食生活の中にヨーガを

仕事の大半が休みになってしまい自宅で過ごす自粛生活の日々が始まりました。ヨギさん(師)にお会いできない、クラスに参加できない、グルバイ(兄弟姉妹弟子)に会えない、そんな状況の中で自分をヨーガに繋ぎ留めておくためにできることを何とか考えて、毎度の食事を「さまらさの台所」レシピで埋め尽くすことにしました。
スパイスを買い揃え、普段使わないハーブや食材を使うことは新鮮でした。今までの自分の家庭料理にはなかった味が食卓に並ぶことで以前よりも素材の味を味わいながら食事するようになり、味覚が豊かになったように感じました。また以前は“家では揚げ物は作らない主義”だったのですが、当たり前に揚げ物を作るようになり、(家にばかりいるのに)行動範囲が広がったように感じました。
特に好きなメニューは梅ごはんでした。梅としその香りが爽やかで、何よりお米のおいしさを味わえるレシピだと感じました。夏の蒸し暑い、そして突然大雨が降る状況の中で、梅ごはんの香りと塩気が気持ちを落ち着かせてくれると感じました。季節を感じることができるメニューだと思いました。

梅ごはん!

1か月半ほど自粛生活が過ぎた頃、仕事の状況が変化しとても忙しくなり、ゆっくりお料理している時間がなくなりました。そして、忙しい生活の中でもパパっと作れるさまらさレシピや、冷蔵庫の中にある食材だけで作るアレンジレシピが自然と思い浮かぶようになっていることに気づきました。日常の食生活の中にヨーガが現れるようにと頑張らなくても、すでにその流れの中にいることができているような感覚がありました。
ある時、近所のスーパーで以前よく使っていたパスタソースが特売になっていて「まとめ買いしようかな」と思いましたが、出かける直前に思いとどまり、「もしヨギさんにお出しできるお料理なら絶対に出来合いのソースで作った料理は出さない、もっと心を込めて作ったものをお出ししようとするはずだ。ヨギさんの弟子として生きていきたいと願うのなら、ヨギさんにお出しできないと感じる食べ物は極力自分も食べない方がよいのではないか」と思い、買い物をやめました。日常のふとした瞬間にヨギさんの存在が現れて下さることがとてもありがたく、この感覚を決して手放さないようにしようと思いました。

自粛生活が始まったばかりの頃、どうやって自分の心をヨーガに繋ぎ留めていったらよいのだろうかとハラハラしました。もし心がさまよい始めてしまったら、それを自分の力で再びヨーガに戻していける自信がなく、危機感を感じながら「絶対にさまよわないようにしなければならない」と思いました。今、食生活がゆっくり改善され始め、サーダナ(修練)をしている時以外の日常の中でヨギさんの存在を感じる瞬間が以前よりも増えてきたように感じています。たとえヨギさんにお会いできなくてもヨギさんの教えを実践していくことを通してヨギさんと共にいる、その糸口を発見できたように感じています。まだまだ糸口を見ただけなので、これから毎日こつこつと実践し、ヨギさんとシヴァのことを想い続けながら、よりヨーガを深めて自分の中に根づかせていこうと固く決心します。

船勢洋子


ふとした瞬間

夜勤に入る前、いつも時間調整をしている公園があります。その公園のベンチに腰掛けると、目の前には大きな田んぼが、見上げればどこまでも続く大空が拡がっています。

ほっと一息つき、心に空白が生まれるような瞬間。神に思いを馳せると、身体も心も、目の前の景色も、すべて神で満たされるような気持ちになります。田んぼから聞こえてくる蛙の声はオームの振動、電灯や星の光は純粋意識の顕れであるかのような・・・・・・ そんな時、私が憧れる境地を表わしたシュリー・ラーマクリシュナの教えが蘇ってきました。

 

水また水――

上も下も、果てしない水――

人は魚のように楽しげに泳ぐ

 

無限の大海よ、水に極みなく

その中に一つ 瓶が漂う

瓶の外も、中も水――

智者は悟る、これすべてアートマン

 

あぁ、早くこの境地を知りたい!と切に願いました。

瞑想の状態は必ずしも行儀良く座っている時に訪れるものではないと、師は言われます。集中しようという力みが抜けた――ふとした瞬間に、すっと瞑想に入れるのだと思います。だからこそ、何の手応えもなく、何の感触も得られないけど、ひたすら瞑想に座って集中し続けた時間も決して無駄ではないと思うのです。

これからもあきらめず、めげずに瞑想に座っていきたいと思います。

 

ヨーガダンダ


初!バクティ・サンガム オンラインクラス!

7月26日、8月2日、バクティ・サンガムの初オンラインクラスに参加させていただきました!
これまでバクティ・サンガムでは、主にインドの神様や聖者の物語に親しんだり、キールタンを歌うことなどを通してバクティ・ヨーガ(信愛のヨーガ)を学んできたのですが、新型コロナウィルス感染防止の為、3月以降休講となっていました。
が、そのような中でもやはり「バクティ・ヨーガを学びたい!」という要望に応え、講師のミラバイさんとヨーガダンダさんがオンラインで何とかクラスができないだろうかと試行錯誤をしながら何度もテストを繰り返して、やっと今回、初めての試みであるオンラインでのバクティ・サンガムが開催されることとなりました!ミラバイさん、ヨーガダンダさん、ありがとうございます!

第一回目の今回は「クリシュナ神の物語1(生誕から少年期)」。
最初に初めての方でも分かりやすいようバクティ・ヨーガについてのお話があり、続いて“バクティ名作劇場”と題し、クリシュナ神話を紹介して下さいました。画面には、ちょうど今回の物語の場面が描かれている美しいミニアチュール(インド細密画)が映し出され、講師のお二人がクリシュナ神の生誕から少年期までの物語を語ってくれました。幼いクリシュナが人の子として村の暮らしの中で両親に愛されながら成長していくお話は、様々な教えを含みながらもとても身近に感じられるお話ばかりです。そして、お二人のプロ顔負け!?の迫真のセリフとナレーションがとても楽しくて、笑ったり感動したりすっかり童心にかえって絵と物語に引き込まれました!

ミニアチュールの美しい色彩や絵の細かい部分まできれいに見えました。講師のお二人はソーシャルディスタンスを保ちながら…熱演です!

そしてキールタンですが、オンラインでは皆で一緒に歌ったり音楽を演奏するとタイムラグが発生して音がずれてしまうため、残念ながらみんなで声を合わせ歌うことが出来ません。歌と演奏をされる講師のお二人のマイクのみをオンにして、参加者はミュートにして歌いました。最初は一体どんな感じになるのだろうと思っていたのですが、実際に歌ってみると他の参加者の方々の歌っている様子や笑顔が画面いっぱいに広がり、共に神の御名を歌う歓びを分かち合っている感じが伝わってきて、とても嬉しくなりました!

また、オンラインクラスならではの嬉しい発見がもう一つありました。全国どこからでも参加できるので、なかなかお会いする機会がない遠方の方や初めてお会いする方と一緒に参加することができて、これは通常クラスではできなかったことだなぁと思いました。

長い間会えていない懐かしいヨーガの仲間たち。初めてお会いする方も。神への想いや歓びは距離や場所なんて関係ない!すべてを軽々と飛び超えて共鳴することができる!そう感じました。

お話の中で、ミラバイさんがクリシュナ神話のエピソードの一つを取り上げて「人は知的に神を理解しようとするけれど、それはできないこと。けれども神を愛する者に対しては、神はその恩寵をもって捉えさせてくれるという教えが含まれている」と説明して下さいました。
バクティ・ヨーガは五感すべてを使って神を愛し近づいていく、とてもダイナミックなヨーガだといわれます。そして神への近づき方は一つではないともいわれます。私は神様の物語が大好きなのですが、「神様ってよく分からない」「神を愛するってどういうこと?」と感じている方も、神を遠い存在としてではなく、クリシュナの物語のようにすぐ身近な存在として、まずは神に親しみを持つことからはじめてみるといいかもしれないなぁと思いました。
オンラインでの新しいバクティ・サンガム。次回はどうなっていくのでしょうか、楽しみです!

シャルミニー


さまらさの台所 WEBクラス一回目の報告

こんにちは、梅雨明けして暑い夏が始まりましたね。さまらさの台所では、7月に初めてのWEBクラスを開催しました。クラスは、2部構成になっていて、まず調理の動画を視聴していただき、一度家で調理してもらった後、別日にzoomを使ったオンラインクラスに参加してもらいます。オンラインクラスでは、小グループでお互いに感想を言い合ったり、質問をしたり、ヨーガの教えを紹介したりという内容です。実際に会うことが難しい昨今ですが、WEBクラスということで、遠方からの参加者もあり、久々の再会(オンライン上ですが)をみんなで喜びました!

さて、1回目のWEBクラスを終えて、参加してくださった深水さんから感想をいただきましたのでご紹介します。深水さん、ありがとうございました!!

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 長年料理に親しまれてきたであろうベテランの女性をして「今まで敬遠していた」と言わしめる『揚げもの』。初心者の男子には少々ハードルが高く、手を出すには神の思召しが必須でしたが、さまらさの台所WEBクラス開講という思召しを賜った私は、結果、一か月弱の間に5回ほど夏野菜を素揚げすることになりました。

 要点を分かりやすく伝える洗練された動画の力か、それとも講師のお二人の何とも言えないまったりとしたやりとりに催眠効果でもあったのか、動画を見終わった直後には「南蛮漬けなら俺にまかせろ」といわんばかりの出来る感に満たされており、意気揚々と調理に臨むことができました。

 しかしいざやってみると、初めて切ったかぼちゃの皮の硬さ然り、高温の油の中で弾け回るみょうがとのソーシャルディスタンス然り、なかなか思うようにはいきません。食材を油から上げるタイミングも、編集された動画内では比較的分かりやすいように感じたのですが、実地ではその変化に気付きにくく、「……ん? ちょっと長くね?」という心の指摘で慌ててすくい上げるといったこともしばしばでした。

 調理に手間取っている間に割り増した空腹感や、初心者の分際で『揚げもの』を作り遂げたという達成感などで、大概のものは美味しく感じたであろう状態だったことを差っ引いても、料理の出来はなかなかだったように思います。

 その後、WEB会議通話システムを利用したオンラインクラスで、他の参加者の話を聞きながら振り返る機会もいただきました。みなさん動画にあったことだけでなく、「トマトでもやってみた」「にんじんをフライドポテト型に切ってみた」などなど、それぞれに工夫なさっている様子がうかがえて、いろいろ勉強になりました。

 また昨今の状況下での実践の様子や、なかなか会えない師への思い、また先輩方の昔のエピソードなども聞かせていただきました。現代の通信技術を介して受ける刺激や学びに、状況に応じて形を変えながらも、なお変わらぬサンガの導きを実感します。

 今回さまらさの台所を受講してみて、長年ヨーガの実践を重ねてこられた方々が作った動画をとおして、改めてヨーガの普遍性を感じました。ミッションの動画でも、過去の映像を編集したものやクラスの様子を録画したものを見たことはありましたし、それはそれでどれも素晴らしいものばかりでしたが、考えてみれば、動画を作る目的で一から作成されたものは初めて見たような気がします。

 一緒にオンラインクラスを受講した方が「今回の動画を見てたら、サットヴァなプラーナを感じて、思わず掃除した」とおっしゃっていましたが、それほどの動画を完成させる根底に長年のヨーガの実践があると思うと、あらゆる仕事を深化させるヨーガの普遍性を感じずにはいられません。見ると作りたくなる料理動画は数あれど、見ると掃除したくなる料理動画などそうはないでしょう。神動画。

 今回の受講を経て、今学んでいるヨーガに対する信頼が一層増したとともに、サットヴァな食との縁を深めていただいたことに感謝いたします。ありがとうございました。

 

 深水晋治

 


人間とは何か?

8月に入りましたね。
夏休みシーズンということで、ブログもちょっとラフな感じから入ってみたいと思います〜🏄‍♂️

京都 鴨川

最近、WOWOWで放送されていた『ぴぷる』というドラマを仕事場で観る機会がありました。
人間と人工知能(AI)を搭載した人型ロボットが結婚できるようになった2030年の京都が舞台で、冴えない男性が「ぴぷる」という名の美少女AIロボットと結婚生活をするという物語。
最初は「あんまり面白そうじゃないな、このドラマ」と思って視聴していたのですが、人間は嫉妬深くエゴ的であり、逆にAIロボットは夫の好き嫌いを学習したりして素直に夫に尽くす存在で、なんだか健気で可愛いのである。古都の雰囲気と近未来的内容の対比も合間って、「うーん、人間って何だろう👀?」ということを考えさせられるドラマでした。

その何話目かに、「人の匂いの種類」を話すシーンがあったのですが、AIロボットには醸し出せない人間の特徴の一つに「匂い」があるのだなと思いました。

では、人間の最大の特徴とは何だと思いますか?
ひと昔前なら「知性」と答えられたかもしれませんが、人間の知性と同等の、またそれを凌ぐAIロボットの開発が進むと、そうとも言えない時代になってきているなと思います。
それでこのドラマの最後、涙を流すことがプログラムされてないAIロボットでしたが、夫を想って涙を流し、命を終えます。夫がそのことを開発者に話すと「それはバグだ(コンピュータープログラムにひそむ誤り)」と言います。でもその開発者は「あなたがそう思うのならいいんじゃないんですか」と言って、「信じたいものを信じるのが人間ですから」と言い加え、ドラマは終わりました。

「信じたいものを信じるのが人間」ーー

このセリフを聞いて私は、人間の最大の特徴は「信じる力」「信仰の力」ではないかと思いました。そして、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの次の言葉を思い出しました。

「宗教ほど人に多くの祝福をもたらしたものはないのに、同時に、宗教ほど大きな恐怖をもたらしたものはないと知るのです。宗教以上に平和と愛に貢献したものはありません。宗教以上におそろしい憎悪を生み出したものはありません。宗教以上に人の兄弟関係を身近にしたものはありません。宗教以上に人と人の間に強い敵意を育てたものはありません。宗教以上に多くの慈善的施設を、人々のためでなく動物までも救うための病院を、建てたものはありません。宗教以上にひどくこの世界を血に浸したものはありません。同時に、これらのすべての激しい宗教間の争いの最中に、なお、常に、そこに調和をもたらそうと努める思想の底流があり、それに携わる一般の人々、哲学者、および比較宗教の学徒の群があったこと、そして今もあることを、われわれは知っています」

ーー『ギャーナ・ヨーガ』「普遍宗教」ーー

このヴィヴェーカーナンダの言葉から、人の信じる力、即ち「宗教」が人類とその歴史に大きく影響してきたことが感じられます。
そしてこの現代、「何を信じるか?」が問われているようにも思います。
インターネットの普及により、どこの国にいても誰とでも繋がれ、自分の思いや相手の考えを発信・受信できる世の中になってきています。一宗一派の宗教、人種による優劣思想や争いは未だにありますが、そんな小さな違いや垣根を超え、「誰もの本質に在るもの」「普遍の存在」を感じることが大切だと私は思います。
私自身、師の存在と、そして師の次の教えを信じています。

「自分の中に、本当に尊い存在があるということを信じてください。神は雲の上にいるのでも、宇宙の果てにいるのでもない。あなたの胸の中にいます。それは不滅の存在であって、純粋な意識のことです。それは誰もの本質なのです。そのことを知らないから、人々はみな苦しんでいるのです」

ーーシュリー・マハーヨーギー・パラマハンサーー

「人間とは何か?」
「何を信じるのか?」

答えが見つかってない人は、夏休みの宿題によいのではないかなぁ〜と思います😄📝

ゴーパーラ 


聖典を読む喜び

私は今、とても楽しく毎日聖典や聖者の本を読んでいます!

普段の私の日常生活は仕事や家庭が中心なので、自然にヨーガの話に触れたり、いつでも周りの誰かとヨーガの話ができるという環境ではありません。ですがこれまでは、毎週クラスでヨーガの仲間と顔を合わせ、クラスの後にそのままいつまでもヨーガの話をしたり、一緒にキールタンを歌い共に神の御名の歓びを分かち合うということが当たり前のようにできていました。それは私にとって大きな喜びであり、確実に日常生活の中でヨーガの実践を継続していく一つの原動力にもなっていました。
ところが、緊急事態宣言以降はそのような機会がなくなり、長い間、師にお会いすることもできず徐々にモヤモヤとした気持ちが膨らんできました。
「あぁ、師にお会いしたい!真理や神の話が聞きたい!語り合いたい!でもこんな状況でどうすれば……。そうだ聖典があるじゃないか!!」
いつもはじっくり本を読む時間がなかなか取れないのですが、外向きな活動が減り在宅時間が増えたので、分厚くて家でしか読めない本もゆっくり読むことができます。

最近よく読んでいる本。『ヨーガの福音』は師の教えが編纂されたとても読みやすい一冊。いつもすぐ手に取れる所に置いています。

実は、以前は聖典や聖者の本と聞くと何やらとても難解で、私が理解するにはハードルが高すぎるというイメージがありました。実際「さあ、読むぞ!」と気合いを入れてから読み始めるのですが、カタカナで書かれた聞きなれない言葉を正確に読むことから難しく、言葉の意味や書かれている内容を理解するのは更に根気がいることでした。「何のことやら、さっぱり分からん…」何度も挫折しそうになる心を叱咤激励しながら何とか読んでみるものの、大抵はしばらく読んでいるうちに睡魔との戦いにあえなく敗れて本を閉じる、というのがお決まりのパターンでした。笑
そんな状態の私でしたが、師の下でヨーガを学ぶようになってから、たくさんの学びの機会をいただき、聖典に出てくる言葉の意味やヨーガの教えを少しずつ理解できる様になっていきました。師は、真理の言葉や教えを誰にでも分かるように、時にユーモアを混じえながら実に分かり易くシンプルに教えて下さいます。直接師より授かる教えは何ものにも代え難い大切な宝物です。ですがそのような貴重な機会はいつもあるわけではありません。師にお会い出来ない時には、師の教えが編纂された書籍や機関誌『パラマハンサ』を読むことで、いつでも師の教えに触れることができます。
また、皆で聖典の読書会をしたり、バクティ・サンガムではたくさんの神々や聖者の物語に親しみ、キールタンで神の御名を歌うことを通して自分の中にある歓びの源泉に触れるような体験をしました。
そうしているうちに、気が付くといつの間にか聖典がとても身近に感じられるようになり、聖典を読むことが楽しく好きになっていたのです!読んでいるだけで歓びが溢れてきたり、時には面白くて笑ってしまったり、神の栄光と祝福に圧倒されて涙で字が読めなくなったりします。それは、以前思っていた頭で知識として理解するというものではなく、ハートで読んでいるような感覚です。

最近では、日々の生活のいろいろな場面でまるで聖典連想ゲーム?のようにそれらを思い出すようになりました。
先日、ちょうど『ラーマクリシュナの福音』を読んでいたところへ娘がおやつのリンゴを持って来てくれた時のことです。突然、そのリンゴがプラサード(神に捧げられた供物のお下がり)のように感じられ、一瞬輝いているように見えました。運んでくる娘の様子もなぜか恭しく見えます。不思議な気持ちでリンゴを口に入れようとした時、今度は自分の体がヨーガの教えにある“神の神殿”であるように感じ、自分のために食べるのではなく自分の中に住まわれている神のために食べているという感覚になったのです。同時に、神殿であるこの体を大切にしなければいけないという思いが湧いてきました。“食べる”という行為をこの時ほど神聖なものに感じたことはありませんでした。
また、私は今小さな保育園で保育補助の仕事をしているのですが、毎日子ども達がゴーパーラ(ベイビー・クリシュナ)に思えて仕方がありません!幼い子ども達のお世話は気を付けなければいけないことがとても多いのですが、いたずらをしたり、わがままを言ったり、泣いたり甘えたり、仲良く遊んでいたかと思うとケンカをはじめたり…、子ども達の無垢な笑顔を見ていると、まるで純粋で愛そのものであるゴーパーラが私の周りで遊び戯れているように思えるのです。そして同僚の保育士さん達も私自身もヤショーダ(クリシュナの養母)のような気がしてきます。

ゴーパーラ(クリシュナ)は兄のバララーマや遊び友達の牧童たちと一緒にさまざまな悪戯をして大人を困らせます。あ、今みんなでしめし合わせて好物のバターを盗もうとしています!

今、私が聖典を真に理解しているとはとてもいい難いでのすが、それでも本を開けばどのページも真理の教えや神を讃える言葉で埋め尽くされ、それらの言葉を目にするだけでも胸に歓びが広がりますし、聖者の生き様に触れると決して諦めずに少しでも前進しようという勇気が幾度となく呼び起こされます。難解で取っつきにくいイメージしかなかった聖典がいつの間にか私の日常の中に入り込みイキイキと動き出すなんて、以前の私からは予想だにできなかったことです。師の導きがなければ、未だに睡魔との戦いに敗れ続けていたことでしょう。
どうぞ、聖典の真実をこの世界の中に見ることができますように。どうぞ、聖典の言葉が私を通して顕わされますように。最愛の師を想い、お会いできる日を待ち望みながら、今日も歓びとともに聖典を開きたいと思います。

シャルミニー


何のためのお金?

コロナ禍で仕事が減り、お金について考えた。
すると、どのように生きるか、そしてこの命をどう使うか、という命題につながっていった――。

ステイホーム期間中、静かに咲いた花。小さな蕾が次々と咲き、ずっと楽しませてくれた

振り返ってみると、私自身は、何でも手に入るような贅沢さにはあまり憧れたことがなかったことに気が付いた。たぶん負け惜しみでもなく(笑)、たくさん貯め込むということに不幸せなイメージがあったからだと思う。
子供の頃、日本昔話や童話が好きで毎日のように話を聞いた。昔話にはたいてい、欲のない正直者のお爺さんお婆さんと、欲張りで意地悪なお爺さんお婆さんが出てきた。欲張り夫婦は、最初はお金や欲しいものを手に入れ喜んでいても、最後には苦い結末。正直夫婦は、山へ芝刈りに川へ洗濯に…と真面目に働くが暮らしは質素、すきま風が吹き込むような家で、わずかなご飯を仲良く分け合い食べていたりした。なくなりそうなご飯やお金を、他人にはあっさりと全部あげてしまったり、なくなったのに笑いあったりしているシーンとかに、何かさっぱりした感じや欲張らない方が幸せそう~と子供なりに感じていたのだと思う。大人になりヨーガを学ぶ中で、貧しさってお金がないことではなく、貪るということが貧しさだと思った。

師が「人が一人生きていくのにそんなにお金はかかりません」とおっしゃったと聞いた。何にお金がかかるのかというと、外食と娯楽ということ。生きていく、それだけをシンプルに考えれば、本当はそんなにたくさんのお金は必要ないのかもしれない。現にステイホームに徹していたら、あまりお金がかからなかったので、師の言葉を思い出していた。
仕事や外出に伴う交通費、季節に応じた仕事がしやすい服や靴など、外出に纏わる費用がゼロだった。外食、テイクアウトの類いも一切やめ、無駄に外出しないことによって五感に訴えかける刺激も誘惑もなく、食料と日用品以外お金を使う原因がなくなり静かな生活だった。環境のおかげで静まったマジックみたいなものだけれど、そのおかげで本当はこういう生活を望んでいたと気付けた。いかに外の情報に影響されていたか、ますます精進あるのみ!と分かった。

久しぶりの買い出しで外へ出た時に咲いていた、真っ白でまんまるな紫陽花。

そういえば、こんな映像を見た。オシャレな家に住む忙しい共働き夫婦が帰宅すると、炊事洗濯が最新家電によってハイクオリティかつ時短で行なわれ、その分家族との時間も充実、幸せな日常、というストーリーだった。こういう生活スタイルもステータスで、そのために頑張ろう!と思える原動力があるのも知っている。でも、これは幸せなのか不幸なのか?何のためのお金?という疑問が頭をよぎった。
忙しく働いて時間が全然なくて、対価として高額なお給料を手にしても、この家電を買わないと幸せに暮らしていけない生活。一方、昔話のお爺さんお婆さんは、山へ芝刈りに川へ洗濯に…貧乏に見えたけど幸せそうだった。本当の豊かさって? モノを持たない暮らし自体に憧れている訳じゃない。環境は各状況に応じたものがあるだけで肝心なのは、お金・モノのあるなし関わらず、どんな状況にも影響を受けない内面だし、どっちの生活が正しい・幸せというのはないと思う。でもあえて選べるなら私は昔話の生活の方がいいな。

本当の豊かさというのは、何もなくても満ち足りている円満な内面をもっていることだと思う。それはヨーガで学んできた。これがないと豊かな暮らしができない、あれがないと幸せになれない、という観念が何もない方が豊かに思えるし、その豊かさにこそ憧れている。きっとそれは子供心に昔話から感じていたものとも一致すると思う。

悟りとは、完全に円満な状態だという。悟りと聞くと、ほど遠い境地のように感じてしまうこともあるけれど、いつも円満な状態でいることだと考えれば、目指したいのはそれだ!とすぐに思える。
身体はその悟りに向かうための乗り物だというし、目的地に到達できるためには乗り物を良い状態で進めていかなければいけない。と考えていくと、なぜ食べるのか、なぜ働くのか、寝ること、服を着ること、家に住むこと、お金を使うこと、が深く意味をなしてきて自分の中で整理できる。
例えば野菜を買うためにお金を使うことも、源を辿っていけば人生の目的のためということになる。かっこよすぎるが、悟りのため、ということになってくる。だからこそ小さなことから大きなことまで、目的をはっきりと意識してその下でお金を使いたい。それが生き方、命の使い方につながっている。人生の目的地に向かうために、当然お金に関する行為も含まれてくる。それを避けることはできないと思う。

「さまらさの台所」の一場面。野菜を油で揚げる音が、まるで水琴窟(すいきんくつ)と雨音のように澄んでいて美しかった。瞑想的な、さまらさな音色。動画ならではの味わいだった。

最近私がお金を使った「さまらさの台所」のWebクラスで、「野菜を切る時は、初めに盛り付ける時のイメージをして、その上で切り方を考える」と言われていた。人生も、出来上がり(悟り)をイメージして、その上でまな板の上の出来事のさばき方を考えるといいなと思った。そういうふうにして命を使っていきたい。

野口美香


引っ越しとアパリグラハ

物も情報も溢れている世の中では、必要な物が何なのかを見極めるのが難しいことが多々あります。むしろ見極めようともせず、欲しいものはできるだけ手に入れようとし、手に入れたものは手放そうとしないのかもしれません。

ひと月ほど前に引越しをしました。
その時、改めて自分の持っている物を確認すると、まだまだ不要な物が多く、最少限度の必需品とは到底言い難い状況であることを目の当たりにしました。
なぜそんなことが気になったかというと、ヨーガの教えに「アパリグラハ」という教えがあるからです。「不貪(ふどん)」と訳されるそうで、要は貪(むさぼ)らないという教えです。ヨーガを実践していくにあたって、最少限度の必需品以外を持たず、他者から贈り物を受けないという教えです。
物を所有したいという欲にはきりがなく、何かが欲しいと思うとそれを手に入れるために夢中になります。それが手に入るとまた新たな欲しいものに夢中になり、次から次へと手を伸ばしてたちまちに物が溢れることになってしまいます。欲求に支配されていては、到底静かな境地は訪れるものではないので、心の欲望を制御していくというのが、アパリグラハの実践になります。

私はなかなか物を捨てられないタイプでした。アパリグラハの教えを知った当初は、つくづくその通りだと感服し、肝に命じて実行していこうと決めたのですが、日常生活の中で頓挫してしまうことがしばしばでした。それでも繰り返し取り組んで、少しずつましになってきたかな?とは思っていました。しかし、引越しにあたって、いつの間にか沢山の物を持っていたのだということに気付かされたのです。
新居はこれまでよりも狭く、収納場所も少なくなるため、事前にできる限り荷物を少なくしなくてはならない・・・これは絶好の機会。今生きていくのに本当に必要なものかどうかを基準とし、荷造りを進めました。やっぱり必要かな?と迷いが出ることもありましたが、少し時間を置いてからもう一度物と向き合うと、やっぱり要らないという結論に至ることがほとんどでした。
引っ越しが終わり新居で暮らし始めると、部屋の狭さや収納の少なさは全く問題がなく、むしろコンパクトに暮らせるようになって良かったと感じました。

ところが1週間ほどすると、これがあったら便利かな?と新たに物を探し始めていることに気付きました。愕然としながらも、心の習性って本当に手強いなあと、しみじみ納得。最少限度の必需品で暮らすことを目指して、今後は必要な物以外は買わない!と決意を新たにしました。
これがあったら便利かな?という思いが出てきたら、絶対ないと困る?今すぐ必要?と問いかけてから判断する様にしました。店頭で品物を手に取ったものの、なくてもなんとかなるか、と何も買わずに帰ったこともありました。こんなことを繰り返すうちに、物に対する興味が随分少なくなったよう思います。
今、引っ越ししてひと月ほど経ちましたが、既にあるもので工夫をして、快適に暮らせるように生活を整えられつつあるかなと思います。

私は、今回ほど真剣に「自分に必要な物は何か」と問いかけたことはありませんでした。まだ必要最少限度の物で暮らしているとは言えない状況ではありますが、引き続き実行していきたいと思います。
また、アパリグラハを実行していく中で、今やるべきことをこれまでよりも速やかに判断して行動に移せるようになってきた気がしています。それによって、慌ただしい中でもゆったりとした時間も持てるようになりました。
本当に必要な物を大切に使っていこうと思うようになり、心身ともに軽やかに、手放すほどにどんどん豊かになっていくようです。

真実を実現するためには自分にとって何が本当に必要なのか、しっかり見極めながら生きていきたい、そのように改めて思った引越し時のアパリグラハの実践でした。

ハルシャニー


突然の自宅隔離と人生の大きな転換 — 改革の証

ECHO FROM THE CAVE: 126  PROJECT SAHASRARA(NYミッションブログ)より
2020年6月27日(ニューヨーク・シティー)

 

“ヨーガ的隠遁状態―クンバカです”
シュリー・マハーヨーギー

 

シュリー・マハーヨーギーが冬のご訪問後に日本にお戻りになられて程なく、世界的流行パンデミックという状況下、ニューヨークは休止期間に突入しました。ミッションのクラスも状況が落ち着くまで見合わされることになりました。2018年の秋より続けられてきたヨーガの教えや修行を深めるためのプログラム『行動を通して学ぶ会』(SIP: the Study in Practice group)についても同様です。

この休止期間に入る前までは、会のメンバーは一ヶ月に二度集まり学びを深める試みをしてきました。しかし、二つの小グループに分けて行われている一つのグループが、メンバーたち自らの意思によって自発的に、本来であればアーサナ・瞑想クラスのある日曜と水曜の晩に、つまり週二回オンラインで集い学び始めました。同じ頃、ニューヨーク・ミッションのディレクターであるアーナンダマーリーによる、「この期間を、シュリー・マハーヨーギーの教えをより深く捉え実践するポジティヴなものに。私のハートは皆とともにあります」というメッセージが皆に送られました。するともう一つのグループも同様に週に二回ビデオ電話を駆使して集い学び始めました。

ニューヨークのサンガとその状況を心配されたシュリー・マハーヨーギーからメッセージが届きます。

「いつ迄続くか分からないけど踏ん張るしかありません。
ヨーガ的隠遁状態―クンバカです。頑張ってください」

本当に、その時この状況がどれだけ続くことになるのか、また、今もこれからどれだけ続くのか分かりません。けれども、シュリー・マハーヨーギーのメッセージの中に書かれてある「クンバカ」は確実に大きな指針になりました。外出制限という状況は、非常に困難な時間ですが、私たちの内なるエネルギーが力を蓄え、自らの中に不屈の精神の確立が実るように、この制限された時間をクンバカとしてポジティヴな修行と捉えるかは私たち一人一人にかかっています。

まぎれもなく、多かれ少なかれ孤立化した状況の中で、SIPは週に二度の集まりになり、頻度が急激に変化したことによってグループは、ヨーガにおいて最も大切な部分であって最も困難な仕事でもある、心の内部への取り組みが強化されていきました。

SIPが始まった時2018年の八月の終わりに、シュリー・マハーヨーギーはサンガに隠喩を使って次のようなメッセージを下さいました:

「肝心なここの部分が皆欠けている。ある男が真理の話を聞いて、真理の向こう岸に渡りたいと思った——ヨーガやスピリチュアルなことに関心を持った段階。ボートで漕ぎ出そうとして、オールを一所懸命一晩中漕いだ。夜が明けて、周囲を見ると、元の世界のままだった。男は、ボートを繋いでいる綱を外していなかったのである——ちょうどこの有様が起こりがちな間違い、あるいは失敗である。ボートを漕ぎ出すという—真理を学び修行をする—前に綱を外しておくべきである。やはりこの根本をしっかりとマスターしなければ一向に先に進まない」

そしてシュリー・マハーヨーギーは、私たちが行わなければならない作業はそれらの綱を見つけ、綱を外さなければいけない、と説明されました。

外の世界からの刺激が制限される状況において、この一貫して内面に集中するという集中的な時間は、私たちを真剣にその作業に向き合わせました。

以下の文章は、心の悪循環に苦闘していたひとりの修行者が、突然一瞬の真の光を垣間見た証です。それは本当に祝福された経験です。長年私たちはその悪循環を目撃していましたが、彼は厚い雲に覆われながらも、なんとか諦めずに歩んでいました。この文章は、自分が進歩しているのか否かを自分自身で判断することは必ずしもできないけれども、諦めずに離れることなく進んでいけば、最終的に私たちは真の光を見ることができるということを明白に証明するものです。

*

『私は知ってる』が障害物である!

この数週間先輩弟子から、何のために生きているのか、この人生の中で何をしたいのかについて深く考えるようにという宿題を与えられていました。数日間それについて考えた後、答えを見つけることを立ち阻んでいる障害が表面化してきて観ることができないか、自分の心をただ観察することにしました。

週末、山に住む友人に会いに行こうと誘われました。出発一日前、訪問している間に宿題への集中を失ってしまうのではないかと不安になったので、私は意識であり、体ではない、他の皆も同様だ、という教えを常に思い起こすように努力してみることにしました。
到着すると直ぐ、この数カ月間ほとんど人と接せずに家で過ごしたために、多くの雑談をしようとする自分の強い衝動的欲求に気付きました。そこで私は、会話には関わっても、同時にこの訪問の中での自分の目標を忘れないようにすることにしました。
その晩遅くに火を囲んで座っている時、友人の一人と、お互いが参加した昨年夏のあるサットサンガについての会話になりました。友人は、そのサットサンガの中でのある人物の振る舞いについて、彼女の意見を話しました。彼女が話し続ける中で、「その人物を自分は知っているけれど、あなたは実際何も知らないではないか」という自分の心の強い反応と、彼女の考え方を変えさせるために何かを発言しなければならない強い必要性を感じていました。それで何かを言おうとし、彼女の意見が間違っていて何がどうでどうだったのかを自分は知っているんだと強引に納得させようしましたが、そうすればするほど、彼女は自身の視点を変えることなく同じことを繰り返すばかりでした。自分の心の反応はあまりにも激しく、実のところ自分の反応自体に嫌気がさしていました。その時点で、その自分の激しい反応を何とかしたくなり、話し続けることをやめて自分自身に問いました。「何がそんなに気に障っているのか。」すると突然、問題は心の中にあること、自分が一番よく知っていると思っていること、自分の思いが正しく彼女の思いは間違っていると思っていることこそが、問題であるということが分かり始めたのです。そのために自分は大いに苦しめられていたのです。サットサンガに参加したその人物について自分自身、真に知っているのかどうか、自分に問う外ないと感じました。自分の心を見てみると、自分は何も知らず、自分が正しいと断言などすることはできないと気付きました。それを認めて、彼女の話に真剣に耳を傾け始めると、彼女はその人物の振る舞いの何かに煩わされていることに気付きました。自分の中には「自分は知っている」「自分は正しい」という先入観があったため、その瞬間までそれが見えなかったのです。最終的には、サットサンガの中ではとても多くの事柄が話されたことに自分の意識が移り、そこにいた誰かがその日のサットサンガの中でシュリー・マハーヨーギーが与えてくださった教えを覚えていないだろうか、むしろそういった話の流れにならないかと思い始めました。それで、彼女にサットサンガの中で何か受け取ったものはないかと聞くと、彼女は少し考えてから、シュリー・マハーヨーギーが話された一つの教えについて話し始め、その途端それまでのエネルギーが一気に変わり、会話の方向がくるりと完全に向きを変えたのです。

その後即座に、この週末友人を訪問するにあたっての自分の目標を思い出し、できるだけ静かにして真の意識だけを考え、他人も同じその真の意識であるということにだけ集中するよう試みました。すると、自分が何を望んでいるのか、何のために生きたいのか、少しでもそれを理解することを制止しているものの一つは、自分が持っている人生やヨーガをも含む様々な事柄に対する「自分は知っている」「自分は正しい」という先入観であることに気付きました。それを原因として、自分のでしゃばりで強引な傾向や、ある話題や題目に対して狂信的になりやすい傾向が現れるのです。また、多分この姿勢に覆い尽くされているために、日常の中で明らかにされる事柄に自分が気付くことができないのです。

そうこうする内に彼女は他の誰かと話を始め、彼らの会話が聞こえて来ました。自分の心がまた直ぐに同じ傾向とともに自分の言い分の正しさを見せつけようとすることに気が付き、今度は自分の思いを純粋意識に、そして彼らの本質を純粋意識として集中し続けました。その時、何かが起こりました——突如として、言う必要はない、変える必要はない、この意識だけが心や体や友人たちを使ってただ遊んでいるだけだ、という思いに圧倒された明快な瞬間が訪れたのです。純真な子供たちが遊んでいて、すべての創造物も同様であり、達成すべくものはなく、自分たち皆自分のペースで真理の実現に向かって動いていて、誰かがより理解していようが理解していまいがそこには高低はないということを知ったのです。私たちの心は異なる、だからこれからは真に皆を理解できるように、自分の目の前にいる人を理解しようと努めなければならないのです。

今、その夜に自分の人生の目的を見つけたと確信をもって言うことはできませんが、その自由を体験した瞬間をその時に感じた周りの人たちとの親密さと共に、もっと頻繁に体験したいと思っています。そしてまた、そのほんの僅かな明瞭な瞬間の体験は、シュリー・マハーヨーギーに出会ったからであり、シュリー・マハーヨーギーのご指導の下でヨーガの教えを理解し修行しようとしたから起きたということも認めなければなりません。この事実は、自分の思いと行動をできるだけ頻繁に教えを基としたものにすれば、よりこのような体験をしていくこととなり、願わくば、いつの日にか、一(ひとつ)であるという感覚が自分の心を永遠に占めるであろうということをより確信させました。

シュリー・マハーヨーギー、本当にありがとうございます!

エーカーンタ 2020年6月

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興味深いことに、この証言は、正にクンバカの一つの結果が現れた例であることに気づきました。

外出制限が始まった時、エーカーンタはその影響を受けて仕事を失いました。同じ頃、肉体的な怪我のために、絶対に必要なこと以外は体を使うことが許されない状況となりました。実際、横になっているか、ほんの短い間歩くこと以外体を使うことが困難な状況でした。その上、外出制限による孤立した状態は、ルームメイトがほとんど家を留守にしていたり、ほとんどの友人たちが郊外で過ごしたりと、さらに拍車がかかりました。体の状態が改善し始め、彼は少し体を使うことができるようになったのですが、するとそこで直ぐにまた怪我をして追い討ちを受けました。本当に、耐え続けることは非常に困難だったに違いありません。

振り返れば、もしくは、別の角度からみるならば、まるでそれは、何かの理由があって、エーカーンタは実に全ての外的条件が完全に通常ではない、「どこにも逃げ場所のない」強烈な制限の形に然るべくして押し込められていたかのようです。それでも、彼はSIPの集いに参加し続け、彼自身の心がこれらの状況に苦しんでいたにもかかわらず、耐えたのです。

友人たちを訪ねこの緊迫した状態から一時的に解き放された時、真理の片鱗を体験しました。あたかも彼が経験したこれら全ての状態は、シュリー・マハーヨーギーの恩寵として与えられたかのように。

ある意味、エーカーンタが経験していったことは、シュリー・マハーヨーギーが教えられるアーサナの修練にとてもよく似ています、むしろ、アーサナを通して起こり得ることが、自宅隔離中の「クンバカ」によって起こり得る具体的な現れとして象徴的に明かされたのです。シュリー・マハーヨーギーが教えられるアーサナの修練には、アーサナとシャヴァーサナ(屍のポーズ)が組み合わされて配置されています。それぞれのアーサナを行なっている間は、強烈な制御と集中状態が作られしばらくの間維持され、そしてシャヴァーサナが続き、それによってその状態とは反対の状態が訪れます、完全に解放するリラックスした状態です。シュリー・マハーヨーギーは、シャヴァーサナは重要なアーサナであると教えられています。シャヴァーサナの役割は、正しく理解されていないかもしれませんが、この例からもアーサナとシャヴァーサナが正しく行われると、それは心をサットヴァ(純粋)な状態に導き、それが最も小さな空間であったとしても、心に穴を空け、その空間に真理が顕れるということも見て取れると思います。

毎日のアーサナの修練は、私たちが日々の生活を送る準備をする訓練です。アーサナの修練の最中に私たちがよく直面する事柄は、日々の暮らしの中で直面する内容と同じです——日々の暮らしではより大きく長くそれが続いたとしても。アーサナを保持する中で耐える訓練をするならば、実際の生活の中で何か状況が生じたとしても、それから解放される状態が来るまで忍耐して、一貫して持続し続ける訓練を行使しなければなりません。それを行なうのであれば、真理のために心の中に空いた空間は、もしかするとヨーガマットの上で空いた空間よりももっともっと大きいものになるかもしれません。

私たちは、改めて畏敬の念で満たされずにおれません… なぜなら、これら全てがシュリー・マハーヨーギーの恩寵と、シュリー・マハーヨーギーが私たちに授けてくださる教えと修行に内在しているお導きの大きさを改めて示しているのです。

NYブログ編集部


ステイホームでヨーガに染まる!

緊急事態宣言が出て、外出自粛となった。仕事、人間関係、献身奉仕する相手も、目の前にない。
「外」がなくなり、心は嫌でも「内」を見つめることになった。
自由に使える24時間だけがあった。ふと世俗を離れて独り修行していた古代のヨーギーが思い浮かんだ。そのような、たとえば片腕を切り落としてでも悟りを求める命がけの真剣さが自分にあるのか?

慧可断臂図: 達磨大師に道を求める真剣さを示すために、慧可は自らの左腕を切り落としたと伝えられている。(雪舟筆)

その問いが浮かんだ瞬間、自分の真剣さが無いに等しいことに愕然とした。マハーヨーギー・ミッションに属してクラスに参加することで、満足している自分がいた。拠り所にできるのはヨーガしかないと分かっているはずなのに、集中も甘いし、神への愛も実際に人を好きになった時の気持ちに比べたら、こんなの全然だ・・・
真剣さが足りないのは結局信じ切れていないからだ。だけど、ここからやるしかないのだ。

すると、私にある考えが浮かんだ。それは自分を躾けていく、ということだった。母親のことが大好きだった私は、母の言いつけをよく守り、大人になった時には母親そっくりになっていた。ということは、真理の教えを親に躾けられるように日々の生活の中で自分に言い聞かせ続けていけば、20年後(?)には神そっくりになり、神に染まった私ができる!!やったー!!と思った。

そこで、ヨーギーさんの教えを1冊2冊ともう一度読み返した。そして特に心に残った教えを書き出してまとめた。それを一日に何度も目に入る場所に飾った。神と一緒に暮らしていて、いつも神が言葉をくださるような感覚にした。

書き出した師の教え

そして、一日は動画配信されたキールタンを毎朝一緒に歌うことから始まるようになった。
そのうちに瞑想専科が動画配信され、それを毎日見た、というか聞いた。最初は受講した時のように姿勢を正して見たのだけれど、親の話は必ずしも姿勢を正して聞いているわけではないなあと思い、食事をしながら、家事をしながら、そばにいる家族の話を聞くように聞いた。
それは親代わりのお兄さん(兄弟子)が家でいつも真理の話をしてくれている感覚だった。私は時々、自分の用事に気を取られてお兄さんに「え?今なんて言った?」と聞き直す。と、優しいお兄さんは何度でも同じことを繰り返してくれる(リピート再生)といった感じだった。受講当時は今一つピンとこなかった話も繰り返し聞いている内にわかることもあり、動画配信はとてもありがたかった。心(エゴ)が自分だ、と思って今まで生きてきた私には、本当の自分はエゴではなくアートマン(真我)だと教えられても、そうだったらいいなとは思えても腑には落ちていない。でも腑に落ちているお兄さんの熱い言葉は「私もそうなりたい!」と波動砲のように私の心を繰り返し揺さぶった。

キールタンの動画配信の画面。

緊急事態が解除され仕事が始まった。
朝が苦手だった私が少しは早く起きられるようになり、掃除してキールタンを歌い、神の教えを胸に仕事に向かうようになっていた。ステイホームの日々は私の基本的な生活態度を大きく改善していた。他人の評価を気にするあまり、決断するのに時間がかかる癖も、以前に比べてマシになり、仕事への集中も増した。仕事で対人関係が再開したとたん心がざわめいたが、今までならその心の動揺からなかなか抜け出せなかったのだけれど、そんな自分の心を少し離れて冷静に省みることができた。

真理と突き合わせて真理でないものは棄てていく、言われていたのはこのことだったんだなと思った。あぁ、でも!自分のエゴを棄てるのは簡単ではない、と思った瞬間に、心は思ったものになるから難しいなんて思っちゃダメ!大丈夫、できる。心は訓練すれば変わるんだ、もともとエゴなんかないんだ!という思いが湧く。
自分の小さな利己的な思いにいつまでも執らわれていると、チマチマやっていないでもっと大胆に放棄しなさい!とどこからか聞こえてくる。
20年後なんて言わず、今すぐにでも神に染まりたい!

クラスが休講の間、いつも何かしら神のこと、ヨーガのことを思って過ごしていたから、ずっとグルバイ(兄弟姉妹弟子)と共にいるような感覚だった。外出自粛の間も届けられたキールタンや瞑想専科やさまらさの動画やブログは、神がグルバイの身体を通じて現われてくださったように感じていた。
そしてクラスが再開され、クラスも神の恩寵だったんだとわかった。久しぶりのクラスで行なったシールシャ・アーサナ(逆立ちのポーズ)で、いつまでも立っていられる感覚を初めて味わった。拙い歩みでも、神は導いてくださるのだ。

ずっとヨーギーさんと物理的に会えないことよりも、ヨーギーさんが「いつも一緒にいます」と言われた言葉がいつも心にある。私はまだ気が付くことができないけれど、ヨーギーさんはいつも一緒にいてくださる。そのことを以前よりもずっと強く信じるようになった。
利己的でなくなること、つまり自分の得になることを棄てることは、自分にとっては損でしんどいことでとてもできないと思っていた。だけど「己」なんてないのだ、みんなアートマン(真我)なのだと信じた時、利己的な思いこそが自分を苦しめているのだと感じられる。今はまだ自分の今までの心の癖や利己的な思いも出てくるけれど、それに気付いて「棄てたい」という思いも早く強く出てくるようになった。
思いも言葉も行動も、神と同じになるように、黙々と淡々と私の心を躾けていこう。

吉岡恭子