サティヤーです。
あけましておめでとうございます!今年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて、突然ですが「聖典」読んでます?
聖典の学習というのはヨーガの実践の中でとても大切だと言われます。ニヤマ(勧戒)の中にあり、毎日実践するクリヤー・ヨーガの中にも数えられます。2012年の夏、ヤマ・ニヤマの項目を一つずつとりあげ、ヨーガの仲間と学びました。そのとき、私はニヤマの「聖典の学習」を担当しました。(参加者は、どれか自分が気になるものを担当し、学びを深めました。)その時に書き留めたメモが年末のお掃除をしていたら出てきました。
そこには、まず聖典とは読書とは違うとあります。
心を動かすための本=読書
心を止滅させるための本=聖典
自分勝手に理解しない→聞く耳を養う。素直さ謙虚さが大切。
久しぶりに自分の書いたメモを見て、なるほど〜と感心していました。私はもともと読書が好きだったので、ヨーガを始めた頃は聖典を片っ端から読みまくりました。どれも面白かったのですが、何となく「聖典ってこういう風に読んでていいのかな?」という疑問がありました。読み終えたら終わり。それで終わりでいいのかな?どこか私の知らない世界のお話を読んでいるような、どこか他人事のような……。そんな思いが募っていた時の学びの会だったことを思い出しました。
メモは続きます。どのように読めばいいのか、
「どれだけ自分に関連付けているか」
「感じ取ることが大切」
そして最後のラインには大きな字でこのように書かれていました。
(だいぶ興奮しているような大きな字でした!)
「イシュタ(理想とする聖者)に会える!!」
これは聖典の学習の結果として起こるようです。
さて、先日不思議なことがありました。お昼にこたつの中でぼんやりしていたのですが、突然あるヴィジョンが表れました。気がつけば私の心には、ある聖者との交流が残っていたのです、確実なものとして、夢でも想像でもなく、それは事実として心に残っていたのでした。不思議な経験でしたが、その聖者は私が今読んでいる聖典に出てくる聖者だったとはっきりと分かりました。
メモにあった「イシュタ(理想とする聖者)に会える」というのは、夢で会えるのでも、本の中で出会えるのでもなく、実際に会えるのだということ、彼の身体を見て、彼と会話する、それはそれはとても不思議なことですが、聖典にはそういう力があるのです。3年越しに自分の書いたメモを理解したな〜と思いました。少しぐらいは進歩してて良かった〜。
サティヤー
聖典を数冊読みましたがまだ「イシュタ」に会えません。 イシュタと思える聖者が居ないのが! 原因かもしれませんが! 如何したら良いのか判りません。
國友さん、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします!
読まれた聖典の中に、憧れる聖者はいませんか?
こんなふうになりたいな〜と思う聖者との出会いがあればいいですね。