、それは形というよりは空気感というか、ヨギさんの存在を感じるという方が近いと思いますが、そうしてヨギさんに近づき、ヨギさんで心をいっぱいにして描くことで、ようやく、ほんの、ほんの少しヨギさんという方を小さな絵の中に表すことができたのかなと思います。特にヨギさんのお顔や瞳に筆を入れる時には、ヨギさんの愛溢れる、深い眼差しをごく傍で感じ、息を詰めて描きました。しかし一度で納得がいくことはまれであり、毎回、何度も描き直しました。ヨギさんの瞳は、その絵の中心であり、もっとも重要な部分だったからです。

こうして描き終えたミニアチュールは、サットサンガで『パラマハンサ』とともにヨギさんに捧げさせていただきましたが、気に入っていただけるだろうかと、私は毎回ドキドキしながら絵をお渡ししてきたことを思い出します。ヨギさんはそれを、大切なものを扱うかのように優しく手に取られ、慈しむように、じっとご覧になるのが常でした。そして、「いい絵だ」とヨギさんがおっしゃったその時、この絵は完成を迎えるのです。そしてその時、この絵は私が描いたという思いすらも残さず、私の手から離れていくのでした。

 

『Paramahamsa』No.18の表紙

いつも心を真理
あるいは神だけで満たすようにしなさい
Sri Mahayogi Paramahamsa

 

『プラナヴァ・サーラ』の表紙ーー絵を散りばめたデザインはヨギさんのアイデアです

ヨギさんが、yogiのサインと落款とともにTシャツのデザインをしてくださいました 

 

ヨギさんはこれまでずっと、言葉、行為、生き様を通して私たちを真理の道へと導かれてきました。
「こうあらねばならない」というような型にはめるようなことは一切おっしゃらず、おおらかに、ただ私たちの良いところが伸びていくようにと導いてくださっていることを感じてきました。
その方法は弟子一人一人、様々で、まさに対機説法。その根底には愛のみがあり、その祝福は私たちを永遠に導いてくださる、私はそう信じています。

シャチー


『マハーヨーギーの真理のことば』 第七章 食の大切さ

ヨーガでは、悟りへの乗り物であるこの身体を維持するために食事をする、と考えます。 

食材も命であり、食べるとはその命を頂くということ。 
食材に感謝し調理したものを食べると、食べた後も満たされた気持ちが続き、心身が調うと、日常生活における言動も調っていきます。 

 そう分かっていても、仕事が忙しくてつい買ってきたものを食べて済ませてしまうことがありました。 
買ってきたものは味が濃くておいしいと思えず、油っこくて胃腸の調子を崩し、食べても満足感を得られませんでした。そのことで自己嫌悪に陥ってしまい、やるべき事を後回しにしがちに。 
安易に口にした食事が日常生活にも影響を及ぼしていくことを痛感したタイミングで、『マハーヨーギーの真理のことば』の第7章のページを開きました。 

古きに渡って培われた東洋の精進料理は、 
まず真理を求めることを念頭に置いて、 
修行者の体と心を調える役割を担っている。 
修行が深まり、身口意が不動となり、真理の一片なりとも悟るなら、 
何を着ようが何を食べようが構わないのだ。 
もはや彼あるいは彼女は何ものにも影響されないから。 
しかしその境地に至るまでは、 
真理の正しい教えと同様、正しい食生活にも留意しなければならない。 


第七章の冒頭に書かれているこの教えを読んで、目が覚めたような感覚でした。
 

私は真理を求めて生きると決めた。 
真理を実現するために、いつでもこの体を道具として最大限に使えるように調えておく必要がある。 
それには真理の教えを学ぶことと同じくらい、それに基づいた正しい食生活が不可欠である。 

身口意が不動となり、真理の一片でも悟り得るまではそれを徹底する! 

この章を読むことで、ようやくその覚悟が決まりました。 

 

 ハルシャニー  


『マハーヨーギーの真理のことば』 呼吸と心の制御

私の心は長い間、この世の出来事に翻弄され波立っていました。苦しい時はその思いに執らわれて、考えても仕方のないことと分かっていながら、何日も思い悩み、眠れぬ夜が続きました。互いに思いやりあって円満に暮らしたいのに、すぐに忘れて相手を傷つけてしまうこともあったように思います。この心をより良くしたいと思って足掻いてもなかなかできず、自分で自分の心を変えることはできないのだと失望し、諦めていました。
そんな時、師シュリー・マハーヨーギーと出会いました。『呼吸を変えれば、心は変わります』。その教えを聞いた時、暗闇の中にいた私の心はハッとして、そこに一筋の光明を見出しました。呼吸を変えれば心は変わる、呼吸を変えれば心は変わるんだ、呪文のように繰り返し、私は毎日アーサナ(ヨーガの体位)を行ないました。このことばに私の心は救われたのです。
 
心は風、呼吸は水、身体は氷に例えられる。
これらは全てH2Oだが、
風を掴むのは非常に難しい。
そこで掴みやすい氷、
つまり身体をアーサナによって制御するのです。
そうすれば水、つまり呼吸は器に従い、
呼吸が制御されれば心も制御されます。
心が完全に制御されたなら、

真の自己の自覚ー即ち悟りがあるでしょう。

            『マハーヨーギーの真理のことば』 第六章 アーサナの実践 より 
 
このH2Oの例えはものすごく分かりやすくて、呼吸を変えて心を変えていこうという一つの大きなモチベーションとなりました。第六章にはアーサナを実践するにあたって、知っておくべき自分たちの微細な身体の仕組みのことや心のあり方など、大変興味深い教えが分かりやすく丁寧に説かれています。『マハーヨーギーの真理のことば』を読んでいると、目から鱗が落ちるような教えが明快に説かれているので、真剣に、自分のことやこの世界の本質のことを知っていこうという意欲が自ずと湧いてくるに違いありません。私自身も本書からヨーガの道を歩んでいく上での新たな勇気をいただきました。
 
私たちの知らない真実が『マハーヨーギーの真理のことば』の中に宝石のように散りばめられています。
この本は本当の自分を知り、より良く生きたいと願う心に必ず答えてくれる一冊となっています。
 
 
 
 
ダルミニー

“至福に浸る聖女” アーナンダマイー・マー

『あるヨギの自叙伝』で、ベンガルの“至福に浸る聖女”として紹介されているアーナンダマイー・マーは、1896年4月30日に、東ベンガルで生まれました。

「私は、このかりそめの肉体を自分として意識したことは一度もございません。この地上に生まれる前も同じでした。子供のころも、私は同じでした。成長して女になっても、私は同じでした。(中略)今後、神様のおつくりになったいろいろなものが永遠の舞台の上で、私の周囲を踊りながらどんなに移り変わって行っても、私はやはり同じでございましょう」

『あるヨギの自叙伝』P472

グルは一人もおらず、聖典なども全く知らなかったにもかかわらず、『あるヨギの自叙伝』に載っているこの言葉に表されるように、アーナンダマイー・マーの生涯は一貫して本質と一つでした。36歳頃からは、家を持たず、旅を続けていて、一カ所にわずか二、三日、多くても二、三週間留まるのみという生活をされました。いっさいの執着を棄てて、心のすべての思いを神に捧げました。個人的な好き嫌い、熱望や反感、努力や葛藤、恐れや怒りが全く無く、自我意識と見なされるようなものを表わさず、神の意思・意図と解釈されるケヤーラと呼ぶものに従って行動されました。

至福に浸ると形容されるアーナンダマイー・マーですが、私はその生涯に触れて印象に残ったのは、放棄です。生活面や物質的な放棄はさることながら、心の放棄が完成されていました。常に神の意思・意図に従って行動され、通常の原因と結果の過程に左右されない完全に自由な状態だったからこそ、その目は片時も神から離れなかったのだと思います。

アーナンダマイー・マーの心の放棄を見倣うためにはどうしたらいいでしょうか。その質問の答えが残されています。

「失われることのない彼を思いなさい。彼だけを瞑想しなさい。彼、すなわち美徳の源泉である者を。彼に祈り、彼に頼りなさい。ジャパと瞑想に、もっと時間を割くようにしなさい。彼の御足の下に、あなたの心を明け渡しなさい。ジャパと瞑想を、途切れることなく持続させるよう努めなさい」

『シュリ・アーナンダマイー・マーの生涯と教え』P154

 

絵:アーナンダマイー・マーとヒマラヤ山

1927年アーナンダマイー・マーと側近たちは、ヒマラヤのリシケシとハルドワールにある神聖な巡礼の地を訪れました。その後も北インド全体を常に歩き回り、宗教的な祝祭、キールタンとサットサンガが行われたそうです。

サルヴァーニー


『マハーヨーギーの真理のことば』 全ては同じ存在である

他者との関わりについて、私がもの物心ついた頃から両親や学校の先生に教えてもらったと記憶しているのは、「相手の立場に立って物事を考えなさい」ということでした。確かに自分がされた嫌なことは相手も嫌だろうとは思うものの、なんだかぼんやりした曖昧なもので、なんとなくそうしないといけないものと捉えていたと思います。そしてそれをしたとしても気の合う人だけだったり、機嫌が良いときだったり、いい加減なものでした。時には傷ついたり傷つけられたり、人間関係ってそんなものじゃないの?と思って生きてきました。ですが真理の教えと出会って、なぜ相手の立場に立って物事を考えないといけないのかが、だんだんと腑に落ちるようになっていきました。

『マハーヨーギーの真理のことば』第5章の中で、その答えが明確に書かれているのでご紹介します。

真理というものを学ぶならば、最初に気付かされることは、全てのものが平等であり、尊いということです。ここにおいては自らと他者、あるいはその他の動物や生き物、全てにおいて差別観を持ってはいけない、全ての中に同じ尊い存在があるということです。そうすると、誰かが誰かに暴力を与える、与えられるという関係は矛盾するでしょう。それは平等ではなくなる。これは真理に反することです。盗む、盗まれるもそうです。真理というところから見ても、当然の行為のあり方です。そういうふうにまず真理をもって理解することで、自らの心の制御が為されるし、また行為が正されていくと思います。もちろん行為は実践を通して行なわれますから、確実なものとしてそれが本当の修行というものになっていくと思います。単に頭の知的理解だけでは駄目、体を通して体得していくことが求められます。

教えを学び始めてから程なく、全ての中に同じ尊い存在を見るように努め、言葉も、行為もそれに矛盾なく沿わせていくという実践が始まりました。私が特に意識してきたのは誰に対しても暴力的な思いをもたないようにするということです。うまくいかないことは多々ありました。余裕がなくて優しくなれなかったり、いやいやこれはこの人が悪くない?と葛藤したり、ああかな?こうかな?と経験を繰り返すうちに、徐々に自分の心の形相が見えてきました。

自分の中に他者に対して暴力的な思いがあると、心の中がずっともやもやして、気分を変えようと場所を変えても、誰かと話しても、結局気分は晴れずにずっとしんどい思いを抱えているのです。

(なるほど、この世を見渡すと数多くのものがそれぞれ点在しているように見えるけれど、そうではなくて、師が仰っているように全ての中に同じ尊い存在があるのかもしれない。もしそうだとしたら、他者は自分自身ということになる。他者に暴力的な思いを持つと自分が苦しいと感じるのは、結局自分に対して暴力を振るっているのと同じ。そうか、相手がどうこうではなくて、自分が同じ存在を見ていないから苦しむのだ)と実践を通して少しずつ心が理解するようになっていきました。

今までの心の習性からこの世界を見るか、それとも真実の方から見るか。どちらから見るのかによって、天国にでも地獄にでもなる。自分が天国を見たいのなら、自らの心の持ち方や言葉遣い、行為の全てに責任を持たないといけないということが分かってきました。

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第5章は全ての中に尊い同じ存在があることを体得するための、日常の行為の秘訣が書かれています(他者との関わりにおいて守るべき教えをヤマ、自分に対して守るべき教えをニヤマと呼びます、詳しくは以下の通りです)。

ヤマ(禁戒)他者に対する行為と言葉と想念の制御
 アヒンサー(非暴力)ー一切万物を傷つけてはならない
 サティヤ(正直)ー真実だけを語り、誠実であること
 アステーヤ(不盗)ー何ものも盗んではならない
 ブラフマチャリヤ(純潔)ー純潔であること
 アパリグラハ(不貪)ー必要最低限の物以外所有せず、贈り物を受け取らない

ニヤマ(勧戒)自らに対する行為と言葉と想念の精進
 シャウチャ(清浄)ー身心を潔斎浄化する
 サントーシャ(知足)ー生きる上で必要最低限度で足りたるを知る
 タパス(苦行)ーあらゆる身心の二元状況を克服する
 スヴァーディヤーヤ(聖典学習)ー真理への理解を育む
 イーシュヴァラ・プラニダーナ(神への誓願)ー神への帰依

本の中ではヤマ・ニヤマ一つ一つの戒律について、具体的にどう考え実行すればいいのかがとても分かりやすく書かれています。読んでいると面白くて、ワクワクしながら読み進めていけます。そしてすぐに実践しようと思えるものばかりです。ぜひ読んで、実践して、味わってみてください!

アマラー