今日は七夕ですね。あいにくの雨模様ですが、雲の上では願いが叶うといいですね。
さて、このブログを主担当しているサティヤーと私(サーナンダ)は、時折いろんなヨーガの話をします。そういう中で、さまざまな体験談が話題になります。それらはとてもユニークで、すごく考えさせられる内容もあります。ある日、サティヤーが高校生の頃の体験を話してくれました。このブログのタイトル「ヨーガを生きる」のスタート地点のように感じたので、今回はそれを対話形式でそのままお伝えしようと思います。
サティヤー「私高校生の頃、授業さぼってよく桃山御陵(ももやまごりょう)に行ってたんです」
サーナンダ「えっ、桃山御陵・・・!? さぼって・・・それはまた何でなん?」
サティヤー「うーん、何かいろいろ悩んでいて、誰にも会いたくないときがあって・・・」
サーナンダ「高校生と言えば思春期やからね〜。どんなことで悩んでいたの?」
サティヤー「言葉にしにくいんですけど、世の中では普通に正しいことが通らなかったり、人生は仕事とかして生きていくだけっていうことの意味がわからなかったりとか、要は世の中がなんでそうなのか、どう生きていけばいいのかが全然わからなくて、誰も教えてくれなかったし、そういうもんだとやり過ごすこともできなかったんです!すごくしんどくて、ずーっともやもやしてたんです・・・でもうまく言葉にできないし、話をしても誰にも通じないし、かといって普通に授業も受けてられなかったから、誰にも会わないところに行ってたんです!」
サーナンダ「・・・へぇ〜・・・それは単なる思春期の悩みではないねぇ!普通なら妥協するところだけど、そういう本質的なところで途方に暮れてたった感じやね。桃山御陵って伏見にある昔のお墓やんね」
サティヤー「そう、山の上にあって誰も来ない所です。朝学校に顔を出してから桃山御陵に行って、そこでお弁当を食べて、授業が終わる頃に家に帰ってたんです」
サーナンダ「ふ〜ん。それで?」
サティヤー「それで、この前実家に帰った時に久しぶりに桃山御陵に行ってきたんです。そうしたら当時のことを思い出して、『あーーあの頃は本当にしんどかったけど、今は全然違う〜〜!』って思って嬉しくなったんです。それで、まるでそこに当時の自分を見ているような感じがして、思わず声をかけたんです」
サーナンダ「なんて声をかけたの?」
サティヤー「『後10年もすれば大丈夫になるから、がんばりやー』って」
サーナンダ「その頃ヨーガに出会ったんやね」
サティヤー「そうなんです。それまでは例えるなら海の真っただ中にいて、どちらに向かって泳いでいったらいいかさっぱりわからなくて、ずーっと立ち泳ぎしているような感じで本当にしんどかったんです。でもヨーガに出会って、どっちに向かって泳いでいったらいいのかがわかったんです。それがどんなに嬉しかったことか!やっと生き方がわかったんです!」
サーナンダ「それは嬉しかったやろね〜!!!安心したんやね!」
サティヤー「はい!やっと生きていけると思ったんです。そこで初めて息したような気がしました。でもそういう人はたくさんいるような気がして、そういう方にこそヨーガをやって欲しいと思うんです」
サーナンダ「なるほどそうか〜。いや〜本当にその通りやね! でも面白いね。桃山御陵はお墓やん。つまり「死」を意味している。若くて肉体的には生命の盛りだったけれど、生きる意味がわからなかったから死んでいるのと同じだと感じていたんやね。その心境を象徴しているように思える。ヨーガの教えに巡り会って、そこで初めて生きる意味を見出し、本当の命を授かったんやろね。とっても象徴的な話やね」
サティヤー「いやーそう言われてみたらほんまですね〜。お墓で一日過ごすってタントラ行者みたい。彼らは頭蓋骨をお皿にしてご飯を食べたみたいですけど、私もお墓でお弁当を食べてるしね(笑)」
サーナンダ「タントラ…なるほど!そうやねぇ〜誰しも一度ならずとも生きるということについて疑問に思うことがあるかもしれないけど、普通はその思いに蓋をするか、すぐに忘れてしまって、世間の常識に合わせて生きようとするのかもしれない。常識ではちゃんと学校に行って勉強することが学生の本業で生きるということだけど、サティヤーの場合は、生きることに対する自分の疑問に蓋をして学校に行って普通に授業を受けることはむしろ死を意味していて、逆に通常は死を意味する桃山御陵に行くことで無意識に生の答えを求めていたのかもね!真逆やね!いや〜サティヤーも面白い人生を送ってるね〜!」
サティヤー「えーっ!面白くなんかないですよ。ヨーガに出会うまでは本当にしんどかったんですよ!でもヨーガに出会えて心底よかったと思います!出会ってなかったら生きられなかったと思います」
私はサティヤーの桃山御陵の話を聞いたとき、思春期の少女が、一日中独りでお墓で過ごすってどれほどの心境だったんだろうと思いました!10年間もその暗闇にいたとは!今のサティヤーは活力に溢れ、その時の印象は微塵もありません。ヨーガによって尊い命を授かったんだなあと思い、本当に嬉しくなりました!そして、もしそういう人がいたら、本当にヨーガに巡り会って欲しいと私も心底思いました。
サティヤーとサーナンダの対話より
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僕もサティヤーさんと同じようなことを、よくしてました。今でもしています。真理を探求する人は、世間一般の人とか、常識とは違う思考しますね。世間の人から見れば“変人”的な(笑) 強烈な無常感、空虚感をなんとかしたいと僕も、いまだにもがいています。
小林さん、コメントありがとうございます。よく似たご経験をお持ちなんですね!確かに何が常識で何が非常識なのかは曖昧ですよね。ヨーガは最初から常識を疑ってかかるとも教えられています。何が真実なのかを求めようとするからでしょうね。サティヤーがヨーガに出会った時に「初めて息した」と表現したのがすごく印象的でした。じゃあ、どうしてそう感じたのか問うと、師に出会って「漠然とそうではないかとずっと思っていたことが、それでよかったということがわかった」からだと話してくれました。言葉には表現できないけれど、これだけは譲れない最後の拠り所として感じていたことが、正しかったということがわかって安心して、初めて息したということのようです。言葉にはできない純粋な存在のヴァイブレーションに共鳴したのでしょうね。小林さんにもそのような吉祥なご縁がありますように!