集中・瞑想・三昧
ヨーギー「いわゆる瞑想における心の様子は、集中、瞑想、そしてサマーディ、サマーディは没入と言ってもいい、そういうふうに分類できます。これは『ヨーガ・スートラ』に非常に明確に説明されている。
集中とは心をある対象にくっつけることである。そこから離れないように、それが場所であれ何であれ、その対象に対して心を釘付けにするような行為、だから心の力を必要とします。非常に能動的な積極的な心の力が必要です。
そして次に訪れる瞑想、いわゆる瞑想という状態については、ちょうど油を一つの器から別の器に注ぎ込む、その途切れない様子のようなものである。ある容器というのは心の思い、集中という思いであって、そして別の容器というのは対象を意味している。そこに心の思いが、集中力が途切れることなく、油のように注ぎ込まれるさまを表している。この時には心の力は自動的に流れるようになっているので、もはや能動的な努力というのはなくなっている状態です。
そうしてすべて注ぎ込まれたかのような状態になった時、これがサマーディというもので、この時心はあたかも水晶が周りの物体をそのまま映し込むように、その心は対象そのものを映し出す。一体になる、そういうふうにいっています。もちろんここにももう心の力は介在していません。だから心の努力を必要とするのは集中という、その集中力の如何によって、その後の瞑想とサマーディが実現するということになる」
2010.4.17