地域」カテゴリーアーカイブ

目の前の人の中に神様を見る

「純粋な信仰とは、神に奉仕すること。自らを神に捧げること」

数年前に初めて師であるヨギさんからこのお言葉を聞いた時、そこから感じる真っすぐで力強い愛にとても惹かれたのと同時に、「自分には無理だ」と感じました。でももしそれを実現できたらきっと本当の幸せに出会えるように思えて、どうしたらできるようになっていけるのかを考え始めました。そして実現していくための実践として、「目の前の人の中に神様を見ること」に取り組み始めました。

取り組み始めてすぐにいくつもの人間関係が好転し、生活全体の中に愛と喜びを感じる瞬間が増えました。ただ、優しい性格の方に神様を見ることは問題なくできても、攻撃的な性格の方に神様を見るのはとても難しく、頭では「全てのものの中に神様はいる」と分かっていても全然それを感じ取ることができない自分に疲れたりしました。

そんな中、(私は介護の仕事をしているのですが)あるご年配の方に対して、その方の中に神様を見続けるということがだんだんとぶれなくなっていきました。その方は喜怒哀楽が激しく、時にはヘルパーに八つ当たりをするし、身体的ケアがたくさん必要なので大変な力仕事なのですが、たとえ八つ当たりされても自分の体がきつくても、そこには変わらず愛と平安があります。その方の中にいる神様が物理的な困難に動かされない愛を与えてくださいます。

奉仕に取り組む時に、いつもお守りにしている師のお言葉があります。

「一つの笑顔でもいい、優しい言葉でもいい。苦しんでいる人、悲しんでいる人に彼らの喜ぶことを行ないなさい」

目の前の人の中に神様を見て、師の教えだけを頼りに、今の自分ができることを一つ一つやり続けていこうと固く決心します。

毎朝、神様(シヴァ神)に「今日1日正しく奉仕できますように導いてください」とお祈りしています。

船勢


熱心に真理を求めて識別瞑想する

5月から「瞑想専科実践編 シュリーマハーヨーギーの教えと生き様に学ぶ」が始まりました。

師にお会いできない月日が重なる中で、グルバイとともに師の教えに触れられる貴重な機会となっています。

先日のテーマは「真実の存在と識別瞑想」。
講座の中で、ヨーガダンダさんご自身の識別瞑想の体験談を話されました。
ある出来事により、苦手な人の顔が何をしていても胸に張り付いたように離れなくなり、アーサナを必死でしてもなくならず、瞑想の中でもその人の顔が浮かび上がってくる状況だったそうです。それでも瞑想の対象に集中し続けていたら、突然直観が訪れ、その苦手な人も自分も本質的には同じ存在だと分かり、瞑想の対象から光がやってきて、苦手な人の顔が消えていったということでした。その後その人に対する苦手意識はなくなり、ぶつかることもなくなったそうです。常日頃からできるだけ心を乱したくない、瞑想に没頭したいという思いが強かったからこそ、その人のことが気になるようになり、真実への思いが強くあったからこそ、その障害となるものを見つけられて、心の奥底からの戦いになっていった、とも話されていました。

私はその話を何度か聞いたことがあったのですが、お話の内容だけでなく語り口が軽妙なので、いつも楽しさを感じながら、自分もそんな風に苦手な人のことが一切気にならないようになったらいいなと憧れていました。
しかし、今回はこれまでと異なる気持ちになりました。
何度か識別に取り組みそれなりに結果を得られたことはありましたが、ヨーガダンダさんのお話を改めて聞いたことで、心の表面的な部分でしかできていなかったことに気付きました。心の奥底までしっかりと潜るには、何度でも諦めずに実践するのみです。いつか、ではなく今この瞬間に。

実践するほどに難しさを感じてしまい、時折挫けそうになることもありますが、
先輩グルバイの大きな背中を見せて頂けたことで、しっかりとやる気スイッチを押してもらえました。
もっともっと熱心に真実だけを求めていきたいです。

講座の中で紹介された、講師のヨーガダンダさんが描かれたイラスト。

心は湖面に、真実は月に例えられます。
湖面のさざなみが静まれば、月ははっきりと映し出され、同じように輝きます。
心が静まれば真実のみが輝き出します。

 

ハルシャニー


木陰の下で〜グルとサンガ〜

私は介護の仕事で車椅子の方と外出する時、休憩する小さな公園があります。暑くなり始めた先週、その公園の蔦が絡まる木陰のベンチに座ると、その場所がとても涼しく、一瞬にして癒されました。その瞬間、野口美香さんのブログで「木陰は涼しい」と書かれていたのが思い出されました。隣の車椅子の方もその涼しさに癒されたのか、笑顔で嬉しそうでした🍀


さて、そんな5月の終わり、名古屋近郊からはるばる京都のアーサナ・瞑想クラスに一人の女性の方(以下:Yさん)が見学に来られました。Yさんは私たちのブログ『ヨーガを生きる』を1年半ほどずっと読んでくださっていたようで、なんと2週間前、まだ会ったことのない私たちにブログ内でコメントを寄せてくれたのです!それがきっかけとなり、「ぜひ、お会いしてお話しましょう!!!」ということになり、コメントをくださってから1週間後、すごいスピードで交流が実現しました。
クラスの見学も含め、その前後でもたくさんのお話ができ、とっても楽しく素晴らしいひとときでした!!!

5/28(土)京都アスニーのアーサナ・瞑想クラス

Yさんはインドにグルがおられ、その教えを日本で毎日欠かすことなく一人で実践されています。
1年半ほど前にYさんは、私たちの師シュリー・マハーヨーギーのYouTubeを見つけ、そこで紹介されている教え「ヨーガの瞑想は、一生涯のその結果に留まらず、何百、何千生涯を通過するぐらいの威力をもってなされなければならない」に触れてとても感じるところがあり、それがきっかけで私たちのブログを読み始めたそうです。【師のYouTubeはこちら💁‍♂️『サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ:現代に生きる真正のヨーギー』】彼女はグルも仲間もいない日本でたった一人で実践し続けることが本当に苦しかったそうですが、ブログを通して、自分と同じようにグルへの思いをもったマハーヨーギー・ミッションの修行者の存在やその情熱に励まされながら実践を続けていたと話してくださいました。

今回の交流中、1秒たりとも真理・神以外の話をされなかったYさん。そんな大変熱心で信仰心の厚い彼女と交流して、私たちもとてもインスパイアされました!!!そして、グル(師)とサンガ(仲間)が修行者にとってどれだけ大きくかけがけのない存在なのか、改めてその有り難さを教えていただいたように思いました。本当にグルとサンガは、この世界における木陰のような避難所です!!!


私自身、木陰の一枚の葉っぱになれるようにと願い、これからその木陰の下に多くの人が集い、休足し、語らい、そして遊び戯れることを心から願った今回のYさんとの出会いでした。
Yさん、この度はご縁をいただき、たくさんのお話ができたこと、本当にありがとうございました🙏🙏🙏ぜひぜひ、また京都にいらしてください!!!一同、心よりお待ちしております😇

ゴーパーラ


心躍る新緑〜松山特別サットサンガ 振り返り

新緑が輝き始める季節になると体と心が自動的に松山特別サットサンガを連想し、喜びと感謝に満たされます。6年前のちょうどこの季節、2016年5月21日に私たちの敬愛する師は愛媛を訪れ、松山・今治で3日連続で特別サットサンガを開催してくださいました。
(当時の記事はこちら⇨1日目2日目3日目
松山のスタッフはゴールデンウイーク中、ほぼ毎日集まり、家族以上に長く一緒にいて無我夢中で準備をしました。真剣さの中にも常に喜びがあり、スタッフの絆がさらに強くなりました。真のヨーガを一人でも多くの方と分かち合いたいと願い、師を松山にお呼びしたくて地道な活動が始まって11年越しで特別サットサンガが叶いました。


そのサットサンガで印象に残っている質疑応答の一部を要約してご紹介します。
質問者が「以前、本質を見ることが問題の解決になると教えていただいたのに、つかめない。本質を見られるようになるには今の自分の心をしっかり見て、何が本当なのかを徹底的に理解していくことでしょうか。その他にはありますか」と問い、師は次のようにおっしゃいました。

他にはありません。自分自身の本質、あるいはこの世界、宇宙の本質と時々いいますが、この本質が意味するところは真実のもの。真実のものということは、永遠に不滅の存在のことをいっています。昔から、この体の中にあっては魂と呼んでいたり、またこの宇宙にあっては神と呼んでいた存在、それらは架空のものではないのです。実にありありとした、まぎれもない存在としてリアリティをもった唯一のものです。それに比べれば、この体や心は生まれてきて変化をしながら、やがてなくなります。心も幼少の頃から成人し、やがて年老いて、そのさまざまな状況の中で考えたり感じたり、いろんなことを、いろんな働きをしますけれども、それらはその状況に応じて働いている、そういうものです。いわば、この世界の中で生きていく上での道具のようなもの。それが体と心の役割なのです。
ただ間違いが生じて、心の中にあるエゴイズムというエゴ意識ですね、これをあたかも自分だと思ってしまう。そうすると他者との距離が生まれ、そこに差別が生まれ、隔たりが生まれて、またさまざまな問題が生じてしまう。これが人生におけるすべての問題の原因にもなっています。言い換えれば心が心自身を知ること、本当の心のあり方を知ること、本当の主人は心ではなく、その奥に在る純粋な意識、魂、あるいは神の存在、そういうことが体験できたら、すべての過ちはなくなります。
(中略)
このことを学び、そして今まで間違っていたエゴが主人であったならばそれをただ正しめるという、本来の心そのものの役割に回帰させる、そして本当の自分を知ること、これが本質という言葉の意味するところなのです。

すべてを優しく包み込むような師の慈愛に満ちた口調が会場に静かに響き渡り、言葉を超えた細やかな振動が私たちの心を真実へと向かわせました。言葉の意味を頭で理解するのではなく、真実を体感する。これこそがサットサンガの醍醐味です!
「リアリティをもった唯一のもの」への憧れはますます高まり、師に励まされた一人一人は今も弛まず力強くヨーガを邁進しています!
コロナ禍で師にお会いすることはできませんが、常に真理に心をぴたっと貼り付けて、師に再会したとき、師に喜んでいただける自分でありたいです。毎日が心を清らかにする準備だ!と熱意をもって軽やかに精進していきたいです。

アーナンディー


一点集中

前回のブログで「大いなる真剣さ」とは、カミソリの刃の上を渡り切るほどの強い信念を持ち、一分の隙もなく集中し続けることではないか、と書きました。 
ヨーガではこの状態のことを「一点集中」といいます。常に一点集中の状態でありたいと願うものの、日常生活の中で起きる様々な出来事や、自分の心に振り回されて、持続することができないことが多々あります。 
葛藤したり悩んだりしながらも、その境地への憧れの思いだけは強く持って実践を続けていますが、強烈な一点集中状態になっていたのだと後で気付いたことが何度かあります。 

最初にそれを体験したのは、乗り越えられると思えないような大きな問題が起きた時でした。 

あらゆることが信じられず、真理の教えも無意味に感じてしまい、ヨーガの実践を続けることが苦しくなりました。かといって元通りの生き方に戻るのは怖く、寄る辺ない思いで過ごしていました。教え導いてくださっている師に対し、心の中で申し訳ないと詫びながらも、何とかしてほしいと助けを請うような日々が続きました。 
ある日、息をするのも苦しくなり、体を動かす気力もなくなり、自分の存在を今すぐ消してしまいたい、そんな思いに支配されました。 
私自身のことも世の中のことも真理の教えも、何もかもどうでもいい! 
そう思った瞬間、私という意識や思い煩っていたこと全てが消え、ただ師の存在だけを感じました。 
大量の涙とともに抱えていたもの全てが流れ出て、久しぶりに息ができたような感覚になり、他には何もいらないから師への想いだけは失いたくない!!と必死に願いました。 

それからしばらくの間、師に意識が集中した状態が続き、不安も恐れも全くない、これまで感じたことがないほどの平安な気持ちで満たされました。 
何がそんなに苦しかったのかも思い出せなくなり、気力が戻って普通に動けるようになりました。 
問題が解決されたわけでも、状況が改善したわけでもなかったけれど、意識が師からそれることがなかったため、心が何にも反応しなくなり、やるべきことを淡々と行えるようになっていったのだと思います。

 苦しかった時、光り輝く真の自己が私の中にもあると信じたい一心で、タペストリーを見つめ続けていました。

 

その時の師の存在だけがあるという感覚は、今もずっと胸の奥にあります。 
そして、私の意識が師に集中されている時に平安な気持ちを感じたのは、師が永遠に変わることのない純粋な存在そのものだからだと思います。 
これからも、どのような状況にあっても真実に憧れ向かっていこうとする想いだけは手放さず、強く求めていきたい。それによって、私たちの中にある永遠に変わることのない純粋な存在、それだけになることができるまで。 

ハルシャニー


真理を実現する道〜アーサナ

「ヨーガのアーサナ(体位法)や内容は、すべて生理的にも心理的にも哲学的にも科学のように説明が可能です。いつでも簡単にできます。しかし大事なことは、それらを知的に理解するよりも、体験によって良い変化を身体と心に与えてやることです。悟りとは単に知ること(知識)ではなく、成ること(体得)なのです。これが何千年にもわたる東洋の霊的修行なのです。真理はすでにあなたの中に在ります」——『悟り』より

思い返せば、アーサナの体験によって良い変化を身体と心に、ずっと与えられ続けてきたのだと思います。

七年前、ヨーガへの信頼はすでにありましたが、ヨーガを生きるということに対して、難しいから私には無理なのでは? 何かを失うのではないか? という思いも同時に抱えていました。度々、表面的な心の動揺に心が占められてしまい、苦しくなることがありました。
そのような中、京都でのアーサナのデモンストレーションに参加する機会をいただきました。いつもより自然と集中した中、アーサナを行なっていると、「真理の道とそうでない道」という言葉が浮かんできました。その瞬間、師から伝えられたアーサナは「真理を実現する道」であると直観的に感じました。真理に反する思いがあれば、抗うような力が内にあり、もうすでに私の身体と心は真理の道を歩むためのものに大きく変化させられているということが分かったのです。私自身、本当は真理の道を歩みたいと強く思っていることにも気付かされ、涙が溢れました。

今、私はアーサナを行なうことで心が内向きになり、すでに在る真理に近づいていけることを実感しています。このような具体的な方法を教えられ実践できることは、何と恵まれていることでしょうか。そして、真理の道を歩みたいと心から願うようになりました。それだけが本当の幸せになれる道だと確信しています。
師への感謝を胸に、日々実践を続けて深めていけますように。

師が歩かれた松山の大街道。私にとっては真理の道!

りょうこ


一切万物として顕現しているのだ!!

歓喜の祝祭から数日後の余韻の中、バクティ・サンガムの今期のクラスが先日、最終回を迎えました。祝祭会場でもあったプレーマ・アーシュラマから、講師のお二人がいつものように柔和な笑顔で爽やかにクラスを進められます。後ろに見える祭壇には祝祭で献上されたばかりのアーラティーの灯明のランプとお花とマーラーが掲げられ、師がお座りになっていたお姿を彷彿とさせます・・・いや、その日はそこに、師がおられるように感じたバクティ・サンガムだったのです。

少し時間が遡りますが、私は2004年の師の御聖誕祭の練習の時、キールタンに初めて出会い、インドの讃美歌みたいなものかな~と、うっとりしました。それからは毎年ヨーガ・ヴィハーラに皆で集まってキールタンの練習をする機会も多く、それは楽しい時間でした。みんな真剣そのもので、音程やリズムはもちろん、とても細かいところまで・・・ある意味、子供の頃入団していた少年合唱団よりもこれはスパルタな特訓・・・と実は私は感じていました。そのキールタンの練習の時「目を開けたほうがいい」とよく言われました。キールタンは神へ向けての愛の歌で感情が内に向くせいか、つい目を閉じて歌いたくなります。ですが、当時は御聖誕祭で師へお捧げすることが目的であったり、また外向けのイベントでは観客がいらっしゃることもあったので、自分の内にこもったり感情に浸るのではなく、皆との調和や息を合わせることも大切で、そのためには練習の時から常に目を開け、感じて歌うことに慣れた方がいい、というアドバイスを受けた記憶があります。
本番で最高のものを献上するためには、練習も一回一回ベストを尽くし、まず基本的なことや技術的な面を磨くのは当然で、時には専門的な先生?のような方から発声指導を皆で受けたり・・・とにかく地道な修練に、みんなの凄い熱情を感じていました。毎日の自主練も欠かせませんでした。キールタン練習のことは、今の私の物事への取り組み方の基盤にもなっています。

それで、当時は目を開けるようにしましたが、練習の時は視線のやり場に困る思いもありました。目を閉じた方が、師、神だけと繋がって歌える気持ちがあったからでした。つまり、目を開けて、目で世界を見ていると神を感じられない、と当時の私は思っていたのです。
ちなみに、今のバクティ・サンガムのクラスでは、目を開けても閉じても特に注意を受けることはなく、それぞれの思いのままにさせていただけます(笑)しかもオンラインクラスでは、自分の声は他の人には聞えないので(ミュート設定)音を外したり間違えても恥ずかしくないし人に迷惑も掛かりません(笑)

私は、最近は目を閉じたり開けたり自然に任せていましたが、最終回では、みんなの顔も見たいから今日は目を閉じないゾと決意しました。ただ最終回は、初めての曲で歌詞を見ないとならないから、みんなの顔を見る余裕もないかも?と少し心配しつつ。そして、歌い出しました。すると実は以前に歌った曲で、当時のみんなの歌声がありありと蘇り、その歌声と今がシンクロし、歌が歌を導きました。カーリーやマーという母なる神の御名を讃える詩です。以前も今も、ずーっとみんなでこの歌を途切れることなく歌い続けてきたような至福感に包まれ、気付くとまた目を閉じて歌っていました。その時、ふいに『ラーマクリシュナの福音』で読んだラーマクリシュナからのお言葉が響きました。
目をとじて思うときだけ神がいらっしゃるのだろうか。目をあけて見まわしたときにも、彼はいらっしゃるのではないだろうか
私は目を開けました。パッと咲いたお花のような美しい表情をした、みんなのキラキラした姿。小さな子供みたいに元気いっぱい、ありったけの思いで歓び歌うみんなの生き生きした姿がそこにありました。ここ数ヶ月、思い続けて、封じ込めてきたマーへの自分なりの思いがそこに燦燦と溢れ出し、みんなの顔、みんながそれに見えて、目を開けても閉じても、見えても見えなくても、歌が聞こえても聞こえなくても、やっぱりそこに、ここに・・・と思いました。目を開けて、みんなを見ていると、師のお言葉が波のように、何度も何度も押し寄せました「一なるものが、一切万物として顕現しているのだ」。

至高の真実は名も無く形も無く、ただ存在である。
それだけが真実在であり、真我であり、神と呼ぶものである。
その一なるものが一切万物として顕現しているのだ。
不二の寂静の中、歓喜に遊び戯れなさい
――シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサのお言葉

チューリップ、菜の花、桜

春爛漫

 

 野口美香 


神への明け渡し ––マハリシの教え––

私たちには思いや悩みが尽きないものです。欲しいものがなかなか手に入らなかったり、駄目だと思ってもついやってしまったり、大事な時にオロオロして何もできなかったり、沢山の事で思い悩むものです。それについてバガヴァーン・ラマナ・マハリシはこう言います。

『神の至高の力が全ての物事を動かしているというのに、なぜ我々はその力に身をまかせず、何をどうするべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?
我々は列車が全ての荷物を運んでくれることを知っている。列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭に載せて苦労する必要がどこにあろう。荷物を下ろして安心しなさい』
 

ーー『あるがままに ラマナ・マハルシの教え』より引用ーー

そうです、自分の小さな思いを神に渡して、神の言うことに従えば楽になるのです。なんて簡単なことでしょう!

バガヴァーンは自我を無くすために『私は誰か?』という真我探求を説いたことで有名です。しかしそれはなかなか険しい道なので、彼は多くの信者には探求よりも容易な神への明け渡しを勧めました。しかしこの道も非常に困難な道であるのは確かです。なぜなら頭に載せた荷物のうち少しは降ろせるでしょう、しかし全ての荷物を降ろすとなると、自分の思いの全てを神に委ねるということになるのですから、自分では好き嫌いも、都合の良い悪いも言えなくなるからです。それが全て自然にできるようになって初めて明け渡せた、となるのです。といっても、バガヴァーンは一足飛びにそうしなさいと言っている訳ではありません。彼はその準備として神への瞑想、ジャパ、神の賛歌を歌うなど、神に帰依することなどを信者に勧めました。

彼が住んでいるアルナーチャラ山はプラダクシナという巡礼をするための山でした。巡礼のために人々は山の麓(13.5km)を神の賛歌を歌ったりジャパを唱えたりしながらゆっくりと歩くのだそうです。バガヴァーンはこれをよく信者に勧めました。そしてさらに彼はこう言います。プラダクシナをしているうちに、

『身体は疲れ、感覚器官は力を失い、すべての活力は内面に吸収されます。こうして自己を忘れることが可能となり、瞑想状態に入っていくのです』  

  ーーラマナアシュラム HPより引用ーー

長距離を歩くのですから何度もジャパなどを繰り返すことが必要で、それが自動的にできるくらいやることが大事なのだと思います。さらに大事なことは、本当のサーダナができるのは、体と心がフラフラになってからなのだということです。与えられたサーダナをやり続けること、そしてやってくるタパスを受け入れること。それをやり続けていけば神に本当に帰依することができるはずです、そうすれば神への明け渡せる日は近くなっていることでしょう。

早く頭に載せた荷物を降ろして本当に安心したいものです。

グルダース


大いなる真剣さで実践し、堅固な基礎を持つ

 

〝修習は、長い間、休みなく、大いなる真剣さをもって励まれるならば、
 堅固な基礎を持つものとなる”   
 

『ヨーガ・スートラ』第1章-14 

アーサナ・クラスに通い始めたばかりの頃、『ヨーガ・スートラ』という聖典があることを知りました。読むと、見慣れない言葉が並んでいる中で、この一節がすっと目に入ってきました。 

当時、鍼灸の技術を身に付けるための基礎訓練がうまくいかずに悩んでいたので、惹かれたのだと思います。この言葉の通りにやればしっかりと基礎的な技術が身に付くかもしれない、と、実践してみることにしました。 
諦めそうになったらこの一節を読む、それを繰り返すうちに気付いたのは、長い間休みなく続けることは比較的実践しやすいけれど、真剣さをもつのは、そう簡単ではないということです。元々あった思いをもっと強くして、退路を断つ思いでひたすら練習を続けることで、次第に訓練することが日常生活の一部となり、少しずつ技術を習得していけたように思います。
 

数ヶ月前、ふとしたことをきっかけに、この一節を思い出しました。 
今私はこの一節の通りに実践できているだろうか。アーサナ、瞑想、仕事…長い間休みなく続けてはいるけれど、大いなる真剣さをもって臨めているか? 
「大いなる真剣さ」とは何なのか? 

悟りへの道はカミソリの刃をわたるようなものだと言われますが、「大いなる真剣さ」とは、カミソリの刃の上を渡り切るほどの強い信念を持ち、一分の隙もなく集中し続けることではないかと思い至りました。 

私にとって悟りとは、師です。悟りへの道を歩むということは、師に少しでも近づいていくために一歩一歩進んでいくということ。 

師のように、ただ他者への愛ゆえに、いついかなる時も誰に対しても、優しさを持って行為できるようになるには、私も悟らなければなりません。それがどんなに難しくても、師が私にしてくださっていることを同じように誰かにするためには、悟りを目的地として進むしかないのです。 

そして、私には治療をする上での理想があります。 
師の目で見て、師の耳で聞いて、師の口で語り、師の手で触れる。 
「あなたの中にも真実がある」 
私が関わる全ての人に少しでもそれを感じてもらうために、外側から見える姿形は私であっても、内側は全て師に明け渡して、師のみがおられる状態であり続ける。 

そうなれるように、あらゆる行為に対して「大いなる真剣さ」もって励み、堅固な基礎を積み重ねて、悟りへの憧れをもっともっと高めて向かっていきたいです。 

ハルシャニー


スワーミー・アドブターナンダ

私の理想の聖者は、シュリー・ラーマクリシュナの直弟子で無学でありながら最高の叡知を悟り、「シュリー・ラーマクリシュナの最大の奇跡」と言われたスワーミー・アドブターナンダ(ラトゥ)です。

彼は幼くして孤児となりましたが、シュリー・ラーマクリシュナにお会いすることで人生が一変しました。ラトゥは疑うことを知らない純真さで師の教えを忠実に守り、心の清らかさを保つようひたむきに努力し続けました。文字の読み書きは全くできず、聖典も読めなかったのですが、夜は一睡もすることなく瞑想を深め、神の御名を繰り返し唱える修行を熱心に行い、神に憧れ、神のために泣き、肉体の快不快に心を乱されなくなっていきました。

ラトゥの心にあるのは神だけでした。ラトゥに出会った人々は彼の独特の言葉に驚き、その清らかさに感化されました。たとえ多くの聖典を読まなくても、豊かな霊的叡智は内的な悟りから生まれることを彼が教えてくださっています。

 「心の性質は神の御名を唱えることによって変えることができる。次第に欲望と疑いは消える」

後年のラトゥ・マハーラージの言葉で、私の大好きな教えです。どうかラトゥ・マハーラージのように一心に神を求め、神の御名の深遠さに触れ、心が神だけになりますように。

 ※『スワミ・アドブターナンダ―教えと回想―』を参考にしました。

アーナンディー