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ヨーガと心の傾向 ②ヨーガはヴァーサナーとの闘い!?

「自分のヴァーサナーを何とかしたい!!」と悶々としていたある日、長年師の下でヨーガを続けておられる京都の先輩と電話でお話をさせていただく機会がありました。そこで私は、先輩にヴァーサナーについてうかがってみることにしました。(前回のブログ

私は「ヴァーサナーについて教えて下さい。自分のヴァーサナーをどうにかしたいのですが、どうしたらいいですか?」と率直に質問しました。先輩はとても丁寧に答えて下さいました。
「そうですね。“長い間ニンニクが入っていた壺からニンニクを取り出しても、ニンニクの匂いは消えずに残っている”とよく例えられるけれども、ヴァーサナーは空気のようなもので実体がないんですよ」
そして、次のように説明して下さいました。
ヴァーサナーというのはサンスカーラ(※1)が積み重なってできる心の傾向であり、例えば、好き嫌いやその対象に対してどのような反応をするか、また様々な物事の理解の仕方の傾向や、その人がとる行動、話し方や文章の書き方など、すべてに影響を与えている。師は「風向きのようなものだ」とおっしゃられたそうで、心に入ってきたものはすべてその方向に流されることになるそうです。
真理を学び、自分がヴァーサナーの影響を受けていると頭では理解できたとしても、その理解の仕方自体も影響を受けていることになるので、ヴァーサナーを相手にしても仕方がないし、ヴァーサナーに意識を向けるとかえってそれに捕われてしまう。けれど、そのままにしておくと新たなカルマ(※2)を作り出す温床になってしまうのだそうです。(前回のブログ参照
そして、「ヨーガはヴァーサナーとの闘いなんですよ」と穏やかかつ軽やかな口調で言われました。
今まで何となく理解していたのですが、なんと厄介なものなのでしょうか…!!それにヴァーサナーを相手にせず、ヴァーサナーと闘う!?一体どうやって闘えばよいのでしょう??
「では、どうすればいいのですか?」私は更に質問を続けました。
「やはり真理だけを見ていくことしかないんですよ。唯一真理を求めていくことだけが、大元であるエゴと無知を滅ぼして、心の消滅にともなってヴァーサナーに打ち勝つことになるわけです」と先輩は言われました。

その後、しばらくして別の先輩にグルバイが質問をしている場面に居合わせることがありました。彼女は「頭では、やってはいけないそっちにいってはダメだ!と思っているのに、どうしてもそっちに行ってしまうんです。止めようとしてもなかなか止められないという時はどうしたらいいでしょうか?」と話されていました。私はヴァーサナーのことかなぁ、と思いながら聞いていました。
その先輩はご自分の経験を例に出しながらこう答えられました。
「車やバイクってある程度スピードが出ていると、ブレーキを踏んでも“惰性”の力が働いてすぐには止まれないよね。それと同じで、これまで長年続いていた習慣や性質って、すぐには改まらないことが多いよね。
昔、私がバイクに乗っていて山道のカーブにさしかかった時、曲がり切れずにガードレールにぶつかって転倒したことがあったのだけれど、その時ぶつかってはいけない!と思ってガードレールばかり見ていたら、吸い寄せられるようにそっちに向かって行ってしまったんですよ。本当はそっちではなく自分が進む道の方を見なければいけなかったんですよね。
避けたい対象を意識するのではなく、やはり自分が本当はどうしたいのか、どうなりたいのかということに意識を向けるようにした方がいいよ」と話されました。
私は、なるほど!どちらの先輩も同じことを言われているなぁ!と思いました。“ガードレール=ヴァーサナーやその対象”を見るのではなく“自分が進む道=真理”を見ること。
分かりやすい例え話や言葉を使って物事の本質を丁寧に説明されるお二人のお話を聞きながら、私は先輩方に師のお姿が重なって見え、長年師の下でヨーガを続けて来られた先輩方にまた改めて憧れと尊敬の念を深めたのでした。

職場近くの公園の白梅の花が咲き始め、風に乗って甘やかな香りが運ばれてきました。

私は、先輩が教えて下さったヴァーサナーとの闘い方「唯一真理を求めていくことだけが、大元であるエゴと無知を滅ぼして、心の消滅にともなってヴァーサナーに打ち勝つことになる」とは、『ヨーガ・スートラ』の一番最初に書かれている「ヨーガとは心の作用を止滅することである」と同じことだということにはたと気が付きました!ということは、ヴァーサナーはヨーガが成就するまでなくならないということになります。だから「ヨーガはヴァーサナーとの闘い」なのか…。なんという長期戦なのでしょう!?

「何事も一足飛びにはいきません。一歩一歩です」
私は、師に出会った頃、私が質問したことに対して師が答えて下さったことをまた思い出しました。何も前進していないのではないかと焦りを感じる時に、いつも励みにしている大切な師の教え。あぁ、やはり師のおっしゃる通りなのだなぁ…と、今さらながら心の中で師の御前に額づく思いがしました。四の五の言わず真理の教え、ヨーガを実践しよう。やはりそれしかないのだ。私は自分のヴァーサナーとの闘いに腹を括りました。
それから私は、これまで以上にそのことを意識して日常生活の中でヨーガに取り組むことにしました。
(続く)

※1 サンスカーラ/この世界で経験するあらゆる事柄は心に何らかの印象を残し、その内容に応じた結果(カルマ)をもたらす。この潜在的な残像印象をいう。
※2 カルマ/行為とそれによってもたらされる結果を意味する。利己的な悪しき行為は苦という結果生み、非利己的な善き行いは楽の結果を生む。それゆえ、本来の意味である行為とともに、その結果と、さらには作用・反作用、因果応報の真理も含んでいる。
(『悟り』/サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ著 用語解説より)

辛夷も春の準備を始めています。

シャルミニー


パラマハンサWeb化の衝撃と歓び!!!

ついにこの日がやってきた!
「紙媒体のパラマハンサがWebに移行する」というお知らせに、コロナ禍にあっても何とか以前と変わらない気持ちで暮らしていた私は、思ってもみない衝撃に見舞われました。

機関誌『パラマハンサ』には、多くのサットサンガから選りすぐられた師の教えが記されたプラナヴァ・サーラをはじめ、バラエティに富んだヨーガのエッセンスが掲載され、読者を真理へと導いてくれていました。私自身は、好きな記事には見出しを貼り、さまらさのレシピはリストに書き出し、大切な教えの載ったページをばらして持ち歩く、そんなふうにして、いつでも手に取り、繰り返しじっくり読むことのできる紙面の『パラマハンサ』を、どれほど自分が頼りにしていたのか、痛感しました。

振り返ると、私自身のヨーガの歩みは、常に『パラマハンサ』とともにあったと言えると思います。師がいらっしゃる京都からは遠く離れて住む身にとっては、『パラマハンサ』はヨーガの道を歩む上で掛け替えのないものです。先輩方の経験談を読むと大いに励まされましたし、たとえ文字を読むのがしんどくても、表紙や写真を眺めていると心穏やかになれました。パラマハンサ-至高の白鳥-という名の通り、毎号郵送で飛んできてくれるのを心待ちにしていました。
しかしもう、新しい号の紙面を手にすることはないのだと思うと、ちょっと残念さと悲しさでなんとも言えない気持ちになりました。

見出しを付けた過去の『パラマハンサ』と書き写したさまらさレシピ。大変お世話になりました!

スマホでのトップ画面!パラマハンサが美しく、各記事のアイコン写真も綺麗です!(サンプルページ 5月以降に正式にアップ予定)

しかし、いつまでも沈んだ気持ちでいるわけにはいかないので、気を取り直してサンプルのパラマハンサWebページを見てみることに。
するとそこには、今までモノクロでしか見られなかったサットサンガの写真がカラーになり、色使いの美しい細密画が何枚も掲載されている! さらに、初めは画像の鮮やかさに目を奪われがちでしたが、画像の貼られた記事を読んでいると、これまでの『パラマハンサ』を読んでいるときとは違う感覚が働き、その話の内容にすっと入っていけるような気がしてきました。
印象的なのはプラナヴァ・サーラの写真で、サンガに集う人たちの真剣なまなざしと、問いに応じてくださる師の慈愛に満ちた面持ちとが相まって、自分もその場に参加しているような臨場感を感じました。師が直々に教えを授けてくださっている場面を目にし、実際の問答を読むことができるとは、なんと貴重なことかと思います。他にも体験記やシリーズとなっていた読み物は、一気にまとめて読めるし、気になる言葉を検索すると関連する記事が選び出されてきます。いつでもどこでもヨーガの教えを読むことができる! 忙しい毎日でも仕事でヘコんだときでも、パラマハンサのサイトを見れば前向きになれる! 画像に加えて音声や動画も配信されるようになれば、さまざまな面からヨーガを知り、学ぶことができるに違いありません。
そんなことを考えているうちに、紙面ではなくなると知った時のショックや、横書きになって内容が頭に入るのかしらという心配はいつの間にかどこかに吹き飛び、Web版パラマハンサがとても楽しみになってきました!

すでにインターネットは人々の生活の中で情報伝達やコミュニケーションの手段として欠かせないものとなっており、ヨーガを学んだり、広めるためにこれを利用するということは大きな意味があると思います。特に先行きの見えない今、将来を不安に思う人、自分の生き方や生きる目的を真剣に考える人が世界中に大勢いて、『Web版パラマハンサ』がその人たちが真理に触れるきっかけになるとしたら、それはとても嬉しいことです。
ヨーガの道は、先入観や固定観念をもたず、変化を恐れず大胆に進むもの、と教えられています。新たに大きく発展していく『パラマハンサ』、5月の配信が待ち遠しいです。

マイトリー


見落としていたファクターX

瞑想専科には2018年の春から通い始めたので、今回で3年目になります。
アーサナのクラスにはその前から通っていましたが、日々の生活の中で、自分の心をうまく制御できないことが気になり始めて、瞑想専科にも参加させていただくようになりました。
私にとって「心」というものは、あっちこっちにとっちらかって、振り回されてしまうものだったけど、瞑想専科では、「心」をいろんな切り口で分析した解説をしていただけるので、いつもは厄介な「心」が、まるで科学の公式のようにすっきりと美しく理論立てて説明がつくのが気持ちよくて、もっとよく知りたいと思うようになっていきました。
瞑想の実践も、家ではなかなか長く座れないのが、クラスで座ると、(まぁ、やむを得ないから、というのもありますが)ある程度の時間ならじっと座っていられるようになり、繰り返していくことで、足が痛くなるまでの時間や、集中を保っていられる時間も少しずつ長くなっていきました。そして、心が飛び回る時間も少しは短くなってきたような気がしています。

瞑想専科での瞑想実習の様子。

とはいえ、私の心は日々の生活の中ではなかなかクラスで習った公式の解のような理想の状態にはならず、ついついエゴ的になってしまいます。「この習慣は、まぁ確かにエゴだけど、人に迷惑をかけてるわけじゃないと思うし、すぐに手放す必要もない。もう少し付き合ってもいいエゴだよね。」と飼い慣らしてしまったり、苦手な人がいても、「でも前よりはだいぶ普通に接することができているし、私もずいぶん成長してるはずよ」と自分を甘やかせてしまったり。そんななか、瞑想専科に行くと、エゴ的になっていた心がチューニングされて、ヨーガ的なところに近づけてもらえるような、そんな効果もあるように感じています。

そして、今年度。いままでのレクチャーに加えて、今年度は日ごろアーサナやお料理やキールタンを教えていただいている、ヨーガ経験者の先生方がゲスト講師として体験談を語っていただけるとのこと。昨年度末に予告を聞いてからとても楽しみにしていました。

ゲスト講師の先生方のお話は淡々と静かに語られているのに、その実践の中の取り組みは、必死さとか、ひたむきさとか、そんなものが伝わってきて、熱を分けていただいたような感覚になりました。
熟練者のお話ならではの、「すごい実践だなぁ」「そこまでやるもんなんだ」という驚きもあり、「そんな状態になれるんだ」「そんな境地を味わえるのか」という憧れもあり、でもそんな中にも、過去のお話を聞くと、「それ、私もいま感じることある!」と共感できるような思いもあり、「そういう実践なら私もすぐに試せそう」というメソッドもあり。
いま私がいる場所と、熟練者の方たちのいる場所は、隔たりがあるように感じていましたが、うっすらとした道でつながっているのが見えるようになった気がします。

「これを実践してるという実感がなくなるまで続ける」という徹底したサティヤーさん(左)の実践の話とか、マードゥリーさん(右)のカルマの鎖がはじけ散っていった話など、ゲスト講師の皆さんの実践体験談を、すごいなーと思いながら聞いてました。

私は日ごろ、データ解析の仕事をしていますが、理論上はこうなるはず!という実験データを解析しても結果はそうならないことが結構あります。その原因としては、重要なファクターを見落としていたり、そもそも実験データのとり方が悪かったり、などいろいろあるわけですが。。。
瞑想専科で学ぶ公式の解(理想の状態)と、実際の私の心も、ギャップを感じてはいましたが、「まぁ方向性は合ってるだろうし、この程度のギャップは何事にもよくあることよね」、と受け入れてしまっていました。
今回の講義をずっと聞いてきて、私がいままで見落としていたファクターは、「妥協したり途中で逃げ出したりしない強さ」というものだったのかなと気付かされました。

歩むべき道があっても、そこに葛藤があると、ついつい言い訳をつけて、途中で方向を変えてしまったり、目の前にある課題を後回しにしてそのまま放置してしまったり。今回聞かせていただいた体験談のなかでは、私がついついやってしまうような、そういう逃避が全くありませんでした。

今回見えるようになったと感じるうっすらとした道は、ちゃんと歩んだ人だけはしっかりとクリアに見える道になるのかもしれません。いままで、瞑想のメソッドや、心のしくみや、そんなことを少しずつ理解することで、なんとなく満足してしまっていましたが、私も目の前の課題から逃げ出さず、一歩一歩しっかり歩んでいかなきゃいけないな、と、そんな思いにさせていただいた、今年度の瞑想専科でした。

貴重なお話を聞かせてくださった講師の皆様、ありがとうございました。

篠田景子


オンライン瞑想会 in 東京

以前はアーサナ・ヨーガクラスや瞑想会を定期的に開催していましたが、そうした当たり前にできていたことができなくなって、早1年が経とうとしています。

東京では昨年の2月を最後に、グルバイ(兄弟姉妹弟子)と思うように会えなくなりました。瞑想会に使用していた会場も借りることができなくなったため、オンラインで瞑想会をするようになりました。

東京でのオンライン瞑想会の画面。この日(2/1)は9名の方が参加されました。

瞑想は1人でもできます。むしろ1人で静かに座るイメージを持っている人が多いのかもしれません。私はヨーガを始めた頃は瞑想にそんなに興味が持てなかったし、みんなで集まってすることなのかな?と不思議に感じていましたが、一度京都で2時間座る瞑想会に参加してからイメージが変わりました。もちろん2時間座るなんて無理で、雑念と足の痛みとの戦いでした。しかし集中して座っている人たちに囲まれた空間にいるだけで、少しずつ集中した感覚を味わえるようになり、2時間の中で確実に変化していきました。
1人でも深い瞑想状態にある人がいるだけでその空間の気が調い、他の人も瞑想しやすい状態になることがあります。また、それぞれが集中して自分の中に潜っていくように取り組んでいるうちに相乗効果で瞑想しやすくなることもあります。それが誰かと瞑想する醍醐味であると思うようになりました。

しかし、実際に空間を共にしていないオンラインでそれがどこまで可能なのか、最初は少し心配していました。でも実際に参加してみると思いの外集中しやすく、同じ空間にいてする瞑想会とほぼ同じような感覚になりました。
毎週メインで話をする人を決めて、順番に担当していくようになり、興味深く話を聞く楽しみもありました。ただオンラインではそれぞれが自由に発言し合うことは難しく、参加者が増えてからはさらに難しさが増したように感じました。
そこでみんなで相談し、1つアーサナ(ポーズ)をして、毎回メインで話す人がそれぞれ大切にしている教えや聖典の言葉を朗読し、その後瞑想に入るようにしてみることにしました。

先日その1回目を迎えました。
私が担当する回だったので、数日前からどの教えをにするか検討しました。参加者の中にはまだ師にお会いしたことがない方もおられるので、より分かりやすい内容をと、『ヨーガの福音』の中から選ぶことにしました。どれにするか、何度も読み返していくのもとても楽しかったです。どの教えも素晴らしいのであれこれ迷った結果、「人生の目的」という一節を選びました。

『ヨーガの福音』は一節が短めにまとめられているので、いつでもどこからでも読みやすい本です。この節は少し長めにはなりますが、タイトルの通り、人生において目的とすべきことについてしっかり丁寧に説明されています。

”人生の目的は真理を実現することです。真理とは何か—- これは頭では答えを出すことはできないのです。しかし体験はできます。その叡智と方法がヨーガにはあります。”

この冒頭の部分は何度読んでも身が引き締まる思いがします。

私は最後の部分が特に好きです。

”・・・それを実践するには毎日を真剣に生きなければならないということに気付かされます。仕事や生活は何でもかまいません。執着をしないことです。そして本当に得なければいけないものを、悟らなければいけないもの、真理だけを求めてください。誰でも、どんな状況の人でも悟りは可能です—-純粋な信仰と真剣な実践があれば。”

この文章の内容をみんなで味わって瞑想したいと思ったことが決め手だったのですが、いざ朗読するとなると私が読むので大丈夫か?とドキドキ。
この素晴らしい内容を私自身が味わって読むこと、そしてみんなにしっかり伝わるように想いを込めて朗読することにしました。

読み進めるうちに心が静まり、平安な気持ちに満たされていきました。

45分ほど瞑想しましたが、同じ空間にいなくても一緒にいるような感覚で座り続けられました。
グルバイの1人から、あっという間だったと感想をもらえたのも嬉しかったです。

ヨーガの仲間の自宅での瞑想の様子。

なかなか先が見通せない日々が続いていますが、こんな時だからこそひたすらに自らの中にある信仰を強くしていけるように感じています。信仰を一層純粋なものとするのは自らの中に深く潜っていくことでもあると思います。それは瞑想そのものでもあります。
人生の目的である真理を実現するということ、その真理を体感する方法の1つが瞑想です。離れていても共に瞑想する仲間がいることはかけがえのないこと。共に実践することで1人で実践するよりも真剣さが増すのを実感しています。

純粋な信仰と真剣な実践があれば、誰でもどんな状況の人でも悟りが可能となる。

まだしばらくはオンラインでの瞑想会を続けることになりそうですが、『ヨーガの福音』の言葉を胸に、真剣な実践の場としてこれからも機会を持ち続けたいと思います。

ハルシャニー


正気の沙汰

ステイホームだった年末年始は、おせち料理に使うハレの日の野菜の飾り切りに初挑戦した。吉祥な亀の甲羅に見立てられた六方むきが、シンプルなだけにバランスが難しかった。

元旦。夜明け前の静寂。近くの川辺にて。

亀の甲羅といえば、いつだったか車の行き交う道路を、大きな亀が横断していたことがあった。とっさに駆け寄り亀を抱きかかえると、亀は顔と手足を甲羅に引っ込め岩のようになった。そして川辺の道に置くとニョキっと手足を出し、何事もなかったかのように歩いていく。が、なぜか道路に戻ってくるので、慌ててまた抱き上げ、もっと奥の川辺に置くと、亀はようやく茂みへ静かに姿を消していった。この話を当時は小さかった甥っ子と姪っ子に話した時、二人は即座に「ありがとう言いに戻ってきたんちゃう? 恩返しに竜宮城に連れて行ってもらえるんちゃう!」と目をキラキラさせて喜んでいた。

ところで、その亀に纏わるあるヨーガの境地に密かに憧れている。亀が手足を甲羅の中に引っ込めるように、人間の感覚器官の働きを制御するというもの。例えば、寒い暑い、痛い心地よい、苦い甘い、といった反射的な反応を意識して自分でコントロールする。深い段階では、五感の影響を全く受けない境地があるという。一見、人間離れしているような凄い境地になぜ私が惹かれるのか??
絶えず見、聞き、匂ぎ、味わい、感じている、この眼や耳や鼻や舌や皮膚という五官は、心に情報を伝える大切な役割がある。ただ問題は、五官からの情報に、心は瞬時に反応し、各人の記憶や経験に基づき様々な感情へと結び付くそうで、私はそういう感情に翻弄されてきた。良くも悪くも、見るもの聞くものに影響を受け過ぎるので対象を厳選しないと、と思ってきた。でも本当は、何を見ようが聞こうが、あの亀のように自分の意志で自由自在に手足(感覚器官)を甲羅に引き戻し、何にも影響を受けない堅固な岩のように強くなりたい。だから、反応から解き放たれて自由になる! というその状態に惹かれる。

初日。眩い光明に照らされる世界。

さて、ここからが本題。生活をさらけ出すことになるが、私はお菓子を食べることや作ることが好きだったが、それほど執着している自覚はなく、これまで特に意識して制御しようとしてこなかった。むしろ大したことはないと、執着は消える寸前だと思い込んで、心底やめる必要性を感じていなかった。ところがこのステイホームの一年、まるで「灯滅せんとして光を増す」ということなのか(笑)、気付けばお菓子がますます楽しみの一つとなり、お菓子好きが爆発した。思えば、9月に開催されたさまらさの台所のオンラインクラスが、灯滅のとどめを刺す出来事に繋がる予兆だった。そこでのテーマは舌の制御で、私にも話を振られた時、ちょうど爆発ピーク時だったので正直に、お菓子を食べ過ぎていること、自分にはこの教えが課題だと思う、というようなことを話してしまった。クラスが終わった後、自分の言ってる事、やってる事、思ってる事がバラバラ…と、何とも後味の悪い感じが続いた。そして、動画クラスの瞑想専科で、ヨーガの仲間の一人がお菓子を完全に止められたという話を聞いた時、初めて聞いた話ではなかったのに、妙に心に浸透したのも予兆だったのかもしれない。何の??

そう、私は歯の試練に見舞われた(笑)。突然、歯の詰め物が取れてしまい、歯医者が苦手な私だったが、何とか決心して、それでも痛いのが嫌なので無痛治療の医院を探して治療に行った。ところが、詰め物を元通りに詰めてほしいだけなのに、歯をたくさん削られ痛みが走りショックを受けてしまった。そして、本当に大バカなのだが、治療の帰りに、あろうことか、気持ちを紛らわすためにお菓子を買った。なんとも破茶滅茶でお粗末な行動。そして麻酔が切れるとさらなる激痛に襲われ続けた。それから紆余曲折あり、昔から信頼する別の医院に変えた。初めからそこへ行けなかったのは、そこで昔アルバイトをしていたため、その先生には虫歯だらけの自分の実態を知られたくなかったから。20年ぶりくらいに会ったその先生は、私が別の医院へ行った経緯を話しても嫌な顔などされず、とても繊細な治療を、麻酔なしで様子を見ながら時間をかけてしてくださった。麻酔で感覚を麻痺させないということは、患者がギリギリ痛さに耐えられるような技術が求められたり、時間もきっと余分にかかると思う。先生は口の中を見れば私の食生活の実態が分かられたに違いない。口の中は、普段は人に見せないがその人の現状が表れているところだと思う。師が、家の押し入れの中は心の中。どれだけ見えないところに押し込んでいてもすぐにバレてしまう、という真意を突くユーモアを言われた記憶があるが、口の中も似ていると思う。
先生は黙々と治療を尽くされた後、最後に一言だけ言われた。
「甘いものをやめなさい」
「……」
「分かりました」と私は言った。まるで師から言われたようだった。虫歯のことだけではなく、生き方への指摘を受けた感覚だった。十数年余りたくさんの虫歯を自覚しながら、痛い治療が嫌だからと放置し、だましだましにやってきたツケでもあり、そういう自分の甘い習性が外側に表れた現象だと思えた。
帰り道、もうお菓子なんて買ってる場合じゃない。原因は砂糖、甘いもの、つまりは舌の制御……、そしてそれは心の制御だ、とようやく身に染みた・・・まるでヨーガクラスからの帰り道。先生や歯科衛生士さんがあまりにも淡々と黙々とケアをされる姿から、治す・浄化という意味において、ヨーガと歯科治療が重なって仕方なかった。これほど丁寧に修正を施され指導されたのだから、もう自分の間違った習慣に従ってはいけない、と誓った。虫歯の治療は、まさに師が間違ったものを取り除きいつも修正してくださっていることを私に思い起こさせた。師がしてくださっていることは目には見えないけれど、もし目に見えるとしたら、繊細な治療を休みなく丁寧に、来る人来る人に行ない続ける医師のような、きっとこういうことだと思えた。だから、それからは治療の帰り道には毎回、万感の思いで涙が滲んだ(痛みではない)。歯は悪い部分を削って詰め物をすれば治るのではなく、虫歯を作ってきた悪い習慣そのものを断ち切り、新しい良い習慣に変えない限り、根本的には解決しない。これってヨーガの教えそのものじゃないか!!
無痛治療を優先した私は、結果的に激痛を受け取った気がする。最初から物差しが間違っていた。逃げたらいけなかった。ましてや苦痛感を紛らわすために、帰り道にその苦痛の原因たるお菓子を買うなんて正気の沙汰じゃない(涙)。狂気だ。嫌なことから逃げて快楽だけを味わいたいという、煩悩の極み。しかし、こんな正気の沙汰ではないことを私は、他にも同じようにやってきてないか? と真剣に考えた。問題が起こった時、何かひと時の楽しいことで誤魔化して、見ないふりをしてなかったか。
歯科医院の先生は、対処療法ではなく、根源の原因を取り除くことを教えてくださった。その日からお菓子をやめ料理にも砂糖をやめた。舌の制御は“心”の制御。狂気から正気への道。これは真の目的――何にも執らわれない本当の自由への道のりなんだと思う。

相変わらず、お店や様々なメディアから甘いものへの誘惑が五感を通って飛び込んでくるが、今は、それらを見ても聞いても、私には必要ない、無い方が自由、と思うようになった。甘いものという名の毒が抜け始めたことで、正気を失っていた心身が元の元気へと、また麻痺していた判断力も働きだそうとしているのかもしれない。まだまだこれからだけど、五官からの刺激が感情の回路と結び付いても、それ以上は膨らませないように繰り返し意識する。甘いもの=甘い誘惑は、ひと時の間の幸福感を味わわせてくれるが、それを継続させようと貪ると、その結末は……。そういうものは、本当の幸せじゃない、真実じゃない、私にはもう要らない―そう思うと、亀の手足のようにシュッと何かが引っ込む感じがする。これは亀からの恩返しだろうか?(笑)

気付いたことは訓練していく、と師に教わった。外部との接触が減ると内面をコントロールしやすいといわれる、そういう意味では今はまさにチャンスかもしれない。
ヨーガはいつも新鮮な気付きを与えてくれる。これから一つ一つ扉を開いていきたいな。どうぞよろしくお願いいたします!

光のように輝く花!

野口美香


ヨーガと心の傾向 ①自分のヴァーサナーを何とかしたい!

皆さんは自分の性格や行動パターンに対して「私ってどうしてこうなんだろう」と思ったことはありませんか?私は何度もあります。笑 特にそれが原因で同じ失敗を繰り返してしまったり、誰かに迷惑をかけてしまったりした時はさすがに晴れやかな気持ちではいられなくなりますよね。もしかすると、そういった性格について人知れず悩んでいる方もいらっしゃるかも知れませんね。

日々ヨーガに取り組んでいると、自分が持っている性質や心の傾向がヨーガの実践の妨げになっているということに毎日直面します。師の下でヨーガを学ばせていただくようになってからは以前に比べて自分の心の動きを客観的に観察できるようになり、自分の心に不用意に振り回されることはだんだん少なくなってきましたが、その分、自分の性質や心の傾向をより自覚しやすくなったからかもしれません。
ヨーガの成就に一心に向かい、一日24時間ヨーギニーとして生きたいと願っているにも関わらず、何故か!私の心はそれほど単純に言うことを聞いてくれません。

一例をあげると、私は料理やお菓子作りが好きなのですが、ある日夕ご飯のおかずのレシピをスマホで検索していたところ、美味しそうな料理の写真や簡単ヘルシーと書かれているレシピがたくさん紹介されています。「わぁ美味しそう!」「今度これを作ってみたいな~」とあれこれ見ているうちに、つい夕ご飯とはまったく関係のない料理やケーキのレシピを長々と見てしまい、夕ご飯を作るのが遅くなってしまいました。そのためにその後の予定が全部ずれていってしまい、その日は寝る前に少し長めに瞑想しようと思っていたのに、結局出来なくなってしまったというようなことがありました。

また、私は子どもの頃から早とちりでうっかりしているところがあり、そのために失敗したり、恥ずかしい思いをしたことは数知れず…。計算や事務的な作業も大の苦手です。そのことで人に迷惑をかけてしまうことも多々あります。ずっと何とかしたいと思っていますし、自分なりに努力もしているのですが思うように改善されません。実際、周りの人にも自分にも不利益を及ぼすことがあるため、そんな時はさすがに気持ちが沈んでしまいます。

その都度、何故こうなってしまうのだろうと原因を考えたり、自分の心をなだめたり言い聞かせたり、時にはそんな自分に向かって心が言い訳をはじめたりもします。こういったことを繰り返すうちに、「こんなことにエネルギーや時間を費やすなんて、馬鹿々々しい!このエネルギーをもっとヨーガに向けたい。何とかしてこの状況を打開したい!」という気持ちが昨年どんどん強くなってきたのです。打開策を色いろと考えているうちに、私はもしやこれはヨーガで“ヴァーサナー”といわれているものが大きく関係しているのではないか?と思うようになりました。

今年のMYMのカレンダー。昨年、新しく生まれ変わったMYMのタペストリーがデザインされています。見るたびに目の覚めるような赤が胸の奥にある情熱を奮い立たせてくれます!

ヨーガでは、あらゆる経験は心に何らかの印象を残し記憶されるといわれます。その経験に対して「楽しい、嬉しい、面白くない、嫌だ(快不快・好き嫌い)」などの印象が、経験したことの記憶と一緒に心に刻まれるということです。そして、一度印象が刻まれると、今度はそれがフィルターのように働いて、例えば好きなものはさらに好きになり、嫌いなものはさらに嫌いな印象が重なって、その結果、見ただけで幸せを感じるものや反対に見るのも嫌だと感じるものが生まれてくるのだそうです。食べ物から人間関係まで、心当たりありますよね~。そして、それが積み重なって性質や性格が形作られていくといわれています。
そういう心の傾向のことをヨーガでは「ヴァーサナー」と呼び、なんと!何生涯にもわたるものだともいわれています。“生まれ持った性質”と言われたりしますが、誰でも小さな頃からそれぞれの気質があるのはこのためかも知れませんね。
日常生活の中で、様々な物事に対して無意識に自分が感じたり考えたり判断したり、また行動する根っこにこういう力が作用していて、それによって人は良くも悪くも千差万別であり、他者と比べて「私ってどうしてこうなんだろう」ということも起こってくるのだと思います。

私は「ヴァーサナーがなくなれば、もっとヨーガの実践がスムーズに進むはずだ!自分のヴァーサナーを何とかしたい!!」と考えるようになりました。でも、どうしたらヴァーサナーをなくすことが出来るのだろうと悶々としていたある日、長年師の下でヨーガを続けておられる京都の先輩と電話でお話をさせていただく機会がありました。私は、先輩にヴァーサナーについてうかがってみることにしました。
(続く)

シャルミニー


瞑想会 @嵐山 シャーンティ庵

昨日、京都でも緊急事態宣言が発令されました。
年始から全国的にコロナの感染者数が増加していますが、皆さま、お元気でお過ごしでしょうか?

不安な日々が続いていますが、先日の1月10日、私の自宅である嵐山のシャーンティ庵で小さな瞑想会を行ないました。
参加されたのは、私が勤めている福祉事業所のヨーガクラスに通っているスタッフ2名の方でした。
1人の方は70代の女性で、もう1人の方は昨年に埼玉から移住してこられた50代の男性です。
お2人とも瞑想の経験は私よりも長く、長時間座ることには慣れており、その集中感に引っ張られてか、あっという間に感じた1時間の瞑想でした。

瞑想後に70代の女性は、「途中から目を開けて、(本棚にあったラマナ・マハリシの)書籍の帯に書いてある『私は誰か?』という言葉に瞑想していました」と話されました。
すると50代の男性が、「実は私は小さい頃、寝る前に『自分という存在は一体何なのか?』ということをずっと考えていました。それを考えると、宇宙を感じる時や自分がなくなっていく感覚があり、これが私の瞑想の原点なのです」とお話されました。
私自身、「この人生、どう生きていきたいのか?」とは大人になるにつれて考えていましたが、その人生の主体である「私とは誰か?」ということを真剣に考えるようになったのはここ数年のことなので、この男性の話を聞いて驚きました。
この時に話題にあがった「私は誰か?」という帯が付いていた聖典『沈黙の聖者』の中で、ラマナ・マハリシは次のことを説いています。

「私たちは自分の内部にある長年のサンスカーラ(潜在残存印象)のすべてを完全に投げ出さねばならない。それらがすべて放棄されたとき、真我(本当の自分)がひとりでに輝くだろう。しかし、あなたは努力なしにはその状態に達することはできない。それは意図的な瞑想への努力なのだ」
「真我である、注意深く観察されたスムリティ(記憶)以外には、どんな想念をも微塵だに生じさせないほど真我の中にしっかりと留まる、よく鍛えられた内在性こそが、至高の主への自己放棄を形成する」

ーーー『沈黙の聖者』ラマナ・マハリシーー

瞑想後の少しの会話でしたが、瞑想者同士、静かに深い話ができ、私自身も「私は誰か?」という問いを常にもって「本当の自分を実現したい」と改めて強く感じた、たいへん有意義な瞑想会でした。

そして一昨日の1月12日は、私が尊敬してやまないスワーミー・ヴィヴェーカーナンダのご聖誕日でした。
最後にヴィヴェーカーナンダが瞑想について述べた言葉を紹介したいと思います。

「瞑想は重要だ。瞑想せよ! 瞑想は偉大だ。それは霊的生活への近道だ。それはわれわれの日常生活における全く物質的ではないーー魂がそれ自身を思うーーしばしの時間だ。あらゆる事物から自由なーー魂のこのすばらしい感触」

ーーー『真実の愛と勇気』スワーミー・ヴィヴェーカーナンダーーー

緊急事態宣言が出されて瞑想会は当分できませんが、また状況が改善されたら皆様にもお声がけして、一緒に瞑想をしていきたいです。
1日も早いコロナの収束を願い、感染予防に努め、今はひとり瞑想に励み、「魂がそれ自身を思うすばらしい感触」を増やしていきたいと思います。
今冬は寒さも厳しいので、皆さま、どうぞお体には気を付けてお過ごしください。

ゴーパーラ


真冬でも熱いヨーガ・サーラ・スタジオ!from 松山

年末年始になって感染拡大も著しく、愛媛県でも増えてきつつあるのですが、今日はそんな状況の中でも、熱心にヨーガを実践している松山の仲間の様子をご紹介したいと思います。
皆さん、コロナ禍の中で、一層ヨーガを深めていこうと熱心になっているように感じます。
ヨーガ・サーラ・スタジオのクラスは、人数制限を設け予約制にしたのですが、すると曜日を決めて毎週参加される方が増えたため、顔を合わす頻度も増えて、参加者の皆さんが前よりも交流が深まり、クラス後も自然な雰囲気の中、ヨーガの話で盛り上がるようになりました。(もちろん換気、加湿、距離などコロナ対策は気をつけています!)

熱心なみなさん。月曜の朝のクラスにて。

その中のお一人が、最近何だかとても心が安定している様子を感じたので、なぜなのか理由を聞いてみると次のように話されました。

コロナ禍で、月に一度京都に伺って師にお会いするという機会がなくなってしまい、その状況が長く続いているのですが、ある時、松山にいても師の存在をとても近くに感じることがあり、会うってどういうことなのかなと考えるようになりました。物理的な距離はあまり関係がないのではないかという気になってきました。そうしていくうちに、心理的にすごく師を身近に感じることが増えてきて、とても安心するようになったのです。今は師に物理的に面会することは難しいですが、でも怠惰な気持ちになった時など、師が厳しいお顔で夢に出てきて、軌道修正しやすくしてくださったり、聖典に積極的に親しんでいるときは励ますようなお顔で出てきてくださったりして、自分の心次第で近づけるんだと実感しています。だから、物理的な距離はあまり関係なく、いつも一緒にいることができるのではないかと思うようになったのです。

時間も空間も超えて師の存在を感じる、彼女の常に楽しそうな笑顔が、周囲の人を明るくしているのがとても印象的です。

そして、熱心な皆さんから、新年に目標を決めた!という嬉しいお便りが届いたので少しご紹介させていただきます。

松山でのサットサンガで、ヨギさんから識別するようにとおっしゃってくださったのですが、今年の目標は、「徹底的に識別する」「ヨギさんに一歩でも近づく」にしました。瞑想専科の動画クラスのサティヤーさんやマードゥリーさんのお話にもインスパイアされました。できなくても、諦めず、繰り返しやっていこうと思います!!
また、最近ハルシャニーさんがブログに書かれていた、「焦らず気長に優しさを持って」がとても心に響きました。スマホのショートカットにして、繰り返し読めるようにしています。私も(グループホームで働いているので)仕事で利用者さんと接するにあたり、心掛けていきたい内容でした。(和田さん)

今年の目標は、「真実だけを見つめていく」です。師であるヨギさんは、どんな状況であろうと私たちの本質だけを見て導いてくださります。
私も、親であれ、会社の上司であれ、例え苦手な人や嫌いな人であったとしても、誰もの中にある真実だけを見ていきたい。その為には、地道に真理の教えを何度も何度も心に言い聞かせ、精進していきたいです。(玉井さん)

お二人とも本当に熱心にヨーガに向き合われているので、周囲の私たちにもその熱が伝わってきます。

そんな皆の熱気溢れるヨーガ・サーラ・スタジオですが、新年にマハーヨーギー・ミッションのカレンダーをスタジオに飾らせていただきました。すると飾った瞬間、その美しさに感動しました。本当に祝福されたように感じました。鮮やかな朱色がまるで私たちの身体中を駆け巡る血管のように生き生きと脈打ち、息衝いているかのようでした。今年は、その衝動のままに、真理そのものに交わり、真理だけをみつめて、ハートを真理でいっぱいにしていきたいと思います!

アーナンディー


焦らず気長に、優しさを持って

愛は優しさでしか表せない。

私が大切にしている、師から教えて頂いた言葉です。
日常の中でつい忘れてしまっている時もありますが、繰り返しこの言葉を思い出すようにしています。特に仕事をしている時はこの言葉を胸において働くようにしています。

鍼灸師として日々様々な方の治療にあたっていますが、ある患者さんとのやり取りで気付きがあり、今回はそのことを書こうと思います。
その患者さんは、毎回ほぼ同じ症状を訴えられます。そして辛く感じる所が幾つもあります。治療する度により良い方法を考えて施術をしますが、次に来た時にはまた同じように辛いと言われます。
話に耳を傾け、時に具体的なアドバイスをしたりもしました。しかし、例えば治療をする中で生活習慣によって症状が出ていると気付く事があり、それを指摘すると抵抗する感じで黙ってしまうようで、こちらが話を変えるまで一切口を開こうとはしなくなるのです。毎回肝心な話ができず終いになっていました。

そんなことを繰り返すうちに5年以上が経ち、万策尽きたと感じた私は、自分の考えや思いを素直に患者さんに打ち明けてみる決意をしました。そうして、なるべくその患者さんが落ち着いている時に話そうとタイミングを伺っていましたが、なかなかその機会は訪れず、結局様子を見るしかない状態になっていました。

そうして迎えた今年の師の御聖誕日。『パラマハンサ』NO.142を読んで、グルバイ(兄弟姉妹弟子)の祝辞から、師に倣い他者のためにどう行為するかという一貫した想いを感じました。

愛ゆえに捧げる、ということ。

私はその患者さんのためにと真剣に考えてはいたけれど、その人そのものを愛しんで思いやれていたか、というと、そうではないとハッとしました。その人のために真剣に考えていたとしても、それが正しかったとしても、相手のことを本当に尊重して慈しみを持っていなければ、相手を追い詰めてしまう可能性も出てきます。

これまで師から、一度たりとも真理の教えを強要されたことはありません。もっと真理を学びなさいと急かされたこともありません。いつでもこの上なく優しく接してくださいます。パラマハンサから溢れ出る愛を感じたことで、自分が患者さんに対してしようとしていたことが、優しさとは正反対の行為になりかねないことに気付きました。

ヨーガの道を歩んでいるとはいっても、一足飛びに成長できるわけではありません。私は他者に愛を持って接することに憧れているものの、後から振り返るとそこから程遠い対応をしてしまっていることがあります。それでも気持ちを入れ替えて少しでもそうなれるようにと足掻いたこともありましたが、それは苦しいばかりでちっとも純粋ではない。師はそのことに気付かせてくださいます。同じことを繰り返してしまったとしても、またか、と呆れられることなく、軽やかに純粋な状態へと引き上げてくださいます。私の中の本質だけを見て、本当に気長に見守りながら導き続けてくださっています。それは何の計らいもなくただただ純粋な行為です。

私が今この患者さんにすべきことは、患者さんがより良い状況になれるよう接すること。焦らず気長に、自分がそうしていただいていたことと同じことをやっていくだけだという答えに辿り着きました。

その後、その患者さんは変わらない様子で来院されますが、私の心境に変化があったためなのか、少しずつ関係性にも変化が起きてきています。治療後、以前よりも笑ってくださるようになったのです。

これからも、少しでもより良くなれるように寄り添っていきたいと思います。少しずつ凪いだ状態を持続できるように。

治療院の玄関に飾っているヒマラヤ杉。ヒンドゥー教では聖なる樹木とされています。古代インドでは賢者が好んでこの木の元に住んでいたそうです。花言葉は「あなたのために生きる」です。

今年からこのブログ『ヨーガに生きる』で文章を書かせていただくようになりましたが、読者の皆さんに力を頂き、支えられて続けることができました。ありがとうございました。師に倣い、これからも一層より丁寧に真摯に行為していけるように精進していきたいと思います。

いつでも愛ゆえに捧げることができますように。

ハルシャニー


東京・代々木クラスのメンズチームをご紹介します!

“ヨガ”といえば女性をイメージする方も多いのではないかと思いますが、各地で開催されているマーハーヨーギー・ミッションの「ヨーガ・瞑想クラス」には男性も多く通われています。そこで、今日は東京・代々木の土曜日クラスに通われている男性陣をご紹介したいと思います!!

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数年前からご自分の人生を真剣に見つめ直すようになったと話される小菅さん。初めは「瞑想専科」に参加され、その後ヨーガ・瞑想クラスにも熱心に通われるように。ご自宅でもアーサナ(ヨーガのポーズ)を続けていらっしゃるそうですが、最近、急にアーサナが深まってこられたなぁと感じ、アーサナを始められてから現在の変化についてうかがってみました!

マハーヨーギー・ミッション(MYM)のアーサナを本格的に始めたのは還暦が近づく頃でした。YouTubeなどで様々なアーサナ向けの筋肉や腱へのアプローチが紹介されているのを見たことがありますが、私はMYMのアーサナを繰り返し練習しているだけです。MYMのアーサナは各ポーズが相互に連動していて、それだけで十分にポーズが深まるように考えられていると思います。ポーズの最中にもう限界!と思う時、呼吸に集中して心を鎮めると、スッとポーズが深まる時があります。ポーズの限界は、実は自分の心が決めているだけで、心をコントロールすると限界がぼやけてくるのを感じます。日常生活でもこの学びを忘れないようにしたいと思います。

いつも穏やかで物事をとても素直に受け止められる小菅さんを拝見していると、いくつになっても心の素直さや柔軟さを持つことの大切さに気付かせて下さいます。私もそうありたいなと思います。

続いて、昨年の春からクラスに参加されている星野さんです。星野さんは、以前からブッダにとても興味があり、ブッダの教えをベースに瞑想をされていたそうです。MYMのクラスに通われるようになったきっかけや今の心境をうかがいました。

ブッダの教えを色々調べていた時、マハーヨーギー・ミッションのWebページを見つけ、釈迦牟尼を含め、古の聖者の教えにとても造詣が深いヨーギーさんの組んだレッスンが近くで受けられるという事を知り、軽い気持ちで申し込みました。
はじめてアーサナに挑戦した当時、体中が痛くてポーズによっては拷問のように感じました。終わった翌日は全身筋肉痛になっていたのをよく覚えています。
ここ1~2年ほど、アーサナを続けて変わったと感じるのは「心と呼吸の変化、感覚への気付き」「基礎体力、忍耐力、集中力の向上」です。はじめは痛くてたまらなかったアーサナも今ではだいぶ慣れ、週に1回のクラスは拷問ではなく楽しみになりました。「毎回、自分の限界を少しずつ破ることを意識する」「どんな時にも呼吸へ集中し、息は常に吐ききる」を心がけてアーサナに励んだ恩恵だと思います。
そのおかげか、最近、瞑想中に痛みに負けて足を崩してしまうなどは少なくなり、深い集中状態にも入りやすくなりました。瞑想中に挫ける事がだいぶ減ったなぁと感じます。また、呼吸が一定で落ち着いていると雑念にもすぐ気づくようになり捕われなくなります。“アーサナは瞑想の為にある”という教えは本当でした。

星野さんはこれまでも毎日一時間以上瞑想されていたそうですが、眠気や雑念に捕われたり体の痛みで中断することが度々あったそうです。普段はあまり多くはお話されない方なのですが、今回お話をうかがって、クラスを続ける中で様々な変化を感じておられるのだなぁと嬉しくなりました!

最後は、転勤で東京に来られる前には大阪のクラスにも長年参加されていたSさんです。仕事がお忙しい中で長くヨーガを続けていらっしゃる理由をおうかがいしました。

本来、毎日アーサナを行うことが推奨されますが、私はクラスに通い始めた頃、週一回のクラスに出来るだけ参加するのを意識していました。クラスに参加した後の心身の変化は十分に実感していましたので、どこかで長く続けていきたいと考えていました。振り返ってみると、心身一如の言葉通り、今をより良く生きていく秘訣がヨーガにあると当時から認識していたのだと思います。

Sさんとお話をするといつも職場の皆さんが気持ちよく働けるように心を配られたり、環境を整えることを進んでされている様子が伝わってきます。ヨーガの成果は日常生活にあらわれるといわれています。継続は力なり。ヨーガの学びを身近な日常の中で実践され、しっかりと生かされていらっしゃるのですね。

クラスの後にパシャリ。左から小菅さん、星野さん、Sさん。クラス中の真剣な様子とは打って変わり、皆さんとても爽やかないい表情ですね!

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皆さんお忙しい中、丁寧に答えて下さり本当にありがとうございました!
週に一度クラスに集まり仲間とともにサーダナ(ヨーガの修練)を行ない、また一週間それぞれが一人で自宅や職場でヨーガの実践や学びに向き合い、またクラスでともに学び合う。とても地道な繰り返しかもしれませんが、それを両輪のように続けていくうちに気が付くと身体や呼吸、心に変化があらわれ、それが日常生活や生き方にまで反映していくのだなぁと、今回お話をうかがってみて改めて感じました。そして、私自身いつもヨーガの仲間に支え助けられていて、クラスでは毎回皆さまから貴重な学びをいただいていることに、また心から感謝と喜びと力が湧いてきました!
東京はコロナ禍の中、さらに困難な状況が続いていますが、最大限感染予防対策に努めながら楽しく元気にクラスを行っています。
このブログを見たメンズ諸氏、ぜひお気軽にクラスにご参加くださいね!!

※今後も感染状況を鑑みてのクラスの開催となりますので、スケジュールについてはHPでご確認下さいます様お願い致します。

シャルミニー