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ブラザー・ローレンスの教え〜神との対話〜

最近、複雑な問題に直面し、その答えを求められることがありました。
いろんな人の立場が絡まる問題であったので、答えを出すのが難しいと感じ、どうしようかと考えていました。
そんな時、私はブラザー・ローレンスに出会い、彼の信仰心にとても感銘を受けていました。
彼の実践の特徴の一つが「神との対話」です。

「私たちは何をするにも、すべてのことを主に相談する習慣を作らねばなりません。そのために、神と絶えず語り、自分の心を神に向ける努力をしなければなりません」

私は彼に倣い、瞑想の時にその問題を神へ相談しました。
そうすると突然「光」が見え、「光あれ」という言葉が自分の内側から出てきました。
その時私は、「そうか、自分が答えを出すのではなく、ただ光のようにあれば答えが照らし出される!」と感じ、自分のするべきことが示されたように思いました。
その直後、期せずして次から次へとその問題に関する出来事が起こりました。
私はただ光のようにあることを心掛け、淡々とその事象に対応し、そうすることで複雑に見えていた問題の答えが自然と照らし出され、無事に解決に至りました。

ブラザー・ローレンスはおっしゃいます。

「神は決して私たちに大きなことを望んでおられるのではなく、私たちがすべての時の瞬間瞬間をわずかでも神をおぼえ、神をあがめ、神の恵みを求めて祈り、私たちの苦しみを打ち明けて語り、神がすでに与えてくださった恵みや、今、試みの中に与えてくださっている恵みをおぼえて感謝するのが大切なことだと思います。神が求めておられるのは、あなたができるだけ多くの時に、神を自分の慰めとすることなのです」

私は、ブラザー・ローレンスを通して問題の解決に至ったことを、神に感謝しました。
でも改めてこの教えを読んだ時、もっと大切なのは「結果に執らわれず、どんな時も神をおぼえ、あがめ、祈り、神の恵みに感謝すること」であると、さらにまたブラザー・ローレンスから教わったように感じました。

「世の光」であられたイエス・キリスト。

ゴーパーラ


オンラインで「理想の聖者」について語らう!

6月に入りましたが、皆さま、いかがお過ごしですか?
こちら京都は緊急事態宣言が再々延長され、私の住む嵐山は観光客も少ない状況です。
そんな中ですが、5月は多くのグルバイ(仲間)とオンライン交流をしました!

「フォカッチャの会」では愛媛、金沢、和歌山、また台北のグルバイと楽しく有意義な時間を共有しました。

また、ニューヨーク・ミッションで行なわれている「Study In Practice (SIP)」にも3回続けて参加させていただきました。

「学ぶことを学ぶ」がテーマのSIPは、余談なしの真剣な勉強会で、終始ヨーガの話が展開されます。
「ヨーガは知識ではなく実践、そして体得」
そう師は教えられますが、「どうしたら知識ではない学びができるのか?」「自分の偏った考えに陥らずに学べるのか?」「どのようにヨーガの教えを日常に結び付けられるのか?」といったことを話していきます。
会に参加する中で、私自身改めて感じたのは、やはり「学ぶ」には「理想の存在」が必要不可欠だということです。
「こうなりたい」「こう生きたい」「こうすればいいんだ」という気付きや道標が、理想の存在を見つけることでより明確になるーー
つまり、理想の存在を持つことで、学び、見倣うことがより実際的になされ、修行者の大いなる助けになると思ったのです。

SIPに参加した数日後、フォカッチャの会のヨーガ・トークスの時間には、皆さんと理想について話をしました。

参加したグルバイたちは、それぞれ理想の聖者をもっておられ、そこに近づく努力をされていました。
以下、要約したものをご紹介します!

神に対してひたむきで真っすぐなスワーミー・アドブターナンダが大好きで理想としていますが、私は以前、人間関係に悩み、部屋で声を押し殺してよく泣いていました。そんな時、アドブターナンダのエピソードを読みました。「人気のないところに行き、泣いて神に祈らなければならない。その時に初めて、彼はご自身をお示しくださるだろう」というシュリー・ラーマクリシュナの教えを実践していたこと、「彼はこの世の何事にも頓着せず、人生の唯一つの関心ごとは師にどのように忠実にお仕えするかということだった」、これらに衝撃を受けました。「私は自分のことばかり考えて自分のために泣いている。こんなばかばかしいことは、もうしたくない!神を求めて泣きたい!神に対して誠実に真摯に生きたアドブターナンダのようになりたい!」苦しい時だったからこそ、真逆の生き方をしていたことに気付き、より深く心に響き、理想に生きたいと心底思うことができました。

・昔から闘う女性に憧れている自分がいて、その性質を棄てるのではなく、ある時から生かそうと思い、闘う女性の究極に女神カーリーを見出しました。また理想の聖者は、煉瓦に頭をぶつけるぐらい狂っているナーグ・マハーシャヤ、それしかないと思っています。

・以前、理想(の聖者)を決めかねていた時、先輩弟子から「気楽に決めていいよ」とアドヴァイスをもらいました。理想って気楽に決めてええの?と戸惑いつつ再考……スワーミー・プレーマーナンダの伝記の一節「彼は骨の髄まで清らかだった」に触れた時、「私には無理だ」とすぐに自分でもびっくりするほどの拒否反応が出た事を思い出しました。そして、なぜそれほどまでに拒否したのだろうとその原因を探っていく中で、逆に清らかさに憧れをもっている自分に気付き、プレーマーナンダを理想としました。彼に近づきたいけれど近づけない。壁を感じていたのですが、つい最近、どうにかしたいと七転八倒していると、「プレーマーナンダ」という「名前と姿」を超えた言葉では表せない『何か』が理想であり、更にその先に師のヨギさんがおられるのを感じました。
プレーマーナンダの言葉、「まずはじめに全身全霊でひるむことなく誠実であるように試みることだ。過去、現在、未来におけるいかなる時も、真理は必ず勝利する」が大好きです。

・最近、ブラザー・ローレンスの『敬虔な生涯』を読んで、とても感銘を受けました。この人生を彼のように神への礼拝に生きたいです!

理想について話すのは、本当にいいですね。
とってもポジティブになれます!!

最後に、私の理想の聖者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの最高に力強い言葉を紹介させていただきます。

皆さん自身の心にむかって、「私は彼である、私は彼である」とおっしゃい。歌のように、それを昼夜、心の中に響かせなさい。そして死の時には、「私は彼である」と宣言しなさい。それが真理です。世界の無限の力は皆さんのものです。皆さんの心を覆っている迷信を追い払いなさい。勇敢になろうではありませんか。真理を知り、真理を実践せよ。ゴールは遠いかもしれない、しかし目覚め、立ち上がり、ゴールに達するまで止まるな!

今こそ、内面へのヨーガを深める時ーー理想を見つけ、学び、近づき、一つになる時だと感じます!!

誰かが間違ったボタンを押したら、こんな画面になりました。

ゴーパーラ


『あるヨギの自叙伝』を読んで(9)ーーブラザー・ローレンス

ブラザー・ローレンスという聖者をご存知でしょうか?
『あるヨギの自叙伝』に、彼のことがほんの少しだけ紹介されています。

「17世紀のキリスト教徒の神秘家であったブラザー・ローレンスは、自分が初めて神の直接認識の境地をかいま見たのは一本の木を眺めているときであったと語っている。人はみな木を見ているが、木を見て木の造り主まで見た人はまれであろう」

たったこれだけの紹介でしたが、私は不思議とこの聖者に惹かれて、彼について調べてみました。
すると、「修道院の調理場や靴修理という身分の低い仕事をしながら、常に神と共にあった」ということが書かれていました。
私はそれを知った時、「私も仕事をしながらどんな時でもヨーガ(神)の境地に留まりたいのだ! 彼がどのような実践をして生涯を送ったのか、もっと知りたい!」と強く感じ、彼の談話と書簡が収められた聖典『敬虔な生涯』をすぐに購入しました。


100ページほどの聖典でしたが、ブラザー・ローレンスの素朴な言葉で語られる神への純粋な信仰に、私はただただ胸を打たれました。
以下、その彼の言葉を抜粋して紹介します。

「私たちが疑いの中にあるときにも、私たちが神をあがめ、神への愛をもって行動するという以外に何の野心も持っていないなら、神は必ず光を与えて下さいます。私たちの聖化は、私たちがすることを変えることによるのではなく、ふつう私たちが自分のためにしていることを、神のためにすることによるのです。多くの人々が、ある特定のことをしなければならないという思いに駆られつつも、さまざまな思い込みによってなすために、結局は不完全なことしかできず、それも、きまって手段を目的ととりちがえているのは悲しむべきことです。私の発見した神に近づく最上の方法は、神に従う生活の中で与えられた普通の仕事を、私たちのうちにひそむ人間的な要素から遠ざけつつ、できる限りを尽くして純粋に神を愛するために行なうことです」

「私たちの務めはただ神を知ることです。神を深く知れば知るほど、ますます神を知りたいという飢え渇きを覚えるものです」

「もし神が私を一瞬たりとも見放されるなら、私ほど哀れな者はありません。でも神は決して私を見放されないお方であることをよく知っています。私には信仰によって肌に感じるほどに強い確信があります。それは、私たちが神を捨てないかぎり、神が私たちをお見捨てになることは決してないということです。私たちは神と共にある者となりましょう。神と共に生き、また死ぬ者でありましょう」

神のご臨在と確信に満ちたブラザー・ローレンスの信仰心がありありと感じられる、なんと力強い言葉でしょうか!
私はこの『敬虔な生涯』を何度も読みましたが、その度に新しい発見と新鮮な歓びに満たされるのです。

では、ブラザー・ローレンスがどんな生涯を送ったのか、彼の言葉を軸に少し紹介したいと思います。

ブラザー・ローレンスは1614年にフランスで生まれ、キリスト教信者であった両親に育てられます。軍職に身を投じたローレンスでしたが21歳の時に負傷し、その時から神に身を捧げることを考えるようになります。正確な年代は不明ですが、おそらくこの頃に神の直接認識の境地を体験したようです。彼自身はこの体験を次のように振り返っています。

「ある冬の日、私は落葉して見るかげもない一本の木を見ながら、やがて春が来ると、その木に芽が出て、花が咲き、実を結ぶ……、と思いめぐらしているうちに、いと高き神の摂理と力とを魂にはっきりと映され、深く刻みつけられました。そしてこの世のことはすっかり心から消え去りました。この恵みを受けてから、もう40年たちますが、その時ほど、神への愛を強く感じたことはないと言えるかもしれません」

26歳の時、パリのカルメル会に助修士として入会し、その2年後に修道誓願を立てます。ローレンスは「自らを全く神に捧げ、神への愛ゆえに、神とかかわりのないものはすべて捨てる決意を固めた」のです。ただ、最初の10年は辛い時期を過ごします。苦手な台所の仕事を与えられ、仲間が彼を修道院から追い出そうとしたり、また内的な葛藤が彼を苦しめます。「自分が願っているように神のものとなっていないかという心配」、「いつでも目の前をちらちらする過去の罪」、また「神のいつくしみ」までもが嘆きの源であり(※神が与えてくれるもの、それは神そのものではないと拒んでしまう)、人間も理性も神すらも対抗しているように感じられるのでした。しかし、ローレンスはつまずき倒れてはすぐにまた立ち上がるという、「一度も神から離れたことのない者のように神の臨在を思う訓練」を繰り返し続けます。神への信仰だけが彼の側にあり、苦しめば苦しむほどますますその信仰が増し加わっていき、ついにその魂は神と結ばれる日がやってきます。

「私はさまざまな悩みと思い煩いで一生を終えるしかないと考えていた時、突如として私は、自分が変えられたことに気づきました。その時までずっと悩みの淵におかれていた私の魂は、奥深くに内なる安らぎを味わいました。それからは、単純に信仰により、謙遜と愛をもって神の御前に働くことができるようになり、神を悲しませるようなことは一つとして考えたり、言ったりしないようにしています」

ローレンスがこのように聖化されたのは神の愛はもちろんのこと、神以外のことを放棄する決意と不断の実践、その賜物だということは明らかです。
その後ローレンスは常に神のご臨在の中で生きることになりますが、彼の言葉を借りれば、それは「王よりも幸福な気持ち」であったそうです。

「私は神への愛ゆえに、フライパンの小さなオムレツをうらがえします。それが終わって、何もすることがなければ、私は床にふして私の神を礼拝し、オムレツを作る恵みを与えて下さったことを感謝し、それから、王よりも幸福な気持ちで立ち上がります。他に何もすることができない時、神への愛のためには、一本のわらを拾い上げることでも十分です。人々はどのようにして神を愛するかと学ぶ方法をさがしています。その人たちは、私の知らないいろいろな実際的方法を実行することによって、神への愛を得たいと願っています。さまざまな手段によって神の臨在の下に留まろうと苦労しています。それよりも、すべてのことを神を愛する愛のためになし、生活の必要の中ですべき自分のあらゆる務めを通して、その愛を神に示し、神と心を通わせることによって自分の内に神の臨在を保つことの方がもっと近道ではないでしょうか。複雑なことは何もありません。率直に、単純に、それに向かって行きさえすればいいのです」

さらに驚くことに、ローレンスは病の苦痛が最も烈しいときでさえ、一瞬たりとも辛そうな様子は見せず、喜びに溢れていたそうです。「痛みはないのですか?」と見舞いに来た修道会のメンバーが思わず尋ねると、「すいません。痛みはあるのです。わきが痛いのです。でも魂は満たされています」と答えるのでした。
そして最後に次の言葉を残し、ローレンスは神の身許へ召されたのでした。

「私は今、永遠になしつづけることをしています。神を誉め、賛美し、礼拝し、心を尽くして神を愛しています。他の何ものにも心を煩わされないで、神を礼拝し、神を愛すること、これが私たちのなすべき仕事のすべてですよ。兄弟たち」

私は今回、『あるヨギの自叙伝』を通して本当に素晴らしい聖者にお会いできたと実感しています。
宗教的偏見などは全くありませんでしたが、ブラザー・ローレンスによって初めて、私はキリスト教の信仰がすごく身近に感じられました。
またバクティ・ヨーガでは「神の御名を唱え、ただ神を愛する」ということが説かれていますが、バクティ(神への信愛)の思いもまた同時に身近に感じられました。

私の師であるシュリー・マハーヨーギーはよく次の言葉を言われます。

「愛とは捧げること、自らを他者の幸せのために与えることです」

ブラザー・ローレンスのように日々の生活の中で常に神を礼拝し、愛し、そして他者に奉仕することをしていきたいと私は今、強く思っています。

ローレンスの死後、霊的低迷期の時代にあって宝石のように光を放つ彼の生き方に深い感銘を受けていた修道院長のヨセフ・ド・ボーフォールが彼の談話と書簡を集め、本にまとめます。彼の存在はフランスでは忘れ去られますが、イギリスの地で本の出版が少しずつ重ねられ、世に知られることになったそうです。そして、ヒンドゥ教の多くの修行者もローレンスの本を読んで非常に感嘆しているという報告もあるそうです。こちらの本には、そのことが触れられています。

ゴーパーラ


スワミ・ヴィヴェーカーナンダからのインスパイア

『ヴィヴェーカーナンダの生涯』は何年も前に一度読んだことがあるのですが、断片的な記憶しかありません。しかし、あまりにも有名な聖者ヴィヴェーカーナンダのことは、サットサンガやパラマハンサ、ブログでもよく登場するので有名なエピソードは知っています。久しぶりに読み返してみると、とにかく心臓がえぐられるぐらい感動し、言葉をなくし、ただただ泣いてしまいました。なんと濃密な人生でしょうか。今回は、その感想を少し書かせていただきました。


(ヴィヴェーカーナンダの略歴などは今回省かせていただきます。まだ読んだことがないかた、あまり知らない方は私の説明を聞くよりは実際に読んでもらった方が良いと思います。)

今、私がヴィヴェーカーナンダとはどういう人か?と聞かれたら、こう答えます。

「人間の中にある神性を最も信じ、それをありありと見た人。自分自身がそれであるということも、それを他の人の中に見ることも、誰にでも可能だと断言し、それは、人に奉仕することによって実現する、ということを自らの命を削って世界に発信した人」

読んでいると、本を飛び出してヴィヴェーカーナンダが、今この世界に向けて同じように「全てが神の表れである、だから万人に仕えなさい」と語りかけてくるようで正直圧倒されました。それは彼のあまりにも濃厚な人生全体が、そのメッセージを含んでいると思ったし、一瞬たりともその想いから外れていない彼の一つ一つの行動が、彼の獅子の如く力強い言葉とともに証明しているように感じました。彼は、メッセージを世界に送っただけに留まらず、実際に一人でも多くの人間を目覚めさせるために、具体的に行動を起こし、そのために命を使ったのです。

多くの言葉に感銘を受けましたが、その中で自分自身が時代を超えてヴィヴェーカーナンダの恩寵をいただいていると感じた言葉を一つ紹介させてください。

「ヒンドゥ思想を英訳し、無味乾燥な哲学と難解な神話、奇妙で驚くような心理学をわかりやすく簡潔な一般向けの宗教にして、同時に最高の知性の要求にも答えることは、実際に試みた人にしかわからない大役だ。難解なアドヴァイタが日常生活の中で生命を持った詩的なものとならねばならない。煩わしいヨーガの学説が極めて科学的で実践的な心理学が引き出されなくてはならない。そしてすべての子供にも把握できるような形にすること、それが私の仕事だ。どこまで完成するかは、神のみがご存知だ。働く権利はあっても、その結果に対する権利は持たないのだから」

インドの歴史背景については詳しくありませんが、ヴィヴェーカーナンダの時代(そのもっともっと前から)インドには宗教の地盤はしっかりとあったと思います。しかし、難解で誰にでも分かるようなものではなく、おそらくブラーミンと呼ばれる僧侶階級にある人が理解できるものとなっていたのかもしれません。彼はヒンドゥ思想がもつ、その霊性の宝石をもっと日常生活の中で生命を持つよう、子供でも分かるような形にする必要性を感じていたのではないでしょうか。インド人に対してはもちろんのこと、新しくヒンドゥ思想に触れた世界中の人、特にアメリカ人に対して理解できるようにという思いがあったと思います。ヴィヴェーカーナンダは、インドの貴重な霊性の宝石は、宝石箱がないために汚物の山に埋もれている、反対に西洋は、健全な社会という形で宝石箱を作り上げたが、宝石を持ってはいなかったと言われています。そのため宝石箱を持つ国に、宝石を伝える必要性を感じていました。

そして実際に試みられた彼のいう「大役」の一つが、私たちが手にすることができる代表的な四冊「カルマ・ヨーガ」「バクティ・ヨーガ」「ラージャ・ヨーガ」「ギャーナ・ヨーガ」ではないでしょうか。


クラスに通いだしてまず始めて読んだ本は、「カルマ・ヨーガ」だったと思います。働くということの意味が理解できない、生きるためにお金を稼ぐ必要があることは頭で理解できるが、それをすることが生きることなのかと混乱していた私にとって、働くときの正しい考え方を教えてくれました。「利己心を捨てて働くこと、働きの結果、果実は私のものではないこと、そこに重要性はないということ。結果ではなく、働くという行為によって束縛から解き放たれ、ついには自由になること」自分自身の人生の方向性を知り、安心と喜びを得たことを覚えています。

「キャーナ・ヨーガ」を読んだときは、人間の本性について、私の中に神聖なものがあるのだということを知り、そのものすごく力強い言葉に圧倒されてしばらく動けなくなったことを覚えています。また、神、宗教というこれまで漠然としていた言葉、それでもその言葉の中に「神聖なものがあってほしい」と心のどこかで願っていたことに対して、「それでよかったのだ」と思うことができ、喜びで満たされたことを覚えています。

どちらの本にしても、それを読んで終わりではなく、実際の仕事や家族と関わりの中で、その考えを根付かせようと努力するすべを教えてくれたように思います。これこそが、ヴィヴェーカーナンダが願っていた「アドヴァイタが日常生活の中で生命を持ったもの」となったのだと思います。彼の働きは、時代を超えて、国境を超えて、ひとりのまだヒンドゥの思想を知らない日本人の中に根付き、理想を持たせてくれたと思います。

そして何より、インパクトがあったのが、「誰がこれを言っているのか!」ということでした。これを書いた人が実際に存在していた人間であるということ、それが何よりの励ましでした。人間の可能性をどこまでも広く大きくし、理想的な姿を現してくれました。同じ人間としてこのような人がいる・・・それだけで私は希望を持ち興奮したことを覚えています。

ヴィヴェーカーナンダと自分との関わりについて思いを馳せていたとき、ふと思い出されるエピソードがありました。それは、ヴィヴェーカーナンダのグルであるラーマクリシュナが、修行時代、自らの内にある驕りを無くすため、パリヤと言われる不可触民のトイレを自分の髪の毛を使って掃除をしたというエピソードです。ラーマクリシュナの中に不平等さや驕りが実際にあったのかどうかは分かりませんが、これは弟子に、教えを行為で示すためになされたように思います。誰もの中に神聖がある、すべてが同じ存在であると口で言うだけでなく、実際の行為で見せる。ヴィヴェーカーナンダがアドヴァイタ(不二一元論)を日常生活に根ざしたものとするために奮闘したことは、師であるラーマクリシュナの教え、そのものだったのだと思いました。ラーマクリシュナが実際に生き、それを見たヴィヴェーカーナンダが、それを同じように生き、さらに方法を駆使して世界に広めた、すべての根っこは師であるラーマクリシュナにあるし、こうして生きざまとして師と一つである、その姿にとてもとても憧れを感じました。

ひとつひとつのヴィヴェーカーナンダの行為は、あまりにも大きく、自分の生きている生活とかけ離れていて、彼を理想として何をすればいいのか一瞬わからなくなることがあります。でもそうではなく、彼が信じた人間の本性、神聖さ、純粋さは、すでに誰もの中にあるのだから、それを自らの中に実現していくこと、そして、目の前の人もその神聖な存在なのだから、自分の目の前の人に奉仕していくこと、それだけなのだと気付かされます。

最後にヴィヴェーカーナンダの力強い言葉を紹介して終わりにします。

「私は死ぬまで弛まずに働くだろう。そして死後も世界のために働くだろう。非真理に比して、真理は無限の力を秘めているのだ。それは人格、純粋さ、そして真理の力、人としての力だ。私にこうした力がある限り、あなた方は安心してよい。誰一人として私の髪の毛一本とて痛めることはできない。やっても失敗に終わるだろう、主がそうおっしゃったのだから」

彼は今も働いているのです。私たちもそれに続こうではありませんか。


永遠の物語 悪から善がでて来る

またもや永遠の物語を読んでいると、こんな話がありました。

王様が大臣をつれて狩りにでかけました。王様は無神論者でしたが、大臣は大変信心深く、人の身に起こったことはなんであれ、究極には神の思召しで彼のためによいことになる、と信じていました。

王様は森の中で雄ジカを見つけました。弓に矢をつがえようとした時、鋭い矢の先端で手の指を1本傷つけてしまいました。大臣は王様にこの傷は何かお為になるでしょう、と進言しました。これを聞いて王様は腹を立て、近くの井戸に大臣を突き落としました。王様は憎々しく、井戸に落ちたのはお前の幸せためであるぞ、と言いました。

王宮に帰ろうとした矢先、王様は盗賊の一団に捕まってしまいました。彼らは女神カーリのお祀りの準備をしていて、生贄(いけにえ)として祭神に捧げる男を探していました。王様は女神の前につれてこられ、沐浴させられた後、身体を調べられ、指の傷が発見されました。身体が完全に無傷な人間しかお供えしない、というのが盗賊たちの掟でした。それで彼は放免されました。

ここで王様は今日の出来事をよく考え、指の傷が自分を救ったことに思いいたり、大臣の言葉の正しさを悟りました。彼はそこで井戸に戻って大臣を引き上げました。彼が大臣に一部始終を話すと、後者もまた、もし王様が私を井戸に突き落としていらっしゃらなかったら、盗賊は私を捕らえて生贄にしたでしょう、と言いました。


どんな状況下にあっても、素直に神を信じ続ける大臣の姿に胸が躍りました。すべては神の思し召し、と言葉にするのは簡単ですが、実際にどんな状況も受け入れていくということは、尋常でない強い信仰が要ることです。そして物語の結末は痺れました。王様は大臣の進言の通り、指に傷を負ったことで命が助かり、大臣は王様に井戸に突き落としてもらったお陰で、盗賊に見つからずに命が助かったというのです。神のなさることは人間の想像を超えている、と言います。そして神は不可能を可能にすると言います。どんなときも神へのゆるぎない信仰をもつ大切さが、とてもよく感じられる物語でした。

ところで最近、私はわりと長く働いた職場を辞め、新しい仕事に就くことになりました。新たな人との関わりや、新たに仕事を覚えることなど、今までと勝手の違うことに慣れるのには、しんどいことも色々あるだろうな・・・と思うと、自分で決断したこととはいえ少し不安を感じていました。けれどこの物語を読んで頑張れる気がしてきました。すべては神の思し召し。どんなことも自分のためになるのです。この金言を常に胸に抱きながら、新しい仕事と向き合っていきたいと思います。

                                  アマラー

 


『あるヨギの自叙伝』を読んで(6)ーーラマナ・マハリシーー

約2年ぶりの「『あるヨギの自叙伝』を読んで」のコーナーです‼️

今回は、20世紀インドの覚者ラマナ・マハリシです。

「身体は死滅するが、魂は死によって決して手を触れられることはない。私とは不滅の魂なのだ」

ーーラマナ・マハリシーー

16歳でこの不滅の魂である「本当の私」に目覚めたラマナ・マハリシ。
今年に入り私は、「本当の私」に瞑想を始め、ラマナ・マハリシにすごく惹かれるようになりました。

そこで最近、『あるヨギの自叙伝』にヨーガナンダがラマナ・マハリシのもとを訪ねていたことが書かれていたのを思い出し、読み返してみました。

すると、ラマナ・マハリシについて記されていたのは、写真を含めてわずか1ページ……😅

なぜこんなに短いのだろうと思ったのですが、2人の交流がわずか数時間だったこと、またラマナ・マハリシにはすでに弟子がいたので、ヨーガナンダは詳しい紹介を留めたのかもしれないと思いました。(現に今、ラマナ・マハリシの著作は弟子や信者によって数多く出版されています)

ただ、この1ページの中には、「沈黙の聖者」と称されるラマナ・マハリシとの「言葉ではない交流」が感じられます。

例えば、アーシュラマ(僧院)を訪れたヨーガナンダを暖かく迎えたラマナ・マハリシは、傍にあったヨーガナンダが発刊していた雑誌『イースト・ウエスト』が積まれた山を指差したそうです。
また、ラマナ・マハリシの弟子たちを交えての会話だったため、ラマナ・マハリシ自身はほとんど何も語らなかったようですが、その穏やかな顔は神のような愛と英知に輝いていたそうです。

心の波が静まる「沈黙」が訪れると、その奥に在る不滅の魂「本当の私」から「無限の歓び」が湧いてくると言われています。
たとえ言葉を発さなくても、ラマナ・マハリシのちょっとした行為やその表情から、霊的な交歓がなされていたことが感じられるエピソードです。

そしてヨーガナンダは、ラマナ・マハリシの紹介を最も主要な教えである「私は誰か」で表しています。

スリ・ラマナは、苦悩する人類に、彼らが見失ってしまった〝完全なるもの〟を取り戻させるために、「人はたえず『おのれとは何者か』と自らに問いかけるべきである」と教えている。これこそまさに〝偉大なる問い〟である。これ以外の考えを厳しく排除することによって、人は、真の自己の中にしだいに深く沈潜し、雑念に惑わされないようになるのである。

「おのれとは何者か」、つまり「私は誰か」ーーこれをヨーガナンダは「偉大なる問い」と言っています。
いろんな問いがこの世界には溢れています。
例えば、「仕事とは何か?」「人生とは何か?」
ただ、どんなことを考えるにしても、「仕事をしている私」「この人生を生きている私」というふうに、そこには「私」がいます。
「私のしたい仕事をする」「私がやりたいように人生を生きる」とはよく聞きますが、「では、その私は誰か?」と考える人は本当に稀です。
この主体を考えないこと、これこそ苦悩する人類の盲点であり、その主体である「私」を熟考し、偉大なる「本当の私」を自覚するための問いが、「私は誰か」にあると思います。

今年に入り私自身、「私は誰か」という瞑想を始めていますが、上記のヨーガナンダの一文にそのヒントをいただいた気がしました。
それは「たえず」「それ以外の考えを厳しく排除」というところです。
バクタが神以外のことを思わないように、心にいかなる思いが起こったとしても本当の私に立ち戻る「私は誰か」、その問いを繰り返し繰り返し実践していく、これを徹底していきたいと私自身、強く思いました。

そして今回、『あるヨギの自叙伝』はどんな小さなエピソードや一文からでも真理が学べ、本当に素晴らしい聖典であると改めて実感しました!
まさに真理で埋め尽くされた宝の宝庫です🌝💎

ゴーパーラ


永遠の物語 牡牛ー神

最近、『永遠の物語(日本ヴェーダーンタ協会)』の本を読みました。

その中でこんな話がありました。

ある1人のヨーガ行者が人里はなれた森で修行をしていました。1人の牛飼いが、このヨーガ行者が何時間も瞑想や苦行をし、1人で勉強して過ごしているのを毎日見て、何をしているのか興味が湧き、近寄って言いました。

「旦那、神への道を教えてください」このヨーガ行者は非常に学識が深く、偉大な人物でした。「お前がどうやって神を理解できるのかね。お前はただの牛飼いだ。うすのろめ。帰って牛の番でもしていろ」と答えました。男は立ち去りましたが、しばらくすると本当に知りたいという欲求が強くなりました。居てもたってもいられず、またヨーガ行者のところにやって来て、神の教えを請いましたが、また追い返されました。

それでも牛飼いは神について知りたくてたまらず、またヨーガ行者のところに行きました。あまり強引にせがむので、ヨーガ行者は男を黙らせようと、「お前の飼っている群れの中の大きい牡牛のようなものだ。それが神だ。神はそのような大きい牡牛になるのだ」と言いました。

男は牡牛を神と信じ、日夜拝み始めました。その牡牛のために一番緑の濃い草をやり、横で休み、明かりを灯してやり、近くに座り、後を追いました。そのようにして年月がたちました。

ある日、あたかも牡牛から出たような声が聞こえてきました。「私の息子よ、私の息子よ」牛がしゃべっているのかどうなのか、心の悩みを思いめぐらしました。何度か声を聞くうちに、やっと分かりました。声は自らの心の中から聞こえて来たのです。そして神は自分の心の中に居ることを悟りました。最高の教師が説くすばらしい真理が分かったのです。「私はつねに汝とともにある」。まずしい牛飼いは神秘の全容が分かりました。

そこで彼はヨーガ行者のところにまた赴きました。牛飼いは全身神々しい姿に変わり、顔つきにも天国の光の輝きが放たれているかのようでした。ヨーガ行者は思わず立ち上がりました。「何という変わりようだ?どこで見つけたのだ?」「旦那、あなた様がそれをくださいました」「なんだって?私は冗談で言っただけなのに」


牛飼いの、偏見をもたれても2度断られても諦めず、ヨーガ行者に教えを請いに行った心の強さに感服しました。彼の中では、ただ純粋な神への探求心で胸がはち切れそうなのがひしひしと伝わってきました。

そして牛飼いは、方便であるヨーガ行者の言葉をそのまま素直に受け入れて実行し、ついに内なる神に目覚めました。牛は神のシンボルとなっていたのです。純粋に神だけを求めて礼拝する真剣な思いを、ヨーガ行者の思惑とは別のところで神はちゃんと受け止めておられ、ついには恩寵を与えられたのです。

どこにいても、何をしていても、純粋に神に捧げたいという気持ちで日々を過ごしていれば、神はその思いに応えられ、いつか道が開ける時が来るのだと勇気をもらいました。

                                                                                                               アマラー


人はパンのみに生きるにあらず

「誰でも空を見ることはできます。地をはう虫でも青空を見ます。しかしそれはなんと遠いことでしょう!われわれの理想もそれと同じです。確かにそれは非常に遠い、しかし同時に自分はそれを持たなければならないということを知っています。われわれはまさに最高の理想を持たなければならないのです……、そしてこの理想が自分のハートに、頭脳に、血管の中に入るまで、それが自分の血管の一滴一滴の中まで振動し、身体の毛孔の一つ一つに浸透するまで、できるだけよく聞かなければなりません。それを瞑想しなければなりません。ハートが満ちあふれて口が話す、ハートが満ちあふれて手も働くのです。
われわれの内部の推進力は、思いです。心を最高の思いで満たし、今日も明日もそれらを聞き、この月も、次の月もそれらをお思いなさい。決して失敗を気になさるな……理想を千たびも掲げ、もし千たび失敗したら、もう一度努力しなさい。人の理想は、あらゆるものの中に神を見ることです……時間をおかけなさい、そうすれば目標に到達します」

これはスワミ・ヴィヴェーカーナンダの『ギャーナ・ヨーガ』の「あらゆるものの中の神」という章に書かれている一説で、1896年10月27日、ロンドンでの講演内容です。『ギャーナ・ヨーガ』にはロンドンやニューヨークでの講演の内容が収められていますが、どの講演の内容も、真理を直感した魂が、言葉のゆるす限りを尽くして、私たちに真理の片鱗を伝えようとする情熱と活力に満ち溢れています。何よりも驚くことは、ヴィヴェーカーナンダは、講演に原稿を持ち込まなかったということ。120年以上の時を超え、紙という媒体を通じてさえ、その情熱と活力、慈悲と生命の輝きを感じますが、実際にこの講演を聞いた人は、どれほどの衝撃を受けたことでしょうか。

私にとって『ギャーナ・ヨーガ』は、ヨーガを始めて間もない頃に読み、それまで私の中にあった「神」や「宗教」という言葉の観念を覆し、新たな概念を納得する形で教えてくれた本でもあります。納得せざる得ないほどの説得力があるということもありますが、それよりも彼の持つ熱量(プラーナ)の凄まじさに圧倒され、そして魅了され、自分の持つちっぽけな考え方は見事に破壊されたという感じでした。毎回、読むたびに感動し、細胞一つ一つが真理を求めて躍動するかのようです。キリストの言葉に「人はパンのみに生きるにあらず」という言葉がありますが、まさにこの本を読むと真理への渇仰で体と心はパンパンになり、私はそれによって生かされていると思うのです。


識別とヴィヴェーカーナンダ(最終回 )& 今年の締め括り

2019年も残すところ、あと2日になりましたね。
皆さま、年末をいかがお過ごしでしょうか?

さて、今年の私の目標は「徹底識別」ということで、この「識別とヴィヴェーカーナンダ」の連載をスタートさせ、ヴィヴェーカーナンダ、おもにその著作『ギャーナ・ヨーガ』を通して、識別を学んでいきました。
また同時に、私自身の心が執着している世界の対象と、それに対する心の動機というものにも「常浄楽我」という真理を当てがって識別を行ない、世界と心の働きにリアリティという実在性がないことを見極めていきました。
しかし依然として、心には「私」と主張するエゴ意識があり、どのようにしてエゴ意識がなくなるのか分からず、識別も難航していました。
そんな時、10月のサットサンガで師にその打開について尋ねると、師は大きなヒントを与えてくださいました。
それがサーンキヤ哲学が説く二十四の原理ーーエゴ意識が発生する前段階の「ブッディ(認識)」ーーその教えです。

「アハンカーラ(エゴ意識)のもう一つ始まりにあるブッディ(認識)というものだけれど、このブッディがすべてのナーマ・ルーパ(名前・形)をつくり出す原因になっている。だから必然的に私意識の源にいけば、そのナーマ・ルーパというものの正体というか、それの根源の方に行き着くことになって、ナーマ・ルーパというものもこの世界が展開するときに発生したものだから、それらは消えていくことができます。消えていくというのは、プラクリティという根源にそれを引き戻すという、実際には消えていくという関係です」

この教えを聞いて、「ブッディ(認識)があるから自分と他者、世界の区別ができ、エゴが成り立ってくるのか」と感じ、目から鱗でした。
そこで私は、エゴ意識に常浄楽我を当てがうということから、エゴが出てくる源のブッディ、そしてプラクリティを辿っていく二十四の原理の瞑想を行なっていきました。それと同時に、二十四の原理の教えと類似している十二因縁の瞑想も行ないました。
その瞑想を続けていくうちに、心にゼロがかけられていく感覚が起こったり、また心を辿っていくと最後に残るのはプラクリティの根源であるカーリー、オーム、師のお姿という感触がありました。
そして忙しい合間、ただ階段に腰掛けて休憩していた時、この識別瞑想を行なうと、心そのものが解体されていく実感がありました。それは家が崩れていくようなものでした。
それからは不思議と、心自身がリアリティという実在性を失い、心の思いに執らわれることが一気になくなっていきました。
そして『ヨーガの福音』の師の教えの一節が自然と思い出されました。

「『複合物』はすべて生まれ、変化し、消滅するということです。『単体』なるものは初めから生まれもしないし、なくなりも変化もしない。それのみが実存しています。実体は永遠なのです。それが私たちの本当の自己であり、神、真理です。それだけを求めなさい。そして実現しなさい。あなた自身なのですから」

人生の主人公は解体されるような心ではない、その奥に在る壊れることない本当の自分、アートマンであります!
心に実在性がないと分かった今、私の心はアートマンに向かっています!!
2019年、この年も師の大いなる導きに誘っていただいたと確信した1年でした。
最高の師シュリー・マハーヨーギーに感謝致します。

ゴーパーラ


バクティ・サンガム キールタン

天王寺にあるプレーマヨーガサークルで12月5日(火)にバクティ・サンガムが開催されます。http://www.mahayogi.org/classes/bhakti_sangam(詳しい場所と時間はこちらから)
熱心にヨーガを学ぶ尾崎さんが、バクティ・サンガムとキールタンの魅力について書かれた文章をご紹介いたします。

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先週のクラスは「バクティ・サンガム」でした。年に4回しかない貴重なキールタンのクラスですので毎回とても楽しみにしているのですが、今回はいつもと違いました。というのも、私はここ最近ヨーガに真剣に取り組むことができなかったのです。

きっかけは些細なことで動揺し、ズルズルと心に振り回されている自分に気づいたことでした。思い通りにならないことに直面して苦しいばかりか、ヨーガを学んでいるが故に心を制御できないことに対して不甲斐なさも感じ、また苦しくなる。同じ苦しさを感じるのならヨーガを知らない方がマシだったのではないか?何のために苦しんでまでヨーガを学びたいと思うのか?また、家族と暮らす身でヨーガを学ぶことに窮屈さを感じていました。どちらも大切で優先させたいけれど、どうすればできるかわからない。自分にはできない。 かと言って、今さらヨーガの教えなしに生きていくなんて到底無理だとわかっている。それなら今まで学んだ少しのヨーガの教えと時々アーサナをやっていれば、それでいいんじゃないか?そんな事ばかり考えていました。 もう、心はドロドロとしたエゴでいっぱいでした。

そんな最悪の状態でしたが京都のヨーガの師のところへ行く機会があり、そのままの気持ちを聞いていただきました。師はいつもの穏やかな笑顔で「とにかく少しでいいから毎日アーサナと瞑想をすること。続ければ必ず変わるから」と仰られ、やはり続ける他に道はないのだと気持ちを新たにしましたが、どこか靄のかかったスッキリとしない気持ちのまま「バクティ・サンガム」を迎えました。

今回は「Nanda La La」というゴーパーラ(クリシュナの幼少期の名)を歌ったキールタンを教えていただきましたが、メロディが頭に入ってきません。神に向けて歌うなんてほど遠く、必死に歌詞カードを追っているうちに1回目のキールタンが終わってしまいました。続いて、ミラバイさんがゴパーラ・マーのお話をしてくださいました。それを聞いて私のハートは大きく揺さぶられました。

ゴーパーラ・マーは幼くして未亡人となり、貧しい生活をおくっていましたが、とても信仰心が篤く、朝は3時に起床し、夜遅くまでジャパ(神の御名を詠唱するマントラのようなもの)を唱えるなど、苦行を行っていました。また、ラーマクリシュナを純粋に愛し彼のもとへ足しげく通っていました。ある朝、いつものようにジャパを唱えていると左側にラーマクリシュナが座っておられるのに気づきます。そっとその腕に触れた途端、その姿は生後10か月ほどのゴーパーラのビジョンに変わりました。ゴーパーラはゴーパーラ・マーを「お母さん」と呼び、イタズラをしたり甘えたりしてきます。彼女はゴーパーラの世話に没頭し、ジャパや苦行をするどころではなくなってしまいました。

夜が明けるとゴーパーラのビジョンを抱いてラーマクリシュナのもとへ向かいました。ゴーパーラ・マーはラーマクリシュナに昨日あったことを涙ながらに高揚しながら話します。その間ゴーパーラのビジョンがラーマクリシュナの体を出たり入ったりするのを見て、ラーマクリシュナとゴーパーラは同じなのだと気づきます。その数日後、ゴーパーラ・マーはラーマクリシュナから「もうジャパはしなくていい。おまえは一切を成就したのだ」と言われました。「だが、私の体が健康であるように修行をしてくれるか?」とも言われ、ゴーパーラ・マーは「これからは全てあなただけに捧げます」と誓い、一層修行に励みました。ゴーパーラのビジョンは2か月間ほど続き、その後も瞑想すればゴーパーラが彼女の前に現れたそうです。


ゴーパーラはバターが大好物。
こっそり食べていたのがお母さんに見つかってしまいました。

私はこのお話を聞いていたとき、ゴーパーラのビジョンがミラバイさんの周りをぴょんぴょん飛び跳ねて遊んでいる姿が見えた気がしました。そうしたら、ゴーパーラが自分の家族の姿と重なり涙が溢れてきました。そして、ゴーパーラのビジョンがラーマクリシュナの体を出たり入ったり…という所で、私は大切な事を忘れているのに気づきました。

「人は皆、神なる存在である」ということです。もちろん家族も一人一人が神なる存在であり、家族に奉仕することは神に奉仕すること。私がヨーガか、家族か、と悩んでいたことは全くの愚問だったのです。私は、家族という無償の奉仕を捧げることができる環境を与えて頂いていたのに、それに気づかないどころか、ヨーガと真剣に向き合えない言い訳にしていました。2回、3回と「Nanda La La」を歌うたびに今まで否定的に考えていたことが、全て正反対であったこと、師からたくさん恩寵を受けていることに気づき涙が止まらなくまりました。

いつもはキールタンを歌うと、なんだかわからないけど喜びが溢れ涙が出てくるのですが、今回は歌いながら様々なことに気づき、終るころには、それまで感じていた靄はなくなりスッキリした気持ちになりました。本当に一生懸命、神に集中してキールタンを歌えば、それは識別瞑想をも上回ることがある。と、ミラバイさんが経験談を話してくださいましたが、ほんの少しそれを味わえたのかもしれません。

やっぱりキールタンって、いい ヨーガって、面白い