シュリー・マハーヨーギー/師の教えとサットサンガ」カテゴリーアーカイブ

サットサンガ 知っている人と知らない人

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

季節がめぐるのは本当に早いです。ついこの間まで、いつまでも寒い日が続くなと思っていましたが、明日は春分の日。もうすっかり春の様相ですね。
気分一新、今回はあらためてヨーガの悟りについて考える機会がありました。

ヨーガで教えられるのは本当の自分という存在です。それは肉体でも、心でもなく、私という意識。もちろんエゴ・自我とは違う純粋な“私”という意識です。
それは、「真我」と呼ばれたり、「真理」と呼ばれたり、そして「神」と呼ばれたりもします。それぞれ全く同じただ一つのものを表す概念ですが、この呼び方が一番しっくりくるという、いろいろな意見をヨーガは差別しません。
その存在と合一することがヨーガの目的ですね。
ただ、そこに至るアプローチは人それぞれです。合一、つまり悟った人を覚者・聖者と言いますが、彼等でさえその悟りの境地の表現は様々です。

けれども、どの覚者も悟りの境地を教え説く際に、真我も真理も神も、どの言葉も同じだと言っています。その三つをすべて満たして、それでもまだ言葉がたりない絶対的な存在。
いったいどんな境地なのでしょうか?この境地の事を考えると、私はどうしようもなく憧れる気持ちを抑えられなくていつも圧倒されます。

知らない人は、知っている人の体験を一所懸命聞いたり読んだりして何とかその境地に近づきたいと願ってきました。

先日のサットサンガで、このことについて質問がありましたので、ご紹介します。

質問者「無と神と真実とか真我は全部イコールということなんですか」
ヨギ「無という言葉は抽象的で非常に難しい理解が必要とされます。似た言葉で空という言葉もある。どちらも仏教の教えの中で使われ、またヨーガの聖典にも出てくる言葉でもあるのです。ここでいう無とか空というのは一方ではその心やこの世界、さまざまな有、有限の有、これに反するもう一切のそういう計らいのない無差別の様子を無とか空というふうに表現する場合があります。同時にその無とか空は無尽蔵に福寿というか——福寿というのは至福であったり永遠というものがそこにあると。全く正反対のことを言っているんですけれども、これはどのように理解したらいいかと言えば、一方は心から見た状態を言っているし、もう一方は真理から見た状態を言っている。でも同じ言葉が使われている。こいういうふうに理解せざるを得ない。だから、その無とか空について議論するのは愚かなことなんですけれども、知っているものから言わせればそういうことになります(皆笑)」
質問者「それで神とか真理とか真実は」
ヨギ「そうですね、それを指す場合もあるということですね」
質問者「それは知っているものから見ると」
ヨギ「そう(皆笑)、真理から見た場合は一切の無知とかそういうものがないから、そこにあるのは真理だけだということになるわけです」
質問者「なるほど。本とか読んでいるといろんな言葉があるから、イコールなのかどうなのかなと、ちょっと思っていたんです」
ヨギ「見る立場によってその解釈もずいぶん違って、本によっても違うと思います。でも本当の真実在というものはそんな言葉さえもすべて超えているということも言っておきましょう(おどけられたような様子で)。
無でも空でも、そんなのもどこにも無い。そんなのも全部超えてそれだけがありありとリアリティをもって、それだけが在ります。そしてそれがみんなの本質であり、自分自身です」

生まれて一度も海を見たことのない人に海の説明をするように、言葉を尽くしても決して知らない人のイマジネーションを満足させることはできないです。
しかも悟りの境地は姿形あるものが何一つ及ばない、たったひとつ永遠のものだけがそこに在って、それだけが遍満しているといわれます。
もう知らない人のイマジネーションは限界を超えて自分の思考を飲み込んで、それだけでもの凄い高揚感を覚えます。

何物にも変えられず、何物とも混じらず、永遠にただ在る。
絶対的な存在が私達人間の、そして万物の本質なのだと言われます。この存在を知ったなら、もうどんな思いにも、出来事にも、揺らぐことも煩うこともなく、自由で自立していられる。

ヨーガを続けているとほんの少しの時間ですが、この自由・自在の状態を感じる瞬間があります。心は何の不満も不平もなく、快・不快も超えて…というより、そういった思い自体が湧き上がることなく、目の前の出来事をただ在るがままに見つめているように、泰然とした静けさの中に留まれる瞬間があります。きっとその片鱗を感じ取っているから、知らない世界にいながら、知っている人の世界に強烈に惹きつけられるのだと思います。

絶対に突き抜けてその境地を体得したいです。

Caitanya


サットサンガより プレーマ 真の愛 

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

愛とはいったい何でしょうか?

愛する人がいるとき、気持ちが高まってただその人だけを思う。昼も夜もその人が心を占めている。
強い昂奮と多幸感に支配されて、食事もいらない、眠りもしない、そして何も恐くない。
でもその幸せな状態に長く留まりたいと願う反面、現実には時間と共にその感覚は薄まり、状況が少しずつ変化するにつれ、相手に対する新鮮味がなくなり気持ちが離れていくことも。

愛は絶対のものでしょうか?
永遠の愛、本当の愛とはどんなものなのでしょうか?

先日のサットサンガで、愛とヨーガについて師が説かれました。

「ヨーガの完成、悟るべき真実というのは不滅の存在。これは二つとない唯一の存在であり、純粋意識、そして至福という歓喜です。バクティ・ヨーガの完成とはプレーマという真の愛、本当の愛です。では本当ではない愛といえば何かというと、いわゆる人間的な愛。この世俗に見られる一時的な愛。これはその陰に憎しみやら、さまざまな不完全なものをもっているからゆえに真実ではない。
だけどバクティ・ヨーガにおける愛というのは、真実の愛。これは言い換えれば献身奉仕です。他者への愛。『隣人を愛せよ』というものにも通じる献身奉仕。

この献身奉仕はカルマ・ヨーガのゴールでもある。それは同時に自由自存というラージャ・ヨーガのゴールとされている境地でもある。また、それだけが在るというギャーナ・ヨーガのゴールでもある」 

四つのヨーガで悟る真実というのは、二つとない唯一の存在。それは純粋な意識であり、至福そのもの。
何物にも依存しない自由な自己。それだけが在るという境地、そのありのままの状態で他者に献身奉仕することが至福、つまり完全な真の愛と同一した状態。
これが解脱。ヨーガの完成。
何と美しく、完全で、円満で、自由なのでしょう。

師は最後に、エゴや無知に阻まれ、不完全ながらも世俗で修行する私達弟子に希望の言葉もおっしゃられました。

質問者「真理や神に対する最高の愛、プレーマは世俗に生きる生身の人間同士の間にも発生できますか」                                                                                    (低く力強いお声で)「できますとも」

質問者「それが自由自存ということになるのですか」                                                                           「はい、そうです。」

質問者「それは肉体の制限を超えるのですか。例えば生涯の間の時間であったりとかそういうものも超えて」
(即答される)「超えます」

質問者「永続するもの」
(ハッキリとしたお声で)「はい。」

私はまた雷に撃たれました。師の御言葉がハートを貫きました。

本当の愛を、何が何でも実現したいと心に誓いました。

Caitanya


サットサンガより カルマ・ヨーガ

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

 

みなさん、こんにちは
新しい年も明けましたね。今年の目標はもう立てられましたか?目的意識をもって生きるということが私たちの人生にとって、ものすごく大切なことなのだということもヨーガで学びました。その目標に向かって今年も精進していきましょう。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて、年明けのサットサンガではカルマ・ヨーガについての質問がありました。ヨーガは、この世の本当のこと、真実を実現するためのものですが、スワミ・ヴィヴェーカーナンダというインドの聖人は、ヨーガの実践方法には四種類あると説かれています。まずカルマ・ヨーガ、それは働きのヨーガといわれ、働きの秘訣を学び、真実を実現するヨーガです。そしてギャーナ・ヨーガとは知識のヨーガ、ラージャ・ヨーガとは身体や心を使う王道のヨーガ、バクティ・ヨーガとは信愛のヨーガです。
そして、私たちは過去の原因となるものの結果を必ずむかえるという、カルマの法則に支配されていますが、もともとのそのカルマの原因となるものを無くしていって、そのカルマに翻弄されないようにしようというのが、カルマの消化ということになります。

質問者カルマを消化するということについてなんですけど、瞑想の中でカルマを消化することができない場合、カルマヨーガとい手段でもって行なっていくなら良くないカルマも恐れることはない、前に前に進んでいけば、良くない願望でも軌道修正されてそれがいい願望に変わるといにヴィヴェーカーナンダの本に書いてあったんですギャーナヨーガとかラージャヨーガで瞑想してカルマを消化するといことは未来に対してのカルマを無くしてしまといことですよねそしたらカルマヨーガの中で経験しながらカルマを消化するといのは結局苦悩を味わいながら軌道修正して消化するといことなので徹底さといところからみたらカルマヨーガの方が低い感じの印象を受けるんですけれどもなんでしょ
ヨギ高い、低いの区別はないですけれどもねヴィヴェーカーナンダがいっているカルマヨーガといのは単に自分の義務を果たすといだけの劣位のカルマヨーガのみならず少し積極的な他者への奉仕的な、献身奉仕を踏まえながらカルマヨーガとい言葉を使っているよな気がするんです
すると他者への献身奉仕といのはもとよりエゴとかそ煩悩を少なくともその行為の時には無いよにしておかなければできないことですよねだからこそ実際的行為を伴ってカルマヨーガをすれば内面のカルマも落ちていく無くなっていくまたその根源である無知、煩悩も薄らいで無くなっていくとい教えだと思います
ギャーナヨーガとラージャヨーガといのは確かに瞑想の中でカルマやそのカルマの原因を識別していくことなんですけれどねそれはある意味、心の中で行なわけですよねだからそれと心といのは非常に深い領域をもっているのでそんなに簡単に無知と煩悩がそっくり無くなるとい話ではないやっぱりそれなりのものすごい闘いの熾烈さがあるのは事実ですだからそれをやってのけられるにはそれなりの資質と状況がラージャヨーガとかギャーナヨーガといのは求められるその点カルマヨーガといのは誰もが日常の中で行なことができるいったやりやすさといものもそこにありますねそんなところを踏まえながら彼はより多くの人に具体的なアプローチ方法としてそ教えを述べたんだと思います

師は優位のカルマ・ヨーガとして、他者への献身奉仕を積極的に行なっていきなさいと教えてくださっています。

私は、常に他者のために善き思いをもち、善き行為をするという献身奉仕の働きにより、次第に自分のことが後回しになって、それが自分のエゴや煩悩を無くしていくことにつながるのだと気付かされました。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは「カルマ・ヨーガ」の中で、こういわれています。

心の表面を動いている善い思い、善い印象の不断の反映によって、善をなそうという傾向は強くなり、その結果、我々はインドリアス(内的感覚器官、神経中枢)を制御できることを感じます。こうなって初めて性格は確立し、その時に初めて人は真理に到達するのです。

優位のカルマ・ヨーガは、私たちのライフワークになっていくのだと思いました。

ダルミニー


サットサンガより ブッダの悟り

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

みなさん こんにちは
十二月になりましたね、十二月のことを「しわす」と言いますが、その意味と由来は定かではないそうです。十二月は年が果てる、年果つ、しはす、しわすになったという説もあるそうです。師も走る、師走といわれていますが、私たちの師はいつも泰然とされていますので、本当の意味はどうなのだろうと思ってしまいます。
さて前回のブログにもありましたが、十二月八日はブッダが悟りを啓かれた日でもあるというわけで、今回のサットサンガはブッダについての教えが多くありました。

質問者がブッダの説いた、弦は張りすぎても緩みすぎてもいい音は鳴らないというふうに、弦に例えられる中庸の教えについてふれた時のことです。

師「ブッダが言うところの弦の張り具合というチューニングは、当時行なわれていた一般的な修行、一方には苦行というものがあり、もう一方では犠牲供養という快楽的なものもあり、そのどちらでもない、中道の在り方がある、それは苦行のように身体を痛めつけることではなく、健康な身体と健全な心を養いながら、その中でこそ正しい瞑想が行なわれるということを諭した言葉なんです。中庸、中道といわれるところ、まさしくそれがヨーガの道でもあるわけです。
でも、悟りへのあるいは神への願望というのは強烈でなければならない。また純粋にそれを保っていかなければならない。悟りや神に心が全面的に委ねられてしまえば、四六時中、座っていようが立っていようが、何かをしていようが、いつも神への憧れや悟りへの煮えたぎるような思いがやってきます」

師「ブッダは、当時シッダールタといわれていた時代に六年間の苦行を行なっています。当時は苦行という体系が当たり前のように蔓延していたと思われるので、シッダールタもそれを試み、しかも語られるところによれば、過去にも未来にも現代にも、その当時にも、匹敵する者はないほどの苦行を行なった。
けれども悟れなかった、ということを実証したんです。それで棄てた。
伝説に語られるところによれば、衰弱して骨と皮のような状態になった身体をスジャータという娘のくれた乳粥で身体を回復していくわけです。そこに健全な心の境地というか、そういう閃きが生まれたんだと思う。そして静かに菩提樹の下に座って、そうして悟りを得たと、それが十二月八日のことであったということになります。ブッダは必死に可能な限りの苦行を自らに課せたと語られています」 

師が教えられる煮えたぎるような思いとは、例えばそれはシュリー・ラーマクリシュナが神を見ることができないのであれば、その喉をかき切って死んでしまおうとした思いと同じ。そして例えばそれは慧可が弟子入りを乞うため、達磨大師に切り落とした自分の腕を差し出した思いと同じ。例えばそれは明恵上人が世俗にまみえることなく仏道の志を貫くため、自分の耳をそぎ落とした思いと同じ。身命を顧みない、真実の実現のためへの執念と同じなのだと思いました。 

ブッダの凄まじいまでの悟りへの執念、煮えたぎるような思い、ブッダを語られた師のお言葉が、そこにいる求道者たちのハートに火を付け、燃え上がらせたのを私は感じ、胸が熱くなるのでした。

私たちの心にも、その煮えたぎるような思いがやってきますように。
来年もさらなる飛躍の年となりますように。

ダルミニー

 

 

 


サットサンガより エゴを神の召し使いにする

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

みなさん、こんにちは
師の御聖誕祭を間近に控え、全国から真実を求めるグルバイ(兄弟姉妹弟子たち)が集まり、定例のサットサンガが行なわれました。「師には尊敬と奉仕と質問によって仕えよ」と伝えられていますが、この日もなごやかで満ち足りた雰囲気の中、次々と真剣な質問が続きました。

師は説かれます。
「誰もが自分の正体をエゴだと思っていて、心は好き勝手なことをして自分を傷つけてしまうことがあります。まるでエゴとこの世界が永遠であるかのように錯覚をしていますが、この世界は有限だし、命もなくなるかもしれない、本体は神聖なものなのに、自分の心の作り出した幻想に束縛されてしまっています。そこからの解放が本当の自由であり、それを知って実現することがヨーガの目的です」

私たちのエゴ意識が自分自身を束縛してしまい、それが苦しみや悲しみの原因となっている、そのエゴとの向き合い方について質問がありました。

質問者「エゴを神の召使いにしておきなさいという教えについて教えてください」
ヨギ「厳密な意味では、心というのは本来はエゴをもっていないものです。そのエゴという言葉の意味するところは、この相対的世界の中における身体がさまざまあるように、心もそれに備わって肉体に生じています。しかし、そこで利己的な思いのその色の濃度が濃くなるにしたがって、より煩悩的になっていくし、それが薄められていけば、単に自と他というものを区別するだけの機能として働きます。
それはあたかも道具のようなもの。道具というのは、例えば手が何か作業をするときにはやってくれるように、また足が必要に応じてどこかに運んでくれるように、心もそのようにいろんな物事に対しての工夫をしたり、さまざまな思案をしたり、そういう物事に対応するための道具としてみなされます。
これがエゴを道具のように、つまり道具ということは召使いのようにということです。召使いという時には必ずそこには主人がいます。この主人が誰なのかということです。通常は、エゴが主人のような顔をしてふるまうことによって間違いが起こるんだけれども、今の話のようにエゴが薄らいでいけば、また本当の自分という、アートマンと呼ばれている真我が自覚すれば、それが本当の主人であり、心は身体と同じように道具あるいは召使いとしての役割を果たします。
もう一方でそのエゴが完全には消滅をしないまでも薄められていっている折には、心に、エゴは召使いのようなもの、道具のようなものだというふうに言い聞かせて、本分をわきまえさせるようにしていきます。それがエゴを召使いにするようにという意味合いです。必ずそれにはアートマンという主人がいるということを覚えておいてください。アートマンは神の別名でもあります」 

ヨーガでは「私たちはこの心でも身体でもない、その奥にある純粋な意識、それが本当の自分である」と教えられます。純粋な意識とは、真実、存在、アートマン、神、さまざまな名前で呼ばれています。
ヨーギーにとって、心は真実を教えてやるべきものであり、正すべきものであります。そして心は、真実、存在、アートマン、神に目覚め、そして奉仕するための道具なのだと思いました。

ダルミニー


特別サットサンガ 京都・御室にて

台湾、松山に続き、京都でも先日、特別サットサンガが行なわれました。
新緑に囲まれる御室、プレーマ・アーシュラマでの初開催!
もちろん、それはとっても!!素晴らしい内容でした。

みんなが期待に胸を膨らませる中、清々しい風とともに、シュリー・マハーヨーギーは「こんにちは〜」と爽やかに、軽やかに会場へ入ってこられました。

冒頭の問答、ヨギさんはまずもってヨーガの意味するところは、真実を実現することであり、真実とは万物の本質が尊い存在であることだと核心たる教えを説かれました。参加者はヨーガの世界へとぐっと引き込まれていきました。

約2時間、途切れることなく質問は続きました。瞑想やアーサナなどの実践を深めるにはどうしたらいいか、家族との人間関係の問題、中学生の女の子の素朴な疑問、芸術とヨーガについてなどなど……。ヨギさんは柔和な笑顔と、絶妙な関西弁を交えたユーモアで私たちの心を解きほぐしながら、内なる真実を喚起するよう、力強く真理を語られました。
そして、不安を抱いている人には「ヨーガを実践していったら100%変わる! 断言します!」と心の靄を晴らすように何度も希望を与えられ、またヨーガの歩み方に確信をもてない人には「間違いなく本当の幸せに向かっていっていることだけは、私が保証します!」と深い安堵を与えられました。

窓から差し込む初夏の光と、ヨギさんから注がれる真理の光を浴びて、みんなの表情も輝いていました。

それでは、この日のサットサンガからハイライトをご紹介します。

ヨーガと出会ってから良い変化を感じる一方、変わっていない部分も根強くあり、自分のつかもうとしているものはヨーガ的には間違っているのかもしれないけれど、あきらめられないと胸の内を明かす女性。
ヨギさんはご自身が十代の頃、何がこの世の本当の幸せかということを瞑想したことがあると切り出されました。

「誰もが望みや欲望というものをもっています。その欲望が成就、達成されたらそれがいちばんの幸せなのか。では、その欲望、望みの理想の大きさとはどんなものなのだろう。
歴史上の狂人たちは世界を征服することがそうであったかもしれません、チャップリンの映画のように。今はそれが宇宙規模に拡大はしているけれど、ただスペースが大きくなっているだけのものでしょう。でも果たしてそれが本当に幸せの最大限のものなのか——。
そう考えた時に、もう一切のことが儚く消えていきます。そう思っている自分がまず消えるわけだから。いつかは、というかすぐにでもね。そうしたら同時に、その思いも、執着も欲望も、すべてが跡形もなく消えてしまう。
いったい何が本当の幸せなのか——。
なくならないもの、永遠の存在というもの、それだけしかないのです!!! それは理屈で理解できるものでもなければ、どこかで手に入るものでもない。それこそが本当に、誰もの胸の奥に秘められている宝のようにある存在なのです!」

ヨギさんは口調を強め、その存在こそが誰もの自分自身であり、それを体感することが大事だと続けられました。そしてさらに、
「それは体感できます!!!
中途半端な欲望や執着は、もっともっとエスカレートさせて、もう切りのないところまで膨らませていけばいい! そうすればその正体もわかってくる」

ヨギさんの息遣いが伝わってくる熱のこもったお言葉は、その場にいた誰もの胸に響いたことでしょう! 何も恐れることなく、大胆に進めと、大きな力が全身に流れ込んできたように感じました。

参加された方からは、嬉しかった! 楽しかった!という無邪気な歓びの声とともに、どんな人にも、どんな質問にも完璧にお答えになるヨギさんの姿に感動したという声、そして、教わったこと、気付きが起こったことを、自分が目指すものに向かって実践していきたいという意欲的な声が多く聞かれました。

真実を体現された方を目の当たりにし、その方の口からこぼれ出る言葉を聞き、直に学べることは、人生においてどれほど劇的な出来事なのでしょうか!! ヨギさんに心から敬愛と感謝の気持ちを捧げます。めいっぱいのインスパイアを本当にありがとうござました!

そして、この日の二日後、ヨギさんは青空の下ニューヨークへとご出発されました。
海の彼方でも、日本でも、一人でも多くの方がかけがえのない真実に触れられますように。

マードゥリー

 

プレーマ・アーシュラマ二階から見えるもみじの若葉


特別サットサンガ in 松山(後編)

松山特別サットサンガの2日目の朝、ヨギさんたちとホテルの一階のバイキングで朝食をとっていると、松山グルバイ(仲間)のアーナンディーが昨日のサットサンガのアンケートをもってやって来ました。
それを読むと素晴らしい感想ばかりで、胸がいっぱいになりました。
ただ、ある方の感想にはこうありました。

「考えが深いから、悩み苦しむのだと思った。気軽に生きたら、楽しく生きれると思った」

私はこの感想に、はっとさせられました。
20代前半くらいの若い方のものでありました。
1日目のサットサンガでは家族や職場関係での質問も多く、若い人から見たら、「なぜ大人たちはこんなに考え、悩んでいるのだろうか?」と感じたのだと思いました。
毎日を楽しく生きていくことができれば、それがいちばんいいに決まっています。
でも大人になるにつれて、なぜかそれができなくなる……
大人は仕事や子育ての義務があるから?
大人になっても、子供のように楽しんで生きることはできないのか?

「楽しむとは何か? また、遊びとは何か?」

2日目の松山特別サットサンガは、そんな問答が展開されました。

質問者「『ヨーガの福音』ーー子供の遊びーーには、子供は結果にこだわらないということで、子供は遊ぶために遊ぶからというふうに書いているのですけれど、子供のようになるには,どんなふうにしたらいいのでしょうか」
ヨギ「子供を表現する時に使われる言葉でよく、無邪気とか無垢といいます。まさにそのようになるということです。それはどういうことかというと、心に計らいがないこと、あれやこれや思わないこと。単純にその目の前の行為に集中して行ない、済んだら忘れるという単純なこと。これに徹していくことができれば、遊びの達人になります」

子供は無邪気、つまり「あれやこれや思わないこと」――
今回の松山特別サットサンガでヨギさんは一貫して、「嫌なことがあったり失敗しても引きずらない、今をより良く生きること」と言われていましたが、それは子供の状態ということだったのです。
そしてサットサンガの後半、「ヨギさん、楽しむことについて教えてください」とシンプルな問いがあり、ヨギさんは次のようにお答えになられました。

ヨギ「有名な古代の聖典の冒頭にこうあります。『かつてアートマンはひとりであった』――アートマンというのは真実の存在のことです。これは形もないけれども実在として確実にこれだけがあるというものであり、みんなの本質でもあるところのもの。しばしばこれを真我というふうに訳しています。本当の自己、本当の自分という意味です――このアートマンだけがあった。しかし彼は、まあこれは彼女でもいいですが、『彼女は一人では楽しめなかったので、自らを二つに分けた。そこに男と女が生まれ、子が生まれ、そして彼女は異なる動物の姿になり、彼もまたその後を追い、その動物の姿となりというふうに、次から次へとさまざまな動物が生まれていき、現在私たちが見るようなこの世界、万物が形成された』という、宇宙の始まりはこうであったというお話でもあります。この原点に、楽しむという言葉が使われているのです。これは別名インドの言葉ではアーナンダといい、楽しみとか楽、あるいは至福、このような意味合いの言葉です。だから、本質が本来至福である、そしてそれを味わうという楽しみは、他者とともに味わうという、万物とともに味わうのが本来であると。なぜなら、すべてのものがアートマンなのだから。そのことを知って、いつもどこでも誰とでも楽しんでください。いつもどこでも誰もが至福でありますように」

ヨギさんから何度も聞いていたこのウパニシャッドの教えでしたが、この冒頭の言葉を聞いた瞬間、不思議と私は歓びに包まれました。
昨年の愛媛の特別サットサンガで私は、胸の奥から熱い思いが湧き、その衝動は真実の自己アートマンからくるものであり、それに近づき、実現したいという思いに駆られました。
それからというもの、瞑想の中で「私はアートマンである」と何度も繰り返していました。
でも、このヨギさんのお言葉を聞いた瞬間、私の思っていたアートマンは本当にちっぽけなものであると気付かされました。
「アートマンともっと楽しみたい、もっと多くのアートマンと楽しみたい、遊びたい!!!」
自然とそのような思いが溢れてきました。

この松山での滞在中、ヨギさんは本当に計らいがありませんでした。
車に乗っている時、食事をしている時、ホテルでくつろいでいる時など、語弊を恐れずに言うとサットサンガがどうなるかなどの心配や不安なんて全く感じられませんでした。
本当に無邪気な子供のように、その時その時を楽しんでおられました。
でも、いつも準備万端!!
サットサンガの時は常に精一杯、真剣に問答をされ、どこでもどんな時でも、かかわる人すべてを至福の渦に巻き込んでいました。
まさに「遊びの達人」ヨギさんを目の当たりにし、ただただ圧倒された今回の師の松山特別サットサンガでした。

一緒に遊んでいただいこと、そして至福の歓びを味わわせていただいたこと、私にとって本当に格別のひとときでした。
ヨギさん、まことにありがとうございました!!!

最後になりましたが、松山の方々、今年も本当にありがとうございました。
昨年同様、今年も皆様の献身の働きにのっかっただけでした。。
でも正直に言います、また遊びたいです!!!

ゴパーラ


ヨーガの道

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

先日行なわれたサットサンガの内容をお伝えしています。

質問者「ヨーガは、瞑想に坐ることができる身体をつくるために行なうと伺ったのですが、何のために瞑想をして、何を目指しているのかということを教えてください」

師「全く今のご質問が、それこそ何千年も昔から国とか民族に関わらず沸き起こる大きな問題なんですね。その答えを探求していった歴史の中で、やはりインドにおいてその探求が非常に深く大きくなされていきました。誰もが生まれ落ちて人生というものを過していく、しかしやがて死んでいくわけですよね。いったいその中で本当の幸せというのは何なんだろう。快適に裕福に暮らせることが幸せなのだろうか、例えそういう境遇に恵まれたとしても、いつ死んでしまうか分からないし、それだったら幸福だと思っていたのも一瞬にして不幸になるわけでしょう。いったい幸せというのは何なのだろう。ましてやそれの経験者たる主人公、自分ね、自分というのはいったい何なのだろう。神というのはあるのだろうか、ないのだろうか。この宇宙の秘密は何なのだろう。
そういう謎というか問題を掘り下げて答えを出していった結果、本当の自分というものは苦楽を味わうものではなくて不滅の存在である。そして自分だけではなく万物、宇宙すべての本質はそれ、同じであるということが発見されました。その境地、その悟りといってもいいけれども、その真実の境地のことをヨーガといったんです」

本当の幸せとは何なのだろう。自分はいったい何のために生まれてきたのだろう。自分はこの世界で何をするべきなのか。自分はなぜここにいるのか。人は誰しも一度は必ずこういう疑問に悩まされることがあるだろうと思います。やがて大人になり、世の中は浮き沈みがあって当たり前、喜怒哀楽もあって人生のうちと、次第にこの疑問が薄れていったり、諦めに代わったり、また忙しさに紛れて忘れてしまったりしてしまうのだと思います。でも、どうしても自分の生きていること、していること、それが不思議でたまらない、なにかがおかしい、それがなぜなのか知りたくてたまらない、本当のことが知りたい、そういう人たちがヨーガに辿りつくのだと思いました。

師「そしてそれを実現するための教えとか方法、そういうものもヨーガというふうに称されるようになって、身体が弱ければその探求も続かないから、身体も健康で強くしなけりゃいけない。そのためにはアーサナによって肉体を調えて、そして心というのは常に動揺するから心も調えなければならない。そのときには呼吸というものも同時に乱れるから呼吸を調えて、そして心を制御していく。つまり心というのは欲望とか煩悩とかいうものによって振り回されることになる。いい経験もするかもしれないけれども苦しい経験もいっぱいある。そういう心の浮き沈みというものに動じないように心も制御していかなければならない。そういう一連の修行というか勉強というものもヨーガというふうに称されるようになりました。だからその真実の実現という目的をヨーガという名称で表し、また同時にそこに至る道もヨーガというふうに称されることになりました。これが何千年、何千年というのは四、五千年ということですけれども、にも渡るヨーガの歴史なのです。
このヨーガがインド以外の国に知られるようになってまだ百年たっていないんです。特にこの数十年の間に欧米とか日本、世界中に広まって、ヨーガのほんの一部分である健康だけを目的としたアーサナというものが流行しているので、それをヨーガだと思っている人がいるかもしれないんですけれども、それは誤解なんですね。それはほんの一部分のことに過ぎない。だから瞑想というのは、ヨーガの全体の体系の中にアーサナと同じように位置付けられている大事な部分なんです。特に心を制御していくというところにおいてね。これがヨーガの全体像です」

世の中で少々の自由や幸福を得たとしても、それらは刻々と変化して一瞬のうちに不自由になり、不幸になってしまう、そうではない相対的な状況を離れたところにあるものが、本当の自由、本当の幸せ、本当の真実であると師は教えてくださっています。そのためにも心のことや、真実、真理というものを学んでいくようにと教えてくださいました。

学校では教えてくれない真実、サットサンガで繰り返し師から真実の教えを聞き、そして真実のみを行為される師の日常から真実を学ぶことによって、私たちはヨーガの道を迷わず歩み続けることができるのだと思いました。

ダルミニー


クリヤヨーガ

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

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パラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』には、「クリヤヨーガ(実行のヨーガ)」という教えが際立っていることは、本を読んだ方なら誰しもが感じるところだと思います。しかしながら、その内容は「秘法」ということで、開示されてはいません。
では、なぜクリヤヨーガは秘法とされているのでしょうか?
今回のサットサンガでは、クリヤヨーガの秘法たる所以(ゆえん)が明らかにされました。

サットサンガの前半、真理の教えを実践しようとするも、日常の思いや行為がなかなか変えられないという質問が続きました。師はそれに対して、「本当に生きているという意味とは何なんだろうと。誰が生きているのか。そういう根本的なことをもっと真剣に捉えないといけない。それはすぐには理解できることではないかもしれません。それでも自分自身にそれを問いかけていくことが大事です」と述べられ、この人生の命題の答えを見つけるには「訓練」――アーサナはもちろんのこと、ヤマ・ニヤマ(禁戒・勧戒)といった日常における心の働きの訓練――それが最も大切で、その訓練によって瞑想の土台がつくられると説かれました。
会の終盤からは、ブラフマチャリヤ(純潔)の実践など、ヤマ・ニヤマに関する質問が続き、『あるヨギの自叙伝』を読み返しているというゴーパーラが、「クリヤヨーガは秘法といわれていますが、やはりヤマ・ニヤマのところが大きいですか」と質問する。

「大きいです。ヨーガは特にクリヤヨーガ――クリヤというのは実行するとか実践するとかいう意味合いです――実践的ヨーガ、実行のヨーガというふうに訳されるでしょう。そこでは毎日実行すべきものとして、聖典の学習、それから何らかの肉体をともなう修行、訓練、そして神への祈念、瞑想、その三本柱を特に取り上げてクリヤヨーガというふうにいっています。ヨガナンダが本の中でクリヤヨーガというものを初めて西洋に紹介をしたのです。ヨーガそのものを具体的に実際的に紹介したといってもいい。教えとしてはヴィヴェーカーナンダがその先駆であったけれども、それをより実践的なかたちで、つまり弟子たちを育てていくという使命を担ってアメリカに渡ったわけです。その中でヨーガというものをより実際的にしていくためにクリヤヨーガという言葉を使ったのだろうと思う。単なる知的な理解だけではなくて、ヨーガを実践していくという、実践することがヨーガですよということを、みんなに実践を求めた。それだからクリヤヨーガという教えがひと際、あの本の中で際立っている。内容はさっき言った三つの柱を中心としていますが、その毎日肉体をともなう何らかの訓練、修行という意味はアーサナやプラーナーヤーマも指しますし、それからヤマ・ニヤマにおける行為のあり方、これも含んでいるのです。それもあって実践、実際的実践になるわけですから。そして、あえて本ではつまびらかにそれらの内容を教えなかったことには理由があって、これはやはり本当に求める者でないとそれを実践できないから。単なる興味本位の知識としてそれらを知ることでは何の意味もない。だからその真実というもの、真理というものに並々ならぬ関心を抱いて、そしていわばヨガナンダの弟子となり、悟りを求める、実践を行なう者たちに初めてその内容が教えられていくという、そんな手順だったと思う」

ヨーガとは知的理解ではないクリヤ、即ち実行・実践であり、そしてそれを可能にするのは、真理を求める並々ならぬ思いである――
最後に師は、純粋な求道者の象徴ナチケータスについて説かれます。

「以前、『アムリタ――不死ーー』という聖劇をみんながやってくれたのですけれど、あの中でナチケータスという少年が死神の下に送られて、死神から真理を教えられるというくだりがありました。ナチケータスが死の国に行った時に、たまたま死神が不在で、三日三晩待っていたという逸話があります。その三日三晩というのは伝統的な習わしなのです。これは仏教の方にも伝わっていまして、禅宗なんかでは弟子入り、入門をしようと思えば、三日間門前で待っていなきゃいけない。つまり、その者の真剣さというか熱意とか本気とか、そういうものが試されるわけです。そうして三日を過ぎて初めて入門という門を入ることを許される。そんなふうにクリヤヨーガもそういうところを表しているんだと思います」

秘法とは隠されたものではない、求める者の真剣さによって開示される!
どんな状況でも、どんな誘惑がやってきても、ナチケータスが死の秘密という真理だけを求めたように、その門戸をノックし、神だけを叫び続けることができるか?
切に真理だけを求める真剣さと日々の実践、それこそがヨーガの秘法であると学んだサットサンガでした。

ゴーパーラ


サットヴァ

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

サット11

先日行なわれたサットサンガの内容をお伝えしています。
質問者「アーサナが一通り終わったらボーッとなるのですが、それはどうしてですか」
ヨギ「心は常に雑念とか、なんらかの想念を抱えて活動しまくっていてね。本当に一瞬たりとも空白の状態というのは与えてくれないものです。しかしアーサナによってアーサナの一時間半前後の中でそういう心の習慣性というものが破壊されるというか、心が常に想念、なんらかの雑念的想念を伴っているその関係を壊してしまうという、その結果、空白のようなボーッとした状態が生まれるということです」

 質問者「ボーッとした空白のときに、平安な感じとか喜びみたいなものを感じることがあります」
ヨギ「グナでいうならば、いつもはラジャスというね、動き回る性質の状態、それにちょっと習慣性というタマス性の要素が加わっているんだけれど、アーサナによってそれらが打破されてサットヴァ性になるということ、サットヴァというのは透明性のある快活な状態のことですから、本質としてある喜びの要素のみたいなものを醸し出すようになるということです。無条件に中からそれが出てくるという、条件なく泉のようにそれが沸いてくるという感じがすると思います」

そして師はサットヴァについて、こう説かれています。

体が健康な時には、体は無いかのように思うままに体を行為させることができる、それでいて体に執らわれていない。心もサットヴァな時は思うままに、はつらつと心の思い、行為ができて何にも執らわれていない、心のことにも悩まされない。サットヴァ性というのはそんな感じです。

例えばお腹がすいていて、何か食事をとって満腹になって至福感があるとか、欲しいものがあってそれを手に入れた時に喜びがあるとか、あるいは恋人同士の関係の中でそういう愛が結ばれる時とか、それぞれ幸福感とか至福感というのはあるかもしれません。でもそれらは全て何かに依存をしているという関係になって、その対象が無くなればあるいは変化すれば、その至福感は同時に消えていきます。反対に苦しみが残る。だから依存関係にあるかないか、そのサットヴァ性のそれが自立しているかどうかというところで見極めることができます。

質問者「常にサットヴァ性の泉が湧き出るような思いでいるには、普段からどういうふうに過したらいいですか」
ヨギ「喜びの源というのは真実というものからやってくる、真実そのものが喜びの原点なんですよね。それは誰もの中に、もうすでにあるものです。しかしその周りを心がこの世界の中で外向きに働いて、あれやこれやと喜びを見つけようとしているんですけれど、それらには限界もあるし、条件が必ずありますよね。だからやるべきことは真実というものに親しむこと、それにはもちろんアーサナとか瞑想とか、そういう身体を使った具体的な修練というか、それを行なう、そして真理の教えというものを心に充分教育することね。それは本を読んだり、またこういう場やグルバイたちと話し合ったり、語り合ったり、そういうことで真実をできるだけ身につけるというか、体得、体感していくようにするのがいいですね。だから特にクリヤー・ヨーガといってね、クリヤーというのは実行するという意味ですけれども、毎日行なうべきこととして、真理を学ぶこと、これは聖典の学習とかね、それから今言ったなんらかの修練をすること、そして神や真理に対して瞑想をすること、これを毎日やればいい」

師は、まずサットヴァ性というものを身につけていくようにといつも教えてくださっています。
常にはつらつと軽快で、なんの執われものない状態でいること、なんと私たちはこんな当たり前のことができていないのだろうと改めて考えさせられました。
「あぁ、早く本当の人間としてのあるがままの姿に戻りたい」と普通に思うのでした。

ダルミニー