つくレポ 〜ビリヤニ〜

久しぶりに暑さが戻った9月初めの日曜日、お昼ご飯に「さまらさの台所」動画クラスにアップされたビリヤニ(スパイスを使ったインド風炊き込みご飯)を作ってみました。

まずは動画のアドバイス通りスパイスをお皿に準備、必要なお野菜やお米なども最初に全て用意して、講師のサティヤーさんになった気分でお野菜を切り始めると、いつも以上に丁寧にお野菜の様子を見ながらカットする私がいました。不思議。。 今までは何気なくお料理していたことに気付くことができました。


下ごしらえがおわり、調理開始です。初めて作って気づいたこと💡

①ビリヤニはお鍋ひとつで出来るので簡単、便利!
②炊いている間は鍋から離れることができるので、暑くないし洗い物も進むのがいい!
③ヨーグルトを入れると一気にインドになる!

などなど。とにかく簡単で面白い。スパイス料理ってハードル高そう、と思っていたけれど、なんでも経験してみることが大事だなと再認識しました。

出来上がり早速試食。美味しい~~!!! 野菜だけとは思えない味わい。何より私が気に入ったのは、口に入れたときにジャガイモがほろっと崩れ甘い味わいがすること。手軽に作れるので日曜日のランチにピッタリです。
そして、ビリヤニを最後に蒸らしている時間に作ったラッシー。私はギリシャヨーグルト(ヨーグルトを水切りする)を作っているので、そこでできたホエー(水切り後に出来る液体)をヨーグルトの代わりに、さらに蜂蜜の代わりに手作り梅酵素シロップを入れてみたのですが、お、美味しい。。 まるでお店で飲むラッシーではないですか!! 口の中に広がるスパイスを最後にさっぱりさせてくれました。


毎日行なうお料理を通じてヨーガに向き合うことは、日常を何気なく過ごしてしまうことなく、目の前の一つ一つの事柄に集中し丁寧に向き合うことにつながる。そんな日常はとても軽やかで楽しい!ということを改めて教えてくださった「さまらさ動画クラス」でした。
これからも楽しみにしています!!

ターリカー


『ヨーガ・スートラ』写経

『ヨーガ・スートラ』ーーその名が示す通りヨーガの経典です。
私はこの夏、その写経をしました👳‍♀️📝

4章195節から成る『ヨーガ・スートラ』ですが、この写経をしてすぐに感じたのは「学びの一つは書く」ということです。私自身、最近はパソコンで文字を打つことがほとんどでしたが、久しぶりにじっくり書くという行為をしてみると、眠っていた「書いて学ぶ」という感覚が身体の中から蘇ってきて、学びの基本に立ち返ったように感じられました。

また、解説や注釈なしに一節一節を抜き出して書き、それを始めから終わりまで何度も読み返すことで、『ヨーガ・スートラ』の全体像や要の教えが見えてくるような感覚がありました。当然のことなのですが、『ヨーガ・スートラ』は「心の作用の止滅」、これが主題なのだと。つまり、心に執らわれや煩いが一切ない「無執着」、その心の無一物になるにはどうすればいいかについて説かれていると感じました。

「それら(心の作用)の制御は、実践(修行)と無執着とによっておこなわれる」 『ヨーガ・スートラ』1−12 

「見えたり聴こえたりする対象への渇望を棄てた人々のところにやってくる、そして、対象を支配しようと決意する、その結果は、無執着である」 『ヨーガ・スートラ』1−15 

 ーー『ラージャ・ヨーガ』P112、115より引用

私はこれらの『ヨーガ・スートラ』の教えに触れていると、ある覚者の存在が心に浮かびました。それは「ブッダ」です。ブッダは次のような教えを説いています。

「すべての束縛を断ち切り、怖れることなく、執着を超越して、とらわれることのない人、ーーかれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ」 『スッタニパータ』620−621

「熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、ーーこれによって〈バラモン〉となる。これが最上のバラモンの境地である」 『スッタニパータ』654−655

ーー『ブッダの人と思想』P13、15より引用

バラモンとはブラーフマナのことで「清浄無垢な真人」であります(『ヨーガの福音』P44)。清らかで純粋な心の持ち主、まさしく真のブラーフマナであるブッダの説いた無執着や熱心な修行・制御が『ヨーガ・スートラ』の要旨と一致しており、ブッダとヨーギーの同一性が感じられます。

今回の写経を通して私自身、ブッダ・ヨーギーの無執着の心境を目指していこうと気持ちを新たにしています。
写経はやってみると単純に楽しいですし、読むこととはまた違った味わいで経典・聖典に触れることができると思います。大袈裟かもしれませんが、心にブッダやヨーギーの無執着が写されるように感じます。
まだ写経をやっていない方、本当にお勧めします👳📝

ゴーパーラ


現実問題に直面した時こそ・・・

夜になると、秋の虫の声が聞こえてきます。夏真っ盛りだった7月20日に配信されたWEB会報誌『パラマハンサ』の中で、暑さも忘れるほどにドキッとする師のお言葉がありました。それについてしばらく考えていました。

瞑想の成果というか心の変化がどのように現れてきたかというのは、現実問題に直面した時にその姿が見えてきます。そこで動揺を来すようならば、いくら瞑想がうまくできたな、気持ち良かったなと思っていても、全然進んでいない。でも自分にとって何か良くないような知らせがやってきても、動揺もしないでそれを淡々と受け止めることができるならば、あぁ、瞑想の効果があったのだなというふうにも言えますしね。結局のところ瞑想を行なうということは、心の不動性とか、心の持っているカルマや執着やしがらみ、様々なそういうお荷物を取り除くということなのです。だから現実問題に直面した時こそが本当の勝負というか、その時に問われることになります。だからこそ、そういう現実のいろんな出来事に対しては、逃げないでそこに直面をして、克服していく。それに堂々と毅然としていられるようにしていくという、またそれも訓練です。実際的な訓練です」 

自分にとって良くないような知らせがやってきた時、動揺せず淡々と受け止められているか? 
一切動揺しなくなったとは言えない。ただ、逃げることは減ったかもしれない、と思えました。動揺を感じた時、その後に一呼吸の間(ま)みたいなものが訪れ、立ち向かっていこうとする気力が湧き起こるからです。
・・・とはいえ師の恩寵によって、そもそもそんなに大きな良くない知らせ自体がやってきてないからだなぁ~と思いました。とにかく、現実問題に直面した時が勝負・・・。

そういうことを気に留めていた頃、これもまた神の思召しか、人の命に関わる良くない知らせがやってきました。急を要する事や未経験の事柄が続き、加えて様々な人たちとの関係もありました。未熟な私には動揺も起こりました。動揺が起こるということは、心を静めるために自分自身を改善する余地があるということ。克服するには、逃げずに直面すること。
動揺した時には師のお姿が浮かびました。師が人々に丁寧に接しておられるお姿、深々と頭をお下げになるお姿、優しく寄り添うように親身にお話を聞かれる眼差し、何かあればすぐさまパッと動かれるスピード感ある師の動かれ方。他者への愛、優しさ、慈悲、一貫したものが貫かれている師のそのお姿を思うと、自分の動揺は無視して周りの人々のことだけを感じて行為していきたいとそこに集中することができました。

自分自身に意識が向けば動揺が起こりそうになります。でも、自分ではなく周りの人々の平安とか笑顔を願うと、動揺の波はそれ以上の力を持ちませんでした。

 「思いやり、優しい気持ち、平安な気持ちを持てるようになりたいですよね
何よりこの師のお言葉がお守りのように導いてくれました。 

師は、人々が少しでも平安な気持ちでいられることを願っておられるはずだと思えました。
ヨーガをしていくことで周りの人に、いい贈り物がもたらされる」と師はおっしゃってくださったことがあります。

現実問題に直面できる強さを、ヨーガが与えてくれていると確信しました。誰もにとっての本当の自分、真の自己は、不動であるといいます。そこに留まっていられるように、実際的な訓練、これからもがんばろう!と思った夏でした。

マリーゴールド

暑さに負けない花!

 

野口美香 


ヨーガによって辛い記憶から解放される

”サンスカーラ——心の潜在残存印象

サンスカーラを消していくのは真実の智慧だけです。だから実存だけに集中していってください。
サンスカーラは何かに依存しています。心の記憶とプラーナ、そして条件です。条件というのは煩悩、無知のことです。瞑想における真実の智慧は、心の記憶にゼロというサンスカーラを残していきます。
例えば心の記憶というフィルムにたくさんの映像(サンスカーラの記憶)があるとするでしょう。真実の智慧はその映像を消していきます。だからサンスカーラに集中する必要はありません——煩悩と無知から出たものですから。そして積極的な真理への瞑想が深まっていけば、心の中で識別が行なわれます——真理と無知の間で。サンスカーラは無知に依存するものですから、それで消えていくのです。あとは実践です。”

『ヨーガの福音』より

経験は、喜びや悲しみなどの感情と共に記憶として残ります。特に印象が強い記憶は繰り返し思い起こされ、その時の感情を何度も味わうことがあります。

私は、思い起こす度に苦しくなっていた記憶に全く影響を受けなくなった経験があります。
一つは、小、中学生の頃にいじめられていた記憶です。
当時は毎日不安で、特に辛い出来事が起きる度に絶望感に支配されていました。大人になってからも、突然記憶が蘇り辛くなったり、その頃過ごしていた場所に行くと足がすくんだり、いじめた側の人たちを見かけると息苦しくなって体が震えたりしました。
当時暮らしていた地域を離れてからはそうしたことは減りましたが、何かの拍子に思い出しては苦しくなるのを繰り返していました。
ヨーガを始めて、サンスカーラについての教えを知った時、心の記憶にゼロというサンスカーラを残せたら辛い記憶も綺麗さっぱりなくなるんだ、と淡い希望のようなものを感じました。瞑想は難しかったので、まずはアーサナを続けてみようと思い、少しずつでも毎日やるようにしました。
それから2、3年経った頃、当時暮らしていた地域に行ったところ、懐かしさだけを感じました。思い出す度に味わっていた苦しみがなくなっていたのです。おそらく、アーサナの実践によってプラーナ(気)が清浄なものへと調えられ、心身が満たされたことで、記憶に執着する力が働かなくなっていたのではないかと思います。

もう一つは、家族との間で起きた出来事の記憶です。
物心ついてからずっと囚われていて、そのことを考えると動揺するため、向き合う勇気が持てないまま月日が流れていました。しかし昨年、あることを機に何をしていてもそのことが頭から離れない状態になってしまい、向き合う覚悟を決めて識別に挑みました。
向きあうことは思っていた以上に辛くて何度も挫けそうになりましたが、原因は必ず自分の中にある、と、そこに辿り着きたい一心でもがきました。
しばらく経ったある夜。疲れ切った状態で識別瞑想していると、急に思いが噴き出してきました。次から次へと記憶に強く結び付いていた感情が溢れ出し、かつてないほどの負のエネルギーに引き摺られそうになりましたが、抗わずにただそれを見つめることに徹しました。息ができないような苦しさの中、自ずと意識が師へと集中していきました。いつの間にか湧き出ていた感情はすっかりなくなり、心は静かになりました。目を開けると師のお写真がすっと視界に入り込んできて、この上なく平安な気持ちに満たされました。
その後、その頃の出来事や感情を意識して思い出しても、動揺することがなくなりました。記憶として存在はしているけれど、ただ映像を眺めているような感覚になりました。
識別瞑想に挑んでみたものの、あまりに苦しく師にすがるしかないような状態に追い詰められ、自然に師の存在に集中する状態になり、師の純粋さに染められたことで、記憶に絡みついていた感情が消え去ったのだと思います。

「心の記憶にゼロというサンスカーラを残していく」
この「ゼロ」ってすごいなあと興味を持ったのが始まりでしたが、この2つの経験から、ヨーガの実践によって本当にそうなることを実感しました。

ヨーガによって、苦しみの原因を根こそぎ取り除くことができる。
これほど確かで心強いことは他にはないと思います。

鮮やかなオレンジ色のほおずき。毎年8月になると職場である治療院に飾ります。
オレンジ色はサンニャーシン(出家者)が身に付ける糞掃衣(ふんぞうえ)の色として、放棄の象徴とされています。

ハルシャニー


ナーグ・マハーシャヤ

松山でのこと、ヨギさんはある方の質問に対しておっしゃいました、「謙虚さがなければ、ヨーガは進めていくことができません」。

8月21日は、その謙虚な心で知られた、シュリー・ラーマクリシュナの弟子であるナーグ・マハーシャヤ(1846−99年)が誕生された日です。彼の生涯は『謙虚な心』という比較的小さな書籍に記されています。私たちはその本から、ナーグ・マハーシャヤという尊き家住者が、燃え上がるような情熱を持って心の中に謙虚さを築き上げていった、その生涯を知ることができます。 

「謙虚さ」とはどのようなものなのでしょうか。初めてこの本を手にした頃、私は「謙虚さ」という言葉に、静かで穏やかなイメージを持っていました。ですので、この本を読み始めて、驚愕してしまいました。ナーグ・マハーシャヤは、自分の心の中に良くない感情を見つけると、石などで自分の頭を打って血だらけになってしまうのです。そればかりか、自分のために炎天下で働く人々を見ていることができず、屋根修理の職人に対して仕事を止めるように泣き叫んで懇願し、自らを打ち始めます。いったい、これは何なのでしょう、頭を打つのが謙虚さなのでしょうか。それが最初の感想でした。

けれども、少しずつヨーガを学んでいくにつれて、常軌を逸しているように見えるこれらの行為の意味が少しだけ分かってくるようになります。本の中では、ナーグ・マハーシャヤと親交深いギリシュ・バーブがこのように言っています。

「常に打ち続けることで、ナーグ・マハーシャヤは、自我の頭を粉々に砕いた。何を持ってしても、彼の自我の仮面を蘇らせることはできなかった」

つまり、ナーグ・マハーシャヤはあらゆる方法を使って、自分の心から「私」と「私のもの」を破壊し続けていたのです。謙虚な心とは、静かで穏やかな状態なのかもしれません。けれども、その状態に至るためには、こんなにも激しく「私」を打ち砕いていかなければならないのでしょうか。

頭を打つだけではなく、ナーグ・マハーシャヤは積極的に他者に奉仕することによって、心から「私」と「私のもの」を追放します。その奉仕も尋常なものではなく、自分が飢えたり、借金することになってしまっても、当然のように、困っている人々にお金や食べ物を与えました。雨季、雨漏りのないたった一つの部屋に来訪者を泊まらせ、彼と彼の妻は、玄関で瞑想と祈りに一晩を過ごしたといいます。あるいは、やはり雨季に、彼を慕ってやってきたずぶぬれの信者のために、食事の準備に必要な燃料として自宅の棟木を切ってしまうのです。家を破壊する白アリにも愛情を注ぎ、追い出すことなく保護します。いったいどうして、ここまでして彼は、「私」と「私のもの」を破壊し、あるいは謙虚な心を持つことを選んだのでしょう。 

実は、ナーグ・マハーシャヤの献身的な性質は、シュリー・ラーマクリシュナと出会う以前から顕著だったようです。彼は、いつでも困っている人を喜んで助けたといわれています。ただ、それでも彼には大きな悩みがのしかかっていました。神に会いたい! 彼は信仰深い一生を送りたいと願っているのに、妻もいて、仕事もしています。そうした足枷から自由になり、神に会うためだけに生きたい。彼はそう悩んでいたようです。

ですから、ナーグ・マハーシャヤが初めてシュリー・ラーマクリシュナと出会ったときは、もうどんなにか感激して、興奮したことでしょう! 最初の出会いが「彼の興奮した心に献身の炎を燃え上がらせた」と、本には書かれています。そして、そのように燃え上がる心を抱えて、翌週再びシュリー・ラーマクリシュナに会いに出かけたのです! そのとき師は彼に「あなたの霊的な進歩については何一つ恐れることはない。あなたはすでに、非常に高い状態に到達している」とおっしゃいました。その後、彼の放棄の姿勢は、先に書きましたような、通常の人々には理解し難く、常軌を逸していると思われるほど強烈なものとなっていったのです。

「私」と「私のもの」を心から放逐してきたナーグ・マハーシャヤの心には、他者あるいは「あなた」しか残らないのでしょう。そして、シュリー・ラーマクリシュナとの出会いによって、そのあなたは神であり師に他ならないことを知り、そうして万物の中に神を見て、神の召使いとして生きることになったのでしょう。実際に彼は「もし彼が、『なぜ手を合わせているのか』と、尋ねられると、『あらゆる所、そしてすべての存在の中に、イシュタを認めるからです』と答えた」そうです。そのような心のあり様こそ、本当の意味で謙虚さなのだろうと思います。

 

「神はまさに願望成就の木なのです。神は、我々が望んだものは何であれ、与えます。しかし我々は、生死の輪廻へ再び引きずり込むような願望を、欲するままに求めてはなりません。人は、神の神聖な御足に対する揺るがぬ信仰と、神御自身の真の知識をお与え下さい、と主に祈願しなくてはなりません。ただそうすることによってのみ、人は世界の汚らしい枷を逃れ、神の恩寵を通して自由を獲得するのです。世俗的な目的を欲すれば、それに付随する害悪も引き受けなくてはなりません。神の瞑想と、神の信者たちとの霊的な交わりに、ときを捧げる者だけが、災難と惨めさに満ちたこの世界を越えることができるのです」

『謙虚な心――シュリー・ラーマクリシュナの弟子ナーグ・マハーシャヤの生涯』より抜粋

「私」と「私のもの」を放棄し、神だけを求めながら、真理の教えを誠実に守って慎ましく、謙虚に生きていくことができますように。そして、そのために必要な、狂わんばかりの情熱を持つことができますように。

笹沼朋子


ヨーガ・アーサナの力 その3〜プラーナ(気)の充実

ヨーガ・アーサナに対して、私はとっても大きな信頼を寄せています。それには前回お伝えしたように、呼吸が変化していくことで、動揺しっぱなしだった心の反応が変わってきたと感じられたこともあり、さらには「正しい食事とアーサナの実践によってほとんどの病は回復する」と教わっていますが、そのことを実感した経験があったからです。

*それには正しい師の下で学ぶことが大切であり、また場合にもよるといわれます。私自身は軽度の症状でした。

ヨーガを始めた頃は仕事に忙殺され、不規則な生活が続いていたこともあって、(20代後半でしたが)心身ともにあちこち不調のサインが出ていました。婦人科系の疾患もわかって手術するかどうかの瀬戸際という時、師や先輩からも助言を頂き、これまでの生活習慣を変えて、ヨーガに添わせていこうと思い立ちました。食事も玄米や旬の野菜を中心に、豆類、海藻類などバランスの取れたものにし、途中で寝てしまうことが多かったアーサナも、毎日基本プログラム全てを行なえるように励みました。
実践して約半年後、慢性的に感じていた疲労感はなくなり、再度受診したら、すっかり問題がなくなっていて驚きました。食事もしかり、アーサナが細胞やホルモンといった身体の内部から変革させていく力があることを、その時、身をもって感じました。

アーサナやプラーナーヤーマ(呼吸法、調気法)、瞑想によって、呼吸が変化します。それが体中の隅々の細胞にまで影響を与え、身体と心の安定をもたらします。
これらの修練によってプラーナ(気)が蓄積され、睡眠時間も減るほど身心が癒やされます。それは身体の中に通っている、普段ダメージを受けている七万二千本のナーディー(プラーナが流れる管)が浄化されるためなのです。
(『ヨーガの福音』サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ著より)

「気を使う」とよく言いますが、ふだん気=プラーナは仕事や人間関係、様々なことに使われる一方で、ストレス社会といわれる現代では、気疲れも溜まっていき、心身の不調和を感じている人も多いと思います。アーサナは内から浄化を施し、本来の調和のとれた気の状態を取り戻していきます。また、様々な生理機能(呼吸、消化、排泄、生殖など)と関連しているチャクラ(プラーナの集まるセンター、つぼのようなところ)に集中されることによって、自己治癒力が高められるといわれています。
チャクラへの集中は、柔軟性は全く関係がなく、その人ができる範囲で正しい形態をとることで、自動的に集中されます。

ダヌル・アーサナ

ダヌル・アーサナ(弓の形):足先を上に伸ばすことで上半身が起きていく。マニプーラ・チャクラ(臍部)に集中され、消化機能を高める効果がある。また胸を広げることで肺も強化する。(写真:丹波・篠山クラスにて)

師が伝授してくださっているアーサナは、完成ポーズでの力点、視線、またポーズを作る時、戻す時の動作まで、細部にわたって配慮がなされています。それは、師ご自身が体験によって目には見えない微細なプラーナやチャクラというものを実証されているからこそ、考えられたものだと感じます。最初は覚えるのに一所懸命になるかもしれませんが、やがて一連の流れが身体に染み込んでくると、全ての動作は最も自然で、理にかなっていることに気付かされます。

アーサナの実践は、ある意味自分の体を使った実験的なところがあるのではないでしょうか。本当にベストな形が作れているか、例えば手足のこのポジションとこのポジションではどちらがより集中感があるか、この身体の動かし方によってプラーナが逃げないかどうか……。意識して見直してみると、ポイントを押さえてやっていたつもりでも、まだまだ改善の余地があることに気付くこともありました。一見細かな作法もとても重要で、呼吸の深まりと共により内的な集中感、プラーナの充足感へと導かれるものだと感じます。

さて、アーサナを行なった後、食事は2時間くらい空けたほうがよいと推奨されています。それはアーサナによってプラーナが全身に行き渡ってバランスが取られているところが、そこに食べ物が入ると、消化のほうに一気にプラーナが使われてしまうからという理由があります。ずいぶん前のことを打ち明けると、アーサナ後、極力すぐに食事をしてしまったことがあり(しかもガッツリと!)、その時は感覚的に、とっても満ち足りたいい状態だったのが、一気になし崩しになり、乱れてしまったな、もったいないことをしたなというのがよ〜くわかりました(反省)。やっぱりせっかく行なうなら効果を最大限に持続させたいですよね。

広々とした空間での瞑想。皆さん集中されています。

ヨーギーたちは修練によって培った強靭な肉体をもって、プラーナのすべてを瞑想に集中させていったそうです。真実のみを求め、毎日毎日、幾年もかけて―—。
自らの内にしっかりと蓄積させたプラーナは、余計な問題のために浪費したり、欲望的な行為に使うのではなく、瞑想に、内面を磨くために集中させていきたいものですね。そうして、日常の中でいつでも良いプラーナを内側から発散させていけたらと思います。
(つづく)

マードゥリー 


つくレポ 〜完熟トマトとナスのパスタ〜

私はこれまで料理をするという機会はほとんどなく、もっぱら食べ役でした。そんな私が、さまらさの台所(ヨーガの料理)のオンラインクラスを受講させていただいたことを機に、料理にチャレンジしています! 7月のブログ掲載記事「ヨーガの料理 さまらさの台所 動画クラス紹介!」のメニュー:完熟トマトとナスのパスタを何度か作ってみました。このブログは、料理初心者男子がさまらさレシピのパスタを作ってみた!のつくレポになります。

料理をするにあたり、さまらさのクラスで学ばせていただいたことを心がけました。「食材の選び方」「丁寧に調理をすること」「何より楽しんで料理をする!」など、教えていただいたことを心に留めて取り組んでみました。

ステップ1   食材選び!
買い物では新鮮なお野菜を選ぶために、店員さんに尋ねてみました。「新鮮で甘いトマトはどれになりますか?」というように質問すると・・・私には新情報!?トマトの特徴を教えてくださりました。「今は北海道産のトマトが甘くておすすめですよ! また少し時期が進むと南の方の熊本県産のトマトも美味しくなってきますよ」とお聞きしました。そして、沢山並んでいるトマトの中から赤くて一番美味しそうなものはどれだろ〜と食材とにらめっこしながら選びました。ナスを選ぶ時には色鮮やかで軸がしっかりしているものを見分けながら決めました。


ステップ2   いざ調理!
調理する前にもう一度動画を観て確認しながら始めました。食材の量や調味料の分量、火加減などは奥さんに教わりながら料理を進めました。まず食材を切っていく工程では、動画でされているのに倣って見様見真似で切りました。大きめのカットだったので包丁が不慣れな私でも切りやすかったです。それでも、同じ幅間隔で切っているつもりが、だんだん切る幅が小さくなったりもしました。次にお野菜を焼く工程では、ナスの火の通りや焼き加減を見ながら炒めてはいましたが、ちょっと焦げてしまいました(汗)。木べらを使って炒めるのも手の動きが何だかぎこちなく、丁寧にできているだろうかと不安に思う心もありました。それでも気にし過ぎないように気持ちを切り替えて料理を進めました。炒めたナスにトマトを加え、しっかりと煮詰めました。「美味しくできますように・・・」と心を込めながら混ぜてトマトソースが完成です。ここまで料理が仕上がってくると先ほどの弱気がどこにいったのか・・・「僕、料理できるやん!」という気持ちにもなり、嬉しくなってきました。 

ステップ3   盛り付け!
いよいよ盛り付けまでやってきました。最後の工程ということもあって、一番緊張していたように思います。額からは汗を感じ、手の感覚もいつもより硬く張りつめていました。作った料理が美味しく見えるようにゆっくりと丁寧にお皿に盛っていきたいところでしたが、パスタがグチャっとしたり、ぼたっと・・ソースが落ちたりすることもあって心はざわつき状態でした(汗涙)。必死でお皿に盛りつけて最後にバジルの葉っぱを添えて、やっとの思いで完成できました。

ステップ4   いただく!
なんとかパスタが出来上がって少しほっとしました。料理が冷めないうちにいただきます。隣で食べている奥さんの表情も横目で気になりながら一口・・・「うんっ! 美味しいやん」と心の中で一言。自分で作って言うのも何ですが(笑)、初めて作ったにしては良い味に仕上がっていると思いました。そして、食べてくれた奥さんの表情にも笑顔が溢れていて、とても嬉しい気持ちに満たされました。
作ってみたパスタの味付けはトマトの甘さと塩だけでシンプルなのにこんなに美味しくできるんだと、さまらさの料理ってすごいなと感じました。料理ができなかった私が誰かを笑顔にできる料理が作れたことはさまらさの魔法!?・・・いや、それこそがヨーガの精神なんだと思いました。
さまらさの台所のオンラインクラスで講師のシャーンティマイーさんが仰っていたお言葉「料理はうまい、へたではなく、真剣に食材に向き合い活かす。これが大事」ーー誰でもどんな人でも料理ができるということを自分が作ってみて改めて教わったように思いました。

その後も何度か作ってみました。2度目以降は準備を整えることをより意識しました。使う調理道具が必要な時にすぐに取って使えるように置き位置を考えたり、スムーズな料理ができるように準備しておくことで少し手順も良くなりました。気持ちのゆとりが少しできて、より丁寧に美味しくできるように一層の思いを込めて作ることもできました。また、作って食べることを重ねた中で感じたのは、食材そのものの味によって料理自体の味も変わってくることです。特にトマトは少し酸味を含むものなどもありました。じっくり火にかけることで食材の味わいが出てくることも繰り返し作ることでよく分かりました。

料理を作ることを通して今回、行為に対する考え方を学んだ気がします。料理は食材を選ぶところから調理する工程、調理したものをいただくまでの一連の行為の一つ一つがとても大事だと思いました。また、思いを込めて行為することで、料理の味はいかようにも変わることを知りました。さまらさの料理はシンプルで初心者の私にも優しくて作りやすいものでしたが、シンプルだからこそ純粋な気持ちが味に現れるのだと感じました。そして誰かを思い、その人のために、心を注いで料理に向き合うことで喜びや幸せにつながることを実感しています。
男子ごはん、これからも楽しんで続けていきたいと思います!!

金森淳哉


東京のグルバイ(ヨーガ仲間)をご紹介します!

こんにちは。夏真っ盛りですね!
コロナ禍となり二年以上が経ちましたが、東京は人の多さからさまざまな行動が制限される状況が続きました。
MYM東京のクラスや活動も最小限に抑えざるをえなかったのですが、感染者数の増減を考慮しながら少しずつ活動を再会し始めました。
今日はそのような中で、ずっと変わらず真摯にヨーガに取り組まれている中村さんをご紹介させていただきます!
中村さんはご家庭の事情で、以前からクラスなどに参加出来ないことも多かったのですが、最近、クラスでお会いした時にとてもイキイキとされているご様子を拝見して、お話をうかがってみました。

─中村さんは決まった時間にご自宅でアーサナをするのが難しいこともあり、オンラインクラスへの参加が出来ず、お一人でのヨーガの実践が続いていたと思うのですが、どのように過ごしていらっしゃいましたか?

中村さん)
コロナの影響で、京都に行くことはもちろん、クラスにも行けなくなりました。いろいろな予定がなくなって時間がとれるようになり、パラマハンサ(機関誌)を遡って読んだり、瞑想の時間ができたのは良いことでしたが、やはりクラスがお休みなのは寂しいことでした。
やっとスタジオでのクラスが一ヶ月に一度ですが再開して、皆さんとお会いできた時は涙がでました。

─先日、東京のメンバー数人で多摩川にキールタンを歌いに行った時、飛び入り参加されましたよね。すごく嬉しかったです!

中村さん)
河原で歌うのは初体験!キールタンをみんなで歌うのも何年ぶり!花もいっぱい咲いていて夢の中にいるようでした。
ハルモ二ウムや太鼓を持ってきてくださり本格的でした。曲は難しくないものを選んでくださっていたのですが、間違えてばかり。でもそんなことより、こんな楽しくていいのかしら?というくらい楽しくて、嬉しくて、あっという間のひとときでした。
その時歌ったManasa Bhajareはそのあとも口をついででてきてよく歌っています。

─今年の春から、松山クラスと東京クラスの有志メンバーでヨーガの教えの「ヤマ」の実践に取り組んでいますが、そちらにも参加されていかがですか?

中村さん)
シャルミニーさんから「松山の皆さんと一緒にヤマ・ニヤマ(禁戒・勧戒)の勉強会をするので参加しませんか?」とお誘いいただいた時、まず不安になったのはオンラインって、私にできるかしら?ということでした。
コロナが流行ってからインターネットを使うことが増えましたが、私は苦手でした。又、使わなくても済んでいました。ですが、ミッションでもパラマハンサがウェブ配信となり、逃げてばかりもいられないこともわかっていましたし、ヨギさんの「苦手なことこそ、したほうがよいですよ」というお言葉も心に残っていました。
オンラインで初顔合わせの時は私の音声がでず、かなり焦りましたが、その後家族と練習したりして、無事に参加することができました。ほっとしたのと同時に、「わー、遠く離れた皆さんとお会いできてる!」と嬉しくなりました。
コロナの間、ずっと味わえなかったヨーガのお話ができる楽しさ!貴重な一時間となりました。苦手なこともチャレンジだなあと思いました。
グルバイの皆様は、外に出られる時間が限られていたり、ネットの苦手な私をいつも気遣ってくださり感謝しています。今回も大変お世話になっています。ありがとうございます。

─ヤマの一つ目、アヒンサー(非暴力)の実践に取り組まれていかがでしたか?

中村さん)
家族とは仲良くしているつもりでしたが、今回、家族なら多少のことは許してもらえるという甘えから、言葉や態度で傷つけてきたことがだんだん見えてきました。ちょっとした対立から、家族にきつい言い方をしてしまい、それが止められないこともありました。
その思いはどこからくるのか考えたところ、やはり「自分は間違っていない、自分が、自分が…」というエゴそのものだと思いました。
ヨギさんだったらどうなさるだろう。又、相手がヨギさんだったら私はどうするだろう。その光景は目に浮かぶようなのに、実践となると悲しいことになかなかうまくいきません。
それでも、その瞬間にヨギさんを思い浮かべることが一番だと思いました。
そしてその時だけではなく、いつもいつもヨギさんと共にいられるように、と改めて願いました。
頭でわかっていたはずのことも、実践となるとその通りにはいきません。今回、実践したことをオンラインで皆さんとお話するという機会を与えていただいたことで真剣に取り組むことができたと思い、感謝しています。そして、私が初めてヨギさんにお会いした時に、ヨギさんみたいになりたいと願った、憧れの境地へとまた気持ちが繋がりました。
まだ始まったばかりですので、これからも努力を怠らないように精進していきたいと思います。

左手前から2人目が中村さん。大空の下でのびのびとキールタンを歌いました。気分はすっかりガンガーのほとり!? 6/18

同じ師の下で共にヨーガを学ぶ仲間の存在は、なんと心強くありがたいことでしょう!中村さんのお話をうかがいながら、私も勇気をいただきました。そして、どこにいても、どんな時でも常に師の恩寵が降り注いでいることを実感し、喜びでまた胸がいっぱいになりました。
中村さん、本当にありがとうございました!!!これからも、どうぞよろしくお願いします!

シャルミニー


途切れない集中力

花盛りになったヒオウギ

花盛りになったヒオウギ

6月、京都市内へ出かけたお昼時のこと。コロナ禍で外食はやめていたので鴨川の河川敷で一緒に来た相手と横並びで、パンをモグモグモグ・・・。すると「バサッ!!!」二人の間を野球の球(?)が通過し何かに当たったような風圧と衝撃。「何!!」事態を飲み込めず一瞬唖然としました。あれ?でも二人ともどこも痛くない、無事。ん?・・・相手が手に持っていたはずのパンが忽然と姿を消していました。魔法・・・ではなく、正体は鷹。0・1秒くらいの一瞬のうちに、はるか上空から急降下しパンをさらっていくと同時に猛スピードで上昇していったのだと思われます。すべてが瞬間に行なわれた御業だったので人間の私たちには、まるでパンだけが消えた魔法のように見えた華麗な技でした。

ちなみに私はパンを食べ始めた時から、大空で彼らが風に乗る凧のごとく悠々と飛んでいる動きには注力しており首が痛くなるほど上を気にしていました。にもかかわらずです。鷹は、あんなに高い上空で旋回しながらも、実はじわじわと的に狙いを定め集中状態を極めつつ頂点に達した時、今だ!!と勝負に出たのでしょうか・・・見事な一点集中と正確さにシビれました。しかも側面からの攻めではなく、私たち二人の間、ド真ん中の背後からの攻めでした。決してボーっとしていたわけでも静止していたわけでもありません。なのに一ミリたりとも人間の体は傷付けることなくパンだけに的中したことがカッコよすぎました。はるか上空の鷹をポカンと見つめながら、あの集中の塊のような風をしばらく忘れることができませんでした。

7月。京都の祇園祭

7月。京都の祇園祭

そんな衝撃的な(笑)出来事から月日は経ち、今月の瞑想専科クラスのテーマは「ブッダの生き様」でした。講師のヨーガダンダさんがブッダのお話をされ、最初にまず10分程度、皆それぞれにあるブッダのイメージをもとに瞑想しました。その瞑想の後ヨーガダンダさんは、かくも穏やかで柔和なブッダが、どうして大勢の人々を導くという大きな活動をすることができたのでしょうか?と素朴な問いを投げかけてくださいました。そして、覚者や聖者のことを考えていった時、なぜこうなんだろう?と感じる気付きが起これば、そういう時こそ、それは瞑想のポイントになる、そこを深堀りして集中していけば何かしらブッダの心境に迫っていけるものがあるかもしれない、と言われました。「なぜ?」「どうして?」という疑問が大事な気付きになるのか・・・とそのお話は印象に残りました。

その後も、師がブッダに瞑想され一(ひとつ)となられた時のことや、ブッダのエピソード、臨場感に満ちたヨーガダンダさんの様々なお話によって、私たちの胸にブッダの印象がたくさん刻まれていきました。
二回目の30分程度の瞑想の時、次はそれぞれがもつブッダのイメージの、そのどこからでもいいので、とにかく素直にブッダの心境、本質に迫っていける瞑想をしていただければと思います、と言われました。「『この時のブッダの心境はどうだったのだろう?』と考えてみるとか」とヒントも。

今回クラスの前には、『ヨーガの福音』の「真理」の章を読んでおくことになっていました。私はその中の師のお言葉――「彼(ブッダ)の教えの特徴の一つは、『小さな虫も人間もすべては仏性を有した尊い存在であり、一切万物は平等である』というものです」――この一文に心を捉えられていました。もし、本当に虫と人間を全く同じように等しく見て、同一の尊さを見ることができたら・・・「一切万物は平等」という教えを完全に会得できたら・・・これはもう凄いことだな、としみじみ思ったからです。それが私の憧れる境地でもあるからです。
だから二回目の瞑想は、ヨーガダンダさんのアドバイス通り、ブッダのこの教えに素直に瞑想してみようと思いました。すると、あるブッダの姿が浮かんできました。

ブッダの前に一羽の鳩がいます、その後ろには鳩を狙っている大きな鷹がいます。鷹が猛スピードで鳩を追いかけ襲おうとしたその時、ブッダが鳩を助けるために自分の太ももの肉をナイフで切り裂いて鷹にあげました。(※後で調べたところ、このお話はシビ王というブッダの前世の菩薩のお話でした。私はブッダのお話だと思い込んでいたのでした。)私には先月の衝撃的な出来事があったので、すぐさま鷹のあの並外れたハンター能力、瞬発力、集中力が風とともに蘇り、狙われたら絶対に逃れられない!そんな鷹から鳩を助けようとするブッダが無謀だと思ってしまいました。どうしてそんな無謀なことできたのか?どうして自分の肉体を切るなんて痛いことできたのか?私には絶対にできない、できない、したいけどできない、と思えば思うほど、「どうしてブッダにはできたのか?」とそこから離れられなくなっていました。

瞑想とは言えないかもしれませんが、それでもその場面をじっと見ているうちに、ブッダが鳩のことも鷹のことも全く同じに見ているその感じが伝わってきて、ブッダは鳩だけを救おうとしたのじゃない、ブッダは鳩も鷹もみんなを救うことしか考えてなくて、お腹を空かせている鷹に、即座に食べ物をあげられる瞬時の判断がそれだった、と思いました。どうすれば目の前のすべての尊い命が助かるのか、それだけに集中されている、だから自分の太ももを切るのが痛いとか怖いとか、そんなこと一切見てない、目的だけに狙いを定めて一点集中されている、だから犠牲という思いすらない、だからそんなことができた、ブッダの中の凄まじい集中感を感じた気がしました。まるで師だと思いました。

ブッダについて考えていたはずがブッダは師のお姿に変わり、師、ブッダ、鷹、それぞれの途切れない集中感に圧倒されました。ブッダは太ももの肉を切って鳩と鷹を助けたけれど、師は目には見えないだけで全く同じようにご自身の身を削り命あるものを救済されている、師の決して途切れることのない集中によって私たちはどれほど命を生かされているだろうかと、そんな思いでいっぱいになりました。 自分の志、人生の目的、その対象への途切れない集中だけが、不可能と思えることも可能にしてくれる。信仰心も、対象への集中が途切れない状態のことだと思いました。集中が途切れた途端、恐怖や不安や余計なものに惑わされる。

的を射るには、的だけを見なければいけない」と師が仰ったことがあります。自分は何に集中して、何に突き動かされて、何のために行為するのか?
あの鷹のように真実への一点集中で生きていきたいと思いました。ブッダと鷹が教えてくれたことでした。  

神の化身・・・

神の化身・・・

野口美香 


ヨーガの料理 さまらさの台所 動画クラス紹介!

まずは動画をご覧ください。


3月「啓蟄」から始まった動画は、現在「大暑」まで10個の動画が公開されています。次回は暦の上では秋「立秋」。残り14の動画を公開していく予定です。

動画を作りながら、季節が24節気に沿って変化してくことを肌で感じています。例えば4月5日から始まる「清明」の頃には明るい春の日を受けて草木が芽吹き、桜が咲き誇ります。晴れる日が多く大気の中にも新年度にふさわしい清らかさがありました。
続く「穀雨」の頃には文字通り雨が降る日が多くなりました。この頃に降る雨はこれから育つ穀物を潤し育てるという意味があると初めて知り、これまで雨の日の出勤は億劫に思えていましたが、穀物のためだと思うととても愛しく思いました。5月21日から始まる「小満」の頃には、気温が徐々に上がり、自然界にある草木や食物、大気が満ち満ちてくることを感じました。

外側にある世界だけでなく、私自身の体の中に同じように変化があり、外と内が同じであると感じることが増えてきました。季節の移り変わりに沿って自分の体を調えることは至極当然なことだと改めて感じます。その時期に旬を迎える食物を丁寧に調理し、大切に味わうことで自然の中に自分が生きていることを実感していただけると思います。最後に動画でも紹介していますが、これまで紹介してきたメニューを載せておきます。

啓蟄 揚げ出し豆腐とそのアレンジ
春分 新玉ねぎのマリネと小豆ご飯
清明 ふきの信田巻き
穀雨 春野菜の竜田揚げ
立夏 初夏のブランチ(えんどう豆のポタージュ、プレーンオムレツ、春野菜のパスタ)
小満 新じゃがいものアレンジ(ガレット、フライドポテト、スコップコロッケ、味噌煮)
芒種 夏野菜と豆腐のステーキ
夏至 夏の飲み物いろいろ(梅ジュース、ジンジャーエール、甘酒)
小暑 完熟トマトとナスのパスタ
大暑 夏野菜のピザ

https://www.mahayogi.org/samarasa/samarasa2022