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火の遣い手たち

みなさん、こんにちは

今回もまた本願寺出版社の「ブッダ」より印象に残った内容をご紹介いたします。今日登場していただく修行者はウルヴィルヴァーさんです。

夕闇の中、炎が怪しく揺らめいている。ウルヴィルヴァーが右手を差し出すと、炎はぱっと大きく燃え上がり火柱となった。あたりが明るくなり火の粉が雨のように頭上に降り注いだ。

「兄さんの力は衰えませんね」とガヤーが声をかけた。ブッダの弟子のサンガ(集まり)に加わるまで、ウルヴィルヴァー、ナディー、ガヤーのカーシャパ三兄弟はそれぞれに大勢の弟子と信者をもつ結髪の行者だった。中でも長兄のウルヴィルヴァーは強大な神通力を持ち、数々の奇跡を起こしていた。

「こんな力は何もならない」長兄は独り言のように呟き、両手を広げて炎を鎮めた。瞬く間に天に届くほどの火柱は小指の先に灯る火となった。

「ブッダはそれ以上の力をお持ちなのですか?」ブッダはウルヴィルヴァーの聖火堂で無数の奇跡を現出させた。神通力の対決で敗北した長兄は火の崇拝を止め、ブッダに帰依し、五百人の弟子もそれに続いた。

「ガヤー、お前にもよく分っているはずだ。ブッダの特別な力、人を包み込む暖かく柔らかな力を」ブッダがウルヴィルヴァーと弟子を従えて、ガヤーたちの前に姿をみせた瞬間、清らかな涼風が吹き抜けたようだった。ブッダは一言も発しないうちにその場にいた者の心をしっかりとつかんだのだ。次兄のナディーに続いて、ガヤーもブッダに帰依を申し出た。

「後悔はしておられませんね」そういうガヤーの前で、ウルヴィルヴァーは土をすくって火にかけた。灰色の煙が立ち上り、火は一瞬、赤い輝きを放って消えた。

「もちろんだ。ブッダの示された道を私は歩いていく。さあ、帰ろう、ガヤー、そろそろブッダの説法が始まる時間だ」

月明かりに照らされて闇の中ぼんやりと道が浮かび上がっている。ガヤーは歩き始めた長兄のあとを追って足を速めた。

二千五百年前のインドの深い森の中、どれくらいの苦行者たちが修行をしていたのでしょうか。その中でもカーシャバ三兄弟は、ブッダの存在を素直に認め、帰依した人たちだったのでした。中には尊者と呼ばれながら、自分の考えをなかなか改めることができず、ブッダを誹謗中傷し、陥れようとする人もいたようです。五百人もの弟子を持ち、神通力もあったウルヴィルヴァーでしたが、真実の前では謙虚にこうべを垂れ、すべてを捨ててブッダに帰依したのでした。ウルヴィルヴァーは本来の目的を忘れてはいなかった、真実に通じる確かな道をみつけたウルヴィルヴァーは、歓びをもってブッダに従ったのだと思いました。

ブッダ (22)

ダルミニー

 

 


真理の学びと瞑想

1997年から発刊されている会報誌『パラマハンサ』は隔月で発行されていて、MYM会員として年会費を払われた方であれば誰でも読むことができます。サットサンガ(真理の集い)での質疑応答、ヨーガの教えや、ヨーガを学ぶ者の実践談、またヨーガの料理の特集など、読み応えのある内容となっています。今回は№116の『パラマハンサ』の「プラナヴァ・サーラ」より、師の教えを抜粋してお伝えいたします。

パラマハンサ (21)

人生の目的は真実を実現することです。その叡智と方法がこのヨーガにあります。

間違ったものへの欲望、あるいは執着というもの、そういう煩悩の中の無知が真実を隠しているようなものなのです。だからまず無知を暴き出して、それを少しでもなくしていくようにすれば、心は解放されて自由になって、透明のようになっていきますから。そうすると真実が出やすくなる状態になる。その時に瞑想を深められたら本当の自分の存在というものを体験することになるわけです。これが瞑想のいちばんの醍醐味というか、ぜひ知ってほしいところです。それまでにもどんなことだって、こんなことあんなことの本質を知りたければ、集中して瞑想すればすべて分かると思います、何でも。そういう意味では瞑想はおもしろいよ。いろんなことを何でも明らかにしてくれる。でもそれをうまくやるためには常々心の動揺をなくしておくことね。心がイライラしていたらだめ、絶対うまくいかない。だから心を落ち着かせておくこと。そして呼吸と身体を制御しておけたらいいですね。

無知というのは、この世界は永遠ではないのだけれど永遠であるかのように思ってしまうこと、本当の自分でない心のエゴを自分だと思ってしまうこと、そして完全なるもの、浄らかなるもの、純粋なものをこの世界の中で探そうとしてしまうこと、実は苦しみに変わってしまう幸せを本当の幸せだと思ってしまうということです。さらにはこの無知から、好きなものに執着をしてしまうこと、嫌いなものを避けようとしてしまうこと、肉体をもった命に執着をしてしまうということ、そういった根本的な煩悩が、具体的に欲望として発展していくのだということを正しく理解し、瞑想によって心からさまざまな執らわれをなくしていくと、真実を体験することになるのだと教えてくださいました。

心というのは長い輪廻転生をしてきているといわれている。過去には数え切れない生涯を送ってきているかもしれない、またそれは未来どれだけ続くか分からないともいわれているのだけれど、まぁそんな過去と未来はどうでもよくて、今こうしてそのカルマの鎖を打ち破る縁をもったということは、ものすごい大きな出来事なんですよ、これは。これほど吉祥なことはない。全歴史の全宇宙の中でこれ以上めでたいことはないのですよ、実は。だからぜひ真実を実現してほしいし、それをしっかりと着実に歩んでいってほしいし、そのためにはこういった真実を学ぶということはとても大事。それは大学とかでは教えてくれないからね。だからやっぱり生きて悟った人の言葉を直接聞かないとだめだし、そういう人たちの貴重な言葉が残されているのが聖典と呼んでいるものです。

師は、聖典を読んで真理を学んでいくこと、それから体を使って何らかの訓練、アーサナ(ヨーガのポーズ)であったり、キールタンを歌ったりすること(神の御名を唱え歌う)、それから真理や神、あるいは真我というものに対して瞑想をするという、この三つのことを毎日行なうことが実現の道であると説かれました。師は繰り返し、繰り返し、私たちの心の中の無知を取り除き、真実を実現せよと教えてくださっています。

そしてここで、『バガヴァッド・ギーター』の中の教えをひとつご紹介しましょう。

ある人は本当に真実を見出し、驚きのうちにそれを理解する。ある人は理解を超えた驚異としてそれを語る。ある人はその驚異を噂話に聞く。ある人は人の話にそれを聞いても全く理解しない。

さて私たちは、本当に真実を見出し、驚きのうちにそれを理解する者でありたいと、思いませんか。

ダルミニー


みすぼらしい衣の修行者

毎回、本願寺出版社の「ブッダ」より、その教えをご紹介しています。今までいろいろな修行者の方に登場していただきましたが、今回の修行者はピッパリさんです。

ブッダ (20)

「ピッパリという比丘(びく)を知っているか」

「いいえ」と若い比丘は首を振った。真新しい衣を身につけ身体には汚れひとつなかった。サンガ(修行者の集まり)に入ってまだ間もないのだろう。

その時、道の向こうからぼろぼろの衣を身にまとった比丘がふらつきながら歩いてきた。何かにつまずいたのか、比丘は転び、泥にまみれていた。驚いて家から出てきた男に食べ物を乞うように器を差し出した。が、施しは受けられず、大声で罵られ足蹴にされて泥の中を転がった。

「ひどいですね。男もあんなに乱暴にすることはない。比丘もあれほどむさ苦しい格好ではなく、身綺麗にして、清らかな衣でいれば供養は受けられるものです」

「ピッパリは、バラモンの息子で上等な衣を着ていた。ある時、ピッパリは大衣をたたんでブッダのために坐を作った。柔らかな布だとブッダは褒められた。ピッパリはすぐさま自分の衣とブッダの衣を交換した。ブッダは使い捨ての布で作った古い衣を着ておられたのだ。ピッパリはその時以来、使い捨ての布で作った衣しか身に付けなくなった。古くからの出家の原則を厳しく守る頭陀行(ずだぎょう)に専念することにしたのだ」

比丘は泥を払い落とし背筋を伸ばすと、何事もなかったかのように、隣の家の戸を叩き応対に出たものに器を差し出した。

「彼こそがかつてのピッパリ、今はマハーカーシャパと呼ばれている。頭陀行第一と称される比丘だ。お前は彼に付いて学べ」

一喝された比丘は転がるようにして、みすぼらしい衣をまとった泥だらけのマハーカーシャパのあとを追った。

「頭陀」とはサンスクリット語の「ドゥータ」という言葉の音訳であり「払い落とす」という意味らしいです。何を払い落とすのかというと衣食住に対する貪欲を払いのけるため、出家者が行なう修行のひとつで、具体的には最低限必要な食べ物を托鉢して歩くことや、托鉢僧そのものを指す言葉でもあるそうです。

二千五百年前のインドと現代の日本とでは同じようにはいきませんが、その時代の修行者がどれほど真剣に真実を求めて修行を積んでいたのか、どれほど真剣にブッダの教えを生きようとしていたのか、思いを馳せるのは、私たちにとってとても刺激になり勇気を与えてくれるものです。

師は説かれます。

人生の目的は真実を実現することです。その叡智と方法がヨーガの中にあります。

真実、それが何かを学んで、しっかりと理解して行動に移すことが大切です。いわゆる世間体とか社会的通念とか常識とかいうものによって私たちの心がどんなに縛られているか、それを打ち破って真実を求めるということが、どれほど勇気のいることなのか分かりません。信念をもって、真実だけで心が満たされるように行為していくことが大切です。

ピッパリの行為からは、ブッダの教えを忠実に生きて、真実に通じる自分の道を自分で探しだし、それだけを行為した揺るぎない信念というものを感じることができます。人によって顔が違うように、心もまたさまざまな様相を呈している、今の時代には、それぞれが自分にあったヨーガの道を歩くことができます。それを正しい方向に導いてくださるのがヨーガの師です。それぞれが信念をもって、真実に通じる自分のヨーガの道を歩いていこうではありませんか。

ダルミニー


竹馬の友

みなさん、こんにちは

今日もまた本願寺出版社の「ブッダ」より、印象に残ったお話をご紹介いたします。

ブッダ (20)

 

「本気なのか、シャーリプトラ。本当にブッダのもとへ行くのか」

「もちろん本気だ。私はブッダに帰依する」

「しかし、まだ彼の弟子に会ったばかりで少し話をしただけじゃないか」

「それで充分だ。私が求めていた道はここにある。確信したよ。ブッダの教えは私の疑問を解決してくれる」

「君はどうするつもりだ?マウドガリヤーヤナ」

「聞くまでもない。おれは君と同じ道を歩むと決めている」

幼い頃からいつも一緒にいるシャーリプトラとマウドガリヤーヤナは、今、教えを受けている師では自分の疑問を解決できないと感じ、ブッダを師と仰ぎ、そのサンガへ入ろうとしていたのでした。サンガとは修行者の集まりのことですが、信頼し尊敬のできる師と巡り会えるということはなんという幸運なことなのでしょう。何を学ぶにしろ先生はとても大切だと思いませんか?例えば相撲にしても、大関にまでなった親方の部屋に入るよりも、横綱になった親方の部屋で学ぶ方が横綱になれる可能性は高いはずですよね。ヨーガにおいても「ヨーガを成就するためには絶対に師が必要である」と言われています。ヨーガを成就するための道のりを正しく指し示すことのできる師と巡り会うということ、それは聖なるガンガーの砂の中から一粒の宝石を探し出すくらい困難で、希なことであると言われています。

「縁だな」

「そう、縁だ。あらゆるもの、あらゆることが縁によって起こる。……ああ、早くブッダの教えの真髄を究めたいものだ」

「焦るな、シャーリプトラ。お前が早く歩きすぎるとおれはついていけなくなる」

「分かっている、マウドガリヤーヤナ。私たちは同じ道を歩む、多少、歩調は異なるが」

「歩調は異なっても死ぬまで一緒だ。シャーリプトラ、いいな?」

「もちろんだ、マウドガリヤーヤナ」

ありがたいことに私たちもヨーガの師と縁を結ぶことができました。私たちの師はどんな疑問にも即座に解決の糸口を指し示してくださいます。そしてその師との縁を本当に吉祥なものとするためには、真剣にヨーガを学び、その教えを誠実に行為していくことが大切なのだと思いました。そして互いに信頼し、研鑽(けんさん)し合える仲間がいれば、その歩みはさらに早くなるものなのだと思いました。

ダルミニー

 


最高の理想を目指して

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

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先日行なわれたサットサンガでの教えをご紹介しています。

師が、常に教えてくださっているヨーガの教えはこうです。

私という本質はこの身体でもなければ心でもなく、その奥にある純粋な意識である。そしてその純粋な意識であり尊い命という存在のきらめきをみんながもっている。そして自分自身もそうだということを知ること、これが悟りというものです。心はそれを知らないのですから、このことを心に言い聞かせてやらなければなりません。心はそれを知ることによって、この世の儚い喜びや苦しみ、悲しみには巻き込まれなくなってきます。これがヨーガの教える普遍的真理です。

そうして師は、そのためにも、それを実現した聖者や覚者に憧れ、理想として目指していくことが大切であると教えてくださっています。しかし、なかなか理想の姿に近づいていけず、日々の生活の中で不平や不満ばかりを言っている自分に気が付くときがあります。そのような時にどのようにすればいいのかという質問がありました。

理想が見つけられているならば、その自分の中にある理想でないものとの違いが何なのかということを見つめて識別すること、そうすればその日常の諸行無常といわれる変化する世界の中では、いちいち不平や不満を述べる必要はないということが分かってくるはずですよ。それと日常の中での成功や失敗、うまく行っていようがいまいが、それにはもう頓着しないこと、そういう訓練をしていくこともサーダナ(修行)の大きな部分です。サーダナは何もアーサナ(ヨーガのポーズ)だけじゃない。そういう自分自身の心のあり方、それから行為のあり方、そういうもの全部がサーダナです。

本当に素直に純粋に、そのからくりというものに気付かされたならば、速やかにエゴは消えていきます。でもその気付きというものの純度によってはまだエゴが少し残っていて、何度かやっていかないといけない場合はありますね。それはそのときどきの受け止め方というか、気付き方というか、そういうものによることがあります。でも素直に純粋にそうだと思えば、もうそこでその作業は完了しますよ。みんなは純粋な意識であり、永遠の存在であることは間違いないんだからね。もう素直にそれを認めて、エゴのそういうつぶやきとか、わめきとかに耳をかたむけないようにしていかないとね。

そして師は、ヨーガによって心を純粋にしていくことが大切であるとも教えてくださっています。以前のサットサンガで、純粋であることとは、誠実であること、素直であること、計らいがないことであると教えてくださいました。私たちの師は、サットサンガの中でどんな質問にも、何回同じことを聞いても、本当に真摯に誠実にお答えをくださいます。また長年来ている人に対しても、初めて来られた人に対しても同じように、平等に接してくださいます。そのような師のお姿に接するたびに、師を見倣い、行為していくことが、純粋になることの第一歩なのだと、心は素直に思うのでした。

ダルミニー

 


真夜中の出城

みなさん、こんにちは

今まで私が取り上げてきたブッダの教えは、瞑想専科のクラスで薦められた本願寺出版社の「ブッダ」より紹介しています。この本はさし絵がついていて、たいへん読みやすくなっています。興味のある方は読んでみてくださいね。

ブッダ (20)

今回ご紹介するブッダの出家のシーンはとても感動的です。シャカ族の王子として生まれたシッダールタ(すべてのものが成功するという意味)は、全ての生あるものは死を迎え、また老いては若さを失い、病を得るという、この世の生滅を知り、なんとみじめで苦しみに満ちていることかと、その一生を憂い悲しみます。ある日、表情も晴れやかで清々しい出家者に出会ったシッダールタは、その生き方に心を奪われ、王子という地位も家族も何もかも捨てて出家を決意するのです。

「生死の彼岸を見ない限り、私は再びこのカピラヴァストゥの城には帰らない」

固い決意のもと、お供のチャンダカを連れて、愛馬カンタカに乗り、真夜中に城を抜けだしたシッダールタは一時も休むことなく走り続けます。太陽が昇る頃、遠く離れた荒れ野に降り立ったシッダールタは、身につけていた美しい装飾品や冠をはずし、持っていた剣で豊かな毛髪を一気に切り落とします。通りかかった狩人から自分の絹の服と交換に柿色の粗末な衣を得たシッダールタは、涙を流し引き留めるチャンダカに対して

「もう決めたのだ。私はもういないものと思って欲しい。王にもそう伝えてくれ。生死を克服できたらすぐにでも戻る。怠って目的を果たせなければ、どこかで野垂れ死ぬまでだ。チャンダカ、カンタカ、世話になった」
そう言い残して、振り返りもせず苦行の森に入って行ったのでした。

そこに、苦しみのない完全な真実の世界だけを求める、ブッダのゆるぎない求道心というものを感じます。以前、師から、真実に憧れ、真実だけを目指す一点集中という意味の「エーカーグラター」という言葉を教えていただきました。首尾一貫したブッダの言葉や行為からは、真実だけを見つめ続けた「エーカーグラター」というものを感じとることができます。六年間の苦行の末、悟りを啓かれたブッダのあり方、この本を読んでいるだけでも、心が清く洗い流されたように感じるのは私だけでしょうか。みなさんもブッダの生き様に、そしてその存在に触れてみられてはいかがでしょうか。

ダルミニー


あるがままに生きる

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

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 先日行なわれたサットサンガで印象に残った師の教えをご紹介したいと思います。

ヨーガの教えである真理を学ぶことによって無知を正しく理解し、心を真理に従わせるようにすると、この世界の中で執着なく、あるがままに生きていくことができるようになります。

無知という言葉は聞いたことがあると思いますが、それは私たちがこの世界に対してもっている根本的な大きな間違いのことです。一つ目はこの世界を永遠だと思っていること、二つ目はこの世界に純粋なものを求めてしまうこと、三つ目は幸と不幸を繰り返すこの世界の中で幸せを願ってしまうこと、四つ目はエゴという心を本当の自分だと思ってしまうことです。そしてその無知がさまざまな欲望をつくりだし煩悩となって、あげく苦しみや悲しみになってしまう、そのことを正しく理解しなさい。そして心をそういう無知に従わせるのではなく、ヨーガの教えに従わせるようにすると、あるがままに生きていくことができるようになると教えてくださいました。

心が煩悩によって活動をしている間は、すべての物事は心にとって好きなのか嫌いなのかだけになってしまいますが、心から無知煩悩がなくなっていけば、あるがままにすべてのものが尊い存在として感じられるようになります

あるがままに

 師の説かれるこの言葉に強く惹きつけられました。師は「あるがまま」というのは、何ものにも執わられず、束縛も儚いもない、苦しみも悲しみもない、そういう状態であると教えてくださいました。「あるがまま」とは、なんと軽快で、なんと自由、なんと透明で、なんと晴れ晴れとしていることでしょう。

最近「ありのままで」という歌が流行っていたように思いますが、「ありのまま」というのは、心が欲望に従ってなんの努力せず、好き勝手しているような感じがして、あまりいいイメージではありませんでした。「あるがまま」と「ありのまま」とでは言葉は似ているけれど、生き方に雲泥の差がありますね。

あるがままに生きる

その境地を理想として、ますますヨーガを実践していこうと、思いも新たにしたサットサンガでした。

ダルミニー

 


集中と瞑想

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

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先日行なわれたサットサンガで、日常の中で誰もが経験する自分の心に関しての次のような質問がありました。

質問者「人の話を聞いているようで聞いていないことに気が付きました。人の話をよく聞けるようになるには、どうしたらいいでしょうか」

師「常日頃のサーダナ(修練)としての、アーサナや瞑想、真理への学びをしっかりとしていくことはとても大切なことです。それによって呼吸が乱れなくなると、内も外も動揺がなくなり集中がたやすくできるようになります。相手の言葉を確実に理解するためにも相手の行為をしっかりと観察することが大切です」

師のお答えは単純明快です。相手に集中することによって、相手の話をより理解することができると教えてくださいました。また相手の行為をしっかり観察するということは、言葉だけに執らわれず、客観的に全体を見て、相手を理解するということだと思いました。いろいろなものに心を奪われているような散漫な状態では、集中することもできません。ヨーガを実践することによって呼吸を調え、集中力を身につけていくことが日常の生活にも大いに役立つということがよく分かりました。

また師は以前、客観的に全体を把握するということは瞑想の中でも行なわれると教えてくださいました。瞑想によって一つの物事を対象にして集中していくと、その物事に対する自分の心の執われとか、思い込みとか、観念とかに心自身が気づいていき、主観を離れ、より深い洞察をもって、その対象の本質を知るということになっていくのだということを教えてくださいました。瞑想はただのリラクゼーションではありません。深い集中をもってすれば、すべての物事の本質を明らかにしていくことができると師は教えてくださっています。

集中と瞑想はヨーガの基本であり、中心でもあります。鋭い洞察力を身につけ、この世間という大海を一緒に渡りきりましょう。

ダルミニー


琴の弦のように

春ですね。でも早々と満開の桜も散り始め、もう葉桜も見かける時期となりました。

さて4月8日はお釈迦様のお誕生日、花祭りとして有名ですね。この日はお釈迦様に甘茶をかけてお誕生のお祝いをします。私も子供頃お寺に行き、神々や動物たちに囲まれた清らかなお釈迦様の絵を見たり、やかんから水筒いっぱいに甘茶をもらったりして、楽しい一日を過した記憶があります。そういうわけで今日もまた本願寺出版社の「ブッダ」より、ブッダの教えをご紹介します。

若い修行者シュローナ・コーティヴィンシャは河の淵に坐り、傷ついた足の汚れを水で洗い落とした。指先で傷口に食い込んだ尖った小石を取り除くと足の痛みは少し軽くなった。

「こんな修行をいつまで続ければいいのだろう?過酷な行に励み、ひたすら体と心を鍛えてきた。けれど、その成果はまだ手にしていない。それどころか迷いは深まるばかりだ。やはり自分には真実の境地を得ることはできないのだろうか」

ゆったりと流れる河に視線を向けてシュローナ・コーティヴィンシャは溜息をついた。

「そんなふうに考えてはいけない」振り返るとブッダの姿があった。

「シュローナ・コーティヴィンシャ、傷は痛むのか」

「いいえ、もう痛みはありません」

「そうか。お前の足の皮膚は柔らかい。これからは一重の履き物をつけて歩くがいい」

「とんでもありません。私だけが履き物をつければ、サンガの仲間たちに笑われてしまいます」

「では、皆に一重の履き物を許そう」

若い修行者は恐縮して深々と頭を下げた。修行を途中で諦めてはいけないと心の中で思い直した。

「シュローナ・コーティヴィンシャ、お前は琴の名手だった。お前が弾いてくれた琴の調べがまだ耳に残っている。もう琴は弾かないのか?」

「琴を奏でる時間があれば、坐を組み瞑想したいと思います」

「熱心だな。お前ほど熱心な修行者はいない。しかし、シュローナ・コーティヴィンシャよ、琴の弦は緩すぎても強く張りすぎても良い音がしないのではないか?」

「仰せの通りです。緩すぎず強すぎず、ちょうど良い張りをもつ弦が良い音で鳴ります」

「修行も同じだと思わないか?琴の名手、若き修行者よ」

「……ありがとうございます。ブッダ。私もこれからはちょうど良い張りで良い音を響かせたいと思います」

シュローナ・コーティヴィンシャは頭を下げたまま、ブッダに言った。

 

この修行者は真剣に修行してきただけに、できない自分を責めて途中でくじけそうになったのでした。みなさんも、ある一つの出来事に心が執われて、周りを見る余裕がなくなってしまったことはありませんか?それは本当に張り詰めた弦に例えられるように、すぐにでも切れてしまいそうな状況に自分を追い込んではいけないということを意味していると思いました。この時も修行者の師であるブッダが、適切な言葉でもって修行者の心の緊張を解きほぐし、心のあり方の間違いに気づかせてくれたのでした。

心を張りすぎず緩めすぎず、波のない状態、不動の状態に保つことはなかなかできることではありません。しかしヨーガの一連の実践が、心に不動の状態をもたらす努力であることに間違いはありません。私たちの師は驚くほどいつも同じで、変わることがありません。そういう師のお姿を拝するたびに、自分たちの理想とする不動の境地が、師の中にあるということを理解するのです。

ダルミニー

天上天下唯我独尊

天上天下唯我独尊


ブッダの根本的教え

師は、ブッダは偉大なヨーギーであった、また彼の教えとラージャ・ヨーガはとてもよく似ていると教えてくださっています。今日は「ヨーガの福音」の中のその教えをご紹介しましょう。

大いなる悟りを啓かれた主ブッダの最初の教えは次の通りです。

一切は苦である。病むこと、老いること、死ぬこと、その原因である生まれること、これは誰もが避けることのできない大きな四つの苦しみである。この他に四つの苦しみがある。求めるものが得られない苦しみ、愛する人と別れる苦しみ、憎む人と一緒にいる苦しみ、この肉体と心が不浄である苦しみ。 

これらの原因は欲望であり、その原因はエゴと無知である。

それらに対し一切の苦悩を離れた真実の境地、ニルヴァーナがある。 

そしてそれに至る道が八正道である。正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定。

ブッダはこのように非常に具体的な方法を教えました。誰もが真剣にそれを行なえば、必ずニルヴァーナは実現します。

最初の正見(しょうけん)というのは、この教えの全体像を正しく理解するということです。この世の中は「一切は苦である」という言葉を最初に聞いた時は衝撃を受けましたが、本当に今までもそうであったと納得しました。それは全く厭世的な考え方ではありません。そういうふうに理解することによって、苦しみは悲観的なものではなく、人間界においては当然あるべきものとして、すんなりと受け入れることができるようになりました。最初に「一切は苦である」と言い切ったブッダはすごい方ですね。この世の有り様をそれこそ正しく見ていたのだなと思いました。最後の正定(しょうじょう)は瞑想のことです。思いも言葉も行為も生活も正しく調えていくことによって精度の高い瞑想ができるようになる、そのようにこの尊い八つの道を真剣に歩めば、必ず真実の境地を実現することができると教えてくださっています。

この尊い教えに出会い、ブッダに帰依した人は、その当時千人以上もいたといわれています。そのように具体的な道を分かりやすく説いた方は、その頃にはいなかったんでしょうね。噂が噂を呼んで、道を求める人たち、苦しみから解放されたい人たちが、花に蜜を求めて蜂が集まるように、清らかなブッダのもとにたくさん押し寄せていったことが想像できます。ブッダと巡り会い、心の迷いを取り除かれた人たちのなんと幸いなるかな。

二千五百年の時を超えて、私たちも主ブッダと巡り会いました。この尊い教えを聞き、実践できることを本当に幸せに思い、感謝し、ますます精進していきたいと思います。

ダルミニー

主ブッダ

主ブッダ