国立市にある谷保天満宮の梅。梅の花が咲き始めると、いよいよ春が近づいてくる感じがします。
〝…私というのは何者であるのか。そう、私というのは変わらないのです。身体の状態がどうであ れ、世界のありさまがどうであれ、また心がどういうふうに反応しようが、それらを全て、ただ知っている、見ている——そういう意識のことです。もちろんそれは自我意識ではありません。自我意識というのは自己と他を区別する自己中心的な意識のことをいいます。それは心の領域のものです。心を造り上げている一つの大きな柱です。本当の私というのはそれをも知っている、さらにその奥にある意識のことです。
本当に不思議なメカニズムですけれども、誰もが私という自分を意識しているに違いないのですから、自分が自分を知らないということはないはずです。でも今言ったような、心と真我の意識との区別——別ものであるという——これがはっきりと識別されれば、一切の迷いや悩みは解消していきます。学ぶべきことはそれです。そしてそのための具体的な方法が瞑想であり、またそれを調えるために呼吸や身体を調節していくわけです〟
『悟り』より抜粋
私は見ている意識のことを初めて知った時、なんて面白い考え方なんだろうと興味を持ちました。 理解するのに時間はかかりましたが、ヨーガを学び実践するにつれてそれは確かにあるのだと感じられるようになりました。
次第に、その見ている意識が本当の自分であり誰もの中にあるということを思うと、どの命も尊くて愛おしいと感じるようになりました。
これは私がヨーガを実践しているから感じられるようになったのか? ヨーガを知らない人たちには感じられないことなのか?
ふと気になるようになったある日のこと。高齢の患者さんと話していると、ご自分と同世代の方々のことをおばあさんと言っているけれど、ご自身のことはおばあさんと思っていないような口振りで、自分のことは年齢に関係なくただの自分として認識しているのかな、と感じました。
それからしばらく経ったある日、子育て中の患者さんが、「自分はずっと自分のことを知っているから、子供を産んだり歳を取ったりしていてもずっと同じような気がする」と話されました。
この2人の方の中にも「ただ見ている意識=何があっても変わらない本当の自分」が確かに存在しているという、証のようなものを感じました。
それがあると知らなくても感じているのなら、何かのきっかけでもっとはっきりと感じられるようになる可能性が誰にでもあるはず。
今世の中では、他者との違いを見て区別や差別をする傾向が強まっているように感じます。それぞれの信念を貫き通すために他者を傷付ける言動に及んでしまうケースも少なくありません。
1人でも多くの人が「何があっても変わらない本当の自分」を体感し、自分以外の誰もがそうであると感じられたら、思い込みや偏見のないまっさらな目で見て、囚われのない心を持って互いを愛おしむことができるのではないか。
身体の状態がどうであれ、世界のありさまがどうであれ、また心がどういうふうに反応しようが、 何にも影響されない変わらない自分がいる。 この真実があるということが今を生きる人にとって救いなのではないかと思います。
いつまでも見続けていたくなるほど美しい『悟り』の表紙。
ハルシャニー