ちょっとしたグル(師)の行為 ⑴

私にとってなすべき義務は何もない
しかし、私は行為する
人が私を見倣うように

ーー『バガヴァッド・ギーター』ーー

この世に何の義務や欲望のないクリシュナ(神の化身)が行為するのは、「人が私を見倣うように」という真理の行為の模範を人々に示し、真理に導くためです。

人は聖典を読むことで、真理を学び、実践することができます。しかし聖典の学びだけでは、真理を正しく実践し、体得することが容易ではないことは、霊的実践をしている人なら誰もが感じることです。

何事も人は、直接的に人から学ぶ方がダイレクトです。なぜなら、そこには生きた熱、息吹があるからです。その道のマスターなら尚更です。覚者・聖者、つまりグル(師)の行為が与える影響力というのは、聖典の何千倍もの威力があると私自身感じています。
それは「ちょっとした行為」でもそうです。

「見て覚える」「見て盗む」という習慣がなくなりつつある昨今、グル(師)に出会うまでの26年間、私自身もそういうことをしないで育ってきました。
ちょっと前ふりが長くなりましたが、そんな私がヨーガを実践していく中で、「ちょっとしたグル(師)の行為」を目の当たりにして驚き、学んだことをシリーズでご紹介したいと思います〜!


11年前の7月、私はニューヨークのケーヴ(NYミッションの拠点)に師と滞在していました。
まず師の行為に驚かされたのは、抹茶塩を天麩羅にかける時でした。師は小さい匙に抹茶塩をのせ、匙の肢をトントントンとして、美しく均等にふりかけておられました。その時、私はとてもエレガントだなぁと思ったのですが、すかさずアーナンダマーリーさん(ケーヴのホスト)が褒めていました。私も真似てみたのですが、無惨にもガサッと散乱。。

11年前のケーヴからの景色。(2010.7)

また師の行為はエレガントさだけでなく、大胆さも持ち合わせていました。
師は普段、料理をされないようですが、料理ができない私にケーヴでは時折、料理を作ってくださいました。素麺、天麩羅、お好み焼き、焼きそばなど、料理をしていない人とは思えないほど師が作る料理は美味しいのですが、ある時チャーハンを作ってくださいました。
私は補助をしながら、そばで見ていました。野菜を切る時は普通のご様子でしたが、いざ中華鍋をセットしてガスのレバーを「カチッ」と回した途端、師のスイッチも点火、烈火の如くチャーハンを炒めていました。。🔥
とても美味しくいただいた後、私は師に「チャーハンを炒めている時、火のように燃えて見えました」と伝えると、師は次のようにおっしゃいました。

「日本では聖者のことを『聖(ひじり)』って言うやろ? その語源は火(ひ)を知(し)っている者。つまり火をコントロール(制御)できるということなんや」

行為に裏打ちされたその教えに、私はただただ感嘆しました。真理を体現されたまさに「聖(ひじり)の行為」を間近で見た瞬間でした。

11年経った今、私はチャーハンを作っている時、「自分は火のように燃えているのかな?」とふと思ったのですが、そんなに燃えている気がしませんでした。。それもそのはず、そう思った時点で「私の思い」があり、「火そのもの」にはなっていないのですから。。

ゴールは遠し、しかし理想のみを見るべし!!!


7月24日の満月の日は「グル・プールニマ」です。
完全円満なグルの存在を讃え、感謝の思いを捧げましょう!!!

グル・プールニマについては、ここをクリックして読んでみてください👈🌝

ゴーパーラ


真っ逆さまの世界

何年ぶりかの長岡京の夜のクラス。最近は朝が多かったため、夜のクラスは新鮮! クラスの場所は、JRの線路の上に位置している。会場には瞑想的なインド音楽が流れ、時折、遠くからはガタンゴトン~と電車の音が聞こえてくる。建物に反響しているのか、まるで宇宙へ駆け抜ける列車の音のようにも…。目を閉じると、どっちが上でどっちが下…?と異空間にいるような心地になる。自動的に、永遠とか無限とか宇宙とか、執らわれのない自由な悟りの境地へといざなわれる。上下左右も限界も無い、価値観や観念も通用しない宇宙に憧れる。真正面の大きな窓からは運が良ければ月が見える。いつもクラスに絶えずある、一定の集中感。この独特の集中感は、初めてクラスに行った時からずーーっと同じだ。

マードゥリーさんが撮影してくださった長岡京クラス会場からの景色。窓から黄昏空が見える。真下はJR長岡京駅だ。

鉄棒、マット運動、遊園地の乗り物など、体を逆さまにするものが苦手だった私が、アーサナを初めて習った時、魚のポーズ(マツヤ・アーサナ)に、おののいた。でも、先生が体を支えてくださり頭頂を床に、逆さまに付けることができ、かろうじて静止した目の前には体の苦痛とは無縁の世界があった。体はきつくて悲鳴を上げているのに、全く別の、芯の部分では、何かがじっと止まっている静けさがあった。わぁ・・・きれい・・・、体も、これまでの価値観も、全部ひっくり返って、逆さまの世界を初めて味わった瞬間だった。不安定で苦手だった逆さまの苦痛感は、静まり返った印象に一変した。

数年後に、仕事で腰を痛めて出来るアーサナが減った時、自分の体に苛立ち、力任せに力んだまま、出来ないアーサナを無理に行なってさらに体を痛めたことが何度かあった。悟りへの乗り物であるこの体を大切に扱えない、また、自己管理ができていない幼稚さでもあった。そして何より、集中感が足りてなくて気が散漫だった。出来ない自分がくやしい!という思い、出来ていたことが出来なくなったという結果、それに執らわれ過ぎていた。今できるベストを尽くす、ということや、アーサナのポーズ一つ一つを丁寧に、呼吸と共につくっていく、その基本からは遠のいていた。
そんな頃、体を真っ逆さまにする極み(?)の逆立ちのポーズ(シールシャ・アーサナ)を避けるようになった。たまに失敗して転げると腰にズシンと衝撃が走るので、それが怖くなっていた。シールシャ・アーサナ自体が嫌いなのではなく、転げて痛くなることが嫌だった。万一失敗した場合に腰が悪化して出来ないアーサナが増えることも懸念していた。ヨーガの中の、アーサナの真の意味は、先日のゴーパーラさんの記事にあったように、心を静めるため、真実へ至るためであり、アーサナはその手段であってヨーガの到達点や目的ではない、と教えられているのに。

昔通っていた頃の長岡京夜クラス(2015年)

毎日のアーサナで、今日は腰が痛いから逆立ちはやめた方がいいなとか、今日は体力がなくて転げそうだからやめておこうとか、逆立ちを組み込まない日が増えていった。鋭い痛みがある時はやめた方がいいと教わっている。でもそれ以前に気持ち的にまず避けようとしていた。逆立ちは毎日していないと余計に安定せず、転げることも増え、さらに避けるという悪循環だった。
ところが、師のアーサナ直伝クラスが始まり、そんなことを言っていられなくなり、必死でシールシャ・アーサナも行なった。すると、師のクラスで一度だけ、シールシャ・アーサナを何回やっても足が空(くう)にピタッと吸着して止まり、絶対に転げない感覚になり、どっちが上でどっちが下かも分からないような、逆立ちという逆さまの感覚自体が消え、師が何かされている!と思ったことがあった。私一人では絶対に知りえないその感覚を、体を通して学ばせていただいたおかげで、立つことはできるんだ、という確証をいただいた。だから立てないというのは、自分の中ではもう通用しなくもなった。

昨年、シールシャ・アーサナを改めて教わる機会に恵まれた。指導者の先輩は私の逆立ちを見て「右が縮んでいて、左の腕が開いている、痛めている右の腰をかばって、そうなっているのかもしれない」と言われた。度々、指摘されるようになり、気になったので歪みを正すために毎日必ずシールシャ・アーサナをした。歪みを意識するものの、自分で自分を見ることはできないので、どうなっているかは全然分からなかった。

そして何カ月後かのクラス。
「やっぱり右が縮んでいて左の腕が開くのは変わってない、けれど安定しているし腰をかばっているのもあるかもしれないし、それでいいでしょう!」
キツネにつままれたような気分になった。歪みが直ってなくても安定することってあるんやな~と、ほっとした。完璧じゃなくても立つことが大事なんだと教わった気がした。気付けば、調子が悪い日は逆立ちをしない、という日々は終わっていた。どういう時でも立つ、どんな状況でも一人で立たないといけない、そんな気持ちが自然に宿っていた。そして真っ逆さまになった時にしか感じられないあの静けさがやっぱり好きだった。失敗して転んで腰が悪化して、もしシールシャ・アーサナや他のアーサナが出来なくなっても、それはそれで仕方ないしその時に考えよう、と考えが勝手に変わっていた。歪んでてもいい、毎日どこでも立つ、と思いがはっきりしていった。それはとても気分のいいことで、迷いがなくなって、集中もしやすくなった。そのうち、それが日常にもリンクするようになった。今日は疲れてるしやめとこう~と思うことがあったとしても、いつでもやる、と決めたことはやるようになった。

自宅でのシールシャ・アーサナの練習。

「まず立つ気があるのかどうか?」この体を通して、内なる神が問いかけてくださる。本気で立つ気があるのなら、立てるように努力するべきだと。立つ努力もしないで、立てるようになる時期をじっと待っていても、いっこうに立てるチャンスは訪れないと教えてくださった。
不思議なことに、毎日立つ、と決めた日から、なぜか転ばなくなった。これに執らわれても良くないけれど、時々は転ぶのが常だっただけに不思議。なんで突然、転げなくなったのか?? 決めたその瞬間から、気が一点に集まったように思う。もう師の恩寵だとしか思えないけれど、それまでは、立とうと決めてなかったから、フラフラゆらゆらしていたのかな。「心が思うものになる」と師から教わっている。思ったところへ気は動くという。気――プラーナは目に見えないし、私ははっきりと知らない。でも知らないなりにも、このささやかな体験は、「思い」が気(プラーナ)を一つにまとめ、それが集中へと繋がる、ということを実感させてくれた。思いは強烈な力を持っていて、本当に思い一つで変わる可能性があるんだと。気(プラーナ)が自分を形づくっていく、これは本当に教わってきた通りだ。

…と、夜のクラスで、そんなことを改めて感じた。そして逆立ちは、まだまだ要改善のアドバイスを受けたので、これからもがんばりたい。久しぶりに会えた指導者の先輩たち、そして参加者の方たちがやけに爽やかで、かっこよかった。数年前の雰囲気とは少し違っていた。ずーっと夜のクラスへ通っているそうだ。クラスに通い続けるのも自分の意志、思い。ヨーガへ、気が一点に集中されているんだなと思った。集中感のある人は、爽やかで気持ちいい! 私も見習いたい!

野口美香


大いなる真理だけを見る

「海だけを見たい」

3月にアップされた『海と波』のブログを読んで、私はそう感じました。

人との関係で、些細な言動に一喜一憂するのは、海(真実在・真理)を見ず、変化する波(現象)を見ているだけです。また波どころか、小さな一滴に翻弄されるということ。波に巻き込まれない対策をしていないと、簡単に心はどうでもいいことに惑わされる。私自身、「真実だけを見たい」「心の思いに翻弄されたくない」と改めて思っていたところ、早速試されるような状況がヘルパーの泊まりの仕事の時に起こりました。

利用者さんは数日間、夜間にひどいかゆみで眠れておらず、疲れている様子でした。横になって1時間ほど経ったとき、「かゆい、かゆい」と訴えられ、私は指示通り、薬を塗りました。利用者さんはかゆみで感情的になっているのと、私の処置の手際が気に入らず、怒りの言葉をわめいていました。「手際が悪くすみません」と言い、できるだけ利用者さんの要求にスムーズに応えるように、わめく言葉に動揺せず行為しようと心がけました。夜通しこのような調子かもしれないと思い、真理にしがみつくように、「どうか、心が動きませんように。私は海を見たいのです」と心の中で願いました。
そしてオームを心の中で繰り返し唱え、利用者さんからの要望に淡々と対応しました。数時間して落ち着き、利用者さんが寝入った様子で少しほっとしましたが、引き続きずっとオームを唱え続けました。私も少しの間眠り、かゆみの対応をしながら朝を迎えました。利用者さんが目を覚ますと穏やかな表情で私に、「昨晩は大変だったね」と優しく言葉をかけてくださいました。

松山市の梅津寺海岸。

必死で真理にしがみつこうとしなければ、利用者さんの一時的な怒りの言葉に、心は翻弄されていたかもしれません。隙なく聖なる思いで心を満たせば、きっと波に翻弄されることはないと感じる出来事でした。

聖なる思いを常に持ち続けるには、どんな状況であっても、誠実に行為をすることが必要だと感じています。
波を見ずに、大いなる真理だけを熱心に求めていきたいです。

りょうこ


みずみずしい真理の教え

私の住む丹波篠山では、田植えもすっかり終わり、より一層緑が美しく、庭の畑では、じゃがいもやきゅうりが収穫の時期を迎え、トマトたちも色づき始めています。

田植えもすっかり終わり、畑は、黒枝豆を植えるためにきれいに畝が作られています。

我が家の庭の小さな畑のお野菜たちもとても元気です。旬のお野菜はめちゃくちゃ美味しいです!!

季節は巡り、歓喜に包まれた春の祝祭は以前のことのように感じますが、師のお姿は歓びと共に目に焼き付いています。
祝祭で祝辞を捧げさせていただいたことを機に、私は初心に立ち返ることになり、全てを師から与えられていたことに気づきました。
悟りへの情熱が足りないのではないか。どうすればその熱を高めることができるのかと悶々としていた思いは一掃され、確固たる決意を胸に、新たな気持ちで歩み始めました。

以前に比べればエゴは少しずつおとなしくなってきてはいたものの、完全になくすことは難しく、それでも何度も何度も師の教えを思い起こし、心に言い聞かせる日々が続いていました。

ある日、ヨーガの福音を手に取り、心について考えていた時でした。

“心を召使いにしておけばいい”

ふいにその教えがやってきて、心が納得したような感覚がありました。
霧が晴れていくようでした。

心を完全に無くすことは難しいけれど、従順な道具にすればいいんだ。
その為には、やはり心の調教がまだまだ必要だと思いました。
アーサナへの向き合い方を改め、真理の教えに触れ、学び、実践することの大切さをより一層感じるようになりました。

穏やかで美しい月明かりが好きです。明日は満月、部屋の明かりがいらないほどです。

真理の教えは、いつもみずみずしく、私の心を潤してくれます。
師は、求めるべきものも、その為にやるべきことも教えてくださっています。そして、常に導き続けてくださっています。
一足飛びにはいきませんが、余計な心の垣根は取っ払って、もっと軽やかに、それだけを求め、これからも実践を続けたいと思います。

藤原里美


ヨーガ・瞑想クラスの再開

緊急事態宣言が解除され、関西のアーサナ・瞑想クラスも先週より再開!
6月26日(土)に行なわれた京都アスニーのクラスは約2カ月ぶりで、中学生を含む6名の方が参加されました。

ヴリクシャ・アーサナ(立ち木のポーズ)からスタート!

まず指導者のヨーガダンダさんが、「師がアーシュラマ(道場)でクラスを始められた時(45年前)、各自が自分のプログラムを黙々と行なっていくクラスを理想とされたそうです」と話をされ、クラスが始まりました。
クラス中は基本的なリードによって進められていきますが、後半は各自が自分のプログラムに沿ってサーダナ(霊的修行)を行なっていきます。

ニワトリ、サソリ、三点倒立!

緊急事態宣言中はオンラインクラスでしたが、受講してみると驚くことに実クラスと同じぐらいの集中感や効果を感じていました。
でも、こうやってクラスに集って顔を合わせ、同じ場所と時間を共有して行なうサーダナはやはり格別!!!
私自身、よりヨーガのプラーナ(気)で満たされる感覚があり、本当に貴重な場であると改めて実感させていただきました。

シッダ・アーサナ、パドマ・アーサナで瞑想。

アーサナは決して柔軟性を競うものではなく、座法と訳され、瞑想の座(シッダ・アーサナ、パドマ・アーサナ)を快適で堅固にするために開発されたものです。
そして師は、アーサナの真の意味を次のように説かれています。

「アーサナの真の意味はブラフマンに留まるということです」

シュリー・マハーヨーギー

私自身、クラス再開を機に今一度この教えを念頭に置き、アーサナ・瞑想によって小宇宙であるこの身体と呼吸、心を静め、そして大宇宙の真実在ブラフマンにしっかりと留まっていきたいと思います!

※初心者の方も大歓迎です!基礎からしっかりと学んでいけるクラスになっています〜! ヨーガ・アーサナクラスのインフォメーションはこちら⬅︎⬅︎

ゴーパーラ


誰もが実践できる働きの秘訣

みなさんは学校の授業は好きでしたか? 私はというと……(お察しください)。
けれど今、楽しみにしている授業があります。それは誰ヨガ(誰もが実践できるヨーガ)です。自分自身の人生や心、幸せといった誰もが身近に感じ、時に思い悩んだりする事柄をテーマに、ヨーガではどう教えているのか、自身の生活でどう実践できるのかを学べるオンラインクラスです。
4月に開講し、月に一回、半年間をかけて学んでいきます。その期間は同じ顔ぶれのグルバイとZOOMで顔を合わせます。初回のクラスでは自己紹介をし、さながらクラス替え後の教室みたいだなぁと感じていました。担任の先生は先輩グルバイのサーナンダさんです。2時間のクラスの中では、「どうなったら本当に幸せですか?」、「なぜ働かないといけないのですか?」といった問いかけに向き合う時間があるため、講義の内容をより自分のこととして捉えやすいように感じます。

出勤途中に咲いている朝顔。目の覚めるような鮮やかな色で、気持ちよく仕事に向かうことができます。

5月に行われた2回目のクラスでは、「働きの秘訣」と題して私たちが働く理由、そしてどう働けばいいのかを教えていただきました。「生活のためだから」と、私は心のどこかで仕方なく働いているように思っていました。しかし、今の仕事を選んだのは自分です。選ばざるを得なかったのだとしたら、その原因を作ったのも自分です。私の場合ばっちり思い当たることがありますが、自覚していない過去世からの原因も作用しています。いずれにしても自業自得、つまりカルマということになります。新たなカルマを作ることなく、カルマを果たしていくような働き方ができれば、より良い自分になっていくことができるとこのクラスで教えていただきました。
一日の中で働いている時間は大半を占めています。(社会の中で勤めるといった意味合いに限らず、親などの役割や家事も含まれます。)しかも毎日のことです。ということは、そこでの行為次第で、多くの時間が自分をより良くするチャンスに変わるということになります。毎日がチャンス…?!何それ最高!!と私の瞳はきらめきました。本当に重要なのは何の仕事をするかではなく、「どう働くか」だったんです。
では、肝心の「働きの秘訣」はと言いますと…

・好き嫌い、不平不満を言わない。
・結果や他人の評価に執らわれない。
・目の前の仕事の目的を明確にし、余計なことを考えずに集中する。
・自分の思いばかりを見るのではなく、他者の喜びを自分の喜びとする。

どれもシンプルで、仕事の種類を問いません。そして、誰でも今すぐ実践できることです。「そうはいっても難しい…」と言い訳したがる心に負けてたまるかと、「ただやるのみ!できなかったとしても次の瞬間にもう一度チャレンジするのみ!!」そう言って日々自分と闘っています。少しでもこの秘訣を実践できれば、まず自分が楽(心身ともに軽やかに)になることを実感します。そうすれば周囲に気を配る余裕も生まれます。何より発散する空気が違うのではないでしょうか。入り口は自分のためのようであっても、自然と他者のためにもなっている、素晴らしい秘訣です。仕事の効率化や成果を上げる方法は多く説かれていても、こんな大切なことを教えてもらえる機会にはそうそう出会えないように思います。ヨーガを学んでいる、いないに関わらず、多くの人の助けとなる教えだと思いました。

海へ流れる川。奥は瀬戸内海です。身近な風景ですが自然の壮大さを感じ、大いなる存在に想いを馳せずにいられません。車の窓を開けて走ると様々な鳥の声が聞こえてきます。

私はこの誰ヨガの授業を受けているとワクワクしてきます。「秘訣」という言葉を辞書で調べると、“人に知られていない特別な良い方法。おくのて。”と出てきます。まさにそんなことを教えていただけて、知りたかったことはこれなんだ!!と体中から力が湧いてきます。最初にこのクラスを学校の授業のように例えましたが、この授業ではテストもなければ成績もつきません。その代わり、日常がテストです。参考書を頼りにするように、この強力な秘訣を頼りにして、私はカルマ(業)からの卒業を目指したいと思います!

このカードの裏面には、『バガヴァッド・ギーター』第2章48節の教えが記されています。 「アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは平等の境地であると言われる。」 働きの結果に執われそうになった時、思い出す教えのひとつです。

 

大森みさと


私はあなた

私の鍼灸院に9年前から来院されている80歳の患者さんがいます。
好奇心が旺盛でお話しするのが好きな方です。いつも私の知らない話を聞かせてもらえることが楽しかったのですが、少々気難しいところもあるので、言葉遣いには特に気を付けて接するようにしていました。
出会ってから5年ほど経った頃、それまでの気難しさとは異なった感情の起伏が見られるようになりました。物忘れや勘違いも多くなり、おそらく認知機能が低下し始めたのだろうと、これまで以上に注意して接するようにしていました。
しかし、予約時間を間違えて来院されて本来の予約の患者さんの前で自分が正しいと激昂したり、治療中の会話でも突然怒りだしてしまったり、そのようなやり取りを繰り返すうちに私はその患者さんに接するのに身構えるようになっていきました。
そこから1年以上、互いにストレスを感じるやりとりが増えました。この患者さんは一人暮らしで近くに親族の方もおらず、病院を受診していないので症状からの推測になりますが、おそらく認知症だと思われます。ただ病気によるものだと理解してはいても、面と向かって怒鳴られたりすると怖いという感情が勝ってしまい、腫れ物に触るように恐る恐る接するようになってしまいました。

この6月で開院10周年を迎えました。最初に治療院を構えた建物は、都立殿ヶ谷戸庭園のすぐそば。庭園の外からの眺めも意外に良いので、患者さんに好評でした。

この悪循環から脱したいと試行錯誤しているうちに、「私はあなた」という聖典の中の言葉をよく思い出すようになりました。
「私」も「あなた」も本来は等しく尊い一つの存在。それぞれ異なる肉体を持っているけれど、本質は同じ。

この患者さんは病気によってこれまでできていたことができなくなり、記憶することもできなくなり、不安でいっぱいになっている。これは私に起こっても不思議ではない事態。歳を重ねた私もこうなっているかもしれない。
ここまでの思考には何度も至っていましたが、そこを超えられないのは頭で考えてばかりでこの患者さんのことを真剣に思っていないからだ、と気付きました。
もう考えるのはやめた。この患者さんといる時間は何を言われてもされても、その中に変わらない本質があると信じよう。見えなくてもある。それが真実なのだから。
それからは何度失敗しても気にせずに真実だけを見るように努めました。

そうしてしばらく経ったある日、それまでできていた動作ができなくなって困っていた患者さんのお手伝いをしていた時に、「この人は私だ」と直感的に感じました。そう思おうとしたのではなく、目の前にいる患者さんが私であるとしか感じられなくなったのです。それまで見えていた景色は一変し、不安や恐れは消え去っていました。

その後、常にこの感覚に留まれている、とは言えない状況ですが、肚が据わったというか、何を言われてもほとんど動じなくなりました。
認知症の方は通常の高齢者の方よりも視野が狭いので、その方の視野にしっかりと入るためにお顔の正面からお話する必要があるのですが、それまでは怖さが先に立ってつい目を合わせるのを避けることがありました。この体験以降は、伝えたいことがある場合はしっかりと視線を合わせて話せるようになり、言葉以上に伝わることが増えたように感じています。たとえ患者さんが不穏な感じの時でも、とにかく今この瞬間にだけ集中して丁寧に接するように意識することで、私自身が動揺することはなくなり、患者さんを冷静に観察してその時々に必要なことができるようになりました。

治療院の最寄駅、国分寺駅の駅ビル屋上から見た空。梅雨の晴れ間、雲がゆったりと流れていました。

それから1年が経ち、現在。
患者さんの認知症状はさらに進行し、激昂することは全くなくなりました。表情豊かな方でしたが、ぼんやりしている表情が多くなり、怒ることが減った分、不安そうにされることが増えました。以前は饒舌に話をされていたのに思うように言葉が出なくなり、時系列でお話しされることもできなくなったので話の内容を汲み取れないこともしばしば。電話をかけると私の名前も分からなくなっていることもあります。
この患者さんはもう以前のように自分の伝えたいことを伝えることができません。一時期激昂していたのは、きっと自分に起きている変化に付いていけず強烈な不安を感じていたことも影響していると思います。そのピークは過ぎたといっても、認知機能の低下に伴う不安感がなくなったわけではありません。むしろ表情に出にくくなったことで、これまで以上に注視して行為しなければならないと感じています。
私が接している僅かな時間でさえも困っている姿を目にするということは、日常生活を一人で過ごす中で多くの困難が起きていることが容易に想像できます。
何か私にできることがあればと焦る気持ちが出てくるし、どうにもならない事態に翻弄されそうになるけれど、そんな思いにいちいち惑わされては本当に大切な「私はあなた」であることを忘れてしまう。一緒にいる時間だけはこの患者さんに楽しく過ごしてもらえるよう、私も思い切り楽しもう。この1年で少しずつですがそれを実行できるように心がけてきました。

今思えば、1年前に「この人は私だ」と感じるまでの私の行為は、自分のための行為でした。相手のことを考えているようで自分が苦しまなくて済むような逃げ腰の姿勢で、その場さえ凌げればいいというエゴ丸出しの行為でした。しかしこの患者さんと接する中で直感した「この人は私だ」という感覚は私の胸に存在し続けていて、この患者さんが喜ぶことを一つでもしたいという明確な目標を与えてくれました。患者さんがどう感じられているかは分かりません。ただ、来院された時に不安で強ばったように見えた表情が、お帰りになる時にほっとしたように和らいでいるのを見ると、それが一つの答えなのかなと思います。

治療後帰られる時に、この患者さんがにっこり笑いながら言ってくれる言葉が好きです。

「あー、生まれ変わりました!」

それを聞いた瞬間に何もかもがまっさらになります。
私もあなたもなく、全てが純粋そのもの。言葉には言い表せない歓び。
こんなにも素晴らしい体感を与えて下さってありがとう。ありったけの思いを込めて、私もにっこり笑いながらお見送りしています。

この患者さんは芍薬の花が大好き。他の花を飾っているときよりも長めに眺めてから帰られます。

記憶をなくすということは、その瞬間瞬間に生きているとも言えると思います。
それはヨーガの理想とする境地。
この瞬間に目の前にいる人のために、その人の喜ぶことを行為する。瞬間瞬間に実行することを繰り返していく。
今日も明日も明後日も、いつでもこの瞬間に生きることができますように。

ハルシャニー


ブラザー・ローレンスの教え〜神との対話〜

最近、複雑な問題に直面し、その答えを求められることがありました。
いろんな人の立場が絡まる問題であったので、答えを出すのが難しいと感じ、どうしようかと考えていました。
そんな時、私はブラザー・ローレンスに出会い、彼の信仰心にとても感銘を受けていました。
彼の実践の特徴の一つが「神との対話」です。

「私たちは何をするにも、すべてのことを主に相談する習慣を作らねばなりません。そのために、神と絶えず語り、自分の心を神に向ける努力をしなければなりません」

私は彼に倣い、瞑想の時にその問題を神へ相談しました。
そうすると突然「光」が見え、「光あれ」という言葉が自分の内側から出てきました。
その時私は、「そうか、自分が答えを出すのではなく、ただ光のようにあれば答えが照らし出される!」と感じ、自分のするべきことが示されたように思いました。
その直後、期せずして次から次へとその問題に関する出来事が起こりました。
私はただ光のようにあることを心掛け、淡々とその事象に対応し、そうすることで複雑に見えていた問題の答えが自然と照らし出され、無事に解決に至りました。

ブラザー・ローレンスはおっしゃいます。

「神は決して私たちに大きなことを望んでおられるのではなく、私たちがすべての時の瞬間瞬間をわずかでも神をおぼえ、神をあがめ、神の恵みを求めて祈り、私たちの苦しみを打ち明けて語り、神がすでに与えてくださった恵みや、今、試みの中に与えてくださっている恵みをおぼえて感謝するのが大切なことだと思います。神が求めておられるのは、あなたができるだけ多くの時に、神を自分の慰めとすることなのです」

私は、ブラザー・ローレンスを通して問題の解決に至ったことを、神に感謝しました。
でも改めてこの教えを読んだ時、もっと大切なのは「結果に執らわれず、どんな時も神をおぼえ、あがめ、祈り、神の恵みに感謝すること」であると、さらにまたブラザー・ローレンスから教わったように感じました。

「世の光」であられたイエス・キリスト。

ゴーパーラ


尊い存在

ベランダの近くの雀の巣に赤ちゃんが生まれて、チュンチュンチュンチュンと声が聞こえてくる。灰色に曇った空の下、雨に濡れた親鳥が巣に戻ってきては餌を与え続けていた。しばらく経つと、雀の子供たちが外に出てきて親鳥が飛び方を教えている様子。卵から雛が孵(かえ)る、というのは生命の奇跡だな~と思った。生まれて、そして成長していく。ずっと見ていると、雛は私たちで、親鳥は師に見えてくる。

師にお会いできヨーガに縁を持てたこと、これこそ奇跡かもしれない。いろんな人たちとの縁によって、見えざるものによって、ヨーガの山の麓まで連れてきてもらった。今は山登りの途中か…。
そういえば修行者を乗せて、彼岸の悟りの境地まで連れていってくれる虎の話を聞いたことがある。また、虎は一度捕らえたものを絶対はなさないように、師は弟子のことを絶対にはなしたりされない、と聞いた。

光が強くなった。いつ見ても、上を向いてる花。

最近いろんな事が重なり、その中でお世話になった方たち何人かの死を知った。死は肉体の死であり、本性は決して死なない、とヨーガの教えを思った。でも、「肉体にはもう二度と会えない」と思うと寂しさがこみ上げ、未熟な私は一挙に無念さに襲われた。もうどうにもならないことについて、悔やむ気持ちや、過去に自分のとった行動を反省する日々が続いた。反省するのはいいけれど、ずっとくよくよしていても仕方ない、考えている暇があるなら次の行動をしなさい、と師の声が浮かんだ。だからその都度、今やるべきことに意識を向き替え、表面上はそれなりに生活をこなした。この地球上に師が居てくださっていることが命綱のようだった。
そして師を思えば思うほど、謙虚に人に接せられる師のお姿が目に浮かんだ。そのお姿を思うなかで私は、無念さや悲しみでいっぱいになっているだけの自分に違和感を覚えるようになっていった。

昔、突然の友人の死を受け止められず師にご相談したことがあり、師は「正しく死を理解して周りの人の力になってあげてください」と私に言ってくださった。死を正しく理解する。それができれば、周りの人の力になることもできる。私さえ正しく理解することができれば……。

いつもの道。太陽が燦燦と照りつける。

そんな中で、ふと、師はいつでも人の中にある本性、真実だけを見てくださっている、それだけを信じてくださっている、という思いが起こり、そのことがどれほど自分の中で、かけがえのない拠り所となっているかに気付いた。なかなか明るい気持ちになれない日々だったけれど、そこから満点の星空が見える気がして、師の存在の光によって上を向くことができた。
生き方を変えよう、いつまでもこんなことではあかん、と思った。もう、形あるものには何も頼ることができないような、真っ裸にされたような心境になり、胸の奥にある、尊い大事なものを思い続けた。

雨上がり。

師は私たちを信じ、虎のごとくにしっかり掴んでくださっている。だから絶対に大丈夫、という、どこからともなくやってくる確信が最後の最後にある。誰しも、無条件に自分を丸ごと信じてくださる純粋な人のことを裏切れないと思う。そういう方に巡り会えた、もうそれだけで、どんな極悪人でも自然に改心せざるを得なくなる。無垢で純粋なものに触れた時、限りなく同化したくなる。師の愛を少しでも垣間見た人は、そうなってしまうと思う。それは師に直接会えた人だけに限らないと思う。ヨーガのクラスには師の祝福が降り注いでいるというから。

躓(つまず)いた時、師への思いや、ヨーガを拠り所にする自分の思いが上を向かせてくれたのではなかった。師が私たちを信じてくださっている、万物の本性という永遠の真理だけを見ておられる、その師の存在という事実が、上を向かせてくれた。自分の思いの強さによってではなく、師の熱烈な意志、師の強さによって。

私も、人間の本性――肉体でも心でもない、たった一(ひとつ)のその真実を信じたい。肉体が消えても、それは消えないというもの、それだけを見つめたい。それだけを見るということがどれだけ尊いことか、師というたった一人の方が、それだけを見つめておられることがいかに人々にとって救いをもたらし、生きる歓びを与えてくれるか。
生命の根源は永遠で自由で輝かしいものであるはず。なのに、まだ学んでいる途中とか、よく分かっていないから、と私は思っているところがあった。この話を先輩に聞いていただいた時、ヨーガを分かるとか分からないとか関係のないところで今も真実はずっと在る、と暗に教えてくださった。「私には分かりません…」先輩に言えば言うほど、はっきりと分からない自分、真実を見いだせない自分が印象付けられて、より悲しくなるだけで「分からない」という言葉を発することは、自分にとっても、いいことはなかった。先輩と話し終わりしばらくした後、私は、今、真実を見るべき時なんだとハッとした。どうして生まれて、死んでいくのか。それで全て終わりなのか。そんな筈ないやんか、と思った。その人自身の本当の存在を大切にしたい。肉体に会えなくなってもまだ間に合う。綺麗ごとではなく、本当に真実だけを見ようとし続けること、それが私にできることなんじゃないか。私が師に会えて、無条件に存在を丸ごと受け入れてもらえる歓びを知り、生きる歓びを知ったこと、そこに答えがあった。それを気付かせてくださったのは、師への思慕と尊敬の思いを語られる先輩であり、また私の話に延々とお付き合いくださる先輩の中の師の姿だった。

この期間、これまでのサットサンガのノートを見直していた。そこには、師が、来る人、来る人に絶えず深い愛をもって接してくださっている、その物語がたくさんあった。まるで師が、それぞれの雛(私たち)を大事に大事に育てられ、目一杯の滋養を与え、そして自由への境地――大空の飛び方を根気よく教え続けてくださっているようでもあった。今もずっとそうだと思った。

そして、目に留まった師のお言葉があった。

死ぬのは肉体だけであり、その人自身は無くならない。
ただ古びた衣服を脱ぎ捨てるような現象。
嘆き悲しむのが良いことではない。
姿が見えなくなって、寂しくなることはあっても、その人自身が無くなったわけではない。
魂は永遠に生きています。

それぞれがこの世に生まれて、そして成長し、その人としての生涯を最後まで全うされた、と確信が湧いた。おつかれさまでした、と心の底から讃えたい気持ちになり、自分が抱えていた悔やむ気持ちも無くなった。
人の命、人生はその人自身の尊く気高いものであり、他者が介入できるようなそんな余地はどこにもないと思えた。会えなくなったからこそ気付く大切なこともあれば、また悔やむこともあるかもしれない。でもそれさえも失礼なことのように思えた。全部、ただの私の思いに過ぎなかったなと。悔やむ思いは、自分の思いばかりを見ている私の傲慢さから来ていた。お世話になった人たちは、姿がなくなっても、やっぱり私の人生の先輩であり、またこうして大事なことを教えてくださったな、と思った。
自分の思いを見る驕りを棄て、もっと謙虚になって、師が見ておられるもの、その尊いものだけを私も見ていきたい。

ベランダの雀たちの影

野口美香


マウナと信仰

松が開けたばかりの頃でした。
長年抱えていた心労で母の体調が急激に悪化しました。その時、大先輩の姉弟子に電話で相談させていただくことがありました。姉弟子は、根気よく聴いてくださって、複数回にわたりメールを頂戴し気遣い励まし下さると共に、熱意をもって次のように助言をくださいました。

  • 起こることはカルマのためであるから、自業自得と覚悟をもって受け止めて、その時すべきことを行なってゆく。
  • 波風が立つような話題に対してマウナ(霊的沈黙)を徹底する。
  • 目的をしっかり見据えて教えを手放さないように。

「師が姉弟子を通じて導いて下さっている」と有難さを感じながら、もしここで実践できなかったらと思うと奈落の底に落ちてゆくようで心は激しく動揺しました。けれどもカルマは問題と正面から向き合うことでしか昇華出来ません。怯む心を押さえて、頂戴したメールを読み返しながら向き合う毎日が始まりました。

マウナについては、形から入れることでもあり、とにかく徹底せねばと心して臨みましたが、波風の方角へと一方方向だった母の思考傾向が一時的にも停止して、スムーズに新たな話題へと心が切り替わってゆくのを目の当たりにしました。
私が行なっているのは本来的なマウナにはあたらないかも知れませんが、それでもマウナが単なる避難ではなく、積極的な傾向を生み出す実践的な教えであることをひしひしと実感するようになりました。

しかし受け止めるということに対しては、苦しみの原因を他者に求める傾向から抜け出せず、一旦受け止めたと思ってもいつの間にか思い煩いが入り込んでしまいます。
ある時、切羽詰まった状況でも滑稽なほど蒔いた種から逃げ回っている自分が情けなくなり、「このままでは教えを手放してしまう!」と真剣に一番大切なものを問いました。
「信仰」でした。
師に御縁を頂戴し信仰の本質を教えていただける機会に恵まれながら、不平不満を漏らす自身に気づき、本当に大切なものを大切に出来るようにならねばと以後不平不満にマウナすることを意識するようになりました。
十分に対応できた訳ではありません。しかし師の恩寵を頂戴し、母は奇跡的に快方に向かい、ひと月後にはこれまでとあまり変わらぬ生活を過ごせるまでに回復するにいたりました。

市内の山側集落栢野(かやの)町にある菅原神社。境内には4本の巨木杉があり、右の二又杉は樹齢2300年ほどだそうです。5年前に健康診断を受けましたが、いたって健康と診断されました。近づくにつれ神聖なプラーナを感じます。

師やマハーヨーギー・ミッションとご縁いただいていることは何という幸せかと思います。家庭やその他に難があっても克服へ向けて愛情深く力強くご助言いただける存在がある。
またパラマハンサやブログでは聖者だけが語れる真実を伺う機会に恵まれるとともに、そこへ向けて突き抜けてゆこうとするグルバイ(兄弟姉妹弟子)の情熱的なサーダナ(修練)の様子を知ることが出来ます。
石川県に住んでいるのでコロナ禍以前はアーサナクラスに参加出来る機会が限られていましたが、オンラインで開講となり毎週参加させていただけるようになりました。毎回全身にプラーナが行き渡るのを実感し、特に月曜日受講ですので一週間の活力源とさせていただいています。

昨年冬のオンラインでの親睦交流会を機にグルバイ4名で『マユーラ(孔雀)の会』を立ち上げました。孔雀が毒をも解毒して食べてしまうようにそれぞれの無知をミーティングを通じて浄化しあい、理想と目的意識を各自もって象徴とするところのクリシュナの境地に向かってゆこうと月1で開催しています。
直接グルバイと話す機会が中々無い私にとってこのような会に参加させていただけることは大きな喜びであり、また意識を持って日常を過ごす糧にもなっています。

マユーラの会の一場面(2021.1.23)

また先日は『フォカッチャの会』にも参加させていただきました。折しもブラザー・ローレンスについてのブログが掲載され感銘を受けた後でした。全てを神への礼拝として行為し、至福の境地を生きられた聖者に目標とすべき姿を見たような気がして、フォカッチャをいただきながらのトークも楽しい中にも色々と感化されることが多く、『マユーラの会』でも毎回思うのですが、目的を同じくするグルバイの存在の有難さをあらためて感じました。

そして何よりも揺るぎない存在を実現されたお方を知って、そのお方が常に見守って下さっているということがどんなに心強く有難いことかと思わずにはいられません。
コロナ禍のみならず世間に深刻な問題が渦巻く中も、ある意味安心感に包まれて日々過ごしてゆける。これほどの幸せはあるでしょうか。
数多の祝福にもかかわらず顔を出そうとする我欲を一刻も早く必要ないものだと納得させ、きちんと霊性の向上という形で感謝を表してゆけるよう精進に努めてまいります。

当地は『弁当忘れても傘忘れるな』といわれるほど雨の多い地域ですが、この日は快晴。 さんさんとおひさま降り注ぐ海岸にはたくさんのわかめ(手前の茶色の部分)が流れ着いていました。

オーム・タット・サット・オーム

竹下千佳