よりよく生きるための「食」~さまらさの台所

先日、ヨーガの料理教室「さまらさの台所」のオンラインクラスに初めて参加させていただきました。これまで「さまらさの台所」には何度か参加させていただきましたが、オンラインクラスは初めてだったので、どのように進められるのかとても楽しみにしていました。
今回のメニューはクラムチャウダー、アスパラとチーズの春巻き、菜の花と新玉ねぎのマリネ。わが家は4人家族なので、日頃はつい手慣れたメニューをさっと作ることが多いのですが、動画を見ながらレシピ通り丁寧に作ることにしました。

今回は食材の一つにちょうど春が旬のアサリが使われていました。今は砂抜きのアサリもよく見かける様になり、私も普段は砂抜きのものをよく使うのですが、動画ではアサリの砂抜きの仕方も紹介されていたので、久しぶりに砂抜きから始めることにしました。
殻を閉じた状態で白いトレーにパックされスーパーで特売していたアサリは、塩水の中でだんだんと口を開き、2本の水管や舌のようなあしを出して動き始めました。時折、ピューッと勢いよく水を吐き出します。その様子をじっと見ていると、広い海でこのアサリたちが魚や他の生き物と一緒に元気に生きている光景が私の頭に浮かんできました。すると、買ってきた時は食材の一つだったアサリが、一匹一匹、今まさに生きている私と同じ、命ある生き物なのだと強く実感され、急にアサリたちが愛おしく思われました。「この子たちを食べるのか…」何だか食べたくなくなってきました。その時ふと、今と同じ気持ちになる時があることを思い出しました。私はよく、料理で使った後の大根や人参やネギなどをキッチン栽培で育てて、新しく伸びてきた葉っぱをスープやお味噌汁の具に使ったり、小さな家庭菜園でハーブやベリーなどを育てています。目の前でだんだん育っていく様子をみていると、野菜も生きているんだなぁと同じように愛おしくなり、食べるのを躊躇してしまうことがあります。けれど、野菜やハーブも美味しくいただいていることを思い出し、アサリも美味しくいただこうと決心して調理しました。

その後、別の日に行われたオンラインクラスでは、実際に調理をした感想を皆で話したり、疑問に思った事などを講師のサラニーさんとサティヤーさんに質問したりしました。普段はお母さまが料理をされているという方は、「母にとても喜んでもらえました!」と嬉しそうな笑顔で話され、「子どもが独立したので、久しぶりに自分のためだけにゆっくり楽しんでお料理をしました」という方もいらっしゃいました。やはり共通して一番多かったのは、生きているアサリをいただくことに対しての感想でした。皆さん、生きているアサリを目の当たりにして、アサリの命をいただいているということを実感し、感謝していただかなければいけないと改めて感じたと話されていました。

アサリのクラムチャウダー。殻からも出汁を取りました。

今回のお話の中で「全体食」について、サラニーさんから「動物性のものであっても野菜であっても命あるものはすべて余分なところは一切なく、丸ごと全部いただくことで、その食べ物のエネルギーを最大限いただくことができ、命を無駄にしない。またそうすることで食べ物への感謝を行為として表わすことができる」というお話がありました。
そのお話を聞いて、私たち人間も動物なので、何かを食べなければ生きていけない。命と命は繋がっている。生命全体としての命の営みの中で、“食べる”という行為を通して私たちは与えられたこの命をどう考え、どう生きるのか。日々、何のために“食べる”=“生きる”のか。“全体食が食べ物への感謝を行為として表わすことができる”ということなのだとすると、ひいては他者からいただき続けている自分のこの命を、精一杯よりよく生きるということが、すべての命に対する感謝を行為として表わすことなるのだと、思い至りました。

この日のオンラインクラスの様子。調理中の失敗談も楽しい!

現代は食に対する考え方も多様化していますが、ヨーガを生きる私たちはどんな時も“全体の生命の中で、与えられたこの命をどう生きるのか”ということを常に自分に問いながら、自分の命を真剣によりよく生きて行かなければいけないと改めて考える機会となりました。
サラニーさん、サティヤ―さん、どうもありがとうございました!また、参加させていただきたいと思います!

見本の写真と私作。家族みんな喜んでくれました!

シャルミニー


「私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」

季節は春になり、厚着していた洋服もだんだんと薄くなって身軽になっていきますね🌸🌿
先週の日曜は日差しが強くて私は日中、半袖で過ごしました💦

私は春の身軽になっていく感じがとても好きなのですが、少し前まで心はちょっと重〜い感じがありました😓
識別しても解決されず、どうしようかと思っていた時、瞑想の中で神にそのことを相談してみました。
もうただ、その起こっている事実を神に聞いてもらいました。

するとその瞑想中、2つのリュックサックのヴィジョンが見えました。
一つは重いリュックサック、もう一つは空っぽのリュックサックでした。

瞑想から覚めた時、「あぁ、私は余計な荷物を背負い込んで、思い煩わされていただけなんだ」と思い、それに気付かされたら自然と気持ちが軽くなりました。
そして、次のイエス・キリストのお言葉が思い起こされました。

「疲れた者、荷物を背負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」

その翌日、期せずしてその煩っていた物事に大きな進展があり、とても驚きました。
その後、上記のイエスのお言葉について調べてみると、続けて次のことが書かれてありました。

「私は柔和で謙遜な者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷物は軽いからである」ーーマタイによる福音書11章

このイエスのお言葉に「軛(くびき)」とあります。
軛とは「牛馬の首の後ろにかける横木」のことで、牛馬を制御する道具のことです。
私は軛と聞いてすぐに連想するのが「ヨーガ」という言葉です。
ヨーガの語源は「ユジュ(軛をかける)」だといわれ、ヨーガは「心を制御して真理(神)を実現すること」を説いています。
上記のイエス・キリストのお言葉「私の軛を負い、私に学びなさい」は、「神の教えである心の制御を実践し、神を見倣いなさい」と読むことができると思います。

心に背負うリュックサックは、やっぱり神のリュックサック(軛)がいいですね。
それはとっても軽く、空っぽだと感じるからです。
そしてその中身は至福のプラーナで満ち満ちていると感じます😇🎒

新緑の嵐山

ゴーパーラ


春の祝祭―台湾編

2021年4月4日、グルの恩寵と祝福とともに、台湾のグルバイたちは台北のアーナンダ・アーシュラマで一緒に7時間半以上を過ごしました。とても濃密で幸せな時間でした!

前日から会場の準備が始まりました。 前日と当日の朝、昼のお弁当も用意しました。 (日本ブログに紹介されたフォカッチャもメニューに入れました!)

前日は日差しが強く暑かったですが、祝祭当日は突然涼しくなり、まるでここが京都で、春の祝祭に参加するために出かけているような気分でした。

春の花が飾られた開始前の静かな会場

参加者たちは午前中にアーナンダ・アーシュラマに到着し、先に今回の祝辞の翻訳を聞きました。祝辞の中には、深い自己探求の思いや、人生の無常に対して心に疑いや動揺が生じたとしても、ヨギさんが遥かなる人生の大海で永久なる真実の光を弟子のために灯してくださっているから、私たちは永遠の真理が自分の中に在ることが分かるようになったという話がありました。祝辞を通して、グルバイたちが堅固な決心をもって真理の道に進んでいると感じました。彼らの姿はまるで真っ暗な海に光り輝く星のようであり、聴きながら何人かは涙がこぼれていました。

台湾語に翻訳された祝辞を先に聞いて、祝祭への思いが高まりました!

その後、少しお昼休みを取ってから、わくわくしながらみんな席に着きました。久しぶりですから、ヨギさんや日本やニューヨークのグルバイたちと会えるのをすごく楽しみしていました。

開会後のプージャーの時、ヨギさんがスクリーンに現れました。誰もが息を止めたかのようにグルの姿を見つめました。スクリーンを隔てていましたが、会えない長い時間も遠く離れている空間も消え失せ、安らぎと歓びに満ちた雰囲気に包まれて、ヨギさんが優しく一人一人の弟子に応じてくださっているように感じました。

それから祝祭が進んで、先輩とグルバイたちのお姿を見ながら、みんなは笑みをこぼしたり、時には祝辞者の情熱が伝染して感情が高まったり、感動していました。画面で拝見したニューヨークや日本のグルバイに実際に会ったことがなくても、共にヨギさんに教わる真理の道に歩んでいますし、Pranavadipaを通してグルバイの記事を読んだりすることもありますから、いつもみんなが一緒にヨギさんの下で学んでいるような感覚をもっています。今回オンラインで「会う」ことができて、長年の知り合いのように親しく感じました。

祝祭の中盤には、45周年の記念スライドショーが上映されました。祝辞にもありましたように、ヨギさんは変わりなく、いつもの優しさと歓びをもって、私たちに唯一の真理を示してくださっていました。真理を渇望する人々のため、45年もの間、真理の教えを絶えず伝えてくださっていました。世界中で布教されているヨギさんのお姿をみんなは高揚した気持ちで拝見しました。その時、自分がヨーガと出会った日を思い出したのかもしれません。

ヨギさんの2017年台湾初ご訪問!<45周年記念スライドショーから>

実は、ヨギさんは、私たちがヨーガを始めるだいぶ前から、すでにこの道で私たちを待たれていたのだと思います。そして今も、その悟りを啓くヨーガの道に立たれて、優しく私たちを見守って導いてくださっています。信念と決心を持って行動に移せば、必ず永遠の真理を実現できると、私たちに高らかに宣言されています。

グルへの礼拝

終盤に、再びスクリーンに現れてくださったヨギさんのお姿。世界はまだ混乱しているのだがきっと良くなる、このような時こそ自分のヨーガの実践を深めるようにと弟子を励まし、そしてみんなとの再会を楽しみにしているとおっしゃってくださいました。その場にいた誰もが名残惜しくスクリーンを見つめて、ヨギさんからもたらされた幸福と平安に浸る時間が続いて欲しいと願っていたことでしょう。

だけど、私たちには分かっています。本当にヨギさんと共にいたいなら、生活の中で一歩ずつ実践していき、無知なエゴを棄てるしかないのです。ヨギさんのかっこいいお姿のように生きて、永遠なる真実に成ることが、グルの無限の愛に報いることになるのです!

祝祭の後、1時間くらい感想を分かち合いました。 祝辞からのインスパイアされたことや感動したこと、そして自分の経験やグルへの思いなど、たくさん話をしました。

マハーヨーギー・ミッション台湾 シンユン


45th記念 NEW! Tシャツができました!!!

春の祝祭の歓びの余韻が続く中・・・とっても嬉しいお知らせです!
「待っていました〜!」という方もたくさんおられると聞いていますが、マハーヨーギー・ミッション設立45周年を記念したオリジナルTシャツの注文の受付をスタートしました!

 Tシャツには、マハーヨーギー・ヨーガ・アーシュラマが開設された当時(1976年)作られた看板(写真はこちらの記事に掲載しています)に、師が手描きされたヨーギーのシルエットそのものがデザインされています!!!
ゴールドのシンボルに、Mahayogi Missionのスクリプト系の白のフォントが美しくレイアウトされ、シンプルでとっても格好いい!大人っぽいTシャツに仕上がっています!

ヨーギーのシンボルは、私たちの本当の自己であるアートマン、そしてヨーガの守護神シヴァを象徴するものでもあります。着てみると、ちょうど胸の中央に黄金色に光り輝くアートマンが―—!!!
私たちの中に真実が在る!ということを常に思い起こさせてくれるTシャツになっていると思います!

 今回はなんといっても、カラーヴァリエが豊富! 半袖は全21色です! 使いやすいベーシックカラーから、夏の日差しに映えそうなヴィヴィットなカラー、そしてやさしい雰囲気のニュアンスカラーもあり!で、どれも素敵な色合いなので選ぶのも本当に迷います!

Tシャツ

左からライトグリーン、アクア、ライム。並ぶとグラデーションがきれい〜!

サイズは半袖のほうがユニセックス、レディース、キッズと3種類。女性がユニセックスをオーバーサイズっぽく着るのもいいですね!
また女性用には人気のドルマンスリーブも作りました! 薄手の素材でさらりと、ゆったり着れるので、夏場はとても涼しいし、なんといってもかたちがお洒落で可愛いです!

そして、喜ばしいことに、松山のヨーガ・サーラ・スタジオも全色同時発売されます!
レディースの七分袖は今回は松山だけですよ〜!

スタッフの4人。左からコーラルオレンジ(ユニセックス)、ショッキングピンク(七分袖)ミント(レディース)、ケリーグリーン(七分袖)。

Tシャツのデザインは、師が一昨年ニューヨークにご出発される前から取り掛かってくださっていて、変更や微調整を重ねながら今春、仕上がったものです! カラーの選択も本当に吟味してくださいました。
デザインワークスにご尽力くださった師に心から感謝いたします。

Tシャツのサイズ、カラーのラインアップ、ご注文についてはこちらをご覧ください。
受付締め切りは4/24。ご注文お待ちしております〜〜〜!!!
https://www.mahayogi.org/other/2021mymt-shirts

マードゥリー 


歓喜の春の祝祭 2021 !

第4回サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー/マハーヨーギー・ミッション設立45周年合同祭が2021年4月4日(日)にオンラインで開催されました。サナータナ・ダルマは、永遠普遍の真理サナータナ・ダルマとそれを100%純粋な形で具現されたアヴァターラ(神の化身)の顕現に感謝を捧げ、私たち自身アヴァターラが示された道を歩み、サナータナ・ダルマの実現を誓願する、喜びの祝祭です。

今年のテーマは「サナータナ・ダルマを生きる」です。師にお会いできない状況が1年以上続いていることもあり、どのような状況でも、いついかなる時も、ヨーガを生きるという志を持つべく、このテーマが選ばれました。
そして、マハーヨーギー・ミッションは今年2月で設立45周年になり、喜ばしいことに、合同祝祭として開催されました!
師シュリー・マハーヨーギーの恩寵の下、1976年にマハーヨーギー ・ヨーガ・アーシュラマ(現マハーヨーギー・アーシュラマ)が開設されてから45年。私たちはその中で師に巡り会い、ヨーガの教えを授かって、サナータナ・ダルマを生きるようになりました。

オンラインという形ではありますが、久しぶりに国内外のたくさんのグルバイが師の下に一堂に会することができて、本当に嬉しく思いました!海外はニューヨークと台北も結び、国内は北は北海道から南は松山まで、全国津々浦々から参加し、100名を越すグルバイがオンライン上に集いました。

今年は桜の開花は例年よりも早く、祝祭当日は満開が過ぎ、プレーマ・アーシュラマ近辺の桜は新緑へと移り変わりつつありました。春の雨で大気はみずみずしく潤っていました。

プレーマ・アーシュラマには、感染防止のために必要最小限のスタッフが集まりました。Zoomを使った配信拠点として、例年とは違う様々な通信機器が所狭しと配置される中、師は有難くも足をお運びくださって、祝祭が始まりました。

玄関を飾る見事な極楽鳥の生け花!

永遠の真理を渇望し、力強く道を歩むたくさんのグルバイから素晴らしいメッセージがあり、本当に感動しました!さらには45周年記念スライドショーが上映され、師が世界各地に赴かれ、ヨーガを布教されているお姿をたくさんの写真を通して拝見し、そのあまりの圧巻のお働きに言葉を失うばかりで、百聞は一見に如かずと言われるまさにその通り、45年間の絶え間ないお働きに心から感謝し、貴重な師のお写真に喜びを新たにしました!

詳細は、2021年5月からWeb化される機関誌「パラマハンサ」に掲載予定ですが、ブログでは当日の写真を中心に祝祭の模様をお伝えしようと思います。Web版「パラマハンサ」には力強い祝辞の数々が掲載される予定ですので、楽しみにお待ちください!

 


オープニング映像

開会が宣言され、オープニング映像から始まりました。2017〜2019年の過去3回の春の祝祭の様子を短く編集した映像が映し出されると、当時の喜びと感動が呼び起こされました。少し写真に切り取って紹介させていただきます。<オープニング映像より>

2017年から始まった春の祝祭の受付ボード。中央(2017年)、ブッダ(2018年)、ラーマクリシュナ(2019年)<オープニング映像より>

桜が咲き誇る中、次々とプレーマ・アーシュラマに集まってくる弟子たちの様子が映し出されます。<オープニング映像より>

歓びの中、開会を待つ弟子たち。毎年、プージャーの始まりを待っていたその気持ちが思い起こされ、喜びと集中が高まりました。オープニング映像の後、今年のプージャーが執り行われました!<オープニング映像より>


プージャー(礼拝)

今年は感染防止をこころがけて、マーラー(花輪)と火の献上は、師が来られる前に弟子たちで祭壇に奉納させていただきました。そしてオープニング映像の後、師シュリー・マハーヨーギーに心から感謝を込めてプージャー(礼拝)を捧げました。神聖な鐘の音と聖音オームがオンラインを通して心を清め、マントラが奉納されました。そして、1年以上ぶりになる師の尊いお姿を拝見し、本当に安心し、喜びと感動に満たされました。


祝辞・メッセージ

日本からは9名のグルバイから祝辞が捧げられました。上段左から、船勢さん(大阪)、島本さん(京都)、小菅さん(東京)、吉岡さん(京都)、笹沼さん(松山)、下段左から、森さん(静岡)、藤原さん(丹波篠山)、ムラリーさん(京都)、ヨーガダンダさん(京都)、そして司会(サーナンダ、サティヤー)。 各地からサナータナ・ダルマを生きる決意と、45年に渡る師のお導きへ心からの感謝の思いが捧げられました。みんな、歓びに満ちた笑顔が印象的でした!

深夜にも関わらず、カルナーさんの家に集まったニューヨークの10名のグルバイたち。NYのMYMも今年は25周年に当たります。上段の写真、アーナンダマーリーさん(中央)、カルナーさん(左)、サーディヤーさん(右)からNYを代表して、絶え間ない師の導きへの心からの感謝と、力強い祝辞が捧げられました。オンラインのおかげで、生の声が聞けて、とても嬉しく思いました!今は師の渡米は難しいですが、師の来訪を恋い焦がれる皆さんのお気持ちが伝わってきましたし、さらには困難な状況の中でも真理に生きようとする熱い誓願を聞くことができました。遠く離れていても心は一つです。

台北のアーナンダ・アーシュラマに集まったマハーヨーギー・ミッション台湾の17名のグルバイたち!昨年法人化を実現し、ヨーガの布教に邁進している台湾からは、プラサーディニーさん(前列右)、プリヤーさん(後列左)、マールラーさん(2列目左から3人目)、ラーダーさん(2列目左)が代表してスピーチし、そして最後にみんなでヨーガの実践を誓願するとともに、手でハートマークを作って師にラブコールを送りました。

松山のヨーガ・サーラ・スタジオに集まった7名のグルバイ(写真左)と京都のヨーガ・ヴィハーラに集った5名のグルバイたち。 松山からは、代表してアーナンディーさん(青)、アサンガンさん(オレンジ)、アミティーさん(ピンク)、廣川さん(緑)からメッセージが捧げられました。毎年松山では師のサットサンガが行われていただけに、今の状況はとても残念ですが、それにもかかわらず、熱心にヨーガを実践し、布教していこうという熱い思いに溢れるメッセージでした!ヨーガ・ヴィハーラには祝辞者を中心に集まり、熱い思いが捧げられました。

さらにサプライズな嬉しいお知らせが45周年スライドショーの後にありました!MYM45周年の記念となる、新しいオリジナルTシャツが完成しました!また、上の松山の写真の前列4人が着用しているように、ヨーガ・サーラ・スタジオのオリジナルTシャツも製作されました!もちろんいずれも、師のオリジナルデザインです。素敵ですね!!!みんな大喜びでした!追ってMYMサイトにてご案内させていただきます!お楽しみに!


MYM 45周年スライドショー

そして、なんとなんと、45周年の記念のスライドが制作され、上映されました!ブログでは、少しだけそこから抜粋させていただきます。1976年に製作された千の花弁のサハスラーラの旗は、45年もの間師とともに私たちを見守ってくださったのかと思うと、本当に有難くそして凄いものだなあと驚きました。昨年製作された2代目の旗もまたこれから長い間私たちを師とともに守護してくださることでしょう。師のプラーナに包まれたアーシュラマ2階の間(ま)は、どれほど道を求める人々、救いを求める人々を迎え入れてくださったことだろうと思うと、感無量です!そして師は、NYでも1996年の初ご訪問以降、道を求める人々を導き続けてこられています。


師のお言葉

最後に、シュリー・マハーヨーギーより、お言葉をいただきました。

45周年ということで、懐かしい古い写真などが紹介されました。その最初の時に、このサナータナ・ダルマである真正のヨーガを伝えるためにと旗を作りました。それはサナータナ・ダルマを象徴し、またヨーガの成就も象徴しているサハスラーラ・チャクラです。そのチャクラの上には古いウパニシャッドから引用した聖句が書かれています。紹介しますと、『純粋なる歓喜から一切万物が生まれる。それは純粋なる歓喜によって維持され、歓喜に向かって進み、そして純粋なる歓喜に回帰する』というものです。この歓喜という言葉はアーナンダですね、サット・チット・アーナンダのことです。時にはこのサット・チット・アーナンダはブラフマンと呼ばれ、アートマンとも呼ばれ、また神と呼ばれてきた存在のことです。一切のすべてはブラフマンである。さまざまな古くからの聖句が思い浮かびますが、人がその真理を忘れそうになった時、反対に悪徳が蔓延ろうとする時、真理である存在は自らを顕現させる。善き人を救い、悪しき者を滅亡させ、そうして正しい真理をこの世に樹立させることを目的として。これがアヴァターラが顕れる理由でもあります。この世はいつも困難と苦しみに満ちている。大小さまざまな災難がいつもやってくる。その都度、救済者は顕れます。本当はすべてが尊いブラフマンなる存在なのだから。

今日の各地からのメッセージを聞いて、とっても歓んでいます。それはみんなの目が覚めてきていることを感じるからです。本当にうれしいことです。今少し困難な状況が続いていますけれども、夜(よ)が明けない夜(よる)はないといわれるように、やがてまた陽(ひ)は昇ってくると思います。今こそ内面へのヨーガを深める時です。そしてまた皆さんにお会いする日を楽しみにしています。今日はうれしい言葉をたくさんありがとうございました。

サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

今年の合同祝祭は、たとえ師やグルバイと直に会うことができずとも、霊的空間で同じ処にいることを実感した、実に稀有な祝祭だったと思います。そして、師が足跡として残された45年は、古代から続くサナータナ・ダルマであり、アヴァターラの祝福と導きが今も変わらず永遠にあることが強く強く胸に刻まれた祝祭になりました。

師とすべてのアヴァターラに心より感謝を捧げます。

ジャイ・サナータナ・ダルマ アヴァターラ!

ジャイ・サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ キ ジャイ!

マハーヨーギー・ミッション


いよいよ春の祝祭!

アトリエから見える桜

御室プレーマ・アーシュラの界隈では、桜も満開が過ぎましたが、花吹雪が風に舞う光景がとっても美しいです〜。仁和寺では遅咲きの御室桜が咲き始めました!

いよいよ4/4(日)、「サナータナ・ダルマ・アヴァターラ メーラー(神性示現大祭) マハーヨーギー・ミッション(MYM)設立45周年記念合同祭」が開催されます!
オンライン上ではありますが、久しぶりに師の下に、ニューヨークも台湾も、日本は北海道、東京、愛知、松山などなど、みんなで一斉に集えることが本当に嬉しいです!!! 

当日は仲間たちのサナータナ・ダルマ(永遠の真理)への熱いメッセージが聞けるのを楽しみにされている方も多いと思います〜。
また、今回のスペシャルコンテンツは、かなり製作にも力が入っているMYM45周年記念のスライドです! 師が1976年にマハーヨーギー・ヨーガ・アーシュラマを設立されてから今日に至るまで、世界各地に足を運び、種蒔きをしてこられたその足跡を、たくさんの貴重な写真とともに振り返ります。あまりにも濃密すぎる内容ですので、皆さま心してご覧ください〜〜〜!!!

それぞれの場所で、永遠・普遍の真理と神の化身たちの存在と働きに思いを馳せ、ともに歓び合える祝祭となりますように!

ジャイ! サナータナ・ダルマ アヴァターラ!
ジャイ! サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ キ ジャイ!!!

 

ベランダから(3日前)

 

 


言葉を使わずとも真実は伝わる

ヨーガの学びを深めようと決めて最初に当たった壁が、いわゆるヨーガの専門用語、例えば、ギャーナ、カルマ、バクティ、ヤマ、ニヤマ、サットヴァ 等々、が分からないということでした。
それでもクラスやサットサンガの後に先輩グルバイと話をしたりするうちに、少しずつ用語の意味を理解し覚えていきました。
用語の意味が分かってくるとますます学ぶことが面白くなり、ヨーガを始めて2年経つ頃にはより熱心に学ぶようになっていました。学びを繰り返すうちに、少しずつ教えが腑に落ちていくように感じていたのですが、ちょうどその頃、それだけでは駄目なのだと気付かされる出来事がありました。

ある知人と話していた時のこと。
時間さえあれば各地域の神社にお参りをしている人で、しょっちゅう神様の話をしていました。
知人曰く、神様にも人間と同じような社会があり、ある神社の神様は優秀で素晴らしいとか、あそこの神社の神様は力が弱いとか、あの神様とこの神様はいがみ合っているとか、願い事をしたらお礼参りに行かないとかえって悪いことが起きるとか…
当時その話をされる度にモヤっとして、何度も聞かされるうちに「なんでこんな話ばかり聞かされるのだろう。神はそんな存在ではないのに!」とイライラするようになっていきました。
私は知人がその話をする度に、ヨーガの教えを話すようになりました。ヨーガでは神様は雲の上の存在ではなくて、あらゆる命の中に等しく存在している、だから上下関係もないし仲違いすることもない、願い事をしたらお礼をしなければならないという取引のようなものではないこと──など。どうしたら分かってもらえるのかと一所懸命に考えて言葉を尽くしましたが、結局知人には分かってはもらえませんでした。

東京都府中市にある東郷寺の枝垂れ桜。たくさんのメジロが花の蜜を食べにやってきていました。

伝えようと言葉にした内容は間違っていなかったと思いますが、なぜ伝わらなかったのだろうか?
その時すぐには気付けませんでしたが、その後のグルバイ(兄弟姉妹弟子)との交流する中で、伝わらなかった理由に思い当たりました。
私の話に真剣に耳を傾けてくれるグルバイたちのように、私は知人の話に耳を傾けられていたかというと、できていませんでした。最初からそれは違うと偏見を持って聞いていたことに気付きました。
また、先輩グルバイとお話する際に、私が理解できるように丁寧に話をしてくださっていること、少しずつヨーガの道を歩んでいる私の様子を見守りつつ、タイミングを見て的確な助言をもらえていたことにも気付けました。難しい言葉を用いることなく、考えを押し付けられることもなく、楽しくお話しているうちに新たに腑に落ちることがあったり、発見があったり。話し終わると心身ともに軽やかで心地よさに包まれたことも何度もありました。

きっと知人は私と話していても楽しくなかったと思うし、むしろ不快な思いをさせてしまっていたかもしれません。
私は学んでいるということで満足して、学んで知っているだけなのに体得したような錯覚を起こし、自分は正しいことを知っているという傲慢さから、知人に対して謙虚さも優しさもありませんでした。
そもそも、神様はあらゆる命の中にあると、確信を持って知人に言える状況にもなかった。
頭でっかちで、しっかりとした実践ができていなかった現実をまざまざと思い知らされたのです。

ヨーガを実践していくということは、生きることそのものでもあります。
生まれてきた以上、命が終わりを迎える瞬間まで生きていく必要があります。ヨーガに出会えてなければ漠然と生きていたのかもしれませんが、ヨーガに出会ったことでその可能性は消えました。確かに真実があることを知り、生きる目的や理想とを持つことが大切なのだということを知りました。
向かうべき方向が定まったら、その一点へと歩み続けるだけ。その過程は一人一人異なります。見える風景も味わう感覚も。それがその人の生き様であり、それを他者が見た時に語らずとも伝わるものがある。

ちょうどこの頃に師に質問した際に頂いた答えがメモに残っていました。

ヨーガの言葉を使わなくても、真実のみを話すことはできる。神様は全ての人・物の中にある、ということを、そういう考えを持っていることを伝える。それ以上は言わなくてもいい。言う必要はない。

これは知人との出来事が起こる前で、当時確執があった父のことで相談した時のものです。この時のお答えは聞いた瞬間から私の胸深く刺さり、常に大切にしていたはずだったのですが、この知人との出来事にも全く同じことが当てはまっていたのだと、このブログを書くにあたり再度読み返して初めて気付きました。

教えを学んで真理とは何かを知る。それを実践する。そうすると体感が訪れる。
ひたすらに繰り返すこと自体も生き様。

正しい智慧も悟りに至るまでの間、無知がある間だけ必要なのですよ。悟りというのは無知も智慧も超えていますから。それはちょうど痛みを与える棘をもう一本の棘で抜くようなものです。苦しみがなくなれば両方いらない。
                                                                                                     シュリー・マハーヨーギー

2つとも棘が抜けてすっかりなくなってしまったら、私の生き様が言葉以上に雄弁に語ってくれるようになるのかもしれません。
それまでは地道に着実に、学び・実践・体感を繰り返していきたいと思います。

ハルシャニー


正義の味方

よく「ラ・セーヌの星」ごっこをした。これは幼い頃、好きだったアニメの名前で(笑)フランス革命を背景とした少女剣士の物語だった。花屋の少女が、世の不正と闘うため、夜な夜な仮面とマントを付け変身し(笑)白馬に乗り果敢に剣で闘う。いわゆる正義の味方に憧れ、大人になったらあんなふうに!と決めていたのに(笑)気付けばもう大人…。でも、あの純粋な衝動は今も胸の奥に根付いている気もする。知らぬ間に単純だったことは複雑になり(涙)大切な何かを見失っている気がする時も、本当は何が真実か? 子供心に感じた単純なこと、ホントはみんな知っていると思う。

ハートの葉っぱをひっぱって、よく遊んだペンペン草。

ところである時、食品を扱う職場でネズミを駆除することになった。私は上司に電話し駆除をやめてほしいと抗議した。しかし、衛生管理はお店の義務で責任、あなたの言い分は通用しない、と厳しく言われた。それは常識で普通のことだった。でも、ネズミの命を奪う、という現実を前に、分かりましたと言えず、ヨーガの非暴力の教え(ハルシャニーさんの記事の全生命にいかなる苦痛も与えないという教え)を考えてもネズミ駆除は絶対にいけないと思った。昔、鉢合わせしたネズミと目が合ったことがあり、あのネズミだって代わりのきかないたった一匹、みんな精一杯に生きている。また自分がかつて一緒に暮らした猫と、そこにいるネズミと何が違うのかも分からなかった。それにネズミは自分と同じようにも思えた。幼稚な私は公私混同してしまって複雑になり、仕事の義務や考え方の軸を見失った。そして抗議に必死になるあまり「じゃあ○○さんが飼われていた犬と、ここのネズミと一体何が違うんですか! 同じ命やと思います」と言った。突然、上司は黙られた。愛犬を亡くされたばかりだった。私はそれを知っていて、追い込むようなことを言ってしまった。沈黙の後、上司は感情を抑えるように、聞いたこともない低い声で言われた「ここで働く以上は、ここのルールがある。店を営業していかなければならない。店のルールに従えないなら、あなたが店を辞めるしかないということになる」。
真っ当なことを言われていた。静まり返った閉店後の薄暗い店内で、じっとネズミがこの話を聞いている気がした。
「じゃあ、辞めます」師にご相談して関わることになった場所であり、辞めたくなかったが、そのルールには従えなかった。電話を切り、自分の義務と非暴力について考え込んだ。私が辞めたって何も解決しない。誰かが駆除するなら意味ない。絶対に駆除をやめてほしい。一方で、他の人がするくらいなら自分がするべきじゃないのか? 私は非暴力と言いながら実は自分の義務を放棄しようとしているのか? と悩んだ。混乱する中で『バガヴァッド・ギーター』(インドのヨーガの聖典)の一場面がよぎった。戦場で自分の親類や友人たちと戦うことになった戦士アルジュナが、同族たちの戦いに何の意味があるのか? 自分の義務がどこにあるのか分からない、と神の化身クリシュナに訴え、戦いをやめようとする。そこでクリシュナはアルジュナへ、臆病を振り払って立て、戦えという、「汝は賢者のような言葉を使っている。しかし汝の悲哀には意味がない。ほんとうの賢者は生者のためにも死者のためにも悲しまない」。
私は偽善者か。何が正義だろう。アルジュナが訴えるように具体的な答えが欲しかった。藁にもすがる思いで、記憶上の師のある行為に答えを求めて、それにすがろうとした。でもそれは師の本質ではなく、表面的に行為だけを安易に真似ようとする私の盲目的な思いだった。自分の思いという、まさに藁にすがっていた。当然そこから答えは得られず、どうすべきか全く分からなくなった。そうなった時、命が関わるこんな大事なことを、師がこうされていたから私もこうする、とそんなマニュアル的な判断ではこの問題は済まされない! と思い直した。師へ何かをご相談した時、一概にこうとは言えないというふうな言い方をされることがある。Aの場合はBです、みたいな型にはまったルールなんかなく、その場の状況に応じて常に自分がいちばん他者にとって良いと思う最善を尽くすしかない、それを師から学んできたはずだった。定説も、決まりも、ヨーガには一つもない。拠り所は真理だけ。それをもう一度思い起こしながら、純粋に自分が感じることを信じようとした。
ネズミを守りたい、それ以外のことは今、考えることじゃないと決めた。偽善者でももういい、意見は伝えた今はこれでいい、と冷静になるために言い聞かせた。駆除の仕掛けは既に発注されていて、とっくに就業時間も過ぎ、できることはもうなかった。
そして暗がりのなか一人で店の戸締りをしながら、古びた天井や壁に向かって、姿の見えないネズミに説明して回った。明日から駆除の罠が張り巡らされるから絶対に出てきたらいけない、エサはぜんぶ毒だからと。危ない人みたいだが、その時は必死だった。(やっぱり冷静になってなかった)

翌朝、重苦しい気持ちで出勤した。スタッフ全員宛に上司から連絡が入っていた。ネズミ駆除の仕掛けを中止してください、と。奇跡だった。ネズミが来ない別の方法をとるという。見えざる者に救済されたとしか思えず、師に、神に感謝し、ほっとした。と同時に人の気持ちを傷付けたことがズシンと胸に響いた。何かが釈然としないまま月日は経ち、そして今になった。

春になると顔を出す。かわいらしい小さな姿。

非暴力について考えていた最近。ゴーパーラさんのマハトマ・ガンジーの記事が目に飛び込んできた。今から数年前にまたちょっと遡るが、ここのブログの昔の記事で私は、ある先輩が映画『ガンジー』から感じられた話を読んだ時、興味が湧きその映画を見ていた。しかし、見たくないリアルな暴力シーンがたくさん出てきた。インドの人たちが非暴力のために、敵に自らの体を差し出し打たれに行くのだ。想像していたような平和主義とか、そんな生易しさは全くなく、ある意味真逆だった。何の罪もない人たちが戦場で次々に命を落とす姿が衝撃的すぎて、なぜ……と理不尽さに怒りと悲しみで、途中何度もガンジーや非暴力すらも疑ってしまった。でも目を背けてはいけないと目をこじ開けて最後までぜんぶ見た。すると私の中に、ある印象だけが残っていた。それは師の教え「自らを他者の幸せのために与える」。

そして今。ゴーパーラさんの記事をきっかけに久しぶりに開く『あるヨギの自叙伝』。ガンジーは非暴力について、こうお話されている。
私は、何物をも恐れぬこと、何物をも殺さぬこと、という誓いを立てています。(中略)私には、その場の都合で自分のおきてを曲げることはできません
稲妻が走った。何物をも殺さぬこと。それは、何物をも恐れない、という精神があってこそ成り立つものなのか、と。敢えていえば、何物をも殺さぬことが目的だとは言われてない。非暴力の本質は、自分が解釈していたものとは別ものに思えた。

私は職場であの時ネズミを守りたかったが、表現を変えれば、生き物の死と直面するのが怖かった。「死」に、いろんな思いも重ねていた。『バガヴァッド・ギーター』のクリシュナの言葉通りだったかもしれない。命を守ろうとする思いが間違いとは思わないし後悔はしてない。でも自分の望む以外の状況を恐れていたから、他の意見は悪だと思っていた。
これは真の正義でも非暴力でもないし、私自身の行為の表し方は間違っていた。今さら気付いた。
正義感からくる思いは正しいと思い込んでいる分、自分の間違いに気付くのが難しい、また正義感は良くも悪くも恐ろしく威力がある。今のコロナ禍の問題も似ているかもしれないが、私はあの時、ネズミを守るためなら他を傷付けても仕方ない、という愚かな考えを持っていた。一方、上司はお店も従業員もお客さんも守る責任があり、その上で結局、私の拙い思いとその責任までぜんぶ被られた。未熟な私は当時それに気付けず、正義も非暴力も分かったつもりで、自分の意見だけが正しいと思ってしまっていた。
師から教わった大事なことがある。
物事は両面を持っていて、見方による。本当の意味で良い、良くないという基準をどこに設けるか。ヨーガでは真理という間違いのない真実。それを物差しとする。

光を浴びて、咲き始める桜

世の中の現象で絶対の答えはないと学び、その上で非暴力の教えはやっぱり大切だと思う。非暴力の神髄は、内面の凄まじい闘いの連続と、不屈の覚悟の上にあると思う。非暴力は、場面場面の行動ではなくて、終始一貫した生き方だと思った。でもそんな孤独な闘いを、なぜ死をもってまでガンジーとインドの人々は最後まで貫き通せたのだろうか…。

ガンジーは、人間が本来もっている崇高な本性を心の底から信じておられたという。そしてそれは、自分が特別なものを身に着けていたわけでもない、と言われている、「誰もが潜在的にもっているものではないでしょうか?」と。
人間の本性――永遠の真理をガンジーは信じられ、そこのみに集中し、人々がそれに目覚めることだけを信じておられたと思う。暴力の争いの中で、そのことを見失っている人たちを放っておくことはできなかったんだと思う。インド統一がガンジーの非暴力の上に達成されたということは、人間の本性――永遠の真理が証明された証だと私は思う。
・・・そのような信念で生き抜かれたからこそ、ガンジーも、あの名もなき人々も、自らを他者の幸せのために与えられた・・・やっとそのことに数年越しで納得した。やはりガンジーは、究極の正義を貫く存在だった。正義の味方の究極は、ヨーガの聖者、覚者たち。

身近な存在だったユキヤナギ。摘んでも摘んでも、元気いっぱい満開で、子供たちの人気者だった! 強く、春の美しい香り!

師からこんなことを教わったことがある。

無知や不正に対する怒りが出てきた時、単に火に油を注ぐのでは意味がなく、問題はどのように不正を無くすかという具体的な行為。ヨーガの様々な活動は世界の無知に対する挑戦、人助けの究極でもある。

子供心に感じた事に嘘はないと思う。あの憧れの思いも昇華させたい、だったら、もう正義の味方ごっこではなく、ほんものの、究極の正義の味方になるしかない!

野口美香


ヨーガと心の傾向 ③真理に向かってもっと大胆に!

先輩方のお話をうかがって、ヴァーサナー(心の傾向)と闘うには「真理だけをみていく」ということを改めて理解した私は、今現在これまで以上にそのことを意識しながら日常生活の中でヨーガの実践に取り組んでいます。(前回のブログ

まず、自分のヴァーサナーについてあれこれ考え、そこにエネルギーを費やすことは止めました。空気のように掴みどころがないヴァーサナーを相手にするのではなく、ヴァーサナーの原因であるエゴや無知をなくしていくこと。そのためには、既に自覚している自分の傾向やそれに気が付いた時にはその都度ヨーガの教え、真理に心や行動を沿わせていくように改めて意識するようにしています。
これもずっと師が言われ続けている事ですが「日常生活に必要なことにおいては、その時必要なことを淡々と行う」こと。苦手意識があるものに対して「また失敗するんじゃないか」とか「嫌だなー」という感情が湧いてくると、極力その思いには意識を向けないようにして、その時必要なことに気持ちを集中するように努めています。時間もかかりますし、上手くいったり失敗したりしていますが、諦めず一歩一歩です。
また、先輩からは「苦手なことを積極的に行為していくことが、日常における最も単純で効果的な方法だと思います」とアドヴァイスもいただきました。苦手なことを積極的に行うというのはなかなか楽しく!?できることではないとは思いますが、確かに真理に好き嫌いはありません。これも実践あるのみ!です。

そして、唯一真理だけを求めていくこと─。真理、本当の自分、神、様々な呼ばれ方をしますが、それらはすべて同じ一つのものであるといわれ、ヨーガではその一つのものに向かうために、それぞれの性質(ヴァーサナー!)に合った道が用意されています。古来より真のヨーガの師は弟子の性質を見抜き、一番速やかに真理へと進める道を示されるといわれています。師は私にバクティ・ヨーガの道を示して下さり「いつもどんな時もすべての思いを神に向けるように」とおっしゃいました。その時から、私は湧き起こってくる色いろな思いを師と神に向けるようにし、心の中で話しかけるようにしています。キールタンを歌うと自然に心は神の御名で満たされます。いつからか、師と神は常に私の胸の奥に在り、忘れることはありません。ですが私は、すべての人の中に、この世界の森羅万象すべてに光り輝く神の姿を見る、その境地に憧れてやみません。それにはサンスカーラもカルマもヴァーサナーもエゴも無知も、一切を燃やし尽くすくらいの神への強い想いが必要なのだと感じています。

空に向かって真っ直ぐに咲く白木蓮

2016年に京都で行われた特別サットサンガで師が語られた教えが、以前このブログで紹介されていました。私は胸が熱くなるような感銘を受け、いまだに時折読み返しては当時とまったく同じ気持ちになる言葉があります。

ヨーガは未来志向の、自分の運命は自分でしか切り開けないという考え方なのです。過去のカルマがどうであれ、それに引きずられていたのでは運命的に縛られて生きていくということになるでしょう。でもたとえどんなカルマがあろうとも、そんなことはもう過去のこと。今、今からは違う、自分自身で変えていくという、ものすごくダイナミックな、積極的な考え方に基づいています。自分が自分を生きていくという、主体性、自立性、これを大事だと考えています。
そうして本当の私と言う自立自存、それだけがあるという、何ものにも依存していない、独立してそれだけが尊い存在である!ということを体得するわけです。誰もがそれをできます!ここに生まれてきた本当の意味があるのですよ。たとえ数え切れないほどの輪廻転生をしてきたとしても、これがゴールです!!

今回、自分のヴァーサナーへの疑問から、先輩を通じて、私にとってまた新たな発心を得ることが出来た貴重な機会となりました。
ヨーガには自分で自分を変えていく力があります。そしてヨーガとは自分の運命を自分自身で切り開いていくこと!
ヨーガの教えへの理解を深めることも、諦めず一歩一歩前進することもヨーガの実践においてとても大切なことですが、自分のヴァーサナーなどに捉われず、真理に向かってもっと大胆に進んでいきたいと思います!

シャルミニー


もうすぐ春の祝祭!

鶯のさえずりが聞こえ、草花が次々と花開き、一気に芽吹いていく生命の力を感じる春。プレーマ・アーシュラマのすぐ近く、御室仁和寺でも桜が咲き始めました!

 例年なら美しい満開の桜の下、各地から大勢の人々が集う春の祝祭「サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー」ですが、今回はオンラインで開催することになりました。そして、今年はマハーヨーギー・ミッションが設立されて45年目、ニューヨークは25年目にあたり、そのお祝いも兼ねての記念合同祭となります。
Zoomでの祝祭は初の試みとなり、祭事担当者で目下、準備中です。当日はニューヨークや台湾ともつないだり、貴重な映像配信も予定していますので、オンラインならではの晴れやかな喜ばしいものになるはず!です。

仁和寺境内の桜

さて、いったいどんなお祝いなのかといいますと―—
サナータナ・ダルマとは、古来より人々が拠り所とし、求道者たちが命を懸けて実現してきた永遠の真理。それは目には見えないものですが、ヨーギーやアヴァターラ(神の化身)といわれる存在によって脈々と継承されてきました。
世の中が混乱を極め、人々が迷い苦しむ時にはアヴァターラが顕れ、希望の光をこの地上にもたらし、人々の模範となるような生き方を具体的に示してきたといわれています。彼らは自ら道を切り拓き、深遠なる真理を成就した後は、ただただ、それを人々に分け与えることに生涯を費やされたそうです。

この祝祭は、サナータナ・ダルマという形のない真理そのものを祝い、それを目に見える100%純粋な形で、時代時代に顕れてきたアヴァターラたちに歓びと感謝を捧げる祝祭です。また開催するには主ブッダのご聖誕日、花祭りの頃がふさわしいということで、2017年からプレーマ・アーシュラマで始まりました。

桜の花びらが舞い踊る中、会場に向かう(2019年)。

これまでの祝祭では、アヴァターラの代表的な存在である、ブッダやシュリー・ラーマクリシュナに焦点が当てられました。彼らがどれほどの強大な情熱を傾け、真理を探求していったのか、そしてどのように苦しむ人々に寄り添い、また弟子たちを導かれてきたのか。生身の存在としての、その尊い生きざまに迫りながら、サナータナ・ダルマへの仲間たちの熱のこもったメッセージの数々が宣言されてきました。
そして、いつも弟子たちの話を嬉しそうに聞き入っておられた師は、みんなの思いをさらに引き上げるように、アヴァターラたちが見いだしてきた普遍なる真理の精髄を、珠玉の言葉でもって語ってくださいました。
まさに時代を超えたサナータナ・ダルマのヴァイブレーションに、会場は湧き立ち、私たちのハートにみずみずしい歓喜が流れ込んだことが蘇ります。 

みんなの笑顔が溢れる(初回 2017年)。

今年のテーマは「サナータナ・ダルマを生きる」。
サナータナ・ダルマとは、私たちの命の最も源にある、唯一無二のもの!
この宇宙の基盤として絶えず、存り続けているであろうもの!
45年間もの間、師が何度も繰り返し、それだけを語り、伝えてこられたもの!!
ヨーガを学ぶ私たちにとっては、とても身近なテーマであり、真理を生きるとはどういうことかを問いかけ、それへの誓願を立てることは、自分が何を求めるのか、どうありたいのかということに心底向き合うことになります。
きっと今年も、たくさんの仲間たちの真理への迸る思いを存分に聞けることでしょう!

この祝祭が、私たちがサナータナ・ダルマの道の真っただ中にいるのだという確信、信念を高め、世界が大きく揺らぐ中においても、一人一人のあり方、人生を貫く、堅固なものとなっていくことを願います。
そして、師の永きにわたる導きと多大な働き、これまでサナータナ・ダルマを核としたマハーヨーギー・ミッションの礎を大切に築いてくださったことに、心から感謝を捧げます。

45年前にアーシュラマが開設された時、師が目印になるものをと、最初に作られた小さな看板。今も同じものが掲げられている。

 

マードゥリー