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この春、瞑想を始めよう! in 松山

先週末2月17日に松山ヨーガ・サークルにて2018年瞑想特別クラス7回シリーズが始まりました。少し暖かく春の気配を感じる気候になり、松山ヨーガ・サークルの前では、目を引く鮮やかなピンク色のチラシを覗き込むように読んでいる人を見かけました。

昨年まで3年間瞑想特別クラスを行なってきましたが、今年からは基礎編「瞑想を始めよう!」に戻り、一から瞑想を学んでいきます。

初回「瞑想のイロハを学ぶ!」では、瞑想していくとどうなるのか、瞑想とは何なのか、どうやって進めていけばいいのかなど、今年一年の土台となることを学び、実習しました。初めて参加する方や、もう一度基礎から学びたいという方など、40名の方が参加されました。

*写真:ヨーガや瞑想の教えをわかりやすく学び、Q&Aで理解を深めていっています。瞑想していくと・・・・

  • 心がとても静かになり、いろんな執われから解放されていきます。
  • 心は澄み渡り、日常が変わります。
  • 不思議なことに、喜びに満たされていきます。
  • 集中力がつき、いろんな物事に動じなくなっていきます。

*写真:瞑想の実習では、静かな気が会場を満たします。

今回、昨年まで3年間熱心に学んで来られた山口さんが、ご自身の実践と経験を寄稿してくださいました。毎日の実践の様子が伺え、とても参考になる内容だと思いましたので、ご紹介させていただきたいと思います。


松山 瞑想特別クラスへの参加は、今年で4年目になります。

3年前、家族や世間への義務を果たしながらヨーガに取り組んでいくことは、困難なことだと感じていたのですが、今回、基礎編の第1回目を受けて、瞑想をしていくとどうなる?の教えに「たしかに!そうなるよなぁ。」と思いました。そうなんです。この3年間「実践していきたい」の感想しかなかったのに⁉︎です。

瞑想特別クラスでは、この3年間、心の仕組み、瞑想の目的や方法、ヨーガの教えを聞き、自らの理想の生き方、そのためにどうすることが必要か考える機会とそれを実践していく勇気や励ましを直接的な言葉ではないのですが頂いてきました。

ヨーガを初めてから瞑想の対象は、「神」と決めています。でも、毎日座ることはできなかったし、時間も短いし、神への瞑想というよりは、心のおしゃべりを聞いて終わるばかりでした。それが変わるきっかけになったのは、私にとっての理想の生き方が明確になって、神への想いを強くしていきたいと神の御名を唱え、神を讃え歌うと決めて、昨年の5月から毎日、キールタン を歌ったことです。場所に応じて、声を出したり、声は出さないで、心の中で歌ったりしています。

最初は、意識的に、心がおしゃべりをはじめたら歌うように癖をつけることからしました。でも、しばらくすると、意識的にしなくても気がついたら歌うようになっていました。最近では、仕事中でも、することがない時は、神の御名と神への想いが身体に流れて、嬉しくてニヤニヤしている自分に驚くことがあります。

日常の中で神を想う時間が増えると、アーサナや瞑想で心がおしゃべりをすることがなく、心の静けさの中で行うことが少しずつ増えてきました。また、アーサナや瞑想を行うことが神を想う時間を増やしてくれる、相乗効果があると感じています。

まだはじまったばかりの実践ですが、この1年、瞑想特別クラスを通してさらに、バクティ・ヨーガを深めていきたいです。

山口正美  *写真は、御聖誕祭でキールタンを奉納する山口さんです。山口さんは松山ヨーガ・サークルでキールタンの会をサブリーダーとして運営されています。


サットサンガより プレーマ 真の愛 

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

愛とはいったい何でしょうか?

愛する人がいるとき、気持ちが高まってただその人だけを思う。昼も夜もその人が心を占めている。
強い昂奮と多幸感に支配されて、食事もいらない、眠りもしない、そして何も恐くない。
でもその幸せな状態に長く留まりたいと願う反面、現実には時間と共にその感覚は薄まり、状況が少しずつ変化するにつれ、相手に対する新鮮味がなくなり気持ちが離れていくことも。

愛は絶対のものでしょうか?
永遠の愛、本当の愛とはどんなものなのでしょうか?

先日のサットサンガで、愛とヨーガについて師が説かれました。

「ヨーガの完成、悟るべき真実というのは不滅の存在。これは二つとない唯一の存在であり、純粋意識、そして至福という歓喜です。バクティ・ヨーガの完成とはプレーマという真の愛、本当の愛です。では本当ではない愛といえば何かというと、いわゆる人間的な愛。この世俗に見られる一時的な愛。これはその陰に憎しみやら、さまざまな不完全なものをもっているからゆえに真実ではない。
だけどバクティ・ヨーガにおける愛というのは、真実の愛。これは言い換えれば献身奉仕です。他者への愛。『隣人を愛せよ』というものにも通じる献身奉仕。

この献身奉仕はカルマ・ヨーガのゴールでもある。それは同時に自由自存というラージャ・ヨーガのゴールとされている境地でもある。また、それだけが在るというギャーナ・ヨーガのゴールでもある」 

四つのヨーガで悟る真実というのは、二つとない唯一の存在。それは純粋な意識であり、至福そのもの。
何物にも依存しない自由な自己。それだけが在るという境地、そのありのままの状態で他者に献身奉仕することが至福、つまり完全な真の愛と同一した状態。
これが解脱。ヨーガの完成。
何と美しく、完全で、円満で、自由なのでしょう。

師は最後に、エゴや無知に阻まれ、不完全ながらも世俗で修行する私達弟子に希望の言葉もおっしゃられました。

質問者「真理や神に対する最高の愛、プレーマは世俗に生きる生身の人間同士の間にも発生できますか」                                                                                    (低く力強いお声で)「できますとも」

質問者「それが自由自存ということになるのですか」                                                                           「はい、そうです。」

質問者「それは肉体の制限を超えるのですか。例えば生涯の間の時間であったりとかそういうものも超えて」
(即答される)「超えます」

質問者「永続するもの」
(ハッキリとしたお声で)「はい。」

私はまた雷に撃たれました。師の御言葉がハートを貫きました。

本当の愛を、何が何でも実現したいと心に誓いました。

Caitanya


キールタン バクティ・サンガムへのお誘い

1月のバクティ・サンガムでは、これまで歌ってきたいくつかのキールタンでメドレーをしました。そして、曲と曲の間には、シュリー・ラーマクリシュナのバクティの教えを紹介しました。

クラスの中で紹介した教えを少しご紹介します。
(Mは、ラーマクリシュナの福音を書いた著者、詳しくは6つ前のブログ記事をご覧ください。師はシュリー・ラーマクリシュナ)

M「師よ、どのようにして神に心を集中したらよろしいでしょうか」

師「神の御名をとなえ、彼の栄光を歌い、よい仲間と交わり、ときどき神の信者やサードゥたちを訪れなさい。心は、日夜世俗のこと、つまり世間の務めや責任に没頭していたのでは神を思うことはできない。時々人気を離れたところに行って神を思うことが最も必要である」

M「神を見ることはできるのでしょうか」

師「できるとも。時々一人で暮らし、神の御名をとなえ、彼の栄光を歌い、そして実在と非実在を識別する、これが神を見るために用いられる方法だ」

M「どのような状態で、人は神を見るのでございますか?」

師「強烈な渇仰の心で主に泣きつくのだ。そうすれば必ず彼を見る。人々は妻子のために水差し一杯ほどの涙を流す。金のためには涙の中を泳ぐ。しかし、誰が神を求めて泣くのか。本当に泣いて、彼に泣きつきなさい」

この問答は、Mが初めて師を訪れたときのものです。その後聖者となったMも、かつては私達と同じ様に「どのようにして神に心を集中したらよいか」と思っていたのですね。とても親近感が湧きました。Mも実践したであろう、シュリー・ラーマクリシュナの教えを私も実践しようという気持ちになります。

さて、シュリー・ラーマクリシュナの教えに二度も出てきた「神の御名をとなえ、彼の栄光を歌う・・・」これはまさしくキールタンを歌うことではないでしょうか!!

そして「よい仲間と交わり、神の信者を訪れる・・・」これはまさにバクティ・サンガムに参加することではないでしょうか!!!

ということで、Mのように神に心を集中させたい方、信仰を深めたい方はぜひぜひバクティ・サンガムにご参加ください。2月もメドレーを行います!!大阪は2月9日(金)19時〜、京都は25日(日)16時45分〜、詳しくはWebでご確認ください。


2/23ヨーガのイベント開催@スポーツミツハシ

まだまだ寒さが続きそうな2月、スポーツミツハシ 京都ブラウニーのイベントにてヨーガのクラスを行なわせていただくことになりました!
お店は烏丸御池のスタジオからもすぐ近く。実は年末に立ち寄らせていただいた際、店長さんはじめお店の方がとっても明るく気さくな方で、ワークショップのちらしも快く置いてくださり(感謝!)、今回のご縁もいただきました。

寒い季節を元気に過ごすため、体を温められるように、ということで、内から全身を活性化し、浄化の熱を高めていけるような体感をしていただけたらなあと考えています!
真冬に、ただひたすら自分の呼吸を見つめ、集中してアーサナ(ポーズ)をした後、体が芯からホコホコしていて、冷たい外の風にあたっても縮こまることなく、平然と清々しい気持ちでいられるような感覚になることがあります。
ヨーガを実践していくと、体も強くしなやかになりますが、精神面においても強靭になり、暑さ・寒さ、快適・不快、好き・嫌いといった、自分の枠を超えることができるといわれています。そのような、ぜひ身につけたい!ヨーガの力についてもお伝えできればと思います。

アーサナの後は、今多くの関心が集まっている瞑想も行ないます。
初心者の方も大歓迎! 月末金曜日、プレミアムフライデーのお仕事帰りにぜひいらしてください〜!

日時:2018年2月23日(金)19:00~20:30
会場:ミツハシ 京都ブラウニー HOUSE B店内(柳馬場御池通北西)
参加費:1,000円
お問い合わせ・お申し込み:075-221-3284(ミツハシ京都ブラウニー)
*メンバーズ様限定 当日モバイル入会OK(入会金300円)
主催:スポーツミツハシ 京都ブラウニー


サットサンガより カルマ・ヨーガ

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

 

みなさん、こんにちは
新しい年も明けましたね。今年の目標はもう立てられましたか?目的意識をもって生きるということが私たちの人生にとって、ものすごく大切なことなのだということもヨーガで学びました。その目標に向かって今年も精進していきましょう。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて、年明けのサットサンガではカルマ・ヨーガについての質問がありました。ヨーガは、この世の本当のこと、真実を実現するためのものですが、スワミ・ヴィヴェーカーナンダというインドの聖人は、ヨーガの実践方法には四種類あると説かれています。まずカルマ・ヨーガ、それは働きのヨーガといわれ、働きの秘訣を学び、真実を実現するヨーガです。そしてギャーナ・ヨーガとは知識のヨーガ、ラージャ・ヨーガとは身体や心を使う王道のヨーガ、バクティ・ヨーガとは信愛のヨーガです。
そして、私たちは過去の原因となるものの結果を必ずむかえるという、カルマの法則に支配されていますが、もともとのそのカルマの原因となるものを無くしていって、そのカルマに翻弄されないようにしようというのが、カルマの消化ということになります。

質問者カルマを消化するということについてなんですけど、瞑想の中でカルマを消化することができない場合、カルマヨーガとい手段でもって行なっていくなら良くないカルマも恐れることはない、前に前に進んでいけば、良くない願望でも軌道修正されてそれがいい願望に変わるといにヴィヴェーカーナンダの本に書いてあったんですギャーナヨーガとかラージャヨーガで瞑想してカルマを消化するといことは未来に対してのカルマを無くしてしまといことですよねそしたらカルマヨーガの中で経験しながらカルマを消化するといのは結局苦悩を味わいながら軌道修正して消化するといことなので徹底さといところからみたらカルマヨーガの方が低い感じの印象を受けるんですけれどもなんでしょ
ヨギ高い、低いの区別はないですけれどもねヴィヴェーカーナンダがいっているカルマヨーガといのは単に自分の義務を果たすといだけの劣位のカルマヨーガのみならず少し積極的な他者への奉仕的な、献身奉仕を踏まえながらカルマヨーガとい言葉を使っているよな気がするんです
すると他者への献身奉仕といのはもとよりエゴとかそ煩悩を少なくともその行為の時には無いよにしておかなければできないことですよねだからこそ実際的行為を伴ってカルマヨーガをすれば内面のカルマも落ちていく無くなっていくまたその根源である無知、煩悩も薄らいで無くなっていくとい教えだと思います
ギャーナヨーガとラージャヨーガといのは確かに瞑想の中でカルマやそのカルマの原因を識別していくことなんですけれどねそれはある意味、心の中で行なわけですよねだからそれと心といのは非常に深い領域をもっているのでそんなに簡単に無知と煩悩がそっくり無くなるとい話ではないやっぱりそれなりのものすごい闘いの熾烈さがあるのは事実ですだからそれをやってのけられるにはそれなりの資質と状況がラージャヨーガとかギャーナヨーガといのは求められるその点カルマヨーガといのは誰もが日常の中で行なことができるいったやりやすさといものもそこにありますねそんなところを踏まえながら彼はより多くの人に具体的なアプローチ方法としてそ教えを述べたんだと思います

師は優位のカルマ・ヨーガとして、他者への献身奉仕を積極的に行なっていきなさいと教えてくださっています。

私は、常に他者のために善き思いをもち、善き行為をするという献身奉仕の働きにより、次第に自分のことが後回しになって、それが自分のエゴや煩悩を無くしていくことにつながるのだと気付かされました。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは「カルマ・ヨーガ」の中で、こういわれています。

心の表面を動いている善い思い、善い印象の不断の反映によって、善をなそうという傾向は強くなり、その結果、我々はインドリアス(内的感覚器官、神経中枢)を制御できることを感じます。こうなって初めて性格は確立し、その時に初めて人は真理に到達するのです。

優位のカルマ・ヨーガは、私たちのライフワークになっていくのだと思いました。

ダルミニー


ラジオ出演

つい先日三条ラジオカフェにて『新春!アーサナ瞑想ワークショップ』のご案内をさせて頂きました〜!

 

ご予約まだまだ受付中です!!!よろしくお願いします〜。

(詳しい案内、ご予約はこちらまで)

アマラー

 

 

 


新春!ヨーガと瞑想のワークショップ

皆様明けましておめでとうございます!

のんびりお正月モードからそろそろ通常の生活に戻られた方も多いのではないでしょうか。明日7日は無病息災を願い、七草がゆを頂く日ですね。七草がゆはお正月で食べ過ぎて疲れた胃腸を調えてくれる効果があると言われているそうですが、ヨーガのアーサナと瞑想は七草がゆと比較できないほど私たちのコンディションを調えてくれる強〜い見方です。

先ほどの話のように去年の忘年会、お正月の食べ過ぎ&飲み過ぎた身体をリセットしたいという方、寒くて鬱々する心を切り換えたいという方、何か新しく始めたいと思っている方、ヨーガや瞑想に興味がある方、そんな方々に朗報です!

 新春より京都市(烏丸御池・千本丸太町・下鴨)3カ所のクラスにて『2回で学べるヨーガと瞑想のワークショップ』を開催します。

どんなワークショップなのかちょこっと説明しますと・・・まずは瞑想に座るためのアーサナ(身体と呼吸、心のコンディションを調える)を何ポーズかゆっくりとしたペースで行い、内的な効果や正しい形のポイントをお伝えします。そして、瞑想。瞑想とは何か?というところから座り方や手の置き方、集中の方法などをお伝えし、実際に座る形も行っていきます。このように2回に渡ってヨーガのアーサナと瞑想の基礎を丁寧に学んで頂ける充実した内容となっています。

 各クラスの日程はこちらです↓

千本丸太町 1日目 1/19(金) 2日目 1/26(金) 10:00〜11:30

烏丸御池  1日目 1/21(日) 2日目 2/4(日) 14:15〜15:45  

下鴨    1日目 1/28(日) 2日目 2/4(日) 10:00〜11:30

詳しい内容、ご予約はこちらをクリックして下さい。

 

さてさて、余談ではありますが新しい試みとして、今回このワークショップのお知らせをラジオの電波に乗せてお届けすることにしました〜。ダルミニーと私アマラーがチャキチャキ漫才風?でお送りさせて頂きますのでお時間があったらぜひ聴いてください!

FM79.7MHz京都三条ラジオカフェ(1分間ワンコインメッセージの枠です)

1回目放送:1月12日(金)13:30〜

2回目放送:1月16日(火)19:30〜 事情により12日のみとなりました。1月9日ヨーガと瞑想のワークショップ

アマラー

 


直伝クラスでの経験

ヨギさんの眼差し、声、長い足で颯爽と歩かれる時にそよぐ風。あまりにも魅力的で釘付けになってしまう。むっつりスケベの私にとって、ヨギさんを間近に感じながらアーサナによって内面でヨギさんに触れようとすることは、誰にも知られない神との密会のようで、とてもドキドキワクワクすることです。

私は腕が生まれつき曲がっています。10年くらいアーサナをしていますが、左右とも真っ直ぐには伸びきらず、アーサナの種類によってはできないだろう・・・と半ば諦めに近いポーズがいくつかありました。

ところが・・・ヨギさんのクラスに出始めて異変が起きたのです。
クラスが始まった頃、ヨギさんが口頭でアーサナのポイントを説明され、その言葉をもとに形を作っていきました。完成ポーズの保持時間が長く肘が曲がっていて苦手と感じるアーサナ(ヨーガ・ムドラー、チャクラ・アーサナ)のとき、心が悲鳴をあげてもがくような感じでも、ヨギさんと同じ空間にいる嬉しさの方がいつの間にか勝り、クラスに通うごとに肩関節の可動域が広がっていきました。

組んでいる手が中途半端にしか上がらずプルプルして死にそうだったヨーガ・ムドラーは、肩関節の可動域が広がったお陰で肩先を広げ、両側の肩甲骨を背中の中央に引き寄せる感覚を身につけることができ、組んでいる手が頭の方に楽に近づけるようになりました。今まで以上に深い形で呼吸に集中することができるようになり、ポーズを戻した時のプラーナの流れは激流のように感じられ、心が一気に静まり満たされる感覚を覚えました。

またチャクラ・アーサナは背中の肩口あたりに集中すると、長い保持時間の間、できる範囲で腕をしっかりと伸ばし、肩口のところに集中点をもってきてハートをヨギさんの方に向けていると、気付いたら腕で支えるのではなく、背骨で支えて保持する感覚が分かるようになってきました。

肘が曲がっているからできないという思いはいつの間にか消え、むしろするのが楽しみなアーサナになりました。

ある時、瞑想が終わりシャヴァ・アーサナをした時のこと。「はい、起きて」と言われたヨギさんの声が、ヨギさんが座られているところからも、自分の胸の中からも、両方から響き渡って聞こえてきました。びっくりしたのですが、それはとても当たり前のことのような感じがして安心しました。

『いつも私はみんなの中にいます』

ヨギさんの言葉が浮かびました。

どこにいてもヨギさんがいてくださることを胸に、もっとそれを味わえるように日々サーダナに取り組んでいきたいと思います。

 

アマラー


淡味を知る さまらさの台所 12月

12月10日((日)に今年最後のさまらさの台所がありました。今回のテーマは「淡味を知る」ーー淡味とは素材の持ち味が生かされており、間の抜けた薄味でも、素材の持ち味が損なわれている濃い味でもない味付けのことです。しかし、味覚は習慣によって作られるので、普段自分が食べているものが濃い味なのか薄味なのか、淡味なのか、自分自身で判断することは難しいところでもあります。

今回の台所では、淡味を知るためにお出汁を使って、ある実験をしました。
昆布出汁に調味料を加えず、まずは素材の味をみんなで確認しました。昆布出汁は昆布を水に浸けている時間にもよりますが、そのままでも昆布の優しい味わいがあり、香りもあります。次に塩を少々加えました。すると塩味がするというのではなく、先ほど感じた昆布の味が突然味わい深いものになり、香りもより引き立ちました。次に薄口醤油をほんの少し加えました。すると体に染み渡る美味しさになりました。お吸い物の出来上がりですね。

このように淡味を知るためには、まずは素材そのものの味を知ることも大切です。素材の味を損なわないように、むしろより美味しさが引き立つように調味料を使う。さまらさでは、調味料は素材の味を引き出すために使うものだと考えています。決して調味料の味で食事をするのではないのです。

今回作った筑前煮やかぶの煮物もそれぞれの野菜の味がしっかりと味わえました。
    

節度ある食生活を心がけていくことは、行為や考え方にまで反映されます。ヨーガでは舌と心は非常に密接に関係していると言われ、習慣的に味の濃いもの、辛いもの、甘いものなど、欲求のままに食べているとそれらに依存し、それらがなくてはならなくなります。また体調の不調和を招き、心は依存を強めると言われます。味覚が習慣に頼っているのなら、素材の味を知り、淡味を味わうことが新しい習慣になることが望ましいですね。そうすることで、体調が整うのはもちろんのこと、心の依存を無くし、心を強くしていくことができると思います。日々の食生活を通しても心を整える術があります。

dav

 


サットサンガより ブッダの悟り

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

みなさん こんにちは
十二月になりましたね、十二月のことを「しわす」と言いますが、その意味と由来は定かではないそうです。十二月は年が果てる、年果つ、しはす、しわすになったという説もあるそうです。師も走る、師走といわれていますが、私たちの師はいつも泰然とされていますので、本当の意味はどうなのだろうと思ってしまいます。
さて前回のブログにもありましたが、十二月八日はブッダが悟りを啓かれた日でもあるというわけで、今回のサットサンガはブッダについての教えが多くありました。

質問者がブッダの説いた、弦は張りすぎても緩みすぎてもいい音は鳴らないというふうに、弦に例えられる中庸の教えについてふれた時のことです。

師「ブッダが言うところの弦の張り具合というチューニングは、当時行なわれていた一般的な修行、一方には苦行というものがあり、もう一方では犠牲供養という快楽的なものもあり、そのどちらでもない、中道の在り方がある、それは苦行のように身体を痛めつけることではなく、健康な身体と健全な心を養いながら、その中でこそ正しい瞑想が行なわれるということを諭した言葉なんです。中庸、中道といわれるところ、まさしくそれがヨーガの道でもあるわけです。
でも、悟りへのあるいは神への願望というのは強烈でなければならない。また純粋にそれを保っていかなければならない。悟りや神に心が全面的に委ねられてしまえば、四六時中、座っていようが立っていようが、何かをしていようが、いつも神への憧れや悟りへの煮えたぎるような思いがやってきます」

師「ブッダは、当時シッダールタといわれていた時代に六年間の苦行を行なっています。当時は苦行という体系が当たり前のように蔓延していたと思われるので、シッダールタもそれを試み、しかも語られるところによれば、過去にも未来にも現代にも、その当時にも、匹敵する者はないほどの苦行を行なった。
けれども悟れなかった、ということを実証したんです。それで棄てた。
伝説に語られるところによれば、衰弱して骨と皮のような状態になった身体をスジャータという娘のくれた乳粥で身体を回復していくわけです。そこに健全な心の境地というか、そういう閃きが生まれたんだと思う。そして静かに菩提樹の下に座って、そうして悟りを得たと、それが十二月八日のことであったということになります。ブッダは必死に可能な限りの苦行を自らに課せたと語られています」 

師が教えられる煮えたぎるような思いとは、例えばそれはシュリー・ラーマクリシュナが神を見ることができないのであれば、その喉をかき切って死んでしまおうとした思いと同じ。そして例えばそれは慧可が弟子入りを乞うため、達磨大師に切り落とした自分の腕を差し出した思いと同じ。例えばそれは明恵上人が世俗にまみえることなく仏道の志を貫くため、自分の耳をそぎ落とした思いと同じ。身命を顧みない、真実の実現のためへの執念と同じなのだと思いました。 

ブッダの凄まじいまでの悟りへの執念、煮えたぎるような思い、ブッダを語られた師のお言葉が、そこにいる求道者たちのハートに火を付け、燃え上がらせたのを私は感じ、胸が熱くなるのでした。

私たちの心にも、その煮えたぎるような思いがやってきますように。
来年もさらなる飛躍の年となりますように。

ダルミニー