
今年の正月花はいろいろな種類の菊を選びました。
季節を問わず見かける菊ですが、冬の菊からは凛とした強さを感じます。
ハルシャニー
今年の正月花はいろいろな種類の菊を選びました。
季節を問わず見かける菊ですが、冬の菊からは凛とした強さを感じます。
ハルシャニー
”わたしは、自分が特別な資質を持っているとは思いません。
わたしはこの仕事に対して、何も要求していません。
これは神のみ業なのです。
わたしは、ただ神の手の中の小さな鉛筆に過ぎません、
ほんとうに、ただそれだけです。
神がお考えになります。
神がお書きになります。わたしという鉛筆は、それに対して何もすることはありません。
鉛筆は、だた使っていただくことを、
許されているだけなのですから。”
※『マザー・テレサ 日々のことば』 女子パウロ会
私は以前からこの言葉が好きで、一切の私というものをなくして、神の手の中の小さな鉛筆になりたい、小さな道具として神に使って頂けるようになりたいと思っていました。しかし、マザー・テレサがどのような思いでこの言葉をおっしゃったのかを、きちんと考えたことがありませんでした。
今回、改めて考えてみると、マザー・テレサがおっしゃる、”小さな”とは、謙虚さを表しており、”ただ神の手の中の小さな鉛筆に過ぎません、ほんとうにただそれだけです” という境地には、謙虚さを徹底することが必須なのではないか、と感じました。
その上で、いついかなる時も神に全てを委ねる、覚悟を決めること。
そこには自分の思いなど微塵もない。
ただの道具として神に使って頂くというのは、あらゆる局面で、神に完全に自分を明け渡して委ね続けるということなのではないかと思いました。
この信念のもと、強い覚悟がなければ、使って頂ける道具にはなれない。
では、マザー・テレサはどれほどの覚悟を持ってただ使われる鉛筆になったのか。
今の私にはその大きさ、強さは計り知れないものに感じられます。
ただ、マザー・テレサに憧れる思いはこれまで以上に大きくなりました。もっともっと近づいていきたいと思いました。
苦しんでいる人がいたら手を差し伸べ寄り添う。お腹を空かせている人には食べ物を、愛に飢えている人には愛を与える。
マザー・テレサが目の前の人々に行為され続けたように、私も目の前にいる人に対して一つでも行為し続けていきたいと思います。
*写真:一時期、事あるごとに眺めていた写真です
ハルシャニー
キールタンの中に、Bhajamana Ma(バジャマナ・マー)という曲があります。
おお 心よ 母を讃えよ
母よ 母よ 母よ 母よ
歓喜に溢れる母よ 至福に満ちている母よ
至福の姿をとられた母よ
この曲を歌っていたある時、ラーマクリシュナはマーのことをこの曲のように思われていたのではないかなと思うことがありました。そして、今はこの曲を歌うと、自然とサーラダ・デーヴィーのことを思います。
バクティ・サンガムでサーラダ・デーヴィーのことを教えていただいてから、その存在にとても惹かれ、二冊の書籍を購入しました。ラーマクリシュナの聖なる妻であられたサーラダ・デーヴィーは、師の弟子や信者から愛情と尊敬を込めてホーリー・マザー(聖母)と呼ばれておられました。私も密かに「マザー」とお呼びしています。そして、ラーマクリシュナご自身もサーラダ・デーヴィーの汚れのない純粋さを確信され、聖なる母として正式に礼拝を捧げられたことも記されていました。
マザーがどれほど強い信仰をお持ちだったか。どれほど深く大きな愛をお持ちだったか。私には到底計り知ることはできません。けれど、私はマザーにとても憧れます。ラーマクリシュナもお認めになられたような存在でありながら、マザーは生涯変わらず慎ましやかであられました。ラーマクリシュナの男性の弟子が増えてお側に仕えるようになった頃、彼らの前に出られないほどはにかみ屋で控え目であられたマザーは、ニ、三十メートル程のところにお住まいになりながら、ラーマクリシュナにお会いできない日が時には二カ月も続きました。マザーはラーマクリシュナにお会いしたい気持ちを堪え、ポーチの仕切りの小さな穴の後ろにたたずみ、ラーマクリシュナの歌声に耳を澄ませられました。そうして何時間も立ちっぱなしになられたためにリューマチを患われたこともありました。
また、ラーマクリシュナを愛し、常に拠り所にしておられました。どのような状況にあっても師の教えに誠実であられました。そしてマザーは教えてくださっています。
”平安を望むのなら、誰の欠点も探らないことです。
自分の欠点を調べなさい。
世界を自分のものとすることを身に付けなさい。
子供よ、誰ひとり他人はいません。
全世界があなたのものです”
日常でその教えを思い起こすと私の中の高慢な思いはすぐさま力を失います。ヨギさんは、マザーのことを「泥池に咲く蓮の花のような人」とおっしゃったそうです。
今いる場所で、マザーを見倣い、熱心に実践を続けたいと思います。
いつでもマザーを思うことができますように。
携帯の待ち受け画面もマザーのお写真にしています。
藤原里美
私は今の職場に勤めだして三年目になりますが、忙しさといい人間関係といい、今までに経験がないような過酷な環境に感じました。
働き始めてすぐの頃、ヨギさんが特別サットサンガで松山にきてくださいました。私は、仕事の辛さをご相談させていただいたのですが、ヨギさんはなぜか満面の笑みで「頑張ってね!」とおっしゃいました。こんなに辛いのに、なぜヨギさんは笑顔で頑張れとおっしゃるんだろう?と思いましたが、きっとこれは仕事を通してヨ―ガの実践の場を与えてくださったのだ!と思うようになり、そこからは何が何でも頑張ろう!と心に決めました。
それから今もずっと心がけていることは、全ての人の本質は神であると信じること、目の前で何が起きても、現象だから執らわれないこと、自分は神の道具なのだから、一切の自己主張(エゴ主張)は捨てて、役割に徹すること、どんな仕事も神に捧げる物として誠実にベストを尽くすこと。と、目標は立派なのですが、失敗ばかりです。
でも、失敗しても失敗してもトライし続けていたら、どんどん目の前の景色が変わっていって、小言ばかり言う先輩だと思っていた人がフォローしてくれたり、誰とも挨拶を交わさないと思っていた人が挨拶を返してくれたり、怒った顔しか見なかった人が微笑んでくれたり、あれ?こんなんだったっけ?と思うことが増えていきました。やはり全ては現象なんだなぁ!と実感しています。
今も、毎朝起きたらヨギさんのお写真にお祈りをしてから家を出て、自転車を漕ぎながら「全ては神の表れ、私の命も神様に生かされている。神様の思し召しだけがある。どうかヨギさんの教えを生きる弟子であれますように」と、唱え続けています。
ヨギさんが灯してくださる光に向かって、一歩一歩、歩んでいきたいです。
通勤途中の松山城のお堀にいる白鳥です。
白鳥を見てはヨギさんを思っています。
小野稚小(おのちさ)
師の教えが書かれた「ヨーガの福音」を通勤電車で読んでいました。プラティヤーハーラについて書かれていました。一心に読み進めてふと目を車窓に向けると見慣れない風景が。電車、乗り過ごしていました。車内では確かに駅名がアナウンスされ、私の耳はそれを捕らえていたはずです。しかしその情報は意識に伝わりませんでした。好きなことに夢中になって他のことが目や耳に入らないのはよく経験することですが、これはプラティヤーハーラなのかと疑問がわきました。
五つの感覚器官がすべて外向きに付いていて、
心は常に外部の影響を受けてしまいます。
したがってプラティヤーハーラでは、
ちょうど亀が頭や手足を引っ込めるように、
五つの感覚器官と心を引き込め、制御します。
(シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ)
耳・皮膚・目・舌・鼻などの感覚器官が引き寄せた音・触感・見たもの・味・匂いなどに、心が反応しないように制御する。とらえどころのない「心」の働きを、このように機械的に分解していくヨーガの教えが私はとても好きです。様々な感情に心揺れる時に、「これは感官が捕らえた情報に心が飛びついているだけだ」と思うと気持ちが少し楽になるからです。
私は仕事から帰宅すると夕食前にアーサナをすることに決めています。でもいつもより疲れて帰宅し台所から好みの献立の匂いがすると、心は夕食の方に引き寄せられていきます。聖典の一冊読了に取組んでいても、面白そうな単行本の広告に目移りします。家の隣のコインパーキングで車のエンジン音が続くと「苦情をいうべきか」と心拍数が上がります。職場で職員が深刻そうに電話をしていると、過去のトラブル対応が蘇り不安な気持ちになります。
五感覚器官と意(マナス)は全く無防備で、
いとも簡単に対象に引き寄せられます。
プラティヤーハーラとは「諸感官をその対象から引き戻す」ことであり、
いわば酒飲みが酒に飲まれるがごとく、
感官に服従し対象に隷属化する心を、反対に心が主導権を握り、
感官を支配する構図に切り替える作業です。
(シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ)
私の心は嬉々として餌に飛びつくカエルみたいだ。どうしたら師が教えて下さっているように心が主導権を握ることができるのだろう。師の教えをあてがって考えてみると、心が動く時は必ず過去の経験や記憶に基づいた対象への執着や嫌悪があることが分かりました。心に刻み込まれた様々な印象をヨーガの修行を通して焼き尽くしてしまいたい。でも怒ったり、笑ったり、泣いたり、人生悲喜こもごも。それが人間らしさではないのかな。師はその疑問にも答えを下さいました。
(夏の安曇野で見つけたカエル。ぴょんと飛びついてきました)
「感情がなければ人間ではない」という考え方こそが無知です。
感情というものは心の煩悩から出てくるものです。
修行が深まれば感情は大きな慈悲となります。
それはもはや個人的感情とは呼びません。
そのエゴ的な感情を普遍的な感情にしてください。
(シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ)
移ろいやすい感情を揺るぎない神の愛に昇華させるために、「神が愛である」ことを素直に受け入れ、人生をかけてそれと一体になることだけを求めていきたい。いつどこにいようとも師が無私の愛で私たちを包んでくださっているように、私も献身奉仕のために命を用いることができますように。
(代々木クラスの後に明治神宮に行ってみました。
揺るがぬ心で真っ直ぐに歩んでいけますように)
小菅貴仁
クリスマスが近づき、街に流れるラブソング。あなた、君、あの人・・・そんなフレーズに、神なる存在を重ねては、無性に感動します。ヨーガの話から少し逸れますが、昔、名前のない空を見上げて、という歌をよく聞いていた時、名前に含まれている力に気付きました。
♪
もしも明日に迷った時は君の名を呼びたい・・・
名前のない星を見つけて 君の名をつけたい 愛しさとともに
まぶた閉じて眠るときまで君の名を呼びたい
Yes, I always call your name, your beautiful name.
「あなたの美しい名前を呼びたい」という思い、大切な人の名前を呼ぶ、たったそれだけのことが、どれほど心を揺さぶり、奥深くに浸透し、また一瞬で人の心を変えるか。そういうことを感じる歌でした。私の小さな愛でも、思う対象によっては、心の様子や色合いが変わることを体感してきましたが、心の力は強大だからこそ、普遍的な大きな愛や慈悲という正しい力へ昇華できるとヨーガが教えてくれました。
『ラーマクリシュナの福音』の中で、ラーマクリシュナが、インドのラーマーヤナという物語に出てくるハヌマーン(猿の神様)の信念について話される場面があります。ハヌマーンが、自分の愛するラーマ神のために命を懸けて海を飛び越えようとする時のこと。ハヌマーンの信念はこうでした、「私はラーマの召使、私はラーマの聖き御名を唱えた。私にできないことなどがあろうか」
ラーマクリシュナは、ハヌマーンが海を飛び越えたのは心の力だった、とおっしゃっています。
私はハヌマーンのこの信念に感動しました。なぜなら私は、自分には全く自信がない、と内心は打ちのめされていたことがあったのですが、でもだからこそ、私の信じる神だけが頼りであり、私を動かしてくださるのはその神なのだと思うようになっていたからです。自分を信じる力の源は、この自分を信じるという思いではなく、神を信じる思いから来ていると確信し、ハヌマーンの心情と重なりました。信仰心、それは心の力を最大限に正しく発揮できる唯一のこと、と思いました。
そんな心境になったのは、クラスで「神の御名」について、よく耳にするようになったからでした。「神の御名を唱える」と聞くと、崇高な別世界の境地に感じ、自分にはまだ関係のない修行法だと実は長らく思ってきました。そんななか具体的な実践を聞きました。例えば朝起きた時から心の中で唱えだす、ごはんの時には忘れていることが多いけれど気付いてまた唱えだすなど。何気ないリアルな声に触れたことで、敷居がぐんと下がって、日常に根付いた身近なものなんだとイメージが一変しました。聞くにつれ、自分のイメージは間違っていたのかもと思えてきて、素直にやってみたくなりました。以前から神へ思いを寄せていましたが、具体的に名前を唱えたことはなかったので、意識して名前を心の中で唱えました。するとそれは、大切な存在と直通できるような、人間ならではのごく自然の思いの寄せ方なんだと気付きました。聖典の中だけの話ではない、現代の私たちにも普通にできることでした。
そんなある日、クラスで聖者・覚者の名前についての師の教えが紹介されました。
「現代においても名前が知られているということは、その方の生き方なり、あるいは教えなり、何らかのエピソードを残しているはずです。単なる名前だけで、その中身がないというのはあり得ないと思いますので、名前を唱える、あるいは名前を思うことだけで、その覚者の内容である悟りや教えはそこに含まれます。だから、名前だけでもかまいません」
私はとても納得し、完全に神の御名を信頼しました。名前を思うだけで、同時にその本体である印象や凝縮された人格のようなものが生き生きと現れ、一気に自分が染め上げられるように感じていたからです。名前というしっかりした一つの言葉があるおかげか、私の心のスペースを神の存在が埋め尽くし、他のことを考える心のスペースがなくなりました。超満員電車の中で神の御名を唱えると、そこは私と神だけの一対一の空間になり、仕事の合間のわずかな一瞬に唱えると、神は私が名前を呼んでも呼ばなくても実はずっと側におられることに気付き安心感を覚えました。
いつでもどこでも神の名前を呼べば、直通でアクセスできる秘密の通路のようでした。それは恋愛で相手の名前を思うのとは少し違いました。会えない時間に恋愛で人間の相手のことを思う時には、思いがすぐさま相手へ届かない一方通行の感覚があり、そこから私は思いの妄想の世界に入ってしまいがちでした。でも相手が神なる存在の場合には一方通行や妄想になることがありませんでした。神は私を一人にして妄想の世界にいかせるようなことはされず、私を放っておかれることはなく、ずっと私の囁き一つ一つを一つも残さずぜんぶ受け止めてくださっていることを感じたからです。
いちばん近くの存在、最も自分に直結する源、絶対の安心。その安心に気付いてから、すべてのことはあなたの御心のままに、という心境に自然と導かれました。冒頭の歌詞のように、もしも明日に迷う時は君の名を・・・神の名前を、私は呼びました。神が私を動かしてくださっているのなら、私が迷う必要はないからです。私のしたいことは、あなたの御心が成就されることでした。もし、それが私にとっては失敗だとしても、真理から見れば失敗ではありません。
「神の御名は神そのもの」と学んできた言葉が、どうやら本当なのかもしれないと現実味を帯びてきます。名前を思う、その行為によって、思いがどんどん風船みたいに大きく膨らんでいきます。小さかった風船を、慈悲深い神ご自身がいっぱいに満たしてくださっているように感じるのです。私がどんな状態であっても、風船は大きく膨らんでいき、膨らまないことがありません。
そしてその風船が満ち満ちて、いつかはじけて、私という感じも、神という感じもなくなり、あなたの名前だけが残る。それはなんて甘美なことでしょうか。
なぜあなたはこんなに美しい姿なのでしょう?
野口美香
オンラインのおかげで世界各地のグルバイと共にジャヤンティーに参加することができて、本当に嬉しいです。台湾はこの日は国民の休日ではありませんでしたが、それぞれの自宅からのオンライン参加も含めて20名が参加しました。本当はみんなで集まりたかったのですが、感染拡大防止のため、必要なスタッフだけがアーナンダ・アーシュラマに集いました。
当日は、アーナンダ・アーシュラマのリビングを二つの空間に分けました。一つは観覧区。プロジェクターを使って、はっきりとした画面で祝祭を拝見しました。
もう一つはスタジオ区。パソコン、マイク、ライトなどをセッティングしました。
背景に飾った綺麗なお花は、グルバイのマークが生けてくれました。
今回、初めて同時通訳に挑戦しました。別の通信アプリで台湾のグルバイと繋がり、式の進展に伴って、その内容を台湾語でみんなに届ける。祝辞者一人一人の深い信仰と強い宣言は、みんなの心に響きました。グルバイたちの祝辞、各地の活動紹介、歌の内容を同時に理解することができるので、同じタイミングで共に笑い、涙を流し、感動を分かち合えて、台湾のグルバイたちみんなは大喜びでした!!
(皆、真剣に聞いている様子)
(通訳を務めるプリヤー/左とマールラー/右)
でも、やっぱり一番嬉しかったのは、ヨギさんにお会いできたことです!!!!! ヨギさんは画面を超えて、私たち一人一人にダルシャンを与えてくださったように感じました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
純粋な歓喜に溢れるジャヤンティーが終わって、1時間の休憩に入りました。
(メニューはインドカレー、酢漬けトマト、しめじの炒めものとサラダです)
1時間後、台湾グルバイたちはもう一度繋がります。それぞれの感想を語り、感動と喜びを分かち合いました。祝辞の内容に励まされた、勇気をもらった、やっぱりジャヤンティーは最高、ジャヤンティーが開催されることや、ヨギさんの存在に感謝するというみんなからの声が聞かれました。
また、台湾グルバイたちと一緒に、新しくできたMYM台湾のウェブサイトを見ました。
私たちの心の中に真理の火を灯してくださったのは、ヨギさんです。
ヨーガ行者のあるべき姿、仕事に対する姿勢や他者に接する態度などなど、すべてを教えてくださったのは、ヨギさんです。
どんな言葉でも表現できないほど、本当にヨギさんに感謝しています。
ヨギさんからいただいたこの真理の火を、さらに多くの人に届けられるよう、頑張っていきたいです!!
MYM台湾
11月23日(祝・火)、サットグル・ジャヤンティー(師の御聖誕祭)が開催されました。
ニューヨーク、台湾、日本各地から100名を超える弟子たちが、師、シュリー・マハーヨーギーの祝福の下、オンラインにて集いました。
私たちは、久しぶりに拝見する最愛の師のお姿に歓喜し、仲間たちの言葉や笑顔から溢れ出る師への思い、ほとばしる情熱に心を大きく揺さぶられました。
師への感謝を込め、オンラインならではの国や地域の特色が表れた豊かなコンテンツが次々と配信されました。祝辞やメッセージからは、師の存在を拠り所に一層信仰を深め、真実の実現、自らの理想へと邁進する姿が伝わってきました。そしてそこには、どんな状況においても絶え間ない師の導きと恩寵があることが感じられました。
あっという間に祝福と歓びに満ちた時間は過ぎ去りました。
祝祭の終盤、奉納されたのは、グルへの讃歌「マハーヨーギー・ストートラム」の合唱動画。画面いっぱいに弟子たちが映し出されたシーンは、みんなの師への思いが結晶化したようでした。
最後に師からお言葉を頂きました。
「たくさんの力強くも美しい誓願を聞くことができて、とてもうれしく思います。
この1、2年の困難な状況にもかかわらず、皆さまが元気にヨーガを深めておられることを聞いて、とても喜んでいます。
近い日にまた直接皆さんのお顔を見ることができますように、願っています」
終了後、待ち焦がれていた師のお姿に拝した感動とともに、この日が励みとなり、さらにヨーガ成就へと歩みを進める新たな決意ができたなど、感謝と喜びの声がたくさん届いています。
*献上された祝辞についてはWeb版パラマハンサにて配信する予定です。
楽しみにお待ちください。
マハーヨーギー・ミッション
今年も敬愛する師の御聖誕日がすぐそこに近づいてきました。
昨年に続きオンライン開催となりますが、それぞれの場所で歓びを感じながらその日を待ち望んでいるグルバイ(兄弟姉妹弟子)の姿が目に浮かぶようです。
この時期になると、私はいつも御聖誕祭の様子が書かれたパラマハンサを読み返します。
どの祝辞も一人一人の師への想いと、真理への道を歩む決意に溢れていて、胸が熱くなります。
私は2009年の御聖誕祭に初めて参加したのですが、当時はまだそれがどういうものなのかよく分からず、次々と述べられる祝辞に、ただただ圧倒されました。目の前におられる師は時にこの上なく優しい微笑みをたたえられ、時に大笑いをされ、温かい眼差しを皆に向けられていました。
師のお顔も、皆の顔も、キラキラと歓びで輝いていました。
最後に祝辞をされた先輩グルバイが、祝辞の中で詩を捧げられました。
”この目はヨギを見るためだけにあり、この鼻はヨギの香りを楽しむためだけにあり、
この耳はヨギの声を聞くためだけにあり、この口はヨギの御名を唱えるためだけにあり、
この手はヨギに礼拝するためだけにあり、
そしてこのハートはヨギの尊い御足の気高い塵をいただくためだけにある。
この命はヨギによって光り輝く…
ヨギだけが在る。
一切はマハーヨーギーなり。”
この詩を聞いた時、私もそうなりたい!!と強烈な憧れが胸の奥から一気に溢れ出ました。
涙が止まらなくて、胸がいっぱいになり過ぎて、初めての感覚にどうして良いか分からなくなりました。今も折に触れてこの詩を思い出し、早くこの境地に至りたいと強く願います。
先輩グルバイの祝辞が掲載されているパラマハンサ。
”真実を悟るということ、私と不異(おなじ)に成るということを覚悟してください。それによって全ての物事は、できる限り運んでいくことになると思います。”
先日、臨時配信されたWebパラマハンサの中の師のお言葉に、身の引き締まる思いがしました。
これから自分が向かう先にある目標が、計り知れない偉大なものであること。そのあまりの尊さに、果たして自分にそれができるのか?という思いが顔を出します。
しかし、容易に到達できるものではないとしても、困難にぶつかったとしても、いつか果たせる目標であると信じ、真っ直ぐにヨーガの道を進むことが大切なのではないかと思っています。
私の体の全ての器官が師のためだけに機能しますように。私のハートが常に師の存在で満たされ続けますように。生きる意味を教えてくださった師のために、この命のある限り、師に倣い愛を持って他者に行為し続けられますように。
山梨県の栖雲寺(せいうんじ)にある大きなモミジの木。
木の真下にいると、モミジの葉を通した暖かい色の光が差し込んできて、
師の大きな愛に包まれているような気持ちになりました。
ハルシャニー
久しぶりに会えた7歳の姪っ子と、簡単なフラワーアレンジメントの会に参加しました。早くお花を触りたい姪っ子は、先生の説明に集中できないようでした。勝手にやろうとするので、私はヨーガの『お花を生ける会』で昔に先輩から教わったことを伝えました。
私 「お花にもお顔の正面があるねんて。私たちも正面からのいちばんいいお顔を見てほしいやん?お花がどの角度から見たら正面のいいお顔かを探してあげて、いいお顔が見えるように立ててあげよ」
姪っ子の顔は半分以上マスクに覆われていましたが、そこからのぞく濁りのない瞳は真剣そのものでした。
姪っ子 「わかった!」
そして直ぐさまお花を一本ずつクルクル回しだし、正面を探して、あっという間に生けてしまいました。子供は迷いがないようです(笑)。
私 「テーマとかあるの?」
姪っ子 「お花畑!」
無為自然な感じでお花も伸び伸びと嬉しそうです。作品として綺麗に見せたいという意図が全く無いからか、単純にただお花の正面探しだけに夢中だったからなのか?? 意図が無いほうがそのものが生きる、という真理を、姪っ子を通して教わった気がしました。そして、先輩からのヨーガの教えは、こんな小さな子にもバッチリ分かる真理なんだと感動しました。師が、「真理とは難しいものではなく、小学生にも分かるようなもので、またそうでなければそれはおかしいからね」と最初にお会いした時、教えてくださったことをふと思い出しました。
同じく先輩から料理の時、こう教わりました。
「まな板で野菜を切っている時、ちょっと別のことを考えていたりすると手を切ることがあるでしょう。やっぱり正面から真っ直ぐ見ていないとね」
何気ない言葉ですが、この真理の言葉を私はよく思います。
また、師がニューヨークミッションにご滞在中、そのお部屋を掃除する機会を昔いただきました。トゥリヤーナンダの本にも載っている「物を正しい場所に置く」ことについて意識しました。彼の師であるラーマクリシュナは、「どんな物でも、それのあるべき場所に置かなければいけないのだよ」と教えられたそうです。だから私は、師がその場所に置かれている物は必ず元あった場所に戻さなければ!とガチガチに気を張り、掃除をしました。
暖房器具の上に、観葉植物が置かれていました。掃除のためにその植物を移動させ、掃除した後、注意深く元あった位置に戻しました。しばらくして師が音もなくスッと立ち上がられ、植物をわずかに動かされました。しまった!!と思い、即座に師に謝りました。位置が少しズレていたと思いました。スラっとした佇まいの長身の師はこちらを振り返り、優しく葉っぱに触れられながら微笑まれて穏やかにおっしゃいました。
「ううん~、違うねん、植物に暖かい空気があたったらかわいそうだしねぇ~」
優しさに胸がギュッとなり、と同時にラーマクリシュナの教えの真意をも教わったようでした。植物は生き物。私は本質的な大切なところを見られていませんでした。師のあたたかい背中から学んだ忘れられない出来事です。
ものごとを真正面から見れたら、そのものを生かし、大切に扱うことができるのかもしれません。それは物をあるべきところに置くことにも繋がる気がします。子供のような曇りのないピュアな目で、素直に見たいものです。
今、自宅の観葉植物を見ていると、師が優しい手で植物をそっと動かされた印象が蘇ります。師や先輩のように、万物を大切に扱える人に憧れます。植物も人間もみんな同じだからです。
畑の一角の小さなお花畑
野口美香