地域」カテゴリーアーカイブ

カーリー・ヤントラに瞑想する!

今回発売されたNewTシャツとトートバッグにデザインされているカーリー・ヤントラは、瞑想に使用されるものでもあるのですが、シンプルなデザインを見て、本当に瞑想で集中しやすいと思いました。

それで、6月23日にあった松山での瞑想特別クラスでは、集中力を養っていくというテーマだったので、カーリー・ヤントラを用いて、それを凝視しながら実際に集中してみようと思いました。

ところが、人数が多いのでどうやろうかなあと思っていたところ、ヨギさんから、大きなカーリー・ヤントラを書いて前に貼ったらいいというアドヴァイスをいただき、早速松山のスタッフに依頼したところ、Tシャツのデザインを参考に、大きなカーリー・ヤントラを書いてくれました。見た瞬間、「大きいなあ〜!!!」と思いました。

当日は39名の方が参加されましたが、後ろから横からでもよく見えたようです。

今回の瞑想特別クラス3回目は、3月から三ヶ月空いたのですけれど、前回感想を寄稿してくださった若狭さんが(→前回のブログ)、続きを寄稿してくださいましたので、ご紹介したいと思います。ありがとうございました。           (サーナンダ)


毎日牛のポーズと呼吸法そして瞑想を5分でも10分でも座ろうと決めました。瞑想セミナー2回目の宿題です。

牛のポーズと呼吸法、詰まった鼻がピリッと通って呼吸が体の中を巡ります。心が静まって心地がいい!肩の力を抜いて背骨を真っ直ぐと言い聞かせます。
睡魔と戦いながら、なんとか3日坊主は乗り越えました。1週目2週目も大丈夫、雑念は浮かんできますが、捨てる捨てるとにかく捨てるを繰り返していると、少しずつですが集中が長くなります。順調だ!なんかいけそうな気がする!

ところが一ヶ月を過ぎた頃大きな変化に気づきます。
自分で努力をしている感じがしないのです。なにか大きな力が働いて私を動かしている。何かに包まれ導かれるように。気負いも緊張もなくなって、ただ毎日淡々と瞑想をするという不思議な変化です。
その大きな力に身を委ねて、気がつけば3ヶ月が過ぎていました。

「大きな力」あれはなんだったんだろう? 今はよく分からない。
でもきっと誰もの中にあるにちがいない!それは分かります。

三回目の瞑想セミナーのテーマは「集中」でした。

心は分散しているから弱い。集中すれば強くなるとサーナンダさんが教えてくれます。強くなりた~い!!!

参加者全員で大きなカーリー・ヤントラに集中します。
カーリー・ヤントラへの集中は、ただ見て、目を閉じて残像に集中します。ぼやけてきたら目を開けて見る。その繰り返しだけ。メガネをしてもよい、瞬きも気にしない。何の努力も要らな~い、超簡単~です。

二日目のアーサナクラスの瞑想の時、目を閉じたとたんカーリー・ヤントラが前にありました。どうして、なんで~と心の中で大騒ぎ。いやいや騒いでる場合じゃない集中!集中!
最後はカーリー・ヤントラと私が重なって、喜びが満ちていきました。

ヨギさんの恩寵ですね、ありがとうございます。
次の宿題はこれだと決めました!

若狭多美子

 


サットサンガより 目的と方法

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

毎日のサーダナを実践する上で、しんどいなとか面倒だなと感じる日は誰にもあると思います。

私もヨーガに出会う以前に、仕事が忙しすぎて帰って眠るだけという生活が数年間ありました。その時の自分に、サーダナをする時間と余裕があったかと考えると、できなかったと思います。

そういう環境の中では、ヨーガを中心にした暮らしは、簡単に望めそうにはありません。思い切ってガラッと生活を変えることができればいいのですが、家族や周りとの調和を大事にすると、あるいは自分自身今のこの生活を捨ててヨーガに飛び込めるか?と揺れてしまうと、何年も場合によっては何十年も我慢しなければならないかも知れません。

今の境遇は自らのカルマにしたがって有るのだとすれば、今の環境でできることをするしかありません。

日常がとても忙しく、ついサーダナができない日があります。そうすると、「今日はできなかった」とか、「さぼってしまった」という罪悪感や後悔の念が起きてしまいます。自由に軽やかになる為にヨーガをしているはずなのに、これでは反対に苦しいばかりですよね。

先日サットサンガで弟子の質問に師はこう説かれました。

質問者「状況とか場所が変わって、その中でサーダナを試みてもなかなか集中して行えない自分の弱さがあります。サーダナをやっても途中で疲れて寝ちゃったりして、罪悪感というか……。でもその気持ちをもっと前向きに望みたいんだけれども、なかなか自分で壁を作っているところがあります。そこを突破する、やれるようになるにはどのようにしていったらいいでしょうか」

ヨギ「サーダナは目的ではないんですよね。だから目的と方法というものを混同してはいけません。サーダナはあくまでも方法にすぎないわけで。それは目的ではないんですよ」

質問者「何のためにするか、ということですよね」

ヨギ「そうです。目的が真理を実現することであるならば、もちろん、このヨーガのサーダナはそのためにあるわけですから。それは結局のところは心を浄化する、きれいにするということ。サーダナというのはそのためのものですよね。じゃあ、それにはサーダナはいくつも色んな方法があります。アーサナや瞑想だけではない。信仰もそうだしね。だからもっと目的に直接的なところを踏まえて、心に持っていないとだめ。常に真理を持っている。神を思っている。そういうふうにして信仰を高めていくこと。それが大事です」

サーダナとはアーサナだけではない。日々の他者との関わりの中で積極的に奉仕を行うカルマ・ヨーガ。常に真理を物事の判断基準として生きる。そして境遇が例えどんなに荒れ狂う嵐の中にあっても、心は常に神の中に留まる境地、信仰という強いよりどころを持つこともサーダナなんですね。

人それぞれカルマにしたがって与えられた境遇は違いますが、ヨーガに出会って発心がおこり、この道を進もうと決めた。と言うことは既にヨーガの道に向いて進んでいるということだと思います。停滞や挫折を感じても、確実にカルマの道からヨーガの道に舵を切って進んでいる。だからこそ、残っている心の習性や習慣との格闘があるのだと思います。

カルマの世界で心に支配されるのが嫌なら、心の声は聞くべきでは無いですね。真理の存在を信じられないと思っているのも心だからです。本当に求めるものは何なのか?自分はこれからどう生きたいのか?目的をしっかりと見すえて、その為の方法を淡々と実践することが一番確実で早道なんだ…それ以外に道は無いと改めて思い知らされました。

器官を統御して貪欲という難敵を滅ぼす力が、自分にはないとおまえが考えるならそれは間違いだ。なぜなら肉体より器官、器官より心、心より知識、知識より魂の方が格段にすぐれ、精妙、かつ強力でもあるからだ。 『バガヴァッド・ギーター 三章 四十二』

Caitanya


さまらさの台所 手作りでご飯のお供

パラマハンサ会員向けのさまらさの台所があり、19人の参加がありました!
今回紹介したのは、ちりめん山椒、昆布の佃煮、新生姜の甘酢漬け、味噌玉の4種類。冷蔵庫にあるとご飯のお供として日々の食事に重宝するものばかり、手作りすることで、安心して食べることができます。

さて、味噌玉って何だと思います?

お湯を注いだらすぐに味噌汁ができる、あさげやゆうげというインスタント食品をご存知ですか?家にある味噌で出汁を取らずに、同じように簡単に味噌汁を作ることができるのです。
味噌(大さじ1)にかつをぶしの粉(ひとつまみ)を混ぜ、そこに乾燥わかめ、お麩などを入れてます。そこにお湯を注ぐと、出汁を取らなくても簡単にお味噌汁が出来上がります。

サランラップに包んでおくと、持ち運び便利!!お弁当に持っていくこともできます。
こんなに簡単にお味噌汁が作れると、手間が省けて本当に助かりますね。

今回のさまらさの台所では、ご飯にお味噌汁、おかずは、ちりめん山椒と昆布の佃煮、新生姜の甘酢つけという一膳をいただきました。一見すると何と質素な!メインのおかずはないの?・・・という一膳ですが、実は食べてみるとこういう食事は体も心もほっとすることに気がつきます。どうしても、メインのおかずを作らなければ!とか、あまりに簡単な食事だと、手を抜いてしまった!という印象が残ったりします。けれど、本来食事には「〇〇しなければならない」というものはないと言うことを学びました。

ヨーガの実践を中心とする生活(日々のアーサナ、瞑想を実践する生活)には、その日、そのとき、またその時期にふさわしい食事があります。

あるときは夕食を速やかに済ませてサーダナ(アーサナや瞑想)にしっかり時間を取るときもあります。あるときは、時間に余裕を持ち、旬の食材を使って、できたての料理をいただくこともあります。またあるときは、誰かと一緒に過ごす時間を大切にするときもあります。その日の状況や、自分の修行の時期に応じて、ふさわしい形で食事ができるようにするには、自分自身で判断していく力をつけていくことが必要になります。

食事は人生の目的ではなく、本当の目的(自分の理想)を実現するために必要とするこの体を調えるために取るものです。まずは、その目的をしっかり見据え、日々の食事作りをしていくことが望ましく、自分の判断に対して「今日はこれでよし!」と思う力をつけていくことも大切です。

 


USAフェスティバル

今より遡ること約100年前、かのパラマハンサ・ヨーガナンダは神の啓示を受け、海を渡りアメリカへと布教の旅に出られました。そして2018年6月15日の明日、私たちの師のヨギさんも海を渡り、N.Y.へと旅立たれます。わたくしヨーガダンダも、ヨギさんに先駆けて、海を渡り、USAフェスティバルに行ってまいりました。とは言いましても、USAとは大分県宇佐市の宇佐のことで、海を渡ったと言いましても、関門海峡をバスで渡ってまいりました。

縁あって、1年ほど前からヨーガのクラスをさせていただいている宇佐市は、田園風景が広がるのどかな街なのですが、お店の前に自由の女神の像が建っていたりする、何だかお茶目な街なんです。そんな宇佐市の町興し的なお祭り――USAフェスティバルでヨーガ体験クラスの依頼があり、参加させていただくことになりました。10回目を迎えるUSAフェスティバルは由緒ある宇佐神宮での開催です。

宇佐市のクラスには、不思議と子供さんが多く通われていて、今回はその仲良し二人組にデモンストレーションをしてもらいながらクラスを進めていきました。石畳の地面は硬くてヨーガマットだけでは不十分だったのですが、近所の畳屋さんが畳みを提供してくださいました。地域の人たちの結び付きに感銘を受けました。

鋤のポースです。視界の先にはどこまでも続く大空。

瞑想の前に、座るポーズをいくつか紹介させていただきました。

瞑想の時には、ガヤガヤした雰囲気の中に静寂の空間が生まれたように感じました。

最後に、お菓子をもらいにきた子供たちと立木のポーズ!

このところクラスを担当させていただく中で、子供から大人まで、また元気な方や心がしんどい方、いろいろな方と接する機会を与えていただいています。そんな中で私が願うのはいつも同じでありたいということです。目の前に尊い存在を見て、はからいなく行為する。聖者、覚者の行為から、いつもそのことを感じます。私もそのあり方を見倣って、少しでも近づいていきたいと思います。京都でも、福岡でも、宇佐でも、そしてUSAであったとしても。

 

おまけ

午前中のクラスには、空手の道場に通う子供たちが多数参加してくれました。

『パラマハンサ』の記事――「ヨーガよかばい!」でお馴染みの国友司さんもチラシ配りに汗を流してくださいました。畳みの上で一休みしていた大学生の二人はこの後クラスを体験されました。

yogadanda


松山特別サットサンガの感想‼️

前回のサティヤーに続き、松山グルバイの山口正美さんが松山特別サットサンガに参加した感想を寄せてくれました!
三児の母である山口さんですが、お子さんも成長して母としての役割を果たそうとしている今、神への熱い思いと決意に満ち満ちています!


「これからの人生をバクティ・ヨーガ成就のために使う!神に狂うんだ!」

5月19日、20日に開催された松山特別サットサンガでヨギさんが松山に来てくださって、そう決意することができました。

ヨギさんのお話から、誰かの心が見ている世界がこの世界をつくり出していて、そこに真実はないということ、マーヤーなんだということを直感しました。同時に、神のみが唯一の真実、リアリティーなんだと納得しました。
そして、神に狂いたい気持ちの反面で、そうすることによる世間や家族との生活での不安をヨギさんに打ち明け、「安心して進んでいいよ」とお言葉をいただき、「よし!行くしかない!」と胸が熱くなりました。
家に帰って瞑想をして、その後もヨギさんのお写真の前から離れられず、ヨギさんのお写真の前で眠りました。

『行為でもって愛をあらわしている、それが奉仕です』

松山特別サットサンガでのこのヨギさんのお言葉は、私の心につきささりました。
今まで、「役割だから」「ヨーガの教えだから」ということに縛られ、「精一杯やるんだ」「失敗しても気にしないんだ」「自分の心を捨てるんだ」と一体、私を主人にして何をやっていたのでしょうか⁇

もっともっと神に占領されたい!
神に狂いたい!
神の道具となって、周りの人に行為したい!
今の私は、神を求めることだけが生きる道です。

ヨギさんが帰られて、今、私には、「シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ、このお方が私のすべてのすべてである。そして、私の生涯をかけてお仕えするんだ」ということだけがあります。

シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ キ ジャイ︎!!!

山口正美


松山特別サットサンガのご報告 サティヤー編:私が見た!師のお姿

今回ヨギさんと一緒に、私、サティヤーも松山に同行させていただきました。

サットサンガの内容はゴパーラが報告してくださったので、私はまた別の角度から、私が「見た」ヨギさんのお姿をご紹介します。

松山に行ってまず感じたこと、それは松山のクラスを運営しているアーナンディーを始め、他のみんなの働きの素晴らしさです。ヨギさんが快適に過ごすことができるようにと、細かなところまで気を配って準備をされていました。そして、その準備を本当に喜んでしていることが伝わってきました。食事や移動、どのシーンを切り取っても、おもてなしの気持ちが溢れていました。サットサンガの会場の準備はもちろんですが、参加する方が、ヨギさんに会い、質問をするという大切な機会を逃さないように、いろいろな形でフォローし、寄り添ってこられたことを感じました。本当にヨギさんへの感謝と愛が溢れていて、とても!とても感動し、学ばせていただきました。

でも!!!!でもでもでも、もっともっともっとびっくりしたのは、そのおもてなしと感謝を何倍、いや、何百何千倍も上回る形でヨギさんが彼らを、そして参加された全ての人を祝福し、もてなし、喜ばせておられるお姿でした。それが、どのようなものかということは、もう・・・・・うまく言葉で説明することがきでない・・・(「なら、書くなよ」・・と言わないで)私はただ、それを「見た」としか言いようがないのです。

言葉にすると「無私の行為、人のためだけに生きる姿」というものをありありと見たということでしょうか。でもやっぱりそれを言葉にしたくない!!本当に素晴らしいものを見せていただいたとしか言えないのです。

私の言葉では、到底うまく説明できないので、以前ヨギさんがお話しされていた中から、今回私が「見た」ものはこれだという言葉を見つけたので、紹介させてください。

自分の命を捧げて他者を愛する意味を教えて欲しいと質問した人に対して答えられたものです。

「不二の永遠の存在、もしくは神が、神の中で遊び戯れていることが、究極の意味です」

捧げるということや愛するということ、それらは自分と他者とを分けた中で成立する言葉だと観念づけられています。だから他者に自分を捧げるとき、そこには努力が必要であったり、あるいは無理して疲れたり、そんな時もあります。もちろんそんなことばかりではなく、自然にできることもあるけれど、基本的には私と相手という二つが存在する中での行為として捉えています。

でも、私が見たヨギさんの姿は、私が知っている「愛」や「捧げる」という言葉は届かず、捧げる者も、捧げられる者も、本当は二つとない永遠の存在で、ただ、遊び戯れているという、その言葉通りの美しい、美しい姿でした。それを見た私は、ただただ、お手上げ!感服しました。人として最高の姿を見せていただき、私はその姿を胸に焼き付けました。

ヨギさんが、あまりにも無為自然に、ただ遊んでおられるように見えるので、それはどのようにしたらできるのかとか、どのような心の状態なのかとか、詮索したり、自分の小さな思考のレベルに落としたくはなく、ただ神の遊びが台無しにならないように、せっかくだから私も一緒にその場に身を任せて遊ぼう!という気持ちだけでした。

なんとなんと甘美な3日間だったことか・・・。

でも、もう言葉はこのぐらいにして、その甘美さをただ味わいたいと思います。

サティヤー


松山特別サットサンガのご報告‼️

5月19日、20日にシュリー・マハーヨーギーの特別サットサンガが愛媛の松山で開かれました!!!
レッドソックスの大谷が6号ホームランを打った18日、マハーヨーギー・ミッションの共用車シトロエンを走らせ、いざ京都を出発🚗💨
天気予報は雨だったにもかかわらず、空は晴れ間も見え、休憩のパーキングエリアでは強烈な日差しが照ったり、夕食時突然の大雨の音が外から聞こえてくるも、ヨギさんが一歩外に出ると雨は止んでいました。
私は尋ねました、「ヨギさん、大谷は何であんなにメジャーで活躍できているんですか?」

「もっているとしか言いようがないわ」

いやいや、ヨギさんも「もっている」というしか言いようがありませんよ!!!

サットサンガは両日ともに快晴の中、満員の参加者で埋め尽くされ、会場の松山ヨーガ・サークルは熱気と集中感でパンパンに!!!
特に初日のサットサンガは、ヨギさんが着座されるやいなや問答がスタート!
そこから質問は途切れることなく、真剣さあり、笑いあり、涙ありの素晴らしい内容でした。
このブログでは、1日目のサットサンガの様子をダイジェスト版で報告させていただきます!

5月19日(土)1日目のサットサンガの様子!

会の前半、初参加の男性が真剣な眼差しで「人生の目的と、それを達成するための手段を教えてください」とストレートに質問、ヨギさんは次のようにはっきりとお答えになりました。
「人生の目的、それは真実を悟ることです。その真実とは何かと言えば、本当の自分を実現することです。この世界は生まれては変化をし、そしてすべて消滅をします。この身体も心も、刻々と変化をしてやがてはなくなります。しかしなくなるものにあって、なくならないものが一つだけあるのです。それが魂という(力強く)存在なのです。そして誰もがその魂の顕れなのです。これを学んでいくに従って、同時にこの世のあり方とか心の有様、さまざまなことも理解されていきます。そうしてそれらには執らわれないで、本当のものだけを求めていこうという気持ちがより強くなっていきます。そのための学びや瞑想というような思いを集中していくことによって、それは自覚されることになります。この人生の目的である真実を、その存在を実現してください!」
終始、ヨギさんのお言葉を瞬きもせずに聞いていた質問者の男性。深々と頭を下げるその目には、涙が滲んでいました。

会の中盤、「お釈迦様の教えの一切皆苦をまだよく分かっていなくて、自分は年から年中苦しんでいるわけでもないし、楽しいこともあるし、世の中を見てもそれなりに幸せな人も多いんじゃないかと思うんですけれど、一切皆苦とはどういうことを言っているのか教えていただけますか」と熱心にヨーガを実践しているKさんが素直な疑問を投げかけます。ヨギさんは、「よくよく見つめてみれば、この世の中というのはすべてが苦しみに終わる。その苦しみの中身は何かというと、誰もが経験するかもしれない年老いること、あるいは病気、そしてまた死という事実がやがてやってくる。それはやはり生まれたから死ぬということであって、つまり生病老死というふうに生まれ、老い、病し、そして死というもの、これはほとんどの人にとっての逃れることができない苦しみになるだろうと。実際、そのように誰もが感じてしまう」と四苦の教えから始まり、苦集滅道の全容を一から丁寧に説かれていきました。
この時、不意に私の目にヨギさんの横に生けられているカサブランカと芍薬が目に入ってきました。
その生けられた花はまるで宙を浮いているかのように、この世の物質とは思えないほどの美しさを放っていました。
この花もいずれ散ってなくなるのに、なぜこんなにも美しく咲いているのだろう――
そんな思いがよぎった後、大病を患っていたNさんが後遺症からくるであろうかすれた声で、でもしっかりとした声で、「真理の存在は物質なのですか。心なのですか」と質問、ヨギさんはNさんの声に同調するかのように、力強く次のようにお答えになりました。
「それは思いを超えたものですから、しかしそれは在ります。ただ在るとしか言えない。そしてまた、在ると言えるのはそれだけなのです。それだけが在ります。(声高に)これは間違いなく誰もが実現できることです!誰もがそれなんですから!だからできることといえば、心を静めるというそれだけなのです。そうして一切の悩みや苦しみ、もちろんそれから願いとか望みとかそういうもの、両方いらない、何にもいらない!そのようにして本当に空っぽの空っぽになった時、ふっとそれが目覚めるという感じです」

この時すでに松山ヨーガ・サークルの熱気と集中感は、歓びのプラーナに変容していました。
歓喜で満ち満ちた中、サットサンガ中に笑顔の少なかった女性が「妬みやひがみの感情に左右されてしまって、その度にすごい落ち込んでしまう自分がいるので、そういう自分があってもいいのか」と質問、ヨギさんは次のようにお答えになりました。
「もっと自分自身を強くすること。それは自分を信じることです」
一見厳しいようにも聞こえますが、ヨギさんの優しいトーンのお言葉を聞いた瞬間、その女性からはつっかえていたものが取れたように、涙が溢れ出しました。
それは誰が見ても、美しく浄らかな涙でした。

「サットサンガ」――それはヨギさんから真理の教えを学び、授かるところです。
でもその教えとは、単なる言葉や教義ではなく、本当に生きるということ、そしてその命がもつ歓びを授けていただける吉祥な場であると、今回の松山特別サットサンガに参加して実感させていただきました。
こんな素晴らしい空間に自分が身を置かせていただいていることが嬉しくて嬉しくて、ヨギさんに、またこの場を一所懸命に設けた松山の方々に感謝を感じずにはいられませんでした。
最高の松山特別サットサンガでした!!!
ヨギさん、松山のグルバイの方々、本当にありがとうございました!!!!!!


松山の報告ブログはまだ続きます〜!次は京都から同行したサティヤーさんです😁

ゴーパーラ


サットサンガより そのとき見る者はそれ本来の状態にとどまる

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

みなさん こんにちは
前回、台湾訪問の報告がブログにもありましたが、本当に台湾のグルバイの人たちの笑顔が幸せそうでしたね。彼ら、彼女らの真剣さ、素直さ、大らかさがひしひしと伝わってきました。この世界の中で、ヨーガを求める思いは同じ、お互いに切磋琢磨して歩んでいきたいと思いました。
さて、私たちの師は台湾ご訪問に引き続き、今年もまた愛媛県松山市の地に赴かれました。師は京都に留まらず、教えを乞う求道者たちがいるところにはどこにでも足を運ばれ、尊い真実の教えを説かれ続けておられるのです。

さて、今回のサットサンガは『ヨーガ・スートラ』という教典にある「見る者」についての教えがありました。ではまず、『ヨーガ・スートラ』をご紹介いたしましょう。

  1. これよりヨーガを明細に説く。
  2. 心の作用を止滅することがヨーガである。
  3. そのとき、見る者【自己】は、それ本来の状態にとどまる。
  4. その他のときは【自己】は心のさまざまな作用に同化した形をとっている【ように見える】。

私たちはこの身体でも心でもない、その奥にある純粋な意識、それが本来の私という自己である、それを見る者という、そして心は見られる者であると教えていただいています。その見る者について、師は分かりやすく教えてくださいました。

質問者「見る者と見られる者のことなのですが、例えばそれは瞑想の中で考えていくのか、私は日常の中でそういう感じがあったりするのですけれど、そのことをもうちょっと教えてください」
師「これは『私は誰か』というね、本当の自分というのは何なんだろうというところから出発した話で、通常は心というものを私だと思ってしまっている。でも本当に心というのは私なのだろうか、その私が私といっているところの第一人称であるその存在は一体何なのだろうというものが、この探求の出発点になります。
そうして心を見つめていくと、心は常に変化をしているし、どう見ても完全円満な存在とは言いがたい。いい時もあれば良くない時もある。成功すれば失敗もする。有頂天になる時もあれば傷付くこともある。もうどうにもこうにも心というのは変化の中で動揺している確実性のないものとして理解されます。その中心にあるのが私(わたくし)という、意識付けられた思いですね。
この私という、私が指すところの私というのは何なのだろうというところを探求していくことによって、心というものはその働きの動揺が激しい時もあれば静かな時もある。静かな時というのは、心がいわばサットヴァ性になっているというふうにいえます。反対に激しく動き回っている時はラジャス性が中心になっていて、それがもっと極端な落ち込みとかになれば、タマス性ということになってしまうわけですね。この心の様子に私というものが常に引きずられてしまって影響を受けてしまっている、ということは、この私というものもそういう変化の状況に支配されている、つまりは主体性がないということになっていきます。それでも私という意識はなかなか無くならない。
そこで、ここからはヨーガ的な本当に瞑想とかいうものを行なっていくほかないんですけれども、その瞑想を進めていった時には、心というものがその静かな状態から、もっと無くなったかのような状態、つまり心が働きをしなくなる、活動をしなくなるようなところがやってきます。同時にそれはその中心である私(わたくし)意識というエゴ意識も活動しなくなっていく時があって、いわば幕間(まくま)が変わるように全く別次元の様子というか、別次元のものがそこに訪れることになるんです。
本当の私というものが顕れる、それが見るものであって、その時にはじめて心は見られているものである、見る者によって見られているものであるということが客観的に分かる。そうすると心で思っていた私というものが、いわば本当の私を騙って(かたって)いたというか錯覚をしていた、間違っていた、本当の私がその奥に在るにもかかわらず、心がそれを主張していたというふうに改められる。それが見る者と見られる者の関係になるわけです。
だから、ヨーガは徹底的に真実というものが何なのかということを探求する智慧でもあるし、その道でもあるわけですけれども、その本当の私というものが知られた時には、知られるというよりは本当の私になった時には、それは、もはや本当は私という言葉もいらない。もうあなたもいらない。なぜなら、それだけしかないんですね。それは名付けようのない存在なんです。しかし、それだけがリアリティとしてね、実存として在る。それだけが本当は在る」

心の作用を止滅することがヨーガであると『ヨーガ・スートラ』にもありますが、心の中心にあるエゴ意識が活動しなくなっていくと、本当の私が顕れてくる、それが本来の自己である「見る者」であると、師は分かりやすく教えてくださいました。

師「この世界には、さまざまな出来事、経験、見るもの、聞くもの、すべては心がつくり出した、いわば夢のような世界のように理解されることになります。それでも夢の中では、それが現実だと思ってみんな夢の中で楽しかったり苦しんだり、びっくりしたりとか、いろんな冒険をしているわけですけどね。それがこの現実の世界ということにもなるわけです。だからやっぱり本当の見る者という存在、これを知ること、それになることがとっても大事なことです。
心は見られているものであるということを瞑想の時には思い起こしてください。なぜなら今でもそうだけれども、心というものを見た時、心って見えるでしょう?心が何を思っているかとか、心を知ることができるでしょう?『誰が知っているんですか?』って、『はい、私』とは言わないけれど、その本当の私というものはそこに在るという確実な証拠なんですよ。
でもついつい習慣的に心が心を見ているとか言ってしまいがちですけれども、それは大いなる錯覚なんですよ。なぜかというと、そこには時間のずれが起こっていますから。一瞬ということは、一説によれば六百分の一秒とか、もっとミクロの時間単位のことを一瞬といいます。一秒にも満たないんです。その一瞬の心の働きを一体どうやってその心が把握することができるのか、心は自分を二つに分けることができるのかといえば、できないです。でも心は心を知っているというのは、時間のずれによって『こう考えた』とか『ああ考えた』とか『こう思った』『こう感じた』という過去の心の働きを記憶しているにすぎない。これが厳密なヨーガの心理学でもあります。だから見る者というものは常に変わらずそこに在りますし、すべてを知っているし、すべてを見ています。神と一緒でしょう?だからその存在というのは神とも呼ばれるわけです」

見る者とは、私たちのことをすべて知っている意識、私たちと共にいつも在る意識、私たちはいつも神と共にあったのだ。そして私たちは神であったのだ。師の教えは本当に私たちに平安と勇気と感謝をもたらせてくださいます。その存在こそが本当の自分である、その見る者に留まり続けること、それがヨーガである。『ヨーガ・スートラ』を深く理解することのできたサットサンガでした。

ダルミニー


ミラバイさん、台湾訪問の報告! (by プリヤー)

2年ぶりに、ようやくミラバイさんを台湾に招待することができました!

4月25日から5月8日までの2週間、台北で各2回のアーサナ‧瞑想クラスとバクティ‧サンガム、3回のサットサンガが行なわれました。また今回はそれに加え、特別企画を開催――グルバイ(兄弟姉妹)のマールラーが住んでいる台中で初めてアーサナ‧瞑想クラスが行なわれました!
このミラバイさん訪台の様子を、写真を交えながら私プリヤーが報告させていただきます!

毎回のアーサナ‧瞑想クラスは静かで集中感が漂い、参加者たちは自分の限界までポーズと呼吸を深めていきました。クラス最後の30分の質疑応答の中では、ポーズの順番や注意点、毎日のアーサナの時間帯、飲食とアーサナの関係、瞑想についてなど、たくさんの質問が出ました。どの質問に対しても、ミラバイさんは丁寧で分かりやすく答えていました。ミラバイさんの励ましを通じて、みんなはもっと自信をもって実践を続けられるようになりました。

アーサナ・瞑想クラス@台北

アーサナ・瞑想クラス@台北

アーサナ・瞑想クラス@台中

『真実を求めて』を買ってサインをもらうシーン

サットサンガでは、最初多くの参加者は悩みや不安を抱えているように見えましたが、ミラバイさんから出るヨギさんの教え、真実の答えは、不安の雲を吹き払って、聞いているうちにみんなからは笑顔がこぼれて、時にはミラバイさんのユーモアで大笑いしました。会が終わると、誰もが晴れやかな表情になっていました。

サットサンガ@台北

サットサンガ@台北

またバクティ・サンガムは、たくさんの人が心待ちにしていたことでした! 今回ミラバイさんは、台湾の私たちが歌ったことのないキールタンを2曲紹介されました。一つは踊りたくなってしまう『Siva Sambho』で、もう一つは歌詞とメロディが簡単で覚えやすい『Tumi Bhajare Mana』です。ミラバイさんはずっと私たちを励ましました――キールタンはいつでもどこでも歌える。どんな曲でもどの神の御名を唱えてもいい。その神にまつわる物語を知らなくても問題ない。大事なのは、神の御名を唱えることによって、私たちの心に再び神聖な存在を憶えさせること。キールタンでは、何人かが陶酔するように目を閉じて歌っていました。それは神とのつながりを、その歓びを感受していたのかもしれません。

ここで、グルバイのシューシューとアヤノの感想をご紹介します!

シューシュー:
ミラバイさんの来訪をとても楽しみしていました。最近仕事のため、アーサナクラスに行けなくなって、それで心がだんだん動揺してきて、自分で制御できないほどの葛藤と苦しみを感じていました。でもミラバイさんのキールタンのおかげで、私は解放されて、もう一度平安を味わいました。目を閉じてキールタンを歌うと、ミラバイさんの歌声がまるで滝のように私の胸を急激に打ち、脳天が衝撃を受け続けました。涙も止められませんでした。最後のマントラの時、メロディを教えるためにミラバイさんが一度唱えました。その時、とても自然にミラバイさんはまず目を閉じて呼吸をしてから口を開きました。その敬虔な姿を見て、バクティ・サンガムはミラバイさんのコンサートでもなく、パフォーマンスでもない、彼女がリードされるのは私と神との会話だったのだと気付きました。今回の機会を通じて、再び先輩の力強さを感じました。これからも頑張ります!

アヤノ:
3月にヨギさんが日本に帰られた後、私は病気になったこともあって、心の中にたくさん真理に逆らうものが浮かび上がっていました。苦しんで葛藤していましたが、ミラバイさんが来られたのは、恵みの雨のようでした。
何回もミラバイさんにお会いしましたが、特に今回、ミラバイさんのお姿にヨギさんが見えるように感じました。それはいったい何なのでしょうか? 本当に知りたいです!
1回目のキールタンでは、歌を歌って心の中が歓びでいっぱいになり、ミラバイさんの笑顔と歌声からヨギさんの愛を感じました。サットサンガでは、この1カ月間の葛藤について質問をしました。その中で、あたかも他には何も存在せず、神との関係だけがここに在るように感じました。
ヨギさんは以前、「もっとグルバイと一緒に時間を過ごすように」とおっしゃったことがあります。今回ミラバイさんの来訪を通じて、実際に真理を実践している方の様子を身近に見ることができました。ミラバイさんが優しく話されるうちに、「真理を心に教える」ということがどんなことなのか、突然分かるようになりました! もし真理を頑固な心に教え込めば、私も優しい態度でみんなにヨギさんの教えを分かち合えるでしょう!
ミラバイさんは私たちのような小さなお花の世話をしてくださいました。本当にありがとうございました。また前に進めます!

この2週間、とってもハードなスケジュールをこなしてくださったミラバイさん。台湾のみんなはミラバイさんの魅力に深く惹かれました。ヨギさんやヨーガの教えを話される時のミラバイさんは揺るぎなく、明快でロジカルであり、同時に優しく広大な心をもって、全く批判せずに完全に相手の状態を受け入れ、誠心誠意、真理の言葉を与えてくださいました。また、ミラバイさんの真摯な眼差しと明るい笑みはすべてを溶かし、誰もの顔が自然に綻んでいきました。みんなはまるで子供のように不安も心配もなく、楽しくミラバイさんと交流することができました。

ミラバイさんが執筆された『真実を求めて』を開けば、ヨーガを学び始めた反抗的で頑固な女性がそこにいますが、今、目の前にいるミラバイさんの姿は美しく光り輝いています。この二人は本当に同じ人なのか!と思ってしまうくらいです。けれど、「私でも歩んでこれたので、みんなも必ずできますよ」と、ヨーガの道を歩む先輩ミラバイさんは保証してくださいました。

真実を求める道には起伏があり、うまくいかない時もあるかもしれませんが、ミラバイさんのような先輩が前を歩んでいるからこそ、私たちは安心を得て、勇気をもって前進できます。
ミラバイさんが台湾に来て、無私にヨギさんの教えと一切を分かち合ってくださって、本当に感謝の思いでいっぱいです。ありがとうございました! 次回のミラバイさんの来訪を楽しみにしています!

*速報:
今回ミラバイさんの来訪とともに、ヨギさんから台湾への祝福が届きました。クラスや読書会を行ない、グルバイたちがよく来る場所は216巷と呼ばれていましたが、ヨギさんはその場所に「Ananda Ashrama(アーナンダ アーシュラマ)」と名付けられました。その名前を受け取った時、グルバイたちはみんな感動して大歓びしました。本当に大きな贈りものを受け取りました。このアーシュラマに来る人たちが至福を感じられるように頑張ります!!
ヨギさんに心からの感謝を捧げます。

プリヤー


京都千本丸太町 暮らしのヨーガ 

あちらこちらでかわいいお花が咲いていて、見るに楽しい季節ですね〜そして世間ではゴールデンウィーク終盤!実家に帰省したり、どこかにお出かけして楽しんでいる方も多いでしょうか

さてさて、京都千本丸太町、金曜午前クラスからのお知らせです。5月より第1、3、5週の通常クラスに加え、第2、4週目にヨーガトークスを行います。アーサナを30分間行ったあと、テーマにそって日々の中のちょっとした疑問や悩みを話し合い、解決策を考えていきます。

ものごとの見方を少し変えると気持ちが楽になったり、話すことで自分の思いに気付けたり、人の話を聞いて「自分だけじゃないんだ〜!」とホッとしたり 次の日からまた頑張ろう!と思える憩いの場となればと思っています お子様連れでも参加していただけます

主婦の方を対象にしていますが、もちろん主夫の方、興味のある方、どなたでも大歓迎です

詳しい内容、お申し込みはこちらからどうぞ http://www.mahayogi.org/classes/kurashi-yoga

お待ちしています!