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『マハーヨーギーの真理のことば』 全ては同じ存在である

他者との関わりについて、私がもの物心ついた頃から両親や学校の先生に教えてもらったと記憶しているのは、「相手の立場に立って物事を考えなさい」ということでした。確かに自分がされた嫌なことは相手も嫌だろうとは思うものの、なんだかぼんやりした曖昧なもので、なんとなくそうしないといけないものと捉えていたと思います。そしてそれをしたとしても気の合う人だけだったり、機嫌が良いときだったり、いい加減なものでした。時には傷ついたり傷つけられたり、人間関係ってそんなものじゃないの?と思って生きてきました。ですが真理の教えと出会って、なぜ相手の立場に立って物事を考えないといけないのかが、だんだんと腑に落ちるようになっていきました。

『マハーヨーギーの真理のことば』第5章の中で、その答えが明確に書かれているのでご紹介します。

真理というものを学ぶならば、最初に気付かされることは、全てのものが平等であり、尊いということです。ここにおいては自らと他者、あるいはその他の動物や生き物、全てにおいて差別観を持ってはいけない、全ての中に同じ尊い存在があるということです。そうすると、誰かが誰かに暴力を与える、与えられるという関係は矛盾するでしょう。それは平等ではなくなる。これは真理に反することです。盗む、盗まれるもそうです。真理というところから見ても、当然の行為のあり方です。そういうふうにまず真理をもって理解することで、自らの心の制御が為されるし、また行為が正されていくと思います。もちろん行為は実践を通して行なわれますから、確実なものとしてそれが本当の修行というものになっていくと思います。単に頭の知的理解だけでは駄目、体を通して体得していくことが求められます。

教えを学び始めてから程なく、全ての中に同じ尊い存在を見るように努め、言葉も、行為もそれに矛盾なく沿わせていくという実践が始まりました。私が特に意識してきたのは誰に対しても暴力的な思いをもたないようにするということです。うまくいかないことは多々ありました。余裕がなくて優しくなれなかったり、いやいやこれはこの人が悪くない?と葛藤したり、ああかな?こうかな?と経験を繰り返すうちに、徐々に自分の心の形相が見えてきました。

自分の中に他者に対して暴力的な思いがあると、心の中がずっともやもやして、気分を変えようと場所を変えても、誰かと話しても、結局気分は晴れずにずっとしんどい思いを抱えているのです。

(なるほど、この世を見渡すと数多くのものがそれぞれ点在しているように見えるけれど、そうではなくて、師が仰っているように全ての中に同じ尊い存在があるのかもしれない。もしそうだとしたら、他者は自分自身ということになる。他者に暴力的な思いを持つと自分が苦しいと感じるのは、結局自分に対して暴力を振るっているのと同じ。そうか、相手がどうこうではなくて、自分が同じ存在を見ていないから苦しむのだ)と実践を通して少しずつ心が理解するようになっていきました。

今までの心の習性からこの世界を見るか、それとも真実の方から見るか。どちらから見るのかによって、天国にでも地獄にでもなる。自分が天国を見たいのなら、自らの心の持ち方や言葉遣い、行為の全てに責任を持たないといけないということが分かってきました。

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第5章は全ての中に尊い同じ存在があることを体得するための、日常の行為の秘訣が書かれています(他者との関わりにおいて守るべき教えをヤマ、自分に対して守るべき教えをニヤマと呼びます、詳しくは以下の通りです)。

ヤマ(禁戒)他者に対する行為と言葉と想念の制御
 アヒンサー(非暴力)ー一切万物を傷つけてはならない
 サティヤ(正直)ー真実だけを語り、誠実であること
 アステーヤ(不盗)ー何ものも盗んではならない
 ブラフマチャリヤ(純潔)ー純潔であること
 アパリグラハ(不貪)ー必要最低限の物以外所有せず、贈り物を受け取らない

ニヤマ(勧戒)自らに対する行為と言葉と想念の精進
 シャウチャ(清浄)ー身心を潔斎浄化する
 サントーシャ(知足)ー生きる上で必要最低限度で足りたるを知る
 タパス(苦行)ーあらゆる身心の二元状況を克服する
 スヴァーディヤーヤ(聖典学習)ー真理への理解を育む
 イーシュヴァラ・プラニダーナ(神への誓願)ー神への帰依

本の中ではヤマ・ニヤマ一つ一つの戒律について、具体的にどう考え実行すればいいのかがとても分かりやすく書かれています。読んでいると面白くて、ワクワクしながら読み進めていけます。そしてすぐに実践しようと思えるものばかりです。ぜひ読んで、実践して、味わってみてください!

アマラー

 


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ ➁

あなたは私であり
私はあなたです
Sri Mahayogi Paramahamsa

今回は、『Paramahamsa』No.14の表紙を紹介させていただきます。
この絵は、ヨギさんからマハーアヴァターラ・ババジのお話をお聞きした時にインスピレーションが湧いて描いたものです。ババジとヨギさんの間に交わされる祝福を、悟りの象徴とされている蓮に託しました。

*2023年3月20日配信のWeb版Paramahamsaにて、このイラストを紹介していただきました。

シャチー


『マハーヨーギーの真理のことば』第四章 ヨーガの道

『マハーヨーギーの真理のことば』第四章のレヴューをお届けします。この章では、世界を生きていくのには二つの道がある、と書かれています。

一つはカルマの道。カルマとは作用と反作用、原因と結果のことであり、蒔いた種は刈り取らねばならない、ということ。
私たちは過去世で蒔いた種を刈り取るために生まれ、生涯をカルマの結果を刈り取るために過ごし、さらに新しいカルマを作り続け、今生を終えたら次のカルマを刈り取るために再び生まれる。カルマの道にゴールはなく、苦しみが果てしなく続く……なんだか書いているだけで苦しくなります……

もう一つはヨーガの道です。そのゴールは、誰もの胸の内奥に在る真実、本当の自分に目覚めること。私たちが生まれてきた本当の意味はヨーガの道にある、そして誰もがそれを実現することができる。「真実とは何かーーそれだけを探究し実現しなさい!」と力強く書かれています。

どちらの道に進めば本当の幸せを手にすることができるのか、自由になれるのかは明白です。しかしヨーガの実践を続ける中で、ヨーガの教えよりも染み付いた習慣や思いの方に心地よさを感じ、それらを棄て切れないこともある……そんな私の心をお見通しであるかのように、シュリー・マハーヨーギーは次のように言われています。

「心を制御したり、感覚を制御したりするから不自由であって、束縛されているというふうに心は誤解しているけれど、実はそうではなくて、ヨーガは結果として自由をもたらす。それは心にとっての自由がもたらされる。そのからくりを心は知らない。
習慣的に身に付いた嗜好とか、好き嫌いとか執着とか、そういうものについ縋ろうとしているけれど、それはいわば、ちょっと起きるのは寒いし、まだ布団の中が気持ちいいとか、微睡んでいるような、そんな状態に例えられる。でもぱっと目覚めて起きたら、どんなに気持ちよく自由に行動できることか。布団の中では何もできない。
だから、ヨーガを誤解してはいけない。むしろ本当に自由になりたければ、ヨーガをしなければならない。その誤解をまず解いていく。そしてヨーガを進めていってごらん。自由になれるから」

この冬、眠くて布団から出たくない……そんな朝、私はこのお話を思い出し、「微睡んでいてはいけない!布団の中は暖かく、また身に付いた思考や習慣にすがることは楽だし心地よいかもしれないが、ここに自由はない。目覚めよ、私!!」とプラーナを変える訓練をしていました。

「ヨーガというのは正しく自らの魂を復活させるための一大事業」だと、シュリー・マハーヨーギーは言われています。簡単な道であるはずがありません。しかし、ヨーガの道を歩むと決めたならば、その教えを自ら実践し確かめ、一歩一歩進んでいく。ぱっと起きて行動し、日々その清々しさを感じるーー実践こそが道を歩む上で必要なことです。そうすれば確実に自由へと近づいていくのだと私自身感じています。

「たとえこの生涯においてそれが完成に至らなくても、その智慧を失うことはない。決してカルマの道に後戻りすることはありません」とも書かれているこの章を読むと、過去ではなくこの刹那を生きることこそ全て!と前を向き、「本当のことを知りたい!!」とハートに沸き起こったあの情熱に一瞬で立ち戻り、絶対にヨーガの道を諦めない!!と自らを奮い立たせることができるのです。諦めたら終わりだし、諦めるのは私の心であり無知から出てくる思いなのですから。

ヨーガの道を歩むために必要な教えが書かれているこの本と、同じゴールを目指す仲間と、そして何よりも大切な最愛なる師とともに私は歩み続ける!!その思いに立ち返ることのできた第四章でした。

ターリカー


『マハーヨーギーの真理のことば』〜第三章を読んで〜

真理や神は単純そのものです。
心だけが複雑。
そしてこんがらがって、迷路を自分で創って、もがき足掻く。

最近、心がこんがらがっていたゴーパーラです。
恥ずかしながら、心は焦り、もがき足掻いていました‥‥
この心の滑稽さは「究極の一人芝居」だと『マハーヨーギーの真理のことば』第三章にありました。

私はこの教えを読んだ瞬間、騒いでいた心が一瞬にして静まりました。
そして、なぜこんな滑稽な状態になっていたのかと振り返ると、外の世界(状況)に心が巻き込まれ、「真理・神」への集中が足りていなかったからだとスッと思えました。

あるのは、今のこの一瞬だけ。これが済んだとしても、次に来ているこの一瞬だけ。つまり一瞬一瞬、目の前の、この一瞬だけしか勝負できない。ということは、この一瞬において、心を心機一転させることができる! これをやっぱり訓練していかないと駄目。

『マハーヨーギーの真理のことば』第三章より 

心は一瞬で切り替わる!
以前は「そんなのことできるのか‥‥」と思っていました。
しかし、「雀(すずめ)の千声(せんこえ)鶴の一声」という諺があるように、真理のことばという鶴の一声で雀(心)の千声は掻き消されるのです。
そして今私は、一心不乱に目標に向かう一瞬一瞬の真剣さが大切だと改めて感じています。

『マハーヨーギーの真理のことば』は、心を瞬時に変える物凄い威力があります。
この稀有で吉祥なことばに、是非是非、触れていただきたいです。

 

ゴーパーラ


『マハーヨーギーの真理のことば』を読んで

松山で幼いお子さんの子育てをしながらも毎週ヨーガ・サーラ・スタジオに熱心に通われている井上さんから本のご感想をいただきましたので、掲載します。

この度は、『マハーヨーギーの真理のことば』を世に送り出してくださり、ありがとうございます。

これまで『ヨーガの福音』『悟り』を愛読してきました。『ヨーガの福音』は美しい詩集のようで、カバンに入れて持ち歩いています。『悟り』はもう少し深くヨギさんの言葉に触れたい時に読んでいます。そして、『マハーヨーギーの真理のことば』はヨーガをより深く探究していく上で、必携の書となりそうな予感がしています。

最初はまず表紙のインパクトに驚きましたが、眺めているうちに、完璧な写真の凄さを、徐々に感じ始めています。日々、心がぶれそうになった時に表紙を眺めると、集中力がよみがえってくるのを感じています。

内容はとても膨大なので、まだ全ては読み切れていませんが、目次から興味を惹かれたページを読んでみたり、パラパラっとめくって目に入ってきたページを読んだり、クラスで紹介されたページをもう一度家でじっくり読んだりしています。どの言葉からもヨギさんの限りないパワーを感じ、心の奥深くまで届いてきます。

私はまだ、先輩方のような所にまでは辿り着いていませんが、この本がヨーガを深めていく上での、確かな指針になると感じています。この本を通して、どんなヨギさんの言葉に出会えるかワクワクしています。

井上江理  


『マハーヨーギーの真理のことば』~真理・真実在、悟りとは何かを知りたい方へ〜

待望の『マハーヨーギーの真理のことば』が発売されて約2ヵ月が過ぎました。皆さまは今どのあたりを読まれていますか? 「面白くてあっという間に読んでしまった!」という方や「じっくり味わって読んでいます~」という方、さまざまだと思います。そこで今回、私の方からは「第二章 真理・真実在」のレビューを書かせていただきます!

きっと多くの人が一度は「自分はなぜ生まれてきたのだろう?」「死んだらどうなるのだろう?」とか、「自分ってなんだろう?」「神様や仏様って本当にいるのかな?」と考えたことがあるのではないでしょうか。もしかすると、今このブログを読まれているということは「この世界、宇宙の本質とは?」「悟りとは一体どういうことなのか?」という、ヨーガ的な疑問を持たれている方もおられるかもしれません。

私が子どもの頃、目の前に広がる世界はたくさんの不思議で満ち溢れていました。成長し、大人になってからも、その時々で形を変えながらそれらは常に私の中にありました。あれやこれやと忙しい日々を送っているうちに月日はあっという間に過ぎていきましたが、ある時転機が訪れました。私は子育てを通して、再びこの世界への疑問に直面することになったのです。「すべての根源、宇宙の理(ことわり)、真理とはなんだろう?」ーー私はその疑問からもう目をそらすことができなくなりました。

この世界の真実を知ろうとしない人生に何の意味があるのかーーそう思い始めた頃、私は師シュリー・マハーヨーギーと出会い、師が語られるヨーガの教えの中にすべての答えを見つけることができたのです。第二章は、私のように子ども心の不思議さを持ち続けている方や、“悟り”“真理”とは何なのかを知りたい方に特に読んでいただきたい内容がギュッと凝縮されています!

第一節 生と死の理では、生きとし生けるすべての生命と私たちの魂の秘密について明らかにされています。第二節 ブッダの教えでは、ブッダが啓かれた悟りとそれに至る道である四締八正道について、第三節 アートマンの真理では、アートマンと呼ばれる生きとし生けるものの本質、また宇宙の開闢(かいびゃく)と神について解き明かされています。そして、第四節 悟りでは、私が憧れ目指す悟りの境地について説かれていて、今回その教えの一つを紹介させていただきます!

真実の体験

一切の心の働きが停止した時、その時に突如として、まるで稲妻のように真実が顕わになる。それを体験する。その体験はこの日常の経験や夢の世界などのような儚いものではなくて、実にリアリティそのものなのです。その真実が誰もの、また万物、この全宇宙の本質に他ならない。

シュリー・マハーヨーギーは、古代から続くヨーガの叡智をとても分かりやすくシンプルに説いてくださいます。きっと、皆さんの疑問の答えも見つかるに違いありません! どうぞ、ワクワクした気持ちでページを開いてみてくださいね。

東京土曜日代々木クラスの後に、よく皆で熱くヨーガトークスをしているカフェのテラス席にて

シャルミニー


幸福と不幸は裏表?

「幸福と不幸は裏表」という言葉をよく聞きます。
「少々辛いことがあっても、きっとまたいいことがあるよ!」という励ましの意味や、「いいことが続いたからといって、あまり油断するとよくないよ!」という戒めの意味の、両方があるそうですね。また「人間万事塞翁が馬」ーーー人生における幸不幸は予測できない、とか、「幸福より不幸の方が良い教師である」・・・などなど、昔から幸福と不幸に関しては様々な処世訓があります。

それではヨーガでは、幸福と不幸についてどのように教えているのでしょうか? 
マハーヨーギー・ミッションの会報誌『Paramahamsa』のコンテンツの一つ、まずはこちらをご覧ください!

「幸福と不幸の女神」より

この物語は古くからインドで伝わっている小話の一つなのですが、私たちの師であるヨギさんは、時折こういった例え話を豊かに織り交ぜながら、いつも本当に楽しくヨーガの神髄を教えてくださいます。そんな時はまるで童心に帰ったかのようにワクワクしながら、その物語の世界に引き込まれて、「なるほど!」と唸ったり、自分自身を省みたりすることがたくさんあります。

そのように、様々あるヨーガの教えや例え話を、ワクワクして絵を通して感覚的に掴んだり親しんだりしながら、教えの理解やヨーガへの思いを育んでいけたらいいなぁと思い、『Paramahamsa 』で、このコンテンツを企画してみることになりました。ヨーガを始めて間もない方や子供さんなど、誰もが見て楽しめるような、絵本動画のイメージです。
まだ作品はたくさんできていませんが、これから皆さまに楽しんでいただけるよう、少しずつ増やしていきたいなぁと思っています。

ということで・・・さてさて、動画をご覧くださった皆様へ。
幸不幸の交錯するこの人生、どのように生きていけばいいのかーーーそのお答えは出ましたでしょうか?

ミラバイ

追伸:絶賛発売中の新刊『マハーヨーギーの真理のことば』の中に、上記の教えも掲載されています!

 

 


マハーヨーギー・ミッションのInstagram

ミッション公式のInstagram(インスタグラム)が始まりました。今は、それぞれ自分に合う方法を使って情報を得られる恵まれた時代だなぁと思いますが、その方法の一つにInstagramがあります。そこで、少しでも多くの方に真理の教えやヨーガを生きるということについて、ご縁を持っていただけばとInstagramはスタートしました。

新刊『マハーヨーギーの真理のことば』からの教えを、マハーヨーギー・アーシュラマや、アーシュラマに由縁のあるお花や、美しい自然の写真などと共にお届けしたり、またクラスに纏わるコンテンツ、旬のお知らせなどもアップしていきたいと計画中です! 秘蔵写真もお目見えするかもしれません(!)ぜひご覧いただき、フォローしてくだされば嬉しいです。

「見る、という行為はフィルターを通さずに直接に心に届く」と師からお聞きしたことがあるのですが、Instagramは、写真や動画をまさに見ることが中心のSNS。
仕事の休憩時間や家事の合間のひとときに、心に静けさを感じたり、胸の奥の真実を思い起こしたり、自分をリセットしたりできる機会となれば・・・。

情報が溢れかえり混沌としている中でも、古(いにしえ)より伝えられてきた永遠の真理を悟るためのヨーガの道を、その一筋の光を、純粋に発信していければと願います。
師がお伝えくださっている真のヨーガが多くの方に届くよう、ぜひみんなで一緒にMYMのInstagramを盛り上げていけたらと思います。どうぞよろしくお願いいたします! 

Instagram-image

Instagramのプロフィール画面の上に並んでいる丸いアイコン(ハイライト)の「書籍」をクリックすると・・・『マハーヨーギーの真理のことば』の案内が出てきます。その画面の右下にある♡マークを押していただくと、見たよ!いいね!という意思表示で、MYMのInstagram管理画面には、♡ハートがたくさん届きます~! 皆さんの画面からはその様子をご覧いただくことができないので、ぜひここでご覧ください。 こんなふうに師へハートマークが・・・届きます。

Instagram
Instagramアカウント:@mahayogi.mission
https://www.instagram.com/mahayogi.mission/

 

ナリニー  


『マハーヨーギーの真理のことば』“何のために生きるのか”

あるドラマのタイトルの「どうする」というワードに惹かれて最近初めて歴史ドラマを真剣に見ました(笑)。命懸けで戦っていた戦国武将が、どういう事に迷っていたのか?その時どのように決断をし、人生を切り開いていったのかを知りたかったからです。
主人公が戦で窮地に追い込まれた時、「厭離穢土欣求浄土」――穢れたこの世を離れて極楽浄土へ行くという教えに従い、自害して命を断とうとする場面がありました。しかしその後、この教えの本当の意味は、穢れたこの世を浄土にすることこそを目指す、ということだと知り、生きる道を選択します。その場面を見て私は、まさにこれはヨーガに出会う前までの自分と、ヨーガに出会ってからの自分・・・と思えて、『マハーヨーギーの真理のことば』の「天国と地獄は人の心の中にあるものです」の言葉が浮かびました。(※第一章、第五節「真の自由と強さ」)
「何のために生きるのか?」ドラマの主人公も、私も、その目的を見いだせたから、瀬戸際で生きる決断を下したのだと思えました。昔も今も、人は普遍的な真理のことばを求め、それによって生まれ変わることができるのだと感じました。

また、先日の成人の日のニュースで、晴れ着姿の二十歳の人が「どういう大人になりたいか」のインタビューに答えている姿を見て、当時の心境をふと思い出しました。子供の頃から将来どうなりたいのか?どんな大人になりたいのか?どんな職業に就きたいのか?なかなかイメージや答えを見つけられず気付けば二十歳でした。その都度、精一杯考えた無理矢理な答えを当てはめながら・・・世間でうまく生きていくためには自分に無理をしないといけない、それがある意味、立派な大人になるということだとも思っていました。無理をしているから、しんどくて、本心は何もしたくない、ずっと寝ていたいと思っていました(!)。

『マハーヨーギーの真理のことば』のページをめくると、第一章、第一節、いちばん最初にこうあります。

自分の運命は自分で切り開いていくものです。
心次第で未来はどのようにでもなります

何かへの依存や甘えが、迷いを作り出していると気付かされます。全てが自己責任だと腹をくくれば、そこで迷いは断ち切れるのだと思いました。迷いがあるから、無理をして苦しむ。そういえばドラマの中の戦国武将も、迷いが断ち切れたとたん無敵の勇者になっていました(笑)。

本書のまず第一章には、この世の中で不自然な無理をせず、本当の意味で楽になって生きていくためのヒントがあります。 

師シュリーマハーヨーギーは、私がまだ二十代だった時、単純に、こういう大人の人に成りたい!と心から素直に思えた唯一の大人の方でした。社会の歯車の中で生きる意義を感じられず、離島などで自給自足暮らしをする願望を持っていた頃でしたが、それが吹っ飛びました。混沌としたこの世の中でも、影響を受けずに真っすぐ生きる方法があるのかもしれない、と感じたからです。師の生き方に理想を見て、師からヨーガを学んでいた先輩たちは、それを予感させるほど生き生きとして凛としていました。もう、それまでのどんな遊びも、どんなコミュニティも、どんなライフスタイルも魅力的には思えなくなり、あぁ、こんなふうに自然に生きる人になりたいと、そう思える年上の方に出会えたことが人生を転換させました。理想とできる姿や生きる目的が見えたら、人はどんな環境下にいても、信念からブレずに上だけを向いていられるのだと思います。きっと本書との出会いは人生を変えると思います。

第一章のなかで、何度読んでも熱いものが込み上がる箇所があります。二十歳の私はこれが聞きたかった。あの時の私のような人へ、これから生きていくあなたへ、ヒントがありますように。

第一章、第一節「自らの生き方に責任を持つ」より。

――娘を連れてきました。十七歳です。

何か将来、理想とか希望とかをお持ちでしょうか。

――いいえ。

(微笑まれて)実は私もなかった。十七歳の頃はね。多分そうだろうと思ってこういう質問をしたのです。
その時私はこう思った。この見渡す世間には自分の目指すものは何もない。また参考になるものも何もない。しかし、間違いのないことは、今、自分がこの肉体を持って生きているというこの事実です。自分がどのようになっていこうが、自分で自分を決めていく、そういうふうに決意しました。つまり良いことも悪いことも、何が起ころうとも、それは全て自らの責任だということです。もちろん悪い結果は作りたくありません、苦しむのは嫌ですから。かといって何もしないわけにはいかない。そうして何か自分にとって、自分のために良いことをしていくようにしました。もちろんそれがその先、結果をどう迎えるかも自分次第です。自分の責任です。うまくいかなければ自分の努力が足りなかった――そうすれば、更にもっと工夫をして努力をする。自分は自分から逃げ出すこともできないのです。自分を救い出すのは自分しかいないのです! だからこそ自分を高めて、自分をより良くして、自立していく――それをまず、理想としてください。 

将来どんな職業に就こうが、どんな生活をしようが、そんなことはあまり関係ないと思います。それらも全て自分の行なってきた行為の結果が現れるでしょうから。そして自分の内奥(なか)に、本当に尊い存在が在るということを信じてください。神は雲の上にいるのでも、宇宙の果てにいるのでもない。あなたの胸の中にいます。それは不滅の存在であって、純粋な意識のことです。それが誰もの本質なのです。そのことを知らないから、人々はみな苦しんでいるのです。何も興味がなければ、せめてこの単純なことだけでも実現してください。

マハーヨーギーの真理のことば-up

 

ナリニー  


『マハーヨーギーの真理のことば』” 生きる秘訣 “を読んで

 私は人と平和に仲良く付き合いたいという思いが強く、意識しすぎて他人とうまくコミュニケーションがとれず苦しみを感じています。ヨーガを始めて、他人によく思われたいという思いが原因だと分かりましたが、他人に好かれなくてもいいと心に言い聞かせようとすると、その人に対して無関心な冷たい感覚を感じたので、これは絶対違うとも思いました。好かれたいもダメ、好かれなくていいもダメ・・きっと好かれなくていいけれど、私は他人を愛し奉仕しますという境地が正しいのだろうと思いながらも、どうしたらそうなれるのか雲をつかむようでした。

 今回、「生きる秘訣」の章を読んで、他人と接する際、個性は無視すればいいとの教えに衝撃を受けました。ずっと、その人のいいところを見てそれを愛していくもの、悩みを打ち明けてもらえる程関係を深めて、その悩みや困りごとに対して自分ができることを親身になって行為することが「他者に善きことを行為すること」だと思っていたからです。
この教えをよく考えてみると、ここが好き、あそこが好きと判別すること自体、全ては等しく尊いという真実に矛盾しているのかなと思いました。

 また、愛に感情や言葉は要らない。ただ奉仕すればいいという教えも目から鱗でした。これもよく考えてみると、感情や言葉で仰々しく飾る程に、こんなに思っている私を分かってほしいというような見返りを求める気持ちが加わる気がします。無償の愛は本来もっとさり気ない、ただ状況がより良くなるよう行為する。そんなシンプルな姿なのかなと思いました。
そして自らを振り返ると自分を良く見せるために発している言葉がいかに多いか気づきます。やはり、きっぱりと「人に好かれたい」という気持ちを捨てることが必要だと改めて思いました。

他者のために思い、話し、行為できるように、「私」が出てきたら改めていけるように、日々自分の言動をしっかり観察するようにしていきたいと思います。

白石雅子