春ですね。でも早々と満開の桜も散り始め、もう葉桜も見かける時期となりました。
さて4月8日はお釈迦様のお誕生日、花祭りとして有名ですね。この日はお釈迦様に甘茶をかけてお誕生のお祝いをします。私も子供頃お寺に行き、神々や動物たちに囲まれた清らかなお釈迦様の絵を見たり、やかんから水筒いっぱいに甘茶をもらったりして、楽しい一日を過した記憶があります。そういうわけで今日もまた本願寺出版社の「ブッダ」より、ブッダの教えをご紹介します。
若い修行者シュローナ・コーティヴィンシャは河の淵に坐り、傷ついた足の汚れを水で洗い落とした。指先で傷口に食い込んだ尖った小石を取り除くと足の痛みは少し軽くなった。
「こんな修行をいつまで続ければいいのだろう?過酷な行に励み、ひたすら体と心を鍛えてきた。けれど、その成果はまだ手にしていない。それどころか迷いは深まるばかりだ。やはり自分には真実の境地を得ることはできないのだろうか」
ゆったりと流れる河に視線を向けてシュローナ・コーティヴィンシャは溜息をついた。
「そんなふうに考えてはいけない」振り返るとブッダの姿があった。
「シュローナ・コーティヴィンシャ、傷は痛むのか」
「いいえ、もう痛みはありません」
「そうか。お前の足の皮膚は柔らかい。これからは一重の履き物をつけて歩くがいい」
「とんでもありません。私だけが履き物をつければ、サンガの仲間たちに笑われてしまいます」
「では、皆に一重の履き物を許そう」
若い修行者は恐縮して深々と頭を下げた。修行を途中で諦めてはいけないと心の中で思い直した。
「シュローナ・コーティヴィンシャ、お前は琴の名手だった。お前が弾いてくれた琴の調べがまだ耳に残っている。もう琴は弾かないのか?」
「琴を奏でる時間があれば、坐を組み瞑想したいと思います」
「熱心だな。お前ほど熱心な修行者はいない。しかし、シュローナ・コーティヴィンシャよ、琴の弦は緩すぎても強く張りすぎても良い音がしないのではないか?」
「仰せの通りです。緩すぎず強すぎず、ちょうど良い張りをもつ弦が良い音で鳴ります」
「修行も同じだと思わないか?琴の名手、若き修行者よ」
「……ありがとうございます。ブッダ。私もこれからはちょうど良い張りで良い音を響かせたいと思います」
シュローナ・コーティヴィンシャは頭を下げたまま、ブッダに言った。
この修行者は真剣に修行してきただけに、できない自分を責めて途中でくじけそうになったのでした。みなさんも、ある一つの出来事に心が執われて、周りを見る余裕がなくなってしまったことはありませんか?それは本当に張り詰めた弦に例えられるように、すぐにでも切れてしまいそうな状況に自分を追い込んではいけないということを意味していると思いました。この時も修行者の師であるブッダが、適切な言葉でもって修行者の心の緊張を解きほぐし、心のあり方の間違いに気づかせてくれたのでした。
心を張りすぎず緩めすぎず、波のない状態、不動の状態に保つことはなかなかできることではありません。しかしヨーガの一連の実践が、心に不動の状態をもたらす努力であることに間違いはありません。私たちの師は驚くほどいつも同じで、変わることがありません。そういう師のお姿を拝するたびに、自分たちの理想とする不動の境地が、師の中にあるということを理解するのです。
ダルミニー