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人の性質は変わる!ー『最高をめざして』ヴィラジャーナンダの導き

ヨーガでは師が必要だと古来いわれているのですが、私はヨーガを学び始めて以来、師であるヨギさんを慕い、師から直接ヨーガを教わるために月に一度は松山から京都に出かけてヨーガを学んできました。ところが今回の新型コロナウイルスの影響で外出自粛になってしまい、ヨギさんにお会いする機会が閉ざされてしまいました!私にとっては一大事です!!!

そんな外出自粛が始まった桜が満開の頃、一体いつになったら、私はヨギさんにお会いできるのかと、何かにすがるような気持ちで本棚の中から、久しぶりに『最高をめざして』という一冊の本を取り出しました。ヨーガを始めたばかりの頃によく読んでいた本です。この本の著者は気さくでユーモアが溢れるスワミ・ヴィラジャーナンダ(1873年~1951年)という方です。インドの素晴らしい聖者シュリー・ラーマクリシュナの直弟子たちから薫陶を受け、後にラーマクリシュナ・ミッションの長になられました。

いつも持ち歩いて読み込んだ『最高をめざして』。

私はすぐさま惹き込まれ、一番好きな次の言葉が目に留まりました。

繰り返し行なう修練が、心を純粋にするための唯一の方法である。難しいとか、自分には不可能と思われるようなことでも、絶え間ない実践によってやがては楽に達成できるようになる。規則正しく実践されることは何でも、その人の性質の一部になってしまうのだ。

瞬時に当時の記憶が蘇りました。ヨーガを始めた頃の私は、ヨーガの仲間と自分をついつい比べてしまって、自己嫌悪に陥ることが度々あったのです。人前では明るく振る舞っていたのですが、心の中は葛藤の嵐でした。でもこの教えを読んで、ネガティブな感情が吹き飛ばされたことが思い起こされました。その時、「性質が変わるって、凄い!今の自分が未熟だとか不器用だとか、理解が遅いとか全く関係ないってことだ!」と勇気と希望が与えられました。

でも最初は全然うまくいかず、失敗の連続でした。それでもマイナスの感情が起こるとすぐ、単純によい思いだけが心を占領するようにしていきました。すると、だんだんそのマイナス感情が起こる前に気付くようになり、その次には感情が生まれる前になくすように訓練していきました。イメージなのですが、マイナス感情をテニスボールとすると、そのボールをヨーガのラケットでバコーンと打ち返すような感じでした。泣き言、言い訳、劣等感、そんなマイナス感情は一切、近寄らせない!と決意し、反対にすばらしい思いで心を占領する!来る日も来る日もバコーン、バコーンと打ち返していました。時間はかかりましたが、自分の性質が確実に変化し、負の感情に振り回されにくくなってきたのです。

そのことに気づき、本に書かれている通りだ!と新鮮な驚きがあり、同時に繰り返し行うことの力強さに改めて励まされました。そうして、そうか!私にとって最高の瞬間(ヨギさんとお会いしている場面)を繰り返し思い起こせばいいんだと気付きました!京都にいらっしゃるヨギさんにお会いできない難関を乗り越える答えを絶妙なタイミングでいただいたと胸が高鳴りました。ヨギさんと共にいる時間を思うことでいつも一緒にいられる!それが自分の性質になるまでやり続けようと胸に刻みました。

師がデザインされた美しい看板。 見ていると力が湧いてきます。

アーナンディー


この世は美しい!

早いもので、在宅勤務生活が4カ月目に突入しようとしています(私は3月から一足お先に在宅勤務を始めています)。その間に出社したのはたった6回(それも全て午後のみ出社)、それ以外は毎日ステイホーム!ひとりお家で1日を過ごしています。

4月1日までは週1回出社していたので、会社で同僚とおしゃべりをして息抜き(?)ができていましたが、非常事態宣言以降は出社禁止となり、8~17時のうち実働8時間(日によっては残業することも)、もちろんお家でも息抜きをすることはありますが、案外しっかりパソコンに向かい仕事をする毎日です。

そんなある日、洗濯物を干している時でした。「毎日誰にも会わず、ここで起きて、仕事をして、食事をして、寝て、また起きての繰り返し、生きるってなに⁈」という思いがふとよぎったのです。ヨーガを学び実践する者としては、「真実に目覚めること、それが人生の目的だ!」となるのでしょうが、私はその時その答えに満足することができず、それからしばらくその問いを持ち続けていました。

スーパーへの買い物以外は外に一歩も出ない毎日のなかで、生活のリズムをつくるためにジョギングを始めたのですが、夕暮れ時に走りながら、ふとブッダの「諸行無常」、そして「この世は美しい」という言葉を思い出しました。
そうだ、この世は移り変わるもの、永遠に変わらないものなど何もない。その一方で、いま私が見ている夕日、風にそよぐ新緑、それぞれのスタイルで生活を調えようとしている人々、そして日が落ちた後に浮かぶ満月も、すべてが美しい!! この世をどう捉えるかは私の心ひとつで決まる。それならば、変わりゆく日常を受け入れて、いまできることに最善を尽くせばいい!と、心が軽くなりました。

ジョギングコースの夕暮れのシーン

しかしその翌日、会社がフリーアドレス席になるらしい(在宅勤務を前提として、部員の半数分のみ席を用意。決まった座席はなく出社したら好きな席で仕事をする)と聞き、「これで出社したとしても、いつもの席で同僚と世間話すらできない、この前まであった当たり前の日常は本当に戻らないのだ」と、再びやってきた現実に少々揺れましたが、すぐさま諸行無常!と切り替えることができました。笑

たとえどのような状況でも、私自身がサットヴァ(純粋)であればこの部屋からそれは振動となって伝わるはず、師がずっとそうされているように。私がすべきことはただ一つ、やっと答えがすんなり入ってきた、5月の終わりでした。

3月から成長を見守ってきた新緑

ターリカー


グルの不思議な導き!

3月末、会員向けの瞑想専科「ヨーギーを目指して12回コース」が最終回を迎えました。最後のサーナンダさんのお話の中で、「グル(師)は真剣に道を歩もうとしている人が速やかに歩んでいけるように、障害を取り除き道を整えてくださる。弟子が自らのカルマを速やかに果たして歩めるように、弟子を導かれる。」とありました。
それを聞いて、私自身に起きた出来事を思い出しました。

いつの間にか芍薬の花が咲く季節になりました。

12年前に師の下でヨーガを学ぶために、東京から京都に通い始めた頃、私は鍼灸専門学校の学生でした。基礎的なことは学内で学べましたが、技術的なことなどは学内で教わるには限界があり、在学中から学外の勉強会で学んだり、師弟関係を結んで先輩鍼灸師から学ぶ人が多くいました。
私の場合、最終学年を迎える頃になってもこれだと思える勉強会がなく、師匠と慕えるような方との出会いもなく、宙ぶらりんな状態でした。
ヨギさんに2回目にお会いしたのは学校の春休み中のことでした。サットサンガが終わった後、ある先輩グルバイ(兄弟姉妹弟子)から、インドでは霊性のグルと、世の中で生きていくのに必要な技術を教わるためのグルの、2人のグルがいるという考え方があると聞きました。
翌日は個人的にヨギさんにお会いすることになっていたため、このことも質問してみようと思い、アーシュラマへ向かいました。

私は、「ヨギさんを霊性のグルと思っても構いませんか?」とお伺いしました。
ヨギさんはにっこり微笑まれて「いいですよ!」とお答えになりました。
嬉しくて胸がいっぱいになりながらも、続けて、もう1人の技術を教わるためのグルについて質問しました。今私にはそう呼べる方がいないが、そういう存在は必要なのか、お伺いしました。ヨギさんは少し間をおいてからお答えになりました。
「確かにインドではそう考えられているけれど、気にしなくても必要があればこれから現れるかもしれないし、もしかしたらもう出会っているかもしれないよ。」と、最後に満面の笑顔で私の方を見てくださいました。

東京に戻って程なくして、最終学年の授業が始まりました。ヨギさんの言葉は頭の片隅にありましたが、それほど意識することなく過ごしていました。
ある日実技指導の先生から、放課後に行なう勉強会のまとめ役をしてほしいと依頼されました。なんで私が?と思いつつ、仕事のためできないとお断りしたら、何とか引き受けてほしいと再度依頼されました。私じゃないとダメなのかな?と納得できないまま仕事に行ったら、無理だと思っていた仕事の調整がうまくいき、まとめ役を引き受け勉強会に参加する運びとなりました。正直仕方なく参加し始めた勉強会でしたが、私はこの先生の人柄と技術に惹かれ、2ヶ月後に弟子入り志願することになったのです。

無事弟子入りが決まり、真っ先に浮かんだのが、ヨギさんの満面の笑顔でした。
私はこの先生にすでに出会っていましたが、最終学年になるまで授業を受けることがありませんでした。”これから現れるかもしれないし、もう出会っているかもしれないよ。”・・・ヨギさんの言葉が頭の中で響いていました。この出会いがなければ、私は鍼灸師として自立するのは難しい状況であったと思います。技術のグルも私の人生には必要で、それをヨギさんが導いてくださったとしか思えないのです。
この出来事を思い出す度に、ああ、ヨギさんはこんな些細な悩みですらも速やかに解決できるように導いてくださったのだ、と胸が震えます。

やがて自分の鍼灸院を開院できるまでになりました。

グルバイと話していると、ヨギさんからそれぞれにバラエティに富んだ導き方をされていることに驚くばかりです。そのエピソードを話すグルバイの表情は生き生きと、全身から歓びが溢れ出ていて、聴いているこちらまで歓びに満たされます。生まれ育った環境は様々、ヨギさんとお会いした時期もそれぞれですが、どの人に対しても平等に、絶妙なタイミングで導いてくださっていることが分かります。 いつ何時でも優しく愛をもって接してくださっているヨギさんとの間に起きた出来事一つ一つが、私たちにとって尊くかけがえのない宝物です。私たちはすでにたくさんの宝物で満たされています。時に忘れてしまうことがあったとしても、それは事実であり消えることはありません。
弟子一人一人に対してどれだけヨギさんが関わってくださっていて、どれだけ与え続けてくださっているのかを思い知り、言葉にならないヨギさんへの感謝の想いが溢れて、いてもたってもいられなくなりました。

私もいつかヨギさんのような行為を、ほんの少しでもできるようになりますように!

ハルシャニー


偉大なバクタ ミーラー・バーイー

最近家にいる時間が多くなり『ミーラー・バジャン』をゆっくり味わうように読んでいます。
ミーラー・バジャンとは中世のインドに生きた聖女ミーラー・バーイー(1498-1546)がクリシュナ神に捧げた愛の歌、讃美歌集です。日本ではあまり知られていませんが、インドでは教科書にも載っており知らない人がいないほど有名で、マハトマ・ガンディーも彼女の歌を愛されてよく歌われたそうです。

以前、ミーラー・バジャンをよく読んでいた頃は、ミーラーのクリシュナへの純粋な愛や何ものをも恐れぬ神への信仰心に憧れ、また詩の情景や言葉の美しさに惹かれて読んでいました。今回改めて読んでみると、そのほとんどが苦しみの中にあった生涯で、ただ唯一クリシュナだけを求め続けたミーラーの心情が私の中に流れ込んでくるように感じました。

長く戦乱が続くラージャスターン地方の小国の王女として生まれたミーラーの人生は苦難の連続でした。強国だった隣国の王子と政略結婚を余儀なくされ、夫の戦死後は婚家で迫害を受け続けました。何度も命を狙われることさえあったようです。その理由として、当時のインド社会では夫を亡くした女性は婚家で疎まれたことに加え、ミーラーが婚家の宗教に改宗することなく、幼い頃から信じていたクリシュナ神だけを愛し、婚家の妃としての役割を果たさなかったことにあったようです。

ミーラー・バジャンには、クリシュナへの純粋な愛や献身を歌った詩やクリシュナの愛に満たされる歓びを歌った詩もありますが、クリシュナを求め続けてもなおクリシュナとの合一を果たせない苦しみを詠んだ詩が多くあります。
苦難に次ぐ苦難の日々の中でクリシュナだけを求めるミーラー。クリシュナの愛に満たされたと思った次の瞬間にはクリシュナの面影は跡形もなく消え去ってしまう─。
次の詩からはそんなミーラーの心情が伝わってきます。

なぜに 私は眠りえん

恋人を待ち 見続けて
夜はすぎゆき 朝となり
友はみな来て 諭せども
なぜに 心は聞きえよう
主に逢えぬなら 眠りえようか
心は嘆きに 満たされて
体は細りて 途方に暮れて
主よ 主よ と口は語るのみ
内なる苦しみ 寂しさの
痛みは 誰が知りえよう
チャータクが 幾度も呼ぶように
魚が 水を求むように
ミーラは眠れぬ 悲しくて
心は すべて 忘れるほどに

※チャータク(鳥)の鳴き声は“恋人よ”と聞こえる

美莉亜訳『ミラバイ訳詩集』より

クリシュナへの愛だけに生き、すべてをクリシュナに捧げ尽くして「私」というものがなくなったミーラーの最期は、クリシュナの像に吸い込まれて永遠にクリシュナと一つになったという伝説が残っています。

キールタンに出会って、バクティ・ヨーガを知った頃は神に至る道には歓びだけがあるように見えましたが、プレーマと呼ばれる真の愛を実現するまでには、心から神を愛し求めるが故の渇望の苦しみや、さまざまな内的葛藤を乗り越えるための揺るぎない信仰心を持つ必要があることを強く感じています。
今、私たちはミーラー・バーイーが生きた時代、国、取り巻く状況もまったく異なる世界に生きていますが、500年前のインドに実際に生きた偉大なバクタ、ミーラーの息吹がどうぞ私の中で力強く息づきますように!と、心から願わずにはいられなくなりました。

シャルミニー


心をピカピカに磨く!

ヨーガを実践する上で、大切にしている教えがあります。それは、「真実は既に自分の中にある」ということ。ヨギさんはこの教えを繰り返しおっしゃってくださいますが、耳にする度に胸が高鳴ります。この真実があるから私は生きているんだ!ハートの奥底から力がみなぎってくるのです。
ところが日常生活を送っていると、いつの間にかこのことを忘れてしまい、目の前のことに振り回されてしまっていることに気付きます。クラスやサットサンガが休止状態になってからは、この教えで胸がいっぱいになっている時よりも、忘れている時の方が多くなっていました。だから言い聞かせるように心の中で唱えるようにして、唱えること自体を忘れてしまうことがあっても気にせずに可能な限り続けていました。
そうして過ごすうちに、「真実は既に自分の中にある」ことを忘れてしまう原因に思い当たりました。

それは、「真実」が本当に自分の中にあると信じられていないからなのではないか?
自分には無理…まだできない…そういった心の思いが、曇ったガラスのように真実を覆って見えなくしているからではないかと思いました。

「真実」は物体のように手を伸ばして掴めるわけではありません。
真実は掴むものではなくて、体感するもの。体感するためには、心の思いで曇ったガラスをピカピカに磨いて綺麗にすることが必要なのではないかと思い至りました。

では、どうすれば曇ったガラスを磨いて綺麗にできるのか?
何か手がかりはないかと、これまで参加したクラスやサットサンガの中で印象に残って自分で書き留めたメモ、聖典、等々、これまで以上に意識して読み返しました。そうしている中で、『ヨーガの福音』のある一文が目に飛び込んできました。

”心も複合物です。エゴや知性や想念や記憶などさまざまなものによって成り立っていますから。
心は心のためにあるのではなく、他者のためにあるのです。主人である本当の自己のためです。”

何度も何度も読んで十分に知っているはずなのに、今回初めて胸の中にすぅーっと入ってきて、ストンと音がしたと感じるほど、腑に落ちました。

心は主人である本当の自己のためにある。これこそが「真実」であり、これだけを信じて進むのみ。他の思いは一切いらない!
曇ったガラスをきれいに磨き上げるには具体的に何をすればいいのか、数日間ずっと考え続けているうちに、自然と心が「真実」に集中されていたのかもしれません。
自分で勝手にいろいろ考えて自信をなくしたり、できないと諦めたり、心というのは本当に厄介なものだと手を焼くところがあったのですが、何かに依りかかることでしか存在できないようなものだから、たいしたことではないと感じられました。そして心を構成するものをエゴに依るものではなく真実に拠るものにすればいいだけ。そう思えるようになりました。

「真実」は 純粋そのもので、普遍的なもの、永遠に変わらないものです。
対してエゴから生まれる思いは純粋ではありません。それは人によって異なるし、過去に経験してきたことなどによって物事を判断するので、その時々の条件で変化します。
条件によって変化する「私」というエゴ意識をなくすことができれば、心の思いは純粋なものとなり、「真実」に近づくことになります。
これも何度も繰り返し教わってきたことですが、エゴをなくそうと頑張ってもなかなか簡単にはいきません。自分が憧れている具体的な存在だったり、聖典の言葉1つだったり、まず1つのことを足がかりにしてそれに倣うようにすることで「真実」へ近づき、一点集中へと繋がる。それが曇ったガラスを磨いて綺麗にする行程ではないか。ガラスを磨いて綺麗になった暁には「私」という思いはなくなり、覆い隠されていた「真実」がありありと見えるようになるのではないかと感じました。

真実がクリアに見えるようになると、真実という対象が明確になり、自分がどう行為すべきかも明確になる。それ(真実)しか見えなくなったら、どのような手段を取ってもそこに辿り着ける。最終的には覆っていたガラスが砕け散って真実と一つになれる。
身体の奥底から、強い確信のようなものが湧いてきました。

いつも私たちを真実へと力強く辛抱強く導き続けてくださっている、ヨギさん。
時間や距離は何も関係ないと、そのお姿が目の前にある時もない時も、常に私たちと共にある
と言ってくださっていますが、ヨギさんが力強く真実へと手を取り引っ張ってくださったよう
に感じた出来事でした。

きっとグルバイ(兄弟姉妹弟子)のみなさんもそれぞれの場所でヨーガの実践を続けられていることと思います。
今は一人一人が自分と向き合い、すでに学んだことを淡々と実践する時期なのかもしれません。
みんなで集まれる機会はまだ少し先になりそうですが、今できることをやり続けつつ、少しでも成長してその日を迎えられたらと思っています。

 

ハルシャニー


子育ても家事も仕事もぜんぶがヨーガになる!

ママ・ヨーギニーの皆さま、今年の春休みはとーっても長いですね!毎日いかがお過ごしですか?まだ小さなお子さんがいらっしゃるお母さんはお休みなど関係なく、ずっとお子さんと一緒という方もおられることでしょう。外出を控えて家族みんなが家にいる時間が増えた方も多いのではないでしょうか。そうすると、必然的に家事が増えますよねー。あり余る子どものパワーを分けて欲しいくらいですが、大人にはホッとできる静かな時間も必要ですよね。もちろん、家族との時間がゆっくり取れるいい機会だという方もおられると思います。

私が横浜の方で担当させていただいているヨーガサークルも、先月から新型コロナウィルスの感染防止の為にお休みが続いています。先日、皆さんにご様子をお伺いしたところ、クラスに15年以上通われている小6中2高2の三人のお子さんがいらっしゃるお母さんから「ストレス・マックスです」とお返事が返ってきました。そしてその続きには「少しでも自分の時間を作ってアーサナをしたいと思います。皆さん、頑張りましょう!」とありました。長年続けてこられている方だけあってさすがだなぁーと、とても励まされました。

瞑想中の横浜のヨーガ・サークルの皆さん

私には今社会人と高校生の娘がいますが、実は子育て真っ只中の頃、自分の時間が取れず「ヨーガなんて出来ない!」と諦めていた時期があります。その頃はまだマハーヨーギー・ミッションにも師にも出会っておらず、ヨーガ=アーサナ(ポーズ)や呼吸法をすることだと思っていたのです。今、振り返るといつでもヨーガは出来たのに…と、少し勿体ないような気持ちになります。

例えば、ラージャ・ヨーガの一番始めにあるヤマ(禁戒)・ニヤマ(勧戒)は、日常生活の中でこそ行なわれるべきとても大切な基本の教えですし、家事や仕事、また一番身近な家族や自分の周りの人に対しての日々の行為をカルマ・ヨーガ(行為のヨーガ)にすることが出来ます。

そして、何よりも師に教えていただいたバクティ・ヨーガ(神への信愛のヨーガ)をその頃に知っていたら!聖典を読む時間がなくても、ベイビークリシュナにそうするように喜んで娘たちに絵本を読んで、子守唄にはキールタンを歌ったことでしょう。仕事から疲れて帰宅した夫をクリシュナを見るラーダー(クリシュナの愛人)のような笑顔で出迎え、時折、カーリー女神のように我を忘れ地球を破壊するほど怒って、うっかり夫を踏んづけてしまいそうになっても!?ハッと我に返り、ペロッと舌を出してすぐ素直にごめんなさいと言えたことでしょう!

幼子クリシュナ神と養母ヤショーダ。神を愛する態度の一つに、母が子を愛するように、神を我が子のように愛する母親の態度があります。クリシュナは偉大な神の化身でしたが、恩寵によってヤショーダは神の偉大な面ではなく、ただ愛しい我が子を愛するように、愛そのものである幼子クリシュナを愛し献身したのでした。

カーリー女神は悪魔の軍勢(人間の無知)との我を忘れるほどの激しい戦いに勝利し、その歓喜の踊りで大地が破壊されそうになりました。そこで夫のシヴァ神がカーリーの足元に横たわり自らがクッションに!夫を踏みつけたカーリーはやっと我に返りペロリと舌を出しました。

ヨーガでは、この世界のすべてに神が顕現していると言われます。たとえ、今の私にまだそれを見ることが出来なかったとしても、どんな時も全てのものの中に神を見よう、見たい!と思う時、子育ても家事も仕事も、家族や周りの人との関わり方に至るまで、毎日の生活全部がヨーガになっていくのだなぁと、感じています。

今、世界中が先の見えない状況にありますが、私の師は「どんな時でも、誰にでもヨーガは出来ます」と教えて下さいます。その時その時、それぞれの人の置かれた立場の中で実践出来ることが必ずあると思います。一人一人別々の場所にいたとしても、共にヨーガを学び、共に実践していきましょう!

シャルミニー/東京


情熱を持って前進しよう!

2020年の春、世界は一変し、大きな衝撃と苦難に突然直面することになりました——世界中に広がった新型コロナウイルス感染症パンデミック。台湾は、幸運にもまだ深刻ではないレベルに抑えられており、台北と台中のアーサナクラスは続けられていますが、国中に不安な雰囲気が漂っていると感じます。
そんな中、疫病の威迫に負けず、4月11日土曜日の午後、台北の15名のグルバイは祝祭に参加する気持ちでアーナンダ・アーシュラマ(台北)に集まりました。みんなで一緒に2019年4月京都で行なわれた春の祝祭、サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラーの映像を視聴させていただきました。

アーナンダ・アーシュラマの白い壁に投影された映像。祝祭が始まりました。プレーマ・アーシュラマ(京都)にお入りになり、台座にお座りになったヨギさん。弟子から奉納されたマーラー(花輪の献上)とプージャ(礼拝)。みんな、神聖な儀式とヨギさんの慈愛に満ちた穏やかなお姿に心を奪われました。映像は、壁に映された二次元の投影像ではなく、まるでVR(ヴァーチャルリアリティー:仮想現実の立体空間)のように立体になり、本当にありありと感じ取ることができました。プレーマ・アーシュラマのその空間はアーナンダ・アーシュラマと繋がるようになり、ヨギさんは前方に座られて私たちをご覧になって無限に優しいダルシャンを与えてくださいました。

祝祭では8人の先輩がメッセージを奉納し、色んな方面と角度からシュリー・ラーマクリシュナを紹介してくださいました。台北でもプリヤーがこの大聖者の物語と教えをずっと紹介し続けてきていますから、馴染みのない存在ではありません。でも先輩のメッセージから、先輩たち自身の探求や修行とシュリー・ラーマクリシュナに繋がりがあったことを知り、そして先輩たちの情熱に満ちて素直で一心で同時にとても謙虚な姿を見て、深く感銘を受けました。 

祝祭の半ばでサティヤーさんのメッセージの最後に、『ラーマクリシュナの福音』の一節が再現されました。プレーマ・アーシュラマにいるグルバイたちがハレー・クリシュナを歌い、アーナンダ・アーシュラマにいて映像を観る私たちも一緒に歌って、両者の歌声は一つになりました。そして共に笑って涙も流して、一緒にヨギさんを見つめ、一緒にドッキネッショルを感じて、一緒に喜びに浸って、まるでコルカタと京都と台北の間にはもう境がないようでした。150年前と去年と今この時にも時間の遠近がないようでした。祝祭の最後、みんなでヨギさんに従って一緒にOm Tat Sat Omを唱える時、その感覚がもう一度呼び起こされました。

時空は一つになり、一緒に歌ったキールタン!

3時間ほどの間、ヨギさんだけが在り、シュリー・ラーマクリシュナだけが在り、喜びと感動しかありませんでした。疫病の蔓延の今、これはどれほど貴重であり、どれほど幸運でしょう!騒然としている外の環境によって物騒がしくなった心は、この時間の中で安堵しました。この映像を制作して配信してくださったマハーヨーギー・ミッションと先輩たちに言葉にならないほど感謝いたします。

上映会が終わった後、グルバイたちは一緒に晩ご飯を食べて感想を分かち合いました。何人もがメッセージで話された「神の召使い」「神の道具」という言葉が印象深かったようです。そして奉仕と言っても、よくエゴを持っていた、神の召使いや道具になりたいと言っても、情熱と信仰を高めなくて口だけだったという自分の行為に反省した人もいました。それでも、自分にはまだ遠いとか、自分にはできないとか思わないで、情熱をもって前進しよう、先輩に見習い一歩ずつ真実に近づこうと、みんなでお互いに励まし合いました。

あるグルバイが言いました——去年の秋に京都から帰ってきてから、人生に期待していたことを手放しました。チャイタニヤさんのメッセージの中の「結婚しました!子供ができました!家を買いました!」のようなことを手放してから、楽に感じました。自分がどんな人生を過ごしたいのかを改めて考えました。

どんな人生を求めるのか?見返してみると、メッセージの中で生き様という言葉がよく出てきました。シュリー・ラーマクリシュナの生き様、ラトゥの生き様、神だけを見て神だけを思う生き様、人の喜びを糧にする生き様…こんなにたくさんの見習える手本があります!それはライフスタイルだけではなく、それは全てのスタイルを超えたスタイル、それは真実を生きる、ヨーガを生きることだ! ブラボー!!!

 

日本のグルバイのメッセージは、プリヤー(右)とマールラー(左)で通訳して紹介しました。

マールラー/台中


執着なき、純粋な働き

自粛要請が続き、ヨギさんや先輩グルバイにもお会いできない中、昨年の春の祝祭の動画を視聴させていただき、とても大きな励みになりました。(昨春祝祭のブログはこちら→2019春の祝祭
ヨギさんの慈愛に満ちた優しい眼差しや参加者の皆さんの喜びの熱を感じ、私自身もまさに会場にいるような、至福の時間を過ごすことができました。

昨年2019年4月7日(日)、満開の桜が咲き誇る中で開催された春の祝祭サナータナ・ダルマ アヴァターラ  メーラー。今年は残念ながら中止になってしまったのですが、祝祭参加者に向けて昨年の祝祭の模様が全編映像配信されました。私は祝祭の式典には参加できなかったため、このような機会をいただき、本当にうれしかったです。(動画の一場面)

昨年の祝祭では、19世紀後半の神の化身シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサの悟りと生きざまに焦点を当て、8名のグルバイ(兄弟姉妹弟子)たちからスピーチが捧げられました。ラーマクリシュナの魂に触れ、その存在すら感じられるような熱い思いが迸るスピーチでした!

今回の祝祭の動画から強く感じたのは、ヨギさんの決して変わることのない確かな導きとグルバイの皆さんの神への信仰と愛、そして悟りへの強い決意でした。

ヨギさんから多くの教えをいただきながら、なぜ私は皆さんのように、真理の道に邁進することができていないのか?自分の未熟さが情けなくもありましたが、動画の中で目標とする姿を目の当たりにし、もっと自分のエゴと向き合い、純粋になっていきたいと志を新たにすることができました。

また最近では、新型コロナウイルスの問題を機に、自分自身が果たすべき義務や働きは何なのかということを真剣に考えるようになっていました。
今までは、母として妻として家庭を大切にし、家族のためにより良い家庭環境を作ることが自分の義務であり、それを愛をもって遂行することこそが、何よりのサーダナ(修練)になると考え、その義務以上の働きに対しては、なかなか積極的になることができませんでした。

しかし、先輩グルバイが熱く語られるシュリー・ラーマクリシュナの生涯や生き様、その教えに触れる中で、私は自分の果たすべき義務を、小さな心の領域の中でばかり考えてきたのではないかと、自問せずにはいられませんでした。

シュリー・ラーマクリシュナのあまりにも純粋な働き。
休むことなく、他者のために身を尽くし、働き続けるその無私の行為に、ただただ圧倒されるばかりで、自分がいかに働きの結果に執らわれ、他者に奉仕できる最良の機会を逃し続けてきたのかということが、はっきりと理解できるような気がしました。

スワミ・ヴィヴェーカーナンダは『カルマ・ヨーガ』の中で「筋肉と頭脳から巨大な活動を起こさせよ。しかしそれらをして、魂にいかなる深い印象も刻ませてはならない」と言われています。

世の中は、先の見えない不安や緊張に包まれ、今後ますます、多くの人々が本当の安心を求め、人生の目的や命の意味に立ち返っていかれることでしょう。
そうした方々のために、自分のできる最善を尽くすこと。自らの働きを通して、少しでも多くの方にヨギさんの教えをお伝えしていくことが、弟子としての私の新たな義務ではないだろうかと考えています。

最後に師シュリー・マハーヨーギーよりお言葉がありました。『それぞれの人がそれぞれの状況の中で、真実を悟ることができる。なぜなら、真実はもうすでにそこにあるから。』優しく力強い言葉に胸が熱くなりました。                                                    オーム・タット・サット オーム!

計らいのない純粋な働きによって、多くの善いことを行なえますように。
内なる神に礼拝し、日々精進していきたいと思います。

 

 

田原由美+子供たち/大阪  


インターネットの動画配信でヨーガを学ぶ!

古代の修行者たちから、「俺たちの時代なんて…」と説教じみた小言が聞こえてきそうなほどの恵まれた状況が、昨年の四月、私に与えられました。

ヨーガに出会ってまだ1年しか経っていなかった私は、『パラマハンサ会員限定瞑想専科 ヨーギーを目指して!12回コース』という力強いタイトルにやや尻込みしたものの、通常のクラスにはない動画受講コースがあり、何度でも繰り返し視聴できるというインターネットならではのメリットに惹かれて、結局受講することにしました。

このコースは熱心なヨーガ実践者に向けたパラマハンサ会員限定コースで、遠方の人も受講できるように、クラスの模様が1週間以内にYouTubeで動画配信されてオンライン受講できるコースも付加されているのが特徴です。レクチャーと45分の瞑想実習、そしてQ&Aの構成です。

会員限定というだけあって、おっかなびっくりの新参者に対する配慮など微塵もないディープなヨーガ愛が、全12回のクラス全てを貫いており、「動画視聴者は会場のプラーナを少しでも感じながら受講をするように」とのアドバイスを意識するまでもなく、毎回、モニター越しに熱いものを感じながら視聴させていただきました。

ある先輩から、今回の講師であるサーナンダさんについて、「サーナンダさんは、ラージャ・ヨーガ(王道ヨーガ)やギャーナ・ヨーガ(真知のヨーガ)の話をするときはとても知性的・論理的だが、バクティ・ヨーガ(神への信愛のヨーガ)の話をするときは敬虔なバクタ(神を信愛する者)のように喜びに溢れかえる。クラスなどでそういった話をすること自体も、聞いた人が少しでもヨーガを深めることができるようにという他者への思いに根ざしたカルマ・ヨーガ(行為のヨーガ)そのもので、とにかく本当に凄い方だ」という講師像を聞いたことがあります。

講師のサーナンダさん

確かに、バクティやプレーマ(真の愛)について涙ながらに語られていた第7回【グルへの愛と献身】第8回【真の愛】あたりの映像や、24の宇宙原理や真我探求についての小難しい話をされていた第6回【心を知り尽くす】第9回【真我の探究】あたりの映像を思い返してみると、改めてそのギャップの大きさを実感し、「バクタ=神の愛人」や「ギャーニー=智者」といったカテゴリーにすら執らわれない『Theヨーギー』の姿を、記憶の中のサーナンダさんに垣間見るような思いです。

第8回真の愛の動画受講の一画面

第9回真我の探求の動画受講の一画面

実際の会場にいる受講者の一人からも、「ヨギさんのことが好きだと言う人はバクティ的な瞑想をする人が多い中、誰にもましてヨギさんに惚れまくっているサーナンダさんが、何故アートマン・ヴィチャーラ(真我の探究)を中心に実践されてきているのか?」という疑問が呈されていました。サーナンダさんは、「入口が違うだけで中に入ったらどちらも一緒です」という言葉で答えられていましたが、あの師が書かれた「ヨーガ・サーラ」の結びの一文、『王道、知、神への愛、献身行為の四つの大河は各々に、また重なり合って一つの大海に流れ込む――真実在という至福の海に。』を地で行くようなご自身の様子そのものが、言葉以上にその答えを体現してらっしゃるように感じました。

永遠の真理、サナータナ・ダルマが人の姿をとってこの地上に現れてくださったのがヨギさんなら、その教えを淡々と黙々と実践し続ければどうなるかを人の姿をとって示し続けてくださっているのが、サーナンダさんを始めとする諸先輩方の皆さんだと言っても過言ではないでしょう、多分。事実、ヨーガを真剣に教え真剣に学ぶ先輩方の姿が映し出された動画を見るたびに、実践に対する信頼と情熱が私の心に湧いてきたものです。

先にも述べたとおり、1年前はそれほどの覚悟を持って受講を決めたわけではありませんでした。この覚えの悪い頭に動画受講コースのメリットを生かすべく、繰り返し視聴しながら教えの部分を文字に起こしてみたものの、結局それに満足してそれっきり読み返さなかったり、何回かの瞑想実習の時間は、1クリックで簡単にスキップできる利便性がよろしくない方向に作用したりと、まったく私らしい体たらくです。
しかし、1年間の動画受講を通して、モニター越しに現代でヨーガを実践しているヨーガ行者の姿を繰り返し見続けた結果、たとえ教えの内容は覚えていなくとも、その姿自体の印象は色濃く残りました。またその印象に、こんな私をして(今のところ)一日最低一時間、瞑想の座に着かせる力があったことは、受講前には想像だにしていなかったことです。

実際のクラスでの瞑想シーン(最終回)

最終回【永遠の真理】でのサーナンダさんは、強力なカルマの中にある我々がヨーガの道を歩もうと思い立ったこと(一年前、第1回【真理】の動画内でおっしゃっていた『発心』)を奇蹟と称されました。
思い返せば、「何のために生きているのか、人生の目的は何なのか」と悩んでいた2年前の私が、インターネットを介してヨーガと出会い、そして今、『真実を悟ること』を人生の目的としてヨーガを実践しているのです。まったく、涙がちょちょ切れるほどの奇蹟です。

さらにサーナンダさんはこうおっしゃいました。「自分自身の中に真実があるということ、自分自身が真実そのものであるということの自覚が少しでも起こったなら、この世の中で何が起ころうと何ひとつ影響を受けない。外の世界に求めるものは何ひとつ無くなる」と。
この世の中で起こることに逐一影響を受け、外の世界に求めるものが百八つある私にとっては耳が痛いところもありますが、この言葉が一層身につまされるような昨今の現状に対して、一年間の動画配信クラスを学び終えた今の私は、淡々と黙々と実践し続けるという態度で応じなければなりません、ヨーギーを目指す者として。

第10回【理想を行動する】の映像で、「志は行動し、実現しなければならない」という言葉が紹介されていました。この1年間で私が最も意識したのも理想についてです。ヨーガに出会えたものの、ヨーガがなかなか深まらないという思いに執らわれていたとき、そもそも自分の理想や志が明確とは言えないことに気付きました。
無知があるからこそ真実を悟ることを目的とするのが道理なのに、その目的たる真実は、無知があるうちはどうしても漠然としたものであり続けるのもまた道理なのです。ヨーガを深めるためには理想を明確にすることが先決なのだと感じました。しかし、理想について考えてみると程なく、理想を明確にするためにはヨーガを深めなければならないとの答えが浮かんできました。…頭の中まで輪廻です。
こうして、結果堂々巡りに終わるような無力な思考に頼っていた今までの傾向は、徐々に力を失っていきました。そして、映像の向こうの現代のヨーガ行者の姿に、思考では結論の出なかった理想の片鱗を見て取り、実践をもってヨーギーを目指すという決意に至ったことが、この1年間における私の中の最も大きな変化なのかなと思います。

曰(いわ)く、この時代の特異性はインターネットとのことですが、そのおかげを蒙(こうむ)って、動画配信という形でヨーガの教えに触れ続けることができた一年間でした。
ありがとうございました。

深水晋治/松山市


何があっても淡々と黙々と!

想いが溢れる。
ヨーガを実践にするにつれ、時に強烈にそれが起こるようになりました。
ヨーガに出会う前は、その時々の感情が昂り、爆発してしまうこともありました。嬉しい、腹立たしい、悲しい・・・種類は違えど、感情が昂っておさまった後に残るのは虚しさが多かったように思います。
今も感情が昂ることがなくなったわけではありませんが、以前のような感覚とは異なる想いが湧いてくることがあります。胸の奥がじーんとするような、それは愛しいような感じもするし、ひと言では言い表せない感じ。その想いがあるだけで揺るぎのない安心を感じるというか。胸の奥から自ずと湧き上がってくるものが、ただ在る、という感覚です。
その想いが強く溢れ出てくるのは、師であるヨギさんのお姿を目の前にしている時。お姿は見えなくてもヨギさんのことを想う時。そして、ともに学び実践しているとグルバイ(兄弟姉妹弟子)と一緒にいる時。

東京では、2月末から新型コロナウイルス感染症の影響で、グルバイと会うこともままならない状況となりました。クラスもなく、こんなにも長く誰とも会えないのは初めてのことです。

また、私は鍼灸師として働いていますが、心身共に不安定になった患者さんと接することが急に多くなりました。こんな時こそぶれないよう淡々と、と意識はしていても、強い不安感に引っ張られそうになる瞬間が度々ありました。

そんな時、受講中の瞑想専科の配信動画を観ました。

2月22日に開催された会員限定瞑想専科のYouTube動画配信クラスの一画面

テーマは「ヨーギーの生き様」。
今回は最初に瞑想だったので、45分間座につきました。
日中だったので周りの音が気になりましたが、ひたすら胸の奥一点に集中するよう努めました。ここしばらく長く座る時間を取れないまま過ごしていたこともあり、落ち着きのない心との格闘が続きました。決して集中できたとはいえない45分間でしたが、自分の中の軸のようなものが一筋通ったような感覚がありました。

瞑想に続いて講座が始まりました。
ヨギさんの教えは比類のない叡智。真理を糧に生き、人を導き救済する。そこから一瞬もぶれない生き方をされている。その生き様を見せてくださっている。私たちはどれだけヨギさんの生き様を感じられているか。
PCの画面越しですが、いろんなものが一気に伝わってきました。
「ヨギさんは、淡々と、黙々と、それを実行され続けている。何が起きてもまったく惑わされず、ただ同じように淡々と黙々と…。」
それを聴いた瞬間、涙がどっと流れました。久しぶりに、大泣きしました。そして自分の中に鬱々と溜まってきたものが何もなくなったと感じました。

白いダリアの花。サハスラーラ・ チャクラのようで、眺めているだけで穏やかになり、胸の奥に集中が起こりました。

ヨギさんは常々時間も空間も関係ないとおっしゃっています。
分かっていても、ヨギさんにお会いする機会がなくなり、クラスなどでグルバイにも会えなくなると、モチベーションを保ち続けるのが厳しくなってきていました。
そんな中、この動画が一気にいろんなものを吹き飛ばしてくれました。
そうして、胸の奥にただ在る感覚が戻ってきました。ヨギさんはいつでもここにいらっしゃってくださること。真理はいつでもここに既に在ること。同じ真理への道を歩んでいるグルバイの存在がいつでも共にあること。想いが溢れて、次の一歩を踏み出す原動力となりました。

この瞬間もヨギさんはヨーギー/ヨーギニーの生き様を見せてくださっています。私たちはどれだけその生き様を感じ取ってそこに迫れるのか。何が起きても、淡々と黙々と。今こんな時だからこそやるべきだし、より集中して迫っていけるのではないでしょうか。

ハルシャニー

*クラス体制の変更に伴い、3/29より東京クラスの Webサイトがリニューアルします。それに合わせて東京ブログメンバーだったハルシャニーとシャルミニーが新たにこちらのブログメンバーに加わります。