シュリー・マハーヨーギー/師の教えとサットサンガ」カテゴリーアーカイブ

カルマの法則

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

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 今回はカルマについての質問がありました。
実は誰もが、過去に何度も生まれ変わりを体験しているとヨーガは教えています。これは輪廻転生と呼ばれていて、過去において何かまだやり残したことがあるともう一度生まれてきて、その心残りを新たな人生で実現しようとするものです。原因があってその結果を受け取ること、これをカルマといいます。

質問者「カルマについてお聞きしたいと思います。人生において例えば二つの道があったとして、考え抜いてようやく一つの道を選んだとしても、大いなる目からみれば、どちらを選ぶかはカルマによってすでに決まっているのでしょうか」
師「はい。結果的にみればそう言わざるを得ません。カルマというのは過去において蒔かれた実を刈り取るということになりますから、それがどういうかたちであれ二者選択の中で一方を選ぶということはやっぱりそこに実があるということになるわけですね」
質問者「人生はカルマの通りに進んでいって自由意志による選択の余地はないということでしょうか」
師「通常はありません。カルマが発生しているからこそ生まれてきたわけで、生まれてきたら生きていかなければいけないわけですよね。それはすべてカルマという設計図の通りに進んでいっているというふうに見なされます。カルマというのは心の記憶の中に組み込まれてしまっているわけです。カルマから脱出するためには心自身を破壊するか、もしくは心の中の原因となっているところの無知というものを無くしてしまう、これによってカルマの効力というのは無くなるか、もしくは薄くなるかします」
質問者「カルマを解消していくためにもっとも大切なことは何なのでしょうか」
師「カルマはエゴと心と無知というるつぼの中でできあがっていますから、そのどれかを壊すことによって無くなっていきます」
質問者「壊すために必要なことは何なんでしょうか」
師「ヨーガという真理を学ぶこと、そしてそれに対して精進すること、精進というのはアーサナや瞑想だけではなくて、日常の行為や心の思いを含めた行動全般をエゴのない、無知のない状態で行為するということです。そして積極的に真実を実現するという、悟りの体得ということが求められます。みんなはもうすでにヨーガを学んで精進しているわけだから、もうカルマのことは気にしなくても次第に離れてなくなっているはずですから、それよりむしろもっと真我とか神とか、そういう真実のものに心を寄せるようにしていってください」

師は、真実を知りそれを実現すれば、カルマに翻弄される人生を超えていくことができると教えてくださっています。

この世にあって何が真実なのだろう。それを知るべきです。真実ということは実存としてのリアリティをもっているのかということです。そのリアリティという実存は変化をするものであってはいけないし、無くなってしまうものでもいけない。真実というからにはそれは永遠に存在していなければいけない。それは死ぬこともない。その永遠の存在こそが誰もの本性、本当の自分、同時にこの全宇宙の本体でもある。この宇宙の星の流れや宇宙が生まれては消滅するというのも、それはその中における単なる現象にすぎない。その奥には確実なる存在がそこにあるんです。それだけがあるんです。見せかけの世界はこの世も宇宙もみんな幻のようなもの、本当に知るべきことを知ること、それが宇宙の本質、自らの本質、その起源、それを知ることになります。そしてそれだけが起源であり、そして現在もそれによって維持され、それだけが永遠に存在しているのです。

この世の最大のミステリーは本当の自分を知らないことだと師は教えてくださっています。輪廻転生というカルマの循環の輪の中で、幻のような世界を生きていくのではなく、そのカルマを超えて真実を実現していくこと、それが私たちの生まれてきた本当の目的なのだと師は繰り返し、繰り返し教えてくださっています。真実を求め続けるヨーギーたちは、魂の旅の終わりに一歩ずつ近づいているのだと、そう思うのです。

ダルミニー


10/5 大阪・特別サットサンガご報告

ハリ・オーム!マーダヴィーです。

105日、私たちの最愛の師ヨギさんに、大阪は中央公会堂までお越しいただいて特別サットサンガを開催していただきました!!!!!!!!!!!!!!!!!!

大阪でサットサンガを行なっていただくのは、2011年舞道ダンスシアターからの5年ぶり!当日はなんと台風大阪直撃か!?という激震が走りましたが、さすが我が師ヨギさんは晴れ男さんなので、行き帰りとも雨には全くあわなかったです。

さて、今回のサットサンガには、ヨギさんにお会いするのが初めての方(+2回目+お久しぶりの方)がたくさん参加して下さいました。ヨギさんにお会いできるご縁と機会を頂き、それはもうなんという祝福なのでしょう!

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このサットサンガでは、今クラスに熱心に通っておられる方が、サットサンガに向けて自分自身としっかり向き合って、積極的にヨギさんに自分から質問を投げかけられました。慈悲喜捨について、人生の目的、瞑想とその対象、心のあり方、エゴ、死、この世が一切皆苦であるならなぜ生まれてきたのか、愛、アーサナについて、、、内容は多岐に渡りました。

ヨーガの教えを学んでいる中で、教えと自分の心・行為とを照らし合わせて、日常で実践しているからこそ生まれる疑問や葛藤に対して、ヨギさんは具体的な答えと導きを直接的に溢れるほど与えて下さいました。

ヨギさんのお言葉をみんな素直に、無邪気に、純粋に、でもとっても真剣に聞かれていました。だんだんヨギさんに釘付けになって、ヨギさんの教えに、頷いたり、ほーっと驚いたり、笑ったり、涙を流したり・・・ヨギさんのお答えに本当に心から安心された方も多いです。

これから一歩も二歩も百歩も!前に進んでいくための教えと勇気を与えて頂きました!

この2時間のサットサンガが本当に本当に本当に本当に貴重な機会なんだ!ということを、皆さんがはっきりと自覚・認識して参加してくださっていたからこそ、具体的なヨギさんのお言葉はもちろんのこと、ヨギさんの存在そのもの、悟りそのものから発せられる、言葉では到底表現できない!もの(祝福!!!!!!!!!!)を、私たちは心を超えて感じ、たくさん受け取らせていただいたと思います。

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参加された方から感想を頂いていますので、少し紹介させてくださいね。

ーーー初めてヨギさんのお話をダイレクトに聞けて良かったです。一つ一つの言葉が本当に丁寧に出されてきて、心にしみ渡りました。本当にインスパイアされましたし、もっともっとヨーガと瞑想を毎日の中に取り入れて「本当の自分」に立ち返っていきたいと思います。

ーーー最初ヨギさんの存在に圧倒されて、自分がどこにいるのかわからないような感覚になりました。でも、思い切って質問させてもらえて本当に良かったです。瞑想も少しずつかんばっていこうと思います!

ーーー瞑想専科やアーサナクラスで利用している教室にヨギさんがいらっしゃる!より近くに感じることができました。皆さんの質疑応答にすべて答えがあったので、改めて私から質問することもなく、むしろすべてのことを吸収したい気持ちでいっぱいでした。心に栄養をいただいたので、ちょっとでも瞑想を深められるよう精進していきます。

このサットサンガでは、ヨギさんの様々な表情を見せていただいたように思います。

お医者さまをされている男性から、“死の恐怖”についての質問があった際には、ヨギさんは非常に力強くそして誠実に、“死”を正しく理解することについて説明され、このように答えられました。

本当の私というのは、決して死ぬことはない。それは生まれたこともないんです。常に、永遠に存在している。永遠の存在。それは二つとない。・・・肉体を脱いだら(両手を合わせられて)一つなんです。・・・あなた自身が死ぬわけではない。この肉体を脱いで新しい服をもらうように、新しい肉体が用意されているんだよ、と思いながら患者さんに接してください。その人は決して死ぬことはないんです。

また、「自信がなくて、他の人にどう思われているのかよく捉われてしまうので、どうしたら自信を持って、気持ちを強く持つことができますか?」という質問に対しては、ヨギさんはまさに軽快に!

常々開き直ること!!(笑)ね、自分はどう思われてもいいと、そんなん気にしない!という風に常々思って開き直っていること。そうしてヨーガを続けていれば、全部包容してしまうくらいに変化しますよー。

と非常に軽やかに弾ける笑顔で答えられました!そのヨギさんの笑顔を見ただけで、私たちの心にある闇は一瞬にして吹き飛んでいきました!そして、、、

本当に気にしなきゃいけないのは、神の評価ですよ~。人の評価なんてどうでもいいねん!そんな不完全な人間の評価なんて気にすることないやん!気にするべきなのは神の評価です。

なんともチャーミングに気さくに答えられて、その様子に私たちは思わずハートを掴まれ、みんなを瞬時に笑顔に変えてしまうヨギさんなのでした!

「神やグルは弟子が自立することだけを担っている」
我が最愛のグルであるヨギさんから頂いた教えを、ただひたむきに深めていけるよう、これからがまた新たな始まりとして、個々人そしてサンガと共に日々精進していきたいと思います。
ジャイ!ジャイ!!ジャイ!!!グル・デーヴァ!!!!!

ちょっと書いてて、胸がはち切れそうになってきたので、ヨギさんがサットサンガの最後に仰ったお言葉とともに、ご報告を終えたいと思います。

(もうみんな)愛されているんですよ~。本当に、本当に、一番大切な、大切な人からね。神さまという存在から愛されている。それを忘れないでいて下さい。

(マーダヴィーは永遠に忘れないでいたい!いつも神に目覚めていたい!!)
私の最愛の師ヨギさん、本当に本当に本当に本当にありがとうございました!

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宇宙の創造!!
世界への展開!!
あぁそれは歓喜そのもの!!!!
輝く命の躍動!迸る歓び!!
それらすべてを顕現させているのは我が主なる神である!!!!!

というテーマをお花で表現しました。
Mahayogi Yoga Ashrama & Mahayogi Yoga Mission
40周年を
祝して!
ヨギさんへ、
この魂のすべての感謝と永遠の愛を込めて
from Madhavi


特別サットサンガー大阪編

こんにちは、シャチーです。本日9月17日(土)はヨーガ・ヴィハーラのクラスに行ってきました。
お部屋に入ると彼岸花(別名:曼珠沙華)が一輪、赤くて繊細な花びらを揺らしています。毎年アーシュラマのお庭で咲く彼岸花、シャーンティマイーさんが秋の香りとともに運んできてくださいました。

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さて、ニューヨークより、師であるヨギさんが戻られてまだ1週間と少しですが、大阪では、ヨギさんにお越しいただいて行なわれる特別サットサンガの準備が進められています。初日の5日夜の会には、すでに20数名の方からご予約をいただいており、そのうちの半数以上がヨギさんにお会いするのが初めての方たち。また久しくお会いできていなかった懐かしい顔ぶれもそろいます。
皆さん、ワクワクドキドキ、やっとこの時が来た!と楽しみにされています!
また何度もヨギさんにお教えをいただいている方たちは、いつか大阪に来ていただきたいと願ってはいたけれど、本当に実現するなんて!と感激もひとしおです。

皆さん、通っているクラスはさまざまですが、学び始めて1〜2年という方も多く、真理の話は、分かるけれど、本当には分からない、言葉は理解できるけれど難しい、そんな思いを抱いている方も少なくありません。それでも何とか理解しようと、クラスに毎週参加することを習慣とし、熱心にアーサナを行ない、ヨーガの話になれば真剣にメモを取る、そんなお姿を拝見してきました。だからこそ、今ヨギさんにお会いできるチャンスをいただけたことに感謝です!

ヨーガではグル(師)の存在は欠かせないといわれます。
グルの言葉の意味合いは、闇を照らす光、闇とは心の中に潜んでいる無知や執着のこと。そしてこの無知や煩悩にただ一度も触れたことのない純粋な存在、真のグルこそ、無知に迷う私たちをまっすぐに真実へと導くのです。

ヨギさんに直接お会いすること、直接お言葉をいただくことはとっても大事なことだと思います。私もそうでしたが、その時には分からなくても、心の奥深くに真理の光が届き、きっと何かを感じることができると思うからです。そうして誰もが、今あるところから少しでも前進し、真の目的を見つける事ができたなら、それはそれは素晴らしいことではないでしょうか。ぜひご参加ください!!!!!!!

10月5日(水) 19時〜21時 中央公会堂 2F 第7・8会議室(続き間)
10月25日(火)11時〜13時 プレーマ・ヨーガサークル

*11月6日(日)には14時より京都アーシュラマでも特別サットサンガが開かれます。
詳しくはホームページをご覧ください。


師 ニューヨークより帰国される

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

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私たちの師は六月から九月までの三ヶ月間、ニューヨークに滞在され、ヨーガを学ぶ者たちにその教えを説いてこられました。今回はシカゴにも足を伸ばされ、多忙な日々を過されたようです。先日、その滞在を終えられ、日本に帰国後初めてのサットサンガがありました。
同行した弟子たちのニューヨーク滞在の報告の後、師はニューヨークの弟子たちのサンガの意識が深まってきているとご報告になりました。
サンガとは同じ志をもった修行者や仲間たちの集まりのことです。ヨーガにおいては、真実に目覚めるために努力する者たちが、グルの指導のもとお互いに励まし合い、助け合い、修行を深めていく集まりのことになりますが、師はニューヨークのサンガも、理想の人生を共有し、それぞれが積極的な活動を行なっていくことができるようなったと喜ばれました。

今回、何度目かのサットサンガの参加となるMさんは、師の教えに触れ、また先輩グルバイ(弟子)の純粋な眼差しに心を打たれ、ヨーガの道を邁進していこうと決めたとその決意を語ってくれました。これからヨーガを実践するうえで、世の中とどう折り合いを付けていったらいいのかというMさんの質問に対して、師は、真理というのは永遠でリアリティそのものであるが、世の中というのは常に変化して消滅を繰り返すものである。その中に身をおいて暮らしている私たちは、世の中の事は淡々と義務として行ない、それ以上執着をもたないように対処していくことが大切である。ヨーガに身を捧げていくようになると、逆に世の中の方が自分たちについてくるようになるよと、Mさんの決意を後押しされるように、心強いお答えをくださいました。

こうやってまた一人、同じ志をもつ仲間がサンガに加わりました。ニューヨークのサンガのように、個人個人が積極的に行為できるよう、お互いに研鑽し合い、ますます日本のサンガも充実させていきたいと、思いも新たにしたサットサンガでした。

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階段の上に生けられたヤマゴボウの花

ダルミニー


真理の学びと瞑想

1997年から発刊されている会報誌『パラマハンサ』は隔月で発行されていて、MYM会員として年会費を払われた方であれば誰でも読むことができます。サットサンガ(真理の集い)での質疑応答、ヨーガの教えや、ヨーガを学ぶ者の実践談、またヨーガの料理の特集など、読み応えのある内容となっています。今回は№116の『パラマハンサ』の「プラナヴァ・サーラ」より、師の教えを抜粋してお伝えいたします。

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人生の目的は真実を実現することです。その叡智と方法がこのヨーガにあります。

間違ったものへの欲望、あるいは執着というもの、そういう煩悩の中の無知が真実を隠しているようなものなのです。だからまず無知を暴き出して、それを少しでもなくしていくようにすれば、心は解放されて自由になって、透明のようになっていきますから。そうすると真実が出やすくなる状態になる。その時に瞑想を深められたら本当の自分の存在というものを体験することになるわけです。これが瞑想のいちばんの醍醐味というか、ぜひ知ってほしいところです。それまでにもどんなことだって、こんなことあんなことの本質を知りたければ、集中して瞑想すればすべて分かると思います、何でも。そういう意味では瞑想はおもしろいよ。いろんなことを何でも明らかにしてくれる。でもそれをうまくやるためには常々心の動揺をなくしておくことね。心がイライラしていたらだめ、絶対うまくいかない。だから心を落ち着かせておくこと。そして呼吸と身体を制御しておけたらいいですね。

無知というのは、この世界は永遠ではないのだけれど永遠であるかのように思ってしまうこと、本当の自分でない心のエゴを自分だと思ってしまうこと、そして完全なるもの、浄らかなるもの、純粋なものをこの世界の中で探そうとしてしまうこと、実は苦しみに変わってしまう幸せを本当の幸せだと思ってしまうということです。さらにはこの無知から、好きなものに執着をしてしまうこと、嫌いなものを避けようとしてしまうこと、肉体をもった命に執着をしてしまうということ、そういった根本的な煩悩が、具体的に欲望として発展していくのだということを正しく理解し、瞑想によって心からさまざまな執らわれをなくしていくと、真実を体験することになるのだと教えてくださいました。

心というのは長い輪廻転生をしてきているといわれている。過去には数え切れない生涯を送ってきているかもしれない、またそれは未来どれだけ続くか分からないともいわれているのだけれど、まぁそんな過去と未来はどうでもよくて、今こうしてそのカルマの鎖を打ち破る縁をもったということは、ものすごい大きな出来事なんですよ、これは。これほど吉祥なことはない。全歴史の全宇宙の中でこれ以上めでたいことはないのですよ、実は。だからぜひ真実を実現してほしいし、それをしっかりと着実に歩んでいってほしいし、そのためにはこういった真実を学ぶということはとても大事。それは大学とかでは教えてくれないからね。だからやっぱり生きて悟った人の言葉を直接聞かないとだめだし、そういう人たちの貴重な言葉が残されているのが聖典と呼んでいるものです。

師は、聖典を読んで真理を学んでいくこと、それから体を使って何らかの訓練、アーサナ(ヨーガのポーズ)であったり、キールタンを歌ったりすること(神の御名を唱え歌う)、それから真理や神、あるいは真我というものに対して瞑想をするという、この三つのことを毎日行なうことが実現の道であると説かれました。師は繰り返し、繰り返し、私たちの心の中の無知を取り除き、真実を実現せよと教えてくださっています。

そしてここで、『バガヴァッド・ギーター』の中の教えをひとつご紹介しましょう。

ある人は本当に真実を見出し、驚きのうちにそれを理解する。ある人は理解を超えた驚異としてそれを語る。ある人はその驚異を噂話に聞く。ある人は人の話にそれを聞いても全く理解しない。

さて私たちは、本当に真実を見出し、驚きのうちにそれを理解する者でありたいと、思いませんか。

ダルミニー


最高の理想を目指して

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

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先日行なわれたサットサンガでの教えをご紹介しています。

師が、常に教えてくださっているヨーガの教えはこうです。

私という本質はこの身体でもなければ心でもなく、その奥にある純粋な意識である。そしてその純粋な意識であり尊い命という存在のきらめきをみんながもっている。そして自分自身もそうだということを知ること、これが悟りというものです。心はそれを知らないのですから、このことを心に言い聞かせてやらなければなりません。心はそれを知ることによって、この世の儚い喜びや苦しみ、悲しみには巻き込まれなくなってきます。これがヨーガの教える普遍的真理です。

そうして師は、そのためにも、それを実現した聖者や覚者に憧れ、理想として目指していくことが大切であると教えてくださっています。しかし、なかなか理想の姿に近づいていけず、日々の生活の中で不平や不満ばかりを言っている自分に気が付くときがあります。そのような時にどのようにすればいいのかという質問がありました。

理想が見つけられているならば、その自分の中にある理想でないものとの違いが何なのかということを見つめて識別すること、そうすればその日常の諸行無常といわれる変化する世界の中では、いちいち不平や不満を述べる必要はないということが分かってくるはずですよ。それと日常の中での成功や失敗、うまく行っていようがいまいが、それにはもう頓着しないこと、そういう訓練をしていくこともサーダナ(修行)の大きな部分です。サーダナは何もアーサナ(ヨーガのポーズ)だけじゃない。そういう自分自身の心のあり方、それから行為のあり方、そういうもの全部がサーダナです。

本当に素直に純粋に、そのからくりというものに気付かされたならば、速やかにエゴは消えていきます。でもその気付きというものの純度によってはまだエゴが少し残っていて、何度かやっていかないといけない場合はありますね。それはそのときどきの受け止め方というか、気付き方というか、そういうものによることがあります。でも素直に純粋にそうだと思えば、もうそこでその作業は完了しますよ。みんなは純粋な意識であり、永遠の存在であることは間違いないんだからね。もう素直にそれを認めて、エゴのそういうつぶやきとか、わめきとかに耳をかたむけないようにしていかないとね。

そして師は、ヨーガによって心を純粋にしていくことが大切であるとも教えてくださっています。以前のサットサンガで、純粋であることとは、誠実であること、素直であること、計らいがないことであると教えてくださいました。私たちの師は、サットサンガの中でどんな質問にも、何回同じことを聞いても、本当に真摯に誠実にお答えをくださいます。また長年来ている人に対しても、初めて来られた人に対しても同じように、平等に接してくださいます。そのような師のお姿に接するたびに、師を見倣い、行為していくことが、純粋になることの第一歩なのだと、心は素直に思うのでした。

ダルミニー

 


愛媛サットサンガ(3)

愛媛の特別サットサンガの最終日は今治。
ゆるキャラのバリィさんに象徴される今治は、タオルや造船、やきとりが有名なしまなみ海道の町です。
会場の山本さん宅に入ると、ちょっとお年を重ねた方が多いような気が……
それもそのはず、名簿を見ると70代の参加者だけでも10名近く……(驚き!!)
でもみなさん、色鮮やかなミッション40周年Tシャツを着て、何だかとても可愛らしい。(←お世辞ではありません。ヨーガ行者は嘘は言いませんから笑)
会場は幾分、和やかな空気感でしたが、サットサンガが始まるとそのムードは一転、皆がヨギさんに集中し、真剣な問答が展開されました。

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その内容は、身近な人を亡くした方が多かったため、死に関連した問答が多くありました。
「亡くなった人と、どのように付き合っていったらよいのか?」「お経を唱えるとは?」「来世に修行をもちこしてもいいのか?」
死についての問答は松山でもありましたが、ヨギさんが説かれることは一貫しているように思いました。
それは、「死を正しく理解すること」です。
この今治のサットサンガでは、以下のように説かれました。

「死という問題がありますけれども、生まれた者はいずれ死にます。これはこの宇宙、すべての掟です。死なないためにはどうすればいいのか。生まれないことになります。でも、誰もが生まれてきてしまったんですから、この死という問題には直面せざるを得ません。やはり、死というものを正しく理解する必要があります。死を恐怖するだけではだめです。不安に思うだけでもだめです。正しく理解すればいいんです。死というのは肉体がなくなること。肉体から命が去ってなくなること」

そしてヨギさんは、もっとも大切なことを説かれました。

「その本体である魂は決して死なない。決して殺されることはない。どんな爆弾をもってきても破壊されることもない。そんな不死の永遠の存在がそれぞれの本質、本性です。神そのものです」

私は愛媛へ出発する日、「今までで一番心に残っているヨギさんの言葉は何ですか?」と、ある方から尋ねられました。
その時突然、「本当の自分とは、この身体でもなく心でもない、その奥にある永遠の存在」という言葉が浮かび上がってきました。
私はその言葉が今までで一番印象に残った言葉であるとは思ったこともなかったので、驚きました。
そのままを伝えたらよかったのですが、それを口に出すことができませんでした。

大袈裟に聞こえるかもしれませんが、この今治のサットサンガが終わった時、そこにあったものはヨギさんの振動だけでした。
私は愛媛の3日間、胸の奥にずっと熱いものを感じていました。
それはヨーガを始めた頃に感じたものと同じ感覚でしたーー「これがあれば、どんな宝石も財産も名誉もいらない」、そう思えるものです。
私は改めて、この愛媛の3日間を振り返り、胸を熱くさせるものがどこから来ているのか、それが何なのか、確信しました。
それこそが、「不死の永遠の存在」だと!!!
そしてヨギさんはいつもずっとそれだけを説かれ、それに目覚めるように皆を導かれている。
クレイジーともとれるこの真実を真剣かつ誠実に述べている人に、私は未だかつて会ったことがありません。ヨギさん以外に!!!

この愛媛の特別サットサンガは、愛媛のグルバイの方々の長年に渡る準備と、ヨギさんへの純粋な思いがあってこそ、実現したものでした。
愛媛の方々の働きは本当に誠実そのもので、京都から来た私はそれに乗っかっただけでした。
ヨギさんの存在とお言葉、そしてグルバイこそが真の宝であり、希望であり、祝福であり、どんな爆弾にも負けない至福の爆弾だと感じる3日間でした。
本当にありがとうございました!!!(終)

飯尾洋平


愛媛サットサンガ(2)

「この人生で、もっとも大切なものは何でしょうか?」

家族や恋人、仕事、お金、または神……その答えは人の数だけあるのかもしれません。
でもたぶん、自分が幸せを感じることが、その答えであるように思います。
生きている限り、人は必ず幸せを求めていると思います。
でも、なぜかその幸せは続かないし、また得られない。
満たされることはなく、結果は苦しむことがほとんどです。
では、どうしてそうなってしまうのでしょうか?
愛媛の特別サットサンガ二日目は、この人生の難問についての問答がありました。

サットサンガ二日目は、昨日に引き続き、松山ヨーガ・サークルで行なわれました。
二日目ということもあり、昨日よりも会場の雰囲気は和らぎ、心地よい集中感がありました。

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昨日に続いて2回目の方〜!

そんな中、ある男性の方が次の質問されました。

男性「心は道具として使うということなんですけれども、結局僕らは上手く使えてないから苦しみの中で生きてしまっていると思うんです。人の本性が真理であったり神であったりするならば、なぜ苦しみが次々生まれて絶えることがないのかということがすごく疑問で、その点についてお伺いできればと思うんですが」

ヨギさんのお答えは、「真理ではない間違った智慧、これに心がすがって、そこからさまざまな欲望を紡ぎ出し、それに執着した挙げ句、結果として苦しみに至る」という、「真実を知らない無知」が苦しみの原因であるというものでした。
心は常に変化する世界や肉体が永遠であると思い、またエゴを自分であると思っていることがその間違いであるとヨギさんは説かれ、そして「幸せ」について、以下のように言葉を尽くして答えられました。

誰もが幸せを願って人生の中で努力をしていると思いますが、その幸せや喜びというものが本当に永遠であるのかどうか、完全であるのかどうかといえば、つくりあげられた幸せもやはり、この世界と同じように状況の変化の中で刻々と姿を変えます。つかの間の喜びは、やがて苦しみや悲しみに変わることはある。またこの世界は最近も起こったように天災もあれば、どうにも人間の力では敵わないような出来事も起こります。そんなことに接すると心も痛むし、苦しみ悲しみも起こります。しかしそれらも、いわば変化の一相なんです。いいときもあればよくないときもあります。東洋の農業国にとっては雨は必要なものだし、農作物を豊かにもしますが、それが増えすぎると洪水にもなって人の命も奪うこともある。包丁も美味しい料理を作ることができれば、人を傷つけることもできる。何事にも二面性があります。一方的にそれが善であり、悪であるとも言いがたい。しかし心は何かしらに執着をして、それにとりすがってしまう。それは正しく見れていないから。その結果、思うようにならない時に苦しみ悲しみを感じてしまうわけです。心はそんな間違いを原点としながら、儚いことも知らずにこの世界の中でいろんな喜びをつくりあげようとしています。そうしてそれにすがってしまうんです。それに執らわれてしまうのです。それが苦しみとなるわけです。そのような無知、そして無知から生じた煩悩、つまり欲望や執着というものを自分がつくり出したにもかかわらず、それらによって自分が苦しんでしまうというのが先ほどの問題の答えなんです。
ここに苦しみから脱出する方法も暗示されています。つまり、無知を無くせばいいわけです。簡単な話です。正しい智慧、真理を学べば、無知は無くなるわけです。そうすれば儚いことを追いかけることも、それに執らわれることもないし、心は混乱することもないのです。

なぜ人はこの人生において幸せを求めているのに苦しむのか、またそれをどのように無くせばいいのかーー心や世界の二面性を正しく見ることによって、つまり真理を学ぶことによって無知が無くなり、苦しみから抜け出せるーー
この人生の難問についてここまで分かりやすく、また確信をもって答えるヨギさんのお言葉に、参加者は真剣に聞き入り、会場の集中度はピークに達していました。
しかし、ヨギさんはそれを解きほぐすかのように、以下のように話されました。

と言葉では簡単に言えます(皆大笑)。実際は心というのは、なかなかそれをこうだよと理屈で言ってもそのようになってくれない。これが厄介なところ。だから少々時間も必要です(皆笑)。そして学ぶことも、昔の言葉で言う修行といいますけれど、やっぱり少しは努力をしなければなりません。なぜならこの無知というものは昨日や一昨日できたものではないのです(納得や驚きの声)。もうおよそ想像がつかないぐらい昔から輪廻転生してきている、生まれ変わって何度も何度も繰り返し生まれ変わってきているこの中で形成されてきているわけですから、心そのものをすっかりクリーンアップするにはちょっと手間も時間もかかることを覚悟してください。
だけど、この智慧に人生において出会う縁をもったということは、その生涯においてそれを達成することができるという希望です。必ずできます。

私はヨギさんのこの「希望」という言葉を聞いた時、天井から何かが降ってくるような、そんな感覚がありました。
それは「祝福」でした。
ヨーガと出会ったこと、そしてヨギさんと出会ったこと、この人生においてこれほど吉祥なことはない、そう感じました。
私だけではない、会場にいるすべての人が「祝福」され、ヨーガに「希望」を見いだした瞬間であったように感じました。

サットサンガが終わって、ヨギさんに「今日のサットサンガ、どうだった?」と尋ねられ、この時感じたことを話そうとすると、不思議と胸の奥から込み上げてくるものがありました。
言葉に詰まりながら「松山が祝福されたと感じました。会場にいた人は皆、ヨーガをやっていこうという気持ちになったと思います」と話すと、ヨギさんは笑顔で一言、「松山まで来た甲斐があったな」とおっしゃいました。(続く)

飯尾洋平


愛媛サットサンガ(1)

5月21日、22日、23日の三日間に渡り、ヨギさんが愛媛を訪問され、特別サットサンガが行なわれました!
これは愛媛の方々の念願であることはもちろんですが、私の念願でもありました!
なぜなら愛媛は、私が京都の大学に進学するまで過ごした「地元」だからです!
そして今回、私は京都から師に同行させていただくという幸運にも授かり、本当にドキドキとワクワクで胸が高鳴っていました!

愛媛での特別サットサンガは、最初の二日間は松山、三日目は今治で行なわれ、申し合わせたように45名を超える参加者が集いました。大袈裟ではなく、この三日間とも質疑応答は全く途切れることはありませんでした。どの参加者も真剣かつ誠実にヨギさんに質問し、そのヨギさんのお答えは大変素晴らしいものでした。そのすべてをご紹介したいところなのですが、このブログでは特に私の印象に残ったことをお伝えしたいと思います。 

一日目の松山、その会場は松山ヨーガ・サークルでした。
2005年から発足したこのサークルの拠点になっているスタジオは、松山の一等地である松山市駅のすぐ近くにあります。
京都でいえば四条河原町、東京でいえば新宿アルタ前といったところでしょうか? 地元の方なら本当に驚くような中心地です。
この日は初日ということもあり、参加者はヨギさんと会える歓びと期待、また緊張が入り交じったある種、独特の雰囲気が会場全体を覆っていました。

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スタジオは満員!

そんな中、二番目に質問したのが、去年の二月に京都のサットサンガに初参加したDさんでした。
その京都のサットサンガの時にDさんは、幼い頃から母親の言葉に傷付けられ、今は介護が必要な母親にどのように接していけばよいかと質問し、ヨギは「過去に執らわれないこと。どんなことを言われようと奉仕すること」とお答えになっていました。
Dさんはこの一年間、ヨギさんのお言葉を胸にもって母親に接し、母が嫌いだという思いはなくなってきたが、自分自身のことを思っている不純さと、真理からいちばんかけ離れているお金に対する執着が抜けきれなく、どうしたらいいのかと質問をしました。

ヨギさんは即座に次のように答えました。

「もったいないね。そんなこと思っている、それだけでも時間も精力もご自身の人生そのものがもったいない。そんなことやっている暇はない。そんなのどうでもいいこと! はっきりそこでそんなことに執らわれないようにする。そうして心を教育していかないといけない。あぁ、もったいない! あぁ、本当に目の前に宝物があるのに!」

厳しさもあるお言葉でしたが、Dさんは一瞬にして何かが落ちていったように、その表情はとても晴れやかになっていました。
Dさんとは去年の二月に京都でお会いして、その後松山でのクラスに熱心に参加され、また瞑想特別クラスの際は積極的にお手伝いをしている姿や話などを見聞きしていたので、その良い変化は京都からでしたが感じていました。
ヨーガは実践だといわれますが、真理の教えはすぐには身に付かないのが大半です。そんな葛藤から生まれたこの質問とこのヨギさんのお言葉はサットサンガの醍醐味そのものであると感じました。

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参加者のみなさんがヨギさんを食い入るように見つめていたのが印象的でした。

その後サットサンガは、死の恐怖というところから苦集滅道の教えがあり、また輪廻転生や宗教の本質についてのことが話され、最大延長の二時間半のサットサンガになりました。
ヨギのお言葉に涙する方、目が点になっている方、納得してうなずいている方、いろんな反応がありましたが、質問をせずに下を向いて座っている人もいました。
その下を向いていたのが私の母でした。

実は私の母は約二年前から松山ヨーガ・サークルのアーサナクラスに通っており、今回ヨギさんに初めて会いました。
質問はしなかったし、下を向いていることが多かったので、「ちゃんと聞いているのかな?」と思っていたのですが、サットサンガが終わって数時間後に電話をして「今日はどうだった?」と聞くと、「ヨギさんの声がよかった。若々しかった! 笑いもあって、ヨギさんてこういう人なんだというのが少し分かった。空の教えや苦集滅道の話が分かりやすかった」と話し、電話越しの母の声がいつもよりイキイキしているのが分かりました。
何だかそれがとても嬉しかった一日目のサットサンガでした。(続)

飯尾洋平


あるがままに生きる

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

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 先日行なわれたサットサンガで印象に残った師の教えをご紹介したいと思います。

ヨーガの教えである真理を学ぶことによって無知を正しく理解し、心を真理に従わせるようにすると、この世界の中で執着なく、あるがままに生きていくことができるようになります。

無知という言葉は聞いたことがあると思いますが、それは私たちがこの世界に対してもっている根本的な大きな間違いのことです。一つ目はこの世界を永遠だと思っていること、二つ目はこの世界に純粋なものを求めてしまうこと、三つ目は幸と不幸を繰り返すこの世界の中で幸せを願ってしまうこと、四つ目はエゴという心を本当の自分だと思ってしまうことです。そしてその無知がさまざまな欲望をつくりだし煩悩となって、あげく苦しみや悲しみになってしまう、そのことを正しく理解しなさい。そして心をそういう無知に従わせるのではなく、ヨーガの教えに従わせるようにすると、あるがままに生きていくことができるようになると教えてくださいました。

心が煩悩によって活動をしている間は、すべての物事は心にとって好きなのか嫌いなのかだけになってしまいますが、心から無知煩悩がなくなっていけば、あるがままにすべてのものが尊い存在として感じられるようになります

あるがままに

 師の説かれるこの言葉に強く惹きつけられました。師は「あるがまま」というのは、何ものにも執わられず、束縛も儚いもない、苦しみも悲しみもない、そういう状態であると教えてくださいました。「あるがまま」とは、なんと軽快で、なんと自由、なんと透明で、なんと晴れ晴れとしていることでしょう。

最近「ありのままで」という歌が流行っていたように思いますが、「ありのまま」というのは、心が欲望に従ってなんの努力せず、好き勝手しているような感じがして、あまりいいイメージではありませんでした。「あるがまま」と「ありのまま」とでは言葉は似ているけれど、生き方に雲泥の差がありますね。

あるがままに生きる

その境地を理想として、ますますヨーガを実践していこうと、思いも新たにしたサットサンガでした。

ダルミニー