次の瞬間に死んでもいいという生き方3

昨日の夜勤で、ある患者さんの家族に伝えました。「主治医も言った通り状態はとても悪く、意識がなくなってきています。今日、もしかしたら夜中にということもあります。何かあれば連絡します」。バッドニュースって、とかく遠回しに伝えがちですが、あまり伝え方に神経質になるときちんと伝わらず、死が近いことを家族が実感しにくくなってしまう。でも、うちの病棟の患者さん家族は、頻繁に足を運ばれる方も結構おられ、本人の様子から気づかれることも多いのです。今日はいつもと違うと。

本人はというと、ほとんど話すこともできないその人は、スタッフが近づくとものすごい苦痛の表情を浮かべていましたが、意識レベルの低下に伴い、それも見られなくなっていきました。一般の病院で入院している人は、とても忙しい。やれ痰の吸引だ、オムツ交換だ、床ずれの処置だ、点滴の針の差し替えだ、とスタッフが代わる代わるやってきてはそれぞれの業務をこなしていきます。その処置の多くが苦痛を伴います。患者さんはただじっと耐えるだけです。ほとんど処置のない人は別ですが、私が患者さんの表情で最もよく思い浮かべるのは苦痛に満ちた表情です。何もできない自分に対する情けなさ、さまざまな苦痛に耐え続けなければならないやり切れなさ、死ぬ事もできない苦悩が、その表情から感じられます。

理想的な死を迎えることは、どう生きるかということと深く関係しているといわれます。つまり、どう生きたかで満足感に包まれて死ねるかどうかが決まるということです。多くの研究で、その生き方に共通する結果が残されています。その一つは他者のために生きるということです。最期をそのように生き抜くことが出来た時、たとえ死が迫りくる中でも、人は生きがいを持てるといいます。では、上に書いたような患者さんはどうしたらいいのか。その人が生き続けること自体、存在そのものが家族のためになるという考えもあります。確かにそうだと思いますが、本人の苦痛を考えれば、特に入院が長期にわたると残酷な気もします。

聖書やコーランなど、多くの宗教書は死後の生命について述べられ、世界各地の埋葬礼儀も、来生を前提として行われるものがたくさんあると聞きます。死んだ後も自分の霊魂は生き続けると信じることは、その人に希望を与え死への不安が軽減されることに繋がるといわれる。でも、そこで論じられているのは、それを信じるかどうかという問題です。なぜなら、それを証明できる人がいないからです。誰も永遠の生命があるかどうかを知らないからです。たとえそれが真実ではなかったとしても、それを信じることによって希望を持ったまま死んでいけるなら、その人に不利益はないわけです。だから、信じるということに懸けるのです。

私たちのヨーガの先生は、それは真実であり、生きながらにして実現できるのだと言われます。本当の自分は滅びゆく体ではなく、移ろいやすい心でもなく、心の奥にある永遠の存在である、そのことを自分で証明することこそ、私たちが生まれた本当の目的であると。そしてヨーガはそれを実現するための方法を教えてくれます。

もし死に近づいている人が、真実を知る人に出会い、残された時間をその実現に向けてひたすら努力することができるなら、その人の最期はどうなるでしょう。もし達成されないままに命が尽きたとしても、たとえ誰にも看取られずにたった一人で死んでいったとしても、他のどんな生き方を選ぶより満足して死んでいくに違いない。もう、満足かどうかなど問題ではなくなるかもしれない。そして死ぬ間際にこう願うはずです。必ず、また次の生も出会えますようにと。

どんなに苦しい時も真実をひたすら求め、心は晴れ渡る青空のようでいたいと思います

どんなに苦しい時も真実をひたすら求め、心は晴れ渡る青空のようでいたいと思います

 そしてさらにつづく


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