「理想」とは何でしょうか?
世界平和、愛、自由、目標の達成、つつがなく人生を送ること……
人それぞれ、思い描く理想の姿や形はさまざまかもしれませんが、そこには共通して「幸せ」を求めるはたらきがあるように思います。
では、ヴィヴェーカーナンダは「理想」というものをどう捉えているのでしょうか?
まず、理想の対義語が何かといえば、それは「現実」です。
ヴィヴェーカーナンダはこの現実のありのままを、いくつもの例を挙げて説明しています。
ーー希望に満ちた若者は明日の老兵になり、知識獲得への欲求はその限界に直面し、物質的繁栄の影には不幸があり、快楽を得れば等量に割り当てられている苦痛を伴い、どんな偉大な王も美女も死という破壊に向かって進んでいる事実ーー
人は生きていくと、誰もが大なり小なり現実の壁、矛盾、二元性に直面し、この世界で自分の思い描く理想に完全に近づけないことを実感します。
2500年前、ブッダは説かれました。
「この肉体と心、世界は無常である」
思い通りにならない世界と、まぬがれることができない老いや病、そして死ーー
幸福を得るやいなや不幸が襲いかかり、この世に生を受ければ必ず死がやってきます。
それでも私たちはこの世界において永続する完全な幸福を求めるです。
では、私たちはどうすればいいのでしょうか?
死を直視することをやめ、理想をもたず、享楽的な人生、または世に迎合する人生を送ればいいのでしょうか?
その突破口としてヴィヴェーカーナンダは、「死を絶滅させるためには、生も絶滅させなければならない」と言うのです。
それは、短絡的にこの人生を諦めよということではありません。
「小さな生命を生きることは死です。小さな幸福、小さな自分を棄てよ」
と言うのです。
「われわれは誰でも、自分たちは非常に幸福であるだろうと考えて、この肉体をいつまでも保っておきたいと思います。しかし人々が過去とか未来とかを思うのをやめるとき、彼らが肉体という観念を棄てるときーー肉体は去来する、限定されたものなのですからーーそのとき、彼らはもっと高い理想にまで登ったのです。肉体は真の人ではありません。心もそうです。心は大きくなったり、小さくなったりするのですから。独り永遠に生きることができるのは、超越した霊です」ーー『ギャーナ・ヨーガ』
誰もが永遠で完全な幸福という理想を求めています。
過去の覚者たちは、それは肉体や感覚、心では得られない、「放棄」によって得られると悟りました。
ブッダは「四諦(苦集滅道)」という放棄によるニルヴァーナ(涅槃)への道を示し、イエス・キリストも「私のために自分の生命を失う者は、それを得るであろう」という諦めの放棄の道を説いているのです。
そしてヴィヴェーカーナンダは、理想はどこかにあるのではなく、最も近いところにあると言います。
「あなたが見た理想は正しかった。しかし、あなたは理想をあなた自身の外にあると見た、それが間違いでした。それをもっともっと近くにもっていらっしゃい。それは常にあなたの内にあったのだ、それはあなた自身の自己であったのだ、ということがあなたに分かるまで」
理想とは、永遠で完全なる幸福、自らの内にある真の自己、その目覚めである悟り、そうでなければ意味がありません。
そして、「最高の理想で頭脳と思いを満たし、朝夕それらを自分の前におきなさい。そこから偉大な働きは生まれるのです」とヴィヴェーカーナンダは力強く説いているのです。
ゴーパーラ