言葉を使わずとも真実は伝わる

ヨーガの学びを深めようと決めて最初に当たった壁が、いわゆるヨーガの専門用語、例えば、ギャーナ、カルマ、バクティ、ヤマ、ニヤマ、サットヴァ 等々、が分からないということでした。
それでもクラスやサットサンガの後に先輩グルバイと話をしたりするうちに、少しずつ用語の意味を理解し覚えていきました。
用語の意味が分かってくるとますます学ぶことが面白くなり、ヨーガを始めて2年経つ頃にはより熱心に学ぶようになっていました。学びを繰り返すうちに、少しずつ教えが腑に落ちていくように感じていたのですが、ちょうどその頃、それだけでは駄目なのだと気付かされる出来事がありました。

ある知人と話していた時のこと。
時間さえあれば各地域の神社にお参りをしている人で、しょっちゅう神様の話をしていました。
知人曰く、神様にも人間と同じような社会があり、ある神社の神様は優秀で素晴らしいとか、あそこの神社の神様は力が弱いとか、あの神様とこの神様はいがみ合っているとか、願い事をしたらお礼参りに行かないとかえって悪いことが起きるとか…
当時その話をされる度にモヤっとして、何度も聞かされるうちに「なんでこんな話ばかり聞かされるのだろう。神はそんな存在ではないのに!」とイライラするようになっていきました。
私は知人がその話をする度に、ヨーガの教えを話すようになりました。ヨーガでは神様は雲の上の存在ではなくて、あらゆる命の中に等しく存在している、だから上下関係もないし仲違いすることもない、願い事をしたらお礼をしなければならないという取引のようなものではないこと──など。どうしたら分かってもらえるのかと一所懸命に考えて言葉を尽くしましたが、結局知人には分かってはもらえませんでした。

東京都府中市にある東郷寺の枝垂れ桜。たくさんのメジロが花の蜜を食べにやってきていました。

伝えようと言葉にした内容は間違っていなかったと思いますが、なぜ伝わらなかったのだろうか?
その時すぐには気付けませんでしたが、その後のグルバイ(兄弟姉妹弟子)との交流する中で、伝わらなかった理由に思い当たりました。
私の話に真剣に耳を傾けてくれるグルバイたちのように、私は知人の話に耳を傾けられていたかというと、できていませんでした。最初からそれは違うと偏見を持って聞いていたことに気付きました。
また、先輩グルバイとお話する際に、私が理解できるように丁寧に話をしてくださっていること、少しずつヨーガの道を歩んでいる私の様子を見守りつつ、タイミングを見て的確な助言をもらえていたことにも気付けました。難しい言葉を用いることなく、考えを押し付けられることもなく、楽しくお話しているうちに新たに腑に落ちることがあったり、発見があったり。話し終わると心身ともに軽やかで心地よさに包まれたことも何度もありました。

きっと知人は私と話していても楽しくなかったと思うし、むしろ不快な思いをさせてしまっていたかもしれません。
私は学んでいるということで満足して、学んで知っているだけなのに体得したような錯覚を起こし、自分は正しいことを知っているという傲慢さから、知人に対して謙虚さも優しさもありませんでした。
そもそも、神様はあらゆる命の中にあると、確信を持って知人に言える状況にもなかった。
頭でっかちで、しっかりとした実践ができていなかった現実をまざまざと思い知らされたのです。

ヨーガを実践していくということは、生きることそのものでもあります。
生まれてきた以上、命が終わりを迎える瞬間まで生きていく必要があります。ヨーガに出会えてなければ漠然と生きていたのかもしれませんが、ヨーガに出会ったことでその可能性は消えました。確かに真実があることを知り、生きる目的や理想とを持つことが大切なのだということを知りました。
向かうべき方向が定まったら、その一点へと歩み続けるだけ。その過程は一人一人異なります。見える風景も味わう感覚も。それがその人の生き様であり、それを他者が見た時に語らずとも伝わるものがある。

ちょうどこの頃に師に質問した際に頂いた答えがメモに残っていました。

ヨーガの言葉を使わなくても、真実のみを話すことはできる。神様は全ての人・物の中にある、ということを、そういう考えを持っていることを伝える。それ以上は言わなくてもいい。言う必要はない。

これは知人との出来事が起こる前で、当時確執があった父のことで相談した時のものです。この時のお答えは聞いた瞬間から私の胸深く刺さり、常に大切にしていたはずだったのですが、この知人との出来事にも全く同じことが当てはまっていたのだと、このブログを書くにあたり再度読み返して初めて気付きました。

教えを学んで真理とは何かを知る。それを実践する。そうすると体感が訪れる。
ひたすらに繰り返すこと自体も生き様。

正しい智慧も悟りに至るまでの間、無知がある間だけ必要なのですよ。悟りというのは無知も智慧も超えていますから。それはちょうど痛みを与える棘をもう一本の棘で抜くようなものです。苦しみがなくなれば両方いらない。
                                                                                                     シュリー・マハーヨーギー

2つとも棘が抜けてすっかりなくなってしまったら、私の生き様が言葉以上に雄弁に語ってくれるようになるのかもしれません。
それまでは地道に着実に、学び・実践・体感を繰り返していきたいと思います。

ハルシャニー


正義の味方

よく「ラ・セーヌの星」ごっこをした。これは幼い頃、好きだったアニメの名前で(笑)フランス革命を背景とした少女剣士の物語だった。花屋の少女が、世の不正と闘うため、夜な夜な仮面とマントを付け変身し(笑)白馬に乗り果敢に剣で闘う。いわゆる正義の味方に憧れ、大人になったらあんなふうに!と決めていたのに(笑)気付けばもう大人…。でも、あの純粋な衝動は今も胸の奥に根付いている気もする。知らぬ間に単純だったことは複雑になり(涙)大切な何かを見失っている気がする時も、本当は何が真実か? 子供心に感じた単純なこと、ホントはみんな知っていると思う。

ハートの葉っぱをひっぱって、よく遊んだペンペン草。

ところである時、食品を扱う職場でネズミを駆除することになった。私は上司に電話し駆除をやめてほしいと抗議した。しかし、衛生管理はお店の義務で責任、あなたの言い分は通用しない、と厳しく言われた。それは常識で普通のことだった。でも、ネズミの命を奪う、という現実を前に、分かりましたと言えず、ヨーガの非暴力の教え(ハルシャニーさんの記事の全生命にいかなる苦痛も与えないという教え)を考えてもネズミ駆除は絶対にいけないと思った。昔、鉢合わせしたネズミと目が合ったことがあり、あのネズミだって代わりのきかないたった一匹、みんな精一杯に生きている。また自分がかつて一緒に暮らした猫と、そこにいるネズミと何が違うのかも分からなかった。それにネズミは自分と同じようにも思えた。幼稚な私は公私混同してしまって複雑になり、仕事の義務や考え方の軸を見失った。そして抗議に必死になるあまり「じゃあ○○さんが飼われていた犬と、ここのネズミと一体何が違うんですか! 同じ命やと思います」と言った。突然、上司は黙られた。愛犬を亡くされたばかりだった。私はそれを知っていて、追い込むようなことを言ってしまった。沈黙の後、上司は感情を抑えるように、聞いたこともない低い声で言われた「ここで働く以上は、ここのルールがある。店を営業していかなければならない。店のルールに従えないなら、あなたが店を辞めるしかないということになる」。
真っ当なことを言われていた。静まり返った閉店後の薄暗い店内で、じっとネズミがこの話を聞いている気がした。
「じゃあ、辞めます」師にご相談して関わることになった場所であり、辞めたくなかったが、そのルールには従えなかった。電話を切り、自分の義務と非暴力について考え込んだ。私が辞めたって何も解決しない。誰かが駆除するなら意味ない。絶対に駆除をやめてほしい。一方で、他の人がするくらいなら自分がするべきじゃないのか? 私は非暴力と言いながら実は自分の義務を放棄しようとしているのか? と悩んだ。混乱する中で『バガヴァッド・ギーター』(インドのヨーガの聖典)の一場面がよぎった。戦場で自分の親類や友人たちと戦うことになった戦士アルジュナが、同族たちの戦いに何の意味があるのか? 自分の義務がどこにあるのか分からない、と神の化身クリシュナに訴え、戦いをやめようとする。そこでクリシュナはアルジュナへ、臆病を振り払って立て、戦えという、「汝は賢者のような言葉を使っている。しかし汝の悲哀には意味がない。ほんとうの賢者は生者のためにも死者のためにも悲しまない」。
私は偽善者か。何が正義だろう。アルジュナが訴えるように具体的な答えが欲しかった。藁にもすがる思いで、記憶上の師のある行為に答えを求めて、それにすがろうとした。でもそれは師の本質ではなく、表面的に行為だけを安易に真似ようとする私の盲目的な思いだった。自分の思いという、まさに藁にすがっていた。当然そこから答えは得られず、どうすべきか全く分からなくなった。そうなった時、命が関わるこんな大事なことを、師がこうされていたから私もこうする、とそんなマニュアル的な判断ではこの問題は済まされない! と思い直した。師へ何かをご相談した時、一概にこうとは言えないというふうな言い方をされることがある。Aの場合はBです、みたいな型にはまったルールなんかなく、その場の状況に応じて常に自分がいちばん他者にとって良いと思う最善を尽くすしかない、それを師から学んできたはずだった。定説も、決まりも、ヨーガには一つもない。拠り所は真理だけ。それをもう一度思い起こしながら、純粋に自分が感じることを信じようとした。
ネズミを守りたい、それ以外のことは今、考えることじゃないと決めた。偽善者でももういい、意見は伝えた今はこれでいい、と冷静になるために言い聞かせた。駆除の仕掛けは既に発注されていて、とっくに就業時間も過ぎ、できることはもうなかった。
そして暗がりのなか一人で店の戸締りをしながら、古びた天井や壁に向かって、姿の見えないネズミに説明して回った。明日から駆除の罠が張り巡らされるから絶対に出てきたらいけない、エサはぜんぶ毒だからと。危ない人みたいだが、その時は必死だった。(やっぱり冷静になってなかった)

翌朝、重苦しい気持ちで出勤した。スタッフ全員宛に上司から連絡が入っていた。ネズミ駆除の仕掛けを中止してください、と。奇跡だった。ネズミが来ない別の方法をとるという。見えざる者に救済されたとしか思えず、師に、神に感謝し、ほっとした。と同時に人の気持ちを傷付けたことがズシンと胸に響いた。何かが釈然としないまま月日は経ち、そして今になった。

春になると顔を出す。かわいらしい小さな姿。

非暴力について考えていた最近。ゴーパーラさんのマハトマ・ガンジーの記事が目に飛び込んできた。今から数年前にまたちょっと遡るが、ここのブログの昔の記事で私は、ある先輩が映画『ガンジー』から感じられた話を読んだ時、興味が湧きその映画を見ていた。しかし、見たくないリアルな暴力シーンがたくさん出てきた。インドの人たちが非暴力のために、敵に自らの体を差し出し打たれに行くのだ。想像していたような平和主義とか、そんな生易しさは全くなく、ある意味真逆だった。何の罪もない人たちが戦場で次々に命を落とす姿が衝撃的すぎて、なぜ……と理不尽さに怒りと悲しみで、途中何度もガンジーや非暴力すらも疑ってしまった。でも目を背けてはいけないと目をこじ開けて最後までぜんぶ見た。すると私の中に、ある印象だけが残っていた。それは師の教え「自らを他者の幸せのために与える」。

そして今。ゴーパーラさんの記事をきっかけに久しぶりに開く『あるヨギの自叙伝』。ガンジーは非暴力について、こうお話されている。
私は、何物をも恐れぬこと、何物をも殺さぬこと、という誓いを立てています。(中略)私には、その場の都合で自分のおきてを曲げることはできません
稲妻が走った。何物をも殺さぬこと。それは、何物をも恐れない、という精神があってこそ成り立つものなのか、と。敢えていえば、何物をも殺さぬことが目的だとは言われてない。非暴力の本質は、自分が解釈していたものとは別ものに思えた。

私は職場であの時ネズミを守りたかったが、表現を変えれば、生き物の死と直面するのが怖かった。「死」に、いろんな思いも重ねていた。『バガヴァッド・ギーター』のクリシュナの言葉通りだったかもしれない。命を守ろうとする思いが間違いとは思わないし後悔はしてない。でも自分の望む以外の状況を恐れていたから、他の意見は悪だと思っていた。
これは真の正義でも非暴力でもないし、私自身の行為の表し方は間違っていた。今さら気付いた。
正義感からくる思いは正しいと思い込んでいる分、自分の間違いに気付くのが難しい、また正義感は良くも悪くも恐ろしく威力がある。今のコロナ禍の問題も似ているかもしれないが、私はあの時、ネズミを守るためなら他を傷付けても仕方ない、という愚かな考えを持っていた。一方、上司はお店も従業員もお客さんも守る責任があり、その上で結局、私の拙い思いとその責任までぜんぶ被られた。未熟な私は当時それに気付けず、正義も非暴力も分かったつもりで、自分の意見だけが正しいと思ってしまっていた。
師から教わった大事なことがある。
物事は両面を持っていて、見方による。本当の意味で良い、良くないという基準をどこに設けるか。ヨーガでは真理という間違いのない真実。それを物差しとする。

光を浴びて、咲き始める桜

世の中の現象で絶対の答えはないと学び、その上で非暴力の教えはやっぱり大切だと思う。非暴力の神髄は、内面の凄まじい闘いの連続と、不屈の覚悟の上にあると思う。非暴力は、場面場面の行動ではなくて、終始一貫した生き方だと思った。でもそんな孤独な闘いを、なぜ死をもってまでガンジーとインドの人々は最後まで貫き通せたのだろうか…。

ガンジーは、人間が本来もっている崇高な本性を心の底から信じておられたという。そしてそれは、自分が特別なものを身に着けていたわけでもない、と言われている、「誰もが潜在的にもっているものではないでしょうか?」と。
人間の本性――永遠の真理をガンジーは信じられ、そこのみに集中し、人々がそれに目覚めることだけを信じておられたと思う。暴力の争いの中で、そのことを見失っている人たちを放っておくことはできなかったんだと思う。インド統一がガンジーの非暴力の上に達成されたということは、人間の本性――永遠の真理が証明された証だと私は思う。
・・・そのような信念で生き抜かれたからこそ、ガンジーも、あの名もなき人々も、自らを他者の幸せのために与えられた・・・やっとそのことに数年越しで納得した。やはりガンジーは、究極の正義を貫く存在だった。正義の味方の究極は、ヨーガの聖者、覚者たち。

身近な存在だったユキヤナギ。摘んでも摘んでも、元気いっぱい満開で、子供たちの人気者だった! 強く、春の美しい香り!

師からこんなことを教わったことがある。

無知や不正に対する怒りが出てきた時、単に火に油を注ぐのでは意味がなく、問題はどのように不正を無くすかという具体的な行為。ヨーガの様々な活動は世界の無知に対する挑戦、人助けの究極でもある。

子供心に感じた事に嘘はないと思う。あの憧れの思いも昇華させたい、だったら、もう正義の味方ごっこではなく、ほんものの、究極の正義の味方になるしかない!

野口美香


ヨーガと心の傾向 ③真理に向かってもっと大胆に!

先輩方のお話をうかがって、ヴァーサナー(心の傾向)と闘うには「真理だけをみていく」ということを改めて理解した私は、今現在これまで以上にそのことを意識しながら日常生活の中でヨーガの実践に取り組んでいます。(前回のブログ

まず、自分のヴァーサナーについてあれこれ考え、そこにエネルギーを費やすことは止めました。空気のように掴みどころがないヴァーサナーを相手にするのではなく、ヴァーサナーの原因であるエゴや無知をなくしていくこと。そのためには、既に自覚している自分の傾向やそれに気が付いた時にはその都度ヨーガの教え、真理に心や行動を沿わせていくように改めて意識するようにしています。
これもずっと師が言われ続けている事ですが「日常生活に必要なことにおいては、その時必要なことを淡々と行う」こと。苦手意識があるものに対して「また失敗するんじゃないか」とか「嫌だなー」という感情が湧いてくると、極力その思いには意識を向けないようにして、その時必要なことに気持ちを集中するように努めています。時間もかかりますし、上手くいったり失敗したりしていますが、諦めず一歩一歩です。
また、先輩からは「苦手なことを積極的に行為していくことが、日常における最も単純で効果的な方法だと思います」とアドヴァイスもいただきました。苦手なことを積極的に行うというのはなかなか楽しく!?できることではないとは思いますが、確かに真理に好き嫌いはありません。これも実践あるのみ!です。

そして、唯一真理だけを求めていくこと─。真理、本当の自分、神、様々な呼ばれ方をしますが、それらはすべて同じ一つのものであるといわれ、ヨーガではその一つのものに向かうために、それぞれの性質(ヴァーサナー!)に合った道が用意されています。古来より真のヨーガの師は弟子の性質を見抜き、一番速やかに真理へと進める道を示されるといわれています。師は私にバクティ・ヨーガの道を示して下さり「いつもどんな時もすべての思いを神に向けるように」とおっしゃいました。その時から、私は湧き起こってくる色いろな思いを師と神に向けるようにし、心の中で話しかけるようにしています。キールタンを歌うと自然に心は神の御名で満たされます。いつからか、師と神は常に私の胸の奥に在り、忘れることはありません。ですが私は、すべての人の中に、この世界の森羅万象すべてに光り輝く神の姿を見る、その境地に憧れてやみません。それにはサンスカーラもカルマもヴァーサナーもエゴも無知も、一切を燃やし尽くすくらいの神への強い想いが必要なのだと感じています。

空に向かって真っ直ぐに咲く白木蓮

2016年に京都で行われた特別サットサンガで師が語られた教えが、以前このブログで紹介されていました。私は胸が熱くなるような感銘を受け、いまだに時折読み返しては当時とまったく同じ気持ちになる言葉があります。

ヨーガは未来志向の、自分の運命は自分でしか切り開けないという考え方なのです。過去のカルマがどうであれ、それに引きずられていたのでは運命的に縛られて生きていくということになるでしょう。でもたとえどんなカルマがあろうとも、そんなことはもう過去のこと。今、今からは違う、自分自身で変えていくという、ものすごくダイナミックな、積極的な考え方に基づいています。自分が自分を生きていくという、主体性、自立性、これを大事だと考えています。
そうして本当の私と言う自立自存、それだけがあるという、何ものにも依存していない、独立してそれだけが尊い存在である!ということを体得するわけです。誰もがそれをできます!ここに生まれてきた本当の意味があるのですよ。たとえ数え切れないほどの輪廻転生をしてきたとしても、これがゴールです!!

今回、自分のヴァーサナーへの疑問から、先輩を通じて、私にとってまた新たな発心を得ることが出来た貴重な機会となりました。
ヨーガには自分で自分を変えていく力があります。そしてヨーガとは自分の運命を自分自身で切り開いていくこと!
ヨーガの教えへの理解を深めることも、諦めず一歩一歩前進することもヨーガの実践においてとても大切なことですが、自分のヴァーサナーなどに捉われず、真理に向かってもっと大胆に進んでいきたいと思います!

シャルミニー


もうすぐ春の祝祭!

鶯のさえずりが聞こえ、草花が次々と花開き、一気に芽吹いていく生命の力を感じる春。プレーマ・アーシュラマのすぐ近く、御室仁和寺でも桜が咲き始めました!

 例年なら美しい満開の桜の下、各地から大勢の人々が集う春の祝祭「サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー」ですが、今回はオンラインで開催することになりました。そして、今年はマハーヨーギー・ミッションが設立されて45年目、ニューヨークは25年目にあたり、そのお祝いも兼ねての記念合同祭となります。
Zoomでの祝祭は初の試みとなり、祭事担当者で目下、準備中です。当日はニューヨークや台湾ともつないだり、貴重な映像配信も予定していますので、オンラインならではの晴れやかな喜ばしいものになるはず!です。

仁和寺境内の桜

さて、いったいどんなお祝いなのかといいますと―—
サナータナ・ダルマとは、古来より人々が拠り所とし、求道者たちが命を懸けて実現してきた永遠の真理。それは目には見えないものですが、ヨーギーやアヴァターラ(神の化身)といわれる存在によって脈々と継承されてきました。
世の中が混乱を極め、人々が迷い苦しむ時にはアヴァターラが顕れ、希望の光をこの地上にもたらし、人々の模範となるような生き方を具体的に示してきたといわれています。彼らは自ら道を切り拓き、深遠なる真理を成就した後は、ただただ、それを人々に分け与えることに生涯を費やされたそうです。

この祝祭は、サナータナ・ダルマという形のない真理そのものを祝い、それを目に見える100%純粋な形で、時代時代に顕れてきたアヴァターラたちに歓びと感謝を捧げる祝祭です。また開催するには主ブッダのご聖誕日、花祭りの頃がふさわしいということで、2017年からプレーマ・アーシュラマで始まりました。

桜の花びらが舞い踊る中、会場に向かう(2019年)。

これまでの祝祭では、アヴァターラの代表的な存在である、ブッダやシュリー・ラーマクリシュナに焦点が当てられました。彼らがどれほどの強大な情熱を傾け、真理を探求していったのか、そしてどのように苦しむ人々に寄り添い、また弟子たちを導かれてきたのか。生身の存在としての、その尊い生きざまに迫りながら、サナータナ・ダルマへの仲間たちの熱のこもったメッセージの数々が宣言されてきました。
そして、いつも弟子たちの話を嬉しそうに聞き入っておられた師は、みんなの思いをさらに引き上げるように、アヴァターラたちが見いだしてきた普遍なる真理の精髄を、珠玉の言葉でもって語ってくださいました。
まさに時代を超えたサナータナ・ダルマのヴァイブレーションに、会場は湧き立ち、私たちのハートにみずみずしい歓喜が流れ込んだことが蘇ります。 

みんなの笑顔が溢れる(初回 2017年)。

今年のテーマは「サナータナ・ダルマを生きる」。
サナータナ・ダルマとは、私たちの命の最も源にある、唯一無二のもの!
この宇宙の基盤として絶えず、存り続けているであろうもの!
45年間もの間、師が何度も繰り返し、それだけを語り、伝えてこられたもの!!
ヨーガを学ぶ私たちにとっては、とても身近なテーマであり、真理を生きるとはどういうことかを問いかけ、それへの誓願を立てることは、自分が何を求めるのか、どうありたいのかということに心底向き合うことになります。
きっと今年も、たくさんの仲間たちの真理への迸る思いを存分に聞けることでしょう!

この祝祭が、私たちがサナータナ・ダルマの道の真っただ中にいるのだという確信、信念を高め、世界が大きく揺らぐ中においても、一人一人のあり方、人生を貫く、堅固なものとなっていくことを願います。
そして、師の永きにわたる導きと多大な働き、これまでサナータナ・ダルマを核としたマハーヨーギー・ミッションの礎を大切に築いてくださったことに、心から感謝を捧げます。

45年前にアーシュラマが開設された時、師が目印になるものをと、最初に作られた小さな看板。今も同じものが掲げられている。

 

マードゥリー


神のかくれんぼ

「もういいかい?」「まーだだよ」

私は小さい頃、ときどきですが、『かくれんぼ』をして遊んでいました。
鬼になった人が目をふさぎ、「もういいよ」の声で、隠れん坊を探し出す遊びです。
今の子供たちもしているのでしょうか👀?

今回のブログは、『神のかくれんぼ』についての物語をご紹介させていただきます。

あるとき、裕福な商人が商用で旅に出た。
実業家に変装した泥棒が彼の道連れになり、チャンスがあり次第、彼からお金を盗もうと狙っていた。
毎朝、彼らが泊まっていた行きずりの宿屋を出る前に、商人は決まって明けっ広げに彼のお金を数えてからポケットに入れた。
そして夜になると商人は、見たところ怪しむ様子もなく眠りについた。
商人が眠っている間に、泥棒はいつも必死に商人の持ち物すべてを調べるのだが、お金を見つけることはできなかった。
失望に終わる宝探しの夜を何度か味わった泥棒は、結局諦めて彼の本当の意図を商人に白状した。
そして、どうしてそんなに上手くお金を隠せたのかを教えてもらうように懇願した。
すると商人は、何気なく答えた。
「私は、最初からあなたの企みを知っていました。ですから毎晩、あなたの枕の下にお金を置いたのです。あなたが決して見ようとしない、唯一の場所がそこだと十分承知していたので、私は安心して眠れました」

泥棒(心)は外の世界に財宝があると思って探し求めます。
しかし、至高の財宝(神・真実)は泥棒が決して見ようとしない唯一の場所、心の内奥に神ご自身が隠されたという、何ともトリッキーな神のお遊びをこの物語は隠喩しています。

私はこの物語を読んだ時、「今、ここに、この瞬間に、神(真実)は在る!」そう思い、ハッとさせられ、心の内側に意識がグッと引き戻されたのでしたーー

「もういいかい?」「もういいよ」

私、大人になっても、かくれんぼやってるなと感じます。

心は目隠しされた鬼ーー
「もういいよ」の神の呼び声で心の目を開いて瞑想し、神を探求しているのだと思いました👹💨

そして、「みーつけた!」と言って笑いたいです、無邪気な子供のように😄

愛するクリシュナが突然お隠れになり、クリシュナを探し求めるゴーピーたち。 再び彼女たちの前に顕れたクリシュナは、次の弁明をします。 「手に入れた財が失われたとき、財をなくしたその人は、それのことばかり考えて、他のことは気にもとめないように、それと同じように、女たちよ、私のために世の常識も、ヴェーダの規定も、自分の身内も、放擲し去ったあなた方を、私に信順させるために、私は眼に見えぬ姿をとって、密かに隠れてしまったのだ」

ゴーパーラ


フォカッチャの会

先日、京都と松山の数名でオンラインでの勉強会をしました。私は松山に住んでいますが、京都へ通うことができていた時には、毎月先輩グルバイが住む庵に滞在させていただいていました。その時に過ごした時間のように、気軽にヨーガの疑問を聞いたり、皆で師に思いを寄せて語り合ったりできるような交流を、ということで、先輩方が実現してくださったのです。私たちはこの勉強会を「フォカッチャの会」と呼んでいます。なぜこのようなネーミングなのかは後ほど触れるとして、まずはその様子をご報告したいと思います!

日ごろ感じていた些細な疑問を先輩にたくさんお聞きしたのですが、中でも強く印象に残っているものがあります。質問したのは、<日常生活で何を大切にしているか>ということです。
私は食材などの買い物をする時に、同じものを買えるならできるだけ安く買いたいという思いを持っていました。少し遠いお店へ行けば安く買えるけれど、時間がなくて近いお店で高く買った場合、「時間がかかっても睡眠時間を減らせば遠くのお店へ行けたのに、ベストを尽くしていないのではないか」といったことを考えてしまっていました。
ベストを尽くすことは大切だけれど、この場合<安く買うこと>に執らわれているようにも感じていて、先輩たちは普段どのようなことを大切にして日常生活を送っているのかを尋ねました。

この質問に対して先輩は、八正道 の中の『正命』について話してくださいました。以前先輩は師に、「正命とは生活を整えることですか?」と質問されたそうです。師は力強い口調で、
「正命とは生活を整えるとか、そんなこと小さなことではない。どう生きるかということだ 」
と教えてくださったそうです。そのお話を聞いて私は、「ヨーガを中心に生きたい」と思いました。今の私にはアーサナ、瞑想、聖典の学習が必須です。その時間を確保し、かつ疲れて集中できないといった事態は避けたい。ではそのためにはどうすることがベストなのかと考えれば、答えは自然と出てきます。
(※ここで言う『どう生きるか』ということは理想と同義です。私は咄嗟に『ヨーガを中心に生きたい』と感じたためそのままお伝えしましたが、もっと考えれば、理想を掲げ、それを実現するためにはどう生活するのか、と落とし込んでいくことになると思います。)

加えて、思いを残さないということも教えてくださいました。こう、と決めて行動したなら、思いを残さない。例えば、日々の料理は大切だと教えられていますが、「今日は時間が限られているから、料理は簡単なもので済ませよう」という日があってもいい。もしそう決めたら、それ以上料理のことについては思わない。当たり前のようですが、ベストを尽くせているのか?と悶々と考えていた私にとってはとてもクリアな答えでした 。

実は、この勉強会は二日間にわたって行われました。このようなやり取りに加えて、一日目の夜にフォカッチャ(イタリア発祥の平たいパン)の生地を仕込み、二日目の朝には瞑想会をした後、仕込んでいた生地を焼いて朝食を共にするという何とも贅沢なプログラムだったのです!!ここでフォカッチャの登場です!最近、師が好んで召し上がられているフォカッチャのレシピを、一緒にお住まいのシャーンティマイーさんが先輩に伝授され、それをさらに私たちが教えていただいたのでした。このフォカッチャは簡単に作ることができるのに、とっても美味しいんです。何より、師を思いながら同じものをいただき、味わえる歓びを毎日感じることができます。


そのフォカッチャのレシピをブログにも掲載させていただけるということで、ご紹介いたします!

<材料>
(A)強力粉 200~240g
(A)ドライイースト 小さじ1
(A)砂糖 小さじ1
(A)塩 小さじ1/4
(A)ぬるま湯(40度くらい) 200ml
(A)オリーヴオイル 大さじ1
オリーヴの実・乾燥バジル 適量
岩塩 少々

1.(A)を大きめのタッパーに入れて混ぜ、ひとかたまりにして冷蔵庫で一晩寝かす
2.翌朝タッパーを冷蔵庫から出し、常温で30分~1時間ほど放置
3.バットのようなものにクッキングシートを敷き、生地を平らに広げる
4.種を除いてスライスしたオリーヴを表面に押し込み、乾燥バジルとオリーヴオイル(分量外)、岩塩を全体に馴染ませ、フォークで生地を何か所か刺す
5.オーブンまたは魚焼きグリルで加熱
 加熱の目安…オーブンなら220度で予熱後、15分程度焼く。魚焼きグリルなら始めはアルミホイルをかぶせるなどした後、焼き色がつくまで焼く。
※ご家庭の調理器具によって分量や加熱方法などは微調整していただければと思います。
6.食べる前に好みでオリーヴオイルをかける

二日間の交流を終えた後は、まるで京都から帰ってきた時のようなすがすがしい気持ちで一日を過ごすことができました。シッディ(ヨーガの修練の副産物として現れる超自然力)を使って同時に二か所に姿を現した聖者がいましたが、私たちはオンラインという現代のテクノロジーを利用して、離れていても空間を超えることができます。 そして、グルバイとの交流によって前に進む力を与えていただいているということ、それは何にも代えがたいほど力強いということを、あらためて実感しました。
このような機会を与えてくださった先輩方、そしてすべてを導いてくださっている師への感謝を胸に、今日も理想を見つめて生活しています。

3月に入って行なわれた第3回目のフォカッチャの会。この日は東京のグルバイの方も参加されました! (写真のフォカッチャはオーリブの実がなかったので、ブルーチーズと粉チーズで代用しています)

大森みさと


海と波

他県への移動が難しい状況になって、はやいもので一年。どんな一年を過ごされていましたか。私は、力んで空回りしたり、時には迷走することもありましたが、その度に様々な形で師に導かれて、ヨーガを続けられたように思います。そんな中で、師の教えがつまった『ヨーガの福音』が私の希望となって、道を照らし、なくてはならないもののひとつになりました。

至高の真実は名も無く形もなく、ただ存在である。
 それだけが真実在であり、真我であり、神と呼ぶものである。
 その一つなるものが一切万物として顕現しているのだ。
                   シュリー・マハーヨーギー

 この教えのように、すべてのものの中にある神を感じたい!それが、ありありと存在することを見たい!しかし、日常の中でそれを行うには、とても難しいことだと感じていました。
ある時期、仕事先が遠方のことが多く、そこへ向かう乗合の車の中で『ヨーガの福音』を開き、開いたところに書かれている教えを読み、それを感じながら、考えながら現地までの時間を過ごすことが日課になっていました。

それは海と波のようなものです。
 心はいろいろな波の形に巻き込まれてしまう−−−だから心は違いを見てしまう。
 でも本当は一つの海しかない。
 至高の真実には形もない、名前もない、ただ存在するだけ−−−
 それだけが「実在」であり、それは生まれも死にもしない。
 それが私たちの真我であり、神とよばれている。
 その至高の意識が一切万物として顕現しているのだ。
                  シュリー・マハーヨーギー

松山 双海海岸

 ある日、海岸線を走る車の中から、ぼんやり海をながめていると、突然、「それは海と波のようなものです」という教えの真意が体感となってやってきました。日常の中のすべてにおいて、私が見ていたのは波だったということが明確にわかったのです。「えー!!あれも、これも!!ぜんぶ波だったんかい!!」思わず、ツッコミを入れるほど、自分が波を見て、あーでもない、こうでもないと真面目に巻き込まれ、批評していた姿が滑稽で、一気に波への興味が冷めていくのがわかりました。その一方で、海の存在を同時に感じたのでした。「なんて静かで穏やかなのだろう」身を委ねると、一瞬で心が満たされ喜びが溢れる、波とは異なるその体感は、師にお会いした後、「また会いたいなぁ」と自然に思ってしまう、それに似ていて、いい意味で中毒性がありました。それ以来、日常の中で起こる出来事や自分の心の動きを感じると、「それは波だよ。あるのは、海だよ。」というと自然に体感した海へとシフトされ、識別がなされました。そして仕事の合間には、自ら海に飛びこんでいます。

 この体験は、ひとつのきっかけに過ぎません。大切なことは、いつでも、どんな時でも、聖典を読んだり、大好きな覚者や聖者の写真を見たり、オームやマントラ、神の御名を唱えて、心を神聖なものに向けておくことだと感じています。まだまだ、みんなで集うことは難しそうですが、感染対策とあわせて、波に巻き込まれない対策も徹底して楽しんでこの難局を乗り越えていきましょう!

オーム・タット・サット・オーム!!

山口正美


石の上にも三年

ヨーガに出会って3年ほどになります。

もともと子供の頃から能動的・積極的な性格ではなく、主体的に何か新しいことに挑戦したことなどほとんど記憶にない私ですが、ヨーガに関しては(神の思召しや恩寵という話は置いといて)自らの意志で求め、やると決意しました。周囲に流されるように始めたことが長続きしたことはあまりなかったので、ヨーガを始めた頃、『少なくとも3年間は続けよう』という思いが密かにありました。そして3年経った今、紆余曲折ありましたが何とかヨーガとの縁は続いており、とにもかくにもその時の思いは実現したという感慨が、なきにしもあらずです。

このブログの執筆依頼を機に、この3年間を振り返ってみました。

実家の近くにあるでっかい石。の上にも三…

日々の変化は微々たるものですし、ヨーガの実践によって、変化に対して無頓着になってきたり過去を蒸し返すことが減ってきたこともあって、普段、変化を実感することはあまりありませんでした。しかしこの機会に改めて自分を振り返ってみると、さすがにそこそこ変わっています。

アーサナや瞑想の習慣が身について、暇つぶしにやっていた娯楽は離れていきました。食事を改善しようとする意識も芽生えて、手軽に腹を満たそうとする悪習慣は去りつつあります。上述の、変化に対して無頓着になってきたことや過去を蒸し返すことが減ってきたことなども含め考えると、まだ実感のない変化もあるかもしれません。
こうやって並びたてると、改めてヨーガに対する感謝が湧いてきます。ただ、これらの変化をもたらした実践に対して常に前向きに取り組めたわけではなく、3年という短い期間の中でも紆余曲折ありました。

最初の頃は『カルマの道ではなくヨーガの道を』と張り切ってやっていましたが、高級スイーツにも犬のフンにも止まる蠅の如く、心はヨーガの実践と過去の習慣との狭間をフラフラしていました。徐々に過去の習慣が剥がれていき始めると、今度は、日常の中でカルマとヨーガを二項対立させているような自分の理解に違和感を覚え、「正誤の評価を下して正しい一方へ行こうとしているが、そういう方法で二元性を超越したものであるはずの真実に辿り着けるのか」「辿り着く? そもそも真実は遍在であるはずなのに、どこからどこに到達しようというのか」などなど、言葉上の理屈や納得を求めようとする煩悩とヨーガの実践との狭間をフラフラする始末です。

それでも今なおヨーガとの縁が保てているのは、やはり先輩方の存在が大きかったと感じます。真剣にヨーガを実践されている先輩の姿は、過去の習慣や知的思索の誘惑を遥かにしのぐ魅力を放っています。直接お会いしたり動画などでヨーガに対するその姿勢を拝見するたびに、過去の習慣や知的思索に反応する自分を恥じ入り、ヨーガの実践へと舵を切ることができました。まぁ『実践からフラフラ離れそうになっては先輩の背中に導かれる』ということ自体が、この3年間で何度も繰り返されているのは面目ないところでもありますが。

直近の瞑想専科の動画受講で、その並み居る先輩方が異口同音に、『あきらめず粘り強く実践し続けた』『心が限界まで追い込まれたような時に道が開けた』というお話をされていました。私をいつも導いてくださる力の背景を垣間見るとともに、ヨギさんと出会って以降、さらに道が開けるような体感がなかったこれまでの私の実践には、心が限界まで追い込まれるほどの真剣さがなかったのだと痛感しました。

心が追い込まれるほどの実践に尻込みする思いはありますが、ある意味この3年間で「心にゆとりのある実践を3年続けても、変化するだけで道は開けない」ということを体得したといえる私には、それほどの実践が必要だということは明白です。この厳しくも明白な結論と、できれば追い込まれたくないという甘えとの狭間でしばらくフラフラするであろう私は、また先輩方の背中に導かれ、助けられることでしょう。これまでもこれからも、ありがとうございます。

ヨーガに出会って3年。
3年座り続けてようやく石は温まってきましたが、これから必要なものは、虚仮(こけ)の一念。岩をも通す一念が必要なことがわかった3年目の振り返りでした。

深水晋治


シヴァと三日月🌙

ヨーガの第一修行者であり、グル(師)であり、守護神であられるシヴァーー
シヴァはヨーギー(ヨーガ行者)にとって憧れの存在です。


大学生の頃、インドを旅行していた時からシヴァを目にしていて、「シヴァ、カッコいいな〜!」と思っていました。
でも意外と知らないことも多く、

「シヴァの頭に付いている三日月は何なのか?」

とグルバイ(ヨーガの仲間)とオンラインで話している中で話題に上がり、「うーん…」となり、調べることに。
ネットや書籍で調べるのはどうかと思い、いちばん信頼のおける師シュリー・マハーヨーギーのシヴァと三日月について説かれた教えを兄弟子から教えていただきましたので、以下たっぷりとご紹介させていただきます!

「三日月そのものはーーナンディーという牛がいるでしょう、ナンディーのシンボルなの。ナンディーは牛で、シヴァの本当に親しい仲間ですけれど、やっぱりアジア――インド、日本もそうだけれども、農耕民族に牛というのは欠かせないものですし、その欠かせない牛を使って農業、作物を恵みとしていただいてきたわけです。そこに必要なのは雨ですよね、雨。あまりに降り過ぎるとそれこそ山崩れになるから、度が過ぎるとだめだけれども、やっぱり水が不可欠です。その水というのは、もちろん天から降りてくるわけだし、シヴァは暴風雨の神として――前身はルドラーという神であったということも言われているしーーそういう土着的なシンボルとして神格化されているのがこのルドラーでありシヴァであり、またナンディーもそういうふうにして神格化されている。だからシヴァが三日月を戴いているというのは、やっぱりそこにその重要性を象徴しているんじゃないかと思います。
もちろんアムリタとも関係をしていて、アムリタというのは直訳すれば不死ということです。これが霊的な甘露という味わいを指すことにもなっていくのですけれども、この自然界を見てみれば、朝に草木に夜露がくっ付いているのが見られますよね。あれは天から降りてきたアムリタというふうに理解されるわけです。夜の間に、月の時間の中においてアムリタが滴り落ちている。だからシヴァも、月というナンディーを象徴する三日月というのは、夜の象徴なんです」

ーーシュリー・マハーヨーギー

なんとシヴァの三日月は傍にいるナンディー(牛)の象徴であり、それは農業や雨、夜露(アムリタ)と密接に関係していることを意味していたのですね!

ではなぜ、形が半月や満月ではなく、三日月なのでしょうか?
その意味も師はお答えになっていました。

「シヴァの三日月は月を表していますけれどもーー月も本来は丸なんですけれどもね、三日月で表されていることの意味は、月の満ち欠けという活動性。よくインドの代表的な三神を創造、維持、破壊というふうに呼ばれることがあります。ヴィシュヌは維持を司り、シヴァが破壊を司る。破壊は破壊で終わるわけではなく、そこには再生という意味がもたされていますから、ここでも命のダイナミックな活動性が見えています。月もそのように、同じように理解できると思います。だから、シヴァの三日月は自然界における変化のあるダイナミックな活動性、そして死と再生、そういうものも象徴的に描かれている。それが三日月という形になっているということです」

ーーシュリー・マハーヨーギー

三日月の形は、月の満ち欠けという活動性を表していて、それは死と再生のシヴァのダイナミックな性質を象徴しているということーー
なるほど、謎が解けました!

この他にも師は、毎年作っているマハーヨーギー・ミッションのカレンダーに満月と新月の印があることーー月の暦の太陰暦にも言及されていました。

「最近は、なかなか夜空を見上げるという機会はめっきり減りましたよね。だから、今夜の月の形がどんなのかというのは知らないままに、一年一年が過ぎ去っていっているような気がします。でも自然界の働きというのは、太陽より、むしろ月の満ち欠けによって運行している。例えば、潮の満ち引きであるとか、作物の成長であるとか、あるいは四季折々の自然の命であるとか。そういうものを少し思い起こすことができたらということと、現代私たちが使っているカレンダーというのは太陽暦ですけれども、その昔は太陰暦といって、月の満ち欠けによる暦、カレンダーを使っていたそうで、いまだにアジアの地域ではそういうものも併用して使っていることが多いです。太陽と同じぐらいに月の神秘性というか、その存在というものも時には思い出して、美しい月を眺めることができたらといったヒントにもなればと思いまして、満月と新月を入れているんです。
ヨーガをやっていれば、シヴァ神の髪のところ、あるいは額に三日月が描かれているのをよく見つけていると思うのですけれど、あれはシヴァという神格がこの自然というものに深くかかわっている――月というのはシャクティ(根元力・女神)ですよね――それと一体になっているという象徴が込められています」

ーーシュリー・マハーヨーギー

月の満ち欠けが潮の満ち引きなどの自然界の働きに影響しているということは知ってはいたのですが、こうやってしっかりと教えていただくと納得というか、月はシャクティー(自然・女神)の象徴でもあるということで、もう唸るしかできないシュリー・マハーヨーギーのシヴァと月についての教えです。
これら師の象徴を読み解く深遠な力に、私自身はシヴァの如き瞑想力を感じずにはいられませんでした。

リシケーシュのシヴァ像

ちょっと余談になりますが、私は約4カ月前から職場のある嵐山に引っ越しました。
昨年までの6年間くらいは北野天満宮近くにあった自宅から嵐山まで、テレビでよく映る渡月橋を渡って自転車通勤していました。
嵐山は洪水や河川の氾濫が数年前にあるなど、水害も多い地域です。
嵐山近くのだいたい車折神社辺りになると急に雨が降ってきたり、スコールのような凄まじい大雨と雷に襲われたこともあり、山と川が隣接している地形から雲が発生しやすく、大雨や嵐に見舞われることが多い場所なのかなと感じていました。
ただその反面、嵐山は本当に自然豊かな表情を見せてくれる景勝地でもあります。
桜や紅葉はもちろんのこと、新緑もきれいですし、秋の夕暮れも美しい。
渡月橋に奇跡のような虹のアーチがかかっていたこともありました。
大雨の後は川の流れる音が「オーム」に聞こえるほどダイナミックな流れになり、心が一瞬にしてその轟音に奪われる体験もありました。
そして夜は、「渡月橋」という名が示すように、橋から見える月が本当にきれいなのです。

嵐山を南に下がった松尾大社のすぐそばには、古くから月の神様を祀る月読神社というものもありますし、遥か昔からここに住んでいた人たちは月への感謝の念を感じていたのだろうと想起させます。
月、雨、雷、川、山という自然のダイナミックな運行が凝縮されている嵐山ーー日本でシヴァを感じられるスポットなのでは👀、と私は思います!

 

過去のブログにはシヴァのことを紹介しているブログがいくつかあります。
久しぶりに読むと、とても面白かったです!!
皆さまもぜひ読み返してみてください。

「シヴァ神」
「神と魂を結ぶ愛の歌ーーキールタン」
「不滅なる主ーーキールタンの味わい」
「ブラヨーヘイ」vol.7 北野天満宮編

リシケーシュのシヴァとガンジス河

 

ゴーパーラ


アヒンサー(非暴力)に徹する

新型コロナウイルス感染症は私たちの日常を大きく変えました。
私が暮らしている地域でも、医療従事者のお子さんの保育園登園拒否や、病院内駐車場の通勤車への心ない張り紙など、差別や偏見による行為を聞くことが度々あります。
過剰な不安感や間違った情報によるものがほとんどだと思われますが、決してあってはならないものです。そして、医療従事者に対してだけではなく、身近なところでも起きています。

以前にブログで少し紹介させていただきましたが、職場の鍼灸治療院に来院される患者さんにも、状況が長期化するに連れて気持ちに余裕がなくなっているように見受けられる方が少なくありません。
高齢で一人暮らしの方は、買い物に出かけることすらも怖くなり、塞ぎがちになっています。そんな気持ちを抱えて買い物に出かけた時に、家族連れが賑やかに買い物しているのを見ると、自分ばかりが我慢を強いられているようで腹立たしくなると言っていました。同じく高齢の方で日頃から警戒心が強かった方は、陽性者が出たと噂で聞いた建物には絶対に近付かないようにしている、怖くて人が歩いているのを見ると、陽性者ではないかと疑って見るようにしている、と言っているのも聞きました。 また会社勤めの方は、社内で陽性者が出た際に、その感染経路が飲み会だったと聞いて、憤りを感じて投げやりな気持ちになってしまったと言っていました。

話を聞いているとそう思ってしまう気持ちが分かるような気がして、つい感染対策に気を付けていない人達のことを一緒になって話してしまいました。でも、それを言ったところで現実は何も変わらないし、むしろ心の中がもやもやとして余計に波立つような感覚になりました。自分は感染対策に気を付けて生活しているという自負の元、会ったこともない人達に対して偏見を抱き、差別的な 発言をしてしまっていることに気付き、反省しました。
こういう何気ない会話をする中でも、互いの思いや言葉の持つ力に影響を受けているのだと痛感します。

ヨーガの教えの中に、アヒンサーがあります。非暴力の教えです。
アヒンサーは、他者(全生命)に対していかなる苦痛も与えない、という意味。それは行為はもちろんのこと、言葉で与える苦痛や心の中で思うことも含まれています。
日常生活でアヒンサーを実践していく時は、苦痛を与える言動をしないように気をつけますが、自分にはそんなつもりはなくても、言葉遣い一つで相手を傷付けてしまうこともあります。頭で分かってはいてもそう簡単にできることではありません。だから、やはり根本である思いを正しいものにしていくことが重要だと思います。

自宅近くの公園で見つけたフキノトウ。「真理は一つ」という花言葉があります。

それで、先ほど書いた通り、コロナ禍にまつわる様々な患者さんとの会話の中で、私自身がアヒンサーを実践できていないなあと感じ、改めて意識して今できる具体的なことは何かを考えました。先入観を持たない、ネガティブな話題が出ても同調しない、そういう話題に終始しないように話の方向を変える、等々。でも、何かもっと大切なことが抜けているのではと思い至りました。
それは、上辺の行為だけ調えるのではなく、「すべての生命は等しく尊い」という真理が思いの根本になければならないんだということ。
思いが正しくなれば自ずと謙虚になり、優しさに満ちた言動に繋がっていく。

ふと、昨年末のブログに書いた「愛は優しさでしか表せない」ということと、アヒンサーを実践することとは同じであるという気がして、今一度ただ他者を愛しむようにしようと決意を新たにしました。このことが根本にあれば、小さな行為でも大きな意味を持つかもしれない。最初からうまくいかなくても、謙虚さを持って訓練していこうと思い、具体的な実践を始めていきました。

  • 患者さんと会話をしながらも、その人の中にある純粋な存在をイメージして感じるようにする。
  • 話に安易に同調しないように気をつける。
  • 揺らぎそうになったら、みんな尊い存在なのだから、と心の中で繰り返す。
  • 相手の思いや言葉を否定するような発言にならないよう気を付けながら、少しでもその人の気持ちが明るい方に向かっていけるように願いながら発言することを心がける。
  • 話をしたタイミングでうまくいかなかった時は、その患者さんが玄関を出てお帰りになるその瞬間までチャンスを伺い続けて、チャンスがなかった場合は思い切り笑顔でお見送りするようにする。

今やっていることが本当にアヒンサーと言えるのかどうか分かりませんが、やり続けた先に体得されていくものだと思うので、今は自分がよいと思うことを根気強くやっていきたいと思っています。

登山中に見つけた杉の切り株から、小さな幼木の芽が芽吹いていました。

ヨーガの聖典『ヨーガ・スートラ』では、アヒンサーについてこう書かれています。

非暴力(アヒンサー)に徹した者のそばでは、すべての敵対が止む。

一人一人がアヒンサーに徹することで、少しずつでも差別や偏見をなくすことができる。穏やかな空気が流れて平安な世界に変わることができる。そうなれるよう、まずは自分自身が徹底して実践していきたいと思います。

ハルシャニー