冬に向かう秋ごろから瞑想専科クラスの課題として『ラーマクリシュナの福音』を毎日読みだしましたが、心の中に春の芽生えの予感のように、新しい習慣が生まれつつあります。クラスはもう終わりましたが、そういう種を蒔いてくださっていたのだなぁ~と今になって気付きます。
私は、これまで好きな時に好きなように聖典を読んでいました。でも、必ず毎日読む、と決意してからは、ちょっと大袈裟かもしれませんが、意識して行なうことで、ある意味、儀式のような感じにもなってきて、聖典を読むことはアーサナと瞑想と同じ位置付けになってきていました。
最初は「毎日読むことがクラスに参加する上での約束事だから」「約束したから約束を破りたくない」という一心でした。しかし、だんだんとそれが、ラーマクリシュナと私の約束のように変わっていきました。大事に本棚に仕舞っていた本でしたが、ラーマクリシュナと私の約束だと思いだしてからは、絶対に約束を忘れないようにと、いちばん自分がよく見る祭壇のようなスペースに本を置きました。表紙にはラーマクリシュナのお顔が大きく描かれています。平置きするととても目立ちます。読み始める時も、読み終わった時も、ラーマクリシュナのお顔に始まりお顔に終わります。大切な本を出しっぱなしにしておくのはどうかとも思いましたが、いつもお顔が見えるので、こっちの方がいいなと今は良しとしています。
毎日行なうべきことして、アーサナ、瞑想、聖典の学習、この三つをすることをクリヤーヨーガと学んできました。ただ白状しますと私は「聖典の学習」については師から真理の教えを直接学ばせてもらっているのだから「毎日」というのはそんなに重要視しなくていいかも、ととらえていました。
ところが毎日読みだすと、例えばクラスの良さは自分が体感してみない限り、人から聞いているだけでは実際には分からないのと同じように、聖典も自分が毎日読んでみて初めて、なぜ毎日なのか?がだんだん分かってきました。
真理の言葉を毎日聴こうとすることに意味がある、と私には思えました。目で読んではいますが、頭の中では聞いている感覚になるのです。ラーマクリシュナの声を実際に聞きたいですが、今は本を通して声を聞かせてもらっていると信じています。真理の言葉は、それがたとえ文字であっても真理そのものだと私は思っています。真理に毎日触れる、聴く、という、それがなければ何も始まらないんだ、それは自分が意識しないといけない、と感じました。師から、「真理はまず聞いて、考えて、そして瞑想して」と言われているからです。また、読むための時間を捻出しようとすることで、自然と気持ちも神聖なものへと向けられました。
毎日、ラーマクリシュナとの約束で私は繋がっていられるような気がしました。約束というものによって、信仰心が芽生えるよう導いてくださっているようでした。毎日読みます、という小さな小さな誓願を、ラーマクリシュナは大切にしてくださり、じっと見守って待ってくださっている気がします。決めて、そして誓願することは、ささやかな始まりのように感じました。
師の存在がなければ、聖典をただの本ではなく聖典として、こんなリアルには感じられないと思います。聖典の教えは、師の存在と教えを理解する助けになり、真理と強く結びつけてくれます。両輪のように導かれ、支えられます。毎日読むと、自然にいろんなことが日常にもリンクしてきて、面白いなと思います。
そして今日も明日も、ラーマクリシュナとの約束はこれからも続きます……。本を開けば、ラーマクリシュナが待ってくださっています。
野口美香
美香さん お久しぶりです ラーマクリシュナの福音、わたしも毎日読むようにしていました。 わたしは表紙だけ祭壇のヨギさんのお写真の横に飾っています。写真というか、絵ですが、ラーマクリシュナが笑っているような(サマーディに入ってらっしゃるのですよね?)息吹が感じられる素敵な表紙ですよね。
最近は、田中かんぎょくさんの不滅の言葉のほうを読んでいます。まだ2巻ですが。ラーマクリシュナに勝利あれ!
鴨田 敦子さま
コメントをいただきまして、ありがとうございます。『ラーマクリシュナの福音』も『不滅の言葉』も、熱心にお読みになっているんですね!表紙の絵については「シュリー・ラーマクリシュナのサマーディの絵画」と記されてありますので、貴重なお姿のお写真(本の中にもある)から描かれた絵なんだろうなあと私も想像しております。
これからもお互いに毎日聖典を通して師の存在とラーマクリシュナのお言葉を感じ、ヨーガの道を歩んでいけますように