慈悲と無執着
—カルマ・ヨーガにおける慈悲と無執着についてお話しいただけますか。
ヨーギー「通常、私たちの心の執着は〝私〟と〝私のもの〟に因(よ)っています。これが執着の最も大きいものです。一方でカルマ・ヨーガの実践という教えがやってきます。まだ十分に訓練ができていない間は、自らのカルマである義務を果たしていかなければなりません。しかし修行が進むにつれて〝私〟と〝私のもの〟は間違いであったということに気付かされます。同時に、他者の苦しみや悲しみに同情する気持ちが大きく湧いてきます。ここからがより優れたカルマ・ヨーガの始まりです。積極的に自らの無知、煩悩をなくしていくこと、同時に他者に献身奉仕していくことは、瞑想を専らとするヨーギーたちと同じくらい難しい作業です。例えばラージャ・ヨーギーたちはさまざまな戒律を調え、アーサナやプラーナーヤーマ、瞑想を通して真理を悟ります。いわば心を透明にする作業です。
一方のカルマ・ヨーギーは瞑想という手段ではなく、実際にこの世の中において他者に奉仕することによって同じ結果を得ます。これは自然に湧いてくる慈悲、カルマ・ヨーガの流れです。
参考までにボーディ・サットヴァという言葉は、二千年ほど昔、仏教の教義から生まれたものです。これはかつて、あの主ブッダが前世において成し得た修行とその徳を表しています。そして二千五、六百年昔に生まれた時に、ブッダとなったわけです。二千年前の仏教が教えるボーディ・サットヴァの行というのは、他者のために自己を捧げなさい、そのためには自らの悟りでさえも放棄すべきものであるというものです。これは何も仏教だけのものではありません。インドで昔から伝えられてきた教えでもありますし、また世界のどこかしこにもそのような教えはあったと思われます。
つまり〝私〟と〝私のもの〟というものは本当はないのです。そこにあるのは〝あなた〟ーー一つの存在だけです」
2004.9.3 NY