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4年が経ちました

2011年3月11日午後2時46分18秒、死者数約15800人、行方不明者数2590人、大惨事を引き起こした東日本大震災から4年が経ちました。ここ福島では帰還困難区域の整備の遅れ、東電の補償問題、被災地に住む人たちの高齢化の急激な加速、仮設住宅の孤独死、風評被害による企業の経営危機…などなど、色々な問題が山積みですが、それでも少しずつ復興に向けて進んでいることもあります。

今月の1日、常磐道自動車道が全面開通しました、常磐自動車道というのは、埼玉と仙台を結ぶ高速道路です。これによって首都圏と東北の行き来が容易になりました。この道は東日本大震災の原発事故で工事は中断し、三年遅れで計画から約50年をかけてようやく完成となりました。この道路については、人の往来が活発化し地域の活性化につながるという希望的見方がある一方、立ち入りさえ禁止されている帰還困難区域や自由に入れるが住むことができない居住制限区域を通り、最も原発に近い所では、約6キロの場所を通るため、その安全性が疑問視されています。このような区域の料金所には線量をモニタリングする電子ボードがあり、今のところその線量は国が規定する値を下回っているようですが、被爆の危険を心配し安全のためなら遠回りする方がいいという意見もあるようです。また、いずれこの道は、放射性物質に汚染された土の中間貯蔵施設予定地の双葉、大熊両町にも繋げられ、その搬入路としての大切な役割を担うだろうとされています。

私個人としては、結構喜んでいます。なぜなら、ここから東京まで一本道、車で行けるようになるからです。あとは、私の運転能力だけです…。ふふっ。東京も賑わってきたみたいですし、もっと運転頑張ります。

話は当時のことに戻ります。この二年間、一緒に働くスタッフから何度も何度も震災の時の出来事について話を聞いてきました。私はインドにいたので、当時のことはコルカタで見たテレビのニュースで知ったことがほとんどです。スタッフの話の多くは、メディアでは知ることができない個人的なことや病院のこと、この地域周辺のことです。今日はその中のほんの少しですが、ここであった当時の出来事をお伝えしたいと思います。

私の職場は原発から25キロの所にあります。震災後、次々と職員はここを離れていきました。気づけば、それまでの3分の1になっていたといいます。でも、入院患者さんはいるので、残った職員で患者さんの命を守り続けないといけない。いなくなった給食調理人さんの代わりに事務の人たちが残されたレシピを見ながら患者さんの食事を作り、看護師に代わって食事介助をしました。震災後原発事故の影響でここには一か月ほど自衛隊すら来なかったため、食材が手に入らず、日に日に給食の種類も量も減っていったといいます。いつか患者さんは飢えて死ぬんじゃないだろうか、みんなそう思ったそうです。(でも、糖尿病患者さんは逆に病気が良くなったらしい…。やっぱり現代人って食べ過ぎなんだなあ。)

師長の責任を果たすことは、とても厳しい任務を引き受けることでもあります。ある病棟の師長さんは、子どもが津波で流されました。でも、それを悲しむ暇もなく時間を問わず患者さんと病院のために働き続けました。彼女の家族も総出で病院の仕事を手伝ったといいます。

病院は3月19日、患者さんを県外の病院や施設に避難させるためバスで移動させました。それまでに患者さんそれぞれの荷物をまとめ、すぐにバスに積めるよう、少ない職員で夜勤も日勤も関係なく働き続けたそうです。でも、ずっと寝たきり状態だった患者さんが普通のバスに何時間も乗ることには耐えられません。バスの中で急変し亡くなった方もいたそうです。

行政も住民を避難させるために不眠不休で働いたといいます。バスを用意して地域住民を移動させようとしました。ある日、町の放送でこう聞かされたそうです。○月○日最後のバスが出ます。このバスに乗るかどうかは各自で決めてください。もし乗らない場合、個人の責任で避難してもらうことになりますが、その場合補償は出ませんと。でも、最後のバスが出るその日、まだ病院に患者さんはいたのです。職員は悩みました。去るべきか、止まるべきか。3月19日すべての患者さんの移動が終わると、残ったスタッフが集められ、院長から病院を一旦閉めることが伝えられました。再開は保障できないので、他で働いてもいい、でも再開した時には、できたらまた戻って来て欲しいと言われたそうです。このことを話してくれたスタッフは、その後もすぐには避難せずここに住み続けました。他の店も会社も閉まっているので、どこかで働くこともできない。放射線量が高いから外に出るなと言われる。ごみの収集もなかったため、町はゴミだらけだったといいます。

こうして守り続けてくれた人がいるから、今も病院は存続し地域の人が医療を受け続けることができる。そして私の働く場がある。今彼女たちはあの時の地震の揺れさえ笑って話してくれるけれど、多くのストレスを自分で克服してきたことがその様子から感じられます。ここの未来はおそらくまだたくさんの困難が待っているに違いない。でも私が二年ここで過ごして感じることは、たとえ現実が思いのままにいかず重く苦しかったとしても、その現実に踏みとどまり忠実に生きようとする時、それを生き抜く力が与えられるということです。

今日はそれぞれがあの震災に向き合う日です。私は仕事ですが、2時46分には職員みんなで黙とうを捧げます。震災によって犠牲となられた方々のご冥福を心からお祈りいたします。

「ここからいわき方面を走る常磐線は寸断されたままです。開通は2017年だそうです」

「ここからいわき方面を走る常磐線は寸断されたままです。開通は2017年だそうです」

ユクティー

 


それぞれにとっての宗教

前回書いた東洋文庫ミュージアムのイスラーム展では、ヨーロッパ言語に訳された『コーラン』も展示されています。それを翻訳した東洋学者さんについても説明されていました。1764年英語に訳したジョージ・セイル、1949年フランス語に訳したレギ・ブラシェール、1888年ドイツ語にはテオドール・ネルデケ。それぞれ学術的にとても高い評価を受けているそうです。日本語訳で初めて出版された『コーラン』は1920年で歴史家の坂本健一さんという方が訳されたみたいです。

イスラームを研究したヨーロッパの学者さんたちは、それぞれの宗教を信仰していました。イスラームに造詣が深かったからと言って、イスラーム教にみんな改宗したわけではなかった。イギリスのジョージ・セイルなんかは、イスラームに対する見方はとても厳しく、自分が信じるキリスト教と同価値であるとはみなしていなかったそうです。でも、彼らはイスラームの研究に対する情熱を持ちながら、どうして自らの宗教を変えることはなかったのでしょうか。自分の信じるもの以外にどうしてあれだけの情熱を注ぐことができたのでしょうか。もしかしたら、自分の宗教とイスラーム教が最終的には同じところに辿り着くことを証明したかったのかも知れない。真実は分からないけれど、私は彼らについての説明を読みながら、じっとマザー・テレサのことを考えていました。

マザーの施設の中で最も有名なニルマルヒリダイ(Nirmal Hriday)というホスピスがあります。日本語では「死を待つ人々の家」と訳されていますが、ヒンディー語で「聖母の汚れなき御心」という意味です。路上から瀕死の状態で運ばれてくる人たちは、まず名前と宗教を聞かれます。イスラーム教の信者には臨終の際にシスターがコーランを唱えて聞かせるなど、それぞれの宗教の教義を尊重した看取り方、埋葬の方法を行っています。

マザーはカソリックのシスターなので、きっとキリスト教を普及させたいだろうと思うのが当然かもしれません。でも、彼女は一人の人間にとっての宗教とは、人が関与できる問題ではなく、人知を超えた神とその人との関係であると考えていました。彼女は、自分が神を礼拝するために選んだ宗教はカソリックであり、これは神が自分に与えてくださった最高の贈り物であるけれど、それを誰かに自分が与えられるものではないと、ある手紙に書いています。また、もし人がある宗教を信じるなら、それは疑いなく100%信じられるものでなくてはならない、もし少しでも疑いがあるなら、それはその人に与えられた神に至るための本当の道ではない、また別の道を探さなくてはならないのだとも語っていたそうです。

非常に熱心なキリスト教信者の中には、彼女のこういった態度について、キリスト教の布教と改宗に積極的でないと批判する人もいたそうなんですね。このような批判を聞いてマザーはこう言いました。

「I do convert. I convert you to be better Hindu, a better Catholic , a better Muslim , or Jain or Buddhist . I would like to help you to find God. 」

改宗させましょう。あなたを良いヒンドゥー教徒に、良いカソリック信者に、良いイスラーム教徒に、ジャイナ教徒にも仏教徒にも改宗させましょう。私はあなたが神を見い出すのを助けたいのです。

宗教の違いを超えて誰かを神に近づけることができる人、それが真の信仰者なのだと彼女はいつも教えてくれます。

東洋文庫ミュージアムの一階オリエントホール、東洋文庫さんのブログの写真からお借りしました

東洋文庫ミュージアムの一階オリエントホール、東洋文庫さんのブログの写真からお借りしました

ユクティー


もっと知りたくなったイスラーム展

今日はこの間の続きではなく、先週東京に行った時のことを書きます。東京には研修で行ったのですが、帰りに近くの東洋文庫ミュージアム(文京区)で開催していた「もっと知りたいイスラーム展」を見に行きました。ここは、アジアの歴史や文化に関する東洋文学の研究図書館(東洋学分野での日本最古・最大の研究図書館であり、世界5大東洋学研究図書館の一つ)である東洋文庫さんが開設された博物館です。建物はとてもシンプルなんですけど、中に入ると見る人が展示の世界に引き込まれ、そこに静かに浸っていられるような空間を提供してくれます。そして展示の内容も魅力的です。今回は話題のイスラームについて。イスラームの誕生から預言者の意味、歴史や宗派生活規範、イスラーム原理主義にいたるまで、様々なことが書物や絵などを用いながら説明されています。日本との関係も。日本にイスラーム世界の情報が入ってきたのは19世紀以降ですが、西アジアとの交流は600年代の書物からも断片的ではありますが見出せるそうです。室町時代には、相国寺の僧侶が中国から連れてきたアラブ人が京都に住んでいたという記録も残っているとか。

そして何と言っても今回私の心を打ったのは、イスラーム教の聖典『コーラン』です。より正確には「クルアーン」と発音するそうですが、14世紀に現在のシリアで書写されたアラビア語の『コーラン』が展示されていて、それが本当に美しい!!でも、それにも増して美しいのが(私の個人的な印象です)、ペルシャ語の『コーラン』です。ガラスにへばりついて見てしまいます。文字ってあんなに綺麗なものなんですか⁉でも、『コーラン』は預言者ムハンマドに授けられた唯一の神アッラーの言葉(啓示)をまとめたものであり、その預言はアラビア語で授けられたため、神の言葉を置き換えるなどということは許されず、『コーラン』をアラビア語以外に翻訳するということは長らく禁じられていたそうです。今ではできるようになりましたが、それでも「アラビア語以外の言語で書かれたものはコーランとはいえない」という考えは変わらず、他の言語で書かれたものは『コーラン』そのものではなく、「コーランの注釈書」とみなされているようです。『コーラン』とはアラビア語で「誦まれるべきもの」という意味であり、礼拝の時にはアラブ圏以外のイスラーム国の人々も暗記したアラビア語のものを暗誦するそうです。しかし、文字があんなに美しいと感じたのは生まれて初めてでした。きっとアラビア語やペルシャ語の文字が美しいのでしょうが、各節の区切りを示す金色の花や、発音の注意点を書き加えた赤い記号もまた、『コーラン』の美しさをより際立たせているのではないかと思えます。

イスラームとは、神に帰依するという意味のアラビア語だそうです。『コーラン』の中にはどんなことが書かれているかはよく知らないのですが、神を求めた人たちがイスラームによって神に至る道を見い出し、それを守り伝えようとした、そんな彼らのひたむきな思いに触れ、共に神に向かいたいという気持ちが掻き立てられました。

近くに行かれた際には、足を運んでみてくださいね。

イスラム展

ユクティー


ヨーガの実践「他者だけのために行為する」

皆さん、こんにちは、ダルミニーです。

先日職場で、上司から注意を受けました。

「もっと相手の立場に立って、仕事をするように」

なんということでしょう。このエゴと無知を無くすためヨーガを実践しているはずなのに、相手の立場に立って仕事をするように心掛けていたはずなのに、この言葉は私の師からいただいた教えのように私の心に響きました。

エゴとは自分中心に物事を考えることです。自分がいちばん心地良いように行為することです。無知とは以前にも言いましたが、この世の中に対する誤った見方です。永遠でないものに永遠を見ること、浄らかでないものに浄を見ること、幸福でないものに幸福を見ること、私でないものに私を見ることです。

私は素直に反省し、今後も気を付けますと伝えました。すると上司は言いました。

「これはとてもいいことなのだ。これを機会に改善できればいいことだし、これはあなただけのことではなくて、みんなの意識がもっと高くなっていってくれれば嬉しい」

なんと、これも私の師から教えられたような気がしました。それから上司は引き続き、

「あんまり相手の言うことを聞きすぎると、大変なことになることもあるから、その点は注意して」

なんとも、そのへんの境界が難しいものです。しかしインドの聖者の方々は、一切の自分というものを無くして、他者だけのために行為されています。本当に高い境地におられるのですね。自分というエゴ意識が全くない状態、それが本来の理想の人間の姿なのでしょう。

『ヨーガ・スートラ』に「心の作用を止滅することがヨーガである」とあります。心はいつも外界の刺激にさらされて、ああでもない、こうでもないと右往左往しています。そしてこの心と身体を私だと思い、その私を満足させるために心を働かせています。心の作用を止滅させるということは、そういった心の動揺を少しずつ静めていって、そうして不動の状態に留めておこうとするものです。

しかしそれは並大抵のことではありません。私たちは本当に大きな仕事に立ち向かっています。この困難な仕事を推し進めるためには、日々の実践と大いなるものへの憧れ、具体的に思い描く理想の姿への憧れが大切なのだと思いました。どうありたいのか、どうなりたいのか、自分の未来の具体的な姿をイメージし、その姿に近づいていけるよう努力することが大切なのだと思いました。

その話のあとには続きがあります。私はその日、上司から注意を受けたのでちょっと元気がありませんでした。しかしその夜、私は大いに人から感謝される夢を見たのです。

師から、「この世の出来事は夢のようなもの、早く夢から覚めなさい」と教えられています。全く真反対のその夢を見た時、本当は何が現実なのだろうと思いました。本当のこと、真実ってどこにあるのだろうと思いました。でもその時に一条の光のように差し込んでくるのが師のお言葉です。

「誰もの中に真実があります。それこそがリアリティです」

師の教え、ヨーガの教えが私の生きる支えです。今日もまたむくむくと勇気がわき起こり、本当の自分、真実のために生きて行こうと元気いっぱいになる私なのでした。

みなさん、日々お仕事大変でしょう。ご苦労様です。日常生活の中にこそ、ヨーガを実践する場所があります。ヨーガの教えにそって日々の生活を送ることこそが、この世間という大海の荒波を渡っていく大切な智慧と力になります。ヨーガという大船に乗って、みんなでこの大海を渡りきりましょう。

またクラスに来てくださいね。待っています。

 ダルミニー


次の瞬間に死んでもいいという生き方

死をなぜ、どのようにして受け入れ始めるのか。私の経験をもとに書いていきたいと思います。それは、症状が進むにつれ、死が近いことを見せつけられるからです。どれほど否定しても、心で誤魔化して死を見ることから目を逸らそうとしても、それが簡単に打ち砕かれるほどの現実を突きつけられるからです。簡単に言えば、症状の悪化を日に日に感じるようになるということであり、それに耐えきれないようになっていくということです。それは、死を自ら受け入れるというよりも、有無をいわせず、手の中に投げ込まれるという感じです。もう、どこにも逃げられない、そう思った時、絶望という鉛のように重く、黒い闇が自分の心を支配するようになります。それとともに、この状況はどんなに近しい、自分を愛してくれる家族や友人であっても、誰も助けることはできないということ、例えたくさんの人に看取られたとしても、現実に死を迎えるのは自分だけであり、孤独の中で死ぬしかないのだということを痛感させられるのです。

だから、死に抵抗しようとする無駄な心は、剥がれ落ちるように離れていきます。諦めですね。完全に諦め切れるということは、無いのかも知れませんが、少しずつ、現実の進行と共に、心もそれに付いていくようになります。まだ、自分にはやり残したことがあり、それが達成できない悔しさがあるかも知れない。自分が去ることで、この世に残していく愛する人を不憫に思う悲しみが死の受け入れを阻むかも知れない。でも、死は、そんなものはいとも簡単に打ち壊してしまいます。

そして神は、死を前にした私たちの内に、熱心な問いかけが生まれるのを待っているのです。なぜ自分がこの世に生まれたのか、なぜこうして死んでいかなければならないのか、という普遍的な問いかけを。この神秘的な、でも人として生まれてきた根本的な問題について、私たちは自分の力だけで本当の答えを見つけ出すことは難しいのです。でも、もしその探求が自分の命を捨てるほどに熱心になされるなら、死という運命すら変えてしまうかも知れない。死を前にして命を捨てるというのも不思議ですが、実は、この人間的探究がもたらす力というものは、私たちの想像をはるかに越えるものがあるのです。

それで、次の瞬間に死んでもいいという生き方ですが、この人間的探究から始まります。本当は、死が差し迫ってからそれを始めても、その生で答えを見つけるために与えられた時間は、とても短いということになります。だから、私たちは、常日頃からその探求に力を注がなければならない。

イエス・キリストはこう言っています。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」。神という言葉が出てきますが、これは、真理を、命を、生きるということの本質を探究することであり、「何よりもまず」というのは、すべてのことにおいて絶対優先ということです。イエスはさらに「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい」「もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい」とまで言っている。とても極端な例えに思えますが、命を懸けて、まさに与えられた時間と力をすべてこの探究に注ぎ込みなさいと教えているのです。他に長い例え話で説教している場面もあります。彼がどれほどそのことを弟子たちに伝えようとしていたか、よく分かると思います。

そして、もう一つ必要なのは、探究するための方法です。それは、終末期にある人に対しても、死と対峙する恐怖に手を差し伸べてくれるものとなるのです。

 

またまた長くなったので続く

ユクティー


「新訳 ラーマーヤナ」

皆さん、こんにちは、ダルミニーです。

さてダシャラタ王がカイケーイー王妃と交わした二つの約束のことを聞いたラーマは素直に、父王の約束を果たすため、王妃の願いを叶えるために、シータとラクシュマナを連れて森へ旅立ってしまいました。ラーマがいなければ生きてはいけないダシャラタ王は、愛する息子を見捨て追放したこと、また離ればなれになってしまう悲しさに心を痛め、ラーマの名前を呼びながら死んでしまいます。

その頃、シャトルグナと一緒に伯父さんの家にいたバラタは、さまざまな不吉な夢を見て誰かが死んだのではないかと非情な恐怖を感じていました。そこへ、アヨーディヤーから迎えの使者が到着します。七晩かけてアヨーディヤーについたバラタは、人影のない灰色に沈んだ都を見るのです。

バラタは自分の母カイケーイー妃から、父王の死とラーマたちが追放されたことを聞いて苦悩にさいなまれます。バラタは、二人の母の苦しみやすべての人の悲しみを思って泣き、カイケーイー妃を非難します。「涙に声をつまらせた市民ににらまれた時、私はあなたの犯した罪に耐えることができません。友人、親族が頼りにしているのは長兄ラーマであることを、あなたは知っているはずだ」と。

そしてバラタを王位につけようと協議する人々に言います。

「王位は長子が相続するというのが、わが王家の永遠の慣習である。だから、あなたたち老練な方々は、私に王位につけと、そのようなことを言ってはならぬ。むしろ私が森に十四年間住むことにしよう。私は長兄ラーマを森から連れ戻そう」

バラタは軍隊を引き連れて森にラーマを迎えに行き、アヨーディヤーに帰って来てくれるよう懇願します。しかしラーマは聞き入れてくれません。

「父王の幸福を願うならばラーマの言葉を受け入れよ。智慧ある顧問達と共に審議して業務を実行せよ。母君がそなたのために成されたことを怨みに思ってはいけない」とバラタを諭します。

バラタは泣く泣く、ラーマの黄金の飾りのついた履き物を頭に載せ、都に帰るのです。このときのバラタのことを思うと涙が出て仕方がありません。いつも優しく兄弟たちにも親切で、大好きだったお兄さん、どんなにかバラタはラーマに帰ってきて欲しかったことでしょう。どんなにかラーマと一緒に、また王宮で暮らしたかったことでしょう。それもこれも、みんな自分の母親のせいなのです。バラタは子供の頃から、長兄のラーマが当然王位に就くものだと信じていたのです。これからは自分が、父王やラーマの代りに仕事をしなければなりません。どんなにか不安だったことでしょう。でも愛する兄さんであるラーマの言いつけにバラタが背くはずもありません。ラーマを尊敬しているバラタは、都に帰ってから王宮を出て、ナンディグラーマ村に行きました。そこでバラタは、ラーマと同じように樹皮の衣、結髪をつけて、敷草の上で寝て、果実や根菜を食べ、十四年間、ラーマの履き物に一切の法令を報告して決定し、いつも履き物を頼りにして政治を行なったのでした。バラタは、ラーマと別れるときにこう告げます。

「十四年の月日が満ちた時に、もし私があなたに会えない時は、私は火に身を投じます」

悲しみにくれるバラタにラーマは優しく「そうしよう」と約束し、愛情深く抱きしめます。

バラタは幾晩涙で枕を濡らしたことでしょうか。愛するラーマ、ラーマを頼りとして今までも生きてきたのです。それなのに、自分のためにラーマは森に追放されたのです。バラタはラーマを人間とは思っていません。神だと知っているからこそ、よけい辛かったと思います。バラタを思う時、そのバラタの苦しみが乗り移ったかのようになって悲しくなります。バラタの十四年間は苦悩に堪え忍ぶ十四年間だったと思います。ただラーマの帰りを待ちわび、それまでの間、りっぱにラーマの代りにアヨーディヤーを守ろうと、ただそれだけを思い、仕事に専念していたのだと思います。バラタは宣言します。

「この王国アヨーディヤーを象徴する尊い履き物、この委託物をラーマに返還した時、私は罪なきものとなるのだ」

ラクシュマナのようにラーマと共に行動し、献身するものもあれば、バラタのように遠く離れたところから、常にラーマを慕い、ラーマのためだけに生き、献身する姿もあります。

私は、バラタから、ラーマへの一途な愛と献身を感じました。神への、存在への、真実への愛と信仰です。ヨーガでは、真実に対する揺るぎない信頼、信仰というものを必要とします。それは自分自身が神である。全てのものが神である。その神、存在に献身し奉仕せよというものです。私たちは幾度となく、師からそのことを教えていただいています。ヨーガは神なる自分、存在、真実、ただそれだけ、ただそれだけを信頼して生きていくようにと教えてくれているのです。揺るぎない信仰が、本物の献身へと私たちを導いてくれるのだと思います。

ラーマーヤナには、たくさんの献身者、バクタたちが登場します。それぞれがそれぞれの場所で、精一杯の奉仕と献身をラーマに捧げます。そのバクタたちが、いっそう神を際だたせ、輝かせるのです。その一途な愛と献身に強い憧れと尊敬を覚え、自分もそうありたいと願うのです。

ジャイ シュリー ラーマ  ジャイ シュリー バラタ

ラーマーヤナ

 ダルミニー


次の瞬間に死んでもいいという生き方

この間は年末のことについて書きましたが、今日は年始のことについて書きたいと思います。みなさんはお正月、家族や親戚の方たちと賑やかに過ごされたのでしょうか。私は、元旦から仕事でした。正月だからって患者さんはおられるので、休むわけにはいきません。そして、死は正月だからって遅れてきてはくれないんですよね。元旦から急死、急変、看取り、さまざまなことがありました。年末年始に亡くなる人って、結構多いんです。

その日、私はサブリーダーといって、患者さんを担当しているスタッフの補佐をする役割でした。血圧を測ったり、医師の指示を聞いて書類を作成したり(これがまた都会のようにパソコン一つですべて処理できるのと違ってやり方がアナログ!すごい面倒×××)、薬を準備したり、医師の処置の介助をしたり、やることが多くて結構スピードが問われます。

うちの病棟にMさんという高齢の男性患者さんがおられまして、朝9時過ぎに私が血圧を測りに部屋に入ると、「おぉっ!下顎呼吸になっている!」。これは、死が近い兆候です。死の間際に置かれた患者さんは、血圧が低下した後、胸郭を使った呼吸から下顎を使った呼吸に変わり、呼吸回数が極端に減少します。その後、心拍数が低下し始めます。もともとMさんの状態は良くはなかったのですが、これは明らかに家族や主治医を呼ばないといけないレベル。そんな申し送りもなかったので、慌てて大声でスタッフを呼びました。でも…、あれれ?誰も来ない…。ここにはスタッフコールとか、病院なら普通にある気の利いた設備がありません。(注:スタッフコールとは、緊急事態にスタッフが他のスタッフを呼ぶコールで、患者が押すナースコールとは別にある)。仕方なくナースコールを押してみた。うぅっ!誰も出ない…。なんでやねん!(←つっこみではない)。本当はこういう場合、患者から離れてはいけないんですが、仕方なくあたふたと部屋のドアを開けに行って、大声で人を呼びました。それで何とか、その日のMさんの担当看護師と二人で看取る体制を整えたんです。

でも結局、家族が到着する前にMさんの心臓は止まってしまったんですね。亡くなったのは、私が発見してから30分後のことでした。家族はすごく悲しまれていました。毎日病院に来ては食事介助したり優しく話しかけたりされるような熱心な家族でしたから、見ていられないくらい泣いておられました。Mさんにはとてもしっかりしたお孫さんがおられて、その方が詰所に来て言われたんですね。まったく何の準備もできていないので、しばらく置いておいて欲しいと。Mさんが亡くなることを家族は誰も想像してなかったということなんです。師長が15時までならということで許可したのですが、急死ならともかく、Mさんは長い間重症の肺炎を患っていて、ずっと治療してきたし、何度も主治医から覚悟するようにと言われてきたんですよね。なのに死ぬと思っていなかったって…とスタッフはみんな驚いていました。

でも、きっと人間って皆そうなんですね。特にMさんのように何度も肺炎にかかり、何度も死ぬような状況を乗り越えてくると、また今度も大丈夫だろうと思ってしまう。いつか医者のいうこともお決まり文句だくらいに思ってしまって、死が間近に迫っているという実感がわかなくなっていく。

Mさんの家族を見て、あぁ、私もそうなんだなと思いました。私だって明日死ぬなんて思ってもいないけど、そうならないとは限らない。いつか自分が、身近な人が死ぬという実感がない。どれほどたくさんの患者さんを看取ったとしても、その経験によって自分の死を実感することはないんです。

そんなことを感じながら思い出すのは、やはり聖者たちの言葉です。聖者たちの言葉を見ますと、一瞬一瞬を、その時その時を生きなさいというのをよく目にします。聖者たちがそのように生きたということですね。私たちのヨーガの先生も言われます。次の瞬間に死んでもいいという生き方をしなさいと。では、次の瞬間に死を感じれば、そういう生き方ができるかと言えば、そうではないです。次の瞬間に死ぬって感覚、本当に私たちは持つことができるのでしょうか。

私は過去に自分の死を予感したことがあります。私の場合は病気でしたが、症状が日に日に重くなり、死を自ら感じるというより、いくら拒んでもいやおうなく感じさせられるという言い方のほうが的確です。症状による苦痛はひどく、言葉に表せませんが、何と言っても孤独感がひどい。次の日目覚めなかったらどうしようと思って布団に入り、体は重くてくたくたなのに、怖くて眠れないんですね。でも一方で、このままずっとこの苦痛が続くのかと、苦悩し続ける自分もいる。この時、私は生まれて初めて、誰でもない自分がもうすぐ死ぬんだと感じるようになっていたんですね。毎日、恐怖と不安でビクビクしていた。だから、次の瞬間に死ぬかも知れないとは思っているけれど、死んでもいいという生き方をしていたわけではない。

しかし、やがて、ほんの少しずつ死を受け入れ始める日がやってきます。

あの時は、こんな風にコンクリートの隙間に咲き続ける花からよく勇気をもらっていました

あの時は、こんな風にコンクリートの隙間に咲き続ける花からよく勇気をもらっていました

 長くなったので、つづく
ユクティー

 


まっすぐなお客さま

新しい年があけましたね。みなさんは、年末年始をどんな風に過ごされましたか?年末、私のところには素敵なお客さまがみえました!とても愉快で安らぐ時間でした。今日は、その時のことについて書いてみたいと思います。

人が来てくれるというのは、とても幸せなことです。なぜなら、ここでは誰かが去るのを見送ることの方が多いからです。私は今年の春からここに来て三年目に入ります。この二年で何人の人が去っていくのを見送ったでしょう。近々また別れがあります。

さて、お客さまは誰かと言えば、パラマハンサの表紙を描いておられる、東京在住のグルバイ内山さんでした。出張でいわきに来たので、寄ってくれたのです。寄ってくれたといっても、バスを乗り換えて約4時間半。しかも年末、帰省客でバスは満員だったそうです。震災前はいわきまで電車が通っていたのですが、原発の関係で途中の区間がまだ開通していないので、遠回りしてもらわないといけないんですよね。

彼女とは京都ではあまりお話したことがなかったのですが、よくぞ来てくれました!地元の知り合いは時々遊びに来てくれるのですが、彼女は私にとって記念すべき初めて家に来てくれたグルバイだったので、とっても興奮しましたよ!

内山さんとは、ヨーガの先生のこと、ミッションのこと、グルバイのこと、自分のこと、いろんな話をしました。話の内容というよりも、話をする彼女から何を感じたかというと、それは神へのまっすぐな思いです。淡々と話す彼女から不安や悩みなどは聞かれませんでしたが、毎日を過ごす中できっと大変なこともあるでしょう。でも、そんなことを越えるまっすぐな思いが彼女の心の中に根付いているのを感じました。自分の意見をしっかりと持ちはっきり言葉に出す、そんな彼女のまっすぐな性格も神への思いに表れているのかもしれません。そんなことを感じながら、私はふと旧約聖書に出てくる預言者イザヤの言葉を思い出しました。旧約聖書はすべて読んだわけではないのですが、この言葉はイエス・キリストと深くかかわった人が発したことで有名なので、私も覚えているんです。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る』」

道というのは、神に向かう思いです。人間の思いは色々なものが入り混じり、まっすぐではなく凸凹です。虚栄心や妬み、捉われ、打算、コンプレックス…。それを誠実で偽りのないものにしないといけない。それがまっすぐな道であり、最も神に近く最も早く神に辿り着く道だといわれます。彼女のまっすぐな思いは私の思いのゆがみも正してくれたようで、まるで京都に行ってサンガに参加した時のようにすがすがしく、新たに神に向かおうとする力をいただいたように感じました。

彼女の滞在中は家でリラックスしながら話したり、ドライブに行ったり…。初日は震災で何にもなくなってしまった海岸に行きました。

海辺なにもない

ここら辺は民家がありましたが、全部流されてしまいました…

ここら辺は民家がありましたが、全部流されてしまいました…

 翌日は外で昼食を食べた後、私のおススメ、いわき発「木村のむヨーグルト」を買いにスーパーイオンへ。これ、すごく美味しいんですよ~。

ヨーグルト

いよっ!いい飲みっぷり!

いよっ!いい飲みっぷり!

やっぱり、楽しい時間はあっという間に過ぎるんです。二日目の夕方彼女をバス停まで見送りました。また元の生活に戻った私は、残された寂しさよりも、神に見守られている温かさと安心を感じていました。そんな良いものを彼女は残していってくれたんですね。これからますます厳しくなっていくだろう現実にきちんと向かい合っていこうと決意を新たに固めるのでした。

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」

内山さんが来てくれた日からずっと、この言葉が私の心に残っています。

 ユクティー


イエスと奇跡

今日は、イエス・キリストのご聖誕日ですね。

イエスの誕生については、母マリアのところに大天使ガブリエルがやってきて「あなたは神の子を授かる」と告げ、受胎するという奇跡が起こったそうですが、イエスはその生涯で数々の奇跡を行ったことで有名です。奇跡の話を全部取ったら、なんと福音書の三分の一はなくなってしまうとのこと!私は、以前はあまり興味がなかったんですが、ある大学の神学部の先生が、イエスが生きた時代の背景から彼が行った奇跡の必要性と意味を話され、それを知った時、私は新たな目で奇跡を見ることができたんです。今日はその先生から教えてもらったことを書きたいと思います。

まず、イエスの行った奇跡を一つずつ見ると、すごいです。湖を船で渡る途中で嵐を鎮めたり、湖の上を歩いたり、パンと魚を増やして人々に与えたり…。しかし、中でも抜群に多いのは、生まれながらに目や耳、手足を患う人々、熱病の人々を治したり、死後4日も経っていた人を甦らせるというような、癒しや甦りの奇跡です。癒された人たちは、大抵が一般社会の枠からはみ出していた人たちだったため、最近の学者さんたちは、この奇跡を伝えていったのは、下層階級の人たち、あるいは無学な庶民だったのではないかと考えているそうです。当時の律法では、そういった人たちは、「汚れた人間」として一般社会から締め出されていました。福音書では彼らと深く交わるイエスの姿が書かれているんですね。この時代のイスラエルは、彼らのように一般社会からはみ出た人たちが大部分を占めたというのが現実だったようです。富の分配が極端に偏り、貴族階級の人たちは土地を買い占めたり巧みな商売をして、ますます裕福になっていく。その一方で労働者は職のない状態に追い込まれ、さらには奴隷状態にまで陥ってしまう。そんなどん底の状態になると、必ず生じるのが病気や障がい、精神疾患でした。しかし、薬や医療は当時とても高価だったため、彼らには手が届かなかった。

彼らは、体が蝕まれていくだけではなく、社会的にも差別され、「ほら見ろ、罪の結果がこれである」と蔑まれ、宗教的にも罪人として生きていたわけです。そうなると、もう這い上がることができず、滅びだけが待っていることになる。そんな彼らが唯一頼れるのは、おまじないとか、魔術とか、奇跡だった。イエスはこうした底辺にいる人たちと同じ場に身を置いて癒しを行っていったそうなのです。

それで、イエスが行った奇跡について、一つの特徴を指摘している学者さんがいるそうです。その特徴は「帰還命令」というそうですが、イエスは奇跡を行った時、しばしば「帰るように」という言葉を付け加えているそうなんですね。

「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」

「行きなさい」「帰りなさい」。この意味は、それまで家に帰れなかったことを意味するといいます。「罪人」「汚れたもの」とされた状態から、もう一度家族や社会に復帰できるようになる。当時、人から忌み嫌われるような病にかかるということは、死んだ状態と同じであり、治ることは、体を癒されるというだけではなく、人として生きることそのものを回復させるということを意味するそうです。それほど当時の貧しい人たちというのは悲惨な状況にあったということです。

だから、イエスはただ魔術師のように奇跡を見せて自分の力を示したわけではない。最期は十字架上で自分を救う奇跡は起こさなかった。その時代と社会の必要に応じた形で、ただひたすら人を救うためだけに働く、それが聖者の生きざまなんですね。

 

キリスト誕生

では、素敵なクリスマスをお過ごしください。

 

                                 ユクティー

 


「新訳 ラーマーヤナ」

皆さん、こんにちは ダルミニーです。

さて、いよいよラーマ王子の潅頂式(かんじょうしき)が執り行われることとなりました。(豆知識:潅頂とは、昔インドで国王の即位や立太子の儀に、四大海の水をその頭頂に注いだ儀式のこと)

「その時、アヨーディヤーに住む人々はみな大喜びであった。すべての市民たちはラーマの潅頂式のことを聞いて夜が明るくなり始めたのを見て、街を飾り始めた。白い雲の峰のようなすべての神殿に、四つ辻に、大通りに、また祠堂や見張塔に、さらにすべての集会所や名のある樹木に、旗が掲げられ、のぼりが幸福に満ちてひるがえった。舞踏者群や歌い手たちの歌う、心や耳を楽しませる歌声が聞かれた。都民たちは、美しい都城の大通りに花や供物を飾り、白檀香や沈水香をたいた」

アヨーディヤーの都城はお祭り騒ぎです。幸福に満ちた人々や街の様子が目に見えるようです。なぜなら民衆の愛するラーマ王子が皇太子となるのですから。

「この世の高下貴賎に通じているラーマ様が我々の偉大な王となるのだ。あの方は我々すべてを幸福にしてくださる。あの方は高慢でなく、学識があり、法を愛し、兄弟を愛する方だ。しかもあのラグ王家の王子ラーマ様は自分の兄弟たちに親切であり、それと同じように我々にも親切な方だ。非難するところのない徳の高いダシャラタ王が長寿でありますように。この王の恩寵によってラーマ様が潅頂されるのを、我々は見るのだ」

このような人が日本の総理大臣になってほしいものですね。人民は安心して暮らしていけるというものです。ラーマ王子の潅頂式のことを伝え聞いて集まった地方の人々で、ラーマの都城は満ちあふれています。

ところでカイケーイー妃の母方の家のマンタラーという召使いの女が、カイケーイー妃と一緒に住んでいました。ラーマの皇太子即位の話を聞いたマンタラーはカイケーイー妃の幸福を願い、ラーマを不幸な目にあわせ、苦しめようと、寝所にいるカイケーイー妃に報告に行きます。

しかしカイケーイー妃は、喜びに心をはずませ、マンタラーに清らかな飾りの品を与えます。

「マンタラーよ、そなたが私に話してくれたことは最高の慶事です。私にとって喜ばしいことです。ラーマとバラタを私は差別していないのですよ。だから王がラーマを王位につけられることに、私は満足です。甘露のような素晴らしい話でした。最高の贈り物をあげます。好きなものを選びなさい」

その時代は良い知らせを持ってきた者に、自分の宝石などを惜しみなく与えていたようです。カイケーイー妃はなんと清らかな心の持ち主なのでしょう。それまで三人の王妃は本当に仲良く暮らし、四人の王子をみな自分の息子として育てていたのです。妬みやそねみのないラグ王家の人達、ラーマ王子もまた、三人の妃を自分の母親のよう慕い、分け隔てなく誠実に仕えていたのです。シェークスピアの物語や、中国の皇室の恐ろしい物語を知っている私たちにとっては、なんと差別のない、平和で幸福な王家なのでしょう。私の息子、私の財産、私の、私の……、このエゴのはびこる世界が私たちの今住んでいる世界です。きっと私たちはそうではない、他者の幸福を喜ぶ時代にも生きていたに違いない、そのようなエゴのない姿が、人間本来の姿であるはずだと私は信じて疑わないのです。

しかし悪事をたくらむマンタラーは、非常に悲しみ、深いため息をついて、与えられた装飾品を投げ捨て、ラーマ王子が大地を統治する時にはバラタ王子は殺されるだろうと、カイケーイー妃の心を惑わします。最初からだまそうと近づく者に勝てるわけはありません。何度もせむし女の言葉の矢に射抜かれ、傷つけられたカイケーイー妃は、マンタラーの言葉をすっかり信じこんでしまいます。マンタラーはさらに、以前ダシャラタ王が二つの願いを叶えることを贈り物としてカイケーイー妃に与えたことを思い出させ、一つ目はバラタ王子を王とすること、二つ目はラーマ王子を森に十四年間追放することを、王に要求するようにと妃に迫ります。カイケーイー妃は、せむし女の言うがままになって『怒りの間』に入り、地上に横たわります。

「マンタラーよ。私はここで死ぬと王様に申し上げなさい。ラーマが森に行けば、バラタが国土を手に入れるでしょう。私は黄金も財宝も宝石もいりません。食物もいりません。ラーマが潅頂されるならば、それは私の命の終わりとなりましょう」

その時、顔は高まる怒りの闇に覆われて、最上の花冠や装飾品をはずし、心の乱れた王妃は、あたかも闇に覆われて星がみえなくなった空のようであった。

そんなこととは露知らず、ダシャラタ王は寵愛する妃にこの吉事を知らせるため、後宮に入っていきます。カイケーイー妃は常からラーマ王子のことを、自分にとっても長男であり、威徳に輝く法の最高の守護だと、ダシャラタ王にも話していたのです。美しい妃の喜ぶ顔を見にやってきた大王、これから悪夢のような出来事が起こります。

ジャイ・シュリー・ラーマ  次回をお楽しみに

詩人ヴァールミーキ
ラーマーヤナを作成する詩人ヴァールミーキ

 ダルミニー