15年前の2月、私は初めてサットサンガに参加しました。
サットサンガとは、聖者の祝福と教えを授かる聖なる集いのことです。
クラスで、一人一人の質問に対して師が答えてくださる対機説法という形だと聞いてはいましたが、私には特に聞きたいと思うことがなく、必要を感じませんでした。
参加のきっかけとなったのは、N.Y.から来られていた先輩グルバイに言われた言葉でした。
「まだヨギさん(師)にお会いしたことがないの!?もったいない!」
その後、先輩グルバイから師のお人柄や行動について伺っているとお会いしてみたくなり、1週間後のサットサンガへの参加が決まりました。
参加するのであれば質問を、と考えてみましたが、思いつかないまま当日を迎えました。
サットサンガが始まり、まず、師が合掌されているお姿に目を奪われ、すっと背筋を伸ばした美しい座り姿に釘付けになりました。
次に、質問する人が真っ直ぐに師を見つめる表情が印象に残りました。
そして、質問に対して丁寧に答えられる師の優しいお顔と、心地良く響くお声にどんどん惹きつけられていきました。
また、師と質問する人との間には、何か強い結び付きのようなものがあるようにも感じました。
問答を聞いているうちに、ヨーガの教えというのは哲学的なものとして存在する難しいものではなく、日々生きていく上で支えとなるものなのだと気付き、師に尋ねました。
「人の役に立ちたいと思うのはエゴですか?」
「純粋な信仰を持ってするならば、可能です。純粋にそれを想うことができたら、素晴らしいこと。崇高なものとなります。」
「純粋な信仰」という言葉が強烈に胸に刺さりました。
人の役に立てるようになりたいと思っているのに、私は「純粋」ではなく、「信仰」もないことに気付いたのです。そして自分の中に見て見ぬふりをしてきた問題があり、それが苦しみとなっていることを自覚しました。
翌日も師にお会いする機会があり、私は立て続けに質問をしました。苦しみを一刻も早く解消して、本当に人の役に立つことができるようになりたくて、「純粋な信仰」が何なのかを知りたくて、必死だったのだと思います。
師のお答えの中には、聞いた瞬間に受け入れ難い言葉がありましたが、師の穏やかに微笑まれているお顔を見つめていると受け入れることができて、「やってみます」と素直に返事をしていました。
そんな風に誰かに対して素直になったことがなかったので、自分が自分ではなくなるような感覚でした。その感覚に戸惑いながらも、師に「やってみます」と言ったことを一つずつ実行していきました。
日に日に私の中で師の存在は大きくなり、抱えていた苦しみは少しずつ消えていきました。
グルバイの話を聞くと、理由や時期は様々ですが、皆目に見えない糸に導かれるようにヨーガに出会っていると感じます。
それは私たちの中にすでにある真実が、真実そのものを体現している師に惹き付けられているからだと思います。
初めてサットサンガに参加した時に感じた、師と質問する人との強い結び付きは、ともに永遠に変わることのない真実の存在であることを感じたからかもしれません。
今は、人の役に立つことができるかどうかは気にならなくなりました。
純粋に師のことを想い、同じように目の前の人のことを想い、行為したい。それが願いです。
近所の河津桜が次々と咲き始めました
ハルシャニー