投稿者「MYMメンバー」のアーカイブ

つくレポ 〜ビリヤニ〜

久しぶりに暑さが戻った9月初めの日曜日、お昼ご飯に「さまらさの台所」動画クラスにアップされたビリヤニ(スパイスを使ったインド風炊き込みご飯)を作ってみました。

まずは動画のアドバイス通りスパイスをお皿に準備、必要なお野菜やお米なども最初に全て用意して、講師のサティヤーさんになった気分でお野菜を切り始めると、いつも以上に丁寧にお野菜の様子を見ながらカットする私がいました。不思議。。 今までは何気なくお料理していたことに気付くことができました。


下ごしらえがおわり、調理開始です。初めて作って気づいたこと💡

①ビリヤニはお鍋ひとつで出来るので簡単、便利!
②炊いている間は鍋から離れることができるので、暑くないし洗い物も進むのがいい!
③ヨーグルトを入れると一気にインドになる!

などなど。とにかく簡単で面白い。スパイス料理ってハードル高そう、と思っていたけれど、なんでも経験してみることが大事だなと再認識しました。

出来上がり早速試食。美味しい~~!!! 野菜だけとは思えない味わい。何より私が気に入ったのは、口に入れたときにジャガイモがほろっと崩れ甘い味わいがすること。手軽に作れるので日曜日のランチにピッタリです。
そして、ビリヤニを最後に蒸らしている時間に作ったラッシー。私はギリシャヨーグルト(ヨーグルトを水切りする)を作っているので、そこでできたホエー(水切り後に出来る液体)をヨーグルトの代わりに、さらに蜂蜜の代わりに手作り梅酵素シロップを入れてみたのですが、お、美味しい。。 まるでお店で飲むラッシーではないですか!! 口の中に広がるスパイスを最後にさっぱりさせてくれました。


毎日行なうお料理を通じてヨーガに向き合うことは、日常を何気なく過ごしてしまうことなく、目の前の一つ一つの事柄に集中し丁寧に向き合うことにつながる。そんな日常はとても軽やかで楽しい!ということを改めて教えてくださった「さまらさ動画クラス」でした。
これからも楽しみにしています!!

ターリカー


ヨーガによって辛い記憶から解放される

”サンスカーラ——心の潜在残存印象

サンスカーラを消していくのは真実の智慧だけです。だから実存だけに集中していってください。
サンスカーラは何かに依存しています。心の記憶とプラーナ、そして条件です。条件というのは煩悩、無知のことです。瞑想における真実の智慧は、心の記憶にゼロというサンスカーラを残していきます。
例えば心の記憶というフィルムにたくさんの映像(サンスカーラの記憶)があるとするでしょう。真実の智慧はその映像を消していきます。だからサンスカーラに集中する必要はありません——煩悩と無知から出たものですから。そして積極的な真理への瞑想が深まっていけば、心の中で識別が行なわれます——真理と無知の間で。サンスカーラは無知に依存するものですから、それで消えていくのです。あとは実践です。”

『ヨーガの福音』より

経験は、喜びや悲しみなどの感情と共に記憶として残ります。特に印象が強い記憶は繰り返し思い起こされ、その時の感情を何度も味わうことがあります。

私は、思い起こす度に苦しくなっていた記憶に全く影響を受けなくなった経験があります。
一つは、小、中学生の頃にいじめられていた記憶です。
当時は毎日不安で、特に辛い出来事が起きる度に絶望感に支配されていました。大人になってからも、突然記憶が蘇り辛くなったり、その頃過ごしていた場所に行くと足がすくんだり、いじめた側の人たちを見かけると息苦しくなって体が震えたりしました。
当時暮らしていた地域を離れてからはそうしたことは減りましたが、何かの拍子に思い出しては苦しくなるのを繰り返していました。
ヨーガを始めて、サンスカーラについての教えを知った時、心の記憶にゼロというサンスカーラを残せたら辛い記憶も綺麗さっぱりなくなるんだ、と淡い希望のようなものを感じました。瞑想は難しかったので、まずはアーサナを続けてみようと思い、少しずつでも毎日やるようにしました。
それから2、3年経った頃、当時暮らしていた地域に行ったところ、懐かしさだけを感じました。思い出す度に味わっていた苦しみがなくなっていたのです。おそらく、アーサナの実践によってプラーナ(気)が清浄なものへと調えられ、心身が満たされたことで、記憶に執着する力が働かなくなっていたのではないかと思います。

もう一つは、家族との間で起きた出来事の記憶です。
物心ついてからずっと囚われていて、そのことを考えると動揺するため、向き合う勇気が持てないまま月日が流れていました。しかし昨年、あることを機に何をしていてもそのことが頭から離れない状態になってしまい、向き合う覚悟を決めて識別に挑みました。
向きあうことは思っていた以上に辛くて何度も挫けそうになりましたが、原因は必ず自分の中にある、と、そこに辿り着きたい一心でもがきました。
しばらく経ったある夜。疲れ切った状態で識別瞑想していると、急に思いが噴き出してきました。次から次へと記憶に強く結び付いていた感情が溢れ出し、かつてないほどの負のエネルギーに引き摺られそうになりましたが、抗わずにただそれを見つめることに徹しました。息ができないような苦しさの中、自ずと意識が師へと集中していきました。いつの間にか湧き出ていた感情はすっかりなくなり、心は静かになりました。目を開けると師のお写真がすっと視界に入り込んできて、この上なく平安な気持ちに満たされました。
その後、その頃の出来事や感情を意識して思い出しても、動揺することがなくなりました。記憶として存在はしているけれど、ただ映像を眺めているような感覚になりました。
識別瞑想に挑んでみたものの、あまりに苦しく師にすがるしかないような状態に追い詰められ、自然に師の存在に集中する状態になり、師の純粋さに染められたことで、記憶に絡みついていた感情が消え去ったのだと思います。

「心の記憶にゼロというサンスカーラを残していく」
この「ゼロ」ってすごいなあと興味を持ったのが始まりでしたが、この2つの経験から、ヨーガの実践によって本当にそうなることを実感しました。

ヨーガによって、苦しみの原因を根こそぎ取り除くことができる。
これほど確かで心強いことは他にはないと思います。

鮮やかなオレンジ色のほおずき。毎年8月になると職場である治療院に飾ります。
オレンジ色はサンニャーシン(出家者)が身に付ける糞掃衣(ふんぞうえ)の色として、放棄の象徴とされています。

ハルシャニー


ナーグ・マハーシャヤ

松山でのこと、ヨギさんはある方の質問に対しておっしゃいました、「謙虚さがなければ、ヨーガは進めていくことができません」。

8月21日は、その謙虚な心で知られた、シュリー・ラーマクリシュナの弟子であるナーグ・マハーシャヤ(1846−99年)が誕生された日です。彼の生涯は『謙虚な心』という比較的小さな書籍に記されています。私たちはその本から、ナーグ・マハーシャヤという尊き家住者が、燃え上がるような情熱を持って心の中に謙虚さを築き上げていった、その生涯を知ることができます。 

「謙虚さ」とはどのようなものなのでしょうか。初めてこの本を手にした頃、私は「謙虚さ」という言葉に、静かで穏やかなイメージを持っていました。ですので、この本を読み始めて、驚愕してしまいました。ナーグ・マハーシャヤは、自分の心の中に良くない感情を見つけると、石などで自分の頭を打って血だらけになってしまうのです。そればかりか、自分のために炎天下で働く人々を見ていることができず、屋根修理の職人に対して仕事を止めるように泣き叫んで懇願し、自らを打ち始めます。いったい、これは何なのでしょう、頭を打つのが謙虚さなのでしょうか。それが最初の感想でした。

けれども、少しずつヨーガを学んでいくにつれて、常軌を逸しているように見えるこれらの行為の意味が少しだけ分かってくるようになります。本の中では、ナーグ・マハーシャヤと親交深いギリシュ・バーブがこのように言っています。

「常に打ち続けることで、ナーグ・マハーシャヤは、自我の頭を粉々に砕いた。何を持ってしても、彼の自我の仮面を蘇らせることはできなかった」

つまり、ナーグ・マハーシャヤはあらゆる方法を使って、自分の心から「私」と「私のもの」を破壊し続けていたのです。謙虚な心とは、静かで穏やかな状態なのかもしれません。けれども、その状態に至るためには、こんなにも激しく「私」を打ち砕いていかなければならないのでしょうか。

頭を打つだけではなく、ナーグ・マハーシャヤは積極的に他者に奉仕することによって、心から「私」と「私のもの」を追放します。その奉仕も尋常なものではなく、自分が飢えたり、借金することになってしまっても、当然のように、困っている人々にお金や食べ物を与えました。雨季、雨漏りのないたった一つの部屋に来訪者を泊まらせ、彼と彼の妻は、玄関で瞑想と祈りに一晩を過ごしたといいます。あるいは、やはり雨季に、彼を慕ってやってきたずぶぬれの信者のために、食事の準備に必要な燃料として自宅の棟木を切ってしまうのです。家を破壊する白アリにも愛情を注ぎ、追い出すことなく保護します。いったいどうして、ここまでして彼は、「私」と「私のもの」を破壊し、あるいは謙虚な心を持つことを選んだのでしょう。 

実は、ナーグ・マハーシャヤの献身的な性質は、シュリー・ラーマクリシュナと出会う以前から顕著だったようです。彼は、いつでも困っている人を喜んで助けたといわれています。ただ、それでも彼には大きな悩みがのしかかっていました。神に会いたい! 彼は信仰深い一生を送りたいと願っているのに、妻もいて、仕事もしています。そうした足枷から自由になり、神に会うためだけに生きたい。彼はそう悩んでいたようです。

ですから、ナーグ・マハーシャヤが初めてシュリー・ラーマクリシュナと出会ったときは、もうどんなにか感激して、興奮したことでしょう! 最初の出会いが「彼の興奮した心に献身の炎を燃え上がらせた」と、本には書かれています。そして、そのように燃え上がる心を抱えて、翌週再びシュリー・ラーマクリシュナに会いに出かけたのです! そのとき師は彼に「あなたの霊的な進歩については何一つ恐れることはない。あなたはすでに、非常に高い状態に到達している」とおっしゃいました。その後、彼の放棄の姿勢は、先に書きましたような、通常の人々には理解し難く、常軌を逸していると思われるほど強烈なものとなっていったのです。

「私」と「私のもの」を心から放逐してきたナーグ・マハーシャヤの心には、他者あるいは「あなた」しか残らないのでしょう。そして、シュリー・ラーマクリシュナとの出会いによって、そのあなたは神であり師に他ならないことを知り、そうして万物の中に神を見て、神の召使いとして生きることになったのでしょう。実際に彼は「もし彼が、『なぜ手を合わせているのか』と、尋ねられると、『あらゆる所、そしてすべての存在の中に、イシュタを認めるからです』と答えた」そうです。そのような心のあり様こそ、本当の意味で謙虚さなのだろうと思います。

 

「神はまさに願望成就の木なのです。神は、我々が望んだものは何であれ、与えます。しかし我々は、生死の輪廻へ再び引きずり込むような願望を、欲するままに求めてはなりません。人は、神の神聖な御足に対する揺るがぬ信仰と、神御自身の真の知識をお与え下さい、と主に祈願しなくてはなりません。ただそうすることによってのみ、人は世界の汚らしい枷を逃れ、神の恩寵を通して自由を獲得するのです。世俗的な目的を欲すれば、それに付随する害悪も引き受けなくてはなりません。神の瞑想と、神の信者たちとの霊的な交わりに、ときを捧げる者だけが、災難と惨めさに満ちたこの世界を越えることができるのです」

『謙虚な心――シュリー・ラーマクリシュナの弟子ナーグ・マハーシャヤの生涯』より抜粋

「私」と「私のもの」を放棄し、神だけを求めながら、真理の教えを誠実に守って慎ましく、謙虚に生きていくことができますように。そして、そのために必要な、狂わんばかりの情熱を持つことができますように。

笹沼朋子


つくレポ 〜完熟トマトとナスのパスタ〜

私はこれまで料理をするという機会はほとんどなく、もっぱら食べ役でした。そんな私が、さまらさの台所(ヨーガの料理)のオンラインクラスを受講させていただいたことを機に、料理にチャレンジしています! 7月のブログ掲載記事「ヨーガの料理 さまらさの台所 動画クラス紹介!」のメニュー:完熟トマトとナスのパスタを何度か作ってみました。このブログは、料理初心者男子がさまらさレシピのパスタを作ってみた!のつくレポになります。

料理をするにあたり、さまらさのクラスで学ばせていただいたことを心がけました。「食材の選び方」「丁寧に調理をすること」「何より楽しんで料理をする!」など、教えていただいたことを心に留めて取り組んでみました。

ステップ1   食材選び!
買い物では新鮮なお野菜を選ぶために、店員さんに尋ねてみました。「新鮮で甘いトマトはどれになりますか?」というように質問すると・・・私には新情報!?トマトの特徴を教えてくださりました。「今は北海道産のトマトが甘くておすすめですよ! また少し時期が進むと南の方の熊本県産のトマトも美味しくなってきますよ」とお聞きしました。そして、沢山並んでいるトマトの中から赤くて一番美味しそうなものはどれだろ〜と食材とにらめっこしながら選びました。ナスを選ぶ時には色鮮やかで軸がしっかりしているものを見分けながら決めました。


ステップ2   いざ調理!
調理する前にもう一度動画を観て確認しながら始めました。食材の量や調味料の分量、火加減などは奥さんに教わりながら料理を進めました。まず食材を切っていく工程では、動画でされているのに倣って見様見真似で切りました。大きめのカットだったので包丁が不慣れな私でも切りやすかったです。それでも、同じ幅間隔で切っているつもりが、だんだん切る幅が小さくなったりもしました。次にお野菜を焼く工程では、ナスの火の通りや焼き加減を見ながら炒めてはいましたが、ちょっと焦げてしまいました(汗)。木べらを使って炒めるのも手の動きが何だかぎこちなく、丁寧にできているだろうかと不安に思う心もありました。それでも気にし過ぎないように気持ちを切り替えて料理を進めました。炒めたナスにトマトを加え、しっかりと煮詰めました。「美味しくできますように・・・」と心を込めながら混ぜてトマトソースが完成です。ここまで料理が仕上がってくると先ほどの弱気がどこにいったのか・・・「僕、料理できるやん!」という気持ちにもなり、嬉しくなってきました。 

ステップ3   盛り付け!
いよいよ盛り付けまでやってきました。最後の工程ということもあって、一番緊張していたように思います。額からは汗を感じ、手の感覚もいつもより硬く張りつめていました。作った料理が美味しく見えるようにゆっくりと丁寧にお皿に盛っていきたいところでしたが、パスタがグチャっとしたり、ぼたっと・・ソースが落ちたりすることもあって心はざわつき状態でした(汗涙)。必死でお皿に盛りつけて最後にバジルの葉っぱを添えて、やっとの思いで完成できました。

ステップ4   いただく!
なんとかパスタが出来上がって少しほっとしました。料理が冷めないうちにいただきます。隣で食べている奥さんの表情も横目で気になりながら一口・・・「うんっ! 美味しいやん」と心の中で一言。自分で作って言うのも何ですが(笑)、初めて作ったにしては良い味に仕上がっていると思いました。そして、食べてくれた奥さんの表情にも笑顔が溢れていて、とても嬉しい気持ちに満たされました。
作ってみたパスタの味付けはトマトの甘さと塩だけでシンプルなのにこんなに美味しくできるんだと、さまらさの料理ってすごいなと感じました。料理ができなかった私が誰かを笑顔にできる料理が作れたことはさまらさの魔法!?・・・いや、それこそがヨーガの精神なんだと思いました。
さまらさの台所のオンラインクラスで講師のシャーンティマイーさんが仰っていたお言葉「料理はうまい、へたではなく、真剣に食材に向き合い活かす。これが大事」ーー誰でもどんな人でも料理ができるということを自分が作ってみて改めて教わったように思いました。

その後も何度か作ってみました。2度目以降は準備を整えることをより意識しました。使う調理道具が必要な時にすぐに取って使えるように置き位置を考えたり、スムーズな料理ができるように準備しておくことで少し手順も良くなりました。気持ちのゆとりが少しできて、より丁寧に美味しくできるように一層の思いを込めて作ることもできました。また、作って食べることを重ねた中で感じたのは、食材そのものの味によって料理自体の味も変わってくることです。特にトマトは少し酸味を含むものなどもありました。じっくり火にかけることで食材の味わいが出てくることも繰り返し作ることでよく分かりました。

料理を作ることを通して今回、行為に対する考え方を学んだ気がします。料理は食材を選ぶところから調理する工程、調理したものをいただくまでの一連の行為の一つ一つがとても大事だと思いました。また、思いを込めて行為することで、料理の味はいかようにも変わることを知りました。さまらさの料理はシンプルで初心者の私にも優しくて作りやすいものでしたが、シンプルだからこそ純粋な気持ちが味に現れるのだと感じました。そして誰かを思い、その人のために、心を注いで料理に向き合うことで喜びや幸せにつながることを実感しています。
男子ごはん、これからも楽しんで続けていきたいと思います!!

金森淳哉


東京のグルバイ(ヨーガ仲間)をご紹介します!

こんにちは。夏真っ盛りですね!
コロナ禍となり二年以上が経ちましたが、東京は人の多さからさまざまな行動が制限される状況が続きました。
MYM東京のクラスや活動も最小限に抑えざるをえなかったのですが、感染者数の増減を考慮しながら少しずつ活動を再会し始めました。
今日はそのような中で、ずっと変わらず真摯にヨーガに取り組まれている中村さんをご紹介させていただきます!
中村さんはご家庭の事情で、以前からクラスなどに参加出来ないことも多かったのですが、最近、クラスでお会いした時にとてもイキイキとされているご様子を拝見して、お話をうかがってみました。

─中村さんは決まった時間にご自宅でアーサナをするのが難しいこともあり、オンラインクラスへの参加が出来ず、お一人でのヨーガの実践が続いていたと思うのですが、どのように過ごしていらっしゃいましたか?

中村さん)
コロナの影響で、京都に行くことはもちろん、クラスにも行けなくなりました。いろいろな予定がなくなって時間がとれるようになり、パラマハンサ(機関誌)を遡って読んだり、瞑想の時間ができたのは良いことでしたが、やはりクラスがお休みなのは寂しいことでした。
やっとスタジオでのクラスが一ヶ月に一度ですが再開して、皆さんとお会いできた時は涙がでました。

─先日、東京のメンバー数人で多摩川にキールタンを歌いに行った時、飛び入り参加されましたよね。すごく嬉しかったです!

中村さん)
河原で歌うのは初体験!キールタンをみんなで歌うのも何年ぶり!花もいっぱい咲いていて夢の中にいるようでした。
ハルモ二ウムや太鼓を持ってきてくださり本格的でした。曲は難しくないものを選んでくださっていたのですが、間違えてばかり。でもそんなことより、こんな楽しくていいのかしら?というくらい楽しくて、嬉しくて、あっという間のひとときでした。
その時歌ったManasa Bhajareはそのあとも口をついででてきてよく歌っています。

─今年の春から、松山クラスと東京クラスの有志メンバーでヨーガの教えの「ヤマ」の実践に取り組んでいますが、そちらにも参加されていかがですか?

中村さん)
シャルミニーさんから「松山の皆さんと一緒にヤマ・ニヤマ(禁戒・勧戒)の勉強会をするので参加しませんか?」とお誘いいただいた時、まず不安になったのはオンラインって、私にできるかしら?ということでした。
コロナが流行ってからインターネットを使うことが増えましたが、私は苦手でした。又、使わなくても済んでいました。ですが、ミッションでもパラマハンサがウェブ配信となり、逃げてばかりもいられないこともわかっていましたし、ヨギさんの「苦手なことこそ、したほうがよいですよ」というお言葉も心に残っていました。
オンラインで初顔合わせの時は私の音声がでず、かなり焦りましたが、その後家族と練習したりして、無事に参加することができました。ほっとしたのと同時に、「わー、遠く離れた皆さんとお会いできてる!」と嬉しくなりました。
コロナの間、ずっと味わえなかったヨーガのお話ができる楽しさ!貴重な一時間となりました。苦手なこともチャレンジだなあと思いました。
グルバイの皆様は、外に出られる時間が限られていたり、ネットの苦手な私をいつも気遣ってくださり感謝しています。今回も大変お世話になっています。ありがとうございます。

─ヤマの一つ目、アヒンサー(非暴力)の実践に取り組まれていかがでしたか?

中村さん)
家族とは仲良くしているつもりでしたが、今回、家族なら多少のことは許してもらえるという甘えから、言葉や態度で傷つけてきたことがだんだん見えてきました。ちょっとした対立から、家族にきつい言い方をしてしまい、それが止められないこともありました。
その思いはどこからくるのか考えたところ、やはり「自分は間違っていない、自分が、自分が…」というエゴそのものだと思いました。
ヨギさんだったらどうなさるだろう。又、相手がヨギさんだったら私はどうするだろう。その光景は目に浮かぶようなのに、実践となると悲しいことになかなかうまくいきません。
それでも、その瞬間にヨギさんを思い浮かべることが一番だと思いました。
そしてその時だけではなく、いつもいつもヨギさんと共にいられるように、と改めて願いました。
頭でわかっていたはずのことも、実践となるとその通りにはいきません。今回、実践したことをオンラインで皆さんとお話するという機会を与えていただいたことで真剣に取り組むことができたと思い、感謝しています。そして、私が初めてヨギさんにお会いした時に、ヨギさんみたいになりたいと願った、憧れの境地へとまた気持ちが繋がりました。
まだ始まったばかりですので、これからも努力を怠らないように精進していきたいと思います。

左手前から2人目が中村さん。大空の下でのびのびとキールタンを歌いました。気分はすっかりガンガーのほとり!? 6/18

同じ師の下で共にヨーガを学ぶ仲間の存在は、なんと心強くありがたいことでしょう!中村さんのお話をうかがいながら、私も勇気をいただきました。そして、どこにいても、どんな時でも常に師の恩寵が降り注いでいることを実感し、喜びでまた胸がいっぱいになりました。
中村さん、本当にありがとうございました!!!これからも、どうぞよろしくお願いします!

シャルミニー


途切れない集中力

花盛りになったヒオウギ

花盛りになったヒオウギ

6月、京都市内へ出かけたお昼時のこと。コロナ禍で外食はやめていたので鴨川の河川敷で一緒に来た相手と横並びで、パンをモグモグモグ・・・。すると「バサッ!!!」二人の間を野球の球(?)が通過し何かに当たったような風圧と衝撃。「何!!」事態を飲み込めず一瞬唖然としました。あれ?でも二人ともどこも痛くない、無事。ん?・・・相手が手に持っていたはずのパンが忽然と姿を消していました。魔法・・・ではなく、正体は鷹。0・1秒くらいの一瞬のうちに、はるか上空から急降下しパンをさらっていくと同時に猛スピードで上昇していったのだと思われます。すべてが瞬間に行なわれた御業だったので人間の私たちには、まるでパンだけが消えた魔法のように見えた華麗な技でした。

ちなみに私はパンを食べ始めた時から、大空で彼らが風に乗る凧のごとく悠々と飛んでいる動きには注力しており首が痛くなるほど上を気にしていました。にもかかわらずです。鷹は、あんなに高い上空で旋回しながらも、実はじわじわと的に狙いを定め集中状態を極めつつ頂点に達した時、今だ!!と勝負に出たのでしょうか・・・見事な一点集中と正確さにシビれました。しかも側面からの攻めではなく、私たち二人の間、ド真ん中の背後からの攻めでした。決してボーっとしていたわけでも静止していたわけでもありません。なのに一ミリたりとも人間の体は傷付けることなくパンだけに的中したことがカッコよすぎました。はるか上空の鷹をポカンと見つめながら、あの集中の塊のような風をしばらく忘れることができませんでした。

7月。京都の祇園祭

7月。京都の祇園祭

そんな衝撃的な(笑)出来事から月日は経ち、今月の瞑想専科クラスのテーマは「ブッダの生き様」でした。講師のヨーガダンダさんがブッダのお話をされ、最初にまず10分程度、皆それぞれにあるブッダのイメージをもとに瞑想しました。その瞑想の後ヨーガダンダさんは、かくも穏やかで柔和なブッダが、どうして大勢の人々を導くという大きな活動をすることができたのでしょうか?と素朴な問いを投げかけてくださいました。そして、覚者や聖者のことを考えていった時、なぜこうなんだろう?と感じる気付きが起これば、そういう時こそ、それは瞑想のポイントになる、そこを深堀りして集中していけば何かしらブッダの心境に迫っていけるものがあるかもしれない、と言われました。「なぜ?」「どうして?」という疑問が大事な気付きになるのか・・・とそのお話は印象に残りました。

その後も、師がブッダに瞑想され一(ひとつ)となられた時のことや、ブッダのエピソード、臨場感に満ちたヨーガダンダさんの様々なお話によって、私たちの胸にブッダの印象がたくさん刻まれていきました。
二回目の30分程度の瞑想の時、次はそれぞれがもつブッダのイメージの、そのどこからでもいいので、とにかく素直にブッダの心境、本質に迫っていける瞑想をしていただければと思います、と言われました。「『この時のブッダの心境はどうだったのだろう?』と考えてみるとか」とヒントも。

今回クラスの前には、『ヨーガの福音』の「真理」の章を読んでおくことになっていました。私はその中の師のお言葉――「彼(ブッダ)の教えの特徴の一つは、『小さな虫も人間もすべては仏性を有した尊い存在であり、一切万物は平等である』というものです」――この一文に心を捉えられていました。もし、本当に虫と人間を全く同じように等しく見て、同一の尊さを見ることができたら・・・「一切万物は平等」という教えを完全に会得できたら・・・これはもう凄いことだな、としみじみ思ったからです。それが私の憧れる境地でもあるからです。
だから二回目の瞑想は、ヨーガダンダさんのアドバイス通り、ブッダのこの教えに素直に瞑想してみようと思いました。すると、あるブッダの姿が浮かんできました。

ブッダの前に一羽の鳩がいます、その後ろには鳩を狙っている大きな鷹がいます。鷹が猛スピードで鳩を追いかけ襲おうとしたその時、ブッダが鳩を助けるために自分の太ももの肉をナイフで切り裂いて鷹にあげました。(※後で調べたところ、このお話はシビ王というブッダの前世の菩薩のお話でした。私はブッダのお話だと思い込んでいたのでした。)私には先月の衝撃的な出来事があったので、すぐさま鷹のあの並外れたハンター能力、瞬発力、集中力が風とともに蘇り、狙われたら絶対に逃れられない!そんな鷹から鳩を助けようとするブッダが無謀だと思ってしまいました。どうしてそんな無謀なことできたのか?どうして自分の肉体を切るなんて痛いことできたのか?私には絶対にできない、できない、したいけどできない、と思えば思うほど、「どうしてブッダにはできたのか?」とそこから離れられなくなっていました。

瞑想とは言えないかもしれませんが、それでもその場面をじっと見ているうちに、ブッダが鳩のことも鷹のことも全く同じに見ているその感じが伝わってきて、ブッダは鳩だけを救おうとしたのじゃない、ブッダは鳩も鷹もみんなを救うことしか考えてなくて、お腹を空かせている鷹に、即座に食べ物をあげられる瞬時の判断がそれだった、と思いました。どうすれば目の前のすべての尊い命が助かるのか、それだけに集中されている、だから自分の太ももを切るのが痛いとか怖いとか、そんなこと一切見てない、目的だけに狙いを定めて一点集中されている、だから犠牲という思いすらない、だからそんなことができた、ブッダの中の凄まじい集中感を感じた気がしました。まるで師だと思いました。

ブッダについて考えていたはずがブッダは師のお姿に変わり、師、ブッダ、鷹、それぞれの途切れない集中感に圧倒されました。ブッダは太ももの肉を切って鳩と鷹を助けたけれど、師は目には見えないだけで全く同じようにご自身の身を削り命あるものを救済されている、師の決して途切れることのない集中によって私たちはどれほど命を生かされているだろうかと、そんな思いでいっぱいになりました。 自分の志、人生の目的、その対象への途切れない集中だけが、不可能と思えることも可能にしてくれる。信仰心も、対象への集中が途切れない状態のことだと思いました。集中が途切れた途端、恐怖や不安や余計なものに惑わされる。

的を射るには、的だけを見なければいけない」と師が仰ったことがあります。自分は何に集中して、何に突き動かされて、何のために行為するのか?
あの鷹のように真実への一点集中で生きていきたいと思いました。ブッダと鷹が教えてくれたことでした。  

神の化身・・・

神の化身・・・

野口美香 


タパスによって無知をなくす

以前陶芸をしていた頃、作品を乾燥させる過程でひび割れたり、成形に納得がいかなかったりすると、乾き切っていない作品を水に浸してこねて、作り直したことが何度もあります。失敗してもまた作り直せれることが嬉しくて、今度こそイメージ通りのものを作ろうと取り組んでいました。

そんな経験があったからか、ある日、コタムリトのこの一説に惹きつけられました。

乾いたツボが壊れたのは、職人は皆捨ててしまう。だが、湿り気のあるツボが壊れても、捨てないでまた小屋の中に持っていってもう少し水をくれてこね直す。そして新しくツボをつくる。捨てないんだよ。だから——と、ケーシャブに言ったんだよ。水気のあるうちは解放されないとね。つまり、智識を完全に体得したか、神に対面したか、そうしない間は何度でも新しくツボに作り直される。くり返し、くり返し、この物質世界に戻ってこなくてはならない。これはもう逃れようのないことなんだ。あの御方をつかめば、自由解脱してツボ焼き職人に捨てられて、二度とマーヤーの創造に巻き込まれなくともよくなるんだ。

『コタムリト』第4巻より引用

 

 陶芸においては水気があることで作り直せるのを嬉しく感じていたけれど、この世においては少しの水気でも残っていたら何度でも死と再生を繰り返しマーヤー(幻影)の世界から抜けられなくなる…これは全く嬉しくありません。
この水気というのはエゴや無知など、純粋ではないもののことを指しているのだと思います。
一切の水気がなくなるというのは、エゴや無知が一切なくなること。

水気をなくすためには熱が必要です。
その熱(タパス)は、その問題に真剣に向き合い実践することによって生じ、私たちの心を浄化してくれます。

まずは自分のこと、心 と向き合うこと、そして、悩みや苦しみは真理ではないと気付くことから始まるかもしれませんが、気付けて良かった、と安心していては何も変わりません。真理でないものを完全に放棄しない限り、水気はなくならず、また新しいツボに作り直されてしまいます。
それにはとにかく識別が必要です。識別はエゴや無知との戦いです。かなり手強い相手に立ち向かうので、時に大きな苦しみも生じますが、その過程も全てタパスとなります。失敗しても挑み続けることは決して無謀なことではないし、無駄なことにもなりません。見つけた問題点に対し、常に真理を突き合わせて識別していく。真剣であればあるほどタパスは大きくなり、その熱もさらに高まっていきます。
タパスによって生じた熱で焼かれると、水気は完全に蒸発してなくなり、二度と作り直されることのないツボとして完成する。

タパスという熱でエゴと無知をカラカラに乾かし切り、真理だけを掴んでいきたいです。

多摩川上流の橋の上からの眺め。
戻り梅雨の後の、久しぶりの晴天。湿っていた地面が一気に乾いていくような日差しを感じました。

ハルシャニー 


目の前の人の中に神様を見る

「純粋な信仰とは、神に奉仕すること。自らを神に捧げること」

数年前に初めて師であるヨギさんからこのお言葉を聞いた時、そこから感じる真っすぐで力強い愛にとても惹かれたのと同時に、「自分には無理だ」と感じました。でももしそれを実現できたらきっと本当の幸せに出会えるように思えて、どうしたらできるようになっていけるのかを考え始めました。そして実現していくための実践として、「目の前の人の中に神様を見ること」に取り組み始めました。

取り組み始めてすぐにいくつもの人間関係が好転し、生活全体の中に愛と喜びを感じる瞬間が増えました。ただ、優しい性格の方に神様を見ることは問題なくできても、攻撃的な性格の方に神様を見るのはとても難しく、頭では「全てのものの中に神様はいる」と分かっていても全然それを感じ取ることができない自分に疲れたりしました。

そんな中、(私は介護の仕事をしているのですが)あるご年配の方に対して、その方の中に神様を見続けるということがだんだんとぶれなくなっていきました。その方は喜怒哀楽が激しく、時にはヘルパーに八つ当たりをするし、身体的ケアがたくさん必要なので大変な力仕事なのですが、たとえ八つ当たりされても自分の体がきつくても、そこには変わらず愛と平安があります。その方の中にいる神様が物理的な困難に動かされない愛を与えてくださいます。

奉仕に取り組む時に、いつもお守りにしている師のお言葉があります。

「一つの笑顔でもいい、優しい言葉でもいい。苦しんでいる人、悲しんでいる人に彼らの喜ぶことを行ないなさい」

目の前の人の中に神様を見て、師の教えだけを頼りに、今の自分ができることを一つ一つやり続けていこうと固く決心します。

毎朝、神様(シヴァ神)に「今日1日正しく奉仕できますように導いてください」とお祈りしています。

船勢


真実の旅

あじさい ピンク

明るい陽の光

「あ!アジサイ」
楽しみに待っていた紫陽花をバスの車内から一輪、見つけ、一瞬にして紫陽花の花が胸いっぱいに広がりました。美しいものを見た瞬間、それだけになる気がします。特に自然のお花などは、無垢で純粋なそのものが、丸裸で存在しているように感じて反射的にハッとします。一体私は何にこんなに感動しているのだろう?と思うことがありますが、ヨーガでは、何かに魅せられたり惹きつけられたりする時はアートマン(真の自己、真我)に惹きつけられている、本当の魅力の持ち主はアートマンだけ、と学びました。私たちの本性がそれであり、無垢で純粋なるものだから、それに共鳴していると。

そういえば最近、ひょんなことから出会ったある女性が、マハーヨーギー・ミッションに関する創造物すべてに美を感じる、と仰いました。「神は美」という教えの言葉が浮かび、あぁこの方は神に惹きつけられておられるんだなぁ・・・と思いました。私も初めてマハーヨーギー・ミッションを知った時、しんと静まり返った世界観に美を見たからです。自然のお花などとは違って、人が作ったものにはその人の思いが注入されると思いますが、もし、その作り手にエゴ(利己的な我)がなければ、その人は神の道具となり、出来上がったものには本来の作り手である神、宇宙の創造主の完全なる美だけがあるのかもしれません。私たちは創造物を通して、その根源の光、存在をダイレクトに感じているのだと思いました。

あじさい

梅雨の晴れ間

そんな出会いがあった翌日、目を覚ますと一曲のキールタンが頭の中で鳴り始めました。特別その曲が好きなわけでもなく、昨日その人と歌ったわけでもなく、思い当たるふしがなく不思議に思い、ミッションのYouTubeにその曲がアップされているか調べました。その曲があり、説明欄にこう書かれていました。
「シヴァの街と呼ばれ、かのシュリー・ラーマクリシュナが黄金で出来ている街と表現したインドの聖地ヴァナラシ(カーシー)。
何万人もの人が巡礼に訪れるその地には、現代においても神の中に生きる人々の信仰心で満ち満ちている。
神を愛し、神を讃える喜び溢れるまさに歓喜のキールタン『Hara Hara Mahadeva』」

・・シヴァ神の祝福?! その人はシヴァが大好きな人だったからです。映像をスタートさせると、たちまちその人も皆も共に巡礼をしているイメージに包まれました、そしてそれは神の手の中でした。生き生きと人生を謳歌するような皆の姿から、生きることの意味を感性によって知らされた気がしました。ちょうど最近の瞑想専科クラスで聞いた師の教え「――本当は楽しむために生まれて来た」それが、溢れんばかりに。
そのキールタン映像もまた根源の煌めきを放っているようでした。まるで歓喜の巡礼さながらの皆の姿や神的な映像を見つめていると、師に初めてお会いした時、人との縁やつながりについて教わったお言葉を思いました。

師「心の領域も超えた、魂の領域というような、一番自分の核になっているところで見れば、おしなべて皆同等の関係であって、特別に関係が深まるというのは、その魂の目覚めをもたらすところのヨーガの仲間であるとかね、それは何生涯にも渡る深い家族関係のようにも形容されることがある。
皆、魂の旅を続けている。それぞれが経験をして、いろんなことを味わいながらその最終的な自由に目覚めるまで旅をしているのかもしれない
私「終わりはないんですか」
師「その終わりは悟りと言われている。本当の自由とか、本当の自分に目覚めるとき、その時に旅が終わると言われている――例外なくね。だから魂の旅人としては、同じ旅人同士

ヨーガをしている人もしていない人も、信仰する神様や宗教が違う人も、性別、年齢、人種関係なく、みんな魂としての最終目的地は同じ、同じ旅人同士。本当の自由、本当の自分に目覚めるための今回の旅。
旅路途中で出会う様々な人、ものを通して、私たちは楽しむために生まれてきたこと、世界は美しいに違いないこと、その真実を互いに交換し合っているような気がします。それぞれに役割があり、それぞれが真剣に生きていると思います。

Hara Hara Mahadeva』を最後まで観終え、今、聞こえてくるこの様々な音も、この見えるものすべても、シヴァ(宇宙の主)ご自身、自らが奏でて、創り出してくださっていると実感しました。すべての万物はその大いなる恩寵の中で、旅を進めさせてもらっているに違いありません。

ヨーガの守護神シヴァのご加護の下、それぞれの現在地から正しい目的地に向かって、ともに歩みを進めていくことができますように。時には気が急くこともありますが・・・「急がば回れ、コツコツと丁寧に歩んで行きましょう!」と先輩から頂いた応援メッセージとともに。

京都タワー

一人では迷いそうな大海原でも、光があれば大丈夫!

野口美香 


熱心に真理を求めて識別瞑想する

5月から「瞑想専科実践編 シュリーマハーヨーギーの教えと生き様に学ぶ」が始まりました。

師にお会いできない月日が重なる中で、グルバイとともに師の教えに触れられる貴重な機会となっています。

先日のテーマは「真実の存在と識別瞑想」。
講座の中で、ヨーガダンダさんご自身の識別瞑想の体験談を話されました。
ある出来事により、苦手な人の顔が何をしていても胸に張り付いたように離れなくなり、アーサナを必死でしてもなくならず、瞑想の中でもその人の顔が浮かび上がってくる状況だったそうです。それでも瞑想の対象に集中し続けていたら、突然直観が訪れ、その苦手な人も自分も本質的には同じ存在だと分かり、瞑想の対象から光がやってきて、苦手な人の顔が消えていったということでした。その後その人に対する苦手意識はなくなり、ぶつかることもなくなったそうです。常日頃からできるだけ心を乱したくない、瞑想に没頭したいという思いが強かったからこそ、その人のことが気になるようになり、真実への思いが強くあったからこそ、その障害となるものを見つけられて、心の奥底からの戦いになっていった、とも話されていました。

私はその話を何度か聞いたことがあったのですが、お話の内容だけでなく語り口が軽妙なので、いつも楽しさを感じながら、自分もそんな風に苦手な人のことが一切気にならないようになったらいいなと憧れていました。
しかし、今回はこれまでと異なる気持ちになりました。
何度か識別に取り組みそれなりに結果を得られたことはありましたが、ヨーガダンダさんのお話を改めて聞いたことで、心の表面的な部分でしかできていなかったことに気付きました。心の奥底までしっかりと潜るには、何度でも諦めずに実践するのみです。いつか、ではなく今この瞬間に。

実践するほどに難しさを感じてしまい、時折挫けそうになることもありますが、
先輩グルバイの大きな背中を見せて頂けたことで、しっかりとやる気スイッチを押してもらえました。
もっともっと熱心に真実だけを求めていきたいです。

講座の中で紹介された、講師のヨーガダンダさんが描かれたイラスト。

心は湖面に、真実は月に例えられます。
湖面のさざなみが静まれば、月ははっきりと映し出され、同じように輝きます。
心が静まれば真実のみが輝き出します。

 

ハルシャニー