シュリー・マハーヨーギー/師の教えとサットサンガ」カテゴリーアーカイブ

松山特別サットサンガのご報告‼️

5月19日、20日にシュリー・マハーヨーギーの特別サットサンガが愛媛の松山で開かれました!!!
レッドソックスの大谷が6号ホームランを打った18日、マハーヨーギー・ミッションの共用車シトロエンを走らせ、いざ京都を出発🚗💨
天気予報は雨だったにもかかわらず、空は晴れ間も見え、休憩のパーキングエリアでは強烈な日差しが照ったり、夕食時突然の大雨の音が外から聞こえてくるも、ヨギさんが一歩外に出ると雨は止んでいました。
私は尋ねました、「ヨギさん、大谷は何であんなにメジャーで活躍できているんですか?」

「もっているとしか言いようがないわ」

いやいや、ヨギさんも「もっている」というしか言いようがありませんよ!!!

サットサンガは両日ともに快晴の中、満員の参加者で埋め尽くされ、会場の松山ヨーガ・サークルは熱気と集中感でパンパンに!!!
特に初日のサットサンガは、ヨギさんが着座されるやいなや問答がスタート!
そこから質問は途切れることなく、真剣さあり、笑いあり、涙ありの素晴らしい内容でした。
このブログでは、1日目のサットサンガの様子をダイジェスト版で報告させていただきます!

5月19日(土)1日目のサットサンガの様子!

会の前半、初参加の男性が真剣な眼差しで「人生の目的と、それを達成するための手段を教えてください」とストレートに質問、ヨギさんは次のようにはっきりとお答えになりました。
「人生の目的、それは真実を悟ることです。その真実とは何かと言えば、本当の自分を実現することです。この世界は生まれては変化をし、そしてすべて消滅をします。この身体も心も、刻々と変化をしてやがてはなくなります。しかしなくなるものにあって、なくならないものが一つだけあるのです。それが魂という(力強く)存在なのです。そして誰もがその魂の顕れなのです。これを学んでいくに従って、同時にこの世のあり方とか心の有様、さまざまなことも理解されていきます。そうしてそれらには執らわれないで、本当のものだけを求めていこうという気持ちがより強くなっていきます。そのための学びや瞑想というような思いを集中していくことによって、それは自覚されることになります。この人生の目的である真実を、その存在を実現してください!」
終始、ヨギさんのお言葉を瞬きもせずに聞いていた質問者の男性。深々と頭を下げるその目には、涙が滲んでいました。

会の中盤、「お釈迦様の教えの一切皆苦をまだよく分かっていなくて、自分は年から年中苦しんでいるわけでもないし、楽しいこともあるし、世の中を見てもそれなりに幸せな人も多いんじゃないかと思うんですけれど、一切皆苦とはどういうことを言っているのか教えていただけますか」と熱心にヨーガを実践しているKさんが素直な疑問を投げかけます。ヨギさんは、「よくよく見つめてみれば、この世の中というのはすべてが苦しみに終わる。その苦しみの中身は何かというと、誰もが経験するかもしれない年老いること、あるいは病気、そしてまた死という事実がやがてやってくる。それはやはり生まれたから死ぬということであって、つまり生病老死というふうに生まれ、老い、病し、そして死というもの、これはほとんどの人にとっての逃れることができない苦しみになるだろうと。実際、そのように誰もが感じてしまう」と四苦の教えから始まり、苦集滅道の全容を一から丁寧に説かれていきました。
この時、不意に私の目にヨギさんの横に生けられているカサブランカと芍薬が目に入ってきました。
その生けられた花はまるで宙を浮いているかのように、この世の物質とは思えないほどの美しさを放っていました。
この花もいずれ散ってなくなるのに、なぜこんなにも美しく咲いているのだろう――
そんな思いがよぎった後、大病を患っていたNさんが後遺症からくるであろうかすれた声で、でもしっかりとした声で、「真理の存在は物質なのですか。心なのですか」と質問、ヨギさんはNさんの声に同調するかのように、力強く次のようにお答えになりました。
「それは思いを超えたものですから、しかしそれは在ります。ただ在るとしか言えない。そしてまた、在ると言えるのはそれだけなのです。それだけが在ります。(声高に)これは間違いなく誰もが実現できることです!誰もがそれなんですから!だからできることといえば、心を静めるというそれだけなのです。そうして一切の悩みや苦しみ、もちろんそれから願いとか望みとかそういうもの、両方いらない、何にもいらない!そのようにして本当に空っぽの空っぽになった時、ふっとそれが目覚めるという感じです」

この時すでに松山ヨーガ・サークルの熱気と集中感は、歓びのプラーナに変容していました。
歓喜で満ち満ちた中、サットサンガ中に笑顔の少なかった女性が「妬みやひがみの感情に左右されてしまって、その度にすごい落ち込んでしまう自分がいるので、そういう自分があってもいいのか」と質問、ヨギさんは次のようにお答えになりました。
「もっと自分自身を強くすること。それは自分を信じることです」
一見厳しいようにも聞こえますが、ヨギさんの優しいトーンのお言葉を聞いた瞬間、その女性からはつっかえていたものが取れたように、涙が溢れ出しました。
それは誰が見ても、美しく浄らかな涙でした。

「サットサンガ」――それはヨギさんから真理の教えを学び、授かるところです。
でもその教えとは、単なる言葉や教義ではなく、本当に生きるということ、そしてその命がもつ歓びを授けていただける吉祥な場であると、今回の松山特別サットサンガに参加して実感させていただきました。
こんな素晴らしい空間に自分が身を置かせていただいていることが嬉しくて嬉しくて、ヨギさんに、またこの場を一所懸命に設けた松山の方々に感謝を感じずにはいられませんでした。
最高の松山特別サットサンガでした!!!
ヨギさん、松山のグルバイの方々、本当にありがとうございました!!!!!!


松山の報告ブログはまだ続きます〜!次は京都から同行したサティヤーさんです😁

ゴーパーラ


サットサンガより そのとき見る者はそれ本来の状態にとどまる

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

みなさん こんにちは
前回、台湾訪問の報告がブログにもありましたが、本当に台湾のグルバイの人たちの笑顔が幸せそうでしたね。彼ら、彼女らの真剣さ、素直さ、大らかさがひしひしと伝わってきました。この世界の中で、ヨーガを求める思いは同じ、お互いに切磋琢磨して歩んでいきたいと思いました。
さて、私たちの師は台湾ご訪問に引き続き、今年もまた愛媛県松山市の地に赴かれました。師は京都に留まらず、教えを乞う求道者たちがいるところにはどこにでも足を運ばれ、尊い真実の教えを説かれ続けておられるのです。

さて、今回のサットサンガは『ヨーガ・スートラ』という教典にある「見る者」についての教えがありました。ではまず、『ヨーガ・スートラ』をご紹介いたしましょう。

  1. これよりヨーガを明細に説く。
  2. 心の作用を止滅することがヨーガである。
  3. そのとき、見る者【自己】は、それ本来の状態にとどまる。
  4. その他のときは【自己】は心のさまざまな作用に同化した形をとっている【ように見える】。

私たちはこの身体でも心でもない、その奥にある純粋な意識、それが本来の私という自己である、それを見る者という、そして心は見られる者であると教えていただいています。その見る者について、師は分かりやすく教えてくださいました。

質問者「見る者と見られる者のことなのですが、例えばそれは瞑想の中で考えていくのか、私は日常の中でそういう感じがあったりするのですけれど、そのことをもうちょっと教えてください」
師「これは『私は誰か』というね、本当の自分というのは何なんだろうというところから出発した話で、通常は心というものを私だと思ってしまっている。でも本当に心というのは私なのだろうか、その私が私といっているところの第一人称であるその存在は一体何なのだろうというものが、この探求の出発点になります。
そうして心を見つめていくと、心は常に変化をしているし、どう見ても完全円満な存在とは言いがたい。いい時もあれば良くない時もある。成功すれば失敗もする。有頂天になる時もあれば傷付くこともある。もうどうにもこうにも心というのは変化の中で動揺している確実性のないものとして理解されます。その中心にあるのが私(わたくし)という、意識付けられた思いですね。
この私という、私が指すところの私というのは何なのだろうというところを探求していくことによって、心というものはその働きの動揺が激しい時もあれば静かな時もある。静かな時というのは、心がいわばサットヴァ性になっているというふうにいえます。反対に激しく動き回っている時はラジャス性が中心になっていて、それがもっと極端な落ち込みとかになれば、タマス性ということになってしまうわけですね。この心の様子に私というものが常に引きずられてしまって影響を受けてしまっている、ということは、この私というものもそういう変化の状況に支配されている、つまりは主体性がないということになっていきます。それでも私という意識はなかなか無くならない。
そこで、ここからはヨーガ的な本当に瞑想とかいうものを行なっていくほかないんですけれども、その瞑想を進めていった時には、心というものがその静かな状態から、もっと無くなったかのような状態、つまり心が働きをしなくなる、活動をしなくなるようなところがやってきます。同時にそれはその中心である私(わたくし)意識というエゴ意識も活動しなくなっていく時があって、いわば幕間(まくま)が変わるように全く別次元の様子というか、別次元のものがそこに訪れることになるんです。
本当の私というものが顕れる、それが見るものであって、その時にはじめて心は見られているものである、見る者によって見られているものであるということが客観的に分かる。そうすると心で思っていた私というものが、いわば本当の私を騙って(かたって)いたというか錯覚をしていた、間違っていた、本当の私がその奥に在るにもかかわらず、心がそれを主張していたというふうに改められる。それが見る者と見られる者の関係になるわけです。
だから、ヨーガは徹底的に真実というものが何なのかということを探求する智慧でもあるし、その道でもあるわけですけれども、その本当の私というものが知られた時には、知られるというよりは本当の私になった時には、それは、もはや本当は私という言葉もいらない。もうあなたもいらない。なぜなら、それだけしかないんですね。それは名付けようのない存在なんです。しかし、それだけがリアリティとしてね、実存として在る。それだけが本当は在る」

心の作用を止滅することがヨーガであると『ヨーガ・スートラ』にもありますが、心の中心にあるエゴ意識が活動しなくなっていくと、本当の私が顕れてくる、それが本来の自己である「見る者」であると、師は分かりやすく教えてくださいました。

師「この世界には、さまざまな出来事、経験、見るもの、聞くもの、すべては心がつくり出した、いわば夢のような世界のように理解されることになります。それでも夢の中では、それが現実だと思ってみんな夢の中で楽しかったり苦しんだり、びっくりしたりとか、いろんな冒険をしているわけですけどね。それがこの現実の世界ということにもなるわけです。だからやっぱり本当の見る者という存在、これを知ること、それになることがとっても大事なことです。
心は見られているものであるということを瞑想の時には思い起こしてください。なぜなら今でもそうだけれども、心というものを見た時、心って見えるでしょう?心が何を思っているかとか、心を知ることができるでしょう?『誰が知っているんですか?』って、『はい、私』とは言わないけれど、その本当の私というものはそこに在るという確実な証拠なんですよ。
でもついつい習慣的に心が心を見ているとか言ってしまいがちですけれども、それは大いなる錯覚なんですよ。なぜかというと、そこには時間のずれが起こっていますから。一瞬ということは、一説によれば六百分の一秒とか、もっとミクロの時間単位のことを一瞬といいます。一秒にも満たないんです。その一瞬の心の働きを一体どうやってその心が把握することができるのか、心は自分を二つに分けることができるのかといえば、できないです。でも心は心を知っているというのは、時間のずれによって『こう考えた』とか『ああ考えた』とか『こう思った』『こう感じた』という過去の心の働きを記憶しているにすぎない。これが厳密なヨーガの心理学でもあります。だから見る者というものは常に変わらずそこに在りますし、すべてを知っているし、すべてを見ています。神と一緒でしょう?だからその存在というのは神とも呼ばれるわけです」

見る者とは、私たちのことをすべて知っている意識、私たちと共にいつも在る意識、私たちはいつも神と共にあったのだ。そして私たちは神であったのだ。師の教えは本当に私たちに平安と勇気と感謝をもたらせてくださいます。その存在こそが本当の自分である、その見る者に留まり続けること、それがヨーガである。『ヨーガ・スートラ』を深く理解することのできたサットサンガでした。

ダルミニー


サットサンガより 今を生きる

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

みなさん こんにちは
桜も早々と葉桜となってしまいましたね。でも今度は、色とりどりのハナミズキが私たちの目を楽しませてくれています。移り変わる季節のように、この世の中も常に変化し続けています。変わることのない、永遠の真理を求める求道者たちが、この日も集まり、サットサンガが行なわれました。

仕事をする上で、また日常の中で、いろいろな問題が起こってきます。過去の失敗に執らわれて萎縮してしまったり、不安を感じたり、その環境に居心地の悪さを感じてしまう時には、どうしたらいいのかという質問がありました。
師「これも一つのヨーガを深め、進めていく大事なところなんですけれども、ヨーガが考えている時間論というのがあるんですよ。時間というのは普通、流れているように、つながっているように見えているかもしれないけれど、実はそうではない。それは心の錯覚であると。あるのは、その一瞬一瞬のつながりにすぎない。つながってはいない。その一瞬前に過ぎ去ったことと今の一瞬が同じものをもっているから、つながっているように見えるだけ。だからやがて来る未来的一瞬にしても、今の一瞬と未来的一瞬のニュアンスが似ているかのような錯覚を起こしてしまうからつながっているように見えるだけで、実は全く独立している。
瞬間瞬間は独立しているという考え方なんです。だから時間なんていうのはない。時間は単に心が造り出した幻想にすぎないというのが、私の考え方です。つまりヨーガの考え方なんです。
ということはね、グナというヨーガの考え方があるでしょう?このサットヴァとラジャスとタマスというグナによって万物、それから世界、すべての宇宙すらもが活動している。このグナの三つ巴になったような様子というものが、一瞬一瞬激しいダイナミックな動きをしている。つまりラジャスの力によって、激しい変化の連続にすぎない、だから一瞬というものをとってみれば、この一瞬とちょっと前の一瞬とこれから来る一瞬とは、全くそのグナの様相が違うということがいえるわけです。
でもこれはものすごいヒントなんですよ。つまりもう過去はない、ね、つながっていないんだから、ないんだと。未来もこれもまた、未来に思いを馳せれば、これは取り越し苦労とか心配性とか鬱とか、やがて病気の名前を付けていくようになるわけでね、これも幻想なわけです。あるのは、今のこの一瞬だけ。これが済んだとしても、次に来ているこの一瞬だけ。つまり一瞬一瞬、この目の前のこの一瞬だけしか勝負できない。
ということは、この一瞬において、心を心機一転させることができる。これをやっぱり訓練していかないとだめ。過去は今言ったように時間論的にみてもないんだから、記憶というのも同じこと。その時間というこの装置に育まれた単なるメモリー。だからそんなものは、もうセンチメンタルに、感傷的になる必要はない。
いいも悪いも、あるのは今だけ。だから今を良くしていくこと。だからヨーガ・スートラには『無くすべきは未来の苦である』という名文がある。未来の苦を無くすには、今を良くするしかないわけですよ。今が未来を作るわけだからね。だからこそ、これはできるの。変化は作れる」

時間は単に心が作り出した幻想にすぎない、時間論的にみれば過去はない、ただ今を良くしていくだけであると、師は説かれます。思えば時間とは一体どんなものなのでしょうか。たったの五分しかない時もあれば、この上もなく長い五分もあるわけで、時間は完全に私たちの心の状態に依存しています。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは『ギャーナ・ヨーガ』の中で、「すべての奮闘努力は、常に我々の道の障害物である、時間、空間及び因果律へのこの強い執着から脱するためである」と説かれています。

質問者「カルマとかの過去とか過去生は時間的にはどういうことになるんですか」
師「カルマというのは、やはり心が無知に覆われた中で活動をしているわけで、だから幻想的時間というものも設定されているわけです。つまりカルマも時間と空間とその因果律によって構成されるわけですね。だから真実から見れば……カルマも幻想なんですけどね、カルマなんて本当は無い。カルマも無ければ、無知も本当はない。それは真実から見た場合はもう全くそうなる!ただ心がその真理を見られなくて、無知に覆われてしまっているから、そういう幻想的空間に放り込まれてしまって、その中で活動を右往左往しているというような滑稽な状況なんです」
質問者「ということは心が空間も時間も因果律もカルマも造って……。自分たちで造ったものを自分たちで一所懸命理解してということをやっている」
師「そう!一人芝居(笑)。究極の一人芝居」

師の教え、ヨーガの教えによって、この世界の謎が一つずつ解き明かされていきます。ただ今をより良くしていく、この単純なことを素直に行為していくこと、それがこの夢の世界から目覚め、カルマから解き放たれる、永遠の真理へ続く道なのだと思いました。

ダルミニー


サットサンガ 知っている人と知らない人

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

季節がめぐるのは本当に早いです。ついこの間まで、いつまでも寒い日が続くなと思っていましたが、明日は春分の日。もうすっかり春の様相ですね。
気分一新、今回はあらためてヨーガの悟りについて考える機会がありました。

ヨーガで教えられるのは本当の自分という存在です。それは肉体でも、心でもなく、私という意識。もちろんエゴ・自我とは違う純粋な“私”という意識です。
それは、「真我」と呼ばれたり、「真理」と呼ばれたり、そして「神」と呼ばれたりもします。それぞれ全く同じただ一つのものを表す概念ですが、この呼び方が一番しっくりくるという、いろいろな意見をヨーガは差別しません。
その存在と合一することがヨーガの目的ですね。
ただ、そこに至るアプローチは人それぞれです。合一、つまり悟った人を覚者・聖者と言いますが、彼等でさえその悟りの境地の表現は様々です。

けれども、どの覚者も悟りの境地を教え説く際に、真我も真理も神も、どの言葉も同じだと言っています。その三つをすべて満たして、それでもまだ言葉がたりない絶対的な存在。
いったいどんな境地なのでしょうか?この境地の事を考えると、私はどうしようもなく憧れる気持ちを抑えられなくていつも圧倒されます。

知らない人は、知っている人の体験を一所懸命聞いたり読んだりして何とかその境地に近づきたいと願ってきました。

先日のサットサンガで、このことについて質問がありましたので、ご紹介します。

質問者「無と神と真実とか真我は全部イコールということなんですか」
ヨギ「無という言葉は抽象的で非常に難しい理解が必要とされます。似た言葉で空という言葉もある。どちらも仏教の教えの中で使われ、またヨーガの聖典にも出てくる言葉でもあるのです。ここでいう無とか空というのは一方ではその心やこの世界、さまざまな有、有限の有、これに反するもう一切のそういう計らいのない無差別の様子を無とか空というふうに表現する場合があります。同時にその無とか空は無尽蔵に福寿というか——福寿というのは至福であったり永遠というものがそこにあると。全く正反対のことを言っているんですけれども、これはどのように理解したらいいかと言えば、一方は心から見た状態を言っているし、もう一方は真理から見た状態を言っている。でも同じ言葉が使われている。こいういうふうに理解せざるを得ない。だから、その無とか空について議論するのは愚かなことなんですけれども、知っているものから言わせればそういうことになります(皆笑)」
質問者「それで神とか真理とか真実は」
ヨギ「そうですね、それを指す場合もあるということですね」
質問者「それは知っているものから見ると」
ヨギ「そう(皆笑)、真理から見た場合は一切の無知とかそういうものがないから、そこにあるのは真理だけだということになるわけです」
質問者「なるほど。本とか読んでいるといろんな言葉があるから、イコールなのかどうなのかなと、ちょっと思っていたんです」
ヨギ「見る立場によってその解釈もずいぶん違って、本によっても違うと思います。でも本当の真実在というものはそんな言葉さえもすべて超えているということも言っておきましょう(おどけられたような様子で)。
無でも空でも、そんなのもどこにも無い。そんなのも全部超えてそれだけがありありとリアリティをもって、それだけが在ります。そしてそれがみんなの本質であり、自分自身です」

生まれて一度も海を見たことのない人に海の説明をするように、言葉を尽くしても決して知らない人のイマジネーションを満足させることはできないです。
しかも悟りの境地は姿形あるものが何一つ及ばない、たったひとつ永遠のものだけがそこに在って、それだけが遍満しているといわれます。
もう知らない人のイマジネーションは限界を超えて自分の思考を飲み込んで、それだけでもの凄い高揚感を覚えます。

何物にも変えられず、何物とも混じらず、永遠にただ在る。
絶対的な存在が私達人間の、そして万物の本質なのだと言われます。この存在を知ったなら、もうどんな思いにも、出来事にも、揺らぐことも煩うこともなく、自由で自立していられる。

ヨーガを続けているとほんの少しの時間ですが、この自由・自在の状態を感じる瞬間があります。心は何の不満も不平もなく、快・不快も超えて…というより、そういった思い自体が湧き上がることなく、目の前の出来事をただ在るがままに見つめているように、泰然とした静けさの中に留まれる瞬間があります。きっとその片鱗を感じ取っているから、知らない世界にいながら、知っている人の世界に強烈に惹きつけられるのだと思います。

絶対に突き抜けてその境地を体得したいです。

Caitanya


サットサンガより プレーマ 真の愛 

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

愛とはいったい何でしょうか?

愛する人がいるとき、気持ちが高まってただその人だけを思う。昼も夜もその人が心を占めている。
強い昂奮と多幸感に支配されて、食事もいらない、眠りもしない、そして何も恐くない。
でもその幸せな状態に長く留まりたいと願う反面、現実には時間と共にその感覚は薄まり、状況が少しずつ変化するにつれ、相手に対する新鮮味がなくなり気持ちが離れていくことも。

愛は絶対のものでしょうか?
永遠の愛、本当の愛とはどんなものなのでしょうか?

先日のサットサンガで、愛とヨーガについて師が説かれました。

「ヨーガの完成、悟るべき真実というのは不滅の存在。これは二つとない唯一の存在であり、純粋意識、そして至福という歓喜です。バクティ・ヨーガの完成とはプレーマという真の愛、本当の愛です。では本当ではない愛といえば何かというと、いわゆる人間的な愛。この世俗に見られる一時的な愛。これはその陰に憎しみやら、さまざまな不完全なものをもっているからゆえに真実ではない。
だけどバクティ・ヨーガにおける愛というのは、真実の愛。これは言い換えれば献身奉仕です。他者への愛。『隣人を愛せよ』というものにも通じる献身奉仕。

この献身奉仕はカルマ・ヨーガのゴールでもある。それは同時に自由自存というラージャ・ヨーガのゴールとされている境地でもある。また、それだけが在るというギャーナ・ヨーガのゴールでもある」 

四つのヨーガで悟る真実というのは、二つとない唯一の存在。それは純粋な意識であり、至福そのもの。
何物にも依存しない自由な自己。それだけが在るという境地、そのありのままの状態で他者に献身奉仕することが至福、つまり完全な真の愛と同一した状態。
これが解脱。ヨーガの完成。
何と美しく、完全で、円満で、自由なのでしょう。

師は最後に、エゴや無知に阻まれ、不完全ながらも世俗で修行する私達弟子に希望の言葉もおっしゃられました。

質問者「真理や神に対する最高の愛、プレーマは世俗に生きる生身の人間同士の間にも発生できますか」                                                                                    (低く力強いお声で)「できますとも」

質問者「それが自由自存ということになるのですか」                                                                           「はい、そうです。」

質問者「それは肉体の制限を超えるのですか。例えば生涯の間の時間であったりとかそういうものも超えて」
(即答される)「超えます」

質問者「永続するもの」
(ハッキリとしたお声で)「はい。」

私はまた雷に撃たれました。師の御言葉がハートを貫きました。

本当の愛を、何が何でも実現したいと心に誓いました。

Caitanya


サットサンガより カルマ・ヨーガ

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

 

みなさん、こんにちは
新しい年も明けましたね。今年の目標はもう立てられましたか?目的意識をもって生きるということが私たちの人生にとって、ものすごく大切なことなのだということもヨーガで学びました。その目標に向かって今年も精進していきましょう。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて、年明けのサットサンガではカルマ・ヨーガについての質問がありました。ヨーガは、この世の本当のこと、真実を実現するためのものですが、スワミ・ヴィヴェーカーナンダというインドの聖人は、ヨーガの実践方法には四種類あると説かれています。まずカルマ・ヨーガ、それは働きのヨーガといわれ、働きの秘訣を学び、真実を実現するヨーガです。そしてギャーナ・ヨーガとは知識のヨーガ、ラージャ・ヨーガとは身体や心を使う王道のヨーガ、バクティ・ヨーガとは信愛のヨーガです。
そして、私たちは過去の原因となるものの結果を必ずむかえるという、カルマの法則に支配されていますが、もともとのそのカルマの原因となるものを無くしていって、そのカルマに翻弄されないようにしようというのが、カルマの消化ということになります。

質問者カルマを消化するということについてなんですけど、瞑想の中でカルマを消化することができない場合、カルマヨーガとい手段でもって行なっていくなら良くないカルマも恐れることはない、前に前に進んでいけば、良くない願望でも軌道修正されてそれがいい願望に変わるといにヴィヴェーカーナンダの本に書いてあったんですギャーナヨーガとかラージャヨーガで瞑想してカルマを消化するといことは未来に対してのカルマを無くしてしまといことですよねそしたらカルマヨーガの中で経験しながらカルマを消化するといのは結局苦悩を味わいながら軌道修正して消化するといことなので徹底さといところからみたらカルマヨーガの方が低い感じの印象を受けるんですけれどもなんでしょ
ヨギ高い、低いの区別はないですけれどもねヴィヴェーカーナンダがいっているカルマヨーガといのは単に自分の義務を果たすといだけの劣位のカルマヨーガのみならず少し積極的な他者への奉仕的な、献身奉仕を踏まえながらカルマヨーガとい言葉を使っているよな気がするんです
すると他者への献身奉仕といのはもとよりエゴとかそ煩悩を少なくともその行為の時には無いよにしておかなければできないことですよねだからこそ実際的行為を伴ってカルマヨーガをすれば内面のカルマも落ちていく無くなっていくまたその根源である無知、煩悩も薄らいで無くなっていくとい教えだと思います
ギャーナヨーガとラージャヨーガといのは確かに瞑想の中でカルマやそのカルマの原因を識別していくことなんですけれどねそれはある意味、心の中で行なわけですよねだからそれと心といのは非常に深い領域をもっているのでそんなに簡単に無知と煩悩がそっくり無くなるとい話ではないやっぱりそれなりのものすごい闘いの熾烈さがあるのは事実ですだからそれをやってのけられるにはそれなりの資質と状況がラージャヨーガとかギャーナヨーガといのは求められるその点カルマヨーガといのは誰もが日常の中で行なことができるいったやりやすさといものもそこにありますねそんなところを踏まえながら彼はより多くの人に具体的なアプローチ方法としてそ教えを述べたんだと思います

師は優位のカルマ・ヨーガとして、他者への献身奉仕を積極的に行なっていきなさいと教えてくださっています。

私は、常に他者のために善き思いをもち、善き行為をするという献身奉仕の働きにより、次第に自分のことが後回しになって、それが自分のエゴや煩悩を無くしていくことにつながるのだと気付かされました。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは「カルマ・ヨーガ」の中で、こういわれています。

心の表面を動いている善い思い、善い印象の不断の反映によって、善をなそうという傾向は強くなり、その結果、我々はインドリアス(内的感覚器官、神経中枢)を制御できることを感じます。こうなって初めて性格は確立し、その時に初めて人は真理に到達するのです。

優位のカルマ・ヨーガは、私たちのライフワークになっていくのだと思いました。

ダルミニー


サットサンガより ブッダの悟り

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

みなさん こんにちは
十二月になりましたね、十二月のことを「しわす」と言いますが、その意味と由来は定かではないそうです。十二月は年が果てる、年果つ、しはす、しわすになったという説もあるそうです。師も走る、師走といわれていますが、私たちの師はいつも泰然とされていますので、本当の意味はどうなのだろうと思ってしまいます。
さて前回のブログにもありましたが、十二月八日はブッダが悟りを啓かれた日でもあるというわけで、今回のサットサンガはブッダについての教えが多くありました。

質問者がブッダの説いた、弦は張りすぎても緩みすぎてもいい音は鳴らないというふうに、弦に例えられる中庸の教えについてふれた時のことです。

師「ブッダが言うところの弦の張り具合というチューニングは、当時行なわれていた一般的な修行、一方には苦行というものがあり、もう一方では犠牲供養という快楽的なものもあり、そのどちらでもない、中道の在り方がある、それは苦行のように身体を痛めつけることではなく、健康な身体と健全な心を養いながら、その中でこそ正しい瞑想が行なわれるということを諭した言葉なんです。中庸、中道といわれるところ、まさしくそれがヨーガの道でもあるわけです。
でも、悟りへのあるいは神への願望というのは強烈でなければならない。また純粋にそれを保っていかなければならない。悟りや神に心が全面的に委ねられてしまえば、四六時中、座っていようが立っていようが、何かをしていようが、いつも神への憧れや悟りへの煮えたぎるような思いがやってきます」

師「ブッダは、当時シッダールタといわれていた時代に六年間の苦行を行なっています。当時は苦行という体系が当たり前のように蔓延していたと思われるので、シッダールタもそれを試み、しかも語られるところによれば、過去にも未来にも現代にも、その当時にも、匹敵する者はないほどの苦行を行なった。
けれども悟れなかった、ということを実証したんです。それで棄てた。
伝説に語られるところによれば、衰弱して骨と皮のような状態になった身体をスジャータという娘のくれた乳粥で身体を回復していくわけです。そこに健全な心の境地というか、そういう閃きが生まれたんだと思う。そして静かに菩提樹の下に座って、そうして悟りを得たと、それが十二月八日のことであったということになります。ブッダは必死に可能な限りの苦行を自らに課せたと語られています」 

師が教えられる煮えたぎるような思いとは、例えばそれはシュリー・ラーマクリシュナが神を見ることができないのであれば、その喉をかき切って死んでしまおうとした思いと同じ。そして例えばそれは慧可が弟子入りを乞うため、達磨大師に切り落とした自分の腕を差し出した思いと同じ。例えばそれは明恵上人が世俗にまみえることなく仏道の志を貫くため、自分の耳をそぎ落とした思いと同じ。身命を顧みない、真実の実現のためへの執念と同じなのだと思いました。 

ブッダの凄まじいまでの悟りへの執念、煮えたぎるような思い、ブッダを語られた師のお言葉が、そこにいる求道者たちのハートに火を付け、燃え上がらせたのを私は感じ、胸が熱くなるのでした。

私たちの心にも、その煮えたぎるような思いがやってきますように。
来年もさらなる飛躍の年となりますように。

ダルミニー

 

 

 


サットサンガより エゴを神の召し使いにする

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

みなさん、こんにちは
師の御聖誕祭を間近に控え、全国から真実を求めるグルバイ(兄弟姉妹弟子たち)が集まり、定例のサットサンガが行なわれました。「師には尊敬と奉仕と質問によって仕えよ」と伝えられていますが、この日もなごやかで満ち足りた雰囲気の中、次々と真剣な質問が続きました。

師は説かれます。
「誰もが自分の正体をエゴだと思っていて、心は好き勝手なことをして自分を傷つけてしまうことがあります。まるでエゴとこの世界が永遠であるかのように錯覚をしていますが、この世界は有限だし、命もなくなるかもしれない、本体は神聖なものなのに、自分の心の作り出した幻想に束縛されてしまっています。そこからの解放が本当の自由であり、それを知って実現することがヨーガの目的です」

私たちのエゴ意識が自分自身を束縛してしまい、それが苦しみや悲しみの原因となっている、そのエゴとの向き合い方について質問がありました。

質問者「エゴを神の召使いにしておきなさいという教えについて教えてください」
ヨギ「厳密な意味では、心というのは本来はエゴをもっていないものです。そのエゴという言葉の意味するところは、この相対的世界の中における身体がさまざまあるように、心もそれに備わって肉体に生じています。しかし、そこで利己的な思いのその色の濃度が濃くなるにしたがって、より煩悩的になっていくし、それが薄められていけば、単に自と他というものを区別するだけの機能として働きます。
それはあたかも道具のようなもの。道具というのは、例えば手が何か作業をするときにはやってくれるように、また足が必要に応じてどこかに運んでくれるように、心もそのようにいろんな物事に対しての工夫をしたり、さまざまな思案をしたり、そういう物事に対応するための道具としてみなされます。
これがエゴを道具のように、つまり道具ということは召使いのようにということです。召使いという時には必ずそこには主人がいます。この主人が誰なのかということです。通常は、エゴが主人のような顔をしてふるまうことによって間違いが起こるんだけれども、今の話のようにエゴが薄らいでいけば、また本当の自分という、アートマンと呼ばれている真我が自覚すれば、それが本当の主人であり、心は身体と同じように道具あるいは召使いとしての役割を果たします。
もう一方でそのエゴが完全には消滅をしないまでも薄められていっている折には、心に、エゴは召使いのようなもの、道具のようなものだというふうに言い聞かせて、本分をわきまえさせるようにしていきます。それがエゴを召使いにするようにという意味合いです。必ずそれにはアートマンという主人がいるということを覚えておいてください。アートマンは神の別名でもあります」 

ヨーガでは「私たちはこの心でも身体でもない、その奥にある純粋な意識、それが本当の自分である」と教えられます。純粋な意識とは、真実、存在、アートマン、神、さまざまな名前で呼ばれています。
ヨーギーにとって、心は真実を教えてやるべきものであり、正すべきものであります。そして心は、真実、存在、アートマン、神に目覚め、そして奉仕するための道具なのだと思いました。

ダルミニー


特別サットサンガ 京都・御室にて

台湾、松山に続き、京都でも先日、特別サットサンガが行なわれました。
新緑に囲まれる御室、プレーマ・アーシュラマでの初開催!
もちろん、それはとっても!!素晴らしい内容でした。

みんなが期待に胸を膨らませる中、清々しい風とともに、シュリー・マハーヨーギーは「こんにちは〜」と爽やかに、軽やかに会場へ入ってこられました。

冒頭の問答、ヨギさんはまずもってヨーガの意味するところは、真実を実現することであり、真実とは万物の本質が尊い存在であることだと核心たる教えを説かれました。参加者はヨーガの世界へとぐっと引き込まれていきました。

約2時間、途切れることなく質問は続きました。瞑想やアーサナなどの実践を深めるにはどうしたらいいか、家族との人間関係の問題、中学生の女の子の素朴な疑問、芸術とヨーガについてなどなど……。ヨギさんは柔和な笑顔と、絶妙な関西弁を交えたユーモアで私たちの心を解きほぐしながら、内なる真実を喚起するよう、力強く真理を語られました。
そして、不安を抱いている人には「ヨーガを実践していったら100%変わる! 断言します!」と心の靄を晴らすように何度も希望を与えられ、またヨーガの歩み方に確信をもてない人には「間違いなく本当の幸せに向かっていっていることだけは、私が保証します!」と深い安堵を与えられました。

窓から差し込む初夏の光と、ヨギさんから注がれる真理の光を浴びて、みんなの表情も輝いていました。

それでは、この日のサットサンガからハイライトをご紹介します。

ヨーガと出会ってから良い変化を感じる一方、変わっていない部分も根強くあり、自分のつかもうとしているものはヨーガ的には間違っているのかもしれないけれど、あきらめられないと胸の内を明かす女性。
ヨギさんはご自身が十代の頃、何がこの世の本当の幸せかということを瞑想したことがあると切り出されました。

「誰もが望みや欲望というものをもっています。その欲望が成就、達成されたらそれがいちばんの幸せなのか。では、その欲望、望みの理想の大きさとはどんなものなのだろう。
歴史上の狂人たちは世界を征服することがそうであったかもしれません、チャップリンの映画のように。今はそれが宇宙規模に拡大はしているけれど、ただスペースが大きくなっているだけのものでしょう。でも果たしてそれが本当に幸せの最大限のものなのか——。
そう考えた時に、もう一切のことが儚く消えていきます。そう思っている自分がまず消えるわけだから。いつかは、というかすぐにでもね。そうしたら同時に、その思いも、執着も欲望も、すべてが跡形もなく消えてしまう。
いったい何が本当の幸せなのか——。
なくならないもの、永遠の存在というもの、それだけしかないのです!!! それは理屈で理解できるものでもなければ、どこかで手に入るものでもない。それこそが本当に、誰もの胸の奥に秘められている宝のようにある存在なのです!」

ヨギさんは口調を強め、その存在こそが誰もの自分自身であり、それを体感することが大事だと続けられました。そしてさらに、
「それは体感できます!!!
中途半端な欲望や執着は、もっともっとエスカレートさせて、もう切りのないところまで膨らませていけばいい! そうすればその正体もわかってくる」

ヨギさんの息遣いが伝わってくる熱のこもったお言葉は、その場にいた誰もの胸に響いたことでしょう! 何も恐れることなく、大胆に進めと、大きな力が全身に流れ込んできたように感じました。

参加された方からは、嬉しかった! 楽しかった!という無邪気な歓びの声とともに、どんな人にも、どんな質問にも完璧にお答えになるヨギさんの姿に感動したという声、そして、教わったこと、気付きが起こったことを、自分が目指すものに向かって実践していきたいという意欲的な声が多く聞かれました。

真実を体現された方を目の当たりにし、その方の口からこぼれ出る言葉を聞き、直に学べることは、人生においてどれほど劇的な出来事なのでしょうか!! ヨギさんに心から敬愛と感謝の気持ちを捧げます。めいっぱいのインスパイアを本当にありがとうござました!

そして、この日の二日後、ヨギさんは青空の下ニューヨークへとご出発されました。
海の彼方でも、日本でも、一人でも多くの方がかけがえのない真実に触れられますように。

マードゥリー

 

プレーマ・アーシュラマ二階から見えるもみじの若葉


特別サットサンガ in 松山(後編)

松山特別サットサンガの2日目の朝、ヨギさんたちとホテルの一階のバイキングで朝食をとっていると、松山グルバイ(仲間)のアーナンディーが昨日のサットサンガのアンケートをもってやって来ました。
それを読むと素晴らしい感想ばかりで、胸がいっぱいになりました。
ただ、ある方の感想にはこうありました。

「考えが深いから、悩み苦しむのだと思った。気軽に生きたら、楽しく生きれると思った」

私はこの感想に、はっとさせられました。
20代前半くらいの若い方のものでありました。
1日目のサットサンガでは家族や職場関係での質問も多く、若い人から見たら、「なぜ大人たちはこんなに考え、悩んでいるのだろうか?」と感じたのだと思いました。
毎日を楽しく生きていくことができれば、それがいちばんいいに決まっています。
でも大人になるにつれて、なぜかそれができなくなる……
大人は仕事や子育ての義務があるから?
大人になっても、子供のように楽しんで生きることはできないのか?

「楽しむとは何か? また、遊びとは何か?」

2日目の松山特別サットサンガは、そんな問答が展開されました。

質問者「『ヨーガの福音』ーー子供の遊びーーには、子供は結果にこだわらないということで、子供は遊ぶために遊ぶからというふうに書いているのですけれど、子供のようになるには,どんなふうにしたらいいのでしょうか」
ヨギ「子供を表現する時に使われる言葉でよく、無邪気とか無垢といいます。まさにそのようになるということです。それはどういうことかというと、心に計らいがないこと、あれやこれや思わないこと。単純にその目の前の行為に集中して行ない、済んだら忘れるという単純なこと。これに徹していくことができれば、遊びの達人になります」

子供は無邪気、つまり「あれやこれや思わないこと」――
今回の松山特別サットサンガでヨギさんは一貫して、「嫌なことがあったり失敗しても引きずらない、今をより良く生きること」と言われていましたが、それは子供の状態ということだったのです。
そしてサットサンガの後半、「ヨギさん、楽しむことについて教えてください」とシンプルな問いがあり、ヨギさんは次のようにお答えになられました。

ヨギ「有名な古代の聖典の冒頭にこうあります。『かつてアートマンはひとりであった』――アートマンというのは真実の存在のことです。これは形もないけれども実在として確実にこれだけがあるというものであり、みんなの本質でもあるところのもの。しばしばこれを真我というふうに訳しています。本当の自己、本当の自分という意味です――このアートマンだけがあった。しかし彼は、まあこれは彼女でもいいですが、『彼女は一人では楽しめなかったので、自らを二つに分けた。そこに男と女が生まれ、子が生まれ、そして彼女は異なる動物の姿になり、彼もまたその後を追い、その動物の姿となりというふうに、次から次へとさまざまな動物が生まれていき、現在私たちが見るようなこの世界、万物が形成された』という、宇宙の始まりはこうであったというお話でもあります。この原点に、楽しむという言葉が使われているのです。これは別名インドの言葉ではアーナンダといい、楽しみとか楽、あるいは至福、このような意味合いの言葉です。だから、本質が本来至福である、そしてそれを味わうという楽しみは、他者とともに味わうという、万物とともに味わうのが本来であると。なぜなら、すべてのものがアートマンなのだから。そのことを知って、いつもどこでも誰とでも楽しんでください。いつもどこでも誰もが至福でありますように」

ヨギさんから何度も聞いていたこのウパニシャッドの教えでしたが、この冒頭の言葉を聞いた瞬間、不思議と私は歓びに包まれました。
昨年の愛媛の特別サットサンガで私は、胸の奥から熱い思いが湧き、その衝動は真実の自己アートマンからくるものであり、それに近づき、実現したいという思いに駆られました。
それからというもの、瞑想の中で「私はアートマンである」と何度も繰り返していました。
でも、このヨギさんのお言葉を聞いた瞬間、私の思っていたアートマンは本当にちっぽけなものであると気付かされました。
「アートマンともっと楽しみたい、もっと多くのアートマンと楽しみたい、遊びたい!!!」
自然とそのような思いが溢れてきました。

この松山での滞在中、ヨギさんは本当に計らいがありませんでした。
車に乗っている時、食事をしている時、ホテルでくつろいでいる時など、語弊を恐れずに言うとサットサンガがどうなるかなどの心配や不安なんて全く感じられませんでした。
本当に無邪気な子供のように、その時その時を楽しんでおられました。
でも、いつも準備万端!!
サットサンガの時は常に精一杯、真剣に問答をされ、どこでもどんな時でも、かかわる人すべてを至福の渦に巻き込んでいました。
まさに「遊びの達人」ヨギさんを目の当たりにし、ただただ圧倒された今回の師の松山特別サットサンガでした。

一緒に遊んでいただいこと、そして至福の歓びを味わわせていただいたこと、私にとって本当に格別のひとときでした。
ヨギさん、まことにありがとうございました!!!

最後になりましたが、松山の方々、今年も本当にありがとうございました。
昨年同様、今年も皆様の献身の働きにのっかっただけでした。。
でも正直に言います、また遊びたいです!!!

ゴパーラ