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新年のご挨拶 2022年

皆さま、明けましておめでとうございます!
 
今年のお正月は厳しい寒さとなりましたが、それぞれの場所で気持ちを新たに新年を迎えられたことと思います。
 
元日の朝焼けの中の富士山

 

私は今年の抱負を「一つの物事に対して粘り強く取り組むこと」に決めました。
 
先月のブログに書きましたが、神の道具として使っていただけるようになるために、今私がやるべきことだと思ったからです。
神に自分を明け渡して委ねるという信念をもとに、目の前のことに丁寧に向き合い、じっくり考え、行為する。
そうやって繰り返し行なう中で、少しでも自分の理想に近づいていけるよう、より一層強い覚悟を持って生きていきたいと思います。

 

今年の正月花はいろいろな種類の菊を選びました。
季節を問わず見かける菊ですが、冬の菊からは凛とした強さを感じます。

 

2022年も、このブログ「ヨーガを生きる」が少しでも皆さまのお役に立てる場となれば幸いです。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

ハルシャニー


神の道具になるために必要なこと

 

”わたしは、自分が特別な資質を持っているとは思いません。

わたしはこの仕事に対して、何も要求していません。

これは神のみ業なのです。

わたしは、ただ神の手の中の小さな鉛筆に過ぎません、

ほんとうに、ただそれだけです。

神がお考えになります。

神がお書きになります。わたしという鉛筆は、それに対して何もすることはありません。

鉛筆は、だた使っていただくことを、

許されているだけなのですから。”

※『マザー・テレサ 日々のことば』 女子パウロ会

 

私は以前からこの言葉が好きで、一切の私というものをなくして、神の手の中の小さな鉛筆になりたい、小さな道具として神に使って頂けるようになりたいと思っていました。しかし、マザー・テレサがどのような思いでこの言葉をおっしゃったのかを、きちんと考えたことがありませんでした。

今回、改めて考えてみると、マザー・テレサがおっしゃる、”小さな”とは、謙虚さを表しており、”ただ神の手の中の小さな鉛筆に過ぎません、ほんとうにただそれだけです” という境地には、謙虚さを徹底することが必須なのではないか、と感じました。

その上で、いついかなる時も神に全てを委ねる、覚悟を決めること。

そこには自分の思いなど微塵もない。
ただの道具として神に使って頂くというのは、あらゆる局面で、神に完全に自分を明け渡して委ね続けるということなのではないかと思いました。
この信念のもと、強い覚悟がなければ、使って頂ける道具にはなれない。

では、マザー・テレサはどれほどの覚悟を持ってただ使われる鉛筆になったのか。
今の私にはその大きさ、強さは計り知れないものに感じられます。
ただ、マザー・テレサに憧れる思いはこれまで以上に大きくなりました。もっともっと近づいていきたいと思いました。

苦しんでいる人がいたら手を差し伸べ寄り添う。お腹を空かせている人には食べ物を、愛に飢えている人には愛を与える。

マザー・テレサが目の前の人々に行為され続けたように、私も目の前にいる人に対して一つでも行為し続けていきたいと思います。

*写真:一時期、事あるごとに眺めていた写真です

ハルシャニー


マザーに憧れて

キールタンの中に、Bhajamana Ma(バジャマナ・マー)という曲があります。

おお 心よ 母を讃えよ 
母よ 母よ 母よ 母よ 
歓喜に溢れる母よ 至福に満ちている母よ 
至福の姿をとられた母よ

この曲を歌っていたある時、ラーマクリシュナはマーのことをこの曲のように思われていたのではないかなと思うことがありました。そして、今はこの曲を歌うと、自然とサーラダ・デーヴィーのことを思います。

バクティ・サンガムでサーラダ・デーヴィーのことを教えていただいてから、その存在にとても惹かれ、二冊の書籍を購入しました。ラーマクリシュナの聖なる妻であられたサーラダ・デーヴィーは、師の弟子や信者から愛情と尊敬を込めてホーリー・マザー(聖母)と呼ばれておられました。私も密かに「マザー」とお呼びしています。そして、ラーマクリシュナご自身もサーラダ・デーヴィーの汚れのない純粋さを確信され、聖なる母として正式に礼拝を捧げられたことも記されていました。

マザーがどれほど強い信仰をお持ちだったか。どれほど深く大きな愛をお持ちだったか。私には到底計り知ることはできません。けれど、私はマザーにとても憧れます。ラーマクリシュナもお認めになられたような存在でありながら、マザーは生涯変わらず慎ましやかであられました。ラーマクリシュナの男性の弟子が増えてお側に仕えるようになった頃、彼らの前に出られないほどはにかみ屋で控え目であられたマザーは、ニ、三十メートル程のところにお住まいになりながら、ラーマクリシュナにお会いできない日が時には二カ月も続きました。マザーはラーマクリシュナにお会いしたい気持ちを堪え、ポーチの仕切りの小さな穴の後ろにたたずみ、ラーマクリシュナの歌声に耳を澄ませられました。そうして何時間も立ちっぱなしになられたためにリューマチを患われたこともありました。

また、ラーマクリシュナを愛し、常に拠り所にしておられました。どのような状況にあっても師の教えに誠実であられました。そしてマザーは教えてくださっています。

”平安を望むのなら、誰の欠点も探らないことです。
自分の欠点を調べなさい。
世界を自分のものとすることを身に付けなさい。
子供よ、誰ひとり他人はいません。
全世界があなたのものです”

日常でその教えを思い起こすと私の中の高慢な思いはすぐさま力を失います。ヨギさんは、マザーのことを「泥池に咲く蓮の花のような人」とおっしゃったそうです。
今いる場所で、マザーを見倣い、熱心に実践を続けたいと思います。

いつでもマザーを思うことができますように。
携帯の待ち受け画面もマザーのお写真にしています。

藤原里美  


一歩一歩

私は今の職場に勤めだして三年目になりますが、忙しさといい人間関係といい、今までに経験がないような過酷な環境に感じました。
 働き始めてすぐの頃、ヨギさんが特別サットサンガで松山にきてくださいました。私は、仕事の辛さをご相談させていただいたのですが、ヨギさんはなぜか満面の笑みで「頑張ってね!」とおっしゃいました。こんなに辛いのに、なぜヨギさんは笑顔で頑張れとおっしゃるんだろう?と思いましたが、きっとこれは仕事を通してヨ―ガの実践の場を与えてくださったのだ!と思うようになり、そこからは何が何でも頑張ろう!と心に決めました。

 それから今もずっと心がけていることは、全ての人の本質は神であると信じること、目の前で何が起きても、現象だから執らわれないこと、自分は神の道具なのだから、一切の自己主張(エゴ主張)は捨てて、役割に徹すること、どんな仕事も神に捧げる物として誠実にベストを尽くすこと。と、目標は立派なのですが、失敗ばかりです。

 でも、失敗しても失敗してもトライし続けていたら、どんどん目の前の景色が変わっていって、小言ばかり言う先輩だと思っていた人がフォローしてくれたり、誰とも挨拶を交わさないと思っていた人が挨拶を返してくれたり、怒った顔しか見なかった人が微笑んでくれたり、あれ?こんなんだったっけ?と思うことが増えていきました。やはり全ては現象なんだなぁ!と実感しています。

 今も、毎朝起きたらヨギさんのお写真にお祈りをしてから家を出て、自転車を漕ぎながら「全ては神の表れ、私の命も神様に生かされている。神様の思し召しだけがある。どうかヨギさんの教えを生きる弟子であれますように」と、唱え続けています。

 ヨギさんが灯してくださる光に向かって、一歩一歩、歩んでいきたいです。

通勤途中の松山城のお堀にいる白鳥です。
白鳥を見てはヨギさんを思っています。

小野稚小(おのちさ)


プラティヤーハーラ

師の教えが書かれた「ヨーガの福音」を通勤電車で読んでいました。プラティヤーハーラについて書かれていました。一心に読み進めてふと目を車窓に向けると見慣れない風景が。電車、乗り過ごしていました。車内では確かに駅名がアナウンスされ、私の耳はそれを捕らえていたはずです。しかしその情報は意識に伝わりませんでした。好きなことに夢中になって他のことが目や耳に入らないのはよく経験することですが、これはプラティヤーハーラなのかと疑問がわきました。

五つの感覚器官がすべて外向きに付いていて、
心は常に外部の影響を受けてしまいます。
したがってプラティヤーハーラでは、
ちょうど亀が頭や手足を引っ込めるように、
五つの感覚器官と心を引き込め、制御します。
シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

耳・皮膚・目・舌・鼻などの感覚器官が引き寄せた音・触感・見たもの・味・匂いなどに、心が反応しないように制御する。とらえどころのない「心」の働きを、このように機械的に分解していくヨーガの教えが私はとても好きです。様々な感情に心揺れる時に、「これは感官が捕らえた情報に心が飛びついているだけだ」と思うと気持ちが少し楽になるからです。

私は仕事から帰宅すると夕食前にアーサナをすることに決めています。でもいつもより疲れて帰宅し台所から好みの献立の匂いがすると、心は夕食の方に引き寄せられていきます。聖典の一冊読了に取組んでいても、面白そうな単行本の広告に目移りします。家の隣のコインパーキングで車のエンジン音が続くと「苦情をいうべきか」と心拍数が上がります。職場で職員が深刻そうに電話をしていると、過去のトラブル対応が蘇り不安な気持ちになります。

五感覚器官と意(マナス)は全く無防備で、
いとも簡単に対象に引き寄せられます。
プラティヤーハーラとは「諸感官をその対象から引き戻す」ことであり、
いわば酒飲みが酒に飲まれるがごとく、
感官に服従し対象に隷属化する心を、反対に心が主導権を握り、
感官を支配する構図に切り替える作業です。
シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

私の心は嬉々として餌に飛びつくカエルみたいだ。どうしたら師が教えて下さっているように心が主導権を握ることができるのだろう。師の教えをあてがって考えてみると、心が動く時は必ず過去の経験や記憶に基づいた対象への執着や嫌悪があることが分かりました。心に刻み込まれた様々な印象をヨーガの修行を通して焼き尽くしてしまいたい。でも怒ったり、笑ったり、泣いたり、人生悲喜こもごも。それが人間らしさではないのかな。師はその疑問にも答えを下さいました。

(夏の安曇野で見つけたカエル。ぴょんと飛びついてきました)


「感情がなければ人間ではない」という考え方こそが無知です。
感情というものは心の煩悩から出てくるものです。
修行が深まれば感情は大きな慈悲となります。
それはもはや個人的感情とは呼びません。
そのエゴ的な感情を普遍的な感情にしてください。
シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

移ろいやすい感情を揺るぎない神の愛に昇華させるために、「神が愛である」ことを素直に受け入れ、人生をかけてそれと一体になることだけを求めていきたい。いつどこにいようとも師が無私の愛で私たちを包んでくださっているように、私も献身奉仕のために命を用いることができますように。

(代々木クラスの後に明治神宮に行ってみました。
揺るがぬ心で真っ直ぐに歩んでいけますように)
 

小菅貴仁


台湾アーナンダ・アーシュラマでのジャヤンティー報告

オンラインのおかげで世界各地のグルバイと共にジャヤンティーに参加することができて、本当に嬉しいです。台湾はこの日は国民の休日ではありませんでしたが、それぞれの自宅からのオンライン参加も含めて20名が参加しました。本当はみんなで集まりたかったのですが、感染拡大防止のため、必要なスタッフだけがアーナンダ・アーシュラマに集いました。

当日は、アーナンダ・アーシュラマのリビングを二つの空間に分けました。一つは観覧区。プロジェクターを使って、はっきりとした画面で祝祭を拝見しました。

もう一つはスタジオ区。パソコン、マイク、ライトなどをセッティングしました。

背景に飾った綺麗なお花は、グルバイのマークが生けてくれました。

 

今回、初めて同時通訳に挑戦しました。別の通信アプリで台湾のグルバイと繋がり、式の進展に伴って、その内容を台湾語でみんなに届ける。祝辞者一人一人の深い信仰と強い宣言は、みんなの心に響きました。グルバイたちの祝辞、各地の活動紹介、歌の内容を同時に理解することができるので、同じタイミングで共に笑い、涙を流し、感動を分かち合えて、台湾のグルバイたちみんなは大喜びでした!!

(皆、真剣に聞いている様子)

  
(通訳を務めるプリヤー/左とマールラー/右)

でも、やっぱり一番嬉しかったのは、ヨギさんにお会いできたことです!!!!! ヨギさんは画面を超えて、私たち一人一人にダルシャンを与えてくださったように感じました。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜

純粋な歓喜に溢れるジャヤンティーが終わって、1時間の休憩に入りました。

(メニューはインドカレー、酢漬けトマト、しめじの炒めものとサラダです)

1時間後、台湾グルバイたちはもう一度繋がります。それぞれの感想を語り、感動と喜びを分かち合いました。祝辞の内容に励まされた、勇気をもらった、やっぱりジャヤンティーは最高、ジャヤンティーが開催されることや、ヨギさんの存在に感謝するというみんなからの声が聞かれました。

また、台湾グルバイたちと一緒に、新しくできたMYM台湾のウェブサイトを見ました。

私たちの心の中に真理の火を灯してくださったのは、ヨギさんです。
ヨーガ行者のあるべき姿、仕事に対する姿勢や他者に接する態度などなど、すべてを教えてくださったのは、ヨギさんです。
どんな言葉でも表現できないほど、本当にヨギさんに感謝しています。
ヨギさんからいただいたこの真理の火を、さらに多くの人に届けられるよう、頑張っていきたいです!!

MYM台湾   MYM Taiwan


御聖誕祭に向けて

今年も敬愛する師の御聖誕日がすぐそこに近づいてきました。

昨年に続きオンライン開催となりますが、それぞれの場所で歓びを感じながらその日を待ち望んでいるグルバイ(兄弟姉妹弟子)の姿が目に浮かぶようです。

 この時期になると、私はいつも御聖誕祭の様子が書かれたパラマハンサを読み返します。
どの祝辞も一人一人の師への想いと、真理への道を歩む決意に溢れていて、胸が熱くなります。

 私は2009年の御聖誕祭に初めて参加したのですが、当時はまだそれがどういうものなのかよく分からず、次々と述べられる祝辞に、ただただ圧倒されました。目の前におられる師は時にこの上なく優しい微笑みをたたえられ、時に大笑いをされ、温かい眼差しを皆に向けられていました。

師のお顔も、皆の顔も、キラキラと歓びで輝いていました。

最後に祝辞をされた先輩グルバイが、祝辞の中で詩を捧げられました。

 ”この目はヨギを見るためだけにあり、この鼻はヨギの香りを楽しむためだけにあり、
この耳はヨギの声を聞くためだけにあり、この口はヨギの御名を唱えるためだけにあり、
この手はヨギに礼拝するためだけにあり、
そしてこのハートはヨギの尊い御足の気高い塵をいただくためだけにある。
この命はヨギによって光り輝く…
ヨギだけが在る。
一切はマハーヨーギーなり。”

この詩を聞いた時、私もそうなりたい!!と強烈な憧れが胸の奥から一気に溢れ出ました。

涙が止まらなくて、胸がいっぱいになり過ぎて、初めての感覚にどうして良いか分からなくなりました。今も折に触れてこの詩を思い出し、早くこの境地に至りたいと強く願います。

先輩グルバイの祝辞が掲載されているパラマハンサ。

 

”真実を悟るということ、私と不異(おなじ)に成るということを覚悟してください。それによって全ての物事は、できる限り運んでいくことになると思います。”

先日、臨時配信されたWebパラマハンサの中の師のお言葉に、身の引き締まる思いがしました。

これから自分が向かう先にある目標が、計り知れない偉大なものであること。そのあまりの尊さに、果たして自分にそれができるのか?という思いが顔を出します。

しかし、容易に到達できるものではないとしても、困難にぶつかったとしても、いつか果たせる目標であると信じ、真っ直ぐにヨーガの道を進むことが大切なのではないかと思っています。

私の体の全ての器官が師のためだけに機能しますように。私のハートが常に師の存在で満たされ続けますように。生きる意味を教えてくださった師のために、この命のある限り、師に倣い愛を持って他者に行為し続けられますように。

山梨県の栖雲寺(せいうんじ)にある大きなモミジの木。
木の真下にいると、モミジの葉を通した暖かい色の光が差し込んできて、
師の大きな愛に包まれているような気持ちになりました。

ハルシャニー

 

 

 


ものごとの真正面

久しぶりに会えた7歳の姪っ子と、簡単なフラワーアレンジメントの会に参加しました。早くお花を触りたい姪っ子は、先生の説明に集中できないようでした。勝手にやろうとするので、私はヨーガの『お花を生ける会』で昔に先輩から教わったことを伝えました。

私 「お花にもお顔の正面があるねんて。私たちも正面からのいちばんいいお顔を見てほしいやん?お花がどの角度から見たら正面のいいお顔かを探してあげて、いいお顔が見えるように立ててあげよ」
姪っ子の顔は半分以上マスクに覆われていましたが、そこからのぞく濁りのない瞳は真剣そのものでした。
姪っ子 「わかった!」
そして直ぐさまお花を一本ずつクルクル回しだし、正面を探して、あっという間に生けてしまいました。子供は迷いがないようです(笑)。
私 「テーマとかあるの?」
姪っ子 「お花畑!」

無為自然な感じでお花も伸び伸びと嬉しそうです。作品として綺麗に見せたいという意図が全く無いからか、単純にただお花の正面探しだけに夢中だったからなのか?? 意図が無いほうがそのものが生きる、という真理を、姪っ子を通して教わった気がしました。そして、先輩からのヨーガの教えは、こんな小さな子にもバッチリ分かる真理なんだと感動しました。師が、「真理とは難しいものではなく、小学生にも分かるようなもので、またそうでなければそれはおかしいからね」と最初にお会いした時、教えてくださったことをふと思い出しました。

同じく先輩から料理の時、こう教わりました。
まな板で野菜を切っている時、ちょっと別のことを考えていたりすると手を切ることがあるでしょう。やっぱり正面から真っ直ぐ見ていないとね
何気ない言葉ですが、この真理の言葉を私はよく思います。

また、師がニューヨークミッションにご滞在中、そのお部屋を掃除する機会を昔いただきました。トゥリヤーナンダの本にも載っている「物を正しい場所に置く」ことについて意識しました。彼の師であるラーマクリシュナは、「どんな物でも、それのあるべき場所に置かなければいけないのだよ」と教えられたそうです。だから私は、師がその場所に置かれている物は必ず元あった場所に戻さなければ!とガチガチに気を張り、掃除をしました。
暖房器具の上に、観葉植物が置かれていました。掃除のためにその植物を移動させ、掃除した後、注意深く元あった位置に戻しました。しばらくして師が音もなくスッと立ち上がられ、植物をわずかに動かされました。しまった!!と思い、即座に師に謝りました。位置が少しズレていたと思いました。スラっとした佇まいの長身の師はこちらを振り返り、優しく葉っぱに触れられながら微笑まれて穏やかにおっしゃいました。
「ううん~、違うねん、植物に暖かい空気があたったらかわいそうだしねぇ~」

優しさに胸がギュッとなり、と同時にラーマクリシュナの教えの真意をも教わったようでした。植物は生き物。私は本質的な大切なところを見られていませんでした。師のあたたかい背中から学んだ忘れられない出来事です。

ものごとを真正面から見れたら、そのものを生かし、大切に扱うことができるのかもしれません。それは物をあるべきところに置くことにも繋がる気がします。子供のような曇りのないピュアな目で、素直に見たいものです。

今、自宅の観葉植物を見ていると、師が優しい手で植物をそっと動かされた印象が蘇ります。師や先輩のように、万物を大切に扱える人に憧れます。植物も人間もみんな同じだからです。

お花畑

畑の一角の小さなお花畑

 野口美香 


母なる神像

私の部屋の祭壇にはカーリー女神の神像があります。とあるきっかけで、先日その神像を初めて磨きました。真鍮製の像を専用の研磨剤と布を使って磨くのですが、これがまぁ驚くほどに汚れが落ちるんです。(どれだけほったらかしていたの…!)あっという間に布が真っ黒になっていきました。それでも一通り磨いたくらいでは汚れは落ち切らず、何度も何度も、お顔、胴、手、脚、土台、と細かい部分まで目を凝らしてきれいにしていきます。

そうして磨いていくうちに、今までカーリーのことを見ていたようで全然そうではなかったのだと気が付きました。瞳が真ん丸でキュートなこと、お鼻が立派なこと、後ろから見ると髪の毛の筋があること、足の爪もちゃんとあること。なんてかわいいんだろう!手で触れ、近くで見つめ、きれいになりますように、と磨いていくうちに、赤ん坊の世話をする母親のような気持ちになりました。宇宙の母であるカーリーに対して、私が母親のように感じるとはどういうこっちゃ?!と思いましたが、すべてを展開されたカーリーは、私が思う役割の枠になんて収まるはずがありません。今回の出来事で私は、カーリーによって、目の前の存在を大事に思い、愛おしむという気持ちを呼び起こしてもらったように思います。

きれいにしてからというもの、自然とカーリーに目を向ける回数が増え、眺めては胸の奥が愛おしい気持ちでいっぱいになるのを感じました。そして、カーリーだけでなくほかのすべての存在に対しても、同じような気持ちをもって接したいなぁと思うようになりました。大事に思う気持ちは、たとえまた薄れてしまったとしても、祭壇で変わらず輝くその姿を見つめていればきっと大丈夫なように思います。目の前の人、もの、すべての中にカーリーを見ることができれば、なんて素晴らしいだろう!そうなるために、私自身のハートもヨーガという研磨剤を使って根気よく磨き上げているところです。必ずきれいにできると信じています。なぜなら私の本質も、ピカピカに光ったカーリーと不異(同じ)だからです!

愛媛(今治)と広島(尾道)を繋ぐしまなみ海道です。秋晴れの中、穏やかな海と無限に広がる空がとても清々しく感じられました。

大森みさと


マハーヨーギー・ミッション ロングTシャツが到着!!

 10月23日、待ちに待ったマハーヨーギー・ミッションのロングTシャツが届きました。写真はアーサナクラスの後にグルバイと撮影したものです。皆笑顔で喜びに満ちあふれていますね。

撮影時のみ、マスクを外しています。

 この春夏と半袖Tシャツを着られた方も多いのではないでしょうか。私も師のヨギさんがデザインされた神聖なTシャツを着て、クラス、仕事、趣味の場など色々な所に出かけました。このTシャツを着る時はいつも心強い気持ちになりましたし、幸せな気持ちで一杯でした。
 ある夏の日、職場でオレンジ色のTシャツを着ていて、「いい色ですね。よく似合いますね」と声をかけて頂き、話に花が咲きました。出張に出かけた先のホテルで何気なくTシャツを壁にかけると、夕方その部屋はアーシュラムの雰囲気になりました。クラスで皆同じTシャツを着てアーサナをした時の一体感と集中感は、まるでヨギさんの直伝クラスに出ているようでした。このTシャツにより、色々な出来事が起こりますが、それらは皆ヨギさんの恩寵だったと後で気付きました。ヨギさんはいつも、気付かぬうちに私達の人生に喜びを届けて下さり、痕跡を残さず出て行かれます。真のヨーギーの働きはこのような目に見えないものなのかもしれません。
 私は研究を生業としており、そのメカニズムについて疑問を持つのがヴァーサナー(心の傾向・性質)となっています。なぜこのTシャツにはこのような効果があるのか。何か仕掛けがあるのではないかと思い、他のTシャツとも比較しながら、その性質を調べてみました。やはり胸の中心にあるアートマンのデザインに何かあるのではないかと思います。このシンボルを見ると胸の中に何かがグーっと入り込んで集中が高まる気がします。これをデザインされたヨギさんの大切なメッセージが込められているのではないかと思いました。

「本当の主人はその(心の)奥にあるアートマン、真実の自己、あるいは神なのです」
『ヨーガの福音』36ページ

という「アートマン/すべてはそれだけのために」の教えが自然と思い出されます。
 この冬も胸のアートマンを意識しながら、アーサナ・瞑想を頑張りたいと思います。ロングTシャツの周りでどんなことが起こるのか楽しみです。

島本廉