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歓喜の春の祝祭! サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー!

2017年4月8日(土)、偉大な主ブッダのご聖誕日に、マハーヨーギー・ミッション主催、
第1回 サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー -神性示現大祭-
が開催されました。

美しい桜の花に包まれたプレーマ・アーシュラマ*には、日本各地、そして遠くはニューヨークと台湾から大勢の人々が歓びを胸に集まり、永遠の真理(サナータナ・ダルマ)と主ブッダを始めとするアヴァターラ(神の化身)のご聖誕を歓び、感謝と誓いを捧げました。
*昨年5月に開設されたプレーマ・アーシュラマは、京都市右京区龍安寺にあります。


きぬかけの路から仁和寺の横を通ってゆるやかな坂道を登っていくと、会場のプレーマ・アーシュラマに到着します。途中、咲き誇る桜の花に包まれます!お二人様ご到着。この日は、仁和寺山門に集合し、散策をしながら団体で来られた人も多くいました。皆歓びを胸に集まってきました。


プレーマ・アーシュラマ全景。アーシュラマと呼ばれるにふさわしい品格を備えています。この日は、洒落た数寄屋造りの門の前にサハスラーラの旗が翻っていました。受付には10人の神の化身が皆を迎えてくださいました。この絵は、20年近く前に弟子の一人が描いたものです。


たくさんの人々で溢れかえってきました。皆笑顔一杯です!台湾からも5人のグルバイ(兄弟姉妹弟子)が駆けつけました。


2階のベランダからは京都市内が一望でき、京都タワーも見えます!桜も美しい!


玄関を入ると、庭に咲いていたサンシュユ(春黄金花)と極楽鳥が出迎えてくれます。外の桜の花にも負けない見事な生け花です!


生演奏の素晴らしい調べが会場を包みます。ハートの奥から喜びが湧いてくるようです!

歓喜に始まり、歓喜に包まれ、歓喜が溢れ出した歓びの祝祭になりました!

一輪の花の中にも真理はあると師は言われます。人の中にも、あらゆるものの中に唯一なる永遠の存在がある。名前も形もない存在だけれど、それだけが在り、その唯一なるものが万物として顕現している!しかし、無知というものがやってきて、人はそれを忘れてしまいます。

アヴァターラは、100%真実そのものが人の形となって顕れた存在です。

真理が衰え、非真理が起こるとき、私は常に自らを顕す。善き人々を救い、悪しき人々をなくすため、そして真理を確かなものとするために、私は時代ごとに現れる。

この主クリシュナの宣言の通り、世が乱れ、真理が忘れ去られようとするとき、アヴァターラたちは地上に降り立ち、人々を救済し、永遠の真理へと導いてきたと言われています。

この日は、ヨーガの伝統の中で登場した主ブッダを始めとするアヴァターラ*について思いを馳せながら、最愛の師、シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサの存在と使命を改めて思い起こし、弟子たちの祝辞を捧げました。*主クリシュナ、シュリー・ラーマクリシュナ、ババジ、ラマナ・マハリシ

日頃から熱心にヨーガを実践し、サナータナ・ダルマを行為し続けるヨーギニー、ヨーギーたちの純粋な志に触れ、歓喜が渦巻くように高まり、参加された方は、大いに笑い、大いに泣き、大いに歓喜しました!本当に稀に見る、歓びの祝祭となりました!


吉祥なこの日に発行された『ヨーガの福音』と祝祭の記念品が奉納され、披露されました。師の珠玉の教えが記された美しい装丁の聖なる書籍に魅了され、そしてサプライズの記念品には大いに沸き立ちました!『ヨーガの福音』については、Webサイトでもご注文いただけます。

少しでも当日の様子をお伝えできていれば嬉しいのですが、詳細な内容は、機関誌『パラマハンサ』5月号にてご報告させていただきます。

ありがとうございました。

最愛の師とすべてのアヴァターラに、そしてご参加された皆様、ご賛同くださった皆様に、心より感謝を申し上げます。

ジャイ サナータナ・ダルマ アヴァターラ キ ジャイ!!!

サーナンダ拝


もうすぐ……

4月8日に第一回、神性示現大祭ーサナータナ・ダルマ アヴァター メーラが開催されます。

いったいどんな大祭になるのか、今からとてもとても楽しみです。
そんな私ですが、実はこの大祭が開催されると聞いた時は、あまりピンと来ず、何をお祝いするのかな〜と思っていました。「サナータナ・ダルマ——永遠の真理」という言葉はヨーガの教えの中で何度も聞いています。でも言葉を知っているだけで、それが何で、今の私とどう関係しているのか、そのことをしっかり考えたことがなかったのかもしれません。

先日ヨーガのクラスを受けていた時にふと感じたことがありました。

毎週クラスに通い、ヨーガをしていることがあたかも当たり前のようになってきているけれど、ヨーガを始める前の私と今の私を比べてみれば、まったく違う人間になっている、何を軸に、何を最も中心にして生きているかということを見ればそれはあきらかだと思いました。その自分を貫いているものとは、ヨーガです。そして言葉は違いますが、それこそが「サナータナ・ダルマ——永遠の真理」なのだと気がついたのです。
それと同時に当たり前のようにその現実の中にいるけれど、それは当たり前のことではなく、本当に本当に希有で吉祥なことだと感じたのです。

永遠の真理は、永遠というからには、なくなることはなく、これまでにもずっとあり、これからも永遠にあり続けるもの。こちらが気付かなくても、それはあり続ける。そしてそれがあり続けているからこそ出会うことができる。

でも見えない真理をどうやって知ることができたのか……

それは不滅の真理を具現化したアヴァターラたちが時代時代に現れ、見えない真理を私たちの分かる形で生きてくださったからではないでしょうか……そう思うとこれまで生きて、永遠の真理を伝えてくださったすべてのアヴァターラに感謝する気持ちが胸の内から自然と溢れ出てきました。

その感謝の気持ちとそれを知った歓びを、今、一緒にヨーガをしている仲間と捧げることができるなんて!!!何と喜ばしいことなのでしょうか。
永遠の真理とそれを具現化したアヴァターラたちに思いを馳せ、大祭が来る日を心待ちにしています。
御室仁和寺の桜


京都・春の瞑想1日ワークショップ

瞑想専科
京都瞑想専科の風景。キャンパスプラザ京都の和室は都会の中の落ち着いた空間です。

始めの頃は5分と座るのが苦痛だったのに、いつの間にか、10分、15分、30分と座れていくものですね。不思議な事です。

眠くなることも、雑念に終止することもなく、心は落ち着きを取り戻し、集中していきます。

毎日の積み重ねです。

ヨーガの精密な心のカラクリや神秘的な生理学、人間らしい生き方や理想についての教えも、最初はよくわからなかったものが、だんだんと慣れていって、わかってくるのも不思議な事です。

10月から始まった京都瞑想専科第1期は、今週3月30日に終わります。半年間共に学ぶと、気が通い合うようになることも不思議な事です。

でも、不思議な事ですが、普通の事のようにも思います。習うより慣れろですね。

第2期は、「日常を変えていく」をテーマに、日常生活の中での様々な疑問や課題を通して、瞑想を深め、心と行動を調えていく内容にしていきたいと思います。生活=生きるというところに、瞑想の秘訣があるように感じます。命の働きを知るということでしょうか。

心が変われば日常が変わり、生命の神秘を感じるようになっていくのだから、何とも不思議な事です。

4月23日には、瞑想1日ワークショップがあります。気軽に瞑想を体験してみましょう!

サーナンダ


ヨーガの秘訣・大阪編・・・ヴィヴェーカーナンダの詩

めっちゃ忙しい人がどうやって日常でヨーガを行なっていくのか。
その実践的秘訣を、大阪で家事に仕事に忙しくしながら、プレーマヨーガサークルをされているスディーティが寄稿してくれました。


この数年、私の周囲は何だか忙しい。それは、今までの生活を突然大きく変える必要に迫られるようなことでもあり、一般的に言えば「次から次へと大変やね~」みたいな状況でした。実際、もし自分がヨーガに出会っていなければ、いちいち大パニックになって悲劇のヒロイン気取りになっていたかもしれません。
そう、その時、確かに私はヨーギニーとして、やってくる出来事を淡々と受け止め、その時最善と思われる方針を決め、一つひとつ行動に移していったのです。すると、色々と困難なことが起こっているとは思えないほどスムーズに事が運び、「は~、ヨーガのお陰やわ。私も結構成長してるやん~!」といい気になっていました。

しかし!出来事を受け止めて方針を決めるのと、実際に一つひとつ実践していくのは大違いなのです。「ちょっと~!わかってたけど、やってみたらめっちゃ大変や~ん」なのです。まず時間がない、家族は色々と問題を起こしてくれる、慣れない仕事では自分の無能さに改めて気づかされる、毎日へとへとになって1日を終えることで精一杯と感じていました。いつも何となくイライラして不機嫌で、アーシュラマでヨギさんにお会いできる時だけがすべてを忘れ満たされている時間でした。ヨギさんは、いつも私たちと一緒にいると言ってくださっているし、それが真実だと分かってはいるけれど、その時の私はそれを感じることができず、「余裕がないんです!もう目いっぱいなんです!」と叫び出したくなるときが度々ありました。

それでも私がヨーガから離れてしまわずに済んだのは、一つには〝プレーマヨーガサークル〟があったからです。私には、サークルに来られる方にヨギさんのお言葉を間違いなくお伝えする責任があったし、何よりそこには仲間がいました。心おきなくヨーガの話ができる仲間との時間は、私にとって大きな支えとなりました。元々は一人でも多くの人の助けになるためにヨーガをお伝えしなくては!という思いで始めたサークルでしたが、助けられているのは私のほうだったのです。

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プレーマヨーガサークルでのバクティ・サンガムの様子

もう一つには、グルバイである先輩ヨーギー・ヨーギニーの存在がありました。先輩たちに私の状態を話すことはなかったし、頻繁にお会いできるわけではなかったけれど、知ってか知らずか、いつも少しの会話の中に〝はっと〟させられることが何度もありました。また、何も会話をすることがなくても、直接お会いするわけではなくても、その在り方を見るだけで心がリセットされまた新たな気持ちでやり直そうと思わせてくれる存在でもありました。

そして、上の二つの理由にも増して大きな一つが、師であるヨギさんの存在です。
私は、ヨギさんにお会いして弟子にしていただいて以来、ただひたすらヨギさんの喜ばれる様子が見たくて熱心にヨーガに取り組んできました。ヨギさんが最も喜ばれること、それは私たちが〝本当の自分に目覚める〟こと。そのために、ヨギさんが私に言われたことは「常に神を思う」ということです。それは私にとっては本当に進みやすい道で、いつも胸の奥のヨギさんを基準に物事を決断し、歩んできました。ヨギさんの弟子であるということは、私はヨギさんのものであるということだと思いました。ヨギさんのものである私の面倒はすべてヨギさんが見てくださっているのだから、何がやってこようとそれは私にとって必要なことだし、そのことについて私は何一つ余計なことを考える必要なんてない。ただその時その時最善を尽くせばよい。その考えは私を強くし、目の前で起きる出来事に振り回されることなく進んでくることができたのです。それがどうでしょう!ここ数年、押し寄せてくる出来事に踏ん張りがきかず、たった一つのことさえままならなくなっていたのです。それは本当に苦しい時間でした。ヨギさんにお会いしたい!と思う反面、今の自分ではヨギさんを喜ばせることができない……という思いが湧いてきて、お会いすることをためらう自分がありました。

そんな悶々とした時間を過ごしていたある頃、私にとって大きな出来事が起こりました。それは、私がヨギさんのものとして相応しく生きているかどうかを問われるような出来事でした。その時も、私が自分自身の行く末を心配する気持ちは少しも起きなかったのですが、その問題を起こした人に対してどう対応すればよいか、その対処の仕方を間違えてしまえばその人の今後に大きな影響を与えるかもしれない、という思いもあり本当にどうしていいかわからず途方に暮れました。最初は腹立ちや悲しみのような感情もあり、数日間そのことが頭から離れず、「ヨギさんのものとして相応しくあれますように」と祈りながら、必死でヨギさんに問いかけ、すがり、答えを待っていました。

すると2日後、急に「みんな苦しんでいるんだ」という思いがやってきました。それと同時に、ヨギさんならこの人たちの暗闇に光を投げかけてあげることができるのに、私はヨギさんの弟子でありながらこんなに近くにいる人たちを助けてあげることもできないんだ!という事実に気づかされたのです。それは言い換えれば、一刻も早く苦しんでいるこの人たちのために、私はヨギさんと一つにならなければならない、ということなのです。一刻の猶予もない!という焦りを感じ、自分のことを情けないと思っている時間さえないのだと思いました。
そうして改めて気づいたことは、ヨギさんは「〝常に〟神を思いなさい」と言われたということ。〝常に〟はあくまで〝常に〟であって、〝できる範囲で〟とか〝都合の良いときだけ〟ではないのです。そうして振り返ると、今までの自分は熱心に実践しているようでいて、隙だらけだということにも改めて気づいたのです。もっと隙なく、もっと注意深く、もっとやれる……と。

それ以後も私の状況は特に変わることなく、むしろ叫びだしたくなっていた頃より忙しくなり、周囲の人たちも相変わらず問題を起こしてはくれますが、それらのことは以前のように私を苦しめる力を失ったようです。そんなことよりも、私は周囲の人たちの苦しみを取り除くために、一刻も早くヨギさんと一つになり、ヨギさんを愛するように、ヨギさんが私たちを愛してくださるように、この人たちを愛したいのです。

われ汝について何も知らず
知れるはただ われ汝を愛すということのみ
汝は美し おぉ 汝は美し!
汝は美そのものなり

おぉ 愛しき者
汝の唇のひとつのくちづけよ!
汝のくちづけを受けし者は
汝を慕う心 とこしえにいやまさん!
すべての悲しみは消え
来し方
今 行く末を忘れて ただ汝のみを思う

誰が救いを願わん
誰が救わるることを願わん
解脱をも誰が願わん
われ富を欲せず 健康さえも欲せず
われ美しからんとも 賢からんとも願わず
数多度(あまたたび)生まれさせ給え
この世の諸々の悪の只中に
われつぶやくことなからん
ただわれをして汝を愛させ給え
愛のための愛もて

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ
『愛の叡智』より

この詩は、5年ほど前にミラバイさんがスワーミー・ヴィヴェーカーナンダの美しい写真と共にカードにしてくださったものです。それ以来、毎日仕事に出かける前にこの詩を唱えています。最初はその美しい詩を唱えることで心を静めようとしたのか、集中させるために行なっていたのか、はっきりと覚えてはいないのですが、いつの頃からかこの詩は私の生きる理想になっていました。「どうか、こうして外から内に向かってこの詩を唱えるのではなく、止めようとしても内から溢れ出す私の言葉となりますように!」と。
そして、今、また新たに強く決意するのです。それを遠くない未来に必ず実現するのだと。

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スディーティ


松山ヨーガ・サークル 瞑想特別クラス7回シリーズ

3月20日は春分の日でしたね!松山ヨーガ・サークルのアーナンディーです。

松山ヨーガ・サークルでの瞑想特別クラスも3年目を迎え、今年はヨーギーの生き方に学ぶ7回シリーズが2月から始まり、3月18日に2回目がありました。講師はサーナンダさんです。
今回は34名(男8名、女26名、初参加5名)の方が参加されました!
サーナンダさんが「来週は春分の日ですね。昼と夜のバランスがとれているので瞑想しやすい季節です。この頃からヨーガを始めると成就するといわれています」と優しく柔らかい声で話された時、まるで会場に春が呼び込まれたように一気に和やかな雰囲気になり参加者の皆さんが希望で胸が満たされたのが伝わってくるようでした。

瞑想 (1)
おさらいで瞑想の基本を教わり皆で10分ほど座ります。

瞑想のあと、いよいよ本日のテーマ「無執着の生き方」の本題に入っていきます。
全部ご紹介したくてムズムズするほど本当に面白い内容だったので長くなってすみません!
要点としては
1、 ヨーガの極意は執らわれないこと
2、 無執着の秘訣
3、 ヨーギーの日常
という流れでヨーギーの生き方をわかりやすく紹介してくださいました。

最初の導入としてサーナンダさんは十八番のシュークリームを事例に話されました。
「たとえばシュークリームに執着するということは自分がシュークリームの奴隷になっているようなもの。そんな人生、嫌ですよね(笑)しかもたとえばカスタードクリーム系にこだわりがあるとします。するとカスタードクリーム系シュークリームしか食べられなくなる!不自由だと思いませんか?美味しいスイーツがたくさんあるのに、それしか食べられないなんて。なぜ、それにこだわるかというと、たいしたきっかけではないんですね。たとえば好きな人が生クリームとカスタードクリームのダブルシュークリームが好きって言ったらすぐに変わるでしょ?(皆爆笑)そうやって心って変わっていく。こだわりがある方がかっこいいと思いがちですが、心がこれが美味しいと幻想のように執らわれているんです。執らわれ=不自由です。でもヨーギーは執らわれがないから、空っぽで自由自在。何でもできるし何もしないでもいられる。シュークリームを趣味や仕事や考え方、生き方などに置き換えてみればいいのですが、いずれにしても執らわれが自分を不自由にしているのかもしれません。
では、意見や志は必要ないのかというと、自分の意見や志は大いにもつべき。ただ、こだわらないだけです。そうすると違う意見や志も尊重することができる。自分の意見も大事にするけれど、他の人の意見も大切にできる」

サーナンダさんはさらに、よくある日常的な事例として、嫉妬、卑屈、思い込み、過去の記憶など心を乱すものがどのような執らわれによって起こるのか、そしてヨーギーのあり方はどうなのかをひとつひとつ話されました。
最初はシュークリームの事例で他人事のように大笑いしていた皆さんもだんだん、ああ、こんなにも執らわれていたのかと気付かされ、次第に真剣な質問がたくさん続き、サーナンダさんの明快なお答えに唸ったり、考え込んだりしました。

私がとても印象に残ったのはサーナンダさんの次の言葉です。

「無執着の別名は無一物(むいちもつ)です。腹の中に一物もない。腹=心のこと。先ほどの嫉妬などの事例は腹に一物があるということですね。いろんなものが何にもなくなった時が無一物です」そして終盤に話された次の言葉です!「空っぽじゃないといけない世界があるんです。一物をもっていると真理にたどりつけない。物にしても考えにしても、悩みにしても、何かに執らわれていては見失ってしまう。真理は無限の喜びといわれます。ハートに無限の喜びがある人は何にも執らわれないのでしょう」

このように誰もがヨーギーの生き方に理想を抱き、憧れをもって近づけるように励ましてくださいました。参加者の皆さんの声を少しご紹介します。

  • 心のあり方としての無執着について事例をあげていただき、より具体的に理解できた。そもそも条件付きで物事をみてそこに価値を見ていた。真理に沿った心のあり方、無執着に向かってサットヴァ(軽快)になっていきたい。
  • 自分自身、レッテルを貼る。感想を持つ。違いに執らわれる・・・すべて当てはまり茫然自失。でもブッダの憂いを離れた境地に瞑想するというのを今日初めてやってみたところ少しだけ感じられた気がして心地よかった。

サットサンガ
翌日のサットサンガも大変充実した時間で「理想を明確にするには?」「謙虚について」「依存から抜け出したい」など実践に基づいた熱意のある質問ばかりでした。
土曜日の講座と関係する質問でサーナンダさんのお答えで印象的だったものをひとつだけ紹介します。昨日の講座を聞いて、違いに執らわれないということは何となくわかるが、実際なかなか思うようにいかず、いつも執らわれてしまい、全然変わらない。どうすればいいのかという真剣な質問者の問いに対して、サーナンダさんは少し考えられ、次のように話されました。

「本当にカルマの力って強いんです。ヨーガを始めた最初の頃や、聖者にお会いした時、大きな衝撃を心が受けてカルマの力が弱まるということが起こります。やっていけそうな気がします。でも放っておくとカルマの力がまた盛り返してくるかもしれない。心が円柱だとしたら、日常で顕在している心は円柱の上の部分だけですが、心の大部分は潜在下にあると言われています。1回や2回教えを聞いて頭では理解できても、それは表層部分の話で、心は潜在下では全然納得しておらず、カルマの影響を受け続けているかもしれません。少しばかり瞑想しても、心全体をすぐさま変えることは難しいのです。だから繰り返し繰り返し理解を育んで実践して体得していく必要があります。しかしそれでも、潜在下ではカルマの掃除が進んでいるんですよ。それが自覚できるほど表層に変化が表れるには少し時間がかかります。
今はまだ変化していないように感じるかもしれませんが、実践していけば、いつの間にか執らわれはなくなっていきます」

サーナンダさんの謙虚さと誠実さを感じた濃密な2日間。そこには常に師であるヨギさんを見倣う姿がありました。
そして敬愛するヨギさん、さらに熱意を込めて実践を続けることで感謝に代えさせていただきたいです!いつも本当にありがとうございます。

アーナンディー


クリヤヨーガ

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

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パラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』には、「クリヤヨーガ(実行のヨーガ)」という教えが際立っていることは、本を読んだ方なら誰しもが感じるところだと思います。しかしながら、その内容は「秘法」ということで、開示されてはいません。
では、なぜクリヤヨーガは秘法とされているのでしょうか?
今回のサットサンガでは、クリヤヨーガの秘法たる所以(ゆえん)が明らかにされました。

サットサンガの前半、真理の教えを実践しようとするも、日常の思いや行為がなかなか変えられないという質問が続きました。師はそれに対して、「本当に生きているという意味とは何なんだろうと。誰が生きているのか。そういう根本的なことをもっと真剣に捉えないといけない。それはすぐには理解できることではないかもしれません。それでも自分自身にそれを問いかけていくことが大事です」と述べられ、この人生の命題の答えを見つけるには「訓練」――アーサナはもちろんのこと、ヤマ・ニヤマ(禁戒・勧戒)といった日常における心の働きの訓練――それが最も大切で、その訓練によって瞑想の土台がつくられると説かれました。
会の終盤からは、ブラフマチャリヤ(純潔)の実践など、ヤマ・ニヤマに関する質問が続き、『あるヨギの自叙伝』を読み返しているというゴーパーラが、「クリヤヨーガは秘法といわれていますが、やはりヤマ・ニヤマのところが大きいですか」と質問する。

「大きいです。ヨーガは特にクリヤヨーガ――クリヤというのは実行するとか実践するとかいう意味合いです――実践的ヨーガ、実行のヨーガというふうに訳されるでしょう。そこでは毎日実行すべきものとして、聖典の学習、それから何らかの肉体をともなう修行、訓練、そして神への祈念、瞑想、その三本柱を特に取り上げてクリヤヨーガというふうにいっています。ヨガナンダが本の中でクリヤヨーガというものを初めて西洋に紹介をしたのです。ヨーガそのものを具体的に実際的に紹介したといってもいい。教えとしてはヴィヴェーカーナンダがその先駆であったけれども、それをより実践的なかたちで、つまり弟子たちを育てていくという使命を担ってアメリカに渡ったわけです。その中でヨーガというものをより実際的にしていくためにクリヤヨーガという言葉を使ったのだろうと思う。単なる知的な理解だけではなくて、ヨーガを実践していくという、実践することがヨーガですよということを、みんなに実践を求めた。それだからクリヤヨーガという教えがひと際、あの本の中で際立っている。内容はさっき言った三つの柱を中心としていますが、その毎日肉体をともなう何らかの訓練、修行という意味はアーサナやプラーナーヤーマも指しますし、それからヤマ・ニヤマにおける行為のあり方、これも含んでいるのです。それもあって実践、実際的実践になるわけですから。そして、あえて本ではつまびらかにそれらの内容を教えなかったことには理由があって、これはやはり本当に求める者でないとそれを実践できないから。単なる興味本位の知識としてそれらを知ることでは何の意味もない。だからその真実というもの、真理というものに並々ならぬ関心を抱いて、そしていわばヨガナンダの弟子となり、悟りを求める、実践を行なう者たちに初めてその内容が教えられていくという、そんな手順だったと思う」

ヨーガとは知的理解ではないクリヤ、即ち実行・実践であり、そしてそれを可能にするのは、真理を求める並々ならぬ思いである――
最後に師は、純粋な求道者の象徴ナチケータスについて説かれます。

「以前、『アムリタ――不死ーー』という聖劇をみんながやってくれたのですけれど、あの中でナチケータスという少年が死神の下に送られて、死神から真理を教えられるというくだりがありました。ナチケータスが死の国に行った時に、たまたま死神が不在で、三日三晩待っていたという逸話があります。その三日三晩というのは伝統的な習わしなのです。これは仏教の方にも伝わっていまして、禅宗なんかでは弟子入り、入門をしようと思えば、三日間門前で待っていなきゃいけない。つまり、その者の真剣さというか熱意とか本気とか、そういうものが試されるわけです。そうして三日を過ぎて初めて入門という門を入ることを許される。そんなふうにクリヤヨーガもそういうところを表しているんだと思います」

秘法とは隠されたものではない、求める者の真剣さによって開示される!
どんな状況でも、どんな誘惑がやってきても、ナチケータスが死の秘密という真理だけを求めたように、その門戸をノックし、神だけを叫び続けることができるか?
切に真理だけを求める真剣さと日々の実践、それこそがヨーガの秘法であると学んだサットサンガでした。

ゴーパーラ


ヨーガの料理クラス さまらさの台所

3月12日(日)にパラマハンサ会員向けさまらさの台所がスタートしました!
今回は会を担当してくれたサティーから報告をしていただきます。

今回のメニューは、春野菜のポトフ、マカロニサラダ、プレーンオムレツと旬の春野菜をふんだんに頂ける彩り豊かな一膳です。春野菜のポトフはじっくりコトコト煮込んでいると野菜のうまみが出てコンソメなしでも充分においしくできます。素材の持つおいしさがたくさん詰まったスープの自然な甘みにみなさんビックリされていました。

ポトフ

また今回は台所全体を「素材を生かし切る」というテーマを元に調理やお話を組み立てました。私は日々料理する中で、野菜を使い切れなくて悩んでいました。それを解決したくて、1つの野菜で様々な料理法を学びたいと思い、春キャベツを1つ丸々頂けるメニューを色々試してみました。

私のキャベツのある生活 キャベツとの生活

キャベツといえばこのメニューといったような固定概念があると気づいたとき、同じように日常の仕事でも役割へのこだわりがあり、それを取っ払うことで的確な仕事ができることに気づいたことをお話させてもらいました。

これまでの経験や知識による固定概念に縛られずにアイデアを出して料理していくことの自由さや楽しさを学び、最後までフレッシュに保存しおいしく頂くことで、改めて素材への感謝を感じました。

お話2

参加者にも事前にテーマについて意識して日常の料理に取り組んできて貰いました。

「冷蔵庫の中が整理され、生活において本当に必要な食事の量も分かるようになった」

「とりあえず買っとこうと野菜を買う傾向があることに気づき、料理以外の日常においてもとりあえず置いとこうと放置している物事があることに気づいた」

など、様々な気づきを発表してくれました。料理を通じて気づいたことが、日常の行為も変え、生き方そのものも変えていく。これが正にさまらさの醍醐味なんじゃないだろうか!と感じて嬉しくなった1日でした。

食事
サティー

京都烏丸 ヨーガ・瞑想クラス ヘッドスタンディング

京都烏丸御池にあるスタジオサンゴッホでのヨーガ瞑想クラスでは、クラスに通われて2年〜3年になる方が多く、最近では基本のアーサナに加え、新しいアーサナに取り組んでいます。

先日はシールシャ・アーサナに挑戦しました。
ヘッドスタンディング
シールシャ・アーサナとは、ヘッドスタンディングいわゆる逆立ちです。基本のアーサナを1年程続け、腹筋や首の力がついてくるとヘッドスタンディングにトライする時期になります。写真の男性は3ヶ月程前から練習を始めたのですが、まっすぐ立てていますね。

効能
シールシャ・アーサナの効果は全身の活性化、五つの感覚器官と脳髄が活性化するといわれています。普段は頭から足の方に向かって重力が働いていますが、身体を逆さまにすることによって逆向きに力が働きます。全身の細胞が活性化され、食べ物を消化するために下がり気味な胃腸も元に戻すことができます。終わったあとは頭がスッキリとして、頭痛も解消してくれます。

作り方と集中点
手を組み、肘をついて頭頂を床につけます。足を頭の方に近づけていくとふわりと足がうくところがあります。そこから足をまっすぐに伸ばしていきます。このとき重要なことは頭頂を床につけること!頭頂はちょうど背骨の真上になり、思っているより後ろかもしれません。少し前についてしまうと逆立ちした時にあごが上がって首に負担がかかり、まっすぐに立つことができません。まっすぐに立つことができると重力の影響を受けず安定して保持することができます。集中されるチャクラは脳天のサハスラーラ・チャクラになります。

ポイント!
腹筋や首の力も必要ですが、肩関節が柔なくなることで両肘と頭頂の3点で安定して支えることができます。そのため、シールシャ・アーサナの前にネコの形の腕を伸ばすポーズ、またはチャクラ・アーサナをしてしっかり肩関節を広げておくとやりやすくなります。

チャクラ・アーサナ

チャクラ・アーサナ(ブリッジ)

バリエーション(左:パドマ・シールシャ・アーサナ 右:ヴリチカ・アーサナ)
さて、シールシャ・アーサナが安定してできるようになるとバリエーションとしてこんな形もできるようになるようですよ。
パドマ・シルシャ・アーサナ ヴリチカ・アーサナ

まだまだ外は寒いですがクラスの中は熱気に満ちていました。アーサナを終えて瞑想に座るみなさん、背筋がまっすぐでとても美しいです!
京都烏丸 スタジオサンゴッホ
4月からは、アーサナ、瞑想の実習プラス各月ごとにテーマを設け、ヨーガトークスを行ないます。4月のテーマは「ブレない心になるために」、これまでクラスに通われている方は引き続き逆立ちを頑張りましょうね!そして、クラスでは新しいかたの参加をお待ちしています。この春、ヨーガを始めてみませんか!


サットヴァ

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

サット11

先日行なわれたサットサンガの内容をお伝えしています。
質問者「アーサナが一通り終わったらボーッとなるのですが、それはどうしてですか」
ヨギ「心は常に雑念とか、なんらかの想念を抱えて活動しまくっていてね。本当に一瞬たりとも空白の状態というのは与えてくれないものです。しかしアーサナによってアーサナの一時間半前後の中でそういう心の習慣性というものが破壊されるというか、心が常に想念、なんらかの雑念的想念を伴っているその関係を壊してしまうという、その結果、空白のようなボーッとした状態が生まれるということです」

 質問者「ボーッとした空白のときに、平安な感じとか喜びみたいなものを感じることがあります」
ヨギ「グナでいうならば、いつもはラジャスというね、動き回る性質の状態、それにちょっと習慣性というタマス性の要素が加わっているんだけれど、アーサナによってそれらが打破されてサットヴァ性になるということ、サットヴァというのは透明性のある快活な状態のことですから、本質としてある喜びの要素のみたいなものを醸し出すようになるということです。無条件に中からそれが出てくるという、条件なく泉のようにそれが沸いてくるという感じがすると思います」

そして師はサットヴァについて、こう説かれています。

体が健康な時には、体は無いかのように思うままに体を行為させることができる、それでいて体に執らわれていない。心もサットヴァな時は思うままに、はつらつと心の思い、行為ができて何にも執らわれていない、心のことにも悩まされない。サットヴァ性というのはそんな感じです。

例えばお腹がすいていて、何か食事をとって満腹になって至福感があるとか、欲しいものがあってそれを手に入れた時に喜びがあるとか、あるいは恋人同士の関係の中でそういう愛が結ばれる時とか、それぞれ幸福感とか至福感というのはあるかもしれません。でもそれらは全て何かに依存をしているという関係になって、その対象が無くなればあるいは変化すれば、その至福感は同時に消えていきます。反対に苦しみが残る。だから依存関係にあるかないか、そのサットヴァ性のそれが自立しているかどうかというところで見極めることができます。

質問者「常にサットヴァ性の泉が湧き出るような思いでいるには、普段からどういうふうに過したらいいですか」
ヨギ「喜びの源というのは真実というものからやってくる、真実そのものが喜びの原点なんですよね。それは誰もの中に、もうすでにあるものです。しかしその周りを心がこの世界の中で外向きに働いて、あれやこれやと喜びを見つけようとしているんですけれど、それらには限界もあるし、条件が必ずありますよね。だからやるべきことは真実というものに親しむこと、それにはもちろんアーサナとか瞑想とか、そういう身体を使った具体的な修練というか、それを行なう、そして真理の教えというものを心に充分教育することね。それは本を読んだり、またこういう場やグルバイたちと話し合ったり、語り合ったり、そういうことで真実をできるだけ身につけるというか、体得、体感していくようにするのがいいですね。だから特にクリヤー・ヨーガといってね、クリヤーというのは実行するという意味ですけれども、毎日行なうべきこととして、真理を学ぶこと、これは聖典の学習とかね、それから今言ったなんらかの修練をすること、そして神や真理に対して瞑想をすること、これを毎日やればいい」

師は、まずサットヴァ性というものを身につけていくようにといつも教えてくださっています。
常にはつらつと軽快で、なんの執われものない状態でいること、なんと私たちはこんな当たり前のことができていないのだろうと改めて考えさせられました。
「あぁ、早く本当の人間としてのあるがままの姿に戻りたい」と普通に思うのでした。

ダルミニー


旬の野菜を使ったヨーガの料理教室 さまらさの台所

2月5日(日)に京都の北区にある北青少年活動センターでさまらさの台所がありました。

今回ご紹介したのは酒粕のリゾット、れんこんチップス、白菜のサラダ
どれも旬の食材を使い、寒い冬にぴったりのメニューでした。
酒粕のリゾット
今回はヨーガ・瞑想クラスに通う方やチラシを見て初めて参加してくださった方など7人の参加があり、アットホームな雰囲気になりました。

段取り
今回ご紹介した3品は30分で作ることができるように、段取りを示したこんな紙を用意しました。イラスト付きでとても分かりやすいと思います。

でも、30分で作ろうと思うと、あれもこれも同時進行で進めるので実はけっこう大変!ポイントは、始まりから終わり(盛りつけ)まで頭の中でシュミレーションし、そこからスタートさせることです。そして焦らずに気持ちを落ち着かせ、目の前のことに集中すること。

調理をするとき、何か気になっていることを考えながらしたり、ぼーっとしながらすることもあると思います。でも気持ちを切り替え、料理だけに集中するように努めていくと、心の切り替えができ、あらゆる生活の場面で目の前のことに集中する訓練ができるようになります。そして、ちゃんと向き合って作ったご飯はとても美味しく、食べる人も作った人も、食材もが歓びを味わえると思います。
私がさまらさの台所で学んだことは、料理を通じて日常の行為の秘訣を学ぶこと!日常生活をよりよくしていくヒントはたくさんあります!

次回の北青少年活動センターの予定は4月23日(日)15時〜を予定しています。ぜひお越し下さい。