一切万物として顕現しているのだ!!

歓喜の祝祭から数日後の余韻の中、バクティ・サンガムの今期のクラスが先日、最終回を迎えました。祝祭会場でもあったプレーマ・アーシュラマから、講師のお二人がいつものように柔和な笑顔で爽やかにクラスを進められます。後ろに見える祭壇には祝祭で献上されたばかりのアーラティーの灯明のランプとお花とマーラーが掲げられ、師がお座りになっていたお姿を彷彿とさせます・・・いや、その日はそこに、師がおられるように感じたバクティ・サンガムだったのです。

少し時間が遡りますが、私は2004年の師の御聖誕祭の練習の時、キールタンに初めて出会い、インドの讃美歌みたいなものかな~と、うっとりしました。それからは毎年ヨーガ・ヴィハーラに皆で集まってキールタンの練習をする機会も多く、それは楽しい時間でした。みんな真剣そのもので、音程やリズムはもちろん、とても細かいところまで・・・ある意味、子供の頃入団していた少年合唱団よりもこれはスパルタな特訓・・・と実は私は感じていました。そのキールタンの練習の時「目を開けたほうがいい」とよく言われました。キールタンは神へ向けての愛の歌で感情が内に向くせいか、つい目を閉じて歌いたくなります。ですが、当時は御聖誕祭で師へお捧げすることが目的であったり、また外向けのイベントでは観客がいらっしゃることもあったので、自分の内にこもったり感情に浸るのではなく、皆との調和や息を合わせることも大切で、そのためには練習の時から常に目を開け、感じて歌うことに慣れた方がいい、というアドバイスを受けた記憶があります。
本番で最高のものを献上するためには、練習も一回一回ベストを尽くし、まず基本的なことや技術的な面を磨くのは当然で、時には専門的な先生?のような方から発声指導を皆で受けたり・・・とにかく地道な修練に、みんなの凄い熱情を感じていました。毎日の自主練も欠かせませんでした。キールタン練習のことは、今の私の物事への取り組み方の基盤にもなっています。

それで、当時は目を開けるようにしましたが、練習の時は視線のやり場に困る思いもありました。目を閉じた方が、師、神だけと繋がって歌える気持ちがあったからでした。つまり、目を開けて、目で世界を見ていると神を感じられない、と当時の私は思っていたのです。
ちなみに、今のバクティ・サンガムのクラスでは、目を開けても閉じても特に注意を受けることはなく、それぞれの思いのままにさせていただけます(笑)しかもオンラインクラスでは、自分の声は他の人には聞えないので(ミュート設定)音を外したり間違えても恥ずかしくないし人に迷惑も掛かりません(笑)

私は、最近は目を閉じたり開けたり自然に任せていましたが、最終回では、みんなの顔も見たいから今日は目を閉じないゾと決意しました。ただ最終回は、初めての曲で歌詞を見ないとならないから、みんなの顔を見る余裕もないかも?と少し心配しつつ。そして、歌い出しました。すると実は以前に歌った曲で、当時のみんなの歌声がありありと蘇り、その歌声と今がシンクロし、歌が歌を導きました。カーリーやマーという母なる神の御名を讃える詩です。以前も今も、ずーっとみんなでこの歌を途切れることなく歌い続けてきたような至福感に包まれ、気付くとまた目を閉じて歌っていました。その時、ふいに『ラーマクリシュナの福音』で読んだラーマクリシュナからのお言葉が響きました。
目をとじて思うときだけ神がいらっしゃるのだろうか。目をあけて見まわしたときにも、彼はいらっしゃるのではないだろうか
私は目を開けました。パッと咲いたお花のような美しい表情をした、みんなのキラキラした姿。小さな子供みたいに元気いっぱい、ありったけの思いで歓び歌うみんなの生き生きした姿がそこにありました。ここ数ヶ月、思い続けて、封じ込めてきたマーへの自分なりの思いがそこに燦燦と溢れ出し、みんなの顔、みんながそれに見えて、目を開けても閉じても、見えても見えなくても、歌が聞こえても聞こえなくても、やっぱりそこに、ここに・・・と思いました。目を開けて、みんなを見ていると、師のお言葉が波のように、何度も何度も押し寄せました「一なるものが、一切万物として顕現しているのだ」。

至高の真実は名も無く形も無く、ただ存在である。
それだけが真実在であり、真我であり、神と呼ぶものである。
その一なるものが一切万物として顕現しているのだ。
不二の寂静の中、歓喜に遊び戯れなさい
――シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサのお言葉

チューリップ、菜の花、桜

春爛漫

 

 野口美香 


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