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“至福に浸る聖女” アーナンダマイー・マー

『あるヨギの自叙伝』で、ベンガルの“至福に浸る聖女”として紹介されているアーナンダマイー・マーは、1896年4月30日に、東ベンガルで生まれました。

「私は、このかりそめの肉体を自分として意識したことは一度もございません。この地上に生まれる前も同じでした。子供のころも、私は同じでした。成長して女になっても、私は同じでした。(中略)今後、神様のおつくりになったいろいろなものが永遠の舞台の上で、私の周囲を踊りながらどんなに移り変わって行っても、私はやはり同じでございましょう」

『あるヨギの自叙伝』P472

グルは一人もおらず、聖典なども全く知らなかったにもかかわらず、『あるヨギの自叙伝』に載っているこの言葉に表されるように、アーナンダマイー・マーの生涯は一貫して本質と一つでした。36歳頃からは、家を持たず、旅を続けていて、一カ所にわずか二、三日、多くても二、三週間留まるのみという生活をされました。いっさいの執着を棄てて、心のすべての思いを神に捧げました。個人的な好き嫌い、熱望や反感、努力や葛藤、恐れや怒りが全く無く、自我意識と見なされるようなものを表わさず、神の意思・意図と解釈されるケヤーラと呼ぶものに従って行動されました。

至福に浸ると形容されるアーナンダマイー・マーですが、私はその生涯に触れて印象に残ったのは、放棄です。生活面や物質的な放棄はさることながら、心の放棄が完成されていました。常に神の意思・意図に従って行動され、通常の原因と結果の過程に左右されない完全に自由な状態だったからこそ、その目は片時も神から離れなかったのだと思います。

アーナンダマイー・マーの心の放棄を見倣うためにはどうしたらいいでしょうか。その質問の答えが残されています。

「失われることのない彼を思いなさい。彼だけを瞑想しなさい。彼、すなわち美徳の源泉である者を。彼に祈り、彼に頼りなさい。ジャパと瞑想に、もっと時間を割くようにしなさい。彼の御足の下に、あなたの心を明け渡しなさい。ジャパと瞑想を、途切れることなく持続させるよう努めなさい」

『シュリ・アーナンダマイー・マーの生涯と教え』P154

 

絵:アーナンダマイー・マーとヒマラヤ山

1927年アーナンダマイー・マーと側近たちは、ヒマラヤのリシケシとハルドワールにある神聖な巡礼の地を訪れました。その後も北インド全体を常に歩き回り、宗教的な祝祭、キールタンとサットサンガが行われたそうです。

サルヴァーニー


グルデーヴァ!【番外編】―『あるヨギの自叙伝』より―

「お前は、どうして団体的な仕事をきらうのだね?」

パラマハンサ・ヨーガーナンダが、師であるスリ・ユクテスワからこう問い掛けられました。
【前編】【後編】←はこちらから。)
現在では広く世界に知れ渡っている偉大な聖者ヨーガーナンダですが、師に出会って僧侶となり修行に励んでいた20代半ば頃は、「団体や組織などというものは蜂の巣のようにうるさいものだとしか考えていなかった」といいます。
冒頭の師からの質問に対してヨーガーナンダは、「私は図星を指されて一瞬面食らった」とあります。それを読んだ読者の私もまた、この鋭い質問にはドキッと面食らいました。私も同じように考えていたところがあったからです。

さて話を戻します。
ヨーガーナンダは師に言いました。
「先生、団体の運営なんて面倒な思いをするだけで割に合いません。先に立つ者は、何かをすればしたで、また、しなければしないで、文句を付けられるだけですから」
厳しい眼差しでスリ・ユクテスワは仰います。

お前は、神の甘露を独占していたいのかね?

もし、寛大な心をもった大師たちが、進んでその知識を分け与えてくれなかったら、お前にしても、だれにしても、ヨガによる神との交わりを実現することはできなかっただろう

神を蜂蜜とすれば、それを分かち合うための団体は巣箱のようなものだ。どちらも必要なものだ。もちろん中身がなければ、箱だけつくっても意味がないが、お前はもう十分な霊的甘露をたくわえている。そろそろ巣箱の建設に取り掛かるべきだと思わないかね?

師の助言はヨーガーナンダを深く動かしました、「そうだ、私は今まで先生のもとで学んできた人間解放の真理を、できるだけ多くの人々に分かち与えなければならない!」。
そして、ヨーガーナンダは、以前から抱いてきた理想――青少年に正しい人間教育を施す――を実現するため、学校を設立しようと決心し、ベンガルの田舎で7人の子供たちの教育をすることから始めました。

このエピソードを読んだとき私は、団体や組織がなぜ必要なのか?その理由をこれまで考えたこともなく、ただ拒否反応を示してきただけだったことに気付かされ、スリ・ユクテスワのお言葉を聞いて、本当だ・・・と、もう返す言葉もないと思いました。ブッダの教えや、ラーマクリシュナの教えにしても、やはりその巣箱であるサンガ(修行者の集まり)や団体があったからこそ、今、私たちがその教えに触れることができているのかもしれないと思いました。

パラマハンサ・ヨーガーナンダのSRFと言えば、世界規模の大きな団体というイメージが私にはあり、さらに学校を設立・・・なんて聞くと、もう行為の規模が大きすぎて、自分とはかけ離れた偉業を成された大聖者!そのイメージだけが先行しがちでした。しかし、学校を設立されたのも、まず初めの小さな一歩があったことを見逃してはいけなかったのです。

『あるヨギの自叙伝』には、ヨーガーナンダの前に進むがための葛藤や、困難と誠実に向き合い努力された軌跡や、そしてそういう時に切実に神を純粋に求め、決して諦めずに神の声を頼りに歩を進められたこと、それらが散りばめられているように感じます。ヨーガの道は決して平たんではないことを誰よりも分かっておられるからこそ、さまざまなエピソードを、ユーモアを交えながら時には赤裸々に記してくださっているように私は思えます。記し、遺すことによって、後に続く者たちを励まし、鼓舞し、また今も一歩先で先導してくださっていると思います。

晩年の1940年~1950年頃のことが書かれている章に(※初版には書かれていない内容もあります。)今日の時代においては、ヨーガの学習にも、時代に即応した新しい方法が必要であり、さもなければ、この人間解放の科学は、再び少数の選ばれた人だけのものとなってしまう、ということが書かれていて、「だれもが、完全な英知をそなえた真の聖師(グル)を身近にもつことができたら、たしかにそれに越したことはない」とあります。しかし、現実的には大勢の人間に対してわずかな聖者しかいないので、大多数の人々にヨーガの恩恵を分かち与える必要性について触れられていました。

ヨーガーナンダはまさに自叙伝という形でそれを成されたのだと私は思いました。未来の人たちのために、胸のうちの最も神聖なババジとの出来事までを公開してくださっていますが、他の弟子たちは、伝記によって大師がかえって小人化されたり、誤り伝えられたりしないかと懸念したりして、自分たちの胸の中の不滅の師として大切にしまっておくことに満足していたそうです。そんななかで、ヨーガーナンダは、大師たちの存在を明かしてくださったのです。
周りの人が反対してくる中で、独り信念を貫くのは、並大抵の困難さではないと思います。ヨーガーナンダは、自分の自叙伝として遺されたことで、本当に人生全てを人類に、神に、捧げられたのだと思いました。

多くの人と、このヨーガの叡智を分かち合うために、今の私が自分に置き換えて自分ごととして考えるならば、私たちが師から学んでいることを例えば現代ならではのオンラインでのクラスやSNSなども活用して分かち合うこと、また『マハーヨーギーの真理のことば』を様々な媒体を使って多くの人へお届けする方法を一人一人が積極的に考えることもそれに繋がると思いました。行為の大きさではなくて、教えを一つでも自分が確実に生き、それを隣の人へ行為すること、それが届けるということの初めの一歩の始まりなのだと思いました。
師がお伝えくださっている古から続く真のヨーガを、大師たちが分け与えてくださったこのヨーガの叡智を、決して自分たちのところだけで留めませんように!

※参考・引用『あるヨギの自叙伝』

ヨーガーナンダ

 

ナリニー  


『マハーヨーギーの真理のことば』 全ては同じ存在である

他者との関わりについて、私がもの物心ついた頃から両親や学校の先生に教えてもらったと記憶しているのは、「相手の立場に立って物事を考えなさい」ということでした。確かに自分がされた嫌なことは相手も嫌だろうとは思うものの、なんだかぼんやりした曖昧なもので、なんとなくそうしないといけないものと捉えていたと思います。そしてそれをしたとしても気の合う人だけだったり、機嫌が良いときだったり、いい加減なものでした。時には傷ついたり傷つけられたり、人間関係ってそんなものじゃないの?と思って生きてきました。ですが真理の教えと出会って、なぜ相手の立場に立って物事を考えないといけないのかが、だんだんと腑に落ちるようになっていきました。

『マハーヨーギーの真理のことば』第5章の中で、その答えが明確に書かれているのでご紹介します。

真理というものを学ぶならば、最初に気付かされることは、全てのものが平等であり、尊いということです。ここにおいては自らと他者、あるいはその他の動物や生き物、全てにおいて差別観を持ってはいけない、全ての中に同じ尊い存在があるということです。そうすると、誰かが誰かに暴力を与える、与えられるという関係は矛盾するでしょう。それは平等ではなくなる。これは真理に反することです。盗む、盗まれるもそうです。真理というところから見ても、当然の行為のあり方です。そういうふうにまず真理をもって理解することで、自らの心の制御が為されるし、また行為が正されていくと思います。もちろん行為は実践を通して行なわれますから、確実なものとしてそれが本当の修行というものになっていくと思います。単に頭の知的理解だけでは駄目、体を通して体得していくことが求められます。

教えを学び始めてから程なく、全ての中に同じ尊い存在を見るように努め、言葉も、行為もそれに矛盾なく沿わせていくという実践が始まりました。私が特に意識してきたのは誰に対しても暴力的な思いをもたないようにするということです。うまくいかないことは多々ありました。余裕がなくて優しくなれなかったり、いやいやこれはこの人が悪くない?と葛藤したり、ああかな?こうかな?と経験を繰り返すうちに、徐々に自分の心の形相が見えてきました。

自分の中に他者に対して暴力的な思いがあると、心の中がずっともやもやして、気分を変えようと場所を変えても、誰かと話しても、結局気分は晴れずにずっとしんどい思いを抱えているのです。

(なるほど、この世を見渡すと数多くのものがそれぞれ点在しているように見えるけれど、そうではなくて、師が仰っているように全ての中に同じ尊い存在があるのかもしれない。もしそうだとしたら、他者は自分自身ということになる。他者に暴力的な思いを持つと自分が苦しいと感じるのは、結局自分に対して暴力を振るっているのと同じ。そうか、相手がどうこうではなくて、自分が同じ存在を見ていないから苦しむのだ)と実践を通して少しずつ心が理解するようになっていきました。

今までの心の習性からこの世界を見るか、それとも真実の方から見るか。どちらから見るのかによって、天国にでも地獄にでもなる。自分が天国を見たいのなら、自らの心の持ち方や言葉遣い、行為の全てに責任を持たないといけないということが分かってきました。

—————–

第5章は全ての中に尊い同じ存在があることを体得するための、日常の行為の秘訣が書かれています(他者との関わりにおいて守るべき教えをヤマ、自分に対して守るべき教えをニヤマと呼びます、詳しくは以下の通りです)。

ヤマ(禁戒)他者に対する行為と言葉と想念の制御
 アヒンサー(非暴力)ー一切万物を傷つけてはならない
 サティヤ(正直)ー真実だけを語り、誠実であること
 アステーヤ(不盗)ー何ものも盗んではならない
 ブラフマチャリヤ(純潔)ー純潔であること
 アパリグラハ(不貪)ー必要最低限の物以外所有せず、贈り物を受け取らない

ニヤマ(勧戒)自らに対する行為と言葉と想念の精進
 シャウチャ(清浄)ー身心を潔斎浄化する
 サントーシャ(知足)ー生きる上で必要最低限度で足りたるを知る
 タパス(苦行)ーあらゆる身心の二元状況を克服する
 スヴァーディヤーヤ(聖典学習)ー真理への理解を育む
 イーシュヴァラ・プラニダーナ(神への誓願)ー神への帰依

本の中ではヤマ・ニヤマ一つ一つの戒律について、具体的にどう考え実行すればいいのかがとても分かりやすく書かれています。読んでいると面白くて、ワクワクしながら読み進めていけます。そしてすぐに実践しようと思えるものばかりです。ぜひ読んで、実践して、味わってみてください!

アマラー

 


聖者の息吹を感じる! 春の祝祭

今年は例年よりも桜の開花が早いですね。 
すでに満開を迎えたところ、これから開花を迎えるところ、様々な場所で、春の喜びを感じられていることと思います。 

そんな中、マハーヨーギー・ミッションでは、2023年4月2日に春の祝祭「サナータナ・ダルマ・アヴァターラ・メーラ ー神性示現大祭ー」が開催されます。

2017年に始まったこの祝祭は、永遠の真理を完全に体現された神の化身、アヴァターラに感謝と歓びを捧げる祭典です。 

これまでブッダやシュリー・ラーマクリシュナなど、偉大なる大師たちの生き様に迫ってきました。 
最初はこの祝祭がどんな会になるのか想像がつきませんでしたが、ブッダをテーマに取り上げた祝祭で、その意味がはっきりと分かりました。 
ブッダについて名前やどのような生涯だったかは知っていても、どこか遠い存在だったのが、グルバイたちの祝辞を聞く中で、ブッダの息吹を感じ、その人となりに触れることができたのです。 
会場にはグルバイの熱気が充満していて、この上ない歓びで胸がいっぱいになった感覚は、今もはっきりと覚えています。 

2021年からはオンラインでの開催となりましたが、画面を通して各地と繋がることで、離れた場所にいても歓びのひと時を共に過ごせるありがたさを感じています。 

今年の春の祝祭で取り上げる聖者は、パラマハンサ・ヨーガーナンダ。 
ヨーガーナンダの、子供のような純粋さで熱心に神を求めていく姿からは、素直さと揺るぎない信仰心を感じます。 Snatana Dharma Avatara Mela

ヨーガーナンダはどんな人であったか。 
グルバイたちが様々な視点で迫ったヨーガーナンダを知ることができる祝祭はもうすぐ。とても楽しみです! 

 ハルシャニー  


ラージャ・ヨーガ「ヤマ」の実践で気付いたこと

松山と東京のクラスを結んで昨年5月に始まった「ヤマの会」ですが、先月、ヤマの5つの教えの実践を終えて一旦会を終了することとなりました。

「ヤマ」とは、ラージャ・ヨーガにおいて一つ目に挙げられている修練であり、日常でおこなわれるとても大切な教えです。

アヒンサー(非暴力)
サティヤ(正直)
アステーヤ(不盗)
ブラフマチャリヤ(純潔)
アパリグラハ(不貪)

私たちは教えを順番に実践し、オンラインで実践したことや感想などを話し合ってきました。

最初の頃、「私は人から盗むことも嘘を付くこともしない」と、ピンとこないところがありましたが、たとえば、人の考えをさも自分が考えたように言ってしまうこともアステーヤに反することや、根拠が曖昧ないい加減なことを言ってしまうこともサティヤに反するということを知り、どれも私はよくしていたことなので身が引き締まりました。本を読んで得ただけの知識だと納得してそこで終わってしまいがちですが、ヤマの会ではテーマについて話し、実践し、また振り返りをするのでより深まると思いました。
そして皆さんのいろいろな捉え方、実践を伺えるのはとても勉強になりました。
また、できないと落ち込んだ時もあったのですが、皆さんのヨーガへの真剣な姿勢とともに前向きな明るい姿に、ヨーガって楽しい!という思いが伝わってきて、たとえ少しでも出来たことを喜び、半歩でも前へ進もうと思うことができました。

オオイヌノフグリはいち早く春を教えてくれます。

私は実践していく中で気が付くことがありました。
アヒンサーを学んでから家族を傷付けないようにしていたつもりでしたが、ちょっとした言い争いをしてしまい、その直後私が今まで家族にとってきた良くない態度やきつい言い方が、そのまま自分に返ってきていることにはっきり気が付き、驚きました。身口意(行為・言葉・思い)を一つにしなければ、と改めて思いました。
そんな時、『マハーヨーギーの真理のことば』の御本が届き、パッと開くと「身口意を調える─ ヤマ・ニヤマの実践」とありました。
ヤマ・ニヤマの章を読んでいく中でヨギさんの次のお言葉に、私は胸の奥がぎゅっとなりました。

「平等ということを徹底することによって、それらの戒めは自然と身に付くことになります。これがヤマに対する一つの考え方の基本です」

平等ということを徹底する————
この教えを日々深め、実践を続けたいと思いました。

皆で相談をして、4月から今度は「ニヤマの会」が始まります。楽しみです!

ツタバウンランと蟻。小さな命に見入ってしまいます。

中村 凪


『マハーヨーギーの真理のことば』第四章 ヨーガの道

『マハーヨーギーの真理のことば』第四章のレヴューをお届けします。この章では、世界を生きていくのには二つの道がある、と書かれています。

一つはカルマの道。カルマとは作用と反作用、原因と結果のことであり、蒔いた種は刈り取らねばならない、ということ。
私たちは過去世で蒔いた種を刈り取るために生まれ、生涯をカルマの結果を刈り取るために過ごし、さらに新しいカルマを作り続け、今生を終えたら次のカルマを刈り取るために再び生まれる。カルマの道にゴールはなく、苦しみが果てしなく続く……なんだか書いているだけで苦しくなります……

もう一つはヨーガの道です。そのゴールは、誰もの胸の内奥に在る真実、本当の自分に目覚めること。私たちが生まれてきた本当の意味はヨーガの道にある、そして誰もがそれを実現することができる。「真実とは何かーーそれだけを探究し実現しなさい!」と力強く書かれています。

どちらの道に進めば本当の幸せを手にすることができるのか、自由になれるのかは明白です。しかしヨーガの実践を続ける中で、ヨーガの教えよりも染み付いた習慣や思いの方に心地よさを感じ、それらを棄て切れないこともある……そんな私の心をお見通しであるかのように、シュリー・マハーヨーギーは次のように言われています。

「心を制御したり、感覚を制御したりするから不自由であって、束縛されているというふうに心は誤解しているけれど、実はそうではなくて、ヨーガは結果として自由をもたらす。それは心にとっての自由がもたらされる。そのからくりを心は知らない。
習慣的に身に付いた嗜好とか、好き嫌いとか執着とか、そういうものについ縋ろうとしているけれど、それはいわば、ちょっと起きるのは寒いし、まだ布団の中が気持ちいいとか、微睡んでいるような、そんな状態に例えられる。でもぱっと目覚めて起きたら、どんなに気持ちよく自由に行動できることか。布団の中では何もできない。
だから、ヨーガを誤解してはいけない。むしろ本当に自由になりたければ、ヨーガをしなければならない。その誤解をまず解いていく。そしてヨーガを進めていってごらん。自由になれるから」

この冬、眠くて布団から出たくない……そんな朝、私はこのお話を思い出し、「微睡んでいてはいけない!布団の中は暖かく、また身に付いた思考や習慣にすがることは楽だし心地よいかもしれないが、ここに自由はない。目覚めよ、私!!」とプラーナを変える訓練をしていました。

「ヨーガというのは正しく自らの魂を復活させるための一大事業」だと、シュリー・マハーヨーギーは言われています。簡単な道であるはずがありません。しかし、ヨーガの道を歩むと決めたならば、その教えを自ら実践し確かめ、一歩一歩進んでいく。ぱっと起きて行動し、日々その清々しさを感じるーー実践こそが道を歩む上で必要なことです。そうすれば確実に自由へと近づいていくのだと私自身感じています。

「たとえこの生涯においてそれが完成に至らなくても、その智慧を失うことはない。決してカルマの道に後戻りすることはありません」とも書かれているこの章を読むと、過去ではなくこの刹那を生きることこそ全て!と前を向き、「本当のことを知りたい!!」とハートに沸き起こったあの情熱に一瞬で立ち戻り、絶対にヨーガの道を諦めない!!と自らを奮い立たせることができるのです。諦めたら終わりだし、諦めるのは私の心であり無知から出てくる思いなのですから。

ヨーガの道を歩むために必要な教えが書かれているこの本と、同じゴールを目指す仲間と、そして何よりも大切な最愛なる師とともに私は歩み続ける!!その思いに立ち返ることのできた第四章でした。

ターリカー


グルデーヴァ! 【後編】―『あるヨギの自叙伝』よりー

前編(→前編の記事)では、ヨーガーナンダが真正の師、スリ・ユクテスワにめぐり会い、厳しくも愛ある薫陶を受け、師の下で生涯の最良の十年間を過ごしたこと、そしてそのすべてはババジ、神の導き、計画であったことに触れました。『あるヨギの自叙伝』に貫かれているものは、ヨーガーナンダの大師への敬愛と、また大師の完璧なる導きだと感じました。
なかでも私が最も感銘を受けたのは、数世紀にも渡って今も生きておられ(!)「唯一の隠れた力である創造主のように、地味に目立たぬように働いておられる」というババジの教えです。


ヒマラヤの山中を少数の弟子たちと移動されているババジの一団の下に、ある時一人の男が現れて、崖の上の岩棚によじ登って言った「大師よ、あなたは偉大なババジに違いありません」。男の顔は言いようもない崇敬の念で輝いていた。
「私はここ幾月もあなたを捜し求めて、このけわしい岩山をあちこちさまよい歩きました。お願いでございます。私をお弟子に加えてくださいませ」
ババジは何の返事もなさらなかった。すると男は、はるか下の岩の裂け目を指して言った「もし受け入れていただけなければ、私はここから飛び降りて死んでしまいます。大師の、霊のご指導を受けることができないなら、私はもう生きていても無意味でございます」。

「では飛び降りるがよい」ババジは冷然とお答えになった「私はお前を、今のままでは弟子にすることはできない」。
男は崖下めがけて身を投げた。ぼう然とこのありさまを見ていた弟子たちに、ババジは男の死体を取ってくるように命じられ、見るも無残な男の死体の上に手を置かれた。すると、男はパッと目を開いてババジの足もとにひれ伏した。
「これでお前は、私の弟子になる資格ができた」ババジは死から甦った弟子をにこやかに見ながら仰った「お前は勇敢にも、この厳しい試練に打ち勝った。死はもう二度とお前を見舞うことはないだろう。今こそお前は、われわれ不滅の仲間の一員になったのだ」

※もし男が飛び降りることに躊躇したら、ババジの導きなしに生き長らえることは無意味だと言った言葉が嘘であったことになり、また、師に対する完全な信頼に欠けていたことを暴露することになる。それゆえ、この試験は、思い切った異常な手段ではあったが、この場合完全な試験方法だった。


目まぐるしい毎日の中で、いくつかの壁があるように思えて私が混乱していた時、このババジの言葉が突き刺さりました。
私はお前を、今のままでは弟子にすることはできない

・・・ヨーガは実践。師であるヨギさんと燦然たる大師たちの凛々しいお顔が浮かび、ヨーガの道を進むために導いてくださっていることを感じ、壁があるならぶつかっていこう、と思いました。砕けるのは、エゴであり、真の自己は決して砕けない。だから恐れずに、当たって砕ければいいと思いました。
ヨーガーナンダは、古から伝えられてきた真理、神を悟るための道を、先達に続き世界へ具体的な形で伝えられましたが、それは時空を超えたババジの導きであることが、はっきりと本の中に開示されています。師の言葉、神の導きを完全に信頼し、まっしぐらに突き進んだヨーガーナンダは、勇敢に壁にもぶつかり崖下へも躊躇なく飛び降りたと私には思えます。これこそが生涯を懸けた大事業、ヨーガなのだと思いました。

今回、久しぶりに一から読み返した『あるヨギの自叙伝』。ヨーガーナンダの溢れる愛とユーモアに、泣いたり笑ったりしながら一気に読み終え、ヨーガーナンダの聖なる魂の息吹が、颯爽と駆け抜けていったようでした。
時空を超えた大いなる導きに、感謝を捧げます。
グルデーヴァ!!!

ヨギの自叙伝カバー

1946年、初版のブックカバーの写真

※参考・引用『あるヨギの自叙伝』

ナリニー  


グルデーヴァ! 【前編】―『あるヨギの自叙伝』よりー

真実の師の存在がなければヨーガの道は一歩も進めないことを、私は『あるヨギの自叙伝』を通してパラマハンサ・ヨーガーナンダから教わりました。インドでは生涯をかけて師を探すと言われています。

少年時代から霊的探求心の深かったヨーガーナンダは、師を求めて聖者、賢者を訪ね歩き、青年になると家を飛び出し僧院に入ります。17歳の時、導かれるように行った外出先の狭い小路で、ついに真正の師、スリ・ユクテスワとめぐり会いました。スリ・ユクテスワのその神々しい顔は、ヨーガーナンダが何百回となく幻に見た顔。狭い小路で、じっとヨーガーナンダを見つめていたスリ・ユクテスワのもとへ、ヨーガーナンダは急いで駆け寄り、足もとにひざまづきます。「グルデーヴァ!(尊い先生!)」それ以上、言葉を発することができず、もう言葉は必要なく、沈黙のうちに二人の心は溶け合いました。

実は師の僧院とヨーガーナンダの実家は近い距離だったのですが、過去に師の姿を見たこともなく、このめぐり会いはそれぞれの外出先でのことでした。ヨーガーナンダは念の入った神の演出ぶりに驚いたといいます。ところが彼は、その後、師から家族のもとに帰りなさいと言われるも、霊的生活を求めるあまり「私は家には絶対に帰りません」と言います。師は仰いました「お前が安易な気持ちで私の弟子になるのを認めるわけにはゆかない。私の弟子には、私の厳格な訓練に対する絶対服従が要求されるからだ」。すぐに弟子になることが叶わなくなったヨーガーナンダは、奇跡的なめぐり会いがどうしてこのようなちぐはぐな結末に終わってしまったのか・・・と夜道を歩いて帰ります。しかし数日後、結果的には実家へと帰ることとなり、そこで家族との問題を円満解決してから、一カ月後に師の下で霊的訓練を受ける環境が与えられたのでした。
まさに師は、弟子が解消すべき問題や義務を果たしてからヨーガの道に邁進できるように、大切に弟子の人生を完璧に導かれていることを私は感じました。一見、遠回りに思えることでも実はそれが近道なのだと。

師に自分の心理的ひずみを取り除いてもらう不屈の決意をしていたヨーガーナンダは、その時のことを「私の慢心を打ちくだくために加えられた先生の容赦ない叱責のむちに今でもはかり知れない感謝をいだいている。先生はまるで虫歯を一つ一つ探し出しては強引に引き抜くように、私の欠点を取り除かれた。執拗な自己中心主義の根は、このような手荒な手段でなければなかなか根絶することはできない。この根が取り除かれてはじめて、神は人間の中に自由な通路を見いだすのである」と記されています。スリ・ユクテスワからは「もし私に叱言を言われるのが嫌になったら、いつでも出ていきなさい」「私はお前の進歩だけを期待している。お前がここに居てためになると思ったらとどまっていなさい」と厳しくも愛ある薫陶を受けていました。

私は、大先輩から聞いた「師は弟子を導くために存在されている」という言葉を思い出します。弟子の身に起こることは自己中心主義の根を取り除くための師からの導き。師は弟子にとっての障害を取り除き、道をスムーズにしてくださっているのです。そして欠点を取り除くその過程こそが実践。教わったことを実地で行動し実践してこそヨーガと言えることをヨーガーナンダが今、本を通して教えてくれます。

ヨーガーナンダが、師と過ごした日々のことを「生涯の最良の十年間を過ごした」と表現されている一文に、彼の師への言葉にならない思いを感じて胸が熱くなります。読んでいくと、ヨーガーナンダと師スリ・ユクテスワの、またスリ・ユクテスワの師のラヒリ・マハサヤの、そのまたさらに師のマハー・アヴァターラ・ババジの、それぞれの大師たちと弟子との純粋な愛の物語に触れると同時に、今もその続きが繰り返されている・・・と思わずにはいられません。ヨーガは本当に師から弟子へと直伝されてきた宝なのです。

ヨーガーナンダはババジとスリ・ユクテスワからの命である西洋にヨーガを伝えるという聖なる責任を果たされましたが、それは決して生易しい仕事ではなかったといいます。後年、その仕事に対してやりがいがあったかどうか?という質問に対して「主の試練を受ける者は幸いです。主は、ときおり私を思い出されては、私に重荷を背負わされました」と答えられ、そして続けられます「しかし、私の答えは断じて『イエス』です。東洋と西洋が永遠の霊的絆によって互いに固く結ばれてゆくのを見るとき、私はこの仕事がはるかにやりがいのある仕事であったことを痛感します」。
どんな事も神から与えられたものと信じ委ねるヨーガーナンダの純粋な信仰心、そして主の仕事の歩みを絶対に止めずに推進していく強さに感服します。その源にあるのは師の存在・・・師と弟子との特別な絆について、ヨーガーナンダから私は教えていただきました。
(後編につづく)

大師たち

(左から)マハー・アヴァターラ・ババジ ラヒリ・マハサヤ スリ・ユクテスワ

※参考・引用『あるヨギの自叙伝』

ナリニー  


純粋に想い、行為する

15年前の2月私は初めてサットサンガに参加しました。 
サットサンガとは、聖者の祝福と教えを授かる聖なる集いのことです。 
クラスで、一人一人の質問に対して師が答えてくださる対機説法という形だと聞いてはいましたが、私には特に聞きたいと思うことがなく、必要を感じませんでした。 

参加のきっかけとなったのは、N.Y.から来られていた先輩グルバイ言われた言葉でした。 
「まだヨギさん(師)にお会いしたことがないの!?もったいない!」 
その後、先輩グルバイから師のお人柄や行動について伺っているとお会いしてみたくなり、1週間後のサットサンガへの参加が決まりました。 
参加するのであれば質問を、と考えてみましたが、思いつかないまま当日を迎えました。 

サットサンガが始まり、まず、師が合掌されているお姿に目を奪われ、すっと背筋を伸ばした美しい座り姿に釘付けになりました。 
次に、質問する人が真っ直ぐに師を見つめる表情が印象に残りました。 
そして、質問に対して丁寧に答えられる師の優しいお顔と心地良く響くお声にどんどん惹きつけられていきました。 
また、師と質問する人との間には、何か強い結び付きのようなものがあるように感じました。 

問答を聞いているうちに、ヨーガの教えというのは哲学的なものとして存在する難しいものではなく、日々生きていく上で支えとなるものなのだと気付き、師に尋ねました。 
「人の役に立ちたいと思うのはエゴですか?」 
「純粋な信仰を持ってするならば、可能です。純粋にそれを想うことができたら、素晴らしいこと。崇高なものとなります。」 

「純粋な信仰」という言葉が強烈に胸に刺さりました。 
人の役に立てるようになりたいと思っているのに、私は「純粋」ではなく、「信仰」もないことに気付いたのです。そして自分の中に見て見ぬふりをしてきた問題があり、それが苦しみとなっていることを自覚しました。 
翌日も師にお会いする機会があり、私は立て続けに質問をしました。苦しみを一刻も早く解消して、本当に人の役に立つことができるようになりたくて、「純粋な信仰」が何なのかを知りたくて、必死だったのだと思います。 
師のお答えの中には、聞いた瞬間に受け入れ難い言葉がありましたが、師の穏やかに微笑まれているお顔を見つめていると受け入れることができて、「やってみます」と素直に返事をしていました。 

そんな風に誰かに対して素直になったことがなかったので、自分が自分ではなくなるような感覚でした。その感覚に戸惑いながらも、師に「やってみます」と言ったことを一つずつ実行していきました。 
日に日に私の中で師の存在は大きくなり、抱えていた苦しみは少しずつ消えていきました。 

グルバイの話を聞くと、理由や時期は様々ですが、皆目に見えない糸に導かれるようにヨーガに出会っていると感じます。 
それは私たちの中にすでにある真実が、真実そのものを体現している師に惹き付けられているからだと思います。 
初めてサットサンガに参加した時に感じた、師と質問する人との強い結び付きは、ともに永遠に変わることのない真実の存在であることを感じたからかもしれません。 

今は、人の役に立つことができるかどうかは気にならなくなりました。 
純粋に師のことを想い、同じように目の前の人のことを想い、行為したい。それが願いです。


近所の河津桜が次々と咲き始めました

ハルシャニー  


わが師

1896年2月24日、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダはニューヨークで「わが師」という講演をされています。
この講演の中でヴィヴェーカーナンダは、師であるシュリー・ラーマクリシュナに出会った時のことを語られています。

「初めて、私は、自分は神を見ると言い切る人を、宗教は感じることができるところの、われわれがこの世界を感じるより遥かにもっと強烈な形で感じることができるところの、実在である、と言い切る人を見出したのです。(中略)そして実際に、宗教は与えられ得るものであることを見たのです。ひと触れ、一べつが、全生涯を変えることができるのです」

シュリー・ラーマクリシュナと触れ合い、その真実を感じた人から発せられた言葉は、どれほどのリアリティを持って聴衆に響いたことでしょうか。その場で話の内容の全てを理解はできなくても、心の奥深くに強烈な印象を残したに違いありません。
シュリー・ラーマクリシュナの生涯は他の本でも読むことができますが、ヴィヴェーカーナンダが講演されたその光景を想像しながら読むと、その力強い姿、輝く姿が想起され、心が湧き立ちます。きっと瞳は輝き、声は美しく響いたのだと想像します。

サルヴァーニー