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みずみずしい真理の教え

私の住む丹波篠山では、田植えもすっかり終わり、より一層緑が美しく、庭の畑では、じゃがいもやきゅうりが収穫の時期を迎え、トマトたちも色づき始めています。

田植えもすっかり終わり、畑は、黒枝豆を植えるためにきれいに畝が作られています。

我が家の庭の小さな畑のお野菜たちもとても元気です。旬のお野菜はめちゃくちゃ美味しいです!!

季節は巡り、歓喜に包まれた春の祝祭は以前のことのように感じますが、師のお姿は歓びと共に目に焼き付いています。
祝祭で祝辞を捧げさせていただいたことを機に、私は初心に立ち返ることになり、全てを師から与えられていたことに気づきました。
悟りへの情熱が足りないのではないか。どうすればその熱を高めることができるのかと悶々としていた思いは一掃され、確固たる決意を胸に、新たな気持ちで歩み始めました。

以前に比べればエゴは少しずつおとなしくなってきてはいたものの、完全になくすことは難しく、それでも何度も何度も師の教えを思い起こし、心に言い聞かせる日々が続いていました。

ある日、ヨーガの福音を手に取り、心について考えていた時でした。

“心を召使いにしておけばいい”

ふいにその教えがやってきて、心が納得したような感覚がありました。
霧が晴れていくようでした。

心を完全に無くすことは難しいけれど、従順な道具にすればいいんだ。
その為には、やはり心の調教がまだまだ必要だと思いました。
アーサナへの向き合い方を改め、真理の教えに触れ、学び、実践することの大切さをより一層感じるようになりました。

穏やかで美しい月明かりが好きです。明日は満月、部屋の明かりがいらないほどです。

真理の教えは、いつもみずみずしく、私の心を潤してくれます。
師は、求めるべきものも、その為にやるべきことも教えてくださっています。そして、常に導き続けてくださっています。
一足飛びにはいきませんが、余計な心の垣根は取っ払って、もっと軽やかに、それだけを求め、これからも実践を続けたいと思います。

藤原里美


私はあなた

私の鍼灸院に9年前から来院されている80歳の患者さんがいます。
好奇心が旺盛でお話しするのが好きな方です。いつも私の知らない話を聞かせてもらえることが楽しかったのですが、少々気難しいところもあるので、言葉遣いには特に気を付けて接するようにしていました。
出会ってから5年ほど経った頃、それまでの気難しさとは異なった感情の起伏が見られるようになりました。物忘れや勘違いも多くなり、おそらく認知機能が低下し始めたのだろうと、これまで以上に注意して接するようにしていました。
しかし、予約時間を間違えて来院されて本来の予約の患者さんの前で自分が正しいと激昂したり、治療中の会話でも突然怒りだしてしまったり、そのようなやり取りを繰り返すうちに私はその患者さんに接するのに身構えるようになっていきました。
そこから1年以上、互いにストレスを感じるやりとりが増えました。この患者さんは一人暮らしで近くに親族の方もおらず、病院を受診していないので症状からの推測になりますが、おそらく認知症だと思われます。ただ病気によるものだと理解してはいても、面と向かって怒鳴られたりすると怖いという感情が勝ってしまい、腫れ物に触るように恐る恐る接するようになってしまいました。

この6月で開院10周年を迎えました。最初に治療院を構えた建物は、都立殿ヶ谷戸庭園のすぐそば。庭園の外からの眺めも意外に良いので、患者さんに好評でした。

この悪循環から脱したいと試行錯誤しているうちに、「私はあなた」という聖典の中の言葉をよく思い出すようになりました。
「私」も「あなた」も本来は等しく尊い一つの存在。それぞれ異なる肉体を持っているけれど、本質は同じ。

この患者さんは病気によってこれまでできていたことができなくなり、記憶することもできなくなり、不安でいっぱいになっている。これは私に起こっても不思議ではない事態。歳を重ねた私もこうなっているかもしれない。
ここまでの思考には何度も至っていましたが、そこを超えられないのは頭で考えてばかりでこの患者さんのことを真剣に思っていないからだ、と気付きました。
もう考えるのはやめた。この患者さんといる時間は何を言われてもされても、その中に変わらない本質があると信じよう。見えなくてもある。それが真実なのだから。
それからは何度失敗しても気にせずに真実だけを見るように努めました。

そうしてしばらく経ったある日、それまでできていた動作ができなくなって困っていた患者さんのお手伝いをしていた時に、「この人は私だ」と直感的に感じました。そう思おうとしたのではなく、目の前にいる患者さんが私であるとしか感じられなくなったのです。それまで見えていた景色は一変し、不安や恐れは消え去っていました。

その後、常にこの感覚に留まれている、とは言えない状況ですが、肚が据わったというか、何を言われてもほとんど動じなくなりました。
認知症の方は通常の高齢者の方よりも視野が狭いので、その方の視野にしっかりと入るためにお顔の正面からお話する必要があるのですが、それまでは怖さが先に立ってつい目を合わせるのを避けることがありました。この体験以降は、伝えたいことがある場合はしっかりと視線を合わせて話せるようになり、言葉以上に伝わることが増えたように感じています。たとえ患者さんが不穏な感じの時でも、とにかく今この瞬間にだけ集中して丁寧に接するように意識することで、私自身が動揺することはなくなり、患者さんを冷静に観察してその時々に必要なことができるようになりました。

治療院の最寄駅、国分寺駅の駅ビル屋上から見た空。梅雨の晴れ間、雲がゆったりと流れていました。

それから1年が経ち、現在。
患者さんの認知症状はさらに進行し、激昂することは全くなくなりました。表情豊かな方でしたが、ぼんやりしている表情が多くなり、怒ることが減った分、不安そうにされることが増えました。以前は饒舌に話をされていたのに思うように言葉が出なくなり、時系列でお話しされることもできなくなったので話の内容を汲み取れないこともしばしば。電話をかけると私の名前も分からなくなっていることもあります。
この患者さんはもう以前のように自分の伝えたいことを伝えることができません。一時期激昂していたのは、きっと自分に起きている変化に付いていけず強烈な不安を感じていたことも影響していると思います。そのピークは過ぎたといっても、認知機能の低下に伴う不安感がなくなったわけではありません。むしろ表情に出にくくなったことで、これまで以上に注視して行為しなければならないと感じています。
私が接している僅かな時間でさえも困っている姿を目にするということは、日常生活を一人で過ごす中で多くの困難が起きていることが容易に想像できます。
何か私にできることがあればと焦る気持ちが出てくるし、どうにもならない事態に翻弄されそうになるけれど、そんな思いにいちいち惑わされては本当に大切な「私はあなた」であることを忘れてしまう。一緒にいる時間だけはこの患者さんに楽しく過ごしてもらえるよう、私も思い切り楽しもう。この1年で少しずつですがそれを実行できるように心がけてきました。

今思えば、1年前に「この人は私だ」と感じるまでの私の行為は、自分のための行為でした。相手のことを考えているようで自分が苦しまなくて済むような逃げ腰の姿勢で、その場さえ凌げればいいというエゴ丸出しの行為でした。しかしこの患者さんと接する中で直感した「この人は私だ」という感覚は私の胸に存在し続けていて、この患者さんが喜ぶことを一つでもしたいという明確な目標を与えてくれました。患者さんがどう感じられているかは分かりません。ただ、来院された時に不安で強ばったように見えた表情が、お帰りになる時にほっとしたように和らいでいるのを見ると、それが一つの答えなのかなと思います。

治療後帰られる時に、この患者さんがにっこり笑いながら言ってくれる言葉が好きです。

「あー、生まれ変わりました!」

それを聞いた瞬間に何もかもがまっさらになります。
私もあなたもなく、全てが純粋そのもの。言葉には言い表せない歓び。
こんなにも素晴らしい体感を与えて下さってありがとう。ありったけの思いを込めて、私もにっこり笑いながらお見送りしています。

この患者さんは芍薬の花が大好き。他の花を飾っているときよりも長めに眺めてから帰られます。

記憶をなくすということは、その瞬間瞬間に生きているとも言えると思います。
それはヨーガの理想とする境地。
この瞬間に目の前にいる人のために、その人の喜ぶことを行為する。瞬間瞬間に実行することを繰り返していく。
今日も明日も明後日も、いつでもこの瞬間に生きることができますように。

ハルシャニー


尊い存在

ベランダの近くの雀の巣に赤ちゃんが生まれて、チュンチュンチュンチュンと声が聞こえてくる。灰色に曇った空の下、雨に濡れた親鳥が巣に戻ってきては餌を与え続けていた。しばらく経つと、雀の子供たちが外に出てきて親鳥が飛び方を教えている様子。卵から雛が孵(かえ)る、というのは生命の奇跡だな~と思った。生まれて、そして成長していく。ずっと見ていると、雛は私たちで、親鳥は師に見えてくる。

師にお会いできヨーガに縁を持てたこと、これこそ奇跡かもしれない。いろんな人たちとの縁によって、見えざるものによって、ヨーガの山の麓まで連れてきてもらった。今は山登りの途中か…。
そういえば修行者を乗せて、彼岸の悟りの境地まで連れていってくれる虎の話を聞いたことがある。また、虎は一度捕らえたものを絶対はなさないように、師は弟子のことを絶対にはなしたりされない、と聞いた。

光が強くなった。いつ見ても、上を向いてる花。

最近いろんな事が重なり、その中でお世話になった方たち何人かの死を知った。死は肉体の死であり、本性は決して死なない、とヨーガの教えを思った。でも、「肉体にはもう二度と会えない」と思うと寂しさがこみ上げ、未熟な私は一挙に無念さに襲われた。もうどうにもならないことについて、悔やむ気持ちや、過去に自分のとった行動を反省する日々が続いた。反省するのはいいけれど、ずっとくよくよしていても仕方ない、考えている暇があるなら次の行動をしなさい、と師の声が浮かんだ。だからその都度、今やるべきことに意識を向き替え、表面上はそれなりに生活をこなした。この地球上に師が居てくださっていることが命綱のようだった。
そして師を思えば思うほど、謙虚に人に接せられる師のお姿が目に浮かんだ。そのお姿を思うなかで私は、無念さや悲しみでいっぱいになっているだけの自分に違和感を覚えるようになっていった。

昔、突然の友人の死を受け止められず師にご相談したことがあり、師は「正しく死を理解して周りの人の力になってあげてください」と私に言ってくださった。死を正しく理解する。それができれば、周りの人の力になることもできる。私さえ正しく理解することができれば……。

いつもの道。太陽が燦燦と照りつける。

そんな中で、ふと、師はいつでも人の中にある本性、真実だけを見てくださっている、それだけを信じてくださっている、という思いが起こり、そのことがどれほど自分の中で、かけがえのない拠り所となっているかに気付いた。なかなか明るい気持ちになれない日々だったけれど、そこから満点の星空が見える気がして、師の存在の光によって上を向くことができた。
生き方を変えよう、いつまでもこんなことではあかん、と思った。もう、形あるものには何も頼ることができないような、真っ裸にされたような心境になり、胸の奥にある、尊い大事なものを思い続けた。

雨上がり。

師は私たちを信じ、虎のごとくにしっかり掴んでくださっている。だから絶対に大丈夫、という、どこからともなくやってくる確信が最後の最後にある。誰しも、無条件に自分を丸ごと信じてくださる純粋な人のことを裏切れないと思う。そういう方に巡り会えた、もうそれだけで、どんな極悪人でも自然に改心せざるを得なくなる。無垢で純粋なものに触れた時、限りなく同化したくなる。師の愛を少しでも垣間見た人は、そうなってしまうと思う。それは師に直接会えた人だけに限らないと思う。ヨーガのクラスには師の祝福が降り注いでいるというから。

躓(つまず)いた時、師への思いや、ヨーガを拠り所にする自分の思いが上を向かせてくれたのではなかった。師が私たちを信じてくださっている、万物の本性という永遠の真理だけを見ておられる、その師の存在という事実が、上を向かせてくれた。自分の思いの強さによってではなく、師の熱烈な意志、師の強さによって。

私も、人間の本性――肉体でも心でもない、たった一(ひとつ)のその真実を信じたい。肉体が消えても、それは消えないというもの、それだけを見つめたい。それだけを見るということがどれだけ尊いことか、師というたった一人の方が、それだけを見つめておられることがいかに人々にとって救いをもたらし、生きる歓びを与えてくれるか。
生命の根源は永遠で自由で輝かしいものであるはず。なのに、まだ学んでいる途中とか、よく分かっていないから、と私は思っているところがあった。この話を先輩に聞いていただいた時、ヨーガを分かるとか分からないとか関係のないところで今も真実はずっと在る、と暗に教えてくださった。「私には分かりません…」先輩に言えば言うほど、はっきりと分からない自分、真実を見いだせない自分が印象付けられて、より悲しくなるだけで「分からない」という言葉を発することは、自分にとっても、いいことはなかった。先輩と話し終わりしばらくした後、私は、今、真実を見るべき時なんだとハッとした。どうして生まれて、死んでいくのか。それで全て終わりなのか。そんな筈ないやんか、と思った。その人自身の本当の存在を大切にしたい。肉体に会えなくなってもまだ間に合う。綺麗ごとではなく、本当に真実だけを見ようとし続けること、それが私にできることなんじゃないか。私が師に会えて、無条件に存在を丸ごと受け入れてもらえる歓びを知り、生きる歓びを知ったこと、そこに答えがあった。それを気付かせてくださったのは、師への思慕と尊敬の思いを語られる先輩であり、また私の話に延々とお付き合いくださる先輩の中の師の姿だった。

この期間、これまでのサットサンガのノートを見直していた。そこには、師が、来る人、来る人に絶えず深い愛をもって接してくださっている、その物語がたくさんあった。まるで師が、それぞれの雛(私たち)を大事に大事に育てられ、目一杯の滋養を与え、そして自由への境地――大空の飛び方を根気よく教え続けてくださっているようでもあった。今もずっとそうだと思った。

そして、目に留まった師のお言葉があった。

死ぬのは肉体だけであり、その人自身は無くならない。
ただ古びた衣服を脱ぎ捨てるような現象。
嘆き悲しむのが良いことではない。
姿が見えなくなって、寂しくなることはあっても、その人自身が無くなったわけではない。
魂は永遠に生きています。

それぞれがこの世に生まれて、そして成長し、その人としての生涯を最後まで全うされた、と確信が湧いた。おつかれさまでした、と心の底から讃えたい気持ちになり、自分が抱えていた悔やむ気持ちも無くなった。
人の命、人生はその人自身の尊く気高いものであり、他者が介入できるようなそんな余地はどこにもないと思えた。会えなくなったからこそ気付く大切なこともあれば、また悔やむこともあるかもしれない。でもそれさえも失礼なことのように思えた。全部、ただの私の思いに過ぎなかったなと。悔やむ思いは、自分の思いばかりを見ている私の傲慢さから来ていた。お世話になった人たちは、姿がなくなっても、やっぱり私の人生の先輩であり、またこうして大事なことを教えてくださったな、と思った。
自分の思いを見る驕りを棄て、もっと謙虚になって、師が見ておられるもの、その尊いものだけを私も見ていきたい。

ベランダの雀たちの影

野口美香


マウナと信仰

松が開けたばかりの頃でした。
長年抱えていた心労で母の体調が急激に悪化しました。その時、大先輩の姉弟子に電話で相談させていただくことがありました。姉弟子は、根気よく聴いてくださって、複数回にわたりメールを頂戴し気遣い励まし下さると共に、熱意をもって次のように助言をくださいました。

  • 起こることはカルマのためであるから、自業自得と覚悟をもって受け止めて、その時すべきことを行なってゆく。
  • 波風が立つような話題に対してマウナ(霊的沈黙)を徹底する。
  • 目的をしっかり見据えて教えを手放さないように。

「師が姉弟子を通じて導いて下さっている」と有難さを感じながら、もしここで実践できなかったらと思うと奈落の底に落ちてゆくようで心は激しく動揺しました。けれどもカルマは問題と正面から向き合うことでしか昇華出来ません。怯む心を押さえて、頂戴したメールを読み返しながら向き合う毎日が始まりました。

マウナについては、形から入れることでもあり、とにかく徹底せねばと心して臨みましたが、波風の方角へと一方方向だった母の思考傾向が一時的にも停止して、スムーズに新たな話題へと心が切り替わってゆくのを目の当たりにしました。
私が行なっているのは本来的なマウナにはあたらないかも知れませんが、それでもマウナが単なる避難ではなく、積極的な傾向を生み出す実践的な教えであることをひしひしと実感するようになりました。

しかし受け止めるということに対しては、苦しみの原因を他者に求める傾向から抜け出せず、一旦受け止めたと思ってもいつの間にか思い煩いが入り込んでしまいます。
ある時、切羽詰まった状況でも滑稽なほど蒔いた種から逃げ回っている自分が情けなくなり、「このままでは教えを手放してしまう!」と真剣に一番大切なものを問いました。
「信仰」でした。
師に御縁を頂戴し信仰の本質を教えていただける機会に恵まれながら、不平不満を漏らす自身に気づき、本当に大切なものを大切に出来るようにならねばと以後不平不満にマウナすることを意識するようになりました。
十分に対応できた訳ではありません。しかし師の恩寵を頂戴し、母は奇跡的に快方に向かい、ひと月後にはこれまでとあまり変わらぬ生活を過ごせるまでに回復するにいたりました。

市内の山側集落栢野(かやの)町にある菅原神社。境内には4本の巨木杉があり、右の二又杉は樹齢2300年ほどだそうです。5年前に健康診断を受けましたが、いたって健康と診断されました。近づくにつれ神聖なプラーナを感じます。

師やマハーヨーギー・ミッションとご縁いただいていることは何という幸せかと思います。家庭やその他に難があっても克服へ向けて愛情深く力強くご助言いただける存在がある。
またパラマハンサやブログでは聖者だけが語れる真実を伺う機会に恵まれるとともに、そこへ向けて突き抜けてゆこうとするグルバイ(兄弟姉妹弟子)の情熱的なサーダナ(修練)の様子を知ることが出来ます。
石川県に住んでいるのでコロナ禍以前はアーサナクラスに参加出来る機会が限られていましたが、オンラインで開講となり毎週参加させていただけるようになりました。毎回全身にプラーナが行き渡るのを実感し、特に月曜日受講ですので一週間の活力源とさせていただいています。

昨年冬のオンラインでの親睦交流会を機にグルバイ4名で『マユーラ(孔雀)の会』を立ち上げました。孔雀が毒をも解毒して食べてしまうようにそれぞれの無知をミーティングを通じて浄化しあい、理想と目的意識を各自もって象徴とするところのクリシュナの境地に向かってゆこうと月1で開催しています。
直接グルバイと話す機会が中々無い私にとってこのような会に参加させていただけることは大きな喜びであり、また意識を持って日常を過ごす糧にもなっています。

マユーラの会の一場面(2021.1.23)

また先日は『フォカッチャの会』にも参加させていただきました。折しもブラザー・ローレンスについてのブログが掲載され感銘を受けた後でした。全てを神への礼拝として行為し、至福の境地を生きられた聖者に目標とすべき姿を見たような気がして、フォカッチャをいただきながらのトークも楽しい中にも色々と感化されることが多く、『マユーラの会』でも毎回思うのですが、目的を同じくするグルバイの存在の有難さをあらためて感じました。

そして何よりも揺るぎない存在を実現されたお方を知って、そのお方が常に見守って下さっているということがどんなに心強く有難いことかと思わずにはいられません。
コロナ禍のみならず世間に深刻な問題が渦巻く中も、ある意味安心感に包まれて日々過ごしてゆける。これほどの幸せはあるでしょうか。
数多の祝福にもかかわらず顔を出そうとする我欲を一刻も早く必要ないものだと納得させ、きちんと霊性の向上という形で感謝を表してゆけるよう精進に努めてまいります。

当地は『弁当忘れても傘忘れるな』といわれるほど雨の多い地域ですが、この日は快晴。 さんさんとおひさま降り注ぐ海岸にはたくさんのわかめ(手前の茶色の部分)が流れ着いていました。

オーム・タット・サット・オーム

竹下千佳


2021 T-SHIRTS PHOTO GALLERY

新しいTシャツが出来上がりましたーーー!!!
ヨーガ・サーラ・スタジオに引き続き、今回はヨーギー&ヨーギニーたちの着こなしと、歓びいっぱいの様子を写真でお届けします!

MAHAYOGI MISSION 45th Tshirtsとってもキレイな色で心も晴れやかになりますー!”
“素敵なデザインでとても気に入っています(^^) 今年の夏はたくさん着たいと思います〜”
“デザインが格好いいのは当たり前ですけれども、着心地もとてもいいです!”
“ヨギさんのデザインは洗練されていて、非の打ち所がなく、全く飽きがこない、最高です! それはまるで神がこの美しい宇宙をデザインされたかのよう”

MAHAYOGI MISSION 45th Tshirts“今日のスタイルにピッタリなので着てきました! 白、お気に入り!!”(会社の廊下にて)
“胸の中で光り輝いているアートマンを、ヨギさんが私たちにも見える形としてデザインしてくださり、Tシャツを着れば、同じ位置に確かにアートマンがあるのだということを感じることができて、うれしくなります。もっともっと近づきたいなという気持ちになります”
“大変きれいなTシャツですね。嬉しいことにうちの娘の胸にもヨギがおられます”
” 金色に輝くヨーギーと共に、サーダナ(修練)がんばります”

MAHAYOGI MISSION 45th Tshirts

Tシャツ

街の中や自然の中、職場やオンラインなど、さまざまなシーンで活用されているようですね!

*  * *

台湾ブログ
Tシャツを着たみんなの写真がアップされています!ぜひご覧ください。

Tシャツ販売中!!
マハーヨーギー・ミッション45周年記念Tシャツは予約販売を行ないましたが、若干在庫もあります。ご希望の方はお早めに!

 

 


WEB版パラマハンサ 配信スタート!!!

5月20日、いよいよWEB版パラマハンサの配信が始まりました!皆さん、もうご覧になられましたか?

Web版パラマハンサ画面のスマホショット

これまで私は郵便で冊子版パラマハンサを受け取っていました。ポストを開けてパラマハンサが届いていることを発見する、封筒を開けて手に取り、まず今号の表紙を堪能、その後ワクワクしながらページをめくる。それは冊子ならではの楽しみでした。手に取る実感、目の前に冊子がある安心感など慣れ親しんだものがなくなる寂しさなどなど、いろいろな思いが皆さんにもあったかもしれません。

慣れないキャッシュレス決済の登録もなんとかクリアし(東京Nさんは生まれて初めてユーザー名を考えるなど、お一人で登録作業をやりきりました!Nさん、すごいです!!)、ログインをしてWEB版パラマハンサの世界に入った方は、冊子がなくなる寂しさも吹き飛んで、スマホやパソコンの画面にくぎ付けになられたのではないでしょうか。
そこには冊子とはまた違う世界が広がっていました!!!どこに何の記事があるのかスッキリとわかりやすい画面レイアウト、カラフルで美しい写真の数々、何より師のお姿そのお声を、いまここ自分の部屋で拝見できるとは、なんて素晴らしいことでしょう!!!!!

そしてご覧になられた皆さんは、もうお気づきのはずです。そう、冊子でもWEB版でもどちらでも、パラマハンサは何も変わっていない、ということを。形は変わりましたが、その本質は何も変わっていない。サットヴァ(純粋)なプラーナ(気)を画面越しに感じ、これまで通り、私たちをインスパイア(時に叱咤激励)し、永遠の真理、師の足下へと私たちを連れていってくれる、とてもとても大切な拠り所であるということを。

師とお会いすることができない、まさに困難に満ちている今の世の中ですが、WEB版ではこの耳を使って師のお声を聴き、師の存在をハートに響かせることができるのです。それをお許しくださった師には、言葉にできぬほどの感謝で胸がいっぱいです。本当にありがとうございます!また、パラマハンサを作り続け、時代や状況に応じて良き在り方を考えてくださる先輩方のワークスには頭が下がる思いです。いつもありがとうございます!

WEB版パラマハンサは素晴らしい!ということはよくわかりました。
でもやっぱり、一日も早く師と直接お会いしたい!!何にも代え難い格別な時間、師とともに過ごす日が一日も早くきますように。そしてその時は、目が覚めてきている!とあのとびっきりの笑顔で言っていただけるよう、その日を楽しみにWEB版パラマハンサを見ながら日々精進しましょう!ハートを師でいっぱいにしておきましょう!!そうすれば、何も怖いものなどありません。その日はすぐやってきます。明けない夜はない!!のですから!!!

お昼休みの散歩コースにて。東京では、本当にオリンピックを開催するかはさておき、会場の準備は進められています。手前の山型屋根の建物が体操会場(木材でできている)、奥にはバレーボール会場の有明アリーナが見えます。

ターリカー


真実に目覚めるTシャツ!

今年は統計史上最も早い梅雨入りだそうですね!そんなじめじめした気分を吹き飛ばす明るい話題です。

ヨーガを始めたばかりの頃、次の言葉に魅了され、とっても憧れました。

私たちの存在は本来、純粋で至福に満ちたもの。
ただ、一時の雲がそれを覆い隠しているにすぎない。
暗い雲が空を覆い、大雨が降るときもある。
しかし、それでも太陽は輝いている。
雲が太陽を消すことができないように一時の苦悩が
私たちの輝く本性を消すことはできない。

この堂々たる宣言!私たちの存在は本来、純粋で至福に満ちている。その尊い存在は胸の奥にあると教わります。 胸の奥への集中を助けてくれる素晴らしいTシャツを師がデザインしてくださいました!!

師がデザインしてくださった看板とTシャツ

“YOGASAARA STUDIO” Tシャツを作っていただいた経緯に少し触れたいと思います。令和元年の新緑の頃、ヨーガ・サーラ・スタジオの名称と看板を師に与えていただきスタジオのみんなは歓喜に湧きました。その時、クラス参加者のFさんも一緒になって喜んでくださり、「ヨーガ・サーラ・スタジオのTシャツとか作らないんですか?私、そのTシャツ着て宣伝するのに~!」と満面の笑みでおっしゃったのです。私はなんて素敵なこと!とタイミングを見て師に相談させていただき、ヨーガ・サーラ・スタジオのTシャツを作っていただく運びとなりました!コロナ禍で発表時期が1年変更になり、マハーヨーギー・ミッションの45周年記念オリジナルTシャツと同時発売という流れになったことに、二重の祝福を感じました。
実物を手にする前に最初にパソコン上で出来上がったTシャツのデザインとカラーを見せていただき、その美しさにまず、圧倒されました。師が一枚一枚、実物をご覧になって色を吟味してくださったと知り、胸がいっぱいになりました。スタッフの1人が「全色購入したら、みんなが選びやすいよね!」と全色購入してくれて、たくさんのサンプルのTシャツが届いた時、喜びに心がとろけました。今、クラスはお休みですが、クラス再開まで待てないというみなさんがスタジオに来てくださいました。みなさんに着ていただける日をどれほど待ち望んでいたことでしょう!!喜びの連鎖が止まりません!

このTシャツを身に着け、お行儀よく座って瞑想する時だけでなく、信号待ちの時も、誰かを待っている時も、仕事の合間のひと時も、いつでもどこでもハートの奥に集中する。これを何度も繰り返していくうちにまるで胸の奥に磁石でもあるのかと思うほど、心が自然に集中していくようになります。スポーツ選手が毎日、練習によって特定の筋肉の使い方がうまくなるのと同じように、ヨーギー、ヨーギニーは毎日の瞑想や日々の訓練によって、内面への集中力を養っていきます。そうしていくと常に満ち足りた心境になっていき、愚痴や不平不満のほうが逃げていきます。そして本当の自分は純粋で至福に満ちたものと知る!まさに真実に目覚めるTシャツです!

みなさんから喜びの声が届きました。

  • あらためて、Tシャツを見ておりますと、本当に美しく、いきいきとありありとしたモチーフに感激しております。これを身につけるにふさわしくありたいなぁと身の引き締まる思いです。ありがとうございました。
  • 色とりどりのTシャツを見た時、虹色の光が心に差し込むように、一瞬にして心が明るくなりました!ゴールドのアートマンとホワイトのヨーガ・サーラ・スタジオの文字はどの色にも美しく映えて、見ているだけでうっとりします。
    そして、着心地も最高に良いのです。神聖なTシャツを身に付けられて本当に嬉しく思います。ヨギさん、いつもいつもありがとうございます。
  • ヨギさん、このたびは、ヨーガ・サーラ・スタジオのTシャツを用意してくださり、ありがとうございました。手にとってみて、嬉しくて嬉しくて、大きな声で笑いました!実際に着てみて、スタジオの名前が嬉しくて、胸を張って街を歩きました。金色のアートマンを見ては、わたしはこの美しい「それ」であり、それを見ている人々もみんな、この金色の「それ」であると歩きながら、胸が高鳴るのを感じます。ずっと歩き回って、ヨーガ・サーラ・スタジオの歩く看板として、金色に輝く真我を宣言できるように、元気いっぱい過ごしていこう!と思います!!本当に、本当に、ありがとうございました!!
  • Tシャツのカラーもどれもすべてとても美しい!
    一枚一枚、ヨギさんの手で紡がれて、私たちにヨギさんの分身のように分け与えてくださるようで、それを身につけることができて、とても幸せです!
    ヨギさんの愛に身を包まれて、ヨギさんの愛を発散していけたらなあ〜と思います!
  • 今日初めてヨーガ・サーラ・スタジオTシャツを着て過ごしました。鏡でTシャツを見る度に嬉しくなりました〜。胸のアートマン、スタジオのカッコいい文字を見るだけで心強く、元気が湧いてきました!ヨギさん、みなさまありがとうございます♡

感謝と喜びの気持ちがヨギさんに届きますように!

シュリー・マハーヨーギーのお導きに心から感謝しています!Tシャツを作っていただきたいとご相談してから、実現に至るまでも様々な甘美なサプライズをいただきました。今までミッションオリジナルTシャツを注文して簡単に手にしていましたが、今回、ヨーガ・サーラ・スタジオのTシャツを松山に直送していただくことで、京都の先輩方がどんなに心を配って水面下で多くの仕事をしてくださっていたか、貴重な宝物のような学びの時間をいただきました。見えないところでの先輩方の働きを想像することは、私たちの気づかないところで、どれだけ師が心を尽くして私たちを導いてくださっているのかという気づきに繋がり、感謝でいっぱいになります。その瞬間に、こんなにも与えていただいてばかりではいけない!!!と内側から叫び声が聞こえてきます。コロナ禍で行動制限はかかったとしても私たちの心は常に自由です!もう大暴れする準備はできています!この状況を最大限生かして、さらなるヨーガのご縁を繋げていけるよう行為していきます!1人でも多くの方が「私たちの存在は本来、純粋で至福に満ちている」という真実に目覚めることができますように!

アーナンディー


先輩から学ぶカルマ・ヨーガ

ヨーガの深まりは日常に現れる。

師から度々教わっているこの言葉の通り、私たちの日常生活こそがヨーガの教えを実践できているか試される場です。
ヨーガの教えに基づき日常の中で行為することを、カルマ・ヨーガ(働きのヨーガ)といいます。
今回のブログは、一人の先輩グルバイに学んだことを書こうと思います。

以前は月に1回ほど京都に行き、サットサンガ(真理の集い)に参加していましたが、終了時間が夜遅めだったこともあり、京都で暮らすグルバイ(兄弟姉妹弟子)の自宅に宿泊させてもらっていました。
毎回数人で宿泊させてもらっていましたが、ある先輩グルバイの宿泊者一人一人に対する行為に、驚かされることが度々ありました。 部屋の温度がちょうど良いかどうか、お腹は空いていないか、一人一人の様子を見て細々としたことまでさりげなく気を配ってくれるのです。 ちょっと寒いかも、と伝えたらすぐに立ち上がって羽織るものを持ってきてくれたこともありました。 食事に関しては、宿泊しているグルバイの体調や好みを考えて準備をしてくれていました。足りない食材があると話していたら、すっとその場からいなくなり、しばらくするとその食材を調達してくれることも。 気配りだけでなくその行動の速さにはいつも驚かされました。

始めは、その先輩が作り出してくれる心地良い空間にただ浸っていました。ちょうどその頃はヨーガを学ぶことで自分の中にある問題を次々と目の当たりにし、それを解決することもままならない状況だったので、母親に甘える子供のような感覚があったのだと思います。
ここにいるだけでほっとするなあ…
そんな感じですっかり甘えてしまっていたのですが、次第に感じ方が変化していきました。
私たち宿泊者の滞在中、先輩はいついかなる時も自分のことは放っておいて、他の誰かのために行為されていることに気付きました。私にはこんな気配りはできないし行動力もないな…と、実践する前から自分には到底できないと思い込んでいることにも気付きました。

井の頭公園にて。噴水の飛沫が辺りに飛んで、蒸し暑さが和らぐようでした。

なぜヨーガを学び実践するのか。
それは自らの無知をなくし真理に生きるため。自らを他者のために捧げるため。

頭で理解するだけではなく、実際に行為すること。私はその大切さを、知らず知らずのうちに先輩の行為に学び、自分の理想の姿を育んでいたのだと気付きました。
私も他の誰かに心地良いと感じてもらえるように行為したい。
自分というものが微塵も出てこない状態で他者への行為をしたい。
特に仕事をする上でこれを理想とし、無意識のうちに実践をしていたのかもしれない、と、今回文章にすることで気付きました。

きっと先輩は師のお姿に倣われて行為されてきたのだと思います。私の場合は、先輩という身近な存在を通して師の振る舞い方を垣間見ることで、他者のために行為するということがどういうことなのかを、より分かりやすく学べたような気がしています。

自分の理想を持ち、それを育んでいく。

これも繰り返し師が仰っていることですが、その意味するところがようやく実感を伴ったものになってきたように思います。

理想は雲の上にあるような遠いものではなく、ごく身近な存在の中にある。自分が一体何に惹かれているのか、惹かれている対象に気付いたのならそれをしっかり意識してそこに近づくにはどうすれば良いか考えて実行する。具体的に何も思いつかなかったとしても、そこに向かっていこうとすることで、一歩一歩確実に理想に近づくことになるのだと思います。
それはどこに行かずとも、今自分がいるこの場所でできます。

私のカルマ・ヨーガの実践の場でもある、治療院。少しでも心地良い空間になるよう心がけています。

様々な局面で活動を自粛することを求められ続けている今、この状況でいかに学びを深めて実践していくか、まさに踏ん張りどころです。私の場合は、これまで経験したちょっとした出来事の中にも、自分が感じていた以上に学ぶべきことが含まれていて、それを思い返すだけでも新たな気付きがあり、そこから改めて学べることを実感しています。
これからも弛まず日々の行為を丁寧に実践していきたいと思います。

 

ところで、5月20日から、Web会報誌「パラマハンサ」の配信が始まりました!
まだ全部読めていないのですが、カラフルで見やすいデザインが親しみやすさを感じます。そして、内容の濃い充実したコンテンツが盛り沢山で、特にWebならではの映像配信は見どころです!
ちなみに私は春の祝祭の時の師の映像を真っ先に見ました。朝出勤前に見たのですが、再び歓びで胸がいっぱいになって時が止まったように感じ、時間の感覚を取り戻すまでしばらくかかりました…
Web版パラマハンサのおかげでこれまで以上におうち時間が充実したものになりそうです。
これからも大いに学んでいきたいと思います!

草木があっという間に茂ってきました。梅雨の間により一層緑が色濃くなりそうです。

ハルシャニー


きれいになりたい!

ゴールデンウイークにテレビをつけると、どこかの国の、深海の生き物たちが映った。海底の無人カメラには、10メートルもの巨大イカの姿が・・・。俊敏に手足をビュンッと動かし一瞬で獲物を捕らえる。思わず釘付けになって見ていたら、ふとハタチくらいの時に育てていたクラゲのことを思い出した。

クラゲの体は、ほぼ水でできていてデリケートだった。小さなミズクラゲの飼育なら、装置がなくても毎日水をきれいにすれば、ガラスのボールでもOKだった。餌になる微生物みたいなエビの幼生をスポイトでとり、クラゲの傘の部分にそっと与える。その後は排泄物で水が汚れるので、作った人工海水と交換する。別の容器に一時避難させるとき、クラゲの体に触れるとクラゲが傷付くので、触れないよう注意して、フワフワ浮遊するクラゲを水と共にすくいとる。これがわりと至難の業で、神経を使うし時間もかかる。毎日繰り返していると、年頃の遊び呆けていた私は、面倒だなーと思うことも…。しかし面倒くさいと思おうが水をきれいにしないとクラゲが死んでしまうので、その一連の作業は欠かせなかった。

水面の煌めき。・・・私にはクラゲに見える。笑

ところで、ヨーガの全行程は浄化です、と聞いたことがある。
ヨーガに出会う前は、心の中の矛盾で、体感的に漠然とした気持ちの悪さを抱えていた。自分という存在は、そういった思いでできている塊のように感じて、疑いもなく、体=自分、心=自分、だと思っていた。だから、身体(自分)が何だか気持ちが悪い、スッキリさっぱりきれいになりたい、とよく思っていた。でも、どこかでは、人間ってそういうもんなのかな、と有耶無耶(うやむや)にしていた。有耶無耶にしなければ生きていけなかった。
ところがヨーガでは、本当の自分はこの体でもなく心でもない、と教えられた。師は言われた「そういう自分をただ見ている、知っている純粋な意識がある、それが真の自己です」。

それを実感したい思いが年々募る。体が自分ではない、とはっきり言われているのだから、体が自分だと思っている限り私はヨーギーになれない。スワミ・トゥリヤーナンダ(インドの昔の聖者)が言われている、「自分は肉体である、と思うことが肉体の苦痛を感じる原因なのである」。

それで少し前、聖典のある言葉に動揺した。内も外も浄めること、不潔な人は決してヨーギーにはなれない、内面の清らかさの伴わない外面だけの清らかさは価値がない、という内容だった。不潔な人は決してヨーギーにはなれない!? 私はヨーギーになりたい。絶対にその不潔にはなりたくない!きれいになりたい!と思った。「潔」の字は辞書によれば、汚れがなく清らか、余計なものがない、心や行ないがけじめ正しい、など。不潔とか清潔とか安易に言ってるが、本当に清らかなるものって何なのか? 不潔とは、見た目ではなく目には見えないものかもしれない。

ヨーガの全行程は浄化だと聞いてきたから、ヨーガを学ぶ過程自体もその不潔からは遠ざかっていくと思う。学べば学ぶほど、内面の汚れである余計な思いや、良くない習慣などに気付かされる。拙い実践であっても、不純物は師によって、有難くも浄化されていると思う。なぜなら、身体が気持ちが悪い、というかつての感覚も消えている。ちょうどクラゲの水交換みたいに、知らない間に毎日浄化された水に新しく体が入れ替わっているような…。クラゲをすくう時、やむを得ず一緒に入る古い水もあるけれど、毎日の浄化を続ける限りは希釈されていき、いつかは古い水も無くなる。ということは、ヨーガの実践も、途切れさせたら浄化はストップされる。そういえば実践を怠れば、まるで魔法が溶けたように、心身の重~い感覚を味わったこともある。一日でも水換えをサボれば、たちまち水が汚れてクラゲが衰弱するように、心と体も浄化が不可欠。クラゲの飼育とちょっと似ている?!

と分かったふうなことを書いているが、実はこの記事に苦戦していた…、先輩が助け船を出してくださった。師のヨーガの清浄(せいじょう)の教えを改めて教わった。そして、師ご自身の境地に、今更ながら驚愕してしまった。師から、理屈ではないんだよ、と教えられたようだった。散々悩んだからか師の教えを読んだとき、まるで泉に清澄な水が広がっていくようだった。皆さんにもぜひご紹介したい。

少しヨーガを進めていけば、直観的に感じてくることは、この肉体は不浄に満ちているということ。暑い時期は老廃物として汗が出てきたりしますでしょう。それもまた不浄なもの。だから生理的に見れば、極めて自然で当たり前なものであったとしても、その自然のメカニズムそのものが相対的な変化を被っている以上、完璧な清浄という、浄らかなるものとは言えないものなのです。動物たちやあるいは人の死を見ても、三日もすれば腐敗していきます。そしてどんどんどんどんおぞましい姿に変化していく。また心の中を覗いてみれば、もっと醜いものがいっぱいある。様々な欲望に執らわれた執着、これも浄らかなものではない。もう一方で真理とか真実、あるいはアートマン、ブラフマン、あるいは神を思い起こす時、誰もの心の中に浄らかなるもの、完璧なるもの、絶対なものという漠然とした印象があるに違いない。そこには一点の曇りさえもが認められない。そういう直観的な真理とそうでないものへの識別感が基本となって、シャウチャ、清浄というものが(ニヤマの中で)一番目に挙げられています。だから決してこれは身体的な、特にお風呂に入ったら解決するというような問題ではない。その意味ではニヤマの清浄というのは、ニヤマだけでなく、その後のすべてのヨーガの完成に至るまでの意味合いを示唆しているというようにも見えます。

シャウチャは清浄、要するに身も心も清浄にしていくということです。そして、それはもちろん環境も含めた全部を浄化していくということですけれども、他のニヤマとかヤマ、あるいは瞑想やサーダナ(修練)を行なっていかなければ当然心の浄化はできないし、それをも含みます。『ヨーガ・スートラ』に、シャウチャに徹すれば肉体への厭(いと)わしさが生まれる、あるいは他者との接触が煩わしくなるとあります。
それは嫌悪して触らなくなるのではなくて、触っていこうとすると、物質というものがまるで体に撥(は)ねつけるような、そういう生理的な、物質的なものが自然に出てくる。それで結果として何にも触らなくなる。特に他人の体というのがいちばん顕著なのだけれども、それを他人の体はカルマ(業)で汚れているとか浄化されていないからというのは後からのこじつけであって、そうではない。事実そうかもしれないけれど、理屈抜きにそういうことが出来上がってしまう、変化してしまう。

そういえば師は、人に触れることがおできにならなかった期間がある、と聞いたことがある。簡単に言葉にするのも憚られるが、師はヨーガを完成されたその境地におられるからこそ、このような深遠な事柄を、誰も分からないような肉体の本質についてを、科学のようにスッと解き明かしてくださるのだと思う。本当に物凄いことだと思う。

地域の人が、いつもきれいにしている花壇。ハッとするような花が咲いていた

また、肉体の浄化と聞けば、私はインドの沐浴も連想する。トゥリヤーナンダは生涯にわたり、環境や身体がどんな状態であろうとも自分が日課と定めた宗教上の務めを怠らなかったそうだ。毎朝、夜が明ける前に起床され、沐浴、瞑想、聖典の学習を行なわれた。それは晩年まで続き、病で歩くことが難しくなっても、ガンジス河まで歩いていかれ、身体にふりかけるための河の水を汲んできてもらったりまでされている。私には、信仰という文字しか浮かばない。
トゥリヤーナンダは言われている「絶え間なく自分はこの肉体ではなく、アートマン(真我)である、ということを忘れないように努力していた」。
“努力”をされていたというのだ。
トゥリヤーナンダの、けがれのない心の清浄さが際立って感じるようなエピソードがある。

彼が若い頃のある日、沐浴で河の中にいる時、浮いているある物体を見た。でも暗がりで見わけることができなかった。すると岸辺の人たちが「急いで上がってこい!ワニがお前をめがけて来ているぞ!」と叫んだ。彼は本能的に岸に駈け上がった。しかし水から出ると同時に思った「お前は何をやっているのだ。お前は朝に夕に、ソーハーム!ソーハーム!私は`かれ`である!私は`かれ`である!と繰り返しているではないか。それなのにたちまち、自分の理想を忘れて自分は肉体であると考えている!恥知らずめ!」と。そして直ちに水の中に引き返した。ワニは決して彼に近づかなかった。彼はいつも通りに沐浴をした。だが自分が早く終えようとして急いでいると気が付き、自分に言った「いや急がないぞ、いつものように沐浴するぞ」と。そしてそうした。

アートマンへの信仰を貫く、理想に従う、本気で理想以外のものを棄てる、浄化ってこういうことなんだと思う。死ぬかもしれない場面で、一度は岸に上がりながら、でも再びまた戻るという強さ、潔さ。信仰心への潔白さ。内も外も浄らかにする、本気の浄化とは、死をも超える覚悟、一念が必要なのかもしれない。

凄まじい水の音

よく師がおっしゃるように、粗大な汚れを落とすところから始まり、きれいになれば小さな汚れや塵に気付く。浄化の対象も、ヨーガの深まりとともに微細なものへと移行していくのかもしれない。
私は最初、師に、ヨーガをしていけば全然違う自分になるんでしょうか?と伺った。その変わっていった自分が本当の自分なんですか?それは終わりはないのですか?と。師は教えてくださった。

最後までそれは変化して、もう変化しないところまで行き着いたときに、本当の自分が見つけられる。でも、間違いなくその方向に進んでいってることになるから。本当の自分に近づいていくということは、本当ではない自分をなくしていくということだからね。

クラゲがきれいな水でしか生きていけないように、毎日の浄化を怠ればヨーギーとしては致命傷、死ぬと思う。一点の曇りさえも認められない、浄らかなるものーー師の言われた真理と、いつも共にあれるよう、実践していくのは自分。
というわけで、今年もステイホームなゴールデンウイークだったが、深海の生物たちによって心と体の浄化に気付かされた、ある意味まさに黄金の週間だった。まずは粗大なものから、ということで部屋の掃除もまとめてできたし、きれいスッキリさっぱりした!

目指すところ!

野口美香


天に一番ちかいシェアハウス

こんにちは!あたしの住んでる家には、ヨガっていうのをやってるおんなのひとふたりがいっしょにいるねん。
母ちゃんよりちょっと年上、やって。
あたしはまいにち保育園行くけど、ダルさん(ダルミニーさんやよ、って母ちゃんに教えてもらったけど、まだあたし小さいからダルさんってよんでんねん)とちささんはおべんとう作っておしごと行きはんねん。
保育園から帰っておやつ食べてるときもまだ帰ってきはれへんで。だからあたしのおやつのラムネ、1個づつ置いといてあげんねん。
最初来たとき、夜になっても帰りはれへんから「今日はとまっていくの?」って聞いた。「これからずっと一緒やで。ずっと一緒に寝たり起きたりご飯食べたり、一緒に暮らすの。お部屋に入る時はトントンってしなあかんよ」って母ちゃんが教えてくれた。
朝、トイレに行くときにちょっと見えたで。鏡のまえでおなか出してベコってしてはるとこ。ヨガしてはんねんて。あたしもちょっとできるで、保育園でやったことあるし。

と、同居人で3歳のあ〇ちゃんに登場してもらいました。
去年の10月、女の子とお母さんが先に住んでいたシェアハウスに、ダルミニーさんと私は引っ越して来ました。ちょうど東へ15分程歩くとアーシュラマ、西へ15分程歩くとプレーマ・アーシュラマという立地にある一軒の家です。
不思議な取り合わせだと思われるかも知れません。でも当然のめぐりあわせだったように感じます。

四人家族!?

私にとって、いまは東京から京都に引っ越してきて3年目の春になります。京都に引っ越して来てからはサットサンガやクラスに自転車や徒歩で通えるようになり、へなちょこだった私は満員電車で身体や心が潰されることもなく、余力いっぱいの新鮮な気持ちでヨーガに取り組めるようになりました。
色々なクラスに通ってみて、「日曜日の朝のクラス」がとても心地良いと思うようになりました。日曜日は仕事が休みのこともあり、前日の土曜日は夜更かしをしてしまいがちです。
そして朝は遅くに起きて「ああ、休日だ!今週も良く働いたからゆっくりしよう」と、本当によく働いたかと言えばそうでない週もあるのに、何もしないで午前中を過ごすことも良しと考えていました。
日曜日のクラスに通いたいと思うと、朝は早く起きます。土曜日は早く眠ります。
スタジオへはバスか自転車で下鴨方面まで通うのですが、道程がとっても気持ち良いです。鴨川を渡っていくときに見える山や川の景色や、街道沿いの樹々が、雨の日も晴れの日も四季おりおりの様子を見せてくれ、朝から得をした気分になります。

日曜朝クラスに通う途中の鴨川で

スタジオの板張りの木は立派で、大切に作られた空間なんだと伝わってくるところです。
そして講師のダルミニーさんですが、クラスの最初や終わりに話してくださる体験談やヨーガの話は笑いあり時には涙ありで、また次の週を楽しみにするようになります。
休日のスタートにダルミニーさんから指導を受けてアーサナをしっかりやることで、1日を通して心や身体が善い方向へ動くようになり、月曜日からも新たに仕切り直して過ごすことができます。休日の朝一番のクラスは本当にお勧めですよ!!

去年の夏の日のクラスの終わりでした。
ダルミニーさんから、お知り合いが管理している家があり、部屋を見に行く予定があると聞きました。
たまたまその日は予定が空いており、興味があってついて行かせて頂くことにしました。特に引っ越す気持ちはありませんでしたがーー
行ってみると何故か心地良いと感じる家で、先ほどのあ〇ちゃんが膝に乗って親しく話かけてきてくれました。
そしてたまたま、近々に部屋が4つ空いたというタイミングでした。
翌日には、色々考えずにあそこに住んでみようと決意して、ダルミニーさんと二部屋ずつ借りることになりました。
特に強い思い入れがあったり、何が何でもグルバイと一緒に住みたいと思ったりしたわけではありませんでした(もちろん一緒に居たいですが)、という話を先輩グルバイにすると笑いながら「熟年夫婦みたいですね」と言われました。
そうかもしれないなあ、熟年の電撃結婚みたいだなと思いました。縁に手繰り寄せられ、気づいたら入籍していましたという感じかもしれません。
ダルミニーさんと一緒に住まわせて頂くと決めると、健やかなる時も、病める時も、助け合っていこうという気持ちが湧いていました。やはり夫婦のようです。
そのうえ想像もしなかった子育て疑似体験もさせて頂くことになり、日々、話題や驚きが多く、笑いが絶えません。
ある時、郵便物が届きました。差出人は私の知っている人でした。しかしあて名は同居人の名前(あ〇ちゃん一家宛て)でした。
共通の知り合いがあったのでした。フェイスブックの「知り合いかも?」のようにそんな郵便が届くことってあるのかと思いました。しかもその差出人は、10数年前にクラスに通っておられて、師にも会っている人なのでした。驚きました。
夏の日に家を見に行く日程から、住まいの立地場所、同居人になる人と共通の知り合いがあってその人がクラスに通っていたこと、いま滞りなく暮らせていること等を考えると、自分が選んで決めていることなんて何もないんだなと思いました。そもそも何かを選ぶという何かができるような自分も存在していなくて、神が計り知れない配慮を払っておられるだけなのでした。
こうやってこの家で先輩グルバイと3歳児とお母ちゃんと暮らすことになって、荷物を片付けて広場に連れ出してもらったような気がしています。それは、身軽になってすがすがしい気分です。東京から京都に引っ越して来た際にもそのすがすがしい気持ちはあったのですが、それに伴って少しの不安もあり、力強く動くことはできずにいました。今回は、先輩グルバイが同じ屋根の下に居て下さるという願ってもない環境です。心が揺らいだり怖じ気付いてしまいそうな時も、毎朝、1階のダルミニーさんが開けるブラインドの音が聞こえると、正しい場所へ戻ってくることができます。それは、師のいらっしゃる場所です。同じ志を持つ仲間と過ごす日々が、自分自身だけでは困難な道のりも、高みに登らせて下さると信じています。
この肉体での時間は無限ではありません。最後の最後までやり切ったと言えるように、この世の事とあらゆる人に対してあなたのご意志を行為できるよう、存分に私を使いきりたいです。そのために環境を整えてくださったのだと思っています。

ダルミニーさん(右)と

最後に再びあ〇ちゃんからです。

あたし、6月になったら田舎に引っ越しするねん。もうすぐダルさんとちささんともお別れ。あたしと母ちゃんがいなくなったら寂しいと思うから、だれか一緒に住んでくれる人がないかなあって。いつでも見にきていいよ、あとちょっといるから遊びにきてね。

そんな訳です。同居人を募集しています。天にいちばん近いシェアハウスの住人になりたい方はいらっしゃいませんか?いつでもご見学ください、お待ちしています。
(余談ですが、あ〇ちゃんの名前の漢字には「天」が使われています)

早川ちさ