マザーに憧れて

キールタンの中に、Bhajamana Ma(バジャマナ・マー)という曲があります。

おお 心よ 母を讃えよ 
母よ 母よ 母よ 母よ 
歓喜に溢れる母よ 至福に満ちている母よ 
至福の姿をとられた母よ

この曲を歌っていたある時、ラーマクリシュナはマーのことをこの曲のように思われていたのではないかなと思うことがありました。そして、今はこの曲を歌うと、自然とサーラダ・デーヴィーのことを思います。

バクティ・サンガムでサーラダ・デーヴィーのことを教えていただいてから、その存在にとても惹かれ、二冊の書籍を購入しました。ラーマクリシュナの聖なる妻であられたサーラダ・デーヴィーは、師の弟子や信者から愛情と尊敬を込めてホーリー・マザー(聖母)と呼ばれておられました。私も密かに「マザー」とお呼びしています。そして、ラーマクリシュナご自身もサーラダ・デーヴィーの汚れのない純粋さを確信され、聖なる母として正式に礼拝を捧げられたことも記されていました。

マザーがどれほど強い信仰をお持ちだったか。どれほど深く大きな愛をお持ちだったか。私には到底計り知ることはできません。けれど、私はマザーにとても憧れます。ラーマクリシュナもお認めになられたような存在でありながら、マザーは生涯変わらず慎ましやかであられました。ラーマクリシュナの男性の弟子が増えてお側に仕えるようになった頃、彼らの前に出られないほどはにかみ屋で控え目であられたマザーは、ニ、三十メートル程のところにお住まいになりながら、ラーマクリシュナにお会いできない日が時には二カ月も続きました。マザーはラーマクリシュナにお会いしたい気持ちを堪え、ポーチの仕切りの小さな穴の後ろにたたずみ、ラーマクリシュナの歌声に耳を澄ませられました。そうして何時間も立ちっぱなしになられたためにリューマチを患われたこともありました。

また、ラーマクリシュナを愛し、常に拠り所にしておられました。どのような状況にあっても師の教えに誠実であられました。そしてマザーは教えてくださっています。

”平安を望むのなら、誰の欠点も探らないことです。
自分の欠点を調べなさい。
世界を自分のものとすることを身に付けなさい。
子供よ、誰ひとり他人はいません。
全世界があなたのものです”

日常でその教えを思い起こすと私の中の高慢な思いはすぐさま力を失います。ヨギさんは、マザーのことを「泥池に咲く蓮の花のような人」とおっしゃったそうです。
今いる場所で、マザーを見倣い、熱心に実践を続けたいと思います。

いつでもマザーを思うことができますように。
携帯の待ち受け画面もマザーのお写真にしています。

藤原里美  


一歩一歩

私は今の職場に勤めだして三年目になりますが、忙しさといい人間関係といい、今までに経験がないような過酷な環境に感じました。
 働き始めてすぐの頃、ヨギさんが特別サットサンガで松山にきてくださいました。私は、仕事の辛さをご相談させていただいたのですが、ヨギさんはなぜか満面の笑みで「頑張ってね!」とおっしゃいました。こんなに辛いのに、なぜヨギさんは笑顔で頑張れとおっしゃるんだろう?と思いましたが、きっとこれは仕事を通してヨ―ガの実践の場を与えてくださったのだ!と思うようになり、そこからは何が何でも頑張ろう!と心に決めました。

 それから今もずっと心がけていることは、全ての人の本質は神であると信じること、目の前で何が起きても、現象だから執らわれないこと、自分は神の道具なのだから、一切の自己主張(エゴ主張)は捨てて、役割に徹すること、どんな仕事も神に捧げる物として誠実にベストを尽くすこと。と、目標は立派なのですが、失敗ばかりです。

 でも、失敗しても失敗してもトライし続けていたら、どんどん目の前の景色が変わっていって、小言ばかり言う先輩だと思っていた人がフォローしてくれたり、誰とも挨拶を交わさないと思っていた人が挨拶を返してくれたり、怒った顔しか見なかった人が微笑んでくれたり、あれ?こんなんだったっけ?と思うことが増えていきました。やはり全ては現象なんだなぁ!と実感しています。

 今も、毎朝起きたらヨギさんのお写真にお祈りをしてから家を出て、自転車を漕ぎながら「全ては神の表れ、私の命も神様に生かされている。神様の思し召しだけがある。どうかヨギさんの教えを生きる弟子であれますように」と、唱え続けています。

 ヨギさんが灯してくださる光に向かって、一歩一歩、歩んでいきたいです。

通勤途中の松山城のお堀にいる白鳥です。
白鳥を見てはヨギさんを思っています。

小野稚小(おのちさ)


プラティヤーハーラ

師の教えが書かれた「ヨーガの福音」を通勤電車で読んでいました。プラティヤーハーラについて書かれていました。一心に読み進めてふと目を車窓に向けると見慣れない風景が。電車、乗り過ごしていました。車内では確かに駅名がアナウンスされ、私の耳はそれを捕らえていたはずです。しかしその情報は意識に伝わりませんでした。好きなことに夢中になって他のことが目や耳に入らないのはよく経験することですが、これはプラティヤーハーラなのかと疑問がわきました。

五つの感覚器官がすべて外向きに付いていて、
心は常に外部の影響を受けてしまいます。
したがってプラティヤーハーラでは、
ちょうど亀が頭や手足を引っ込めるように、
五つの感覚器官と心を引き込め、制御します。
シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

耳・皮膚・目・舌・鼻などの感覚器官が引き寄せた音・触感・見たもの・味・匂いなどに、心が反応しないように制御する。とらえどころのない「心」の働きを、このように機械的に分解していくヨーガの教えが私はとても好きです。様々な感情に心揺れる時に、「これは感官が捕らえた情報に心が飛びついているだけだ」と思うと気持ちが少し楽になるからです。

私は仕事から帰宅すると夕食前にアーサナをすることに決めています。でもいつもより疲れて帰宅し台所から好みの献立の匂いがすると、心は夕食の方に引き寄せられていきます。聖典の一冊読了に取組んでいても、面白そうな単行本の広告に目移りします。家の隣のコインパーキングで車のエンジン音が続くと「苦情をいうべきか」と心拍数が上がります。職場で職員が深刻そうに電話をしていると、過去のトラブル対応が蘇り不安な気持ちになります。

五感覚器官と意(マナス)は全く無防備で、
いとも簡単に対象に引き寄せられます。
プラティヤーハーラとは「諸感官をその対象から引き戻す」ことであり、
いわば酒飲みが酒に飲まれるがごとく、
感官に服従し対象に隷属化する心を、反対に心が主導権を握り、
感官を支配する構図に切り替える作業です。
シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

私の心は嬉々として餌に飛びつくカエルみたいだ。どうしたら師が教えて下さっているように心が主導権を握ることができるのだろう。師の教えをあてがって考えてみると、心が動く時は必ず過去の経験や記憶に基づいた対象への執着や嫌悪があることが分かりました。心に刻み込まれた様々な印象をヨーガの修行を通して焼き尽くしてしまいたい。でも怒ったり、笑ったり、泣いたり、人生悲喜こもごも。それが人間らしさではないのかな。師はその疑問にも答えを下さいました。

(夏の安曇野で見つけたカエル。ぴょんと飛びついてきました)


「感情がなければ人間ではない」という考え方こそが無知です。
感情というものは心の煩悩から出てくるものです。
修行が深まれば感情は大きな慈悲となります。
それはもはや個人的感情とは呼びません。
そのエゴ的な感情を普遍的な感情にしてください。
シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

移ろいやすい感情を揺るぎない神の愛に昇華させるために、「神が愛である」ことを素直に受け入れ、人生をかけてそれと一体になることだけを求めていきたい。いつどこにいようとも師が無私の愛で私たちを包んでくださっているように、私も献身奉仕のために命を用いることができますように。

(代々木クラスの後に明治神宮に行ってみました。
揺るがぬ心で真っ直ぐに歩んでいけますように)
 

小菅貴仁


あなたの名前を。

クリスマスが近づき、街に流れるラブソング。あなた、君、あの人・・・そんなフレーズに、神なる存在を重ねては、無性に感動します。ヨーガの話から少し逸れますが、昔、名前のない空を見上げて、という歌をよく聞いていた時、名前に含まれている力に気付きました。
♪ 
もしも明日に迷った時は君の名を呼びたい・・・
名前のない星を見つけて 君の名をつけたい 愛しさとともに 
まぶた閉じて眠るときまで君の名を呼びたい
Yes, I always call your name, your beautiful name.

「あなたの美しい名前を呼びたい」という思い、大切な人の名前を呼ぶ、たったそれだけのことが、どれほど心を揺さぶり、奥深くに浸透し、また一瞬で人の心を変えるか。そういうことを感じる歌でした。私の小さな愛でも、思う対象によっては、心の様子や色合いが変わることを体感してきましたが、心の力は強大だからこそ、普遍的な大きな愛や慈悲という正しい力へ昇華できるとヨーガが教えてくれました。

『ラーマクリシュナの福音』の中で、ラーマクリシュナが、インドのラーマーヤナという物語に出てくるハヌマーン(猿の神様)の信念について話される場面があります。ハヌマーンが、自分の愛するラーマ神のために命を懸けて海を飛び越えようとする時のこと。ハヌマーンの信念はこうでした、「私はラーマの召使、私はラーマの聖き御名を唱えた。私にできないことなどがあろうか

ラーマクリシュナは、ハヌマーンが海を飛び越えたのは心の力だった、とおっしゃっています。
私はハヌマーンのこの信念に感動しました。なぜなら私は、自分には全く自信がない、と内心は打ちのめされていたことがあったのですが、でもだからこそ、私の信じる神だけが頼りであり、私を動かしてくださるのはその神なのだと思うようになっていたからです。自分を信じる力の源は、この自分を信じるという思いではなく、神を信じる思いから来ていると確信し、ハヌマーンの心情と重なりました。信仰心、それは心の力を最大限に正しく発揮できる唯一のこと、と思いました。

そんな心境になったのは、クラスで「神の御名」について、よく耳にするようになったからでした。「神の御名を唱える」と聞くと、崇高な別世界の境地に感じ、自分にはまだ関係のない修行法だと実は長らく思ってきました。そんななか具体的な実践を聞きました。例えば朝起きた時から心の中で唱えだす、ごはんの時には忘れていることが多いけれど気付いてまた唱えだすなど。何気ないリアルな声に触れたことで、敷居がぐんと下がって、日常に根付いた身近なものなんだとイメージが一変しました。聞くにつれ、自分のイメージは間違っていたのかもと思えてきて、素直にやってみたくなりました。以前から神へ思いを寄せていましたが、具体的に名前を唱えたことはなかったので、意識して名前を心の中で唱えました。するとそれは、大切な存在と直通できるような、人間ならではのごく自然の思いの寄せ方なんだと気付きました。聖典の中だけの話ではない、現代の私たちにも普通にできることでした。

そんなある日、クラスで聖者・覚者の名前についての師の教えが紹介されました。
現代においても名前が知られているということは、その方の生き方なり、あるいは教えなり、何らかのエピソードを残しているはずです。単なる名前だけで、その中身がないというのはあり得ないと思いますので、名前を唱える、あるいは名前を思うことだけで、その覚者の内容である悟りや教えはそこに含まれます。だから、名前だけでもかまいません

私はとても納得し、完全に神の御名を信頼しました。名前を思うだけで、同時にその本体である印象や凝縮された人格のようなものが生き生きと現れ、一気に自分が染め上げられるように感じていたからです。名前というしっかりした一つの言葉があるおかげか、私の心のスペースを神の存在が埋め尽くし、他のことを考える心のスペースがなくなりました。超満員電車の中で神の御名を唱えると、そこは私と神だけの一対一の空間になり、仕事の合間のわずかな一瞬に唱えると、神は私が名前を呼んでも呼ばなくても実はずっと側におられることに気付き安心感を覚えました。

いつでもどこでも神の名前を呼べば、直通でアクセスできる秘密の通路のようでした。それは恋愛で相手の名前を思うのとは少し違いました。会えない時間に恋愛で人間の相手のことを思う時には、思いがすぐさま相手へ届かない一方通行の感覚があり、そこから私は思いの妄想の世界に入ってしまいがちでした。でも相手が神なる存在の場合には一方通行や妄想になることがありませんでした。神は私を一人にして妄想の世界にいかせるようなことはされず、私を放っておかれることはなく、ずっと私の囁き一つ一つを一つも残さずぜんぶ受け止めてくださっていることを感じたからです。

いちばん近くの存在、最も自分に直結する源、絶対の安心。その安心に気付いてから、すべてのことはあなたの御心のままに、という心境に自然と導かれました。冒頭の歌詞のように、もしも明日に迷う時は君の名を・・・神の名前を、私は呼びました。神が私を動かしてくださっているのなら、私が迷う必要はないからです。私のしたいことは、あなたの御心が成就されることでした。もし、それが私にとっては失敗だとしても、真理から見れば失敗ではありません。

「神の御名は神そのもの」と学んできた言葉が、どうやら本当なのかもしれないと現実味を帯びてきます。名前を思う、その行為によって、思いがどんどん風船みたいに大きく膨らんでいきます。小さかった風船を、慈悲深い神ご自身がいっぱいに満たしてくださっているように感じるのです。私がどんな状態であっても、風船は大きく膨らんでいき、膨らまないことがありません。
そしてその風船が満ち満ちて、いつかはじけて、私という感じも、神という感じもなくなり、あなたの名前だけが残る。それはなんて甘美なことでしょうか。

紅葉

なぜあなたはこんなに美しい姿なのでしょう?

 

 野口美香 


成道会

12月8日はお釈迦様が悟りを啓かれた日、成道会(じょうどうえ)です。
生老病死や八正道の教えなど、日頃頼りにされている方も多いのではないかと思います。2500年の時を超えて伝わるお釈迦様の教えの原点がこの日にあるのかと思うと、しみじみと、お釈迦様が悟られて良かったと思いますし、感謝の想いが溢れてきます。
私はヨーガを知り、師匠のヨギさんとお会いするまで、悟りという言葉の意味をよく知りませんでした。しかし、ヨギさんから、悟りとは瞑想の中で体験する心が完全に静まった境地であり、それは確かにあることを教えて頂きました。約2年前にヨギさんと10日間ニューヨークのケーヴで生活を共にする希有な機会を頂きましたが、これ程までに静寂に包まれた方にはお会いしたことがありませんでした。

ニューヨーク修行の時に師匠に選んで頂いた仏陀像。「これを見ながら瞑想したらいいよ」と教えてもらいました。

この2年間ヨギさんの下でヨーガを学び、アーサナと瞑想を繰り返すことで、私の心も少しずつ静まっているのを感じます。そういった経験を通して、私は今、心が完全に静まった状態というのは存在するだろうと考えています。しかし、そのためには、そこに向かう情熱と努力が必要であり、簡単ではありません。
お釈迦様が悟りを啓かれた時、そこに梵天様が現れ、教えを人々に説くことを勧めたそうです。その後亡くなる最後の最後までインド中を旅し、教えを説き続けました。それが世界中に広がり、時代を超えて私達まで伝わってきているのです。
この教えには反対する者もいたのではないかと思います。執着をなくし、煩悩を消し去れという教えは、煩悩のままに生きる者には疎ましいものであったはずです。また他の考え方を持つ者も多くいたでしょう。そのような困難にも負けず、教えを広めるのは決死の覚悟であったと思います。身をなげうってまで真理の教えを伝えて頂き、本当にありがたいことです。

私には共に暮らす家族がおり、ヨーガの実践において、家族との間に摩擦が生じることが多くありました。例えば、生きとし生けるものは皆幸せを求めて生きているのだから、生き物を傷つけるのを少なくしようという意味でアヒムサー(非暴力)の教えが腑に落ち、肉食を減らそうと思いましたが、家族にそれを受け入れてもらうのに長く時間がかかりました。この経験で学んだのは、言葉の説明以上に自分がそれ相応の人間である必要があるということです。非暴力を実践したいと言っているのに、それによって家族を悩ますのは矛盾になってしまいます。このような意味で、お釈迦様が人々に、苦を取り除くために煩悩を消しなさいと説かれた時、質問は当然お釈迦様自身にも及んだはずですが、結局人々はお釈迦様の人柄を見て納得したのではないかと思います。そのお言葉は慈悲に満ちていたのでしょうし、愛に溢れたやさしいお方だったからこそ人々は納得したのではないでしょうか。
それが伺える私も大好きなエピソードがあります。お釈迦様は晩年故郷に向けて旅をしながら、人々に教えを説いていたそうです。その際、途中で泊まった町において、弟子のチュンダから供養された際、食べ物が何かの誤りで腐っており、食中毒にかかりました。そしてそれが直接の原因となって亡くなっています。その際、チュンダのことを気遣い、彼が悩まぬよう、「私はこの供養により、悟りを実現し、涅槃に入ることができたのだからそれは最高の功徳であったと伝えてほしい」と他の弟子に伝えたそうです(中村元著『ブッダ伝』)。食中毒にかかり瀕死の状態であるにも関わらず弟子のことを気にかけておられます。身をもって慈悲の心を示されています。
今日は成道会、お釈迦様が悟られて本当によかったです。

島本 廉


ブラゴパーラvol.8 「中観音堂・羽島円空資料館」編

約2年ぶりのブラゴパーラです。
今回は中観音堂(有宝寺)・羽島円空資料館に行ってきました〜

ここは岐阜ですが、京都から新幹線で40分弱で行くことができ、日帰りで訪れました🚅
なぜ今回この地を訪れたかというと、数年前から私は円空という修行僧に関心を持っていて、この岐阜羽島は円空の生誕地とされているからです(諸説あり)。

「円空って誰👀?」と思う方も多いと思いますので、簡単に紹介させていただきます。

◾️江戸時代前期(1632-1695)の修行僧。
◾️若くして出家し、美濃(岐阜)を拠点に富士山や伊吹山、大峰山など修験道の聖地で修行を重ねる。
◾️12万体の造仏を誓願したと言われ、全国を遊行行脚し、寺社仏閣のみならず、民衆のために仏像造りを行なっていた。
◾️独特の彫りは円空仏(えんくうぶつ)と言われ、北は北海道、南は奈良、西は愛媛までその所在は及ぶ。

私はインターネットで円空仏を偶然発見した時、胸の奥深いところをドンッと叩かれるような衝撃を受けました。
運慶・快慶一派の仏像は精巧かつ立派で本当に素晴らしいのですが、かたやこの円空仏は「これが仏像⁉️」と思ったほど、とても素朴ーー
それ故に土偶や縄文土器のような、人間の原始・根源に訴えかけてくるような感覚を覚えたのです。

道中で出会った円空仏(複製)。

それで2年前の夏、隣県滋賀の三井寺に円空仏があると知り、拝観しました。
小さい円空仏でしたが、それらを背面から観た時、背中がスパッと割れていて、その一太刀の鋭さ・大胆さからは澄み切ったもの感じました。
また、合掌の形が指や腕などを描かずに角度を付けて彫っているだけで表現されているシンプルさにも驚かされました。

三井寺の善女竜王像。円熟期の五十五歳頃の作品のようです。

そして今回、羽島の地では新しく17体の円空仏と出会いました。
ここは三井寺にあったような荒彫りになる前の初期円空仏も安置されていました。
中観音堂のご本尊は十一面観音菩薩です。

この柔和な表情の観音様は手足が美しく繊細に彫られ、像全体がとても滑らか!
若き日の円空が仏様を大切に表そうとする真摯な思いが伝わってくるかのようで、私はとても嬉しい気持ちになりました。

現在、5000体以上の円空仏が全国で発見されています。
12万体の造仏をしたと伝えられる円空の偉業を私ヨーガ行者の観点から申しますと、アーサナ(ヨーガのポーズ・形)を12年間12ポーズ怠らずしても5万ポーズ、24年続けても10万ポーズ。
まだ円空には届きません。。😅

羽島円空資料館の小さな円空仏。 左から神像、金剛童子、稲荷大明神。「修行は厳しいよ〜」と嘲笑っているかのよう(特に金剛童子から)。

円空は仏師でもありますが、やはり根本は修行者です。
修験道を修しており、雨を降らせることもできたそうです。
造仏を中心にその並々ならぬエネルギーや霊的情熱を出世や名声のためではなく、民衆の救済に使った方だと強く感じます。
そして何より、その笑みを浮かべる円空仏からは、人が本来持っている仏性ーー根源の歓びを喚起させてくれます。
どの像も愛らしく、クスッと笑え、神仏をとても身近に感じられるのです。

機会があれば、また円空ゆかりの地を訪れたいと思います😎

中観音堂の鬼子母神と不動明王。カーリー&シヴァ!

そして可愛らしい聖徳太子像👶

ゴーパーラ


台湾アーナンダ・アーシュラマでのジャヤンティー報告

オンラインのおかげで世界各地のグルバイと共にジャヤンティーに参加することができて、本当に嬉しいです。台湾はこの日は国民の休日ではありませんでしたが、それぞれの自宅からのオンライン参加も含めて20名が参加しました。本当はみんなで集まりたかったのですが、感染拡大防止のため、必要なスタッフだけがアーナンダ・アーシュラマに集いました。

当日は、アーナンダ・アーシュラマのリビングを二つの空間に分けました。一つは観覧区。プロジェクターを使って、はっきりとした画面で祝祭を拝見しました。

もう一つはスタジオ区。パソコン、マイク、ライトなどをセッティングしました。

背景に飾った綺麗なお花は、グルバイのマークが生けてくれました。

 

今回、初めて同時通訳に挑戦しました。別の通信アプリで台湾のグルバイと繋がり、式の進展に伴って、その内容を台湾語でみんなに届ける。祝辞者一人一人の深い信仰と強い宣言は、みんなの心に響きました。グルバイたちの祝辞、各地の活動紹介、歌の内容を同時に理解することができるので、同じタイミングで共に笑い、涙を流し、感動を分かち合えて、台湾のグルバイたちみんなは大喜びでした!!

(皆、真剣に聞いている様子)

  
(通訳を務めるプリヤー/左とマールラー/右)

でも、やっぱり一番嬉しかったのは、ヨギさんにお会いできたことです!!!!! ヨギさんは画面を超えて、私たち一人一人にダルシャンを与えてくださったように感じました。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜

純粋な歓喜に溢れるジャヤンティーが終わって、1時間の休憩に入りました。

(メニューはインドカレー、酢漬けトマト、しめじの炒めものとサラダです)

1時間後、台湾グルバイたちはもう一度繋がります。それぞれの感想を語り、感動と喜びを分かち合いました。祝辞の内容に励まされた、勇気をもらった、やっぱりジャヤンティーは最高、ジャヤンティーが開催されることや、ヨギさんの存在に感謝するというみんなからの声が聞かれました。

また、台湾グルバイたちと一緒に、新しくできたMYM台湾のウェブサイトを見ました。

私たちの心の中に真理の火を灯してくださったのは、ヨギさんです。
ヨーガ行者のあるべき姿、仕事に対する姿勢や他者に接する態度などなど、すべてを教えてくださったのは、ヨギさんです。
どんな言葉でも表現できないほど、本当にヨギさんに感謝しています。
ヨギさんからいただいたこの真理の火を、さらに多くの人に届けられるよう、頑張っていきたいです!!

MYM台湾   MYM Taiwan


サットグル・ジャヤンティー2021 ご報告

11月23日(祝・火)、サットグル・ジャヤンティー(師の御聖誕祭)が開催されました。
ニューヨーク、台湾、日本各地から100名を超える弟子たちが、師、シュリー・マハーヨーギーの祝福の下、オンラインにて集いました。

私たちは、久しぶりに拝見する最愛の師のお姿に歓喜し、仲間たちの言葉や笑顔から溢れ出る師への思い、ほとばしる情熱に心を大きく揺さぶられました。

師への感謝を込め、オンラインならではの国や地域の特色が表れた豊かなコンテンツが次々と配信されました。祝辞やメッセージからは、師の存在を拠り所に一層信仰を深め、真実の実現、自らの理想へと邁進する姿が伝わってきました。そしてそこには、どんな状況においても絶え間ない師の導きと恩寵があることが感じられました。

あっという間に祝福と歓びに満ちた時間は過ぎ去りました。
祝祭の終盤、奉納されたのは、グルへの讃歌「マハーヨーギー・ストートラム」の合唱動画。画面いっぱいに弟子たちが映し出されたシーンは、みんなの師への思いが結晶化したようでした。

最後に師からお言葉を頂きました。

「たくさんの力強くも美しい誓願を聞くことができて、とてもうれしく思います。
この1、2年の困難な状況にもかかわらず、皆さまが元気にヨーガを深めておられることを聞いて、とても喜んでいます。
近い日にまた直接皆さんのお顔を見ることができますように、願っています

 


終了後、待ち焦がれていた師のお姿に拝した感動とともに、この日が励みとなり、さらにヨーガ成就へと歩みを進める新たな決意ができたなど、感謝と喜びの声がたくさん届いています。

*献上された祝辞についてはWeb版パラマハンサにて配信する予定です。
楽しみにお待ちください。

マハーヨーギー・ミッション 


御聖誕祭に向けて

今年も敬愛する師の御聖誕日がすぐそこに近づいてきました。

昨年に続きオンライン開催となりますが、それぞれの場所で歓びを感じながらその日を待ち望んでいるグルバイ(兄弟姉妹弟子)の姿が目に浮かぶようです。

 この時期になると、私はいつも御聖誕祭の様子が書かれたパラマハンサを読み返します。
どの祝辞も一人一人の師への想いと、真理への道を歩む決意に溢れていて、胸が熱くなります。

 私は2009年の御聖誕祭に初めて参加したのですが、当時はまだそれがどういうものなのかよく分からず、次々と述べられる祝辞に、ただただ圧倒されました。目の前におられる師は時にこの上なく優しい微笑みをたたえられ、時に大笑いをされ、温かい眼差しを皆に向けられていました。

師のお顔も、皆の顔も、キラキラと歓びで輝いていました。

最後に祝辞をされた先輩グルバイが、祝辞の中で詩を捧げられました。

 ”この目はヨギを見るためだけにあり、この鼻はヨギの香りを楽しむためだけにあり、
この耳はヨギの声を聞くためだけにあり、この口はヨギの御名を唱えるためだけにあり、
この手はヨギに礼拝するためだけにあり、
そしてこのハートはヨギの尊い御足の気高い塵をいただくためだけにある。
この命はヨギによって光り輝く…
ヨギだけが在る。
一切はマハーヨーギーなり。”

この詩を聞いた時、私もそうなりたい!!と強烈な憧れが胸の奥から一気に溢れ出ました。

涙が止まらなくて、胸がいっぱいになり過ぎて、初めての感覚にどうして良いか分からなくなりました。今も折に触れてこの詩を思い出し、早くこの境地に至りたいと強く願います。

先輩グルバイの祝辞が掲載されているパラマハンサ。

 

”真実を悟るということ、私と不異(おなじ)に成るということを覚悟してください。それによって全ての物事は、できる限り運んでいくことになると思います。”

先日、臨時配信されたWebパラマハンサの中の師のお言葉に、身の引き締まる思いがしました。

これから自分が向かう先にある目標が、計り知れない偉大なものであること。そのあまりの尊さに、果たして自分にそれができるのか?という思いが顔を出します。

しかし、容易に到達できるものではないとしても、困難にぶつかったとしても、いつか果たせる目標であると信じ、真っ直ぐにヨーガの道を進むことが大切なのではないかと思っています。

私の体の全ての器官が師のためだけに機能しますように。私のハートが常に師の存在で満たされ続けますように。生きる意味を教えてくださった師のために、この命のある限り、師に倣い愛を持って他者に行為し続けられますように。

山梨県の栖雲寺(せいうんじ)にある大きなモミジの木。
木の真下にいると、モミジの葉を通した暖かい色の光が差し込んできて、
師の大きな愛に包まれているような気持ちになりました。

ハルシャニー

 

 

 


いちばん大切なもの

「それ」さえあれば、生きていける。

胸の奥にそれがあると知った時、どんな宝石もいらないと思った。
もうすでに永遠のダイヤモンドが胸に埋め込まれていた。
心がそれを忘れそうになると、私のハートをつかみ、いつも思い出させてくれる存在ーー
そのお方は我がグル!!

Gururadiranadisca guruh paramadaivatam
Guroh paratanam nasti tasmai srigurave namah
Om shanti shanti shanti

グルは始原であり無始(無限)の存在。グルは最高の神格。
グルより優れたものはない。その聖なるグルに礼拝いたします。
オーム、平安あれ、平安あれ、平安あれ。

11月23日のサットグル・ジャヤンティで唱えられるマントラーー

どうかハヌマーンの態度でグルに礼拝できるようにと切に願います。

ゴーパーラ