真理は一つ
ヨーギー「(インドの大聖者)シュリー・ラーマクリシュナの生涯はちょうど十九世紀の半ばに位置しています。この時代は東洋と西洋が接触を密に始めた時でした。それは西洋の東洋への侵略、あるいは植民地化という意味においてでした。しかし、そんな接触の些細な部分ではあったかもしれないけれども、東洋の偉大な歴史と伝統、そして文化が西洋に紹介されることにもなりました。とりわけ光彩を放ったのが宗教哲学、あるいは思想の分野です。キリスト教一辺倒で育ってきた西洋の文化にとっては、東洋の叡知というものは本当に驚くべき衝撃をもったことでしょう。それまでの歴史が繰り返したように、宗教という領域においても、それぞれの宗教は排他的であり、他を認めることはしませんでした。
しかしインドが数千年来宣言してきたことは、『真理は一つである。そして、それを賢者たちはさまざまな名前で呼ぶ』というものです。すべてを認めた上で、そして本当の究極の真理を悟らなければいけない。さまざまな名前をもつ川が海に流れた時には、もはや個々の名前は失われて一個の海だけがあるように――。ブッダ以前から、そしてブッダも同じことを説き、そして十九世紀、もう一度それを高らかに宣言する必要が生じました。それがラーマクリシュナが降りてきた理由です。その光は愛弟子のヴィヴェーカーナンダによって、広く西洋に伝えられるところとなったわけです。
西洋の諸国においては、やがて混乱と戦争の時代がやってきて、ますます宗教が忘れられていくような結果を招きます。この時まさに東洋の叡知が人々に潤いをもたらすことになってきました。なぜなら宗教は一人ずつのものであり、一人ずつの中に神が宿っているということを知っていますから。実はヨーガもこの時に初めて紹介されたのです。まだそれは言葉上のことだったかもしれません。実践はそれからです。
時を経て二十世紀の後半になり、ようやく人々は実践できる時が来た。ヨーガへの熱望はますます高まるばかりです。それはヨーガの恩恵があまりにも大きいから。現世利益も叶えられるでしょうし、天国への慰安も得られる。そして悟りがそこにあります。
ヨーガの流行は同時に混乱を来しています。今一度、正しくヨーガを位置付けなければいけない時です。
二千年前にイエスが顕れた時、彼はこう言ったそうです。『私は宗教を壊すために来たのではなく、完成させるために来たのだ』と。同じ言葉ではなかったけれども、ブッダの登場もまた同様の意味をもっています。バラモンたちをはじめとしたさまざまな修行者、思想家によって永遠の真理は見失われようとしていた。それがブッダの登場により正しく位置付けられたわけです。『バガヴァッド・ギーター』の有名な一節にもあるように、『正義、もしくは宗教が疎んじられ、不徳がはびこる時、私は自らを顕す。悪を滅ぼすために』。悪というのは正しくない、邪教という意味です。
このように歴史を見てみると、たいへんな繁栄がある時、その影では常に混乱が付きまとっているということが見受けられます。人々はきらきらする灯された光に吸い寄せられ、そして迷路に入ってしまいます。こんな時、太陽のような自ら輝く光――それが必要です。輝く太陽の前ではどんな光も無用ですから。アヴァターラとはまさにそのような存在です。アヴァターラは常に永遠で完全な存在です。もし人が神を見ようとするならば、彼を、あるいは彼女を見なければいけません。しかし人の心に巣くった無知という獣は、時間を経ることで、それを忘れてしまう。だから時々顕れる必要があります。これが全宇宙の秩序です」
2005.4.16