『マハーヨーギーの真理のことば』 自分の一生は自分で生きる

子供の頃から我が家にはいちじくの木があった。母が養女としてこの家に来た時に、庭に好きなものを植えたらいいと養父が言ったので、好物のいちじくの苗木を植えたところ、いちじくはだめだ、根が強く他の植物をダメにしてしまうと引っこ抜かれてしまったそうだ。しかし母はその苗木をこっそり家から離れた小さな畑に植えた。養父は数年後に亡くなり、母はやがて結婚し、子供を育てながら、丹精込めていちじくの世話をして、毎年夏になると鈴なりに実がなった。家族だけでは食べきれず、好きな方に差し上げているうちに、甘くて美味しい、販売して欲しいと声が上がり、軒先で売ると、毎朝買いに来られる方が増え、口コミで遠い所からも来られるほど、評判となった。

風邪も引いたことがないと健康を自慢していた母であったが、思いがけず病を得た。手術と治療を繰り返し、なんとか日常生活を送っていたが、病状が進み、最期の2年ほどは坂道を転げ落ちていくように急速に悪化した。それでも母は最後まで前向きに生きた。大切に育てた畑を見るのが何より大好きで、私は週末になると母を車椅子に乗せて畑まで行った。いちじくの世話は父と姉夫婦が受け継ぎ、親木から挿し木をして子供の木も育てた。亡くなる2ヶ月前の6月には、親木も子供の木も立派な葉をつけているのを見て喜んでいた。母がいちじくを愛でたのはそれが最後となり、8月に旅立った。
その1年後、去年の夏の終わりのこと、雨の多い夏となり、例年より少し時期が遅れ、9月の初めになって実をつけた。そんな朝、前日まで青々とした大きな葉を伸ばしていた親木のいちじくが一夜にして実だけ枝に残して、全ての葉を地に落とし、寿命を全うした。この2回の夏に私たち家族は母といちじくの、二つの魂を見送ることになった。

愛する存在の死は悲しい。この上ない苦しみである。苦しみを乗り超えるために私は言葉の通り七転八倒した。そしてやはり最後にすがるところはヨーガだけであった。
死を理解することは今の私には難しい。それなら必死に生きようと思った。そして私は今、真理のことばに支えられて生きている。

問題は、一個人として自分はどう感じるのか。
どう生きたいのかを自分自身に問うべきです。本当の自由が欲しいのではないのですか。本物の幸せを得たいのではないですか。
真実在というべきその存在が自らの中に在ると教えられながら、
どうしてそれを探そうとしないのか。
この単純な問い掛けを自分自身に真剣に為すべきです!
それ以外の想念は全て、単なる情報の影響にすぎません。
そんな影響の渦に巻き込まれて、自らを失いたくはないでしょう。
自分の一生は自分で生きるのです!

『マハーヨーギーの真理のことば』 第八章 実践の秘訣 より

母といちじくが自らの人生を見せてくれた。そのことに感謝して、私も自分の人生を生きたいと思う。それがヨーガとなったら本望だ。
そして今年も我が家のいちじくが大きな葉を広げて甘い実をつけるのが楽しみだ。

サラニー


かけがえのない時間 ~弟子たちのサットサンガ~

梅雨に入った6月18日。その日は、私たちの最愛の師がこの地上から去られてちょうどひと月目の節目でした。まだまだ夢のまた夢を見ているような、きっと多くの仲間たちが実感も、整理もつかないまま日々を過ごしていたかもしれません。しかし、季節は確実に巡っていました。気が付けば、あちらこちらには鮮やかな色彩の紫陽花が咲き始めています。また台風が来たり、雨が降ったり、突然晴天になったり、まるで私たちの心模様のようでもあります。
そんな時節に、コロナ禍以来初めての一同が会してのサットサンガが開催されたのでした。久しぶりに再会する仲間も多く、それぞれが再会を素直に歓び合いました。
 
コロナ禍以前は、毎月サットサンガが開催されていた、あの同じ会場の同じ部屋。皆で師がお座りになっていたムートンを囲み、まず礼拝が捧げられ、少しの瞑想を行ない、会が始まりました。師のお席の横には、清楚な水色と薄ピンクの紫陽花が可憐に生けられ、会場の大きな窓からは梅雨の晴れ間の明るい青空と、大きな木の爽やかな緑が広がっています。師はいつも晴れ男さんなのでした。
かつて師が毎年NYにご布教に行かれていたご不在中も、弟子たちはいつも皆で師のムートンを囲んでサットサンガを続けてきました。今、実際に師の肉体とお会いすることは叶わないのかもしれませんが、それでも弟子たちがやっていくことは同じです。
 
今回のサットサンガの詳しい内容は、WEBパラマハンサにて掲載されますが、印象的だったことをお伝えさせていただきます。それは誰もの中に、確実に師の教えが生きている、ということです。師がお姿をお隠しになられた今、それが余計に際立ち、師の教えが燦然と輝いて見えました。一人一人が師の教えと存在を身に纏い、これから自分たちの足で歩いていく、ということを確認し合ったかけがえのない時間でした。

師は肉体を離れられてもなお導かれていて、その導きは永遠です。肉体には限りがあり人は誰もが死にますが、肉体が無くなってもその存在が無くなるわけではないことを師はずっと教えてくださってきました。弟子たちが話したことは、この度のことは弟子に与えられた最大の教えだというふうに受け止めていることや、ラーマクリシュナの直弟子たちは師のご入滅後、厳しい修行を行ない、その後献身奉仕へと身を投じたけれど、その生き様に現代の私たちはどう倣うべきなのか。そのためには、これからヨーガ行者として一人一人が、より具体的に行動、実践していく必要があるという話もありました。
師の存在と教えを多くの人に伝えていくためには、本当にみんなそれぞれの力が必要で、それぞれが出来ることを活動していくこと、そのお手本として遠く離れた台湾の仲間たちが積極的に活動している話も出ました。

また一人の先輩が話されたことも印象的でした。
「一人一人が味わってきた歓び、それを行為を通して、身近なところで真実をお伝えすること、日常の当たり前の生活の中で本当に純粋なものは伝わっていく。ヨーガは実践あるのみ、と師は何度も仰ってきた。地道な作業だからこそ、独りよがりにならないよう行為するためにも、時折、弟子のサットサンガなどの場は貴重。学びを深めて今まで以上に師と共に活動していく。みんなの思いは一つ。どのように形として伝承していくか」

「ヨーガというものを自らが信じて、周りの方々にちょっと言ってあげたり、話したりすることで、その方が心が楽になったなぁと思ってもらえたらいい、ただ純粋な行為をしていけたらいいと思う」

思いやりと優しさ溢れる中で会は進行されていきました。泣いている者もたくさんいましたが、次第にその涙はあたたかい涙に変わっていきました。きっと、もう十分に、みんな思いはある。その思いをこれからは、より素直に、大胆に行為していく、すべて行為に転換していけるはず。そんな勇気と力を、師がみんなに与えてくださっているように感じました。

皆が少しずつ思いを話した後、サットサンガの最後に素晴らしいサプライズが待ち受けていました。
・・・なんと四名の方がこの日、師からの法名を授かりました。師は生前、法名をご準備されていたのでした。なんということでしょう。法名は、師の直筆で、それはそれは美しい、愛おしい師の字で記されていました。清らかな散華のように皆からの清々しい拍手喝采が沸き起こりました。こんな演出、一体誰が想像するでしょう。師の、神の、なんという粋な計らい。私たちのことをずっとずっと変わらず見守り、手を取り、足を取り導いてくださっていることを強く感じました。悲しみだけで決して途方に暮れないように、すべてを導いてくださっている、肉体は無くなっても、存在は永遠だと。
そして皆で師へのストートラムを奉納しました。空間すべてに、皆の美しく、清らかで尊い思いが満ち満ちていきました。今日は偶然か必然か新月。そういえば、先日ある仲間が話していました、ここからが船出だと。新月の日は、新しいスタートを切るにふさわしいと師も仰っていた吉祥なこの日、皆で決意を新たにし、師からの祝福が与えられたことを感じる機会となりました。
「これからが楽しみやなぁ!」と師の声が聞こえてくるようです。

師のムートンを囲み、弟子たちが半円形で座っているサットサンガの写真

 

ナリニー


『あるヨギの自叙伝』〜ヨーガーナンダとスリ・ユクテスワの出会い〜

パラマハンサ・ヨーガーナンダの『あるヨギの自叙伝』を初めて読んだときに一番印象に残った章が、第十章のヨーガーナンダが師であるスリ・ユクテスワにめぐり会う場面です。以下、要約してご紹介させていただきます。

高等学校の課程を修了したヨーガーナンダは、霊的訓練を受けるためにベレナスの僧院で生活していました。僧院と合わず苦悩に打ちひしがれていた頃、偶然出かけた市場の狭い小路の外れに、黄褐色の僧衣をまとったキリストのような男が立っているのを見かけました。その顔は一目見ただけで昔からよく知っている顔のように思われましたが、誰かと間違っていると疑い、通り過ぎて離れました。すると10分ほど行くと足が重たくなり動けなくなり、戻ると足は軽くなり、再び離れようとするとまた足は重くなりました。先ほどの聖者が磁力で自分を引き寄せているのだ!と考えて、飛ぶように小路に引き返しました。その人影はまだそこに静かに立ったまま、じっと自分の方を見つめていました。急いで駆け寄り、その足もとにひざまずきました。「グルデーヴァ(尊い先生)!」その神々しい顔は、これまで何百回となく幻に見た顔でした。「おお、わが子よ、とうとう来たか!」師は、この言葉をベンガル語で何度もくり返しました。その声は喜びに震えていました。「何と長い年月、お前の来るのを待ったことだろう!」あとはもう言葉の必要はありませんでした。沈黙のうちに、二人の心は溶け合ったのでした。

なんという運命的な出会い!文章から情景が思い浮かび、師と弟子が出会い喜び合う姿に理由もなく惹かれました。いつでも本を開いてこの場面を読むと、感動して胸が高鳴り震えます。この大好きな場面を、想像して絵に描きました。

サルヴァーニー


旬の野菜を食べてサットヴァになる

今年の春は、心身の不調を訴える患者さんが多く来院されました。

フルタイムで働きながら子育てされている患者さんは、仕事も子育ても精一杯頑張っているのにうまくいかない状態が続き、無力感に苛まれているようでした。
多忙だと食生活が乱れがちかも、と思い尋ねてみると、簡単に調理ができる市販のものを利用することが多く、食べても満足できずに間食の量も増えているとのこと。
ちょうど春の野菜が次々と旬を迎えている時期だったため、旬の野菜を頂くことで身体も元気になることを話し、子供は大人以上に素材のおいしさを敏感に感じ取ることがあるから、お子さんのためにも、1種類でもいいから、素材を生かしたシンプルな味付けで食べてみたらいいかも、と提案しました。

翌日その患者さんから、メールが届きました。
その後帰り道に一つ野菜を買って帰り、蒸して食卓に並べたら、お子さんたちがおいしい!と言いながらたくさん食べたそうです。
子供は野菜だけだと食べないだろうと思っていたのに、旬が分かるのかな?とびっくりした、明日もやってみます、と書いてありました。

旬の野菜はサットヴァ(清浄)な性質を持ち、生命力に満ち溢れています。
その命を頂くことで、私たちの心身もサットヴァになり、満たされる。

現在、その患者さんは以前より表情が明るくなりました。多忙な生活に変わりはないけれど、少しずつでも旬の野菜を食事に取り入れるのを意識するようになったそうです。

近所には農家さんが多く、採れたての野菜が手に入るのでありがたいです。

    ハルシャニー  

 


7月スタート!! 瞑想入門 Part2 4回コース <京都・大阪>

【瞑想入門 Part2 4回コース】を京都・大阪で7月からスタートします!!
このコースのテーマは、「心と世界の理を学び、瞑想する」です。(詳しくはこちらから☞「瞑想入門 Part2」


「心と世界の理」を見つけたのは、ブッダであると言われています。
その発見は2500年も前のことですが、この理は普遍的であり、現代においても当てはまります。
時代や国などの環境が変わっても、心・世界を成り立たせている目に見えない仕組みーーその構造や性質、それを今回の瞑想入門コースでは学んでいきたいと思っております。

瞑想の成就者であられたブッダが発見した心と世界の理を学ぶことで、外的なものに対して心は惑わされなくなり、瞑想は一段とやりやすくなってきます!
森や洞窟に籠らずとも、この忙しい現代社会で瞑想に集中できる秘訣となります!!
初心者の方から学べる内容となっておりますし、少しでもご興味・ご関心がある方は、ぜひご参加いただけたらと思います。
共に学び、瞑想できることを心より願っております😇🙏

 


「瞑想入門 Part1 4回コース」も6月17日まで開講中です!ご興味・ご関心のある方は、ぜひご参加ください!

ゴーパーラ


聖なる交流は、師からの贈り物

私たちの最愛の師が御入滅されました。こんな時、一体ブログに何を書けばいいというのか。
でも・・・こんな時だからこそ、いつも通りにしないとです。だから今回もいつも通りに、毎回、自分が立ち返って確認すること“タイトルに沿う”に従って、進めたいと思います。このブログのタイトルは『ヨーガを生きる』。サブタイトルは、『ヨーギーたちのダイアリー』です。

*  *  *

お別れのセレモニーの日、日本各地、世界から弟子たちが集まりました。お別れをした後、私は、ヨーガを志しておられる台湾のご夫婦とお会いすることになっていました。ただ、言語のこととデリケートな心境の時に交流するに相応しいお店の雰囲気に心配がありました。
しかし、師の恩寵の下、皆の優しさによって、すぐさま心配は消えていきました。先輩の家で、ニューヨーク、台湾の仲間とみんなで交流することができたからです。皆が辛い心境ではありましたが、お互いがお互いのことを思い合い、それは本当に尊く、美しい時間でした。

書ききれないほど印象的な事がありましたが、今回は台湾の仲間たちに焦点を絞りたいと思います。
その場には、夫婦三組が居合わせていました。新婚夫婦のご主人は、初めて日本のヨーガ仲間と交流されたそうですが、皆の辛さを吹き飛ばすような快活さで、ヨーガへの真剣なピュアな思いを話されました。また、皆のために絶えず通訳までしてくださり、彼の存在そのものと、その素晴らしい献身のおかげで、私たちは大変救われました。印象的だったお話があります。ヨーガを真摯に学びヨーガを生きておられる奥さんは、既に何度か日本に来られていますが、毎回ヨーガの拠点以外のどこにも観光へも行かず、ヨーガを学ぶためだけに日本に滞在されていたそうです。それを知っていたご主人は、本当にそのような滞在の仕方で満たされているのか?と不思議に感じていたそうです。

また、もう一組のご夫婦は、お仕事上ではパートナー、ヨーガでは同志、家では夫婦、という、つまり四六時中一緒におられ、ヨーガへの思いが真剣なあまり、時には衝突などもあると正直に仰いました。それが特に顕著だったのは台湾で開催されたヨーガの展覧会を作り上げる過程だったそうです。いかに真のヨーガを空間に表現するか?という点において、夫婦で幾度も諦めずに話し合いを重ねられたといいます。私はそれを聞き、尊敬しました。はっきりいってその状況は逃げ場がどこにもない。すべての行動を共にしなければならないなかで、衝突が起こっても、そこから逃げずに、ヨーガ的に真剣に真正面から話し合い、その問題をなかったことにはしないと仰っていたからです。ヨーガの教えに沿って自分を隙なく律して、夫婦ともに真摯にヨーガの教えを生きていく、その強い忍耐の精神力と覚悟が伝わってきて圧倒されました。近しい人や家族にはエゴが出やすいと思いますが、そんななかで師の教え、ヨーガを生きて、切磋琢磨されていることを強く感じ、とてもかっこいいと思いました。

その交流の場には、台湾、アメリカ、日本、の三か国語が飛び交っていましたが、全員一致で分かる共通言語がありませんでした。また、言語の通訳はできても、ヨーガを学んでいる年数の違いや教えや言葉の理解度も違います。だから全員でフォローしあいながら、人から人へ時間をかけて丁寧に伝えていくことでしか交流が成立しませんでした。みんなが平等に理解できているか?その一点に神経が集中されていき、一つの熱い塊のようなものの中にいた気が私はします。

台湾でいつも通訳を担っておられる女性は、全体の話を把握されつつも、全てを自分一人では通訳してしまわないで、他の皆にも通訳する機会を分かち合うようにして、見事な調和を保たれていました。時に、彼女が目を真っ赤にしながらも感情を制御して通訳に献身される姿には、なんて優しいんだろう・・・と強烈に胸を打たれました。台湾の仲間の自然な助け合いと、素晴らしい分担に感動しました。相手に応じて、ヨーガの教えや言葉を、瞬時に分かるよう訳し伝えることは簡単なことではありません。何語であっても、聞き、要約し、それを相手に伝える、という作業は、本質を掴んでいないと出来ないと思います。言葉を超えて、彼らの行為から伝わってくるものがたくさんありました。

そして、その陰では、交流を断念して他者のためのご飯作りに専念してくれる人、みんなが交流できるように場を調えて一人で洗い物をしてくれる人もいます。通訳に徹してくれる人、インスパイアに満ちた話をしてくれる人、質問をしてくれる人、相手の話を真摯に聞いてくれる人、静かにお茶を淹れてくれる人・・・皆一人ずつに完璧な役割があるように思えました。すべてが他者のために存在しているようでした。その中の誰か一人でもが欠けていたら、どう考えても物理的に、聖なる交流ができませんでした。師はいつでも私たちを、一人も残さず全員を活かされていると感じました。

その場には、生前の師と会ったことのない人、師から教えのお言葉を直に聞いたことのない人もいて、彼らに、どうしても今、師の教えを、師の尊い行為をそのまま伝えたいとみんなが思って、悲しんでばかりなんていられない状況が与えられていました。師であるヨギさんの教えを分かち合いたい。そうするためには一人では無理で、お互いがお互いのことを思い合わないと出来ない状況でした。これから一体どうしていったらいいのか?その答えがその交流そのものに思えて仕方ありませんでした。

それは、まさに『ヨーガの福音』と『マハーヨーギーの真理のことば』にも載っている師の教えでした。どうしていくか?それは自分たち次第でいくらでも変わる、とその時学びました。

ある人が黄泉の国を見た時のお話です。
一つの館では、大勢の人間が食卓を囲んで、食事をしていて、よく見ると彼らの片腕は椅子の肘掛けに結わえ付けられていて、もう一方の手には長い柄のスプーンがくくり付けられていた。

彼らは目の前のご馳走を食べようとするが、口に運べず、頭に被(かぶ)るやら床に落とすやらで、苛立ち怒りだし、とうとう喧嘩を始める。彼は、これは地獄だと思って次の館に入った。
ここでも多くの人間たちが片手を椅子に、片手に長いスプーンをくくり付けられて食事をするところだった。すると彼らは長いスプーンで相手の口に食べ物を運び、貰った者はお返しをする、という具合で皆満足気に喜んでいた。彼は、ここは天国だと思った。

そう、天国と地獄は人の心の中にあります。あなたが「私」と「私のもの」を突っ張ればそこは地獄になり、「あなた」と「あなたのもの」に自らを捧げるなら天国になるのです。心は迷いやすく間違いを犯すかもしれないが、自らの苦しみを避けるためには他者を苦しめてはならない。自らの幸いを招くためには他者の喜びに奉仕することです。それは愛です。

 その日の交流では、夫婦というキーワードもありましたが、お互いがお互いのことを思えば、そこは天国になる、自分のことを思えば地獄になる、このお話の通りだと実感しました。その時間、師の教えを平等に分かち合うことができたのは、みんながみんなのことを考えて自然に動いていたからでした。誰一人として、自分が自分がという人はそこにいません。尊い師の存在と全く同じである他者のことを考えていた。自分が苦しい時や辛い時にこそ相手を思いやる、そのことを師は私たちに教え、与え続けてくださっている。また、その教えに徹するならば、自分にもできる役割はいくらでもあるのだと教えられました。

優れた能力や技術も何もないけれど人の役に立ちたいと師にお伝えした昔、師はこのように仰いました。

人にはそれぞれの役割がある、そこに優劣はないし同等。ただ役割が違うだけ。だから、やることは心を込めてやっていくということ、それでいい。
何をやるかが重要ではなくて、今やっていることに真心を込めること、たとえ間違えたり失敗したりしても、それでも誠実に純粋にしていく努力を諦めないこと。そこに意識を向け続けることで、いつも事がスムーズに転換します、師の恩寵によって。それを皆の姿から改めて学んだ時間でした。

皆で交流して、新婚夫婦のご主人が最後に言われました。
「彼女がどうして日本に行っても全く観光もせず、それでも十分に心が満たされて帰ってきていたのかが今、よく分かりました!!
私ももう十分に満たされている。もう足りないものがない!!!」

みんなのお弁当を買いにヨーガ・ヴィハーラの前を自転車で通ると、青空の下、師の描かれた看板が生き生きと輝いていました。師が楽しそうに扉にサハスラーラを描かれていた姿を思い出しました!

ジャイ!サットグル!シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ!キ・ジャイ!!!
グルデーヴァ!!!

ナリニー  


ヨギさん、
ヨギさんという方に出会って、私は真実の愛というものがあることを知りました。そしてその愛を、与えて与えて与えて……なんの見返りを求めることなく、純粋に愛し与えられたのがヨギさんでした。
私がアーシュラマに通い始めた頃、ヨギさんの下に集まっていたお弟子さんたちは、まだ数えることができるほどの少人数でしたが、「生きることに真剣に向き合う人たち」であり、私はその姿勢に強く憧れました。そしてその気持ちを引き出してくださったのはヨギさんに他なりません。

5月18日、ヨギさんは私たちの前からお姿をお隠しになられました。その時は突然やってきて、そして過ぎ去りました。

私は、ヨーガをする前からデザインの仕事をしていたこともあって、ミッションのデザインワークスを通してヨギさんから多くの教えをいただきました。それは一度では語りきれません。

でも、今日はその一つであるミニアチュールを描いてきたことについてお話ししてみたいと思います。

ヨギさんからインドのミニアチュール(細密画)のことを教えていただいて『パラマハンサ』の表紙絵を描くようにと勧めていただいてから、これまで50枚以上の絵を描いてきました。
もともとの性質が繊細さにかける私だったから、この絵を描く時だけは、自分は丁寧で繊細な人であると意識を変えて集中し、ヨギさんが大好きだとおっしゃるカングラ派の美しいミニアチュールに近づくようにと願ってきました。

ヨギさんを描く時は、ヨギさんのお姿を思い浮かべ、それは形というよりは空気感というか、ヨギさんの存在を感じるという方が近いと思いますが、そうしてヨギさんに近づき、ヨギさんで心をいっぱいにして描くことで、ようやく、ほんの、ほんの少しヨギさんという方を小さな絵の中に表すことができたのかなと思います。特にヨギさんのお顔や瞳に筆を入れる時には、ヨギさんの愛溢れる、深い眼差しをごく傍で感じ、息を詰めて描きました。しかし一度で納得がいくことはまれであり、毎回、何度も描き直しました。ヨギさんの瞳は、その絵の中心であり、もっとも重要な部分だったからです。

こうして描き終えたミニアチュールは、サットサンガで『パラマハンサ』とともにヨギさんに捧げさせていただきましたが、気に入っていただけるだろうかと、私は毎回ドキドキしながら絵をお渡ししてきたことを思い出します。ヨギさんはそれを、大切なものを扱うかのように優しく手に取られ、慈しむように、じっとご覧になるのが常でした。そして、「いい絵だ」とヨギさんがおっしゃったその時、この絵は完成を迎えるのです。そしてその時、この絵は私が描いたという思いすらも残さず、私の手から離れていくのでした。

 

『Paramahamsa』No.18の表紙

いつも心を真理
あるいは神だけで満たすようにしなさい
Sri Mahayogi Paramahamsa

 

『プラナヴァ・サーラ』の表紙ーー絵を散りばめたデザインはヨギさんのアイデアです

ヨギさんが、yogiのサインと落款とともにTシャツのデザインをしてくださいました 

 

ヨギさんはこれまでずっと、言葉、行為、生き様を通して私たちを真理の道へと導かれてきました。
「こうあらねばならない」というような型にはめるようなことは一切おっしゃらず、おおらかに、ただ私たちの良いところが伸びていくようにと導いてくださっていることを感じてきました。
その方法は弟子一人一人、様々で、まさに対機説法。その根底には愛のみがあり、その祝福は私たちを永遠に導いてくださる、私はそう信じています。

シャチー


『マハーヨーギーの真理のことば』 第七章 食の大切さ

ヨーガでは、悟りへの乗り物であるこの身体を維持するために食事をする、と考えます。 

食材も命であり、食べるとはその命を頂くということ。 
食材に感謝し調理したものを食べると、食べた後も満たされた気持ちが続き、心身が調うと、日常生活における言動も調っていきます。 

 そう分かっていても、仕事が忙しくてつい買ってきたものを食べて済ませてしまうことがありました。 
買ってきたものは味が濃くておいしいと思えず、油っこくて胃腸の調子を崩し、食べても満足感を得られませんでした。そのことで自己嫌悪に陥ってしまい、やるべき事を後回しにしがちに。 
安易に口にした食事が日常生活にも影響を及ぼしていくことを痛感したタイミングで、『マハーヨーギーの真理のことば』の第7章のページを開きました。 

古きに渡って培われた東洋の精進料理は、 
まず真理を求めることを念頭に置いて、 
修行者の体と心を調える役割を担っている。 
修行が深まり、身口意が不動となり、真理の一片なりとも悟るなら、 
何を着ようが何を食べようが構わないのだ。 
もはや彼あるいは彼女は何ものにも影響されないから。 
しかしその境地に至るまでは、 
真理の正しい教えと同様、正しい食生活にも留意しなければならない。 


第七章の冒頭に書かれているこの教えを読んで、目が覚めたような感覚でした。
 

私は真理を求めて生きると決めた。 
真理を実現するために、いつでもこの体を道具として最大限に使えるように調えておく必要がある。 
それには真理の教えを学ぶことと同じくらい、それに基づいた正しい食生活が不可欠である。 

身口意が不動となり、真理の一片でも悟り得るまではそれを徹底する! 

この章を読むことで、ようやくその覚悟が決まりました。 

 

 ハルシャニー  


さまらさの台所 Youtube 始まりました!

2023年5月から、毎月2回、24節気に合わせて旬の食材を使った料理の作り方を動画で紹介します。旬の食材をいただくことは、その時期を過ごす私たちにとって最も適しています。大自然の恵を一身に受け、それぞれの季節を生き抜く食物たち。それらが成長し、いちばん生き生きと輝くとき、その生命力は私たちの身体の中で滋養となってしっかりと働いてくれます。
動画を見れば、誰でも簡単に作ることができると思います。ぜひ作って、食べて、その美味しさを感じてください!
チャンネル登録、いいね、もよろしくお願いします。

サティヤー


「夢ーー應作如是観」台湾展覧会報告

4/14〜23まで、台北市内で「夢ーー應作如是観」と題したヨーガの展覧会が開催されました! 
昨年発刊された台湾華語版『ヨーガの福音』をより多くの方に知っていただきたいと、この企画を立ち上げられたそうです。私はその期間中の4月21日,22日とサットサンガとバクティ・サンガムを行なわせていただくことになり、約4年ぶりに台湾に行かせていただきました。

ヨーガの展覧会ってどんなもの?? 皆様、イメージできますでしょうか? 

私自身、それまで何度か企画内容をお聞きしてきましたが、実は当日その場所に足を運ぶまでは、全くイメージが湧きませんでした。しかし会場に入った瞬間、その美しくて静謐なプラーナと、みんなのヨーガや師に対する大いなる情熱を感じて、とても感動しました。今回は、簡単ですが、展覧会の様子を写真を中心にご報告させていただきます。

会場は「カルマの法則」「死の衝撃」「瞑想の森」など、ヨーガの教えごとに6つのブースに分かれていて、それぞれのブースでヨーガの教えに触れ、またそれらについて考えながら、実際に瞑想なども体験することができます。あちらこちらに散りばめられたヨーガの教えやエッセンスを、視覚的にも、また感覚的にも捉えることができ、とても美しく、神聖なプラーナ(気)に満ちた、本当に素晴らしい空間となっていました。もちろん私たちの師であるヨギさんや、マハーヨーギー・ミッションの紹介、書籍の販売コーナーなどもあって、さらに詳しく知りたい方は、書籍を手にとって見ることもできます。
展覧会に参加された方からは、「深く考えさせられた」「これまでと違う角度からヨーガを理解できた」「デザインが美しく、説明もわかりやすかった」など、いいご感想がたくさん届いたそうです。

また週末の土日には、アーサナ(ヨーガのポーズ)やキールタン(神と魂を結ぶ愛の歌)のデモンストレーションを見ることができ、会場は多くの人たちで埋め尽くされました!

集中感のあるアーサナに来場者が惹きつけられていくのが肌で感じられます。また最終日のキールタンでは、会場のみんなも一緒に神の御名を熱唱! 熱く一体となった瞬間でした!

また、サットサンガやバクティ・サンガムでも、多くの方にご参加いただきました。

 

10日間のイベントは多くの来場者に恵まれ、大きな歓びを台湾グルバイ(兄弟姉妹弟子)たちに残し、大成功のうちに幕を下ろしました。私は最後の数日だけでしたが、彼らと共に時間を共有させていただくことができ、様々なことを学びました。師のヨーガを多くの人に届けたいという純粋な信仰心と情熱はもちろんのこと、仲間を思いやる優しさ、このイベントを成功させるという気迫、割り当てられた仕事を必ず果たすという責任感の強さ、未知のことや困難さにも立ち向かっていくチャレンジ精神、持ち前の明るさ、などなど、書き始めるとキリがないほどです。

力強く、ひたむきにヨーガの道を歩んでいるグルバイの姿は、言葉を超えて本当に美しく、感動的でした。きっと多くの人は、彼らの真剣で真摯な姿と熱意に胸を打たれたに違いありません。

イベントの成功、本当におめでとうございます!!!
彼らのいちばんの願いである、師の教えが台湾で広まっていくことは、きっと必然の結果として訪れることと思います。今後、ますます師の教えが広がっていきますように!!! そして、今回貴重な機会に参加させていただきまして、本当にありがとうございました。

ミラバイ