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ヨーガの魅力――松山市のヨーガ・サーラ・スタジオから

ヨーガ・サーラ・スタジオは今、熱心に定期的にクラスに来られる方が増えています。その方たちは、いったいヨーガの何に惹きつけられているのでしょうか?


この春からヨーガを始めたAさんは「自分のこだわりをなくしたい」と毎週熱心に通い続け、今の心境を教えてくださいました。
「私にとってここに来ることが心の拠り所になっています。ヨーガは気持ちの安定になっていると思います。それは強い味方です」

また、数年ぶりにクラスに来てくださり、今は定期的に参加しているBさんは以下のメッセージをくださいました。
「レッスンが終わった後はいつも心が浄化され、穏やかな気持ちを取り戻すことができました。他にも身体的な変化として、レッスン後、教室を出て駐車場まで歩く間に、フラフラせずにまっすぐ歩けていることや、歯の噛み合わせが変わっていることなども感じるようになりました。内面や外見にも良い変化が現れているので、今後も無理なく継続していきたいと思っています」

他にも熱心な皆さんの声が届いています。
「家族に優しくできるようになった」
「人の評価が前よりも気にならなくなった」
「瞑想の時、平安を感じられるようになった」


クラス参加者のみなさんの変化から、私はやっぱり「ヨーガってすごい!」と今も新鮮な驚きと共に、ヨーガの魅力を1人でも多くの方にお届けしたいと思っています。
私自身のお話をさせていただくと、私はヨーガの師に出会ったその日から、ヨーガに魅了され続けています。師に初めてお会いした時、私は人間関係の悩みについて質問しました。師はとっても優しく次のことを教えてくださいました。

「すべては尊い存在です。人や物に対して優しく接するよう努めてください」
「日常にこそヨーガの成果が表れます」

それまでの私は、嫌な気持ちになった時は相手や状況が悪いのであって、私は何も悪くない、と知らず知らずのうちに自分だけを大切にしてきました。しかし、「すべては尊い存在」と教わった日から、自分は間違っていたことに気付かされ、心から反省して態度を改めていくと、目に見えて人間関係が改善していきました。そうやって心が楽になって初めて、自分で自分を苦しめていたことに気が付かされ、私は単純に「生きるってこんなにも楽しいことだったんだ! ヨーガってすごい!」と興奮しました。
後で分かったのですが、もしも誰かのことを悪く思ったり、悪口を言ったりすると、嫌な思いが自分に返ってきて心がダメージを受けて苦しくなります。逆に、誰に対してもいつも優しい気持ちで優しい言葉をかけ、優しく接することで、良い思いが自分に返ってきて、常に穏やかで心地いい状態に満たされていきます。当たり前のことかもしれませんが、それが分からず苦しんでいたのです。
その後、1人でも多くの方とヨーガの素晴らしさを分かち合いたいという思いが抑えきれなくなって、今に至ります。

ヨーガは身体の柔軟性を競ったりするものではなく、心を穏やかに保ち、他者との調和をもたらす素晴らしいものです。ヨーガを続けていくことで、「自分ってこんな人」という思い込みがなくなり、新たな自分に出会えます。なんだかわくわくしませんか?

アーナンディー


青空Yoga @糺の森

9月になりましたね。これから暑さもだんだんと落ち着き、外でも過ごしやすくなっていきますね。
さて、そんな季節の9月29日(日)、京都の下鴨神社にある糺の森で「糺の森の博覧会」というイベントがあり 、そこで「青空Yoga」を行ないます♪
アンティーク、アート、ハンドメイド、フード等のブースがたくさん並ぶようです。
(糺の森の博覧会の詳しいことはこちら→ https://tadasunomori.mystrikingly.com )

そのイベントで、今回は特別に 15分間の無料体験と40分間のクラスワークショップを行ないます。

糺の森の澄んだ空気のなかでYoga✨とっても心地よい時間になると思います。
日頃クラスに通われている方でも、この機会にお知り合いやご家族やパートナーやご友人などとご一緒にいかがでしょう?お子さんも大歓迎です☺️
各回とも定員は8名です。

全く初めての方でも15分の無料体験にまず参加してみて、その後に続きで40分のクラスワークショップに参加するというのもOKです。
予約は無しで当日にお気軽にお越しくださいね。

ブースの場所などは中旬以降にInstagram→ @mahayogi.missionでお知らせします。

➖➖➖TIME TABLE➖➖➖
☆→15 Yoga 体験無料】
★→クラスワークショップ【500円】

☆ 10:30—10:45
肩こりや腰痛が解消する猫のポーズ

★ 11:00-11:40
クラスワークショップ

☆ 13:00-13:15
寝つきや目覚めを良くする牛のポーズ

★ 13:30-14:10【🧘🏻‍♀️少し瞑想もします🧘‍♂️】
クラスワークショップ

☆ 14:30—14:45
全身の疲れを瞬時に取るねじりのポーズ

★15:00-15:40
クラスワークショップ

では当日にお待ちしております🍂

担当:サティヤー、ナリニー
(9月17日(火)には、茨木市おにクルでの体験会もあります♪ こちら

 

ナリニー


『ホーリー・マザーの生涯』に触れて

マザー(サーラダー・デーヴィー)に聖典を通してお会いできたのは、ヨーガを始めて比較的早い時期でした。その頃の私は、マザーの生涯に触れる度に、考えられないほど多くの家事を淡々とこなし、日夜、家族の問題を抱えられている・・・他者の幸せを喜び、苦しみに泣かれる姿を想像し、なんて大変なんだろうという思いでいっぱいになり、憧れというよりは遠い存在に感じました。しばらくは聖典を手に取ることもなく本棚に並べたままになっていました。

けれども、今年の春の祝祭では「サーラダー・デーヴィー」に焦点が当てられることになり、バクティ・サンガムのクラスでは毎回マザーを讃える歌や、講師の方が聖典を通して彼女の生き様からどのようなことを学んでいったのかを教えていただく時間がありました。クラスで学びながら、久しぶりに聖典を取り出し、もう一度、読み進めていきました。改めてマザーの生涯に触れると、前とは違う気付きがありました。それは大変なことが多かったかもしれないマザーの生活は、霊性の修行が礎にあって成り立っているということでした。

“大小を問わずひとつひとつの行為に、神との全き合一であるヨーガを実践しておられた。彼女と神のご意志はひとつだった。家住者でありながら、出家者に定められた放棄の理想から決して逸脱されることはなかった。不快な務めを避けられることも、快い務めを歓迎されることもなかった。あらゆる活動の最中にあって、決して神を忘れられることはなかったのである”

『ホーリー・マザーの生涯』より抜粋

マザーが実践された修行は、とても凄まじいものだったと思いますが、このことに気付いてからは、私たちもヨギさんから教えていただいたアーサナや瞑想、聖典の学習などの修行をしているのだから、少しずつマザーに近づいていけるに違いないと、マザーの存在を以前より近くに感じられるようになっていきました。

そんな時、職場で、準備から当日の発表まで何カ月もかかる仕事を任されることがありました。そしてその仕事が終わってからも、なかなか忘れられずに抱えたままになっていて、ふとした時に思い起こされる日が続いていました。アーサナをしていても、ちょっとした隙に思い出してしまう・・・もう捨て去りたいと思いながら瞑想に座りました。瞑想に座ってしばらくすると、マザーが近づいて来てくださり、真剣な表情で「一体それは誰の仕事だというのですか」と言われました。思いもよらないお導きでした。そのお言葉に気付かされ、抱えていたものは消えていきました。神と一体であられるマザーの力強いお言葉に救われ、常にお傍にいてくださっていることを感じました。

日々の務めのただ中にありながら、常に心は神に向けられ、内なる平安を乱されることはなかったマザー、神聖の権化であられたマザーに謹んで礼拝いたします。これからもマザーの生き様に瞑想し、もっともっと近づいていきたいと思います。

毎日、自然の美しさを感じながら、賀茂川沿いを自転車で走って通勤しています。
賀茂川の清らかな流れを見ると、純粋なマザーのお姿を思い出します。

桜井みき桜井みき

 

 


泥棒アムジャッドの信仰とホーリー・マザーの愛

「私は徳のある者の母。そしてよこしまな者の母。悩める時にはいつでも自分に言い聞かせなさい。『私にはお母さんがいるのだ』と」。

ホーリー・マザー(シュリー・サーラダー・デーヴィー)は、全く驚くべきことに、あらゆる人々に対して平等に接していました。それを示す逸話はいくつかありますが、その一つに盗賊のアムジャッドの話があります。アムジャッドはイスラム教徒の盗賊の一人でした。ホーリー・マザーはそうした人々にもお仕事を用意し、親切にされていたのですが、周囲の人々の中には不可触民とされていた彼らをぞんざいに扱う人もいたようです。マザーは、しかし、「シャラトが私の息子であるのとまったく同じように、アムジャッドも私の息子なのです」とおっしゃり、アムジャッドに対して親身に接しました。シャラトというのは、シュリー・ラーマクリシュナの高弟の一人であるスワーミー・サーラダーナンダのことです。スワーミー・サーラダーナンダと盗賊のアムジャッドが同じというのですから、まったく驚くばかりです。

あるとき、泥棒のアムジャッドは心身ともボロボロになって、病床にあるホーリー・マザーを訪ねます。それを見て、ホーリー・マザーは「我が子のアムジャッドではありませんか」と迎え入れたのです。そして、彼に沐浴をさせ、彼の空腹を満たし、新しい布を与え、お土産もたくさん渡されて、アムジャッドはやってきた時とは別人のようになって帰っていったそうです。その後、アムジャッドはホーリー・マザーに珍しい果物を持ってきたりして、マザーに献身するようになりました。けれども、それでもアムジャッドは泥棒をやめることができず、何度も捕まって、牢獄に出たり入ったりしていました。それでも、ホーリー・マザーはそのような犯罪行為にはなんら留意されずに、常にアムジャッドに対して非常に情け深い様子で接しておられたそうです。最期の病で伏せっておられるときには、アムジャッドは強盗を犯して逮捕されていました。それを知らされて病床にあるホーリー・マザーは、「アムジャッドが古い悪癖をやめていないことはずっと知っていましたよ」と言われたと伝えられています。

悪行を止めることができない者を「我が子」と呼び、深い慈悲を与えるマザーのこの逸話を読んで、何度も涙をこぼし、「ああ、お母さん!」と叫んだのは私だけではないでしょう。ここで救われるのはアムジャッドだけではなく、全世界のあらゆる罪人たちであろうと確信するのです。

けれども、何度か読んでいるうちに、アムジャッドがマザーの深い慈悲を受け取ることができたのは、彼の中にある純粋な信仰心、ホーリー・マザーへの純粋な愛ゆえなのだろうと思い至りました。アムジャッドの犯した犯罪というものは、彼の癖であり、直すのはとても難しいけれども、本質とはかけ離れたもの。だからこそ、ホーリー・マザーは癖を相手にせず、本質だけを慈しみ、そしてアムジャッドもその純粋な信仰心を持ってその愛を受け取ることができたのでしょう。ここにはホーリー・マザーとアムジャッドの本質、魂の関係だけがあって、星がまたたく夜空のような深く広大な美しさが広がっています。

私たちは、いくらでも間違いを犯してしまいます。それが積み重なって、悪い癖もいくつも持っています。悪い癖と格闘してなんとか直そうとしますが、それは本当に苦しくて、難しく、何度も失敗して絶望します。それでも、どんな絶望の淵にあっても、ホーリー・マザーの愛を受け取ることができますよう、純粋な信仰を持ち続けたいと切望するのです。

そして、同じように悪い癖で苦しむ人々に対しては、ホーリー・マザーがアムジャッドに対して与えられた寛容さを真似していくことができるのです。ちょうど少しばかり理不尽な行為を受けたことがありました。それで、そっと「それはこの人たちの癖なのだ」と呟いてみました。するとどうでしょう。そんな理不尽なことがらに対する思いも、みるみる「窓を開けたので、風が入ってきたよね」という程度の出来事に変容していき、寸前のところで、怒りをぶちまけるという罪から逃れることができたのです。ああ、お母さん、なんとあなたの愛は大きいのでしょう!

*参考・引用・抜粋 『ホーリー・マザーの生涯』

笹沼朋子


「アムリター不死―」上映会

7月、京都では祇園祭が始まり、祇園囃子がコンチキチン♪と響き出します。19年前の祇園祭真っ只中の2005年7月17日、マハーヨーギー・ミッションでは、あの伝説の聖劇!「アムリター不死―」が京都文化博物館にて公演されました。(詳しくは当時の写真が多数掲載のこちらをご覧ください!→公演リポート

先日その上映会がありました。上映会場の京都アスニーには、師が「アムリタ」当日に京都文化博物館の前に出てこられた時のお写真が飾られ、そこにはフワッと長身の師が佇んでおられるような空気感が漂い、お写真の側には可憐な黄色い小花がさりげなく生けられています。
皆の会話が自然とやみ静けさに会場が包まれた頃、14時となり、いよいよ始まりです。照明が落とされ、中央に大きなスクリーンの光がポッと浮かび上がり映像が映しだされました。

スクリーン右端に映っているのが少年ナチケータス、色とりどりのサリー姿の女性がシャクティたち。

・・・・そして・・・・30分ほどの上映は、瞬きも息も忘れるほど?!アッという間に終わり、それほどまでに集中感に満ちた内容でした。聖劇内容はぜひ公演リポートをご覧いただければと思いますが、今回私が特に印象的だったのは二つのシーンでした。

一つは、真実を求める少年ナチケータスの周りをシャクティたちが円形に囲んでゆっくりとただ歩く静かな動きのシーン。黄泉の国に行くため瞑想に座ったナチケータスの周りをシャクティたちがゆっくりと厳かに三回半歩き瞑想へいざないますが、何とも言えない静かなリズムや呼吸が静謐さそのもので、見ているだけで瞑想に導かれる不思議なシーンでした。
もう一つは同じくナチケータスの周りをシャクティたちが、今度は躍動的に動くシーン。その動きは蓮の花が蕾から少しずつ開いては閉じ開いては閉じ開花していくその様を象徴的に表現した動き。前者の静かに歩くシーンの集中感とは対照的で、ダイナミックなエネルギーの塊のような別の集中感があり、生命と直結しているものや命の根源の鼓動なのか、自分自身の何かがそれと共鳴する体感がありました。太陽の周りの炎や火山の噴火のような強烈な熱源が勢いよく展開し、何かが生まれていく瞬間にも感じました。何もないところから聖音オームが響きはじめ、その振動は広がり、宇宙万物が顕現していく様が暗に表現され、またアートマンがシャクティに展開する様子をも含んでいるシンボリックな美しい場面。中心に座しているのは不動のナチケータス。

私は当時、そのシーンも練習で見させていただいていて当日もいましたが、今回の映像を見たことによって、師が不滅の真実を芸術的に表現されたその美しい世界観、新鮮さに圧倒されました。シャクティたちの表現は蓮の花弁でありながらも、一方ではシュリー・ヤントラ(象徴的な真理の図象) でもあり、一つの身体表現の動きのなかに神聖な象徴がいくつも実は隠されていたといいます。私自身はまだまだ深く理解できていませんが、世界の始まりの生命の源が呼吸し、脈打ち、展開していくその振動、そのリズムをもし視覚的に見られるとしたら、きっとこのようなものなんだろうなと感じ、それを師が私たちにも分かるように表現してくださったことに感謝しました。目を閉じても、しばらくその二つの場面が蘇り続けました。

演者たちの迫真の演技と全身全霊の表現は、この世の者とは思えず、それは演技ではなく、実はそっちが本当の姿で、演じているのは今の人間の姿のほうなんじゃないかとさえ思えました。それは私たち全員もそうなのかもしれないと感じました。映像を通して、命の素の姿を見たようで鳥肌が立ちました。
師が最初から最後まで総指揮をされた貴重な作品「アムリタ」は、時が経てば経つほどに、とてつもない輝きを増すものだと実感しました。

公演当日の準備風景から終わりまでのメイキングフォトのスライドショーもあり、驚いたのは、師は当日、隅々まで私たちと一緒になって実際に動いてくださっていたことでした。当日には皆それぞれ役割担当があり、各場所に散らばり持ち場についていましたが、その各場所の至るところに、師は出没して顔を出してくださっていたことが写真から分かり胸がいっぱいでした。師の楽しそうな笑顔がたくさん映っていました。掃除や片付け、裏方の仕事など、どの現場にも師が私たちと同じ目線で一緒になって考えてくださっているお姿、手伝ってくださっているお姿、会場の準備で床にメジャーをあてて計測されているお姿、控室で演者の衣装をチェックされて大笑いされているお姿、受付や宣伝の係の者たちに声をかけてくださっているお姿、終わった後に舞台の床に貼ってある位置取り?のテープをしゃがんで剥がしてくださっているお姿、そして公演前みんなで雑巾がけしてピカピカに磨きあげた床に弟子一同がずらりと並び、師に礼拝しているその時の師の優しいお姿。その場面を見た時、あの時あの場所で師に礼拝した一念の瞬間の衝撃が鮮やかに蘇りました。師は舞台に上がってくださり弟子から奉納されたお花のマーラー(環)をお掛けになり、優美な微笑みで皆を見守ってくださっていました。そしてその一日、師は、師であられるのに誰よりも率先して動かれ、誰よりも大笑いされ、誰より楽しまれて誰よりダイナミックでピュアで、誰よりもチャーミングで純真無垢な少年のようでした。

公演後の場面では、お客さんたちが師にご挨拶するために師の前に列をなしていました。弟子たちの家族や友人も大勢来ていました。師が一人一人に同じように満面の笑みを向けられ、時には真剣な表情をされ向き合ってくださっているお姿が映っていました。アムリタを公演したことによって師と縁ある人々が一斉に一同に会して、師に、つまり聖者に、接見できる機会に皆が恵まれたのだ、とそのスライドショーを通して初めて私も気づきました。準備段階から公演を通してたくさんの方とのご縁が生まれましたが、公演に来られた方だけではなく関わったすべての方々、大勢の人が祝福された日だったのでした。アムリタの出演者や関係者が、当時、師がアムリタをどのように進めていかれたのか、師のお仕事のされ方や師から学んだことなどをその上映会の日に話してくれたことによってそう感じられました。(上映会で話された内容に関連することがここにも記されています→「アムリタ-不死ー」の主旨

祇園祭りに合わせたアムリタの宣伝計画、新月から始めるチラシ撒きや地域や時期の計画、アムリタのポスターデザインを手掛けられた時の制作秘話など、話は尽きませんでした。師を筆頭に皆総出で一気に突き進み、突き抜けた数カ月間、あまりにも全力を注いだため記憶がない、と言っている者までいました。
時を経て皆で「アムリタ」の歓びを共有した2024年7月14日。その歓びを展開していくための通過点の貴重な一日に、師に心から感謝を捧げます。

 

ナリニー


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ ⑩

今回は、『Paramahamsa』No.86の表紙絵を紹介させていただきます。
冊子のイラストは実際にはモノクロですが、ヨギさんが選んでくださった書体がとても素敵なので、表紙デザインをご覧ください。

この絵は、ガルダに乗ったヴィシュヌ神とラクシュミー神妃です。
ヴィシュヌ神がラクシュミー神妃を抱きかかえるようにしてガルダに乗り、弓に矢をつがえているシーンはよく見ますが、神に抱かれながら、自らの煩悩を撃ち落としたい、強い意志をもちたいというイメージで、ともに弓を持つシーンを描いてみました。
放つ矢に当たって落ちていくのは「煩悩くん」です。

7月といえば、ヨギさんはニューヨークに行かれていることが多くありました。
そうやって離れてみることで、ヨギさんが京都いてくださることで私たちは守られていたのだと感じることが多くありました。しかしそれと同時に、矛盾しているかもしれませんが、離れていることで、常に一緒にいてくださる安心感があり、そしていつも導いてくださっているのだという強い思いにも満たされるのでした。
離れていると感じるのは心であり、実は、今この瞬間も私たちは神に支えられ、力を与えられているのだと思います。それを忘れることなく、真実の道を歩み続けていけますように。

シャチー


バクティ・サンガム始まります!

今年は約4年半ぶりに、バクティ・サンガムの実クラスを開催します!


今期シリーズのテーマは、「キールタンに親しもう!」
インドの様々な神様を月ごとに取り上げ、その神様にちなんだキールタンを歌っていきます。また、初めての方にも分かりやすいように、それぞれの神様についての基本的なことをご紹介していく予定です。神の御名を繰り返すキールタンはとっても簡単。歌の上手下手は関係ありません。気軽に体験してみませんか?

また、ヨーガを世界に布教したインド近代の聖者、ヴィヴェーカーナンダについても学んでいきます。
初回は7/28(日)14:00~詳細はこちら)。一回からのご参加もOK。ぜひお越しください!

★オンライン、動画受講もあります

ミラバイ


私を鼓舞するもの

私は今、いけばなを習っています。お稽古はとても楽しく、集中して生けているとあっという間に時間が経ってしまいます。もともとお花や植物が好きだったこともありますが、お花をいただく機会がある度に「もっと綺麗に生けてあげられたらいいのになぁ……」と、残念に思っていたことがキッカケでした。また、元来、仏様にお供えした花がいけばなに発展したという歴史にも惹かれるものがありました。

先日、お稽古の花材で使った紅花が萎(しお)れかけてきたのですが、お花のオレンジ色がまだとても綺麗で形もカワイイので、そのままサヨナラするのが忍びなくなり、枯れた葉を切って西洋ナズナ(ペンペン草の仲間)と一緒に窓際に飾ってみました。ちょうど夕刻で、窓の外から差し込む夕日に紅花のオレンジ色が一層映え、その様子がとても綺麗だったのでしばらく見入ってしまいました。

ハート形の葉っぱが可愛い西洋ペンペン草と

オレンジ色は私にとって、ブッダや修行僧、師、悟り、などを想起させる特別な色です。以前ブッダが、使い尽くされてボロボロになって捨てられた布を洗って縫い合わせて作った「糞掃衣(ふんぞうえ)」と呼ばれる布で、身体を覆ったと聞いたことがありました。近くに生えている草木などを使って布を染めるとオレンジ色に染まったのだそうです。すべてのものを慈しみ、最後まで大切にされたブッダの人柄が伝わってくるようなエピソードです。ブッダの弟子たちはその「糞掃衣」を着て、彼の教えに従い、悟りの境地を目指して修行に励んだそうです。

私の師も、弟子によって縫われ染められたオレンジ色の服をよく纏っておられました。私の脳裏に浮かぶ師は、オレンジ色のクルター姿でなんとも言いがたい美しい姿勢で座し、たくさんの弟子たちに囲まれ、優しく真剣に教えを授けておられるお姿です。
夕日と夕日の色に染まったような鮮やかなオレンジ色の紅花に目をとめたまま、「私もブッダや師の教えに少しは染まってきただろうか……覚者たちが歩まれた、古(いにしえ)から連綿と続く真理の道を一歩でも進めているのだろうか……」と、自問しました。その答えは直ぐにハートの内に響いてきました。

ーそれは師のみが知ること。そんなことは気にせず、恐れず諦めず、生命の限り精いっぱい進め ー

師の力強い鼓舞は常に私の内にある!

シャルミニー


7月開講‼️ 大阪・京都 瞑想入門「ブッダ−真理−を探せ」

7月11日(木)〜大阪・京都で瞑想入門「ブッダ−真理−を探せ」がスタートします‼️
チラシを手にとられたり、イラストをご覧になった皆さま、ブッダを見つけることができましたか👀?

この瞑想入門では、ブッダがどのような瞑想をしてニルヴァーナ(涅槃寂静)に至ったのか、ブッダの生涯や心境を学びながら、少しずつ瞑想をしていきます🧘
初回の1回目は「すべては変わっていく」(諸行無常)がテーマです。


諸行無常の理は、ブッダが説いた真理の主要な教えになります。
では、なぜブッダはこの理を説かれたのでしょうか?
講座では、まずブッダの生涯を学び、ブッダがいつ、どのようにして諸行無常ーー「すべては変わっていく」と感じ得たのか、ブッダの心境にアプローチして瞑想していきます。
また、毎回の講座ではテーマに関する「日常の教え」もご紹介して、教えを生活に当てはめて実践するポイントもお伝えできればと思っています。

2500年前に生きておられたブッダの息吹やそこから発せられた真理の教えを再発見すべくクラスをしていきたいと思っておりますので、一緒に瞑想してブッダ(真理)を感じ、見つけて行きましょう‼️

歌川国芳の浮世絵になります。よ〜く見ると、今回のテーマ諸行無常「すべては変わっていく」のシンボル「髑髏」が至る所に描かれています。遊び心があって好きな浮世絵です🐈ちなみにチラシの髑髏も歌川国芳の他の作品の髑髏をモチーフにしています。

 

ゴーパーラ


マザーに導かれて

マザー(サーラダー・デーヴィー)に初めて出会ったのは、ヨ―ガのクラスに通い始めて間もない頃、先輩グルバイからマザーの本を勧めていただいて読んだ時でした。馴染みのないインドの風習や、時代も今から百年以上前のお話でしたが、本を読むうちに不思議に風景がリアルに感じるようで、自分がマザーのお側にいるような気持ちになりました。そしてマザーが大好きになっていきました。
クラスでシャヴァ・アーサナ(休憩の形)の時に「何も考えないで」と指導されても、目を閉じるとマザーのお姿が浮かんでくるほど、マザーのことを思うようになっていきました。
私がマザーを思う時はいつも、自分が小さな子供のようにマザーの膝に甘えているような、そんな気持ちになります。それはきっとマザーが、

「私は、善人だけでなく、悪人の母でもあります。私を母と呼ぶ人に、決して背を向けることはありません。子供が泥や埃にまみれていたら、汚れを拭って膝に抱いてやるのが母の務めではありませんか」「困った時はいつでもあなたを守っている母がいることを思い出しなさい」

と言ってくださっているからだと思います。日常で誰かにそんなふうに言われても、私はきっと素直に受け入れることはできないだろうと思うのですが、実際にお会いできなくても、マザーのお言葉は心の奥で確かに真実だと思えるのです。

♦♦♦

今年の春の祝祭は、大好きなマザーをお祝いする会でした。
祝祭に向けてマザーへの讃歌を練習する機会を設けていただいて、何度も練習を重ねました。優しいメロディーはマザーの愛そのもののようで、歌う度にマザーに包まれているような幸せでいっぱいになりました。
祝祭当日は、初めて京都の会場で参加させていただいたのですが、祭壇の美しさや聖劇の迫力など全てが感動的でしたが、中でも一番心に残ったのは、大きなスクリーンに映し出されたマザーのお写真の数々です。マザーの瞳は例えようが無いような輝きに満ち溢れていました。マザーの瞳の先にはシュリー・ラーマクリシュナがいらっしゃって、全てに師を見ておられるのだと思うと、マザーの強い信仰心と汚れのない純粋さに感動しました。

いつも私のことを、母なるマザーが、そして最愛なる師、ヨギさんが見守っていてくださっているから、私は勇気を出して一歩一歩歩みを進めることができます。

大好きなマザーのように、私もいつか全てにヨギさんを見れるように歩いていきたいです。

小野ちさ