シュリー・マハーヨーギー/師の教えとサットサンガ」カテゴリーアーカイブ

師 ニューヨークより帰国される

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

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私たちの師は六月から九月までの三ヶ月間、ニューヨークに滞在され、ヨーガを学ぶ者たちにその教えを説いてこられました。今回はシカゴにも足を伸ばされ、多忙な日々を過されたようです。先日、その滞在を終えられ、日本に帰国後初めてのサットサンガがありました。
同行した弟子たちのニューヨーク滞在の報告の後、師はニューヨークの弟子たちのサンガの意識が深まってきているとご報告になりました。
サンガとは同じ志をもった修行者や仲間たちの集まりのことです。ヨーガにおいては、真実に目覚めるために努力する者たちが、グルの指導のもとお互いに励まし合い、助け合い、修行を深めていく集まりのことになりますが、師はニューヨークのサンガも、理想の人生を共有し、それぞれが積極的な活動を行なっていくことができるようなったと喜ばれました。

今回、何度目かのサットサンガの参加となるMさんは、師の教えに触れ、また先輩グルバイ(弟子)の純粋な眼差しに心を打たれ、ヨーガの道を邁進していこうと決めたとその決意を語ってくれました。これからヨーガを実践するうえで、世の中とどう折り合いを付けていったらいいのかというMさんの質問に対して、師は、真理というのは永遠でリアリティそのものであるが、世の中というのは常に変化して消滅を繰り返すものである。その中に身をおいて暮らしている私たちは、世の中の事は淡々と義務として行ない、それ以上執着をもたないように対処していくことが大切である。ヨーガに身を捧げていくようになると、逆に世の中の方が自分たちについてくるようになるよと、Mさんの決意を後押しされるように、心強いお答えをくださいました。

こうやってまた一人、同じ志をもつ仲間がサンガに加わりました。ニューヨークのサンガのように、個人個人が積極的に行為できるよう、お互いに研鑽し合い、ますます日本のサンガも充実させていきたいと、思いも新たにしたサットサンガでした。

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階段の上に生けられたヤマゴボウの花

ダルミニー


真理の学びと瞑想

1997年から発刊されている会報誌『パラマハンサ』は隔月で発行されていて、MYM会員として年会費を払われた方であれば誰でも読むことができます。サットサンガ(真理の集い)での質疑応答、ヨーガの教えや、ヨーガを学ぶ者の実践談、またヨーガの料理の特集など、読み応えのある内容となっています。今回は№116の『パラマハンサ』の「プラナヴァ・サーラ」より、師の教えを抜粋してお伝えいたします。

パラマハンサ (21)

人生の目的は真実を実現することです。その叡智と方法がこのヨーガにあります。

間違ったものへの欲望、あるいは執着というもの、そういう煩悩の中の無知が真実を隠しているようなものなのです。だからまず無知を暴き出して、それを少しでもなくしていくようにすれば、心は解放されて自由になって、透明のようになっていきますから。そうすると真実が出やすくなる状態になる。その時に瞑想を深められたら本当の自分の存在というものを体験することになるわけです。これが瞑想のいちばんの醍醐味というか、ぜひ知ってほしいところです。それまでにもどんなことだって、こんなことあんなことの本質を知りたければ、集中して瞑想すればすべて分かると思います、何でも。そういう意味では瞑想はおもしろいよ。いろんなことを何でも明らかにしてくれる。でもそれをうまくやるためには常々心の動揺をなくしておくことね。心がイライラしていたらだめ、絶対うまくいかない。だから心を落ち着かせておくこと。そして呼吸と身体を制御しておけたらいいですね。

無知というのは、この世界は永遠ではないのだけれど永遠であるかのように思ってしまうこと、本当の自分でない心のエゴを自分だと思ってしまうこと、そして完全なるもの、浄らかなるもの、純粋なものをこの世界の中で探そうとしてしまうこと、実は苦しみに変わってしまう幸せを本当の幸せだと思ってしまうということです。さらにはこの無知から、好きなものに執着をしてしまうこと、嫌いなものを避けようとしてしまうこと、肉体をもった命に執着をしてしまうということ、そういった根本的な煩悩が、具体的に欲望として発展していくのだということを正しく理解し、瞑想によって心からさまざまな執らわれをなくしていくと、真実を体験することになるのだと教えてくださいました。

心というのは長い輪廻転生をしてきているといわれている。過去には数え切れない生涯を送ってきているかもしれない、またそれは未来どれだけ続くか分からないともいわれているのだけれど、まぁそんな過去と未来はどうでもよくて、今こうしてそのカルマの鎖を打ち破る縁をもったということは、ものすごい大きな出来事なんですよ、これは。これほど吉祥なことはない。全歴史の全宇宙の中でこれ以上めでたいことはないのですよ、実は。だからぜひ真実を実現してほしいし、それをしっかりと着実に歩んでいってほしいし、そのためにはこういった真実を学ぶということはとても大事。それは大学とかでは教えてくれないからね。だからやっぱり生きて悟った人の言葉を直接聞かないとだめだし、そういう人たちの貴重な言葉が残されているのが聖典と呼んでいるものです。

師は、聖典を読んで真理を学んでいくこと、それから体を使って何らかの訓練、アーサナ(ヨーガのポーズ)であったり、キールタンを歌ったりすること(神の御名を唱え歌う)、それから真理や神、あるいは真我というものに対して瞑想をするという、この三つのことを毎日行なうことが実現の道であると説かれました。師は繰り返し、繰り返し、私たちの心の中の無知を取り除き、真実を実現せよと教えてくださっています。

そしてここで、『バガヴァッド・ギーター』の中の教えをひとつご紹介しましょう。

ある人は本当に真実を見出し、驚きのうちにそれを理解する。ある人は理解を超えた驚異としてそれを語る。ある人はその驚異を噂話に聞く。ある人は人の話にそれを聞いても全く理解しない。

さて私たちは、本当に真実を見出し、驚きのうちにそれを理解する者でありたいと、思いませんか。

ダルミニー


最高の理想を目指して

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

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先日行なわれたサットサンガでの教えをご紹介しています。

師が、常に教えてくださっているヨーガの教えはこうです。

私という本質はこの身体でもなければ心でもなく、その奥にある純粋な意識である。そしてその純粋な意識であり尊い命という存在のきらめきをみんながもっている。そして自分自身もそうだということを知ること、これが悟りというものです。心はそれを知らないのですから、このことを心に言い聞かせてやらなければなりません。心はそれを知ることによって、この世の儚い喜びや苦しみ、悲しみには巻き込まれなくなってきます。これがヨーガの教える普遍的真理です。

そうして師は、そのためにも、それを実現した聖者や覚者に憧れ、理想として目指していくことが大切であると教えてくださっています。しかし、なかなか理想の姿に近づいていけず、日々の生活の中で不平や不満ばかりを言っている自分に気が付くときがあります。そのような時にどのようにすればいいのかという質問がありました。

理想が見つけられているならば、その自分の中にある理想でないものとの違いが何なのかということを見つめて識別すること、そうすればその日常の諸行無常といわれる変化する世界の中では、いちいち不平や不満を述べる必要はないということが分かってくるはずですよ。それと日常の中での成功や失敗、うまく行っていようがいまいが、それにはもう頓着しないこと、そういう訓練をしていくこともサーダナ(修行)の大きな部分です。サーダナは何もアーサナ(ヨーガのポーズ)だけじゃない。そういう自分自身の心のあり方、それから行為のあり方、そういうもの全部がサーダナです。

本当に素直に純粋に、そのからくりというものに気付かされたならば、速やかにエゴは消えていきます。でもその気付きというものの純度によってはまだエゴが少し残っていて、何度かやっていかないといけない場合はありますね。それはそのときどきの受け止め方というか、気付き方というか、そういうものによることがあります。でも素直に純粋にそうだと思えば、もうそこでその作業は完了しますよ。みんなは純粋な意識であり、永遠の存在であることは間違いないんだからね。もう素直にそれを認めて、エゴのそういうつぶやきとか、わめきとかに耳をかたむけないようにしていかないとね。

そして師は、ヨーガによって心を純粋にしていくことが大切であるとも教えてくださっています。以前のサットサンガで、純粋であることとは、誠実であること、素直であること、計らいがないことであると教えてくださいました。私たちの師は、サットサンガの中でどんな質問にも、何回同じことを聞いても、本当に真摯に誠実にお答えをくださいます。また長年来ている人に対しても、初めて来られた人に対しても同じように、平等に接してくださいます。そのような師のお姿に接するたびに、師を見倣い、行為していくことが、純粋になることの第一歩なのだと、心は素直に思うのでした。

ダルミニー

 


愛媛サットサンガ(3)

愛媛の特別サットサンガの最終日は今治。
ゆるキャラのバリィさんに象徴される今治は、タオルや造船、やきとりが有名なしまなみ海道の町です。
会場の山本さん宅に入ると、ちょっとお年を重ねた方が多いような気が……
それもそのはず、名簿を見ると70代の参加者だけでも10名近く……(驚き!!)
でもみなさん、色鮮やかなミッション40周年Tシャツを着て、何だかとても可愛らしい。(←お世辞ではありません。ヨーガ行者は嘘は言いませんから笑)
会場は幾分、和やかな空気感でしたが、サットサンガが始まるとそのムードは一転、皆がヨギさんに集中し、真剣な問答が展開されました。

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その内容は、身近な人を亡くした方が多かったため、死に関連した問答が多くありました。
「亡くなった人と、どのように付き合っていったらよいのか?」「お経を唱えるとは?」「来世に修行をもちこしてもいいのか?」
死についての問答は松山でもありましたが、ヨギさんが説かれることは一貫しているように思いました。
それは、「死を正しく理解すること」です。
この今治のサットサンガでは、以下のように説かれました。

「死という問題がありますけれども、生まれた者はいずれ死にます。これはこの宇宙、すべての掟です。死なないためにはどうすればいいのか。生まれないことになります。でも、誰もが生まれてきてしまったんですから、この死という問題には直面せざるを得ません。やはり、死というものを正しく理解する必要があります。死を恐怖するだけではだめです。不安に思うだけでもだめです。正しく理解すればいいんです。死というのは肉体がなくなること。肉体から命が去ってなくなること」

そしてヨギさんは、もっとも大切なことを説かれました。

「その本体である魂は決して死なない。決して殺されることはない。どんな爆弾をもってきても破壊されることもない。そんな不死の永遠の存在がそれぞれの本質、本性です。神そのものです」

私は愛媛へ出発する日、「今までで一番心に残っているヨギさんの言葉は何ですか?」と、ある方から尋ねられました。
その時突然、「本当の自分とは、この身体でもなく心でもない、その奥にある永遠の存在」という言葉が浮かび上がってきました。
私はその言葉が今までで一番印象に残った言葉であるとは思ったこともなかったので、驚きました。
そのままを伝えたらよかったのですが、それを口に出すことができませんでした。

大袈裟に聞こえるかもしれませんが、この今治のサットサンガが終わった時、そこにあったものはヨギさんの振動だけでした。
私は愛媛の3日間、胸の奥にずっと熱いものを感じていました。
それはヨーガを始めた頃に感じたものと同じ感覚でしたーー「これがあれば、どんな宝石も財産も名誉もいらない」、そう思えるものです。
私は改めて、この愛媛の3日間を振り返り、胸を熱くさせるものがどこから来ているのか、それが何なのか、確信しました。
それこそが、「不死の永遠の存在」だと!!!
そしてヨギさんはいつもずっとそれだけを説かれ、それに目覚めるように皆を導かれている。
クレイジーともとれるこの真実を真剣かつ誠実に述べている人に、私は未だかつて会ったことがありません。ヨギさん以外に!!!

この愛媛の特別サットサンガは、愛媛のグルバイの方々の長年に渡る準備と、ヨギさんへの純粋な思いがあってこそ、実現したものでした。
愛媛の方々の働きは本当に誠実そのもので、京都から来た私はそれに乗っかっただけでした。
ヨギさんの存在とお言葉、そしてグルバイこそが真の宝であり、希望であり、祝福であり、どんな爆弾にも負けない至福の爆弾だと感じる3日間でした。
本当にありがとうございました!!!(終)

飯尾洋平


愛媛サットサンガ(2)

「この人生で、もっとも大切なものは何でしょうか?」

家族や恋人、仕事、お金、または神……その答えは人の数だけあるのかもしれません。
でもたぶん、自分が幸せを感じることが、その答えであるように思います。
生きている限り、人は必ず幸せを求めていると思います。
でも、なぜかその幸せは続かないし、また得られない。
満たされることはなく、結果は苦しむことがほとんどです。
では、どうしてそうなってしまうのでしょうか?
愛媛の特別サットサンガ二日目は、この人生の難問についての問答がありました。

サットサンガ二日目は、昨日に引き続き、松山ヨーガ・サークルで行なわれました。
二日目ということもあり、昨日よりも会場の雰囲気は和らぎ、心地よい集中感がありました。

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昨日に続いて2回目の方〜!

そんな中、ある男性の方が次の質問されました。

男性「心は道具として使うということなんですけれども、結局僕らは上手く使えてないから苦しみの中で生きてしまっていると思うんです。人の本性が真理であったり神であったりするならば、なぜ苦しみが次々生まれて絶えることがないのかということがすごく疑問で、その点についてお伺いできればと思うんですが」

ヨギさんのお答えは、「真理ではない間違った智慧、これに心がすがって、そこからさまざまな欲望を紡ぎ出し、それに執着した挙げ句、結果として苦しみに至る」という、「真実を知らない無知」が苦しみの原因であるというものでした。
心は常に変化する世界や肉体が永遠であると思い、またエゴを自分であると思っていることがその間違いであるとヨギさんは説かれ、そして「幸せ」について、以下のように言葉を尽くして答えられました。

誰もが幸せを願って人生の中で努力をしていると思いますが、その幸せや喜びというものが本当に永遠であるのかどうか、完全であるのかどうかといえば、つくりあげられた幸せもやはり、この世界と同じように状況の変化の中で刻々と姿を変えます。つかの間の喜びは、やがて苦しみや悲しみに変わることはある。またこの世界は最近も起こったように天災もあれば、どうにも人間の力では敵わないような出来事も起こります。そんなことに接すると心も痛むし、苦しみ悲しみも起こります。しかしそれらも、いわば変化の一相なんです。いいときもあればよくないときもあります。東洋の農業国にとっては雨は必要なものだし、農作物を豊かにもしますが、それが増えすぎると洪水にもなって人の命も奪うこともある。包丁も美味しい料理を作ることができれば、人を傷つけることもできる。何事にも二面性があります。一方的にそれが善であり、悪であるとも言いがたい。しかし心は何かしらに執着をして、それにとりすがってしまう。それは正しく見れていないから。その結果、思うようにならない時に苦しみ悲しみを感じてしまうわけです。心はそんな間違いを原点としながら、儚いことも知らずにこの世界の中でいろんな喜びをつくりあげようとしています。そうしてそれにすがってしまうんです。それに執らわれてしまうのです。それが苦しみとなるわけです。そのような無知、そして無知から生じた煩悩、つまり欲望や執着というものを自分がつくり出したにもかかわらず、それらによって自分が苦しんでしまうというのが先ほどの問題の答えなんです。
ここに苦しみから脱出する方法も暗示されています。つまり、無知を無くせばいいわけです。簡単な話です。正しい智慧、真理を学べば、無知は無くなるわけです。そうすれば儚いことを追いかけることも、それに執らわれることもないし、心は混乱することもないのです。

なぜ人はこの人生において幸せを求めているのに苦しむのか、またそれをどのように無くせばいいのかーー心や世界の二面性を正しく見ることによって、つまり真理を学ぶことによって無知が無くなり、苦しみから抜け出せるーー
この人生の難問についてここまで分かりやすく、また確信をもって答えるヨギさんのお言葉に、参加者は真剣に聞き入り、会場の集中度はピークに達していました。
しかし、ヨギさんはそれを解きほぐすかのように、以下のように話されました。

と言葉では簡単に言えます(皆大笑)。実際は心というのは、なかなかそれをこうだよと理屈で言ってもそのようになってくれない。これが厄介なところ。だから少々時間も必要です(皆笑)。そして学ぶことも、昔の言葉で言う修行といいますけれど、やっぱり少しは努力をしなければなりません。なぜならこの無知というものは昨日や一昨日できたものではないのです(納得や驚きの声)。もうおよそ想像がつかないぐらい昔から輪廻転生してきている、生まれ変わって何度も何度も繰り返し生まれ変わってきているこの中で形成されてきているわけですから、心そのものをすっかりクリーンアップするにはちょっと手間も時間もかかることを覚悟してください。
だけど、この智慧に人生において出会う縁をもったということは、その生涯においてそれを達成することができるという希望です。必ずできます。

私はヨギさんのこの「希望」という言葉を聞いた時、天井から何かが降ってくるような、そんな感覚がありました。
それは「祝福」でした。
ヨーガと出会ったこと、そしてヨギさんと出会ったこと、この人生においてこれほど吉祥なことはない、そう感じました。
私だけではない、会場にいるすべての人が「祝福」され、ヨーガに「希望」を見いだした瞬間であったように感じました。

サットサンガが終わって、ヨギさんに「今日のサットサンガ、どうだった?」と尋ねられ、この時感じたことを話そうとすると、不思議と胸の奥から込み上げてくるものがありました。
言葉に詰まりながら「松山が祝福されたと感じました。会場にいた人は皆、ヨーガをやっていこうという気持ちになったと思います」と話すと、ヨギさんは笑顔で一言、「松山まで来た甲斐があったな」とおっしゃいました。(続く)

飯尾洋平


愛媛サットサンガ(1)

5月21日、22日、23日の三日間に渡り、ヨギさんが愛媛を訪問され、特別サットサンガが行なわれました!
これは愛媛の方々の念願であることはもちろんですが、私の念願でもありました!
なぜなら愛媛は、私が京都の大学に進学するまで過ごした「地元」だからです!
そして今回、私は京都から師に同行させていただくという幸運にも授かり、本当にドキドキとワクワクで胸が高鳴っていました!

愛媛での特別サットサンガは、最初の二日間は松山、三日目は今治で行なわれ、申し合わせたように45名を超える参加者が集いました。大袈裟ではなく、この三日間とも質疑応答は全く途切れることはありませんでした。どの参加者も真剣かつ誠実にヨギさんに質問し、そのヨギさんのお答えは大変素晴らしいものでした。そのすべてをご紹介したいところなのですが、このブログでは特に私の印象に残ったことをお伝えしたいと思います。 

一日目の松山、その会場は松山ヨーガ・サークルでした。
2005年から発足したこのサークルの拠点になっているスタジオは、松山の一等地である松山市駅のすぐ近くにあります。
京都でいえば四条河原町、東京でいえば新宿アルタ前といったところでしょうか? 地元の方なら本当に驚くような中心地です。
この日は初日ということもあり、参加者はヨギさんと会える歓びと期待、また緊張が入り交じったある種、独特の雰囲気が会場全体を覆っていました。

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スタジオは満員!

そんな中、二番目に質問したのが、去年の二月に京都のサットサンガに初参加したDさんでした。
その京都のサットサンガの時にDさんは、幼い頃から母親の言葉に傷付けられ、今は介護が必要な母親にどのように接していけばよいかと質問し、ヨギは「過去に執らわれないこと。どんなことを言われようと奉仕すること」とお答えになっていました。
Dさんはこの一年間、ヨギさんのお言葉を胸にもって母親に接し、母が嫌いだという思いはなくなってきたが、自分自身のことを思っている不純さと、真理からいちばんかけ離れているお金に対する執着が抜けきれなく、どうしたらいいのかと質問をしました。

ヨギさんは即座に次のように答えました。

「もったいないね。そんなこと思っている、それだけでも時間も精力もご自身の人生そのものがもったいない。そんなことやっている暇はない。そんなのどうでもいいこと! はっきりそこでそんなことに執らわれないようにする。そうして心を教育していかないといけない。あぁ、もったいない! あぁ、本当に目の前に宝物があるのに!」

厳しさもあるお言葉でしたが、Dさんは一瞬にして何かが落ちていったように、その表情はとても晴れやかになっていました。
Dさんとは去年の二月に京都でお会いして、その後松山でのクラスに熱心に参加され、また瞑想特別クラスの際は積極的にお手伝いをしている姿や話などを見聞きしていたので、その良い変化は京都からでしたが感じていました。
ヨーガは実践だといわれますが、真理の教えはすぐには身に付かないのが大半です。そんな葛藤から生まれたこの質問とこのヨギさんのお言葉はサットサンガの醍醐味そのものであると感じました。

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参加者のみなさんがヨギさんを食い入るように見つめていたのが印象的でした。

その後サットサンガは、死の恐怖というところから苦集滅道の教えがあり、また輪廻転生や宗教の本質についてのことが話され、最大延長の二時間半のサットサンガになりました。
ヨギのお言葉に涙する方、目が点になっている方、納得してうなずいている方、いろんな反応がありましたが、質問をせずに下を向いて座っている人もいました。
その下を向いていたのが私の母でした。

実は私の母は約二年前から松山ヨーガ・サークルのアーサナクラスに通っており、今回ヨギさんに初めて会いました。
質問はしなかったし、下を向いていることが多かったので、「ちゃんと聞いているのかな?」と思っていたのですが、サットサンガが終わって数時間後に電話をして「今日はどうだった?」と聞くと、「ヨギさんの声がよかった。若々しかった! 笑いもあって、ヨギさんてこういう人なんだというのが少し分かった。空の教えや苦集滅道の話が分かりやすかった」と話し、電話越しの母の声がいつもよりイキイキしているのが分かりました。
何だかそれがとても嬉しかった一日目のサットサンガでした。(続)

飯尾洋平


あるがままに生きる

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

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 先日行なわれたサットサンガで印象に残った師の教えをご紹介したいと思います。

ヨーガの教えである真理を学ぶことによって無知を正しく理解し、心を真理に従わせるようにすると、この世界の中で執着なく、あるがままに生きていくことができるようになります。

無知という言葉は聞いたことがあると思いますが、それは私たちがこの世界に対してもっている根本的な大きな間違いのことです。一つ目はこの世界を永遠だと思っていること、二つ目はこの世界に純粋なものを求めてしまうこと、三つ目は幸と不幸を繰り返すこの世界の中で幸せを願ってしまうこと、四つ目はエゴという心を本当の自分だと思ってしまうことです。そしてその無知がさまざまな欲望をつくりだし煩悩となって、あげく苦しみや悲しみになってしまう、そのことを正しく理解しなさい。そして心をそういう無知に従わせるのではなく、ヨーガの教えに従わせるようにすると、あるがままに生きていくことができるようになると教えてくださいました。

心が煩悩によって活動をしている間は、すべての物事は心にとって好きなのか嫌いなのかだけになってしまいますが、心から無知煩悩がなくなっていけば、あるがままにすべてのものが尊い存在として感じられるようになります

あるがままに

 師の説かれるこの言葉に強く惹きつけられました。師は「あるがまま」というのは、何ものにも執わられず、束縛も儚いもない、苦しみも悲しみもない、そういう状態であると教えてくださいました。「あるがまま」とは、なんと軽快で、なんと自由、なんと透明で、なんと晴れ晴れとしていることでしょう。

最近「ありのままで」という歌が流行っていたように思いますが、「ありのまま」というのは、心が欲望に従ってなんの努力せず、好き勝手しているような感じがして、あまりいいイメージではありませんでした。「あるがまま」と「ありのまま」とでは言葉は似ているけれど、生き方に雲泥の差がありますね。

あるがままに生きる

その境地を理想として、ますますヨーガを実践していこうと、思いも新たにしたサットサンガでした。

ダルミニー

 


愛媛サットサンガのご案内!

このたびとっても嬉しいご案内があります!マハーヨーギー・ヨーガ・ミッション40周年に際して、私の尊敬する大好きな師、ヨギさんが松山と今治まで来てくださって特別サットサンガをしてくださる運びとなりました。

私自身はヨギさんにお会いしてから、松山から京都まで定期的に通い続けてヨギさんから直接、学ばせていただきました。それはやはり、サットサンガの醍醐味は書物では得られないものだったからです。

ヨーガを学び始めたばかりの頃のあるサットサンガが今でも忘れられないのですが、ヨギさんが私をまっすぐみつめておっしゃった「悲しむのは無知があるから」という教えの内容というよりも師の優しい眼差しと柔和なお姿、そして優しい口調とお言葉が印象に残りました。松山へ帰ってからも不思議といつまでも胸の中から離れず、ずっとその言葉に支えられ普段の私なら間違いなく動揺するようなことに直面した時、目の前のことに巻き込まれることなく、冷静に行為できたことがあります。いつも人に甘えることしか考えていなかった私が人の支えになりたいと初めて思えた出来事でした。

さて、松山ヨーガ・サークルの活動が始まって11年になりますが、少しずつクラスに参加される方も増えてきて、ヨーガに関心を持って実践を続ける方が増えてきました。今回、ヨギさんを愛媛の地にお迎えするという念願が叶い、特別サットサンガが行われることになり、クラスに来られている方がヨギさんにお会いし、ヨーガへの縁を深める機会になると思うと、本当に嬉しく思います。いま、わくわくしながらみんなで準備をしています。

ぜひ多くの方がヨギさんの存在そのものに触れ、ヨギさんのお言葉を耳にして、その後の実践につなげていただけたらと願います。きっと素晴らしい体験になるだろうと思います。

このような吉祥な機会を授けてくださった師に、心から感謝を捧げます。

松山ヨーガ・サークル
アーナンディー


集中と瞑想

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

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先日行なわれたサットサンガで、日常の中で誰もが経験する自分の心に関しての次のような質問がありました。

質問者「人の話を聞いているようで聞いていないことに気が付きました。人の話をよく聞けるようになるには、どうしたらいいでしょうか」

師「常日頃のサーダナ(修練)としての、アーサナや瞑想、真理への学びをしっかりとしていくことはとても大切なことです。それによって呼吸が乱れなくなると、内も外も動揺がなくなり集中がたやすくできるようになります。相手の言葉を確実に理解するためにも相手の行為をしっかりと観察することが大切です」

師のお答えは単純明快です。相手に集中することによって、相手の話をより理解することができると教えてくださいました。また相手の行為をしっかり観察するということは、言葉だけに執らわれず、客観的に全体を見て、相手を理解するということだと思いました。いろいろなものに心を奪われているような散漫な状態では、集中することもできません。ヨーガを実践することによって呼吸を調え、集中力を身につけていくことが日常の生活にも大いに役立つということがよく分かりました。

また師は以前、客観的に全体を把握するということは瞑想の中でも行なわれると教えてくださいました。瞑想によって一つの物事を対象にして集中していくと、その物事に対する自分の心の執われとか、思い込みとか、観念とかに心自身が気づいていき、主観を離れ、より深い洞察をもって、その対象の本質を知るということになっていくのだということを教えてくださいました。瞑想はただのリラクゼーションではありません。深い集中をもってすれば、すべての物事の本質を明らかにしていくことができると師は教えてくださっています。

集中と瞑想はヨーガの基本であり、中心でもあります。鋭い洞察力を身につけ、この世間という大海を一緒に渡りきりましょう。

ダルミニー


純粋であること

先週の土曜日はサットサンガ(真理の集い)がありました。東京や松山からたくさんのグルバイ(ヨーガの仲間)が集まりました。その中には久しぶりにヨギさんに会う人、初めてヨギさんに会う人もいました。ヨーガの実践について途切れることなく質問は続き、あっという間の2時間半でした。

初めてサットサンガに参加した方の質問で「純粋であることとはどういうことですか」というものがありました。

ヨーガとは心を純粋にしていくことです。そのためには完全で純粋であるものに近づき一つになることが求められます。

 

純粋であることとは、誠実であること、素直であること、計らいがないこと。真理や神は純粋な存在であるから、それに向かうことで純粋さを増すことができる」

 

サットサンガでは無努力の瞑想ができると言われます。ヨギさんの答えを聞き、理解しようとすることで、純粋である真理や神に自然に心を奪われ染められていきます。ハートに刻まれたその印象を大切に、日常で瞑想を続けようと思いました。