投稿者「ダルミニー」のアーカイブ

シッダ・マールガ最終回 !

最近はすっかり春めいてきましたね。ダルミニーです。

先日3月6日(日)に、3年間続いたシッダ・マールガの最終回がありました。

シッダ・マールガ(成就への道)とはシュリー・マハーヨーギーを師と仰ぎ、ヨーガを真剣に志し、ヨーガの成就(シッダ)を望むヨーギーたちの集いで、約40名のヨーギー、ヨーギニーたちが切磋琢磨してきました。

最終回の様子です。

最終回の様子です。

最初は、一人一人が自分の理想を明確にしていくところから始まりました。何をするにも高い目標を掲げることはとても大切なことですよね。自分がこうありたいと願う理想の姿をしっかりと心に植え付け、揺るぎなくしていくこと、それがヨーガに情熱を傾け、道を歩む力になるのだと思いました。そこから理想とする聖者の姿に瞑想し、シッダであり続けた彼らの内面を感じとり、それを具体的に実践して生きるということを学んでいきました。

 

最終回は、クリシュナ神を愛しバクティを深めた中世のミラバイという聖女のお話を、現代のミラバイさんが紙芝居で紹介してくれました。

紙芝居「The  Story  of  MIRA's  LOVE  (ミーラーの愛の物語)」始まり始まりー!

「The Story of MIRA’s LOVE (ミーラーの愛の物語)」始まり始まりー!

中世のミラバイは、クリシュナ神を愛するがゆえに、それを理解できない人たちからさまざまな迫害を受けます。でもその困難を耐え忍び、すべてを受けいれ、それさえも純粋な愛に昇華させていった人でした。その愛は本当に切なく、狂おしいものでした。

みんな童心にかえって(?)熱心に紙芝居に集中しています。

みんな童心にかえって(?)熱心に紙芝居に集中しています。

ミラバイを理想として実践を続けてきた現代のミラバイさんは、ある時彼女の息吹を感じたといいます。聖者のハートを知り近づくためには、その聖者と共鳴しなければならない、そのためには自分の心をより純粋にし、ハートの振動を高めていくことが大切であることを知ったと教えてくれました。そして神とミラバイとの間には特別の約束があって、ミラバイはその約束を果たすためだけに生きた人であったと思う、わたしたちも自分の理想神との関係をより深め、愛し、それを実現していくべきだと力強く話してくれました。

現代のミラバイ

現代のミラバイ

 

この3年間、参加したヨーギー、ヨーギニーたちは、ある時は自分の心を見るのが怖くて逃げ出したくなったり、自分の心のあり方をずばりと指摘され恥ずかしかったり、知らない自分の心の中を垣間見て驚いたり、また他者の心に共感し涙を流したり、笑ったりしました。そうやって自分の心と向き合い、さらには清らかな聖者のハートに瞑想することによって、あるべき理想の姿に少しずつ目覚めていったのだと思います。シッダを目指す道の途中で起こることは、すべて霊的な成長を促し、心をより純粋にしてくれるものなのだということも、みんなの変化を見て分かるようになりました。

ある時、師はおっしゃいました。

永遠の存在の本質である本当の愛を、全ての行為を通して発散させていってください。

私は本当に師がおっしゃったとおりのことが起こりつつあるのだと思っています。それは大いなる導きによって、みんなが心の限定枠から飛び出して、理想に向かって自分の可能性を試し始めたからです。この3年の間に本当にヨーギー、ヨーギニーたちの間でさまざまな出来事が起こりました。予期していたのか、いなかったのか、起こるべくして起こったのか、それはさまざまな活動を通して発散されていったのでした。これからも高い志をもって、ヨーガの成就への道をみんなと共に歩んでいけますようにと願います。

最後に、常に私たちを見守り導いてくださった師と、すべてのものに神を見て、献身奉仕する大切さを、身をもって私たちに示してくださったヨーギーの皆様方に感謝を捧げます。

ありがとうございました。

ダルミニー


下鴨ヨーガ・瞑想 日曜日のクラス

念願のポスターができました!!!

 

下鴨クラスは、北大路、下鴨本通りの交差点、少し東に行った北側にあります。

日曜日の朝、北大路通り「洛北高校前」のバス停から青いビルを見上げてみてください。

この素敵なポスターが目にはいるはず (^–^)/

simogamo (6)

 

 

下鴨通り (5)

 

そして嬉しい事は続くーー!!

下鴨クラスはようやく三年目を迎えましたが、先日、始めての親春会がありました。ヨーガを学び始めたばかりの人から二年ほど熱心に通ってくださっている人まで、女性ばかり和気あいあいとした雰囲気の中、楽しく過すことができました。

夕方六時半から始まった会でしたが、なんと終バスがなくなるまで、私たちはヨーガのこと、自分自身のこと、仕事のことなど、隣の人と話したり、全員で話し合ったりと、お互いの理解を深める濃密な時間をもつことができました。

印象的だったことは、みんなが素直に話し合い、また人の話やアドヴァイスも真剣に聞いていたことです。こうやって同じ食卓につき、なんでも話し合える仲間がいることをとても幸せに思いました。そしてこのご縁をもっともっと広げていきたいと思ったのでした。

ずーっと笑顔が絶えない食卓 野菜鍋がおいしかった。

ずーっと笑顔が絶えない食卓
野菜鍋がおいしかった。

 

ダルミニー


京都ヨーガ・瞑想 土曜日のクラス

今回、シャーンティマイーさんが担当する土曜日のクラスは、広いスペースのある京都アスニーの五階で行なわれました。ニューヨークからやってきたグルバイたち(兄弟弟子)を迎え、二十名の人たちが参加し熱気のあるクラスとなりました。

 

サルヴァーンガ・アーサナ

サルヴァーンガ・アーサナ

 

サマコーナ・アーサナ

サマコーナ・アーサナ

シルシ・アーサナ

ヴィリチカー(サソリ)・アーサナ

シャーンティマイーさんは、アーサナだけがヨーガではない、ヤマ(日常の中でのヨーガ的禁戒)、ニヤマ(日常の中でのヨーガ的勧戒)を実践し、身・口・意(思いと言葉と行為)を一致させていくことがいちばん大切であると、師から厳しく教えられてきたと私たちに教えてくださいました。そして身・口・意が一致しているかどうかはアーサナに表われてくる。高度なアーサナは身・口・意が一致していないとできないということを実際に知ったと力強く教えてくださいました。またアーサナの基本がしっかりと身についていれば、それは確実に瞑想まで連れていってくれると、基礎の大切さを繰り返し私たちに教えてくださっています。

京都に来て師の教えを授かり、またクラスを受け、京都のグルバイと親好を深めたニューヨークのグルバイたち(男性三名)が、ヨーガを実践することによって、自分の気が付かなかった問題に直面して苦しくもあるが、それを解決するべく積極的にやっていきたい、そういう気付きが起こること自体が驚くべきことで、ヨーガの深みを知った、また今まで目標をもって生きたことがなかったが、京都にきて、生きる目標が分かってからアーサナに対する姿勢が変わったと、瞳が輝かせながら感想を述べる姿が印象的でした。

ニューヨークの弟子たち

 

土曜日のクラスは、アーサナの基本をしっかりと身につけ、瞑想の深みに入っていけるようなクラスとなっています。生き方までが変わるヨーガの魅力満載のクラスなのです。

ぜひお越しください。お待ちしてます。

ダルミニー


ニューヨークからヨーギーたちがやってきた

数日前、ニューヨークから三人のヨーギーたちがここ京都に到着しました。彼らは尊敬する師に教えを乞うためにはるばる海を越えてやってきたのでした。彼らはどんな思いで京都の地に足を運んだのでしょうか。私たちもヨーガを習い始めた頃、心から尊敬し、また信頼する師の住まわれるアーシュラマに、この世の本当のことが知りたくて、会えるのを心待ちにして通っていた頃のことを思い出します。

土曜日の夜行なわれたサットサンガ(真実の集い)では、大事に携えてきた質問を真剣な表情で師に問う姿が印象的でした。彼らは師の教えと、その柔和なご様子、優しいお声までもしっかりと胸に刻みつけたことだろうと思います。

そして日曜日の下鴨のクラスにも参加されました。アーサナに挑む彼らの顔は真剣そのものでした!彼らの視線、呼吸がどんどん熱を帯びてきて、身体中からその熱が発散されていました。そしてそのハートに秘められた情熱が、すべてのヨーガへと向かうハートにも火を付け、真実へ向かう速度を早めさせてくれます。私はこのようにして人から人へ、ヨーガの熱が伝えられるのだということを肌で感じました。

 

師は説かれます。

自分はいったい何者なのか、真実とは何か、神とは何なのか、知らなければならないのはこれだけです 

この答えを明らかにするために、彼らは忙しい世事の間を縫ってニューヨークからはるばる師の下にやってきたのだと思いました。

ダルミニー

 

サルヴァーンガ・アーサナ

いつもは見えないのに、ニューヨーカーの長い足が窓の外から見えたと驚かれたサルヴァーンガ・アーサナ

 

 

 


下鴨ヨーガ・瞑想 日曜日のクラス

下鴨ヨーガ・瞑想クラスは下鴨本通りの交差点を少し東にいった、京都でも有数の進学校でもある洛北高校前のバス停の前、青いビルの二階にある暖かな日差しの入る、落ち着いたスタジオで行なっています。

昨年十月にイキイキクラスと題して、身体と呼吸と心の関係を、ヨーガの知恵やワンポイント・アーサナのコーナーを設けて九回コースでじっくりと学んでいきました。

http://www.mahayogi.org/class/kyoto_shimogamo.html

その中で特に印象に残ったことがあります。

アーサナは体験してみると身体が生き返るようにとても心地よく感じるものですが、やっている最中は普段使わない筋肉に刺激を与えるものですから、苦痛を伴うこともあります。そして、自分の苦手なアーサナになると、心は嫌だなとか、痛いことをするのが怖い、やりたくないという思いに執らわれたりします。イキイキクラスの中で、「怖がりな自分の心が邪魔をしていたので、その恐怖心を乗り越えてアーサナを実践してきた」という体験談の話がありました。

その時、話を聞いていたある方が、最初は緊張気味だったのですが、聞いているうちに顔がみるみる緩んで、最後は笑顔になり「本当にそうなんです」と納得したようにおっしゃったのです。その方はその話に深く共感し安心感を得たのでした。私はその方の顔が一瞬にして変わるのを目の当りにして本当に驚きました。アーサナのことだけではなく、その方の心に、一筋の光があたって何かこわばりのようなものが溶けていったような感じを受けました。

ヨーガを実践していけば、ちょっとした気付きで目から鱗が落ちるように、心のこわばりがほどけていくような瞬間があります。そのような気付きを繰り返していくことが、本来の自分自身を取り戻していくことにつながっていくと思うのです。クラスでヨーガを実修していると、そういうことが起こりやすいんですよね。

みなさま、ぜひお越しくださいね。お待ちしています。

パシュチモーッターナ  アーサナ

強烈な浄化を施すパシュチモーッターナ アーサナ

 

ダルミニー


信仰をもつということ

人の真の性質は幸福です。真の自己の生得のものです。彼の幸福の探求は彼の自己の無意識の探求なのです。真の自己は不滅です。それゆえ人がそれを発見した時は、終わりのない幸福を発見したのです。                               ラマナ・マハリシ


私は本当に幸せになりたかった。でもいつも幸と不幸を繰り返していました。そういう状況を自分ではどうすることもできませんでした。世の中とはこういうものなのだと自分に言い聞かせていました。

それから私はヨーガを知り、そしてヨーガの師と巡り会い、ヨーガの教えを授かりました。その後で、このラマナ・マハリシの教えを目にした時、本当にはっとさせられました。自分は間違ったものに幸せを見つけようとしていた、幸せは外から与えられるものではない、幸せは自らの内にあるのだと気が付かされたのです。私はこの教えを深く信じ、そして自らの内にあるであろう至福の存在を深く信じたのでした。

それからの私は、このままではいけない、こんなつまらない、不完全な自分ではいけない、この心も身体も変えていかなければいけないと真剣に思いました。今のままでは到底その至福の存在を感じることはできないだろうと心底思ったのでした。

師から教えられたアーサナ(ヨーガのポーズ)や瞑想、聖典の学習や、日常でやるべきヨーガの教えにそった行為は、自らの内に輝くその至福の存在に見合うよう、恥ずかしくないよう、自分自身を正していくということを実践していったのだと思います。

師は、自信とはうぬぼれとかプライドのことではなく、自分を信じること、そうやって自分の信念をしっかりもって揺るぎないものとすること、さらにはそれが信仰になっていくと教えてくださいました。私はまずヨーガの教えを信じ、それからその自分を信じたのです。そしてそれは少しずつ信仰になりつつあるのだと感じています。

ダルミニー

 

在りし日のシュリ・ラマナ・マハリシ

在りし日のシュリ・ラマナ・マハリシ 

 


何を思いどう生きるのか

 

「行動と思いをより良くしていってください。常により良い理想に心が向けられていくようヨーガを学んでいってください。ヨーガを学び深めることが、カルマを超越する道です」

これは、私が最初に師からいただいたヨーガの教えです。カルマとは過去の自分の思いや行為が原因となって生じた結果のことです。ヨーガを実践すれば、そのカルマを超えることができると師は教えてくださいました。シンプルな教えですが、常により良い思いをもつということを、最初は意識してやっていかなければなりませんでした。心は何かあるとすぐに人のせいにしたり、消極的な思いに執われたりしてしまいがちだったからです。

最近、「シュリ・アーナンダマイ・マーの生涯と教え」という本を手にすることができました。シュリ・アーナンダマイ・マーは「あるヨギの自叙伝」でも至福に浸る聖女として紹介されています。ここにどきっとするような教えが載っていましたので、ご紹介したいと思います。

ある油売りの老女が死の床に就いていた。その老女は生涯バザール(市場)で油を売ってきた。彼女はツケで油を売ったことは一度もなく、ごくわずかな油でさえも決してただでは渡さなかった。乞食が油をくれと頼んできても、彼女はいつも、「一滴もやらないよ、一滴も」と答えていた。老女が死の間際にあった時、彼女の霊的な幸せを心配した親族は、彼女に「ラーマ」か「クリシュナ」を復唱させようとしたのだが、彼女が口に出せた言葉は「一滴もやらないよ、一滴も」だけだった。これが彼女のマントラになっていたのだ。人の生涯を通じての日々の考えと行為が、その人の意識状態と魂の運命を決定するということを示している。

とありました。
油は人間の生活にとってなくてはならないものです。それを売っている老女は他者の幸せを願いながら、それを売ることもできたのだと思います。でもこの老女はお金に執着をして、そんなことも忘れてしまっていたのでしょう。臨終の思いは大切で心が執着をしている思いの下に、また生まれ変わるといわれています。日々繰り返し、心に唱えさせているその言葉が深く印象として心に刻み込まれ、それが彼女の一部となっていたのでした。

 

さて私たちは日々、何を思い、どう行為しているのでしょうか。それが魂の運命を決定するということになれば、日々の思いはとても重要です。私は、より良い思いをもつということを意識すると、それは常に他者のために良き思いをもつということになり、次第に自分のことが後回しになっていくのだということに気がつかされました。常に他者の幸せを願い、他者のためだけに行為する。ヨーガの実践によって、自分自身の心を制御していくことが、自分のもっているさまざまな煩悩をなくしていくことになり、カルマを超越することになるのだということも次第に分かってきたのでした。

心の変革は一足飛びにはいきません。繰り返し、繰り返し、心に良き印象を与えていくことは、日々のヨーガの実践を続けていくことによってもまた刻まれていくのだと改めて感じたのでした。

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常に神とともにある聖女 アーナンダマイ・マー

ダルミニー