ナーグ・マハーシャヤの信仰

シュリー・ラーマクリシュナの家住者の高弟ナーグ・マハーシャヤは、1846年8月21日東ベンガルに生まれました。
初めてシュリー・ラーマクリシュナに会ったとき、彼はインドの習慣を遵守して御前に伏して師の御足の塵を取ろうとしましたが、師は足を引き、触れることをお許しになりませんでした。彼は自責の念にかられ、聖人の神聖な御足に触れるのにふさわしい人間ではないのだ、と自らを納得させました。
その後、師に寺院の境内を案内されて、師の寺院での生き生きとした信仰と素晴らしい振る舞いを見て、彼は師の素晴らしい純粋さ、神聖さ、そして献身に魅了されました。
帰る道すがら、彼は師について考え続けました。この日の経験は、彼の心に消えることのない印象を残し、神を認識したいという、燃えるような願望を訪れさせました。睡眠や食事を取ることも無頓着になり、人と話をするのもやめて、一緒に寺院に行った友人相手に、師についてだけ話をしました。
翌週、友人と師を再訪すると、気が狂ったようなムードの彼を見て、師はとてもお喜びになります。ですが彼の心には喜びと悲しみの入り混じった感情がありました。なぜなら師に仕える喜びと同時に、最初の会見でのことを思い出したからです。
後日、彼は一人で師を訪問しました。師は医者である彼に「私の足を診察してもらえないか」と言います。彼は師の足に触れてよく調べましたが、特に問題はないと答えました。師は再びもっと慎重に調べるように頼みます。そして彼はさらなる熱意をもって師の御足に触れました。
そのとき、彼はグルがいかにして弟子の要求を満たし、困難を取り去るのかを実感しました。グルの思いやりから生まれるささやかな行為が、誠実な弟子にとっては、自分への愛に満ちた行為として実感されます。ましてや彼にとっては、それは言葉に尽くせぬ感激でした。最初の訪問のときに、師の御足に触れることを許されなかった彼の深い悲しみは慰められました。そして師の御足に触れるという恩恵を与えられた今、自分が恩寵にあずかったことを知り、涙が頬を伝わりました。彼はその瞬間、師が人の姿をした神であることを確信しました。
後に、どうして師を神と知ることができたのか、と尋ねられた彼は次のように答えています。

「(略)誰も、師の祝福なしで、師を理解することはできません。たとえ一千年にわたる厳格な苦行を行っても、師が慈悲をお示しにならなければ、師を悟ることは不可能でしょう」

ナーグ・マハーシャヤのシュリー・ラーマクリシュナへの信仰を決定づけた、この出来事を想像して絵に描きました。

サルヴァーニー


夏の瞑想会

 
東京では毎月瞑想会を開催しています。
 
7月の瞑想会に、京都から先輩が来てくださいました。
 
酷暑の中、先輩を含め11名が参加。
コロナ禍で京都での定例サットサンガが休止となり、オンライン上での交流を続ける日々でしたが、実際に顔を合わせてゆっくり話すのは本当に久しぶりのこと。
みんなとっても嬉しそうで、それを見ているだけで胸がいっぱいになりました。
 
再会を喜び合い少し話をした後、瞑想しました。
瞑想会の会場は、都心にも関わらずほとんど物音が聞こえない静かな空間。静寂の中、同じ空間で一緒に瞑想できる喜びを感じつつ、小一時間座りました。
 
瞑想の後は先輩を囲んでのサットサンガ。
 
東京のKさんは、コロナ禍でもオンラインで各クラスを受講できたのが有り難かったこと、今後は対面で会う機会も増やしていってもらいたいと提案してくれました。
普段お会いしていてもこうした話をすることがなかったため、お話を伺えて良かったです。
 
静岡から参加されたMさんは、瞑想会に参加すると決めた時からずっと楽しかったそうで、当日も終始笑顔で過ごされていました。
みんなが優しくて嬉しかった、とのことでしたが、遠くから参加してくれたMさんの思いが私たちにも伝わってきて、嬉しくなりました。
 
 
京都から参加された先輩は、ヨーガを実践していく中での気付きや発心について話してくれました。また、長年師が行為される姿をお傍で見ておられ、印象に残っているエピソードも話してくれました。
そして、一人一人の話に真剣に耳を傾け、真摯に答えてくれる姿は、師が私たちにしてくださっていたことと全く同じだと感じました。
先輩とともにいることで歓びに満たされ、大きな安心感を得られたのは、きっと私だけではなかったと思います。
 
師がずっと見守ってくださっているような雰囲気の中、互いの熱を高め合い、これからどう行為して行くべきかを具体的に考えるきっかけとなった瞑想会でした。
 
瞑想会の後に記念撮影。みんないい笑顔。
 
 

それから3週間ほど経った先日、8月の瞑想会がありました。

7月の瞑想会の後により良い瞑想会にするために話し合いをして、今回から瞑想の後に『マハーヨーギーの真理のことば』の教えをみんなで学び合うことにしました。
各自が惹かれる教えや、気になる教えを取り上げて、理解しづらかったり疑問に感じたことがあれば質問し合い、みんなでその教えを読み、それぞれに感じたことを話す形で進めました。
人によって視点が異なるからこその気付きが幾つもあり、充実した時間になったと思います。
何となく理解していたことが話しているうちにしっかり納得できた、朗読で教えを聴くことで内容がすっと入ってきた、という感想も頂きました。
 
 
これからもより充実した瞑想会となるよう、みんなで学び深め合っていきたいです。
 

   ハルシャニー  

 

 
 

最愛なるグル、シュリー・マハーヨーギーを偲ぶ会 ~MYM台湾ブログより

6/10、台湾でシュリー・マハーヨーギーを偲ぶ会が行なわれました。MYM台湾のブログにその時の様子が掲載されていますので、日本語での翻訳をご紹介いたします。

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サットグル・ シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサは、2023 年 5 月 18 日に日本の京都で御入滅されました。 台湾の弟子たちは2023年6月10日にアーナンダ・アーシュラマで偲ぶ会を行ないました。 午後、参加者たちは時間通りに到着しました。厳粛な祭壇が設えられ、美しい花とヨギさんのお写真が飾られ、荘厳で平安な雰囲気が漂っていましたが、過度の装飾や悲しみはありませんでした。

会の冒頭、ニューヨーク・ミッションが制作した、ヨギさんの貴重な姿を記録した映像『Satguru Shri Mahayogi Paramahansa: A Modern Age Yogi Who Abides in Self-Realization』がまず上映されました。この映像には、ヨギさんが各地で行なわれた貴重なヨーガの布教の様子が記録されています。スクリーンに映し出された慈愛に満ちた師(グル)を見て、みんなの心の中に言葉では表せない温かな感情が湧き上がったことでしょう。

その後、参加者たちはそれぞれヨギさんとの思い出やヨギさんへの思いを語り合いました。皆、人生の様々なタイミングでヨギさんに出会い、異なる理由や状況の下ヨーガに触れましたが、ヨギさんは誰もが理解できる方法で、弟子たちが内なる真我に向かい、生きる方向が見つけられるよう導いてくださいました。

話の後、全員が順番に祭壇にお花を捧げました。そこで捧げられた言葉は、ヨギさんに会いたいという言葉よりも、決意の方がより多く聞かれました! 皆はサットサンガで、ヨギさんが私たちに伝染するほどの安らぎと力強い眼差し(ダルシャン)を与えてくださったこと、そして弟子の無知や不安を受け入れながらも、ヨギさんが輝かしい笑顔を向けてくださったことを懐かしく思い出して、もっとヨギさんと過ごしたかった…と感じたのではないかと思います。ある弟子は、 「京都でのジャヤンティに参加する機会がなかった、これからもヨギさんに会えない」と、とても残念そうに言いました。それで、その場は少し悲しみに包まれてしまいました。

しかし、参加者の一人は京都で葬儀に参列した感想——ヨギさんの肉体は消えていったけれども、より共にいるように感じられた、と語りました。それはまさに『ヨーガの福音』の中にある、「真の自己は生まれたこともなく、死ぬこともない。不滅で永遠の存在です」という教えそのものです。その後、プラサーディニーはヨギさんとのエピソードを分かち合いました。以前ヨギさんから「いつも側にいますよ」という言葉をいただいた時、「はい」とお答えしたものの、本当は不安を抱えていました。自分は台湾にいるので、どう考えてもヨギさんが側におられるということは考えられないと思っていました。先日、アーサナをやっている最中に様々な思いが浮かび、次第に頭痛がし始めた彼女は、すぐ呼吸に集中して、ゆっくりゆっくり息を吐き…徐々に、ヨギさんが側にいるように感じ始めました。参加者たちはそのエピソードを通して、ヨギさんが既に真理を私たちに授けられているということ、またしっかりと実践して心を純粋で透明にすれば、ヨギさんに近づいていけるということを、より理解したのではないかと思います。

京都、ニューヨーク、そして台湾でサンガを作ってくださったシュリー・マハーヨーギーに感謝いたします。それは、現在の弟子たちのためだけではなく、この世で輪廻転生している将来のすべての魂の導きにもなるでしょう。

ヨギさんは平等、そして無私の態度で求道者たちに接し、数えきれないほどのサットサンガを開催し、アーサナも指導し、神の化身を直接見る機会を与え、ヨーガの真義を理解できるように導いてくださいました。ほぼ50年間、ひと時も休むことなく、この神聖な仕事を続けられました。2022年のジャヤンティの最後に、ヨギさんは「ブラフマンの輝きに満ちた顔を私に見せてください。楽しみにしています」とおっしゃいました。まさに今、私たち弟子たちは、命の有限性をさらに意識し、夢から覚めて真実に目覚めなければいけないと誓い合いました。いつか真実の中で、グルに再会できることを楽しみにしています。

画:MYM台湾 キャリー

ブッダはご入滅前に、「私を見る者が私の弟子ではなく、私の教えを知る者が私の弟子である」とおっしゃいました。ヨギさんの弟子として、私たちは一瞬一瞬ヨギさんの言葉を体現できるように、自らの行動を通してヨギさんの教えを伝えることができるようにと願っています。これこそが私たちの生涯におけるたった一つの使命です。

Satguru Shri Mahayogi Paramahansa ki, Jai!

文:MYM台湾  シンユンMYM Taiwan


キールタンの醍醐味 ①私にはバクティ・ヨーガは無理と思っていたら

ヨーガを学び始めたころ、私はバクティ・ヨーガ(神への信愛)が苦手でした。クリシュナ神の愛人ラーダーが狂おしいほど甘美にクリシュナ神を愛する物語を知り、男女関係なくラーダーのように神を愛するのだと言われても、正直なところ違和感しかありませんでした。神を愛する気持ちを感情に表すことなど気恥ずかしくてできない。自分の神への愛は確かに心の中にあるのだから、静かにしまっておけばよいと思っていました。しかし、神様は思いもよらない方法で、私のバクティに火をつけてくださいました。

マハーヨーギー・ミッションの活動に参加させていただく中で、多くのグルバイ(兄弟姉妹弟子)の皆さんが、それぞれ異なる人生経験や知識、仕事や家庭などの生活環境に応じて、その人の信仰が最大となる方法で神と向き合っていることを知りました。それでは私が全霊を捧げて神と向き合うためにはどうしたらよいだろうとぼんやり考えていたあるヨーガ・瞑想クラスの日、東京での「バクティ・サンガム」のチラシをいただきました。インドの神々を賛美し、神の御名を歌い奏でるキールタンのことや、そこではアコーディオンを横にして床においたような鍵盤楽器のハルモニウムが使われることなど、多少の予備知識はありました。「あの楽器弾いてみたい!」と即座に思いました。

ハルモニウムへの私の好奇心を察してくださったのか、ある時に先輩グルバイが「弾いてみますか?」と嬉しい一言をくださいました。私は子どものころからピアノを習い、趣味の音楽を続けていたので、「音楽で神を讃えられたら最高だ。それなら自分にもできる」と思い、皆さんと歌えるあてもないのに、さっそくハルモニウムを購入しました。

バクティ・サンガムで初めてハルモニウムを弾かせていただいた日。

その後間もなく新型コロナが流行し、バクティ・サンガムはオンラインクラスとなりました。毎回、聖者や神に関するスライドショーや参加者の体験談など、工夫を凝らした盛りだくさんの内容で、とても楽しく参加させていただいています。なにより、日本中のグルバイの皆さんとキールタンを歌えることがこのうえない喜びです。 

現在、新型コロナの感染も収まりつつある中で、東京では毎週土曜日のアーサナ・瞑想クラスや、月に一度の瞑想会のあとに有志でキールタンの練習をしています。キールタンを歌うときは、神を讃える歌声を邪魔しないように、楽器があまり出しゃばらないように気を付けています。でもせっかく神様に聴いていただくのだから音楽としても素敵にしたいとも思います。楽譜がないので先輩の演奏やCDの「耳コピ」をして、いろいろ工夫しながら弾いています。

そして先日、なんと静岡から参加してくださったグルバイも含めて総勢7人でキールタンを歌うことができました。最初にマントラ(真言)を唱え7人の声がひとつに重なった瞬間から、全員の気持ちが高まっていくのを感じました。クリシュナ神やシヴァ神の御名を繰り返し歌っていると、みんなの心が次第に熱くなり神に集中してくるのがとてもよく伝わってきます。立ち上がり身体を揺らす人、手拍子を打つ人、涙を流す人もあり、気が付けば、私も大きな声と喜びの笑顔で無心に神への愛を表現していました。表情が地味な方なのであまり分からないかもしれませんが…。

曲が終わっても、「終わりたくない!ずっと歌っていたい!」と皆さんの神への思いが高まり、なかなか収まらない様子でした。涙ぐみながら言葉にできない余韻を味わうグルバイの顔がとても印象的でした。苦手だと思っていたバクティ・ヨーガを自然に実践できるキールタンは最高です。

小菅貴仁


ニルヴァーナ(涅槃寂静)

暑中お見舞い申し上げます。
厳しい暑さが続いていますが、お変わりなくお過ごしでしょうか。酷暑の折から、くれぐれもご自愛のほどお祈り申し上げます。

さて、夏の暑い日、ブッダを思うのは私だけでしょうか?
燃え盛る煩悩の火、欲望の渇きが消えたブッダーー私はブッダを思うと心静まり、涼を得ます。

「修行僧よ、この舟から水を汲み出せ。汝が水を汲み出したならば、舟は軽やかにやすやすと進むであろう。貪りと怒りとを断ったならば、汝は安らぎ(ニルヴァーナ)におもむくであろう」

ーーー『ダンマパダ』369

猛暑が続きますが、少しずつでもニルヴァーナ(涅槃寂静)を目指して前進していきましょう!!

 

ゴーパーラ


『マハーヨーギーの真理のことば』第十章 奉仕と献身の道

「人には親切でありたい」「困っている人がいたら助けたい」 一見当たり前のことですが、常にそうあり続けることはとても難しく感じます。例えば、自分の心身が疲れて余裕がなかったり、また相手が苦手なタイプの方であったり、それだけですぐに人を思いやるどころではなくなります。師シュリー・マハーヨーギーと出会う以前の私は、それは人間の性なのだからしょうがないと思っていて、そんな自分に対してもこの世の中に対してもうんざりしていました。そんなこんがらがった心模様を師は一掃し、希望の光を見せてくださいます。『マハーヨーギーの真理のことば』第十章より引用させていただきます。

エゴと無知がある限り、私たちがこの世で生きている時には他者を犠牲にしている。他者を犠牲にしながら、そして自分だけ良くあろうと、自分のために他者を犠牲にするというのが一般的なあり方です。これは今も言ったようにエゴと無知がそうさせているわけで、他者を傷つけて、あるいは犠牲を強いていても平気なのが無知。
でもヨーガを深めていった時には、他者ではなくて自分のこの体と心を犠牲にして、他者のために行為することができる。自分を犠牲にしようとか、するとか言っている間は、まだ本当の自己犠牲はできないかもしれない、それもまだ訓練中かもしれない。出来上がってしまえばもう何の計らいもなく、極めて自然なかたちで他者のための行為だけが為されていくようになる。

師の教えに触れ、生き方を変えたいと願いカルマ・ヨーガ(献身奉仕のヨーガ)に取り組むようになってから、奉仕にそぐわない自分本位な思いが心に湧くとそれに気づくようになりました。湧き出た思いを振り払い、とにかく奉仕の実践に沿った言動を行ない続けます。それは1日1日が地道な努力の連続です。それでも師のお言葉が困難を超えていこうとする力を与えてくださいます。

ただ、本当に百パーセント全身全霊でもって他者だけを見つめること。自らを顧みるとか、自らのことに気付くような一パーセントも持ち合わせていない。
奉仕におけるヨーガにおいては、他者の中に神を見ること、ただそれだけです。単純だけれど、その思いで心を満たしておかなければ、またできないことです。

師のお言葉からは、その背後にある相手を思いやる優しさや限りなく大きな愛がひしひしと伝わってきます。この本(『マハーヨーギーの真理のことば』)全体を通して全てのお言葉が、相手のために、相手の立場に立って、相手に伝わる話し方で語られていて、そこには師ご自身の自分の都合は一つも見つけられません。師が自らの身をもって本当のカルマ・ヨーガのあり方を見せてくださっているのではないでしょうか。

奉仕への取り組みはその人を自分中心のむなしい生き方から引き離し、神様だけを見つめて生きる機会を与えてくださいます。それはこの世の中で何よりも幸せなことなのだと思います。そして師のお言葉が道を指し示してくださいます。どんな状況の中でも他者の中に神様だけを見つめて、よりいっそうカルマ・ヨーガに励んでいこうと改めて決意させていただきました。

船勢洋子


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ ④

 今回は、『Paramahamsa』No.78の表紙を紹介させていただきます。

アール・ヌーヴォー調のフォントをあしらった表紙は、師であるヨギさんがデザインしてくださったものです。
ヨギさんは、毎回その絵にあうようにとフォントを選ばれますが、いつも何かしら、明確な、具体的なイメージがあり、そのイメージに沿ったものが見つかるまで何度も見返して探されました。
言葉にすると単純な作業ですが、その集中力は並大抵ではなく、また選んでくださったフォントでデザインされたものは、いつも私の想像をはるかに超えた美しさを放っていました。

*実際に発行された『Paramahamsa』はモノクロです

 No.78の裏表紙に、この絵を描いた当時のエピソードを掲載していましたので、ここに紹介させていただきます。

毎週金曜日夜、シャクティたちはヨーガ・ヴィハーラに集い、キールタンを歌い踊っている。いえ、実際には踊っていないのだけれど、まさに踊っているようだと感じたことがありました。
その日、私たちは輪になってシヴァ
を讃える歌を歌っていました。身体を左右に揺らし、満面の笑顔で声高らかに歌うシャクティたち。そこにはヨギさんがおられ、ともに遊び戯れている! そんなふうに感じ、私は深く感動したのでした。そして「あぁ、こういう絵を描きたい」と思ったのです。

このミニアチュールから、神だけを見つめ、神と一緒に遊ぶシャクティたちの歓びが少しでも伝われば嬉しいなぁと思います」

*2023年7月20日配信のWeb版Paramahamsaにて、このイラストを紹介していただきました。

シャチー

 

 


ブッダから届いた宝物

木曜日と土曜日に、京都、大阪で開講されている瞑想入門のクラスでは、講師のゴーパーラさんならではのヨーガ行者としての鋭い視点で、瞑想やこの世界の理、心のしくみについての興味深いお話が聞けて参加者たちの質問も活発です。先日は、ブッダってどういう人だと思う?という投げかけからそれぞれのイメージを共有し合い、ブッダを身近に感じてよりブッダが好きになってしまいました♡ 「入門」というだけに素朴な質問がしやすい雰囲気があり、質疑応答を通じたみんなでの交流も楽しく、また、瞑想の時間はピタッとした静けさと集中があり、メリハリがあります。

そんな瞑想入門クラスに熱心に通われているNさんは、「自分はまだまだ真理やヨーガを信じられていない」と包み隠さず話されます。ある日のクラスで、「真理があるか、ないかを確かめたい」と真剣に言われました。ゴーパーラさんは、ブッダの教えにもある「たとえ古い聖典が出てきてもそれを盲目的に信じる必要はない」という言葉を紹介され、師も同じように仰っていることを話されました。

師は「まずヨーガを進めていくには、それまで経験で培った観念とか概念とかいう心の秤を無視するところから始める、あるいは疑うところから始める。またその聖典とか真理の言葉といわれるものも、鵜呑みにする必要はない。ただし、その両方についてよくよく考え、そして瞑想して、間違いのない答えが出てくるまでそれを探求しなければいけない」と説かれています。

まさに師のこの教えの通り、探求の真っ只中のNさんと私たち。ゴーパーラさんは、瞑想を山登りに例えられ、学生時代に行ったチベットの高度5000メートルの山で、高山病になったことを紹介されたことがありました。どんな山を目指すかは人それぞれ。目指している山が違ってもいいけれど、でもどんな山を目指すにしても頂上に辿り着くためには、やらないといけないことがある。それは土台作り。基礎体力が必要! その基礎作りが瞑想入門のクラスなのです。基礎は何度も繰り返し学び実践することで強固になるなぁと私は感じています。

とっても為になる実践的な瞑想入門クラスなのですが、実は参加人数が少なくて(涙)クラス宣伝のため、チラシ蒔きを兼ねて数人でインドカレーのお店に行く機会がありました。私はそこでNさんと初めてゆっくり話しました。Nさんは、すっごく正直で、真っすぐで、ある意味、師の教えの言葉を地で行く(!)絶対に何も鵜呑みにしない人(笑)なんだなということを感じ、何てヨーガ向きな人なんだ?!と思いました。真理も神ももちろん全く鵜呑みにはせず(笑)、自分自身で確かめながら、着実に道を歩んでこられたんだと分かりました。Nさんは師のサットサンガでも師に、疑心暗鬼になるんです、神という存在についても信じられないです、どうやって信仰する神を選ぶのですか?というような正直な質問をたくさんされていました。私はNさんに対して、疑心暗鬼だと言われながらも、でもこんなにも熱心にサットサンガやクラスに参加し、これだけヨーガを続けられるその理由は何なんだろう??凄いなと密かに思っていました。お話してその謎が解けました、Nさんは師の存在にただただ惹かれている! 好きになってしまっている♡

さて、そんなNさんからあるエピソードを聞きました。Nさんが書いてくださったそのエピソードをここでご紹介したいと思います。(ナリニー)

* * *

 

「まあ、なんてかわいらしい仏様!」
2019年12月8日、この絵はわたしのもとに届きました。
その1週間前、師の特別サットサンガの日、瞑想の対象を決められずにいたわたしは

師に「神様に来てくださいとお願いしてもいいですか」と尋ねました。
師は「お願いしてもいい。その中で親しみのもてた神を信仰すればいい」と
仰ってくださいました。

それから数日後、知人から「Kさんが、渡したい絵があると言われている」というお電話がありました。Kさんは長年マザーテレサの下で奉仕活動をされている方だったので、わたしは「もしかしたら、キリスト様かマリア様が家に来られるのかなぁ」と思っていました。

そして、12月8日、ブッダが悟りをひらかれたその日、この絵はわたしのもとへ。
以来、ずっと見守ってくださっています。

師のはからいによってもたらされた宝物です。

 

ブッダの版画
N 

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『マハーヨーギーの真理のことば』 第九章 大宇宙と小宇宙の神秘

私はヨーガを始めてまだ数年の初心者です。ヨーガの教えは、聖者・覚者によって見出された叡知であり、目から鱗が落ちるようなものが多く、学ぶのがとても楽しいです。今は、シュリー・マハーヨーギーへの質問と答えがまとめられた『マハーヨーギーの真理のことば』を読んでいます。シュリー・マハーヨーギーのお話は自らの経験に基づいており、とても説得力があります。また、対話形式で書かれていて、とても読み易いです。
今回はこの御本の第九章をレビューさせていただきます。

第九章は「大宇宙と小宇宙の神秘」というタイトルとなっています。ヨーガでは、物理的に存在する宇宙を大宇宙、それに対して私達の身体のことを小宇宙ととらえています。私は瞑想中に、自分の中に内なる世界が広がっていることを感じることがありました。小宇宙という言葉を聞いた時、本当にその通りだなと思いました。

さて、この章の中で私にとって最も印象的だったのは、大宇宙と小宇宙の一致(梵我一如)の部分です。
私が梵我一如という言葉を知ったのは高校生の頃で、教科書にこのように書いてありました。
「ウパニシャッド哲学では自己の本質であるアートマン(我)と宇宙の理であるブラフマン(梵)が一体であるという真理(梵我一如)を悟ることで輪廻転生から解脱できるとされる」
言葉の雰囲気にとても惹かれたのですが、意味は分からないままでいました。

シュリー・マハーヨーギーは、梵我一如について、このように説明されています。

サマーディ(三昧)においては、いわばその物質的な粗大な局面から、より微細な原因体の方に心が移行していくことになる。そうするとその大宇宙と小宇宙を造り出した原因というのは同じということになってくるので、そこでの物理的な空間の大きさとか量とか時間とかいうものが消滅してしまうということになる。そういう中でより深まっていけば、その根源的な宇宙と万物の展開を始める原初体のようなところに入り込んでしまう。するとそれは二つとないものとして、体感することになるのです。相対的な大宇宙、小宇宙というふうに物理的な条件を伴った観念がそこにある以上は、大宇宙と小宇宙の一致とか一体というような表現になるだけのことです。要は宇宙万物の根源にサマーディは連れていく、あるいはサマーディの中でそれを体験するということです。

なるほど、梵我一如とはサマーディの中で体験できるもの――では、サマーディとはいったいどのようなものなのでしょうか? 興味はつきません。

第九章にはその他にも、プラーナーヤーマ(調気法)、クンダリニー(根源力)、シュリー・ヤントラ(象徴的な真理の図象)、宇宙開闢(かいびゃく)論など、ヨーガの生理学と宇宙観に関する興味深い内容が、数多く取り扱われています。
ぜひとも読んでみてください。きっとヨーガの理解が進むと思います。

右は『マハーヨーギーの真理のことば』の表紙、左はシュリー・マハーヨーギーの描かれたブラフマーンダ(ブラフマンの卵)。ヨーガでは、宇宙が始まる前、有もない、無も無い時、そこから宇宙が生まれ、そして万物、万象が展開していったと語られています。ビッグバンが発見される遥か昔、太古の昔のヨーギーが、宇宙の始まりを直観していたことに感動します。

島本廉


師のお言葉の力

「ヨーガに出会う前の私と同じように苦しい思いをしている人が、本当は苦しみなどない尊い存在なのだと感じられるように、行為したいです」

サットサンガの中でそう話した時、師は笑顔で仰いました。
「そうしてくれたら私も嬉しい」

糸がぐちゃぐちゃに絡まったような状態だった私の心を、師は少しずつ解いてくださいました。
その糸の端をしっかりと師に結び付け、少しでも師に近付くために手繰り寄せるようにヨーガの道を歩めていることは、本当に幸せなことだと感じています。

ヨーガに出会う前、私は自分は不幸だと思い込み、自分と似たような悩みや苦しみを感じている人には共感し親しくするけれど、幸せそうに見える人とは距離をとって関わらないようにしていました。
ヨーガを実践するようになってから、誰しも悩んだり苦しんだりしながら生きていることを理解し、自らの中に光り輝く真実があることに気付かず生きていることこそが不幸であると思うようになりました。

 

私の仕事は悩みや苦しみを抱えた人と関わることが多く、かつての私と同じように糸が絡まったような状態だと思われる方もいます。
師のように絡まった糸を解くことはできなくても、少しでもほぐすことができたら…自分に何ができるのか考えると、師がなさっていたように、常に誰に対しても等しく、謙虚に行為することだと気付きました。

今は、目の前にいる人が、一瞬でも自らの中にある真実を感じられるように祈りながら、何か一つでもその人のために行為できるように努めています。

 「そうしてくれたら私も嬉しい」
師の言葉と笑顔が、私に力を与えてくださっています。


真っ白なクルクマの花。この花を見ると夏が来たと実感します。蓮の花のような清らかな雰囲気なので、見つめているだけで心が調います。

   ハルシャニー