残暑お見舞い申し上げます。 マーダヴィーです!
さてさて、わたくし事なのですが、今年の始めに実家を処分しました♪
住んでいたのは私一人だった(一軒家に一人暮らし!)ので、いつか家の処分はしなくちゃいけないな~と分かっていたものの、なかなかそのような大事には踏み切れず、いつでもできる、でも自分しかやる人いてないぞ、あぁかなり大変そうだ (TーT) ・・・と後回しにしてきましたが、とうとう「やるぞー!」と一念発起して実行しました。
大阪は住之江区の商店街から歩いて15秒の所にあった実家。めっちゃ下町です。ご近所さんとも家は違えど、一つの大きな家族のように育ってきました。今でも私を身内のように心配し可愛がってくれます。
誰もが生まれては死にを繰り返す輪廻転生の中で、自分自身で両親や環境を選んで生まれてくると言われています。私が生まれてきたところはちょっと事情のある家庭で、自分の手で解決しておきたい諸問題もあったので、それも含めてこの際一気に片を付けて、シンプルに生きるのだ~! と決心しました。
まずは、物理的な面での第一歩です。私は生まれてからずーーっと同じ所で暮らしてきたので、実家には相当の物があるのは分かっていましたが、ずっと見て見ぬフリ。自分の物は簡単に処分できますが、いざ開かずの扉を開けてみると、ありゃ~、出るわ出るわの大荷物。私の幼稚園の制服(大事に残してくれていたのね 涙)や、祖母の日本刺繍のお道具や大量の着物、はたまた20年以上も前に亡くなった祖父の3ピース・スーツまで綺麗なまま保管されて・・・ そして、いつか使うやろうと残してあったものの数々(ちょっと置いとこ~と思ってる物は、結局要らないのです)
・・・結局、家にあるものの98%の物を処分しました。
処分するのに一通り自分で目を通して、はいゴミ、これもゴミ、という風にガツガツ進めていきました。物を捨てる時に、例えば写真とか手紙とか、それらを見始めたらもうキリがないですよね。(みなさんも経験あります?) 色んなことを思い出したり、感傷に耽ったり……。 自分の物だけではなく、家族の物を見ても、その一つ一つに嬉しい思い出やら悲しい思い出やらがいっぱいくっついています。
感情が動くと作業は全くはかどりません。ただ事務的に、はい要らない、これも要らないという風に、ゴミ袋に放り込んでいくことをひたすら繰り返しました。その時につくづくと感じたのは「あぁ、かつて自分、又は誰かが大切にしていた物は悉く本当に無くなる。そして、それを大切にしていたその人もいなくなる」ということ。
この家だって建てられて60年近く経って老朽化し、解体されて無くなる。いつ誰が定めたかもわからない境界線で囲われたこの土地も、今は私たちの所有物だって言うけれど、すぐに他の人に譲渡されるし、そもそも初めからこの地球には境界なんてないのに、限定作って自分の持ち物だ~なんて主張して、ほんとバカげてる。
「だとしたら、この世界に自分の所有物と言えるものはあるのだろうか?」
という疑問がやってきて、思わずゴミを整理する手が止まりました。
でも次の瞬間
「自分の持ち物と言える物はほんとに何一つないけれど、“純粋な信仰” だけは持ってるわ!!!」と、答えがはっきり分かったのです!!
“純粋な信仰” が自分の唯一持ち物だ!と分かったとき、すーごく嬉しかったです。外側にあるいつかは壊れゆく物や、変わってしまう思いでもなくて、自分の内側にある“信仰”、それだけがどんなものよりも心の中に燦然と光輝いていて、何よりも大切で、自分の生命の源であり、それが私と言えるようなものだったと気がついたんです。
信仰と言うからには、何を信じているかという対象があります。私にとっては、神さまと真実です。(私は神さまが大好きです)
そして突然、中世に生きたミラバイのことを思い出しました。彼女も同じように、神への信仰だけを自らの持ち物とし、神だけを愛して、インドの大地に生きたのだと。ミラバイの魂が、時を超えて私の心に流れ込んできました。彼女は何も持っていなくても、どんな状況になっても、恐れるものは何一つなかった。それは神が彼女を愛し、彼女も彼だけを純粋に愛していたから。そんな愛の人を神さまは永遠に守るしかないでしょう。ねぇ?神さま。
自分が生きていくために必要最低限な物(+α+α+αくらい?結構いっぱいあるやん笑!)を実家から持ち運んで、今は暮らしています。無駄な物に囲まれているより遥かに快適!心も軽い!
以上、本日はマーダヴィーがお届けしました!
なお、もうちょっと続きがありますので、それはまた次の機会に~!