約30年前、中学2年生の時に同級生全員で英検4級の試験を受けました。
この英検4級は、60~70%という合格率をもって思春期真っ只中の少年少女の明暗を分け、合否判明直後の教室をちょっとしたお祭り騒ぎにします。さらに、合格者の遠慮のない浮かれっぷりが不合格者にとっては酷なものであるということも教えてくれ、私はそれをつらい方の立場から思い知ることになりました。
英語教師が生徒を一人ずつ部屋に招き入れ合否を告げていく中、どちらかというと学校の勉強はこなせる方だった私に『不合格』の通知がなされました。その瞬間もそれなりにショックだったのですが、その直後に英語教師が放った一言をきっかけに、私は大の英語嫌いとなり、以後、頑なに英語を拒絶するようになったのです。
落ち込む私を慰めようとしてか、あるいは鼓舞しようとしてか、教師はこう言い添えました。
「惜しかったね~。あと一問正解していれば合格だったのにね。」
⁉ ……あと一問?
この言葉を聞いた瞬間ショックが何倍にも膨れ上がり、急激に口惜しさがこみ上げてきました。というのも当時の英検4級の問題は、4つの選択肢から一つを選ぶ択一式がメインだったので、少なからず運の要素があったのです。「あと一問…」が頭の中でこだましている私は憤懣(ふんまん)やるかたなく、こう思いました。「軽く10問以上はあるとおぼしき誤答のすべてが、一問たりとも4分の1の確率に引っかからなかったのか」と。このエゴ丸出しで意味不明な確率論を振りかざしたあげく私は、英語から不当な扱いを受け、英語にひどく傷つけられた被害者の立場を採ったのです。そして英語に対して、被害妄想という言葉では追いつかないほどの逆恨みを募らせ、結果、私は見事にふてくされました。
その後、大学卒業まで10年ほど怨憎会苦を味わい続けましたが、二十代前半でようやく英語教育から解放され、以後は、もう今生で英語と関わることはあるまいと高をくくっていました。
しかし、このとき私は知らなかったのです。後に私を救ってくれるヨーガ、その兄弟姉妹弟子が世界中に(当然英語圏にも)存在していることを。
2019年の4月、春の祝祭サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラーに初めて参加した時、祝祭の前日、はるばるニューヨークから来日したレバノン人のグルバイ、プラパッティーさんとシャーンティ庵で共に過ごす機会が与えられ、私はおよそ20年ぶりに英語と再会したのです。(プラパッティーさん来日のブログ記事はこちら→ニューヨークの弟子プラパッティーの滞在🇯🇵🌸)
長年疎遠だったとはいえ、色濃く根付いた英語への苦手意識は全く色あせていませんでした。少しでも聞き取りたいという仄(ほの)かな望みは、聞き取れるはずがないという諦めの前に儚く霧消し、通訳を一手に担っていたゴーパーラさんが席を外している間は、その場にいた日本人グルバイのコミュニケーションに頼って、微妙な笑顔で相槌を打つのが精一杯。結局、遠路はるばる来日されたグルバイに対して、終始私の心は逃げ腰だったのです。
自分が学んでいるのと同じヨーガを、生まれ育った環境も触れてきた文化もまったく違うグルバイが実践してきた体験談を直接聞けることは、そのヨーガの普遍性を学び取り信頼を深める絶好のチャンスだったのに、英語の苦手意識に執らわれて、それを丸々逸したような気がしました。
このことがきっかけで、私は英語への苦手意識を何とか克服したいと思ってしまいました。でもそれは、ふとそういう願望が湧いてきた程度のことだったのです。しかし、望んだ瞬間からその実現に向けて全面協力してくれるというのがこの世界のありがたくも恐ろしいところで、すぐに英語の教材やテレビ・ラジオの番組、ネット動画等の英語関連の情報が、続々となだれ込んでくるようになりました。試しに注文した教材が家に届くまでの間に若干熱が冷めてきたことなど、今さら言えるような雰囲気ではありませんでした。
ならばもう今度こそやるしかないと、家に届いた「1日●分聞き流すだけで、驚くほど英語が…」的な教材で克服しようと目論んでいましたが、「だいたいこのくらいの期間聞き続ければ…」という期間をはるかに越えて聞き流しても一向に進歩を感じません。
その時ふと私は、このままでは、覚悟なく欲したことに中途半端に時間を取られ、何の成果も上げられず、未収穫のまま残り続けるカルマに苦しむという愚を繰り返すことになると予感しました。それで、一旦立ち止まって、真に刈り取らねばならないものは何かを明確にする必要があると感じました。
これまで生きてきた中で、たびたび苛まれてきた覚悟のない衝動的願望と忍耐不足や怠惰との不協和音が、ヨーガと出会った後に再び英語と関わることで浮き彫りになりました。わかりやすく言えば、三日坊主というやつですが、私のは、三日坊主という評価を避けるための中身のない努力の継続を伴った、いわば『隠れ三日坊主』ともいうべきものです。プラパッティーさんを通して英語との再会によって私が真に与えられたのは、この隠れ三日坊主の悪癖の原因を断ち切るための絶好の機会であると捉え、その原因にしっかり焦点をあてて、今度こそ根こそぎにしようと決意を新たにしました。
中学生の時、英語教師の何気ない一言に過剰に反応してしまいました。「不合格? ……この私が?」という反応、その不合格の原因を何としても自分以外に見出そうとする姿勢、すべては己の傲慢さが原因です。必要なことは、不合格の結果を謙虚に受け止め、余計なことを考えずに真摯に勉強をすることだけなのに、謙虚と対極にある私の傲慢さは、自分がすべき努力を他人のしりぬぐいのように感じ、行為し始めるや否やすぐに苦手意識を生んでしまいます。そして自分自身に三日坊主という烙印を押さないために、早々にやる気の失せた中身のない努力、すなわち努力するふりに時間を費やすのです。必要な覚悟や決意をせず形だけにこだわる悪癖に気づいたとき、私は、英語の克服という美名で着飾った努力するふりをやめることにしました。そんなことに費やす時間があるのなら、サーダナ(ヨーガの修練)にあてた方がはるかに有意義です。私が知る、悪癖を根こそぎにする唯一の手段はヨーガであり、それは同時に目的でもあるのですから。
だからといって今現在、英語との関わり自体を完全に断ったわけでもありませんが、特に形にこだわったり惰性で努力を装うようなことだけはせず、自然に入ってくるものや現在縁のあるものを活かせる範囲内で英語と関わろうと心掛けています。そう心掛けることで自然と、頑なだった苦手意識が徐々に薄れていっているような気もします。
英語への逆恨みを募らせた学生時代。私を苦しめている犯人は英語(と歴史と古文)に違いないと、あらぬ疑いをかけて忌避し続けてきました。その英語が、時を経ても霊性の向上が見られない私に気づきを与えるべく、慈悲でもって再び私の前に現れてくれたのでしょうか。あだを恩で返されたような私には立つ瀬がありませんが、せめて、今度はより深いところにも目を向けて、英語との関わりの中でもヨーガの態度を堅持しつつ、ついでに、英検4級レベル程度の英語力もこの身に備えてみたいものです。
Hey, English. I’m sorry for my rudeness. And thank you very much.
深水晋治