ヨーガ・瞑想 オンライン体験コース もうすぐスタート!

生命力溢れる木々の緑が眩しい季節になってきましたね。
さて、今日はゴールデンウィーク明け5月12日(木)から始まる「ヨーガ・瞑想 オンライン体験コース」についてPRさせてください。

初心者の方や久しぶりという方向けのこのコース。全4回でヨーガ・アーサナ(ポーズ)と瞑想の基本を学んでいきます。10程度のアーサナを行ないながら、深く安定した腹式呼吸を習得していくための呼吸法、チャクラ(気の集まるセンター)への集中やプラーナ(気)の充実から得られる効果、瞑想に大切な坐法や集中力の養い方などをお伝えする予定です。

コロナ禍が続く中、クラスへ足を運ぶのを躊躇されている方や、遠方で受講が難しいという方もおられるのではと思い、昨年からオンラインでのコースを企画しました。
前回は、10年ほど前にマハーヨーギー・ミッションのクラスに通っていた方の参加がありました。遠くに引っ越して続けられなくなったけれど、クラスでの体感が印象に残っていて、いつかまたやりたいと思っておられたとのこと。再会も懐かしく、とても嬉しかったです〜。
体験コースを受けた後に、レギュラーのオンラインクラスで継続している方もおられます。アーサナの基礎が身についてきて、よい変化を感じておられるようです。呼吸の深まりは画面越しからでも伝わってきます。

アーサナを続けることによって身体が軽やかに快適になっていくとともに、呼吸の変化に伴って現れる精神面での変化は、誰もにとって大きな贈りものとなると思います。ストレスやダメージを受けにくくなり、さまざまな出来事に反応して湧いてくる怒りやイラ立ち、不安や恐怖、焦りや緊張……といった感情の起伏をおさめていくことができていきます。
心身に調和をもたらすアーサナは、本来の私へと立ち返ろうとするヨーガの道の第一歩。少し踏み出せば、そこには大いなる恩恵と、今をより良く生きるための智慧と力があることが感じられるでしょう。一人でも多くの方にご体験いただけたら!と願っています。

オンラインってけっこう勇気がいるかも?!と思われるかもしれませんが、少人数で行ないますし、見本も見ていただきながら、ゆっくりとムリなく進めていきますので、どうぞご安心くださいね。

図解ヨーガ・アーサナ

「図解ヨーガ・アーサナ基本編」(アーサナのポイント、視線、力点、集中するチャクラが一目でわかる)をもとに、柔軟性に関わらず誰もができる内容を実践していきます。

日時:5/12, 19, 26, 6/2 木曜日 20:00〜21:00 
*最終回6/2は21:30まで
受講料:4回 6,000円(税込)
<各回のテーマ>
1回目:体と呼吸と心を調える 
2回目:自己治癒力を高める 
3回目:集中力を養う 
4回目:瞑想で静けさを味わう

詳しくはこちら

次回は秋に開講予定。今後は瞑想中心の体験コースも企画しています。

マードゥリー 


真理を実現する道〜アーサナ

「ヨーガのアーサナ(体位法)や内容は、すべて生理的にも心理的にも哲学的にも科学のように説明が可能です。いつでも簡単にできます。しかし大事なことは、それらを知的に理解するよりも、体験によって良い変化を身体と心に与えてやることです。悟りとは単に知ること(知識)ではなく、成ること(体得)なのです。これが何千年にもわたる東洋の霊的修行なのです。真理はすでにあなたの中に在ります」——『悟り』より

思い返せば、アーサナの体験によって良い変化を身体と心に、ずっと与えられ続けてきたのだと思います。

七年前、ヨーガへの信頼はすでにありましたが、ヨーガを生きるということに対して、難しいから私には無理なのでは? 何かを失うのではないか? という思いも同時に抱えていました。度々、表面的な心の動揺に心が占められてしまい、苦しくなることがありました。
そのような中、京都でのアーサナのデモンストレーションに参加する機会をいただきました。いつもより自然と集中した中、アーサナを行なっていると、「真理の道とそうでない道」という言葉が浮かんできました。その瞬間、師から伝えられたアーサナは「真理を実現する道」であると直観的に感じました。真理に反する思いがあれば、抗うような力が内にあり、もうすでに私の身体と心は真理の道を歩むためのものに大きく変化させられているということが分かったのです。私自身、本当は真理の道を歩みたいと強く思っていることにも気付かされ、涙が溢れました。

今、私はアーサナを行なうことで心が内向きになり、すでに在る真理に近づいていけることを実感しています。このような具体的な方法を教えられ実践できることは、何と恵まれていることでしょうか。そして、真理の道を歩みたいと心から願うようになりました。それだけが本当の幸せになれる道だと確信しています。
師への感謝を胸に、日々実践を続けて深めていけますように。

師が歩かれた松山の大街道。私にとっては真理の道!

りょうこ


一切万物として顕現しているのだ!!

歓喜の祝祭から数日後の余韻の中、バクティ・サンガムの今期のクラスが先日、最終回を迎えました。祝祭会場でもあったプレーマ・アーシュラマから、講師のお二人がいつものように柔和な笑顔で爽やかにクラスを進められます。後ろに見える祭壇には祝祭で献上されたばかりのアーラティーの灯明のランプとお花とマーラーが掲げられ、師がお座りになっていたお姿を彷彿とさせます・・・いや、その日はそこに、師がおられるように感じたバクティ・サンガムだったのです。

少し時間が遡りますが、私は2004年の師の御聖誕祭の練習の時、キールタンに初めて出会い、インドの讃美歌みたいなものかな~と、うっとりしました。それからは毎年ヨーガ・ヴィハーラに皆で集まってキールタンの練習をする機会も多く、それは楽しい時間でした。みんな真剣そのもので、音程やリズムはもちろん、とても細かいところまで・・・ある意味、子供の頃入団していた少年合唱団よりもこれはスパルタな特訓・・・と実は私は感じていました。そのキールタンの練習の時「目を開けたほうがいい」とよく言われました。キールタンは神へ向けての愛の歌で感情が内に向くせいか、つい目を閉じて歌いたくなります。ですが、当時は御聖誕祭で師へお捧げすることが目的であったり、また外向けのイベントでは観客がいらっしゃることもあったので、自分の内にこもったり感情に浸るのではなく、皆との調和や息を合わせることも大切で、そのためには練習の時から常に目を開け、感じて歌うことに慣れた方がいい、というアドバイスを受けた記憶があります。
本番で最高のものを献上するためには、練習も一回一回ベストを尽くし、まず基本的なことや技術的な面を磨くのは当然で、時には専門的な先生?のような方から発声指導を皆で受けたり・・・とにかく地道な修練に、みんなの凄い熱情を感じていました。毎日の自主練も欠かせませんでした。キールタン練習のことは、今の私の物事への取り組み方の基盤にもなっています。

それで、当時は目を開けるようにしましたが、練習の時は視線のやり場に困る思いもありました。目を閉じた方が、師、神だけと繋がって歌える気持ちがあったからでした。つまり、目を開けて、目で世界を見ていると神を感じられない、と当時の私は思っていたのです。
ちなみに、今のバクティ・サンガムのクラスでは、目を開けても閉じても特に注意を受けることはなく、それぞれの思いのままにさせていただけます(笑)しかもオンラインクラスでは、自分の声は他の人には聞えないので(ミュート設定)音を外したり間違えても恥ずかしくないし人に迷惑も掛かりません(笑)

私は、最近は目を閉じたり開けたり自然に任せていましたが、最終回では、みんなの顔も見たいから今日は目を閉じないゾと決意しました。ただ最終回は、初めての曲で歌詞を見ないとならないから、みんなの顔を見る余裕もないかも?と少し心配しつつ。そして、歌い出しました。すると実は以前に歌った曲で、当時のみんなの歌声がありありと蘇り、その歌声と今がシンクロし、歌が歌を導きました。カーリーやマーという母なる神の御名を讃える詩です。以前も今も、ずーっとみんなでこの歌を途切れることなく歌い続けてきたような至福感に包まれ、気付くとまた目を閉じて歌っていました。その時、ふいに『ラーマクリシュナの福音』で読んだラーマクリシュナからのお言葉が響きました。
目をとじて思うときだけ神がいらっしゃるのだろうか。目をあけて見まわしたときにも、彼はいらっしゃるのではないだろうか
私は目を開けました。パッと咲いたお花のような美しい表情をした、みんなのキラキラした姿。小さな子供みたいに元気いっぱい、ありったけの思いで歓び歌うみんなの生き生きした姿がそこにありました。ここ数ヶ月、思い続けて、封じ込めてきたマーへの自分なりの思いがそこに燦燦と溢れ出し、みんなの顔、みんながそれに見えて、目を開けても閉じても、見えても見えなくても、歌が聞こえても聞こえなくても、やっぱりそこに、ここに・・・と思いました。目を開けて、みんなを見ていると、師のお言葉が波のように、何度も何度も押し寄せました「一なるものが、一切万物として顕現しているのだ」。

至高の真実は名も無く形も無く、ただ存在である。
それだけが真実在であり、真我であり、神と呼ぶものである。
その一なるものが一切万物として顕現しているのだ。
不二の寂静の中、歓喜に遊び戯れなさい
――シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサのお言葉

チューリップ、菜の花、桜

春爛漫

 

 野口美香 


神への明け渡し ––マハリシの教え––

私たちには思いや悩みが尽きないものです。欲しいものがなかなか手に入らなかったり、駄目だと思ってもついやってしまったり、大事な時にオロオロして何もできなかったり、沢山の事で思い悩むものです。それについてバガヴァーン・ラマナ・マハリシはこう言います。

『神の至高の力が全ての物事を動かしているというのに、なぜ我々はその力に身をまかせず、何をどうするべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?
我々は列車が全ての荷物を運んでくれることを知っている。列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭に載せて苦労する必要がどこにあろう。荷物を下ろして安心しなさい』
 

ーー『あるがままに ラマナ・マハルシの教え』より引用ーー

そうです、自分の小さな思いを神に渡して、神の言うことに従えば楽になるのです。なんて簡単なことでしょう!

バガヴァーンは自我を無くすために『私は誰か?』という真我探求を説いたことで有名です。しかしそれはなかなか険しい道なので、彼は多くの信者には探求よりも容易な神への明け渡しを勧めました。しかしこの道も非常に困難な道であるのは確かです。なぜなら頭に載せた荷物のうち少しは降ろせるでしょう、しかし全ての荷物を降ろすとなると、自分の思いの全てを神に委ねるということになるのですから、自分では好き嫌いも、都合の良い悪いも言えなくなるからです。それが全て自然にできるようになって初めて明け渡せた、となるのです。といっても、バガヴァーンは一足飛びにそうしなさいと言っている訳ではありません。彼はその準備として神への瞑想、ジャパ、神の賛歌を歌うなど、神に帰依することなどを信者に勧めました。

彼が住んでいるアルナーチャラ山はプラダクシナという巡礼をするための山でした。巡礼のために人々は山の麓(13.5km)を神の賛歌を歌ったりジャパを唱えたりしながらゆっくりと歩くのだそうです。バガヴァーンはこれをよく信者に勧めました。そしてさらに彼はこう言います。プラダクシナをしているうちに、

『身体は疲れ、感覚器官は力を失い、すべての活力は内面に吸収されます。こうして自己を忘れることが可能となり、瞑想状態に入っていくのです』  

  ーーラマナアシュラム HPより引用ーー

長距離を歩くのですから何度もジャパなどを繰り返すことが必要で、それが自動的にできるくらいやることが大事なのだと思います。さらに大事なことは、本当のサーダナができるのは、体と心がフラフラになってからなのだということです。与えられたサーダナをやり続けること、そしてやってくるタパスを受け入れること。それをやり続けていけば神に本当に帰依することができるはずです、そうすれば神への明け渡せる日は近くなっていることでしょう。

早く頭に載せた荷物を降ろして本当に安心したいものです。

グルダース


大いなる真剣さで実践し、堅固な基礎を持つ

 

〝修習は、長い間、休みなく、大いなる真剣さをもって励まれるならば、
 堅固な基礎を持つものとなる”   
 

『ヨーガ・スートラ』第1章-14 

アーサナ・クラスに通い始めたばかりの頃、『ヨーガ・スートラ』という聖典があることを知りました。読むと、見慣れない言葉が並んでいる中で、この一節がすっと目に入ってきました。 

当時、鍼灸の技術を身に付けるための基礎訓練がうまくいかずに悩んでいたので、惹かれたのだと思います。この言葉の通りにやればしっかりと基礎的な技術が身に付くかもしれない、と、実践してみることにしました。 
諦めそうになったらこの一節を読む、それを繰り返すうちに気付いたのは、長い間休みなく続けることは比較的実践しやすいけれど、真剣さをもつのは、そう簡単ではないということです。元々あった思いをもっと強くして、退路を断つ思いでひたすら練習を続けることで、次第に訓練することが日常生活の一部となり、少しずつ技術を習得していけたように思います。
 

数ヶ月前、ふとしたことをきっかけに、この一節を思い出しました。 
今私はこの一節の通りに実践できているだろうか。アーサナ、瞑想、仕事…長い間休みなく続けてはいるけれど、大いなる真剣さをもって臨めているか? 
「大いなる真剣さ」とは何なのか? 

悟りへの道はカミソリの刃をわたるようなものだと言われますが、「大いなる真剣さ」とは、カミソリの刃の上を渡り切るほどの強い信念を持ち、一分の隙もなく集中し続けることではないかと思い至りました。 

私にとって悟りとは、師です。悟りへの道を歩むということは、師に少しでも近づいていくために一歩一歩進んでいくということ。 

師のように、ただ他者への愛ゆえに、いついかなる時も誰に対しても、優しさを持って行為できるようになるには、私も悟らなければなりません。それがどんなに難しくても、師が私にしてくださっていることを同じように誰かにするためには、悟りを目的地として進むしかないのです。 

そして、私には治療をする上での理想があります。 
師の目で見て、師の耳で聞いて、師の口で語り、師の手で触れる。 
「あなたの中にも真実がある」 
私が関わる全ての人に少しでもそれを感じてもらうために、外側から見える姿形は私であっても、内側は全て師に明け渡して、師のみがおられる状態であり続ける。 

そうなれるように、あらゆる行為に対して「大いなる真剣さ」もって励み、堅固な基礎を積み重ねて、悟りへの憧れをもっともっと高めて向かっていきたいです。 

ハルシャニー


春の祝祭 開催のご報告

桜

京都では桜が満開を迎えています。
プレーマ・アーシュラマのある御室界隈の桜並木も見事に美しく咲いています。

先日4月3日(日)、マハーヨーギー・ミッションの春の祝祭「サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー」がオンラインにて開催されました。

この祝祭は、私たちマハーヨーギー・ミッションの礎となっている、形なき永遠の真理そのものを祝い、それを身をもって現し、古来人々を救済してきた神の化身たちの存在に思いを馳せ、感謝を捧げる機会にしようと、主ブッダの御聖誕日、花祭りの時期に合わせて開催されています。

5回目となる今回、日本各地、そしてニューヨークや台湾から、参加者は総勢110名を超えました。海外の仲間たちとも一緒に同じ時を分かち合えるのは、オンラインならではの歓びです!

さまざまな地域から7名の方の祝辞が献上されました。
目には見えない永遠の真理を、どのように自らの内に実現し、そしてこの世界に対して行為していくのか。また尊く清らかな聖賢たちの存在、生き様によって示されたサナータナ・ダルマとは何なのかーー。
生き生きと語られたメッセージは、それぞれ最高の理想に向かって献身していこうとする強い思いが溢れ、絶えず私たちを真実へと導いてくださっている師や神の化身たちへの敬愛と感謝に満ちていました。それらの言葉は、これまで積み重ねてきた実体験があってこその深みを感じるものでした。

*  *  *

聖劇タイトル

祝辞の他、以前、師の御聖誕祭で奉納された聖劇から、クリシュナ神を信仰する聖者スダーマの物語「一握りの米」がダイジェスト版で配信されました。神へ純粋な愛を捧げることの大切さ、またそれに対し絶大的な歓びをもたらす、量り知れない神の恩寵が表された内容でした。

聖劇

スダーマ(左)とクリシュナ神(右)。幼馴染だった二人が再会に歓喜するシーン。

「サナータナ・ダルマとアーサナ」をテーマに祝辞を述べたニューヨークのサーディヤーは、アーサナを奉納しました。息を呑むほどの集中感、迫力に満ちた彼女の姿は、師から伝承されているアーサナの極意、深遠なる領域があることを物語っていました。

サーディヤー アーサナ

ヨーガダンダ・アーサナ(ヨーガの杖の形)

*  *  *

インスパイア溢れる言葉や仲間たちの姿に魅了されているうちに、あっという間に時間は過ぎていきました。
この日、画面を通して受け取ったものすべては私たちの糧となり、道を進む原動力となっていくことでしょう! この混沌とした変化のやまない世の中において、最も大切なこと、この命をもって生きる核となるものを、私たちは胸の奥に、確かに思い起こすことができたと思います。

シュリー・マハーヨーギー

最後にシュリー・マハーヨーギーからお言葉をいただきました。

「みんなの純粋な信仰と愛に満ちたメッセージの数々、本当にうれしく、また頼もしく感じました。今も、そしてこれからも、益々みんなが聖なる者の輝きに満ちていきますように。いつも、いつも私はあなたと一緒にいます」

ジャイ! サナータナ・ダルマ アヴァターラ
ジャイ! サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ キ ジャイ!!!

 

桜

*献上された祝辞についてはWeb版パラマハンサ(会員専用サイト)にて配信する予定です。
楽しみにお待ちください。

マハーヨーギー・ミッション 


もうすぐ春の祝祭

「ヨーガでいちばん大切なものは何だと思いますか? それはグル(師)です」

ある方がヨーガを始めた時、師シュリー・マハーヨーギーはそうおっしゃられたそうです。

重力の法則が発見されているいないにかかわらず、その法則が地球上で働いているように、永遠の真理「サナータナ・ダルマ」はこの宇宙万物の本質として存在しています。
それは太陽の如く燦然と輝いている存在ーー

しかし、一時的な欲望や快楽によって多くの人々の心は曇り、その永遠の真理を知ることができない。
それが無知と言われるものです。
そのような無知が蔓延る時、真理そのものである「アヴァターラ(神の化身)」たちは顕現し、永遠の真理が存在することを自らの行為でもって人々に知らせてきました。
クリシュナ、キリスト、ブッダ、シュリー・ラーマクリシュナ、ラマナ・マハリシなど、まさにこの世界を照らした太陽のような存在です。
そのアヴァターラたち、すなわち「真正のグル」たちがこの世界に人として顕現したからこそ、私たちは自らの内に真理が在ることを知り、その道を歩むことができるのです。

永遠の真理「サナータナ・ダルマ」とそれが顕現した神の化身「アヴァターラ」に感謝と誓願を捧げるマハーヨーギー・ミッションの春の祝祭ーー「サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー ―神性示現大祭―」が4月3日に開催されます。

2017年から始まった春の祝祭の受付ボード。中央(2017年)、ブッダ(2018年)、ラーマクリシュナ(2019年)

私、クンバメーラー(ヒンドゥの一大祭典)には行ったことはないですが、この祝祭はそれよりもさらにスケールの大きいものだと感じています。
なぜなら、アヴァターラのメーラー(集まり)だからです!!!
そして毎回、その場は歓喜の渦になり、喜びに満ち溢れるのです!!!

昨年に引き続きオンライン開催ですが、アヴァターラたちも参集して祝福してくださると信じています。
この祝祭を発起された師シュリー・マハーヨーギー、並びに歴代のグルの御方々、そしてサナータナ・ダルマに思いを馳せ、その恩恵に浴しましょう!!!

3月30日、京都嵐山の桜は満開です🌸

ゴーパーラ

 


スワーミー・アドブターナンダ

私の理想の聖者は、シュリー・ラーマクリシュナの直弟子で無学でありながら最高の叡知を悟り、「シュリー・ラーマクリシュナの最大の奇跡」と言われたスワーミー・アドブターナンダ(ラトゥ)です。

彼は幼くして孤児となりましたが、シュリー・ラーマクリシュナにお会いすることで人生が一変しました。ラトゥは疑うことを知らない純真さで師の教えを忠実に守り、心の清らかさを保つようひたむきに努力し続けました。文字の読み書きは全くできず、聖典も読めなかったのですが、夜は一睡もすることなく瞑想を深め、神の御名を繰り返し唱える修行を熱心に行い、神に憧れ、神のために泣き、肉体の快不快に心を乱されなくなっていきました。

ラトゥの心にあるのは神だけでした。ラトゥに出会った人々は彼の独特の言葉に驚き、その清らかさに感化されました。たとえ多くの聖典を読まなくても、豊かな霊的叡智は内的な悟りから生まれることを彼が教えてくださっています。

 「心の性質は神の御名を唱えることによって変えることができる。次第に欲望と疑いは消える」

後年のラトゥ・マハーラージの言葉で、私の大好きな教えです。どうかラトゥ・マハーラージのように一心に神を求め、神の御名の深遠さに触れ、心が神だけになりますように。

 ※『スワミ・アドブターナンダ―教えと回想―』を参考にしました。

アーナンディー 


悟りを頭で難しく考えない

沈丁花

沈丁花。ふわりと届く春の香り

3月21日は春分の日ですね。昼と夜の長さがほぼ同じになり大気のプラーナ(気)が整い、私たちもその恩恵を受けヨーガの修練も行ないやすくなるといいます。また、春分の日は、自然を称え、生物を慈しむ日だそうです。
電信柱の上にある雀の巣に、代替わりした新しい雀たちがやってきたようで、朝からチュンチュンチュンチュン・・・と可愛らしい声が聞こえてきます。私がよく通る道にはたくさんの街路樹があり、中でも多いのが桜の木。枝先の花芽が日に日に膨らんでくる様子がよく見えます。

バス停までの道すがら、その桜の枝を見て、もうすぐ春だなぁ~とホッとして嬉しくてスキップぎみで歩いていました。すると、やけにきれいさっぱりと明るい場所があり、あれ?こんなんやったかな?と立ち止まりました。下に目を落とすと、地面ギリギリに大きな切り株が幾つか残されていて、大きな木々がすべて伐採されたことに気がつきました。
でも木は、そんな姿になっても、じっと沈黙を守っているように見えました。この世界に次々と出来事が起こっても、いつも木々が同じようにただ在ることに私は安心を感じてきました。季節が巡り、鳥が歌い、虫が蠢き、木は葉を付けたり落としたりしながらも静かに佇み、変化する中にあっても一定の同じで在る何か、たった一つの絶対的なものが続いているということを教えてくれます。それがどれほど尊いものか……。切り株を見ていると、幹が無くなっても、やっぱり木は、あなたは同じだ、と思えました。姿、形が無くなっても無くならない、ずっと在る、と木が無言で教えてくれた気がしました。子供たちや生き物にはどんぐりを、鳥たちや虫たちには住処を、また真夏の暑い日には木陰を提供し、時々そこで腰かけて休憩しているおばあさんもいました。一本の木の存在に、どれほど私たちは恩恵を受けてきただろう、ありがとう!と思いました。

そんなことを考えながらバス停に着き、乗車した市バスの窓から景色をボーっと眺めていると、一軒のお家の庭に、赤と白の見事な梅がぱぁ―っと咲き誇っているのが目に飛び込んできました。あまりにも元気いっぱいに咲く力強さに圧倒され、その生命の力に感動しました。次はお葬式をする会館があり、前には黒光りした長い霊柩車が停まっています。こんなうららかな春を予感させる日にも・・・当然ながら死も生も同じようにあると思いました。すると今度は、保育園のまだ2歳か3歳くらいの子供たちがぞろぞろと先生に連れられて、子供同士で手をつなぎ合いながら、おぼつかない歩き方でニコニコ「バチュ(バス)バチュ~」と無邪気に手を振ってきます。思わず満面の笑みになりました。そしてバスが終点の駅に到着すると、少し離れた所に総合病院の送迎車が来ていて、大勢のおじいさんおばあさんたちが、ぞろぞろと送迎車に乗り込んでいくのが見えました。バスの窓を通して、自然の営みという一つの映画でも見たような気分でした。

水仙

春風に可憐にゆれる水仙

バスを降り歩きながら、これが自然の様相なんだと思いました。季節は止まることなく進み、そして世界も変化し、生まれる命があって、成長する命の育みがあり、死にゆく命もある。すべてが神の顕れ。どれも本当に同じなんだなと思いました。

最近、悲惨な出来事を目にしてから、胸の奥で騒めきが静まらないことを自覚していました。でも、そうやって感情的になることで、それで私は正しい判断や何かより良いことができるのか?と歩きながら自分に問いました。感情が際立ってしまったら肝心なものを見失ってしまう、平常心でいられない時こそ平常心で、と自然の様相を通してなぜかその時、思いました。そして万物の背後にある見えざる存在を思い、そうだ木のように不動でありたいと思いました。

師から教えていただいたことがあります。
悟りとは不安や苦悩の無い安心。平安な満ち足りたムードが壊れないようにすれば、それが悟りとも言える。だから悟りを頭で難しく考えないように

常に安らぎにあり、常に同じである存在は他者にも安心を与えることができる。木のように。
いつか師が仰っていた、ヨーガとは真人間になることーー正直で、人に優しく、慈悲深く
それこそが悟りにある人の姿であり、私にとって単純に人間としての理想です。
私たちは人間として生まれました。だから、誰もが真の人間、真人間になれると思います。正直で、人に優しく、慈悲深く。

木蓮のつぼみ

春を待つ木蓮のつぼみ。触るとふっくらフワフワしていました。

 

 野口美香 


真理を愛す

バクティ・ヨーガは「感情も五感も全てを愛する神に向け、愛そのものである神との合一を果たす」と表現されていて、ヨーガを学び始めた頃、私はこの強烈なイメージに漠然とした憧れを持っていました。何となく魅力的だなとしか思えなかったのは、瞑想の対象は神というよりも真我や真理の方が集中しやすく、神に瞑想するということがどういうことか私にはピンとこなかったからです。
もう何年も前のことになりますが、それまで誰かを好きになるとか愛するという感情に縁なく(興味なく?)生きてきて、グルバイ(仲間)が嬉しそうに「ヨギさん(私たちの師)の夢を見た」と話しているのを羨ましく思い、「あぁ、私にはバクティがないのだろうか」と不安が募り、勢い余ってヨギさんに尋ねたことがありました。この時、ヨギさんは何も仰らずに、静かに微笑んでいらっしゃるだけでした。何か答えてくださるものと期待していた私は拍子抜けして、それ以上尋ねることもできないまま、もやもやした思いが心の隅に残ったのです。
その後の数年間はキールタンを歌う機会やバクティ・サンガムに参加することで、少しずつ神に触れ学ぶ時間も持てましたが、結局それ以外の時間は神を忘れることが多くて、その存在を身近に感じるという実感はあまり持てなかったように思います。

けれど少し前からバクティ・ヨーガへの憧れが次第に強くなってきたのです。ちょうど瞑想専科のバクティ・ヨーガ編が始まり、この講座で多くの仲間と学べたことは大きな支えとなりました。日常生活で神を忘れることはしょっちゅうでしたが、そのたびに思い出すの繰り返しです。課題の聖典とともに、大好きな本である『悟り』の中のバクティ・ヨーガに関する記述も何度も読み返したりしていました。そうしていくうちに自然に神を思う時間も増えていき、いつの間にか、自分にはバクティがないのでは、という思いは消えていました。そして『悟り』の中のある箇所が目に飛び込んできました。

「クリシュナという神の化身を普遍の神に置き換えてもよろしい。アートマンでもいい。またブラフマン、真理に置き換えることも可能です」

そうか、神を愛するとは真理を愛することでもあるのだ、それならすごく分かる。今まで何回も読んでいたはずだったのに、初めて目にしたような言葉でした。
かつて質問をした時に、ヨギさんが答えてくださらなかった理由が今なら分かります。言葉で説明されたなら、きっとそれに執らわれてしまっていたでしょう。
それよりも、「バクティは既に、その胸の奥にあるよ」と伝えてくださっていると感じます。

祭壇のヨギさん。 私もいつも笑顔でいたいと思います。

マイトリー