「働く」歓びをリスに学ぶ ~『ラーマーヤナ』より

ヨーガを学んでいると、ある時突然、ヨーガの教えが胸の中をサァーッと明るく照らしてくれることがあります。

昨年のバクティ・サンガムで「神への愛でハートが満たされた時、すべての行為は歓びとなる」というテーマで、聖典『ラーマーヤナ』が取り上げられたことがありました。『ラーマーヤナ』は、神の化身ラーマ王子が悪魔に連れ去られた王妃シータを取り戻すという物語ですが、ラーマとシータへの愛ゆえに力戦奮闘する猿神ハヌマーンは、西遊記の孫悟空のモデルともいわれ、ご存知の方もおられるのではないでしょうか。

『ラーマーヤナ』は本を読んで少し知っていたのですが、私はこの日のクラスで、物語の一場面に登場する小さなリスにインスパイアされました!
ラーマ王子が悪魔の住むランカ島へ渡る場面──。たくさんの生きものや水に住む怪物までもが、ラーマのために喜んで橋を作り始めました。そこへ小さなリスがやって来て、ラーマに「私に何かお手伝いすることはありませんか?」と尋ねました。そこでラーマは、リスに体に砂をつけて、それを石と石の間に落として橋をつなぎとめる仕事を頼みました。リスたちは喜んで一生懸命働きました。

(橋を作っている場面。楽しそうに働く生き物たちとラーマ) Made in Kangra,1850

私は、以前から「いつも神や師の道具となって働けますように!」と願っていたのですが、時々「こんなちっぽけな私に一体何ができるのだろう…。神の道具になるなんて、そんな大それたことが本当にできるのだろうか……」と、弱気になってしまうことがあったのです。
それがこのお話を聞いた時、「あぁ、このリスのようにただ素直にラーマ(神)に“私に何かお手伝いできることはありますか?”とお尋ねするだけでよかったんだ! そうすれば、神は私にできるぴったりの仕事を与えてくださる。いや、もう与えてくださっているはずだ!」と思いました。と同時に、“私”に何ができるのだろう……と考えること自体が“エゴ”であることに気が付きました。

純粋な愛の前ではエゴは消え去り、神への愛でハートが満たされた時、すべての行為は歓びとなる! それに気付いた瞬間、私の胸は歓びでいっぱいになり、涙が溢れました。

それ以降、心の中で「私に何かお手伝いできることはありますか?」と神に尋ねるようにしました。そして、自分の目の前にあることや起こることを小さなことであったとしても、神の大きな仕事の大切な一つとして愛をもって誠実に行為するよう、今まで以上に意識するようにしました。そうしているうちに、最近では不思議と以前のように弱気になることがなくなりました。そして、日常生活の中で「働く(行為する)」ことに歓びを感じることが自然に増え、心がまた少し軽やかになったような気がしています。

これからもリスの純粋さと素直さを忘れず、いつかハヌマーンのように神の道具として力強く勇敢に、海や山をひとっ飛びすることができますように!!!

シャルミニー


大根おろしに医者いらず

「鬼は外!福は内!」

2月3日は節分です。節分の頃は季節の変わり目で、邪気(鬼)が生まれる時期と言われています。一説には鬼が目に見えない病気や災いをもたらしていると言われ、豆(魔を滅する=豆)をまき、邪気払いをしていたそうです。

現代の邪気といえば・・コロナウイルス!! 蔓延してもう2年になります。手洗い、うがい、免疫を高めるためにも規則正しい生活、もちろんアーサナや瞑想、できることはやっているけれど、これだけ流行っていたら、もう何をしていいのやら・・・そんな風に思ってしまう今日この頃。そこで、邪気を払うためにも食生活の知恵をひとつお伝えしたいと思います。

 「大根どきの医者いらず」


 このことわざをご存知でしたか!?これは、体の調子を整える大根の収穫時期がやってくると、みんなそれを食べるので、健康になり、医者がいらなくなるということわざです。大根の旬は冬、そう今の時期です!

冬といえば、風邪やインフルエンザなど疾患にかかりやすい時期でもあります。それらを予防する力があるとは!?旬の野菜には、その時期に必要な栄養素がしっかりと含まれているのですね。

今回、特にお勧めしたい食べ方が、「大根おろし」

なぜなら大根には元々栄養素が多いですが、すりおろすことで生まれる成分もあるのです。また、生で食べることにより、栄養素を直接取り入れられるからです。

大根おろしに含まれるアミラーゼは消化を高める働きがあり、胃液の分泌を促進し、胃を健康に保ちます。食物繊維が豊富で腸内の老廃物を体外に出す働きもあります。大根おろしが胃腸薬のような働きをしてくれるのです。

ビタミンCが多いのも大根の特徴で、特に皮の部分に多く含まれます。ビタミンCは免疫機能を高め、風邪予防に効果的です。ビタミンCは水に溶けやすいため、茹でると栄養素が流出してしまいます。そのため、生で食べることをお勧めします。

また大根をすりおろす事で発生する辛味成分には、殺菌効果があり、胃液の分泌を促進し、胃がんや胃潰瘍に対する抗菌作用もあります。

「大根どきの医者いらず」ならぬ、「大根おろしに医者いらず」かもしれませんね。

胃腸を整え、免疫力を高め、風邪の予防になる。もちろんコロナに直接効果があるかは分かりませんが、免疫力を高めることは、一つの予防策となるでしょう。

そして体調を整えることは心の安定にも繋がります。

大根は、どこでも買うことができる身近な野菜です。ぜひ皮ごとすった大根を食べ、免疫力を高め、冬を乗り越えていきましょう。春はすぐそこに来ています!

MYMさまらさ


アーサナへの姿勢

アーサナ(ヨーガのポーズ)は身体の柔軟性を競うものではなく呼吸の深まりと安定をもたらし、その影響を受けて心も強く穏やかな状態に変化します。今回のブログは、愛媛県松山市で熱心にヨーガを実践されている大森みさとさんのアーサナについての記事です。彼女のアーサナの真摯な取り組みによる呼吸と心の変化が紹介されています!


2年と少し前、ヨーガを学び始めた頃の私は、あまりアーサナを重要視していませんでした(!)。クラスに通い、自宅でもしていましたが、なんせその頃の私はヨーガに巡り合えた喜びで無敵のイケイケ状態だったため、この情熱さえあればオールオッケー!!と言わんばかりに舞い上がっており、アーサナは2の次3の次のような気持ちでいたように思います。
ちょうどその頃、師がNYへご布教のために約3か月渡米されることになり、幸運にも10日間ほど滞在を共にさせていただく機会に恵まれました。滞在中に私は、「アーサナは何呼吸すればいいですか?」と師にお尋ねしました。それに対する師のお答えは、

「20呼吸。」

頭が真っ白になりました。その時の私にとって20呼吸は未知の回数で、果てしなく長いように感じられたからです。に…20呼吸…この先毎回20呼吸……
私は抵抗する心のままにアーサナから逃げました。でもずっとそうしているわけにはいかないし、嫌だという思いがあることは自分に必要なことなのでは…とも感じていたので、日本に帰ってしばらくしてから腹をくくってアーサナに取り組むことにしたのです。
(※反るポーズなど、アーサナによっては20呼吸していないものもあります。また、ひとりひとりの体調や状況があるため、誰にとっても20呼吸が必要ということではないと思います。)

初めはアーサナが終わらないかのように長く感じられました。しかし、毎日続けるうちに、気が付くと20呼吸のアーサナが日常の一部になっていました。
それまでの私は、クラスではポーズが苦しくなると、「いつ解除の声がかかるんだろう」といった雑念がよく湧いていましたし、自宅でも、何となく辛くなったら保持をやめるというやり方だったので、自分に都合のいい範囲内で取り組んでいたと思います。でも20呼吸すると決めてからは、積極的にアーサナに向かっていく感覚が生まれ、それまで感じたことの無かった肉体や呼吸の苦しさに直面しても、呼吸が終わるまではじっと耐えるという状況が自然と出来上がっていました。師の教えがなければ、自分を追い込むこともなく、そこでの苦痛に耐えるということもできなかったと思います。

マッチェーンドラ・アーサナ(ねじる形)

私はこの教えをきっかけにアーサナに向き合うようになり、今、アーサナに対する姿勢の大切さを感じています。自分の意志で積極的にすること、ごまかさず誠実に行うこと、苦しくても忍耐すること、ひとつひとつきちんと終わらせることを特に心がけているのですが、どれもそっくりそのまま日常生活でも大事なことだと気が付いたからです。これらの心がけがやがて自分の性質になり、自然と日常の中にも表れるようになるよう、これからも日々実践を続けていきます!

ブジャンガ・アーサナ(コブラの形)

大森みさと


熱心に神を求める 〜瞑想専科バクティ・ヨーガ編を受講して〜

昨年10月から12月まで、瞑想専科バクティ・ヨーガ編が開講されました。毎回欠かさず参加されていた、和歌山在住の中島さんがご感想を寄せてくださいましたので、ご紹介します。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 第1回目から、講師のミラバイさんの「バクティ・ヨーガで大切なことは、熱心に神を求めること!」という力強い言葉に刺激を受けて、やる気満々でスタートした3カ月。
私は、『ラーマクリシュナの福音』を毎日読むという課題や毎回の宿題に加えて、神の御名を唱える・常に神を想う(忘れていると気付いたらすぐに思い出す)ことから実践し始めました。 

3カ月の実践中、強く感じたのはオンラインクラスの素晴らしさです。
毎回、宿題や聖典を読んだ感想を発表する方の純粋な想いをダイレクトに受け取り、一緒に泣いたり笑ったりするうちに一体感が生まれ、皆で意欲を高め合うことができました。そして、画面に映る皆さんがキラキラと輝き出し、そこから伝わるサットヴァなプラーナに包まれて、クラスが終わる頃には充電完了! 次のクラスまで実践を続ける大きな力となりました。

また、講師のお二人の熱意あふれる講義は、ご自身の体験談などを交えた分かりやすい内容で具体的な実践への足掛かりとなり、バクティ・ヨーガの教えに対する理解も深まりました。それでも理解の深まりとは裏腹に、すぐに神から離れる心に振り回され、その状況を打破する糸口がなかなか見つかりませんでした。しかし5回目の講座は、それまでの「実践」のとらえ方や、自分の生き方を見直す大きなきっかけとなりました。

この時に紹介された、師への純粋な愛と信仰心だけを拠り所に、快楽的な生活を送る大酒飲みから神の思し召しのままに生きる聖者へと生まれ変わった、ラーマクリシュナの信者ギリシュの真っ直ぐでひたむきな生き方は、強く私の心を打ちました。そして「思し召しのままというのは、”私には何もできない”という消極的なものではなく、とても積極的な生き方。人としての本来の生き方だと感じる」というミラバイさんの言葉にも衝撃を受けた私は、自分の生き方を振り返り、自分がまだ神だけを求めて生きているとはいえないことに気付いたのです。

そこから私はまず、日常の出来事に心が執らわれる暇のないくらいに、絶え間なく神を求めることを目指しました。そして、家事をしながらキールタンを唱え、バターを見たらクリシュナを、雨が降ったらシヴァを思い、神から心が離れても「心を見ない!」というアドヴァイスを思い出してはすっぱりと切り替えて、とにかく心と身体を目いっぱい使って全身で実践し続けました。

そして、受講を終える頃には、聖典を味わえるようになったり、いろんな気付きがあったりと、参加して良かったと思いましたが、肝心なバクティの深まりはほとんど感じることがありませんでした。しかし、日々の小さな積み重ねは、自分でも気付かないところで心に変化をもたらしていました。ふとした瞬間に、胸の奥から理由のない歓びが溢れ出し、その源に神の存在を感じるようになってきたのです。

聖典の中でラーマクリシュナは、どんなにつたなくても信念を持って熱心に求め続けていれば、神は必ず応えてくださるとおっしゃっています。純粋なる歓喜ともいわれる神。この歓びの先に純粋なる歓喜、神がおられるという直感を手掛かりに、これからも毎日熱心に神を求め続けたいと思います。


~オンラインクラスを通して大きな力を下さった講師のお二人とクラスメイトの皆さん、
そして師のお導きに感謝しています~

中島尚子

 


スワーミー・ブラフマーナンダ 御聖誕日

「マハーラージはシュリー・ラーマクリシュナの霊の息子であり、生きた権化でもあられるのだ。彼からお慈悲と祝福を頂いたら、それは師から直接来たものだと思ってよろしい。このことを固く信ぜよ」
    ーースワーミー・プレーマーナンダ

「これ(捧げ物)をマハーラージに献げることはシュリー・ラーマクリシュナに献げるのとまったく同様の善事である」
    ーースワーミー・ラーマクリシュナナンダ

「神は愛だ。マハーラージは神を悟っておられる。それだから、彼は愛に満ちておられるのだ」
    ーースワーミー・スボダーナンダ

「彼は王者に値する鋭い知性を持っている。彼が望みさえしたなら一国を治めることもできただろう」
    ーーシュリー・ラーマクリシュナ

兄弟弟子から師シュリー・ラーマクリシュナと同じ存在として尊敬され、彼らのラージャ(王)であったマハーラージこと、スワーミー・ブラフマーナンダ。

彼は生まれながらにして純粋な魂であり、師シュリー・ラーマクリシュナと出会い、その神性は瞬く間に開花し、サマーディを体験した。
師亡き後、ブラフマーナンダは苦行に身を投じるが、従者のスボダーナンダは、師の恩寵によってサマーディを体験してもなお厳しい修行を続ける彼を見て、「なぜまだ、乞食のように座って主の恩寵を乞わなければならないのですか」と問う。
ブラフマーナンダは次のように答えた。

「師はわれわれのためにあらゆることをして下さった。しかしなお、私は内に欠けたものを感じるのだ。このことは、われわれがサマーディの状態を自分にとって自然な、そして日常のものとするには、修行をくり返さなければいけない、ということを示している。知っての通りウッダヴァはシュリー・クリシュナの献身的な弟子であり友でもあり、彼の恩寵によって神を悟ったのだ。それでもなお、シュリー・クリシュナは彼をヒマラヤ山中に送り、独居と黙想の生活をさせたではないか」

彼は8年間の修行の末、サマーディを自然のものとし、その後はラーマクリシュナ・ミッションの初代僧院長となり、人類への奉仕にその生涯を捧げた。

1月21日はブラフマーナンダの御聖誕日ーー
その大いなる存在と、修行者としての直向(ルビ:ひたむ)きな姿勢に思いを馳せたい。

ゴーパーラ


ヨーギーから伝わる人生の「虎の巻」

京都、長岡京ヨーガクラスの新年のスタートは、112日でした。
会場の神足ふれあい町家の風情ある大きな格子窓からは、天から降りそそぐ真っ白な雪がしんしんと舞い降りてくるのが見えていました。照明が落とされた和室からは、その雪景色が絵画のように浮かび上がっていました。

長岡京ヨーガ・瞑想クラス

この日は、約150年前のインドに聖者スワミ・ヴィヴェーカーナンダがお生まれになった日であり、講師のマードゥリーさんがこの吉祥な日にクラスが行なわれることへ感謝の思いを話されました。

かつてヴィヴェーカーナンダが師の御仕事を担われて、インドの叡智を世界へ向けて伝えていかれた。その恩恵があって、今私たちが学んでいるヨーガがある。
それを聞き私は、このヨーガは実際に生きていた聖者が精魂込めて人へ伝えられたその結晶なのだと初めて意識し、それを今教わっている不思議さを思い、講師の方々、そして師に、感謝しました。

受講者たちはみんなとってもいい笑顔で、凍える外の寒さがまるで嘘のように、部屋の中は穏やかでアットホーム。あぁ、きっとヴィヴェーカーナンダも喜ばれている、彼の師であるラーマクリシュナの存在、そして私たちの師であるヨギさんの笑顔が自然と浮かび、白い雪は祝福の散華のように見え、胸の奥から込み上げるものがありました。

長岡京ヨーガ・瞑想クラス

真っすぐ背筋が伸びたみんなの後ろ姿が凛としていました。アーサナを真剣に行なう清々しい姿がありました。
受講者同士でワイワイと会話をされるようなことはないですが、いつも自然で、さりげない気遣いと優しさをそれぞれに感じ、こういうのすごくいいなぁ~と私は行くたびに思います。みんなの背景は何も知りませんが、ただヨーガで繋がっている妙な安心感があります。それぞれの思いでヨーガを拠り所にされていることを感じ、ずっと続けて通われていることを尊敬します。クラス中に質問なども特にされていないようですが(私が知らないだけかもしれませんが)みんなどうしてこのヨーガを続けられているのかな~とふと思ったことがあります。一つのことを続けるのは、結構大変だからです。

長岡京ヨーガ・瞑想クラス

クラスの最後に今年の干支である虎にまつわるお話が紹介されました。
古代のヨーガ行者たちは、虎の皮を敷物にして瞑想をしていたそうです(ヨーガ行者は決して生き物を傷付けないので、自然死した虎の皮です)。百獣の王とも呼ばれる虎の上にヨーガ行者が座っている意味は、すべてを支配するという象徴的な意味もあるとか。ヨーギーは何ものにも執らわれない、自由を私は感じました。
また、虎は千里行って千里帰る、というように、一日で千里もの距離を走り戻るような威力があり、修行者をその背に乗せて、悟りの境地へ連れて行ってくれる乗り物でもある。そして「虎の巻」といえば、由来は秘伝が書かれたもの、奥義の秘伝書という意味合いを持つそうです。まさにこのヨーガも秘伝ですね、今年もヨーガの智慧、秘儀を一緒に学んでいきましょう、とマードゥリーさんは結ばれました。

私は、みんながヨーガを続けているのは、答えはヨーガが秘伝だから、と腑に落ちました。ヨーガはまさに私たちにとって生き方の秘伝書。秘伝は、それを知った者だけに分かるもの。これは体験した人にしか分からないものがあります。ちなみに私は、クラスへ行く行かないとでは全く違う!と最初の頃から毎回同じことを思います。今はオンラインでも様々なクラスがあるので、参加しやすいと思います。

虎にあやかって、今年も私たちが積極的にヨーガの道を全力疾走できますように。虎の背に乗せてもらえますように!

 

 野口美香 


ヨーガは喜びへの道

ヨーガ・サーラ・スタジオではクラス後、自然に参加者の皆さんと円になってヨーガの話で盛り上がることがあります。皆さん、お互いをよく知っていて、ヨーガの実践についても相談しやすい環境です。最近は京都のオンラインでのバクティ瞑想専科で教わったことや「常に神の御名を唱える」についての話題が多く、誰かの実践がまた別の誰かを鼓舞するという情熱の輪が広がっています。こんな嬉しい話もありました。一人の方が「いつも自転車でクラスに来る時キールタンを歌っているけど、あれ?こんなに楽しくていいのかなって思ったんです」と。楽しくていいに決まってます! ヨーガは喜びへの道です! その朗らかな笑顔は日々の地道な実践の積み重ねによって心が変容してきたことを物語っています。

月曜の朝のクラスのみなさん

さて、昨年久々にクラスに復活してくださった子育て中の女性から新年の抱負が届きました。

・クラスに通うようになって、心も体も穏やかになっていくのを日々実感しています。わんぱく盛りの双子の男の子を育てていると、まだまだ心が巻き込まれてしまうこともあるのですが、そんな時は、ハートの奥に問いかけてこれは真理なのかどうか、徹底的に分析していきたいです。今年もクラスでアーナンディーさんやヨーガを学ぶ先輩たちにお会いできるのをとても楽しみにしてます。

さらにバクティ(信愛)・ヨーガを深めているお二人からも!

・神の御名をとなえて同時にあなたを愛することができますようにと祈ること。富、名声、および快適な生活のようなかりそめのものに対する執着が日に日に少なくなりますように、と祈ること。神が喜ばれるよう行為すること。

 ・周囲の人々に喜びと笑いをもたらすよう、お話ができる人になりたいです。そして、常に神を想い、神の御名に神を見ることができるようになりたいです。

師はおっしゃいます。「自分の中に尊い存在があるということを信じてください。神は雲の上にいるのでも、宇宙の果てにいるのでもない。あなたの胸の中にいます。それが誰もの本質です。そのことを知らないから、人々はみな苦しんでいるのです」と。「尊い存在が胸の中にある」、この言葉に胸の内側から力が湧いて瑞々しい喜びに包まれます。一人でも多くの人がこの真実を知ることが、周りの人の平安につながっていくと信じています。なぜなら「尊い存在が胸の中にある」と知ると心は満たされ、動じなくなり、その影響を受けた周りの人の心も穏やかになるからです。どうか真の喜びが広がっていきますように。

2021年最後の瞑想会の様子。みんなと座ると「長時間座れる」と好評です。

アーナンディー


新年のご挨拶 2022年

皆さま、明けましておめでとうございます!
 
今年のお正月は厳しい寒さとなりましたが、それぞれの場所で気持ちを新たに新年を迎えられたことと思います。
 
元日の朝焼けの中の富士山

 

私は今年の抱負を「一つの物事に対して粘り強く取り組むこと」に決めました。
 
先月のブログに書きましたが、神の道具として使っていただけるようになるために、今私がやるべきことだと思ったからです。
神に自分を明け渡して委ねるという信念をもとに、目の前のことに丁寧に向き合い、じっくり考え、行為する。
そうやって繰り返し行なう中で、少しでも自分の理想に近づいていけるよう、より一層強い覚悟を持って生きていきたいと思います。

 

今年の正月花はいろいろな種類の菊を選びました。
季節を問わず見かける菊ですが、冬の菊からは凛とした強さを感じます。

 

2022年も、このブログ「ヨーガを生きる」が少しでも皆さまのお役に立てる場となれば幸いです。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

ハルシャニー


2021年 締め括りのご挨拶

今年も残すところあと3日ですね。
寒さも厳しいですが、皆様はこの年末をいかがお過ごしでしょうか?

京都御室 プレーマ・アーシュラマからの景色。薄っすらと雪化粧❄️

2021年は、マハーヨーギー・アーシュラマ開設45周年の記念すべき年でした。
しかしながらこの1年もコロナ禍が続き、サットサンガ(真理の集い)ができない厳しく苦しい状況でした。
そんな中、4月に春の祝祭・11月に師の御聖誕祭がオンラインで開催され、弟子一同、国や地域を越えて師シュリー・マーハーヨーギーの御前に集い、この記念すべき年の祝福と歓びを分かち合うことができました。
スクリーンに映し出された師の不動で柔和なお姿と発せられたお言葉、またそこで語られた弟子たちの力強い真理への誓願がこの1年、私たちのハートの灯火を絶やすことなく燃やし続けた大きな力となりました。

また発刊から24年の機関紙『パラマハンサ』は今年5月に紙媒体からWEBに変わり、スマホがあればどこでも真理の教えにアクセスできるものとなりました。

コロナ禍で気軽に人と会えない状況も重なり、インターネットが私たちの生活のツールとしてさらに普及し、時代の変化をより感じる年でもありました。
しかし時代や状況は変われど、変わらないものーー
それがサナータナ・ダルマ(永遠の真理)であり、アヴァターラ(神の化身)の存在です。
そして、それそのものであるグル(師)の存在は、私たちの生きる希望であり、歓びであります!!
45年の長きに渡り、どんな時もヨーギーとして在り続け、私たちをいつも陰ながら支え導いてくださっている師シュリー・マハーヨーギーに、この場を借りて改めて心より感謝を申し上げます。

そして来年も、私たちはどんな状況下でも決して諦めることなくヨーガを弛まず励んでいきたい次第であります!

最後になりましたが、今年1年ブログをお読みいただいた皆さま、本当にありがとうございました。
今年はなかなか会うことができない遠方のグルバイの声を届けることや、ブログ数を多く発信することを心掛けて行なっていきました。
来年は新しい企画やテーマなどを考えていますので、どうか来年もブログ「ヨーガを生きる」をお読みいただけたら幸いです。
それでは皆さま、どうか良いお年をお迎えください。

ジャイ!!!

ゴーパーラ


神の道具になるために必要なこと

 

”わたしは、自分が特別な資質を持っているとは思いません。

わたしはこの仕事に対して、何も要求していません。

これは神のみ業なのです。

わたしは、ただ神の手の中の小さな鉛筆に過ぎません、

ほんとうに、ただそれだけです。

神がお考えになります。

神がお書きになります。わたしという鉛筆は、それに対して何もすることはありません。

鉛筆は、だた使っていただくことを、

許されているだけなのですから。”

※『マザー・テレサ 日々のことば』 女子パウロ会

 

私は以前からこの言葉が好きで、一切の私というものをなくして、神の手の中の小さな鉛筆になりたい、小さな道具として神に使って頂けるようになりたいと思っていました。しかし、マザー・テレサがどのような思いでこの言葉をおっしゃったのかを、きちんと考えたことがありませんでした。

今回、改めて考えてみると、マザー・テレサがおっしゃる、”小さな”とは、謙虚さを表しており、”ただ神の手の中の小さな鉛筆に過ぎません、ほんとうにただそれだけです” という境地には、謙虚さを徹底することが必須なのではないか、と感じました。

その上で、いついかなる時も神に全てを委ねる、覚悟を決めること。

そこには自分の思いなど微塵もない。
ただの道具として神に使って頂くというのは、あらゆる局面で、神に完全に自分を明け渡して委ね続けるということなのではないかと思いました。
この信念のもと、強い覚悟がなければ、使って頂ける道具にはなれない。

では、マザー・テレサはどれほどの覚悟を持ってただ使われる鉛筆になったのか。
今の私にはその大きさ、強さは計り知れないものに感じられます。
ただ、マザー・テレサに憧れる思いはこれまで以上に大きくなりました。もっともっと近づいていきたいと思いました。

苦しんでいる人がいたら手を差し伸べ寄り添う。お腹を空かせている人には食べ物を、愛に飢えている人には愛を与える。

マザー・テレサが目の前の人々に行為され続けたように、私も目の前にいる人に対して一つでも行為し続けていきたいと思います。

*写真:一時期、事あるごとに眺めていた写真です

ハルシャニー