投稿者「ゴーパーラ」のアーカイブ

識別とヴィヴェーカーナンダ(7)

「理想」とは何でしょうか?
世界平和、愛、自由、目標の達成、つつがなく人生を送ること……
人それぞれ、思い描く理想の姿や形はさまざまかもしれませんが、そこには共通して「幸せ」を求めるはたらきがあるように思います。
では、ヴィヴェーカーナンダは「理想」というものをどう捉えているのでしょうか?

まず、理想の対義語が何かといえば、それは「現実」です。
ヴィヴェーカーナンダはこの現実のありのままを、いくつもの例を挙げて説明しています。
ーー希望に満ちた若者は明日の老兵になり、知識獲得への欲求はその限界に直面し、物質的繁栄の影には不幸があり、快楽を得れば等量に割り当てられている苦痛を伴い、どんな偉大な王も美女も死という破壊に向かって進んでいる事実ーー
人は生きていくと、誰もが大なり小なり現実の壁、矛盾、二元性に直面し、この世界で自分の思い描く理想に完全に近づけないことを実感します。
2500年前、ブッダは説かれました。

「この肉体と心、世界は無常である」

思い通りにならない世界と、まぬがれることができない老いや病、そして死ーー
幸福を得るやいなや不幸が襲いかかり、この世に生を受ければ必ず死がやってきます。
それでも私たちはこの世界において永続する完全な幸福を求めるです。

では、私たちはどうすればいいのでしょうか?
死を直視することをやめ、理想をもたず、享楽的な人生、または世に迎合する人生を送ればいいのでしょうか?
その突破口としてヴィヴェーカーナンダは、「死を絶滅させるためには、生も絶滅させなければならない」と言うのです。
それは、短絡的にこの人生を諦めよということではありません。

「小さな生命を生きることは死です。小さな幸福、小さな自分を棄てよ」

と言うのです。

「われわれは誰でも、自分たちは非常に幸福であるだろうと考えて、この肉体をいつまでも保っておきたいと思います。しかし人々が過去とか未来とかを思うのをやめるとき、彼らが肉体という観念を棄てるときーー肉体は去来する、限定されたものなのですからーーそのとき、彼らはもっと高い理想にまで登ったのです。肉体は真の人ではありません。心もそうです。心は大きくなったり、小さくなったりするのですから。独り永遠に生きることができるのは、超越した霊です」ーー『ギャーナ・ヨーガ』

誰もが永遠で完全な幸福という理想を求めています。
過去の覚者たちは、それは肉体や感覚、心では得られない、「放棄」によって得られると悟りました。
ブッダは「四諦(苦集滅道)」という放棄によるニルヴァーナ(涅槃)への道を示し、イエス・キリストも「私のために自分の生命を失う者は、それを得るであろう」という諦めの放棄の道を説いているのです。

そしてヴィヴェーカーナンダは、理想はどこかにあるのではなく、最も近いところにあると言います。

「あなたが見た理想は正しかった。しかし、あなたは理想をあなた自身の外にあると見た、それが間違いでした。それをもっともっと近くにもっていらっしゃい。それは常にあなたの内にあったのだ、それはあなた自身の自己であったのだ、ということがあなたに分かるまで」

理想とは、永遠で完全なる幸福、自らの内にある真の自己、その目覚めである悟り、そうでなければ意味がありません。
そして、「最高の理想で頭脳と思いを満たし、朝夕それらを自分の前におきなさい。そこから偉大な働きは生まれるのです」とヴィヴェーカーナンダは力強く説いているのです。

ゴーパーラ


識別とヴィヴェーカーナンダ(6)

人は誰もが、自分や家族、また社会や国の「未来」を想像したり、考えたりしたことがあると思います。
それが夢や希望の明るい未来かもしれませんし、老いや病、戦争などの不安な未来かもしれません。

最近、私はこの「未来」、また「理想」ということについて考えていました。
というのも、
「自分とマハーヨーギー・ミッションの未来ーー5年後、10年後に何をしていきたいのか、その未来の理想を皆の前で話してほしい」
そんな依頼がグルバイ(兄弟姉妹弟子)からあったからです。

ちょうどその頃、友人から「ヨーガでこうしたいとかいう未来のヴィジョンはないの?」といきなり尋ねられて、少しドキッとしました。
その彼は、驚くほど詳細なまでの未来の理想というか妄想のような願望……(笑)をもっていました。
彼があまりにも明瞭にその願望について語っていたので、自分も妄想的でもいいから未来のヴィジョンをもつ方がいいのだろうかと考えさせられました。
また、最近よく目にする「未来ノート」的なものも必要なのかとも考えました。
例えば一流のサッカー選手などは5年後Jリーグ、10年後プレミアリーグ、ワールドカップ優勝など、目標・理想を明確に設定し、そしてそれに向かって努力して成功をおさめています。
そんなことも含めて未来の理想について考えてみたのですが、「将来、自分がこうしたい、あれをしたい」という具体的なヴィジョンというのは出てきませんでした。
ただ、「悟りを実現したい」という思いだけは自分の中に明確にありました。

後日、先輩グルバイに、「サッカー選手のように5年後、10年後といったように未来の目標を設定してヨーガをしていくことはいいのでしょうか?」と質問しました。
先輩は次のように答えました。

「ヨーガは時間を超えていくものだから、それをすると時間に執らわれて、ヨーガとは真逆のことになる」

確かにそうだ。未来の目標や理想というものを時間軸で設定すると、たちまち自分でつくり出した時間に束縛されてしまう。
「未来も過去も存在しない、在るのは今だけ」ということはヨーガを始めてから師からずっと教わっていたことでしたが、過去や未来について思ったり考えていては、「今」という瞬間を生きれなくなります。
では、未来の目標や理想はもたない方がいいのでしょうか?
否、ヴィヴェーカーナンダはこう言うのです、

「理想をもて!」

これは一体、どういうことでしょうか??
次回、ヴィヴェーカーナンダの説く「理想」について見ていきたいと思います。

ゴーパーラ


識別とヴィヴェーカーナンダ(5)

「私ではなく、あなた」、それが宗教ならびに社会の理想であることを、前回のブログ(「識別とヴィヴェーカーナンダ(4)」)で見ていきました。
しかしそれについて、一つの疑問が湧いてくるかと思います。
「それは社会の中で実践できるのか?」という疑問です。
言い換えれば、「実生活の中でエゴをなくして、真理に生きていくことはできるのか?」ということです。

聖典を学び、アーサナと瞑想を行ない、食事を調えて、仕事を一所懸命する。自分自身のヨーガの歩みを振り返ってみて、そういう大きな括りの実践には慣れ、生活そのものは安定してきました。
しかし心は、過去の記憶が蘇ったり、日常の出来事の些細なことに執らわれたりと、いまだに波立ってしまいます。
そんな心の思いにストップをかけ、真理をあてがうーー「それは真の自己、永遠で完全で至福に満ちた実存なのか?」
瞑想をすれば、この移りゆく肉体や世界、心の感情、過去の記憶、その所有者であるエゴが真の自己、実在ではないことを理解し、その波はおさまったかのように思えます。
しかし、その波はまた押し寄せてきます。
幾千、幾万と輪廻して形成された心の傾向やエゴを放棄するのはそう簡単なことではない。
でも、それができない自分には何が足りないのかと感じずにはいられません。
忍耐なのか、それとも真理への情熱なのかーー

私はヴィヴェーカーナンダにその糸口を求めました。そして思ったこと、単純ですがそれは、

「ヴィヴェーカーナンダは大胆!」

ということでした。

「もし社会で非利己性の高貴な理想を実践することができないなら、人は社会を棄てて森に入った方がましです。それは勇敢な人です。二種類の勇気があります。一つは大砲に直面する勇気、もう一つは霊的確信の勇気です。
断固として真理を信ぜよ。断固として真理を実践せよ。真理、人生に断固としてその真理を示す、死を目の前にしても揺るがぬ、いや、死を歓迎し、人に彼が霊であることを、宇宙間の何ものも彼を殺すことができないということを知らしめる真理、その真理を直視する勇気をもちなさい。そのとき、みなさんは自分の真の魂に直面なさるでしょう」(『ギャーナ・ヨーガ』「人間の本性」)

自分を小さなエゴだと思うやいなや、肉体の快適さを求め、それを守ろうとし、そして死への恐怖がやってきます。
しかしヴィヴェーカーナンダは、「自分を弱くする迷信は追い払いなさい。勇敢になろうではありませんか。真の自己は、生まれもしなければ死にもしない、永遠に生きている、全能、遍在の霊なのです」と鼓舞します。

私は感じました、瞑想の中で真理をあてがうということではない、どんなときも真理に生きるという勇気、真理を高らかに宣言する力強さが必要なのだと。
一瞬一瞬、真理を直視し、高らかに「私ではなく、あなた」と理想を宣言する、そのヴィヴェーカーナンダのような大胆でダイナミックな歩みをしていきたいものです!!!

ゴーパーラ


神の導き〜マザーハウス訪問〜

4月のブログで、松山の藤田沙織さんがインドのカルカッタにあるドッキネッショル寺院を訪れたことを紹介しました。(その時のブログはこちら☜)
藤田さんはそのインド滞在時、「カルカッタといえばマザーハウスもある」と思い立ち、マザーハウスを訪れたそうです。

マザーハウス入ってすぐの聖母マリア像とマザーテレサ像。

そこにはマザーテレサのお墓のある御聖堂があり、藤田さんはその前で礼拝すると、不思議と込み上げてくるものがあり、涙が溢れたそうです。
彼女の中では「ラーマクリシュナ!」と思ってインドに行き、ドッキネッショル寺院やラーマクリシュナにも感動したけれど、マザーテレサやそこで働いていたシスターにとても惹かれる自分がいて、その突然の衝動に戸惑い、消化できずにいたそうです。
しかし、藤田さんは先月に松山で行なわれた特別サットサンガに参加し、自分が感じたことをヨーギーさんに素直に打ち明けました。
そしてヨーギーさんは次のようにお答えになりました。

ヨーギー「ラーマクリシュナ・ミッションで行なわれていることもマザーテレサのところで行なっていることと、そう違いもない。だけどマザーテレサが生きていたのはついこの間です。みんなも生きている姿を目にしていると思うし、生の声も聞いているでしょう。そういう親しみというか身近さというか、そういう力も多く働いていると思うし、何よりそのマザーテレサが生涯を生きた生き様ーー死を迎える見捨てられた人々を看取っていったという、誰もを見捨てていった人たちを看取るということを今も行なっているという尊い行為ーーそういうものが胸を打つのだと思います。だから決してそれはシュリー・ラーマクリシュナとマザーテレサを天秤にかけるとかいうのではなくて、尊い人として本当に神のごとき行為がそこであったし、今もあるという、それを感じられたということだと思うよ」

藤田「私はマリア様の像だったり、そういうものにすごく親しみというか落ち着くところがあるのですけど、瞑想する時にマリア様の像だったりマザーテレサのお写真やお姿を思い浮かべて瞑想するというのは」

ヨーギー「大いによろしい」

最後にヨーギーさんは、次のように彼女に言われました。

「ヨーガでは理想の神をもてばいい、もつのがいいというにいいます。それはこの神をというふうに言わないです。それぞれが自分で選ぶのです。(笑顔で)自分が自分で恋人を選ぶように。だからそれは何もインドのヨーギーたちだけでなくてもいい。キリスト教であってもどうであれ、理想となる神を思い浮かべて進めていけばいいですよ」

藤田さんはヨーギーさんのお答えをいただくことで、「マザーを思っていいんだ。マザーを思う方がしやすい、よかった」と安心したそうです。

この世に生を受け、自らの理想を見つけ、その希望の光に向かって歩んで生きていけることの何と稀有で吉祥なことでしょう!!!
春の祝祭から始まった藤田さんの旅は、神に導かれていた本当に祝福された素晴らしいものだったのだと改めて感じました😇

ゴーパーラ


ブラゴパーラ vol.6「六波羅蜜寺 空也上人」編

皆さま、こんにちは。
約1年半ぶりのブラゴパーラです。
今回は京都東山の「六波羅蜜寺(西光寺)」を訪れました〜

この六波羅蜜寺は951年、踊り念仏の開祖である空也上人により開創されたお寺です。

口から六体の阿弥陀仏が現れたという伝承のままに彫刻された運慶の四男康勝の作(鎌倉時代)

この像、歴史の教科書で見たことある人、多いのでは?
口から仏が出てるって、インパクトありますよね。。(笑)
一体、どういう人物だったのでしょうか?

空也上人は、伝説では醍醐天皇の皇子といわれ、若くして五畿七道を巡り苦修練行、尾張国分寺で出家し、空也と称すようになります。
出家後は名山を訪ね、練行を重ねると共に一切教を紐解き、948年に比叡山座主の延昌より大乗戒を授かり、光勝の法号を受けます。
しかし空也上人は山や寺に籠ることなく、当時疫病が流行っていた京都の町の中に入り、小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、南無阿弥陀仏の念仏を称え歓喜踊躍し、病魔を鎮めたといわれています。

うーん、天皇家の皇子で出家し、日本各地で修行、そして疫病で苦しむ衆生のために市井の中に入っていったということで、この経歴から見ても空也上人はものすごい行動的で、仏教の教えを探求して実践し続けていた人物だったということが分かります。

少し話は変わりますが、私は小学生の時に『平家物語』がなぜか好きでその本や人形劇に触れていて、平家一門が六波羅蜜寺の境域に住んでいたということで、その寺名は知っていました。
この六波羅蜜寺には、空也上人像の隣に平家棟梁の平清盛像も安置されていました。

平清盛座像(鎌倉時代)

『平家物語』では平清盛は傲慢な人物として描かれていますが、経典を手にしているこの像からも分かるように、剃髪をして厳島神社にお経を奉納するなど、仏者としての一面も垣間見れます。
しかし、この平清盛と空也上人をくらべてみると、空也上人の手には経典がありません。
左手に鹿の角の杖、右手に撞木、胸に金鼓を持っていますが、でもこの空也上人の像を見ていると単純ですが、「何も持っていない『空っぽ』なお方だなぁ〜!」ということを感じました。

仏教では悟りの智慧の境地を「空」と表現しています。
贅沢や肩書き、そして経典の知識を手放し、金鼓を鳴らし歩くその身体から出てくるのは南無阿弥陀仏の御名だけーー
仏教の教えを行動をもって探求し続け、そして阿弥陀仏に帰依し、苦しむ衆生を阿弥陀仏の住む極楽浄土へと誘い、歓喜踊躍した空也上人の仏者としての生き様が感じられた今回のブラゴパーラでした😎


今回で6回目のブラゴパーラですが、実はこの6回、密かに「六波羅蜜」をテーマに進めてきました。
六波羅蜜とは「布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧」という仏教で説かれる悟りに至るための6つの修行です。
気付いた方、おられましたか(笑)?
よかったら読み返してみてください〜!

布施…「御金神社編」
持戒…「千本ゑんま堂 引接寺編」
忍辱…「釘抜地蔵 石像寺編」
精進…「千本釈迦堂 大報恩寺編」
禅定…「高山寺 明恵上人編」
智慧…「六波羅蜜寺 空也上人編」

ゴーパーラ


ドッキネッショル寺院を訪問

こんにちは。
ゴーパーラです😃
皆さま、GWはいかがお過ごしでしょうか?
10連休という方もいるのでは?
海外旅行も行けますよね〜✈️
ということで、インドのカルカッタの写真です📷

ここはもしかして……そう❗️あの19世紀インドの大覚者シュリー・ラーマクリシュナが住まわれていたドッキネッショル寺院です‼️

4月23日〜27日まで、松山ヨーガ・サークルの藤田沙織さんがカルカッタを旅行して、その写真を送ってくださいました📷✨

振り返ること、シュリー・ラーマクリシュナにフォーカスされた4月7日春の祝祭の翌日、私はNYから来たアーナンダマーリーさんとプラパッティーさんとガネーシャ庵(ヨーガ仲間の家)を訪れました。
そこに祝祭に初参加されていた藤田沙織さんがおられました。
彼女とはあまり話したことはありませんでしたが、話をすると明日から旅行でベトナムに行くとのこと。
ベトナムの後はラオスとタイに行く3週間のフリープランということで、それを聞いた私は、師ヨーギーさんが昨日の祝祭でドッキネッショル寺院を訪れた時の話をすぐに思い出し、「インドのドッキネッショル寺院に行ったらいいのになぁ。でも彼女の旅行だしなぁ〜」と内心で思っていたら、アーナンダマーリーさんが「インドに行った方がいい!」とストレートに言われました(笑)。
「でもビザないしなぁ…」と言う藤田さん。
しかし調べてみると、近年からインドはアライバルビザという空港で到着時に取得できるビザがあるようで、「インド、ドッキネッショルに行ったらいい!!!」という展開に……😅
そして彼女はベトナムとラオスを旅をし、インドに行きました
その藤田さんから、この旅の感想文をいただきました。

「旅の感想は、真剣に書いたら感想文50枚以上になりそうです…笑
なので、いろいろ省略して言いたいことだけ。
春の祝祭からはじまった私の旅行は本当に祝福されていて、すべてが自然で、最初からそうなるようになっていました。
『すべて神様のお導き』
ということをとても強く感じています。
この素晴らしい旅(の時間)を与えて下さったことに感謝の気持ちでいっぱいです」

「すべては、すべてはシュリー・ラーマクリシュナ(神人)がなされていること」と祝祭の祝辞で私は述べましたが、この藤田さんの旅の急展開、縁と条件の整い様は本当にそれを実感するものでした。
藤田さんは今、タイにおられるようで、明日にご帰国だそうです。
無事にこの旅を終えることを祈っております!

OM TAT SAT OM!!!

藤田さんが困ったなぁと思っている時にドッキネッショル駅でたまたま出くわしたタクシードライバーさんとの2ショット。

ゴーパーラ


ニューヨークの弟子プラパッティーの滞在🇯🇵🌸

満開の桜が咲く中、4月7日の祝祭に合わせてニューヨークからプラパッティーさんが来日されました🌸

プラパッティーさん(右)。アーナンダマーリーさん(左)も同じ日にNYから一緒に来られました。

プラパッティーさんは約1週間の滞在で、私の住まいであるシャーンティ庵に宿泊しました。
彼女はニューヨーク在住のレバノン人。
ヨーガを始めて2年ほどの彼女ですが、ニューヨーク・ミッションがウェブ配信している『Pranavadipa』はすべて読んでおり、ヨーギーさんの教えや日本の弟子の記事の内容についてとってもよく知っています。
特に驚いたことが、北野白梅町のスーパーのイズミヤの前を通った時に、「今は大きなスーパーマーケットだけど、昔は喫茶店があったみたいで、高校時代の師ヨーギーさんはここで識別瞑想をされていたそうだよ」と私が話すと、彼女は即座に「名前はブラック、でも中はホワイト一色の喫茶店!?」と答え、イズミヤの写真を撮り始めたことです……😅

嵐山の角田香勢園さん。お店の方と仲良くなり、お抹茶の手解き🍵

到着初日、私はプラパッティーさんに日本に来た理由を尋ねました。
一つには、日本の弟子がどういう方法でヨーガを実践しているか知りたいということ。
もう一つは、師ヨーギーさんに会いたかったからという理由でした。
私は彼女自身のヨーガの目標はどうなのかと思い、「あなたの理想は何ですか?」と尋ねると、彼女は「まだ理想は分からない」と答えました。
「理想がはっきりすると、より具体的にヨーギーさんや弟子から教えや実践を学び取ることができると思うよ」と私はアドヴァイスしました。
すると次の日から彼女は会う弟子、会う弟子に「あなたの理想は何ですか?」と尋ねていました……😅

すごく素直で、理解も早いプラパッティーさん。
短い滞在期間の中、レバノン料理を2度も作ってくれました😋
レバノンは宗教間の争いが絶えない地域―—レバノンにいた頃の彼女は特定の宗教は信仰していなかったそうですが、「真実は自分の中に在る」ということを感じていたそうで、当時の彼女は難民の人に衣服を与えるボランティアをしていたそうです。
国境を越えて素晴らしいグルバイに出会え、今後彼女がどのように理想を見つけてヨーガを実践していくのか、本当に楽しみです😃‼️

祝祭後、その時の感動を話すプラパッティーさん☺️

ゴーパーラ


識別とヴィヴェーカーナンダ(4)

3月も後半、桜の開花も始まり、すっかり春の陽気ですね🌸
卒業や入学、別れや出会いが交差するシーズンですが、ふと最近、私はちょうど9年前の大学院修了式の時の気持ちを思い出しました。
修了式が終わった後は一流ホテルで送別会がセッティングされていましたが、私はそこには参加せず、アーサナ・瞑想クラスに直行しました。
その時は「ヨーガをしていきたい!」という気持ちだけでした。
しかし、いざ大学という囲いから一歩外に出ると、社会の中で仕事をしていく大変さや、またヨーガを続ける厳しさに直面しました。
そんな時、ヴィヴェーカーナンダは「社会」と「宗教(ヨーガ)」を生きていく上で、最も大事なことを教えてくれたのでした。
それは「自己制御」です。

ヴィヴェーカーナンダは、世界の民族の宗教起源には「感覚の限定を超えようと努力している」という共通点があることを見出しました。(その内容は前回のブログに掲載☜)
人間は生きていく中、感覚の喜びを享受するだけでは満たされず、感覚では捉えられない霊魂や自然力を司る「無限者」を求めていました。
この無限者の探求は、霊魂や自然という外界から、やがて心の内側に向けられていきました。
そしてこの感覚では捉えられない無限者を悟るためには、感覚の主体であるエゴを制御すること、それによって無限者が自らの内に顕現することが発見されたのでした。
自分の利益や快楽の追求が完全にストップされる「エゴの放棄」——
「自分ではなく、あなた」であります。

この宗教の目的でもあり理想の「自分ではなく、あなた」は、とりもなおさず「社会の理想」でもあるとヴィヴェーカーナンダは言います。
他者との共存を余儀なくされる人間社会は、自分のことばかり考えることはできません。
感覚は「私が第一」と言います。
しかし、

「自分の衝動を抑えることなしに、自分がしたいと思うことをしないで辛抱することなしに、どうして他者と共存することなどができるでしょうか。それは不可能です。全社会構造は、抑制の観念の上に成り立っています。そして我々は誰でも、忍耐するという大きな教訓を学んでいない男女は最も不幸な生涯をおくるということを知るのです」

他者を差し置いて、エゴを優先させると、それは結果的に不調和と不幸を生みます。
自分よがりでは、それは子供と何ら変わりありません。
人間は成長しなければならないのです、身体だけでなく、心も。
小さな自分がなくなればなくなるほど、心の大きな人間、大人になるのです。

「社会とは結局は一人一人の集まりである」とヴィヴェーカーナンダは言います。
社会をよりよくしたければ、一人一人の心の成長が求められるのです。
その実践が自己制御であり、そしてその究極・理想が無限者という「神の実現」なのであります。
よってヴィヴェーカーナンダは、「社会には宗教が必要」だと説くのです。

広汎な世界の宗教を分別し、その背後にある共通点を見出し、それが社会、また人間にまで必要だと見抜いたヴィヴェーカーナンダのこの驚愕すべき識別知。
私の長年の迷いは、彼の鋭い識別のメスで除去されました。
そして今、私は変わらず、否、より一層、あの春の季節に感じた気持ちを抱いています。

「ヨーガをしていきたい!」

職場近く嵐山渡月橋の桜。少しだけ咲いていました😊🌸

ゴーパーラ


識別とヴィヴェーカーナンダ(3)

「社会には宗教が必要」と説くヴィヴェーカーナンダ。(前回のブログはこちら☜)

ではなぜ、そう言えるのだろうか?
『宗教の必要』という講演(『ギャーナ・ヨーガ』収録)においてその理由が述べられているが、テーマの最終到達点、そこに向かって行くヴィヴェーカーナンダの迫り方が本当に圧巻なのである。

ヴィヴェーカーナンダは宗教の必要を説くにあたってまず、「宗教の始まり」を見る。
近代では二つの学説があり、一つは「霊魂(祖先)崇拝」、もう一つは「自然崇拝」から宗教は生まれたとする説を紹介。
「霊魂崇拝」としては、古代エジプト人の宗教を例に挙げている。
古代エジプト人の場合は、複体(人の内部に含まれているもう一つの肉体)が霊魂と考えられ、人が死ぬと複体は肉体の外に出て生き続けるが、その複体の生命は死体が害われずにいる間だけ続くという。
誰もが知っているあの巨大なピラミッドは、死体保存のために作られたということ……😱
このエジプトの他、バビロニア、中国、アメリカの古代の宗教は霊魂(祖先)崇拝に始まりを見出すことができるようである。
もう一方で、宗教は「自然崇拝」に始まったとする説。
暁、夕暮れ、暴風、自然の途方もない巨大な力、美しさ、これらが人間の心を動かし、その背後を見たい、もっと知りたいと熱望し、ときにはそれらの現象に魂と身体を与えて擬人化する。
アーリヤ人の『リグ・ヴェーダ』をはじめ、古代ギリシャ、ゲルマン、スカンジナヴィアの宗教がそれに該当するようである。

う〜ん、これだけ聞いても、かなり勉強になる👀📝
もうお腹いっぱいという方もおられると思うが、これからが本番、ヴィヴェーカーナンダの知力の本領が発揮されていく。
霊魂(祖先)崇拝、自然崇拝というこれら二つの見解は矛盾するように見えるが、「第三の基礎の上で和解させることができる」とヴィヴェーカーナンダは言う。
大胆にもそれを、

「感覚の限定を超えようとする努力」

と独自に提唱するのである。

「人は自分の祖先たちの霊魂を、死者の霊魂を、探し求めます。つまり肉体が解消した後、そこに何があるかをひと目でも見たいのです。あるいは、自然の途方もない現象の背後に働いている力を理解したいと願います。どちらにせよ、彼が感覚の限定を超えようと努力しているのだ、ということは確実です。彼は自分の感覚だけに満足してはいられないのです。それらを超えることを欲するのです」

歴史やその学説の網羅、それだけでもなかなかできることではないが、それらの知的理解に終始せず、その当時の民族の人たちが求めていた心情を感じ取るようにして、ヴィヴェーカーナンダはその共通点を見出すのである。
そして、この感覚の限定を超えようとする努力が「真の宗教の萌芽」であり、そして「社会」にも必要なことであるとヴィヴェーカーナンダは説いていくのである。

長くなるので、続きはまた次回に🙇

ゴーパーラ


識別とヴィヴェーカーナンダ(2)

「言葉」——それは心の思いから出てくるものである。
心は十人十色と言われるように、同じ言葉を使っていても、人によって意味や捉え方、その色合いはさまざまである。
例えば「社会」という言葉。
「社会に出る」「社会経験をする」「社会性を養う」という表現が使われることから、社会という言葉からは会社や仕事、また組織での秩序や協調性が連想される。
ただ、この社会という言葉の意味合いは、人の経験や価値観、立場や環境によって微妙に、また大きく異なってくるのである。
私自身を振り返れば、私は大学を7年通っていたため学生期間が長く、「社会に出る」ということに関して二十代前半の頃は悩んでいた。
「職に就かなければいけない。でも、好きでもない仕事はしたくない。組織や秩序に縛られず、自由に生きていきたい。世俗を離れ、瞑想を行ずるヨーガに惹かれる。でも、年金を納めるなどの社会貢献は無視していいのか……」などなど堂々巡りのように、社会というものに対して漠然とした不安や葛藤を抱いていた。

前回のブログ(「識別とヴィヴェーカーナンダ⑴」)では、「十字架」という言葉について見た。
師シュリー・マハーヨーギーは、十字架=神聖という既存の概念に縛られず、十字架という言葉に鋭くメスを入れ、その実体を明らかにしていた。
言葉本来がもつ意味がクリアーになれば、それについて余計に考えたり迷ったりすることはなくなり、思いもクリアーになる。
そして私自身の悩みであった「社会」というその実体が何であるかを、言葉を通してクリアーにしてくれた人物に出会った。
それが、十九世紀インドの聖者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダである。

ヴィヴェカーナンダは「社会に必要なこと」として、次のように述べている。

「社会には宗教が必要」

「えっ、社会に宗教が必要? 必ずいるっていうこと? 無宗教でもいいのでは? 信教の自由という権利が憲法で定められているし、個々人の勝手なのでは?」と思ってしまう。
しかし、これも宗教という言葉本来の意味が曖昧だからこそ、そのように思ってしまうのである。
宗教と聞くと、キリスト教や仏教、イスラーム教などの一宗一派を連想してしまう。
でも少し考えてみたら、「宗教」=「キリスト教」ではない。
無論、キリスト教は宗教には属するが、宗教のすべてではない。その一部分、枝葉のようなもので、宗教の根幹、宗教という言葉がもつ本来の意味ではないのである。
では「宗教」とは何か? また「社会」とは何か?

ヴィヴェーカーナンダはそれらの言葉に鋭く切り込んでいき、その実体を明らかにしていたのである。
話が長くなるなので、続きは次回に……🙇

ゴーパーラ