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悟りを頭で難しく考えない

沈丁花

沈丁花。ふわりと届く春の香り

3月21日は春分の日ですね。昼と夜の長さがほぼ同じになり大気のプラーナ(気)が整い、私たちもその恩恵を受けヨーガの修練も行ないやすくなるといいます。また、春分の日は、自然を称え、生物を慈しむ日だそうです。
電信柱の上にある雀の巣に、代替わりした新しい雀たちがやってきたようで、朝からチュンチュンチュンチュン・・・と可愛らしい声が聞こえてきます。私がよく通る道にはたくさんの街路樹があり、中でも多いのが桜の木。枝先の花芽が日に日に膨らんでくる様子がよく見えます。

バス停までの道すがら、その桜の枝を見て、もうすぐ春だなぁ~とホッとして嬉しくてスキップぎみで歩いていました。すると、やけにきれいさっぱりと明るい場所があり、あれ?こんなんやったかな?と立ち止まりました。下に目を落とすと、地面ギリギリに大きな切り株が幾つか残されていて、大きな木々がすべて伐採されたことに気がつきました。
でも木は、そんな姿になっても、じっと沈黙を守っているように見えました。この世界に次々と出来事が起こっても、いつも木々が同じようにただ在ることに私は安心を感じてきました。季節が巡り、鳥が歌い、虫が蠢き、木は葉を付けたり落としたりしながらも静かに佇み、変化する中にあっても一定の同じで在る何か、たった一つの絶対的なものが続いているということを教えてくれます。それがどれほど尊いものか……。切り株を見ていると、幹が無くなっても、やっぱり木は、あなたは同じだ、と思えました。姿、形が無くなっても無くならない、ずっと在る、と木が無言で教えてくれた気がしました。子供たちや生き物にはどんぐりを、鳥たちや虫たちには住処を、また真夏の暑い日には木陰を提供し、時々そこで腰かけて休憩しているおばあさんもいました。一本の木の存在に、どれほど私たちは恩恵を受けてきただろう、ありがとう!と思いました。

そんなことを考えながらバス停に着き、乗車した市バスの窓から景色をボーっと眺めていると、一軒のお家の庭に、赤と白の見事な梅がぱぁ―っと咲き誇っているのが目に飛び込んできました。あまりにも元気いっぱいに咲く力強さに圧倒され、その生命の力に感動しました。次はお葬式をする会館があり、前には黒光りした長い霊柩車が停まっています。こんなうららかな春を予感させる日にも・・・当然ながら死も生も同じようにあると思いました。すると今度は、保育園のまだ2歳か3歳くらいの子供たちがぞろぞろと先生に連れられて、子供同士で手をつなぎ合いながら、おぼつかない歩き方でニコニコ「バチュ(バス)バチュ~」と無邪気に手を振ってきます。思わず満面の笑みになりました。そしてバスが終点の駅に到着すると、少し離れた所に総合病院の送迎車が来ていて、大勢のおじいさんおばあさんたちが、ぞろぞろと送迎車に乗り込んでいくのが見えました。バスの窓を通して、自然の営みという一つの映画でも見たような気分でした。

水仙

春風に可憐にゆれる水仙

バスを降り歩きながら、これが自然の様相なんだと思いました。季節は止まることなく進み、そして世界も変化し、生まれる命があって、成長する命の育みがあり、死にゆく命もある。すべてが神の顕れ。どれも本当に同じなんだなと思いました。

最近、悲惨な出来事を目にしてから、胸の奥で騒めきが静まらないことを自覚していました。でも、そうやって感情的になることで、それで私は正しい判断や何かより良いことができるのか?と歩きながら自分に問いました。感情が際立ってしまったら肝心なものを見失ってしまう、平常心でいられない時こそ平常心で、と自然の様相を通してなぜかその時、思いました。そして万物の背後にある見えざる存在を思い、そうだ木のように不動でありたいと思いました。

師から教えていただいたことがあります。
悟りとは不安や苦悩の無い安心。平安な満ち足りたムードが壊れないようにすれば、それが悟りとも言える。だから悟りを頭で難しく考えないように

常に安らぎにあり、常に同じである存在は他者にも安心を与えることができる。木のように。
いつか師が仰っていた、ヨーガとは真人間になることーー正直で、人に優しく、慈悲深く
それこそが悟りにある人の姿であり、私にとって単純に人間としての理想です。
私たちは人間として生まれました。だから、誰もが真の人間、真人間になれると思います。正直で、人に優しく、慈悲深く。

木蓮のつぼみ

春を待つ木蓮のつぼみ。触るとふっくらフワフワしていました。

 

 野口美香 


真理を愛す

バクティ・ヨーガは「感情も五感も全てを愛する神に向け、愛そのものである神との合一を果たす」と表現されていて、ヨーガを学び始めた頃、私はこの強烈なイメージに漠然とした憧れを持っていました。何となく魅力的だなとしか思えなかったのは、瞑想の対象は神というよりも真我や真理の方が集中しやすく、神に瞑想するということがどういうことか私にはピンとこなかったからです。
もう何年も前のことになりますが、それまで誰かを好きになるとか愛するという感情に縁なく(興味なく?)生きてきて、グルバイ(仲間)が嬉しそうに「ヨギさん(私たちの師)の夢を見た」と話しているのを羨ましく思い、「あぁ、私にはバクティがないのだろうか」と不安が募り、勢い余ってヨギさんに尋ねたことがありました。この時、ヨギさんは何も仰らずに、静かに微笑んでいらっしゃるだけでした。何か答えてくださるものと期待していた私は拍子抜けして、それ以上尋ねることもできないまま、もやもやした思いが心の隅に残ったのです。
その後の数年間はキールタンを歌う機会やバクティ・サンガムに参加することで、少しずつ神に触れ学ぶ時間も持てましたが、結局それ以外の時間は神を忘れることが多くて、その存在を身近に感じるという実感はあまり持てなかったように思います。

けれど少し前からバクティ・ヨーガへの憧れが次第に強くなってきたのです。ちょうど瞑想専科のバクティ・ヨーガ編が始まり、この講座で多くの仲間と学べたことは大きな支えとなりました。日常生活で神を忘れることはしょっちゅうでしたが、そのたびに思い出すの繰り返しです。課題の聖典とともに、大好きな本である『悟り』の中のバクティ・ヨーガに関する記述も何度も読み返したりしていました。そうしていくうちに自然に神を思う時間も増えていき、いつの間にか、自分にはバクティがないのでは、という思いは消えていました。そして『悟り』の中のある箇所が目に飛び込んできました。

「クリシュナという神の化身を普遍の神に置き換えてもよろしい。アートマンでもいい。またブラフマン、真理に置き換えることも可能です」

そうか、神を愛するとは真理を愛することでもあるのだ、それならすごく分かる。今まで何回も読んでいたはずだったのに、初めて目にしたような言葉でした。
かつて質問をした時に、ヨギさんが答えてくださらなかった理由が今なら分かります。言葉で説明されたなら、きっとそれに執らわれてしまっていたでしょう。
それよりも、「バクティは既に、その胸の奥にあるよ」と伝えてくださっていると感じます。

祭壇のヨギさん。 私もいつも笑顔でいたいと思います。

マイトリー


置かれた場所で生きる

風の中の落ち葉のようにこの世に生きなさい。そのような葉はあるときは家の中に、あるときはごみの山に吹きやられる。木の葉は風の吹くままに飛んで行く…ときには良い場所に、ときには悪い場所に。いまや、神がお前をこの世におおきになったのだ。けっこうなことだ。ここにいなさい。また、彼がお前を持ち上げてもっと良い場所に置いてくださったら、今度はどうしたらよいかその時に考えても十分に間に合うことだ。

神がお前をこの世においてくださったのだ。そのことについてお前に何ができるのだ。彼に全てをお任せしなさい。彼の足下に自分をささげきりなさい。そうすればもう困ることはない。そうしたら、いっさいのことを行うのは神だ、と悟るだろう。すべては「ラーマの思召」にかかっているのだ。”

                       『ラーマクリシュナの福音』より抜粋

 

 木などの植物は自ら動くことはできませんが、生命を繋ぐために種子をつくり、その場に落下したり、鳥など動物が食べることで新たな場所に運ばれたりします。その場所で芽を出し、葉を茂らせ、時期が来ると枝から離れ、そこに留まるものもあれば、雨や風などによって遠くに飛ばされるものもあります。
天候や環境がどうであろうと身を任せ「置かれた場所で生きる」植物からは、逞しさ、あるがままに全てを委ねて生きるしなやかさを感じます。

人の場合はどうか。
風に舞い上げられた木の葉のように飛んで行った先が、良い場所であれば感謝し、悪い場所であれば不満を持つ。
置かれた場所やそこで起きる出来事によって感情が揺らいでしまう私たち人が、植物のようにあるがままに生きるには、何が必要なのでしょう?
それは謙虚さではないかと思います。
この一節を繰り返し読み、ラーマクリシュナが神を熱烈に愛し全てを任せられたのは、ご自身をより小さな存在として神に捧げきる謙虚さが必要であることを、示してくださっているように感じました。
読む毎に、ラーマクリシュナの限りない優しさと強さに圧倒され、この言葉を素直に信じて生きていきたい、強く思いました。

それにはまず、私たちが日々考え行動する力も何もかも、神から与えられたものだということを知ること。そうすれば、自ずと今その場にあることを感謝し、謙虚でしかいられなくなる。

自分のものなど一つもなく、全てが与えられたもの。
この感謝の想いを一瞬も忘れることなく、置かれた場所で神に自らを捧げきりたいと思います。

写真/侘助(ワビスケ)が咲く姿からも、謙虚さを感じます

ハルシャニー

 

 

 

 

 

 


真実という宝

松山のヨーガ・サーラ・スタジオに通う太宰さん。昨年より松山のスタジオだけではなく、MYMのオンラインクラスを最大限に活用され、誰ヨガ、瞑想専科バクティ・ヨーガ編、バクティ・サンガムなどにも熱心に参加されています。実は最近、太宰さんに大きな心境の変化があったとのこと。今回はそんな太宰さんにインタビューをしてみました。

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Q: 最近はよく日常でキールタンを歌われているそうですね。歌われていてどうですか?

太宰さん: (笑顔で)キールタンはすごいですね! 元気になる。楽しい! 今は日常生活において、掃除、洗濯、食事の用意の時もとにかくずっとキールタンを歌っていて、それが自然となっています。嫌なことがあってもキールタンを歌うようにしたら、自然と笑顔になるんです。とにかくキールタンが好きになって、めちゃくちゃ楽しいです!

 

Q: 何かきっかけがあったのですか?

太宰さん: 昨年、瞑想専科バクティ・ヨーガ編に参加しました。そこで、「信じることができればそれでいい。これ以上のものはない」というラーマクリシュナの教えが紹介されたんです。それを聞いて理解はできるけど、では自分はどうしたらいいのかなって思って。講座では実践方法や体験談も紹介されていたので、私にもできるかなと思って、二つのことを実践しようと思いました。一つは、キールタンができるかなと思いました。

Q: そうなんですね、あと一つは何を実践されているのですか?

太宰さん: 信じるということはどういうことかと思った時に、真剣さが一番だけど、信じることに対しても(自分には)謙虚さがない。そう思って、とにかく(瞑想に)座る、ということを決めました。「純粋で素直な信仰心をお与えください」ってお願いするだけなんですけど、まずそこからと思っています。最初からはできませんでしたが、回を重ねて講座の終わり近くになって、もっと真剣に頑張ろう!本当に変わりたい!変わらなければいけない!と強く思いました。

 

Q: 実践を続けてこられた中で、何か気付きや変化などはありましたか?

太宰さん: 以前、ヨギさんが松山に来られた時のサットサンガで、いろんなことに執らわれている悩みを相談した時に、「目の前に宝物があるのに、もったいない!」と言われたことがあるんです。それで、目の前の宝がどういう意味なのか分かりませんとお聞きしたら、「至福という――壊れない幸福のことを至福といいますが――そういう歓びに満ちた状態、それがその宝の山の正体なんです。それはどこに在るのかといえば、自分の中に、胸の中に在るんです」と言ってくださったんです。ただ、言葉上は理解していたんですが、本当の意味では理解できていなくて。

それで、瞑想専科の最後の方なんですが、座っていた時にやっとその宝の意味を理解できて、あぁ、これと同じことをヨギさんは教えてくださっていたのかなと思いました。宝というのは、真実であったり、真理のことです。瞑想専科で学んだ神への愛ということと自分はマッチして、同じことなのかなと捉えました。私はこれまで非実在のことでいっぱいで、たくさんの時間を費やしてきて、本当にもったいなかったなぁと思いました。
まだまだ、これまで積み重なってきたものがふつふつと出てきたりするんですが、今は「もったいないからやめよう。ここに真理があるんだ!」というふうに言い聞かせて、そのように思いを変えていくというようにしています。
やっと、スタートに立てたかなと思っています・・・こんなこと話したら、いいようにばっかり言っているように思うんですけど笑。

Q: それは本当に良かったですね! 今後の目標はありますか?

太宰さん: 今、していることを頑張って実践して、体得して、心が穏やかになりたいです。そして神を感じて、神で(身も心も)パンパンになりたいです! そして、次にヨギさんにお会いする時には、「目の前の宝、頑張ってつかんでいます!」というふうに言えるようになりたいです。

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 インタビューの間も、真剣でありながらも、終始とても楽しそうな笑顔を見せてくださった太宰さん。本当に心が軽やかになられた様子と実践の大切さが伝わってきました。

目の前にある宝を、私たちもつかんでいくことができますように!

MYM京都 


アーサナで心が変化する

師のヨギさんとお会いした2カ月後くらいから、自宅でもヨギさんの教えてくださるアーサナ(ヨーガのポーズ)をするようになりました。毎日アーサナに取り組めることが嬉しくて、生活の中にヨーガの為だけの時間があることを本当に幸せだと感じました。そして当時の私は「自分は弱い」という漠然とした思いを強く持っていたのですが、アーサナに取り組み続けることで、その思いがどんどん自分から離れていくことを体験させていただくことになりました。

初めの頃は、ポーズを維持している時間は、体のしんどさでいっぱいでしたが、同時に自分の内側が浄化されていくような安心を感じました。また、苦手なポーズに取り組むとすぐに心が折れてしまっていましたが、このままではいけないと思い、気持ちに負けてしまわないように強い意思をもって取り組むようにしました。すると、ポーズを終えてシャヴァ・アーサナ(休憩の形)をした時に頭の中がスッキリ晴れ晴れとした、という体験が何度かありました。そしてやり続けていくうちに、苦手なポーズの中でも心を乱さないように呼吸だけに集中しようと心がけることができるようになりました。

ある時にアーサナ中の呼吸が以前よりも長く吐けるようになったと実感したことがありました。そして日常生活の中に変化が現れ始めました。私は面倒ごとから逃げる癖がものすごくあったのですが、いつの間にかそれが消えて、目の前の状況に淡々と対応することができるようになっていました。また以前なら動揺していたような場面に出会っても、特に何も感じなかったということが何度もありました。以前あった「自分は弱い」という思いはただの間違った思い込みであることに気付かされました。そして生活全体の波が以前よりも少なくなり、瞑想の時に落ち着いて座れることが増えていきました。

現代はストレス社会と言われていますが、ヨーガに取り組むことで、ストレス社会の中にいながらも真実だけを見つめて生きていこうと実践することができるのだと思います。ヨーガは、ヨーガの守護神であるシヴァ神が作ってくださったと言われていますが、「ヨーガに取り組むことができる」ということそのものの中に神様の愛を感じます。そしてアーサナの実践は、身体だけでなく心にも変化を与えてくださいました。きっと神様はその人が理解できる方法で導いてくださっているのだと思います。ヨーガとの出会いに感謝し、師であるヨギさんの教えだけを見つめて、もっともっとヨーガを深めていきたいと強く願います。

船勢洋子


本当の自分は何があっても変わらない

国立市にある谷保天満宮の梅。梅の花が咲き始めると、いよいよ春が近づいてくる感じがします。
 

〝…私というのは何者であるのか。そう、私というのは変わらないのです。身体の状態がどうであ れ、世界のありさまがどうであれ、また心がどういうふうに反応しようが、それらを全て、ただ知っている、見ている——そういう意識のことです。もちろんそれは自我意識ではありません。自我意識というのは自己と他を区別する自己中心的な意識のことをいいます。それは心の領域のものです。心を造り上げている一つの大きな柱です。本当の私というのはそれをも知っている、さらにその奥にある意識のことです。
本当に不思議なメカニズムですけれども、誰もが私という自分を意識しているに違いないのですから、自分が自分を知らないということはないはずです。でも今言ったような、心と真我の意識との区別——別ものであるという——これがはっきりと識別されれば、一切の迷いや悩みは解消していきます。学ぶべきことはそれです。そしてそのための具体的な方法が瞑想であり、またそれを調えるために呼吸や身体を調節していくわけです〟

『悟り』より抜粋
 

私は見ている意識のことを初めて知った時、なんて面白い考え方なんだろうと興味を持ちました。 理解するのに時間はかかりましたが、ヨーガを学び実践するにつれてそれは確かにあるのだと感じられるようになりました。
次第に、その見ている意識が本当の自分であり誰もの中にあるということを思うと、どの命も尊くて愛おしいと感じるようになりました。

これは私がヨーガを実践しているから感じられるようになったのか? ヨーガを知らない人たちには感じられないことなのか?

ふと気になるようになったある日のこと。高齢の患者さんと話していると、ご自分と同世代の方々のことをおばあさんと言っているけれど、ご自身のことはおばあさんと思っていないような口振りで、自分のことは年齢に関係なくただの自分として認識しているのかな、と感じました。
それからしばらく経ったある日、子育て中の患者さんが、「自分はずっと自分のことを知っているから、子供を産んだり歳を取ったりしていてもずっと同じような気がする」と話されました。
この2人の方の中にも「ただ見ている意識=何があっても変わらない本当の自分」が確かに存在しているという、証のようなものを感じました。
それがあると知らなくても感じているのなら、何かのきっかけでもっとはっきりと感じられるようになる可能性が誰にでもあるはず。

今世の中では、他者との違いを見て区別や差別をする傾向が強まっているように感じます。それぞれの信念を貫き通すために他者を傷付ける言動に及んでしまうケースも少なくありません。
1人でも多くの人が「何があっても変わらない本当の自分」を体感し、自分以外の誰もがそうであると感じられたら、思い込みや偏見のないまっさらな目で見て、囚われのない心を持って互いを愛おしむことができるのではないか。

身体の状態がどうであれ、世界のありさまがどうであれ、また心がどういうふうに反応しようが、 何にも影響されない変わらない自分がいる。 この真実があるということが今を生きる人にとって救いなのではないかと思います。

 いつまでも見続けていたくなるほど美しい『悟り』の表紙。

ハルシャニー


「働く」歓びをリスに学ぶ ~『ラーマーヤナ』より

ヨーガを学んでいると、ある時突然、ヨーガの教えが胸の中をサァーッと明るく照らしてくれることがあります。

昨年のバクティ・サンガムで「神への愛でハートが満たされた時、すべての行為は歓びとなる」というテーマで、聖典『ラーマーヤナ』が取り上げられたことがありました。『ラーマーヤナ』は、神の化身ラーマ王子が悪魔に連れ去られた王妃シータを取り戻すという物語ですが、ラーマとシータへの愛ゆえに力戦奮闘する猿神ハヌマーンは、西遊記の孫悟空のモデルともいわれ、ご存知の方もおられるのではないでしょうか。

『ラーマーヤナ』は本を読んで少し知っていたのですが、私はこの日のクラスで、物語の一場面に登場する小さなリスにインスパイアされました!
ラーマ王子が悪魔の住むランカ島へ渡る場面──。たくさんの生きものや水に住む怪物までもが、ラーマのために喜んで橋を作り始めました。そこへ小さなリスがやって来て、ラーマに「私に何かお手伝いすることはありませんか?」と尋ねました。そこでラーマは、リスに体に砂をつけて、それを石と石の間に落として橋をつなぎとめる仕事を頼みました。リスたちは喜んで一生懸命働きました。

(橋を作っている場面。楽しそうに働く生き物たちとラーマ) Made in Kangra,1850

私は、以前から「いつも神や師の道具となって働けますように!」と願っていたのですが、時々「こんなちっぽけな私に一体何ができるのだろう…。神の道具になるなんて、そんな大それたことが本当にできるのだろうか……」と、弱気になってしまうことがあったのです。
それがこのお話を聞いた時、「あぁ、このリスのようにただ素直にラーマ(神)に“私に何かお手伝いできることはありますか?”とお尋ねするだけでよかったんだ! そうすれば、神は私にできるぴったりの仕事を与えてくださる。いや、もう与えてくださっているはずだ!」と思いました。と同時に、“私”に何ができるのだろう……と考えること自体が“エゴ”であることに気が付きました。

純粋な愛の前ではエゴは消え去り、神への愛でハートが満たされた時、すべての行為は歓びとなる! それに気付いた瞬間、私の胸は歓びでいっぱいになり、涙が溢れました。

それ以降、心の中で「私に何かお手伝いできることはありますか?」と神に尋ねるようにしました。そして、自分の目の前にあることや起こることを小さなことであったとしても、神の大きな仕事の大切な一つとして愛をもって誠実に行為するよう、今まで以上に意識するようにしました。そうしているうちに、最近では不思議と以前のように弱気になることがなくなりました。そして、日常生活の中で「働く(行為する)」ことに歓びを感じることが自然に増え、心がまた少し軽やかになったような気がしています。

これからもリスの純粋さと素直さを忘れず、いつかハヌマーンのように神の道具として力強く勇敢に、海や山をひとっ飛びすることができますように!!!

シャルミニー


アーサナへの姿勢

アーサナ(ヨーガのポーズ)は身体の柔軟性を競うものではなく呼吸の深まりと安定をもたらし、その影響を受けて心も強く穏やかな状態に変化します。今回のブログは、愛媛県松山市で熱心にヨーガを実践されている大森みさとさんのアーサナについての記事です。彼女のアーサナの真摯な取り組みによる呼吸と心の変化が紹介されています!


2年と少し前、ヨーガを学び始めた頃の私は、あまりアーサナを重要視していませんでした(!)。クラスに通い、自宅でもしていましたが、なんせその頃の私はヨーガに巡り合えた喜びで無敵のイケイケ状態だったため、この情熱さえあればオールオッケー!!と言わんばかりに舞い上がっており、アーサナは2の次3の次のような気持ちでいたように思います。
ちょうどその頃、師がNYへご布教のために約3か月渡米されることになり、幸運にも10日間ほど滞在を共にさせていただく機会に恵まれました。滞在中に私は、「アーサナは何呼吸すればいいですか?」と師にお尋ねしました。それに対する師のお答えは、

「20呼吸。」

頭が真っ白になりました。その時の私にとって20呼吸は未知の回数で、果てしなく長いように感じられたからです。に…20呼吸…この先毎回20呼吸……
私は抵抗する心のままにアーサナから逃げました。でもずっとそうしているわけにはいかないし、嫌だという思いがあることは自分に必要なことなのでは…とも感じていたので、日本に帰ってしばらくしてから腹をくくってアーサナに取り組むことにしたのです。
(※反るポーズなど、アーサナによっては20呼吸していないものもあります。また、ひとりひとりの体調や状況があるため、誰にとっても20呼吸が必要ということではないと思います。)

初めはアーサナが終わらないかのように長く感じられました。しかし、毎日続けるうちに、気が付くと20呼吸のアーサナが日常の一部になっていました。
それまでの私は、クラスではポーズが苦しくなると、「いつ解除の声がかかるんだろう」といった雑念がよく湧いていましたし、自宅でも、何となく辛くなったら保持をやめるというやり方だったので、自分に都合のいい範囲内で取り組んでいたと思います。でも20呼吸すると決めてからは、積極的にアーサナに向かっていく感覚が生まれ、それまで感じたことの無かった肉体や呼吸の苦しさに直面しても、呼吸が終わるまではじっと耐えるという状況が自然と出来上がっていました。師の教えがなければ、自分を追い込むこともなく、そこでの苦痛に耐えるということもできなかったと思います。

マッチェーンドラ・アーサナ(ねじる形)

私はこの教えをきっかけにアーサナに向き合うようになり、今、アーサナに対する姿勢の大切さを感じています。自分の意志で積極的にすること、ごまかさず誠実に行うこと、苦しくても忍耐すること、ひとつひとつきちんと終わらせることを特に心がけているのですが、どれもそっくりそのまま日常生活でも大事なことだと気が付いたからです。これらの心がけがやがて自分の性質になり、自然と日常の中にも表れるようになるよう、これからも日々実践を続けていきます!

ブジャンガ・アーサナ(コブラの形)

大森みさと


ヨーギーから伝わる人生の「虎の巻」

京都、長岡京ヨーガクラスの新年のスタートは、112日でした。
会場の神足ふれあい町家の風情ある大きな格子窓からは、天から降りそそぐ真っ白な雪がしんしんと舞い降りてくるのが見えていました。照明が落とされた和室からは、その雪景色が絵画のように浮かび上がっていました。

長岡京ヨーガ・瞑想クラス

この日は、約150年前のインドに聖者スワミ・ヴィヴェーカーナンダがお生まれになった日であり、講師のマードゥリーさんがこの吉祥な日にクラスが行なわれることへ感謝の思いを話されました。

かつてヴィヴェーカーナンダが師の御仕事を担われて、インドの叡智を世界へ向けて伝えていかれた。その恩恵があって、今私たちが学んでいるヨーガがある。
それを聞き私は、このヨーガは実際に生きていた聖者が精魂込めて人へ伝えられたその結晶なのだと初めて意識し、それを今教わっている不思議さを思い、講師の方々、そして師に、感謝しました。

受講者たちはみんなとってもいい笑顔で、凍える外の寒さがまるで嘘のように、部屋の中は穏やかでアットホーム。あぁ、きっとヴィヴェーカーナンダも喜ばれている、彼の師であるラーマクリシュナの存在、そして私たちの師であるヨギさんの笑顔が自然と浮かび、白い雪は祝福の散華のように見え、胸の奥から込み上げるものがありました。

長岡京ヨーガ・瞑想クラス

真っすぐ背筋が伸びたみんなの後ろ姿が凛としていました。アーサナを真剣に行なう清々しい姿がありました。
受講者同士でワイワイと会話をされるようなことはないですが、いつも自然で、さりげない気遣いと優しさをそれぞれに感じ、こういうのすごくいいなぁ~と私は行くたびに思います。みんなの背景は何も知りませんが、ただヨーガで繋がっている妙な安心感があります。それぞれの思いでヨーガを拠り所にされていることを感じ、ずっと続けて通われていることを尊敬します。クラス中に質問なども特にされていないようですが(私が知らないだけかもしれませんが)みんなどうしてこのヨーガを続けられているのかな~とふと思ったことがあります。一つのことを続けるのは、結構大変だからです。

長岡京ヨーガ・瞑想クラス

クラスの最後に今年の干支である虎にまつわるお話が紹介されました。
古代のヨーガ行者たちは、虎の皮を敷物にして瞑想をしていたそうです(ヨーガ行者は決して生き物を傷付けないので、自然死した虎の皮です)。百獣の王とも呼ばれる虎の上にヨーガ行者が座っている意味は、すべてを支配するという象徴的な意味もあるとか。ヨーギーは何ものにも執らわれない、自由を私は感じました。
また、虎は千里行って千里帰る、というように、一日で千里もの距離を走り戻るような威力があり、修行者をその背に乗せて、悟りの境地へ連れて行ってくれる乗り物でもある。そして「虎の巻」といえば、由来は秘伝が書かれたもの、奥義の秘伝書という意味合いを持つそうです。まさにこのヨーガも秘伝ですね、今年もヨーガの智慧、秘儀を一緒に学んでいきましょう、とマードゥリーさんは結ばれました。

私は、みんながヨーガを続けているのは、答えはヨーガが秘伝だから、と腑に落ちました。ヨーガはまさに私たちにとって生き方の秘伝書。秘伝は、それを知った者だけに分かるもの。これは体験した人にしか分からないものがあります。ちなみに私は、クラスへ行く行かないとでは全く違う!と最初の頃から毎回同じことを思います。今はオンラインでも様々なクラスがあるので、参加しやすいと思います。

虎にあやかって、今年も私たちが積極的にヨーガの道を全力疾走できますように。虎の背に乗せてもらえますように!

 

 野口美香 


ヨーガは喜びへの道

ヨーガ・サーラ・スタジオではクラス後、自然に参加者の皆さんと円になってヨーガの話で盛り上がることがあります。皆さん、お互いをよく知っていて、ヨーガの実践についても相談しやすい環境です。最近は京都のオンラインでのバクティ瞑想専科で教わったことや「常に神の御名を唱える」についての話題が多く、誰かの実践がまた別の誰かを鼓舞するという情熱の輪が広がっています。こんな嬉しい話もありました。一人の方が「いつも自転車でクラスに来る時キールタンを歌っているけど、あれ?こんなに楽しくていいのかなって思ったんです」と。楽しくていいに決まってます! ヨーガは喜びへの道です! その朗らかな笑顔は日々の地道な実践の積み重ねによって心が変容してきたことを物語っています。

月曜の朝のクラスのみなさん

さて、昨年久々にクラスに復活してくださった子育て中の女性から新年の抱負が届きました。

・クラスに通うようになって、心も体も穏やかになっていくのを日々実感しています。わんぱく盛りの双子の男の子を育てていると、まだまだ心が巻き込まれてしまうこともあるのですが、そんな時は、ハートの奥に問いかけてこれは真理なのかどうか、徹底的に分析していきたいです。今年もクラスでアーナンディーさんやヨーガを学ぶ先輩たちにお会いできるのをとても楽しみにしてます。

さらにバクティ(信愛)・ヨーガを深めているお二人からも!

・神の御名をとなえて同時にあなたを愛することができますようにと祈ること。富、名声、および快適な生活のようなかりそめのものに対する執着が日に日に少なくなりますように、と祈ること。神が喜ばれるよう行為すること。

 ・周囲の人々に喜びと笑いをもたらすよう、お話ができる人になりたいです。そして、常に神を想い、神の御名に神を見ることができるようになりたいです。

師はおっしゃいます。「自分の中に尊い存在があるということを信じてください。神は雲の上にいるのでも、宇宙の果てにいるのでもない。あなたの胸の中にいます。それが誰もの本質です。そのことを知らないから、人々はみな苦しんでいるのです」と。「尊い存在が胸の中にある」、この言葉に胸の内側から力が湧いて瑞々しい喜びに包まれます。一人でも多くの人がこの真実を知ることが、周りの人の平安につながっていくと信じています。なぜなら「尊い存在が胸の中にある」と知ると心は満たされ、動じなくなり、その影響を受けた周りの人の心も穏やかになるからです。どうか真の喜びが広がっていきますように。

2021年最後の瞑想会の様子。みんなと座ると「長時間座れる」と好評です。

アーナンディー