シュリー・マハーヨーギー/師の教えとサットサンガ」カテゴリーアーカイブ

神なる真実在だけが在る!

満開だった美しい桜の花も終わりに近づき、季節が新緑へと向かっていくのを感じます。

 4/7に開催された祝祭、サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラーは、(前回の記事の通り)シュリー・ラーマクリシュナの臨在とともに、神なる歓び、至福に溶け入るようなひと時となりました。

その前夜には、定例サットサンガが行なわれました。祝祭に向け、多くの人がシュリー・ラーマクリシュナの生涯に触れ、思いを高めてきたこともあってか、神の真実を表すマントラ(聖音)から始まり、バクティ(神への信愛)やリーラー(神の遊び戯れ)についてなどの質疑応答も続きました。

その日、師がサナータナ・ダルマ(永遠の真理)とアヴァターラ(神の化身)について語られた言葉をここにご紹介します。

真理というのは、当然ながら永遠であるわけです。時代性や民族性、一切の条件に左右されるものではない。それは変わらずに、時間を超えて在り続けている真実のことです。この真実がすべての生き物の中に、そしてこの全宇宙の中に、本質として宿っている。だけど人間の心はそれを知らないで、むしろ反対に間違った思いをもってこの世の中と接してしまって、そこで儚い自由や儚い偽物の幸福などを追いかけてしまう。その結果はみじめな苦しみということになるわけです。

永遠の真実というものを人々が忘れそうになった時には、その真実そのものが化身してこの地上に顕れ、もう一度人々に思い起させる。時空を超えた存在でありながら、時空に限定されたこの世の中で働きをする。それをアヴァターラ、神の化身と訳していますが、そういう存在が時折顕れる必要がある。それがブッタであり、また近代ではシュリー・ラーマクリシュナである。そういう本当に大切な、尊い真理と存在に対して、私たちも思いをもう一度新たにしようということで明日、祝祭という形をとって行おうとしているわけです。

さらに師は、神なる真実在だけが、真理だけが在ることを何度も語ってくださいました。
会場は、翌日の大歓喜を予感させるかのようなムードに包まれました。

* * *

そうして迎えた祝祭の当日。みんなの熱い思いのこもったメッセージがすべて終わった時、師はアヴァターラの降臨の意味、そして誰もが真実を悟ることができることを力強く語られた後、笑みをたたえ、私たちがマントラを繰り返し唱えるよう導かれました。

OM TAT SAT OM(オーム タット サット オーム)!
OM TAT SAT OM!!
OM TAT SAT OM!!!

全員で唱えた聖音が、その場に高らかに響き渡った時、誰もの中に在る真実が呼び起され、共鳴し合うような強い感覚が生まれました!

神は真実在なり!!!

みんなの内からほとばしり出た、この宣言、サナータナ・ダルマの振動を、この胸の内にも外にも、さらに大きく響かせていきたい!と思います。

マードゥリー


真実に心を尽くす <サットサンガより>

3月9日(土)、ニューヨークご布教から戻られたばかりにもかかわらず、師シュリー・マハーヨーギーは直伝クラスの最終回とサットサンガを行なってくださいました。

まず、2年4か月にわたり、師自らヨーガの真髄を私たちに伝授してくださったことに、心からの感謝を捧げさせてください。毎回、自分でも驚くほど集中することができました。アーサナ前、師のそばに座っただけで涙が溢れることもありました。師の導きにより心の波を静めることで、思考や理屈を超えて、真実在を体感させていただきました。本当にありがとうございました。この感謝の気持ちは、ヨーガを深めていくことでお返ししていきます。

さて、この日の直伝クラス・サットサンガとも、日本各地から多くの方が師の下に集いました。師に初めて会われる方もたくさんいて、サットサンガで質問が途切れることはありませんでした。

その中で私が最も印象に残ったのは、真理以外のことに思いを巡らせる弟子に対してのお言葉です。

「そんなくだらないことにどうして心は囚われるの?どうでもいいじゃない、そんなことは。それよりももっと大事なことに、心を尽くしなさい。」

それは、日常生活においてこの世のいろいろなことに目を向ける私自身への言葉でもありました。京都から東京に戻った私は、自宅や会社で「これはどうでもいいことではないのか?」と自らに問いかけていることに気付きました。それほどその言葉は、私の心に深く残っています。

師は直伝クラスの最後に、こうおっしゃっています。

「どんな分野であっても、懸命に努力をした人だけが成功します。いわんやヨーガにおいては当然そうです。数え切れない輪廻転生をしてきた苦しみの生涯に終止符を打つという、偉大なる作業なのですから。この生涯において、吉祥なヨーガに縁を持ったということだけでも本当に恵まれた素晴らしいことです。この吉祥な縁をさらに実りあるものとして、この生涯のうちに自由に、悟りを実現してください。」

仕事や日常生活は適切に対処しつつも、常に真実に心を尽くすこと。気付けば神を手放していた…なんてことでは、この偉大なる作業をやり遂げることはできないのです。「真実に心を尽くしているか、これはどうでもいいことではないのか」を常に自らに問い続けていく。4月のサットサンガで師に再びお会いする日まで、必ず続けたいと思います。

ターリカー


計り知れない導き! サットサンガより

1月12日、今年最初のサットサンガが行なわれました。師がご布教のため16日よりニューヨークに渡米されることもあり、たくさんの弟子が集いました。
その中で、質問者だけでなくその場にいた全員に向かって、力強く、熱を込めて話された教えを、抜粋してご紹介させていただきます。

「誰もが1日の中で三分の一は眠っているでしょう。その中できっと夢も見ているはず。夢の世界とこの昼間の世界とは全く違うでしょう。どちらが本当ですか?どちらも同じなのです。夢は、心の奥深いところから現れてくるある種のストーリーです。昼間の世界は、心の表面の部分が活動して出来上がった世界です。どちらも、心が作りだした世界ということで同じなのです。どちらも夢のようなものです。
一方で悟りの世界というのは、確実なリアリティーの世界です。それだけが真実です。そこから見れば、この世の中は実に儚い、朝の露のように一瞬の煌めきを持っていてもすぐさま消えていく。
誰もが肉体を持っていて、肉体は食べ物によって養われていますから、何らかの仕事もしなければいけない。また、家庭生活も必要でしょう。様々な付随する用事も多々あると思います。でもそれはそれだけのことです。それが目的ではないのです」

「心が何を思おうが全く値打ちのないものです。いささかの値打ちもない。真理というのは確実にあります。それを体感することがヨーガの目的なのです。過程の神秘体験とか快感とか、そんなものを目指しているものではないです。心はいつまでたっても真理を知ることはできません。なぜなら、心と真理とは別物なのですから。やるべきことは心をなくすことなのです。心を空っぽにして、なくすことなのです。そうすれば、自らの内にある真理そのものが現れます。これは、単純な真理です」

この二つの教えは、何度も何度も繰り返し、師の口から言葉となって発せられ、これまでも幾度も聞かされてきました。初めは、よくわからなかったのですが、耳にすると自然に涙が溢れることがあったり、次第に「確かにそうだ」と思うようになり、そして「本当にそうだ」と感じるようになってきました。師から直接聞く真理の言葉には、計り知れない導きがあると感じています。
この真理の教えが土台となって、日常の様々な事柄を見て、心を識別していくことによって、「何が大切で、これからどう生きていくのか」という私自身の理想が具体的になっていきました。これからも、その目標に向かって、さらにヨーガを深めていきたいです。その決意が胸いっぱいになったサットサンガでした。

山口正美


屈託のない心、空っぽになる! サットサンガより

12月8日、今年最後の定例サットサンガが行なわれ、師の下に各地から大勢の弟子たちが集いました。 

この日も問答の中では、日々心に留めて実行していくべき大切な教えをたくさんいただきました。

識別力を高め、徹底して執着の原因を明らかにしていくこと。
愛に言葉は不要、やさしさや奉仕という実際の行為にしていくこと。
聖者の思い、完成まで至った情熱を感じ取り、それに倣っていくこと、等。

師の息遣いとともに入ってくる力強く、潔い真理の言葉にインスパイアされ、幾度となく心が揺さぶられました。

そして今回のサットサンガでは、幸運なことに、師の幼少の頃のさまざまなエピソードをお聞きすることができました。師がとっても軽快に、絶妙なユーモアを織り交ぜて話されるのに、私たちは時には大笑いしながら、目を輝かせて聞き入っていました。

印象的だったのは小学生の頃のこと。
8歳の時、師は突如、真我に目覚めるという体験をされましたが、その時は周りの友人も皆同じような経験をしていると思い、誰に話すこともなく、毎日、無邪気に遊ぶことに夢中になり、とっても快適に過ごされていたそうです。

また、その時分は毎晩のように神秘的な体験が起こり、それが後になって、すべては『ヨーガ・スートラ』に説かれている、シッディ(神通力)であったと理解されたそうです(驚くべき話です!)。
師曰く、その体験は映画以上におもしろかったということですが、もちろん師はそのような経験に対して期待を抱いたり、とらわれることは一切なかったそうです。

霊的な体験を得るために、心の状態をどのようにすればよいのかという問いに、師は次のように答えられました。

「小学生の時に心はすごく晴れやかで、軽やかで、何の屈託もない、何の波風もない状態だということを自覚していた。つまり自分の心を知っていたわけです。

心に何の思いもない、記憶も邪魔にならいほど空っぽの状態をつくりなさい。そのような状態が保てたら、体験はすぐに起こると思う。それが条件です」

お話をお聞きした時、自由無碍で、凛とした可愛らしい少年の姿が思い浮かんだのと同時に、今目の前におられる師は、大人の姿形をされているけれど、本当に少年の頃と何ら変わりないのだと思いました。
そして、一点の曇りもない、師の澄み切った心が、私の中にも広がっていくような感覚が一瞬、訪れました。

心の余計な思いは何もかも一掃しよう! そこに真実の実現への道が開かれる!
あぁ、師のようにいつも清々しい、空っぽな心でありたい、と強く思ったサットサンガでした。

マードゥリー


サットサンガより どうすれば恩寵を得られるか?

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

神の恩寵と聞くと、みなさんはどういうことを連想しますか? 病気治癒や良縁に恵まれるなどのご利益的なものでしょうか? また、神への信仰をもっている人は、良き出来事に遭遇したり状況が改善されると、神の恩寵だと感じることがあるかもしれません。

神は恩寵を与えるのでしょうか?  それはどのように与えられるのでしょうか?  先日行なわれたサットサンガで私は師に質問しました。

チャイタニヤ:純粋意識である真我(アートマン)は、ただ見ているだけの存在で何かを語りかけたり、働きかけたりしないと教わっています。では、真我とイコールの神が恩寵を与える意味とは何なのでしょう? またどういう時でしょう?

師:神なるアートマンは常に恩寵を与えています。しかしエゴや煩悩に穢されている心はそれを知らないし、また受け取ることができない。恩寵を受け取る、あるいは感じるときは切羽詰まっているときであったり、限界のとき、そしてヨーガによって心の浄化が施されていった中で恩寵を感じることができる、そういうものです。恩寵は常に、まるで太陽の光のように与えられている。

チャイタニヤ:自分にとって好ましいことや都合の良いことを恩寵と考えると、現世利益的な神の崇拝に繋がっていきませんか?

師:それは厳密には恩寵とは呼ばない。恩寵とはもっと神聖で穢れなき祝福、あるいは霊感というものです。

神は太陽のように常に恩寵を与えている。心はその真実を知らないだけで、大事なことは、エゴや煩悩という心の雲を取り払えるかどうか。つまり「識別」できるかどうか――

10月のサットサンガで、師は心の浄化に不可欠な識別について説いておられました。

師:やるべきことというのは、自らの心を観察して、そうして自分にとって心にとって、どんなこの世に対する執着や、あるいは未練があるのだろうか、それをもう徹底的に行なうということです。これは識別です。本当はこれをまずやらなきゃいけない。でもその大原因が無知ということなので、なかなか目に見えない相手だから、完全にこれをなくしてしまうのは難しいようにも見えるかもしれない。しかし一方でサーダナ、つまり修行を深めること、怠らずに行なうことをやっていけば、それらが浄化の力となって、また聖典や真実の言葉を聞きながら、その識別力も高まってくるに違いない。目に見える物質的な執着というのは、簡単に識別もできていくかもしれない。でも根本は無知といわれているエゴを真我だと錯覚していることであったり、この複合的な世界があたかも永遠であるかのように思っていたり、その中で幸福を見つけようとどこかに思っていたり、そのような漠然としているけれども、しかし心の奥底に根付いてしまっているような間違った思い、これを完全になくしてしまうことが放棄ということになります。だからこの識別的瞑想というのは、力強く積極的にやっていかないといけないものです。そうすればおよそ思いつくさまざまな事柄について、もう未練がない、執着がないとしっかり言えるような時がやってくる。

穢れなき恩寵を受け取るには、穢れなき心をつくり出す徹底した識別あるのみです!!!

チャイタニヤ

 


サットサンガより バクティ・ヨーガの態度

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

神を愛することで神と一つになるバクティ・ヨーガには、5つの態度があると教えられます。

シャーンタ(平安な心の態度)、ダースィヤ(召使いの態度)、サキヤ(友人の態度)、ヴァーッツァリヤ(子を思う親の態度)、マドゥラ(愛人の態度)。

先日行われたサットサンガで、私はマドゥラ(愛人の態度)について師に質問しました。

チャイタニヤ:私は自分の身体が男性だというところで、愛人のように神を想うマドゥーラの態度が理解できないです。そういう態度を示している弟子を見ていると、ためらいや遠慮とかが無くなっている。私はそういう女性的な態度をとることがきないです。

師:まず、自分が男の身体を持っているという肉体のことは忘れないといけないです。神だけが男性であって、男女ということで言えばバクティにおいては、バクタはすべて女性としてみなされる。そのことをまず整理して、ただ神に飛び込むようにするのがいいです。

チャイタニヤ:私には躊躇というか遠慮というか、畏れ多いと感じるのです。でも本当に神と一つになりたいと思って近づいている人には、そういう思いは全く見えません。もう放棄が済んでいる、明け渡しているということですか?

師:ええ、そういうことを意味します。誰もが初めから完全な放棄ができているわけではないかもしれない。それでもバクティを深めるうちに残されている放棄も速やかに行なわれていくはずです。

神の愛人として神だけを激しく求め、一つになろうとするうちに他の一切余計なものが振り落とされる。最愛の神以外に何もいらない。たとえ自らの命であっても……最も強烈な究極の愛の形。マドゥラ・バーヴァ(愛人の態度)はただ愛ゆえに愛するのです。そこには自分という痕跡が跡形もなく消え去っています。

サットサンガ終盤にある弟子が識別について質問しました。「先月のサットサンガでボートを漕ぐ前にロープを外すことを教わりました、でも私は神様を思うことで、別に自分で外そうと思ったわけではなくても勝手に外れていたと思うんです!」とキラキラした笑顔で話していました。

純粋で喜びに溢れた彼女を見ていると、愛に勝る力は無い。神を愛すること以上に為すべき事など本当は無いのだと感じました。

チャイタニヤ


サットサンガより 「ロープを外せ!」

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

ヨーガを深めていくと、肉体の変化や呼吸の変化を感じることはよくあります。しかし私の場合、瞑想における深まりはというと、もどかしいばかりの日々が続いています。

瞑想の最終到達点はサマーディ。悟りです。憧れをもってそこへ行きたい。その境地を味わいたい。真理を実現するためにすべきことも、すべきでないことも一通り学んできたつもりです。しかし依然として悟りへの道は果てしなく遠く、目標に近付いている気配すらありません。

先日行われたサットサンガで、ニューヨークから三ヶ月ぶりにお帰りになったばかりの師にその事を質問しました。

師:今回、ニューヨークでも似たり寄ったりの弟子たちの心情を聞くことがありました。彼らは一所懸命、聖典を学び、そしてサーダナ(霊的修行)も行ない、ヨーガを深めているようなのですけれど、しかしまだ安らぎには達していない。なんとか本当の幸せ、自由というものを望みます。そんな時、真理の教えがやってきて、本当はこうだよと教えてくれる。例えればそれは彼岸というか、あの向こう岸に達すれば、そういった幸せな世界があるよと教えられるようなものです。そして、みんなは熱心にボートを漕ぎ出す。一所懸命漕いで、一日中漕いでーー翌朝目が覚めれば、まだこの岸の一寸たりとも動いていない。なぜなら、ボートを繋いでいるロープを外していなかった。だからいくら漕いだって進むわけがない。やるべきことは、まずロープを外すことです。船を杭に止めているロープですよね。これがこの世における執着、あるいは煩悩とか無知といわれているものを象徴しているわけです。それが繋がっていたらいくら漕いだって動きもしない。だからまず、それを外しなさい。そうすれば、軽やかに向こう岸に辿り着くことができる。

では、どうすればロープを外せるのでしょう?

師:まず識別をして、この世を正しく見ること。そうして識別をするならば、その中で自分の心がどれほどこの世に執着をしているか、あるいは何が残っているかということが見つけられ、もっと識別を深めることによって、その原因である無知や煩悩が見つかる。さらに識別をすれば無知は間違っているということに気付かされ、心から無知が滑り落ちる。これが放棄という状態になる。あるいは無執着という状態になる。ロープが外れる瞬間のことです。

心から無知が滑り落ちる!!!それが放棄……放棄というと、頭を丸めて世俗の楽しみに背を向けて耐えることのように感じていました。

悟りのために行なっているサーダナ(霊的修行)が深まっていかないのは、この世における心の煩悩や無知が絡みついているからーまず正しい教えを学び、この世を正しく見る。識別によって自分の心に絡みついた結び目を一つ一つ解いていくしかありません。

ボートを漕ぎ出せ!しかしその前にロープを外せ!!

チャイタニヤ


サットサンガより 目的と方法

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

毎日のサーダナを実践する上で、しんどいなとか面倒だなと感じる日は誰にもあると思います。

私もヨーガに出会う以前に、仕事が忙しすぎて帰って眠るだけという生活が数年間ありました。その時の自分に、サーダナをする時間と余裕があったかと考えると、できなかったと思います。

そういう環境の中では、ヨーガを中心にした暮らしは、簡単に望めそうにはありません。思い切ってガラッと生活を変えることができればいいのですが、家族や周りとの調和を大事にすると、あるいは自分自身今のこの生活を捨ててヨーガに飛び込めるか?と揺れてしまうと、何年も場合によっては何十年も我慢しなければならないかも知れません。

今の境遇は自らのカルマにしたがって有るのだとすれば、今の環境でできることをするしかありません。

日常がとても忙しく、ついサーダナができない日があります。そうすると、「今日はできなかった」とか、「さぼってしまった」という罪悪感や後悔の念が起きてしまいます。自由に軽やかになる為にヨーガをしているはずなのに、これでは反対に苦しいばかりですよね。

先日サットサンガで弟子の質問に師はこう説かれました。

質問者「状況とか場所が変わって、その中でサーダナを試みてもなかなか集中して行えない自分の弱さがあります。サーダナをやっても途中で疲れて寝ちゃったりして、罪悪感というか……。でもその気持ちをもっと前向きに望みたいんだけれども、なかなか自分で壁を作っているところがあります。そこを突破する、やれるようになるにはどのようにしていったらいいでしょうか」

ヨギ「サーダナは目的ではないんですよね。だから目的と方法というものを混同してはいけません。サーダナはあくまでも方法にすぎないわけで。それは目的ではないんですよ」

質問者「何のためにするか、ということですよね」

ヨギ「そうです。目的が真理を実現することであるならば、もちろん、このヨーガのサーダナはそのためにあるわけですから。それは結局のところは心を浄化する、きれいにするということ。サーダナというのはそのためのものですよね。じゃあ、それにはサーダナはいくつも色んな方法があります。アーサナや瞑想だけではない。信仰もそうだしね。だからもっと目的に直接的なところを踏まえて、心に持っていないとだめ。常に真理を持っている。神を思っている。そういうふうにして信仰を高めていくこと。それが大事です」

サーダナとはアーサナだけではない。日々の他者との関わりの中で積極的に奉仕を行うカルマ・ヨーガ。常に真理を物事の判断基準として生きる。そして境遇が例えどんなに荒れ狂う嵐の中にあっても、心は常に神の中に留まる境地、信仰という強いよりどころを持つこともサーダナなんですね。

人それぞれカルマにしたがって与えられた境遇は違いますが、ヨーガに出会って発心がおこり、この道を進もうと決めた。と言うことは既にヨーガの道に向いて進んでいるということだと思います。停滞や挫折を感じても、確実にカルマの道からヨーガの道に舵を切って進んでいる。だからこそ、残っている心の習性や習慣との格闘があるのだと思います。

カルマの世界で心に支配されるのが嫌なら、心の声は聞くべきでは無いですね。真理の存在を信じられないと思っているのも心だからです。本当に求めるものは何なのか?自分はこれからどう生きたいのか?目的をしっかりと見すえて、その為の方法を淡々と実践することが一番確実で早道なんだ…それ以外に道は無いと改めて思い知らされました。

器官を統御して貪欲という難敵を滅ぼす力が、自分にはないとおまえが考えるならそれは間違いだ。なぜなら肉体より器官、器官より心、心より知識、知識より魂の方が格段にすぐれ、精妙、かつ強力でもあるからだ。 『バガヴァッド・ギーター 三章 四十二』

Caitanya


松山特別サットサンガの感想‼️

前回のサティヤーに続き、松山グルバイの山口正美さんが松山特別サットサンガに参加した感想を寄せてくれました!
三児の母である山口さんですが、お子さんも成長して母としての役割を果たそうとしている今、神への熱い思いと決意に満ち満ちています!


「これからの人生をバクティ・ヨーガ成就のために使う!神に狂うんだ!」

5月19日、20日に開催された松山特別サットサンガでヨギさんが松山に来てくださって、そう決意することができました。

ヨギさんのお話から、誰かの心が見ている世界がこの世界をつくり出していて、そこに真実はないということ、マーヤーなんだということを直感しました。同時に、神のみが唯一の真実、リアリティーなんだと納得しました。
そして、神に狂いたい気持ちの反面で、そうすることによる世間や家族との生活での不安をヨギさんに打ち明け、「安心して進んでいいよ」とお言葉をいただき、「よし!行くしかない!」と胸が熱くなりました。
家に帰って瞑想をして、その後もヨギさんのお写真の前から離れられず、ヨギさんのお写真の前で眠りました。

『行為でもって愛をあらわしている、それが奉仕です』

松山特別サットサンガでのこのヨギさんのお言葉は、私の心につきささりました。
今まで、「役割だから」「ヨーガの教えだから」ということに縛られ、「精一杯やるんだ」「失敗しても気にしないんだ」「自分の心を捨てるんだ」と一体、私を主人にして何をやっていたのでしょうか⁇

もっともっと神に占領されたい!
神に狂いたい!
神の道具となって、周りの人に行為したい!
今の私は、神を求めることだけが生きる道です。

ヨギさんが帰られて、今、私には、「シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ、このお方が私のすべてのすべてである。そして、私の生涯をかけてお仕えするんだ」ということだけがあります。

シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ キ ジャイ︎!!!

山口正美


松山特別サットサンガのご報告 サティヤー編:私が見た!師のお姿

今回ヨギさんと一緒に、私、サティヤーも松山に同行させていただきました。

サットサンガの内容はゴパーラが報告してくださったので、私はまた別の角度から、私が「見た」ヨギさんのお姿をご紹介します。

松山に行ってまず感じたこと、それは松山のクラスを運営しているアーナンディーを始め、他のみんなの働きの素晴らしさです。ヨギさんが快適に過ごすことができるようにと、細かなところまで気を配って準備をされていました。そして、その準備を本当に喜んでしていることが伝わってきました。食事や移動、どのシーンを切り取っても、おもてなしの気持ちが溢れていました。サットサンガの会場の準備はもちろんですが、参加する方が、ヨギさんに会い、質問をするという大切な機会を逃さないように、いろいろな形でフォローし、寄り添ってこられたことを感じました。本当にヨギさんへの感謝と愛が溢れていて、とても!とても感動し、学ばせていただきました。

でも!!!!でもでもでも、もっともっともっとびっくりしたのは、そのおもてなしと感謝を何倍、いや、何百何千倍も上回る形でヨギさんが彼らを、そして参加された全ての人を祝福し、もてなし、喜ばせておられるお姿でした。それが、どのようなものかということは、もう・・・・・うまく言葉で説明することがきでない・・・(「なら、書くなよ」・・と言わないで)私はただ、それを「見た」としか言いようがないのです。

言葉にすると「無私の行為、人のためだけに生きる姿」というものをありありと見たということでしょうか。でもやっぱりそれを言葉にしたくない!!本当に素晴らしいものを見せていただいたとしか言えないのです。

私の言葉では、到底うまく説明できないので、以前ヨギさんがお話しされていた中から、今回私が「見た」ものはこれだという言葉を見つけたので、紹介させてください。

自分の命を捧げて他者を愛する意味を教えて欲しいと質問した人に対して答えられたものです。

「不二の永遠の存在、もしくは神が、神の中で遊び戯れていることが、究極の意味です」

捧げるということや愛するということ、それらは自分と他者とを分けた中で成立する言葉だと観念づけられています。だから他者に自分を捧げるとき、そこには努力が必要であったり、あるいは無理して疲れたり、そんな時もあります。もちろんそんなことばかりではなく、自然にできることもあるけれど、基本的には私と相手という二つが存在する中での行為として捉えています。

でも、私が見たヨギさんの姿は、私が知っている「愛」や「捧げる」という言葉は届かず、捧げる者も、捧げられる者も、本当は二つとない永遠の存在で、ただ、遊び戯れているという、その言葉通りの美しい、美しい姿でした。それを見た私は、ただただ、お手上げ!感服しました。人として最高の姿を見せていただき、私はその姿を胸に焼き付けました。

ヨギさんが、あまりにも無為自然に、ただ遊んでおられるように見えるので、それはどのようにしたらできるのかとか、どのような心の状態なのかとか、詮索したり、自分の小さな思考のレベルに落としたくはなく、ただ神の遊びが台無しにならないように、せっかくだから私も一緒にその場に身を任せて遊ぼう!という気持ちだけでした。

なんとなんと甘美な3日間だったことか・・・。

でも、もう言葉はこのぐらいにして、その甘美さをただ味わいたいと思います。

サティヤー